SGRAかわらばん

  • 2014.12.10

    エッセイ440:謝 志海「カジノ法案のゆくえ」

    9月末に始まった国会は、開始早々から閣僚の相次ぐ辞任などにより、法案審議が遅れた。その中で、遂に審議を断念した案件に統合型リゾート(IR)推進法案(カジノ法案)がある。安倍首相も経済成長戦略の一環と考え、カジノを解禁にするかどうか、またカジノを含む総合エンターテイメント施設の建設と整備を進めるか、この審議については国会だけが盛り上がっていて、国民は冷ややか、もしくは興味を持っていないという見方をしているメディアや有識者が多い。   日本にはすでに公営賭博(公営競技すなわち、競馬、競輪、競艇、オートレース)やパチンコがさかんではないかというのが、日本在住の外国人ジャーナリストの視点で、日本に暮らす外国人も同じ見解だろう。特に、パチンコ•パチスロは約20兆円産業というのは有名な話だ。カジノ法案について議論する際、賛成派も反対派もこのすでにある公営競技については触れず、統合型リゾートの建設は外国からの観光客を呼び込める素晴らしい施設となり、日本国民の雇用も増えるなど、壮大だが具体性に欠けた内容で、経済効果うんぬんと言われても日本国民にはカジノの必要性は伝わらないのかもしれない。   ではカジノ合法化において、地域振興や経済効果などを試算する経済学者たちはどう予測しているかというと、カジノ収益は予測できても、ギャンブル依存症の程度、有害性における社会的費用は試算が困難であるとしている。ここでも公営競技とカジノ法案は切り離されている。日本には公営競技やパチンコの依存者がどのくらいいて、どのような犠牲があるか統計サンプルが取れそうなものなのに。カジノ法案を巡っては、カジノ利用に関し、シンガポールや韓国のように国民と観光客を区別するかどうかも論点だが、すでにいるギャンブル好きの日本人がどの程度、カジノに流入するのかさえも推計されていない。   日本政府としては一体どのようなカジノリゾートを目指しているのだろう?安倍首相は今年シンガポールのカジノへ視察に行かれたそうだし、国会議員らもマリーナ•ベイ•サンズへ押し掛けているということは、その辺りを目指しているのか。しかし、アジアにはすでにいくつものカジノリゾートがある。今更後追いしても日本にカジノ目当ての観光客は来るのだろうか。少なくともアジアに今あるカジノとは差別化した方が良い気がする。   もし日本が本気で持続可能なIRを目指すのなら、ハリウッド映画が参考になるかもしれない。近年、ラスベガスが舞台の映画では、ラスベガスはもはやカジノの為の場所として描かれていない。単に気晴らし、バカ騒ぎしに行く所という設定だ。現在のラスベガスはカジノ無しでも楽しめる仕組みが随所にちりばめられている。例えば、ラスベガスでしか観られない大物歌手のコンサートやショー。各ホテルは集客の為、部屋のインテリア、ビュッフェの食事に工夫をこらし、全米や世界で話題のレストランも出店させる。ニューヨークやロサンゼルスで有名なナイトクラブも入っている。これらのエンターテイメント目当てで来た人がカジノもちょっとしてみるかという流れになっている。コンベンション施設もしっかり整っているのでビジネスで来ている人も多い。多様な目的の人が集まり、一大ショービジネスタウンとなっている。無論、このようなオープンで安全なイメージを維持すべくラスベガスにはカジノ場だけでなく至る所に監視カメラが設置されていて、おそらくアメリカ人はその存在に気付いているから、無茶をしないのであるが。   日本にラスベガスを作ることを勧める訳では無いが、海外のカジノの好例、悪例をもっともっと研究し、日本に合う持続可能なカジノ施設を含むIRを具体的に示し、何より日本国民から同意を得られる施設を目指す事に注力すべきだ。国際観光業での経済利益を狙うだけではIR実現そのものがギャンブルになってしまう。   ----------------------------- <謝 志海(しゃ しかい)Xie Zhihai> 共愛学園前橋国際大学専任講師。北京大学と早稲田大学のダブル・ディグリープログラムで2007年10月来日。2010年9月に早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士後期課程単位取得退学、2011年7月に北京大学の博士号(国際関係論)取得。日本国際交流基金研究フェロー、アジア開発銀行研究所リサーチ・アソシエイトを経て、2013年4月より現職。ジャパンタイムズ、朝日新聞AJWフォーラムにも論説が掲載されている。 -----------------------------   2014年12月10日配信
  • 2014.12.03

    エッセイ439:奇 錦峰「憂慮すべき現在の中国大学生(その5)」

    「憂慮すべき現在の中国の大学生(その1)」 「憂慮すべき現在の中国の大学生(その2)」 「憂慮すべき現在の中国の大学生(その3)」 「憂慮すべき現在の中国の大学生(その4)」 まずは両親の責任   以下の3点(溺愛、放任、偏向)から今の親たちの責任を追求してみましょう。   1. 溺愛   親が何でもかんでも子供のためにやってあげる、その程度が酷すぎる。大学に来る前のことは後述するとして、まず、新入生が自分一人で入校手続きに来ることはほとんどない!サーバントアテンダントのように両親や祖父ちゃん婆ちゃん、或いは親戚の人々が大勢で来校し、かつトランクを引っ張ったり、いろんな荷物を運んだりして、その忙しい風景は賑やかである。一方、本人は何も持たずにぶらぶらやってくる。当然のことながら、両親が入校手続きを全部やってあげ、更には宿舎の掃除、ベッドメイク、等々を全部担当する。幼稚園に子供を送ってあげていた時より細やかだ。しかし本人達はこれを当たり前のことだと言うのだそうだ。もっと傑作なのは、本来「見送り」に来た親が、学校の近くに部屋を借りて、子供に付き合ってあげる(洗濯、部屋の片付け、食事の支度などをしてあげるため)ことも結構あるそうだ。何故両親達は、このようにしてあげるのか?彼らの理屈を一言で表すと、とにかく「心配、不安」である。例えば「家(うち)の子は今まで家を出たことがない……最初の旅なので」とか、「重要な書類を紛失する恐れがある」とか、「治安が悪くて心配」とか、また「子供は自己制御力(セルフコントロール)が弱いから」、これも心配、あれも心配、例えば朝寝坊、夜のネット遊び、そして男女同棲……。この親達は、どうして自分の学生時代のことを考えないのか、誰だって生まれた時から何でもできるはずはない、やらせなければ永遠にできないということを何故忘れてしまったのか、不思議だ。   2. 放任   大学に入学した子供の生活費が、ほとんどの親達にとって非常に難しい問題だそうだ。すなわち、多く渡しすぎると金使いが荒い習慣がつくことを心配し、他方、少なすぎると不当な扱いを受け、つまり苦しい生活を送らせてしまうことをまた心配する。親たちの暖かい心に感心はするが、言い換えれば、まさに世の中に子供を可愛がらない親はいないということだ。中国では父母が金持ちであれば、子供も豊かなのが事実で、「豊かな第二世代」という新しい用語も近年出来ている訳はこういう現実があるからだともいえる。しかし「親がいくら金持ちでも子供たちに贅沢はさせない」と言う欧米人の哲学との間には、どんなに差があるだろうか!中国の諺でも「子を甘やかすのは殺すようなものだ」と言われているのに、今の親達は、これを忘れたのか?   大学の食堂(特に国立大学)は政府が補助金を出しているので食事代は安い、おそらく全国どこでも5 元か6 元(1元=19円)で一人分の食事が十分購入出来、しかもキャンパス外の飲食店の物より清潔且つ安全だ。しかし一部の大学生(つまり生活費を多く貰う人)はメンツの為か?美食者?なのか、よく外食し、しかもパーティー、食事会(集まり)などを必要以上にやるのだ。この様な贅沢な習慣を、親が黙認するから彼らは平気でやる。   コンピューターは、学校の自習室、図書館にたくさん設置されていて、インターネットをするには非常に便利だ。しかも、大学2年生までは基礎教育なのでごく少数の専門以外コンピューターはいらない。しかし今の学生は1人1台(しかも全部ラップトップ)持っており、基本的にはゲーム遊びに使用されている。特に、家庭の経済状況がよくない学生は、自分で用意する必要はないのに!外国語を勉強するためどうしても必要と親に言っていた理屈は、全部嘘だ。ゲームに夢中になり、その結果、学業を断念せざる得なくなる「事件」は少なくない。パソコンを保有することの悪い点は、絶対に良い点より多いのだから、買わない方が得策だ。   大学生が、数年前まではMP3/4、今はスマートフォンで音楽を楽しむか、ゲームなどのネット遊びで時間を費やしている現象は極めて一般的になってしまっている。寮の中に固定電話、大学の講義室の近くや図書館など、至る所にカード電話が設置されていたが、今の大学生は、みんなスマートフォンを持ち歩いていて、これらの電話を使う人がいないため、ほとんどが取り払われた。はっきり言って、携帯電話やコンピューターは必需品ではない。大半の学生にとって、携帯電話で親と連絡する必要があるのは、お金を使い過ぎて「お~い、ちょっと送金してくれ」と言う時のみだ。 大学生の中にもう一つの怠け(横着)行為がある。それは、教師が黒板或いはスライドで示した宿題(課題)を、数多くの大学生が書き取らずに、講義後にスマートフォンで撮っていく。そのため今の学生は文字を上手に書く能力(楷書)に欠け、幼稚園の子供より下手だ。またほんの少しの距離でも歩きたくない、すぐ電話!隣の部屋にいる人とも電話で連絡するのが普通だ。いわば今の大学生はなるべく力を出さずに、楽に生活、勉強するということだ。   多くの親達、特に小さい町や田舎の低収入の家庭は「自分の収入の範囲で生活する」という基本的なことを忘れたように、家庭の収入の大半か全部(スマートフォン、パソコンなどの費用は、普通の田舎の家庭にとって耐えられないぐらい高価だ!)を大学生の子供に費やしてしまうことを、一般の人は理解できないだろう。中国式の考えでは「親がどんなに貧乏でも子供に貧乏をさせない」、せっかく子供が大学に受かったので、お金が必要な時には渡し、品物が欲しい時には買ってあげるべきであるという哲学がある。このような愚かな考え方は、自分を苦しめ、子供を甘やかし過ぎ、悪い習慣を助長させる他に、良いことは一つもない。今日の中国の大学は、「80後(八零後と言う:1980年代に生まれた人)」が卒業し、「90後(九零後:1990年代に生まれた人)」が在籍している。各方面の情報が示すのはこの90後は80後より更にダメだということである。消費の面ではいうまでもなく、上述した各方面で悪化が著しい。心が痛いのは今日の大学生の生活支出は、一般的に両親の生活支出より高いが、親たちはこの問題の深刻さにほとんど気が付いていないことだ。そのため、大学生の悪いこと全ては、親が放任しすぎで生まれたものだとも言えるだろう。   3. 偏向   今の大学生の親達は、子供が大学に入るまで、学業を監督する以外は何もしなかった。教科書の内容以外に何も教えなかった。日常生活の中で、家事を一切させず、物質的生活は全部満足させていた。そのため大学生になった時に、物欲が強い、親の苦労に感謝しない、金使いが荒いなど、良心が欠如した行為をするようになるのは当然だ。1990年代以降、両親、小、中、高校の教師まで、試験の点数だけを重んじてきたため、幼い頃から彼らの心の中では勉強が唯一の良さと悪さの基準になり、人間社会全体のことに無関心になってしまった。子供たちは長い期間、家庭教育や法を守ることなどの社会教育を全く受けてこなかったのだから、今の大学生の人間性が正常に育成されるはずはないだろう。社会学者の視点から分析してみれば、この国の子供向けの教育の多くは無駄になっていたようだ。人類文明が21世紀に入っているのにもかかわらず、教育が逆の方向へ向かっているのが、どうしても理解できない。 (つづく) ---------------------------------------------------<奇 錦峰(キ・キンホウ)  Qi Jinfeng>内モンゴル出身。2002年東京医科歯科大学より医学博士号を取得。専門は現代薬理学、現在は中国広州中医薬大学の薬理学教授。SGRA会員。--------------------------------------------------- 2014年12月3日配信
  • 2014.12.03

    エッセイ438:外岡 豊「飯舘村参観記:菅野宗夫氏の試みについて」

      真手(までい)という言葉は初めて知ったが、江戸時代あるいはそれ以前から日本の伝統的な社会を支えてきた、勤勉、善良な農民の生活意識と行動を表した言葉に見える。なかなかよい表現である。持続可能社会を目指せ、というのが環境問題研究者として私が社会に強く訴えるべき重要な事項であり、日夜それを考えているが、要は、化石燃料と原発への依存を脱却することと同時に、社会全体が真手になればかなり達成されるはずの目標である。だから飯舘村の再生への試みは持続可能社会への入り口探しなのであり、日本中をその方向に向けてひっぱってゆく、最先端を知らずに担っているのである。   他の村にはない脱原発への強い意志がここに集中しているのは当然であろう。両方を併せ持っている村がここにある。真手な生活を実践している人々には当然のように考えられることが、被災していない東京では完全に忘れ去られており、飯舘村に来て菅野さんの話を聞くと、都会人が何を失っているのか気づくよいきっかけになるだろう。真手の精神と前向きな試行錯誤への姿勢は、突然奈落の底に落されたような事態においても、あるいは見えにくい放射能というやっかいな汚染状況においても、再生への着実な原動力になる。このような人がいる村はたとえ一度どんなに人口が減ろうと、いつか立ち直ることができるだろうと確信する。行政の混乱で明らかなように、実は都会が、東京の社会が、霞が関も銀行も大手企業も、当事者能力に欠けている人が多く、菅野さんのような頼もしい人が見当たらないのである。それは実は非常に深刻な事態なのであるが、それを深刻と考えていない人が大勢であることそれ自体が、実は見えにくい危険事態なのである。奇妙なことに放射線の見えにくい汚染と都会の見えにくい無責任さとが符合しており、複合化した更なる危険に持ち上げられているようである。   それは大学も似たようなもの、自分の組織で打破できていないので大きなことは言えないが、旧態依然の規則にしばられ、というより柔軟な運用ができず、ちょっとしたことができない、許されていないと言われて、成果、効果がそがれてしまうことは多々ある。教員も事務方も、どちらも自分はこの件の主役ではないと言って逃げてしまい、結果に責任を持とうとしないのである。このような事態はイギリスの大学でも同様であった。数年前までの中国は全く逆の問題がありそうに見えたが最近どうなっているのかはわからない。   高校時代から田舎の農村の景色を水彩画に描いてきたが、それは里山に象徴される自然と一体化し、その恵みをいただいて生活する本来の日本の生活への共感が裏にあった。まさに真手な生活の場としての農村集落と伝統民家にひかれるものがあった。今、環境問題の専門家として、若いころ描いた絵の世界に回帰している。半ば予定されていたかのような人生の変遷は自分の根底にある価値観がそうさせているのであり、それは神から与えられた使命のようなもの、自分の内部のこだわりとしてできること、できないことが明らかにあるのである。   今回渥美財団関口グローバル研究会の御縁でようやく飯舘村に来ることができ、大震災から3年半後に初めて被災地を体験する機会を得たが、そこで思いがけなく旧知の田尾さんの御世話になることになった。それは偶然以上の何かが隠れていると思わざるを得ない。田尾さんとは 2008年頃同じ早稲田大学理工学部の尾島研究室に机を持ち時々そこに居合わせた関係で、そこでの接触が今回また引き合わせていただいた裏に無意識の引き合いがあったのだろうと理解している。田尾さんが福島再生のNPO活動家として現地で大活躍されていることを今回知った。また博士論文の副査でもあった恩師木村建一先生が参加されるということも忙しい中であえて参加することを後押しするものであった。来てみると汚染度が高いという小宮地区の大久保金一氏宅で 90才の大老母の世話をしていた井上充成氏が偶然、藤沢の湘南中央病院(辻堂)に勤務している方で、聞いてみると父、豊彦のことを知っており、ここでも偶然の裏に必然につながる何かの引き合いがあったのだろうと感じさせるものであった。   河北新報の寺島氏の話を菅野宅で聞いたが、被災から3年、若い人たちが帰村しない傾向が明らかになりつつあり、高齢者ばかりではいずれ村の人口はさらに減り、行政を維持できなくなるのではないかという問題を予想させる厳しい話となっている。原発事故で起きたきわめて特殊な状況、それゆえの多大な困難、それを改めて考えさせられる話であったが、逆転して考えれば、そこに農家の子孫でもない農家経営希望者に大きな機会を与えるものであり、一転して大きな希望に変える可能性すら見えてくるようにも思える。   よそ者を受け入れなければ村が成り立たない、とくに若い人たちがいてくれなければやって行けないとなれば、保守的な村落の慣習を超えて新規参入者を迎え入れることができれば、これまでの農村にない気風と新しい知識を持ったよそ者が入ってきて新しい農村を創出する絶好の機会となるであろう。行き詰まった世界経済の悪影響を避けてその外乱に乱されない別の日本社会をここから構築することができるのであり、たまたまこの数日下げ続けたニューヨーク株式の急落が暗示するように、近々来るかもしれない世界経済大崩壊は、福島原発事故以上に巨大な世界危機を引き起こす恐れもあり、飯舘村の試行が、その世界危機を避ける予備的な先行対応になっている可能性もあり、目先の危機に真手に取り組むこと、その積み重ねが思わぬ神の加護をもたらすかも知れず、真手な飯舘村こそは日本の、世界の希望の灯なのである(と思いたい)。   ふくしまスタディーツアー「飯舘村、あれから3年」報告   英語版エッセイはこちら   --------------------------------------- <外岡豊(とのおか・ゆたか)Yutaka TONOOKA> 神奈川県出身。県立湘南高校卒業、早稲田大学理工学部建築学科卒業、同大学院終了、工学博士。埼玉大学経済学部社会環境施系学科教授。早稲田大学研究員、大連理工大学と西安交通大学の客座教授、兼務。元Imperial College、Visiting Prof.、建築学会地球環境委員会委員長、同論理委員会委員、低炭素社会推進会議(18団体で今年設立)幹事、森街連携会議代表、エコステージ協会理事、他専門分野は都市環境工学、環境政策、とくにエネルギーと環境のシステム分析。最近は気候変動対策評価研究を発展させて、持続可能社会について考察中。SGRA会員。 ---------------------------------------     2014年12月3日配信
  • 2014.11.27

    エッセイ436:奇 錦峰「憂慮すべき現在の中国大学生(その4)」

    「憂慮すべき現在の中国の大学生(その1)」 「憂慮すべき現在の中国の大学生(その2)」 「憂慮すべき現在の中国の大学生(その3)」   4. 政治的には勇ましいが人柄は最悪   今のほとんどの大学生たちは、現実のことに無関心(例えば職場の汚職、腐敗した役人、災害救援、慈善活動など)だが、他方、信じられないほどの「愛国心」及び「ナショナリズム」への情熱を持っている。他人の政治的な話を疑うことなしに信用する。所謂“風に沿う”と言う中国の伝統を完璧に伝承している。例えば、無差別に反米であり、日本を憎悪し、インド、ベトナム、フィリピンを非難し、狂信的な(大漢民族)5000 年の輝かしさ、中華大統一などの不思議な思想を単純に信用し、主張する。   さらに科学技術のコピー式進歩をオーバーに宣伝する。中国の伝統的な素晴らしい文化を活かすなどの名目を挙げて、臆面もなく詐欺的な文化、習慣を提唱したり、促進したりする。また当局の外交政策などを軍人と同じように無条件で支持する一方、「中国は『ノー』と言うことができる」(アメリカに対するある本の題名)というような過激な作品を大勢で熱心に読み返す。2001年の9•11のアメリカへのテロ攻撃を、テロリストと同じように祝杯をあげた大学生もいた。2012 年に中国本土で連続的に発生した若者たちが日本車を燃やした事件、日本風のレストランなどを攻撃した事件の中には、怒った顔をした大学生もいた。また、一部の大学生は、武力行使で台湾を「解放」しようと純血的な扇動をするが、彼らに軍服を着用させ、戦いに行かせるのは絶対に不可能であろう。彼らが、やらなければならないならば何でもやるということはあり得ないと思われる。はっきり言って、責任感、信頼性は皆無であろう。   5. アカデミックスピリットの喪失   今日の中国の大学生達の小、中、特に高校時代の勉学は、世界でも稀な猛勉である。長年の強制的な試験指向教育が、彼らに精神的拷問や無慈悲的な心理破壊を与えたと思われる。ある意味では、彼らこそ、中国で最も痛みを感じる社会階層の一つである。高校を卒業するまで歯を食いしばって我慢した彼らが入試を経て大学に入ると、直ちに解放感が生まれ、しかもこの国の国民的英雄のように自らを誇示する。残念ながら多くの親たちも彼らと呼応し、褒め称える。愚かにも、人生は大学に受かることだけのように考え、大学生活を人生の楽しさ、幸せなどを謳歌するものだと思っているようだ。   今日の大学生の大半は、授業のための教科書といわゆるベストセラー作品以外は読んだことがなく、特に古典文学のような本は一冊も読んだことがない。なぜならば大学入学の前は、受験勉強の毎日、今はスマートフォン遊び(大半はエロ グロ ナンセンス)の毎日、古典文学を読む暇など全くないようだ!彼らは寝坊、ネット遊び、恋愛、アルバイトに熱心で、9割の学生は学校をサボったことがあるそうだ(出席をとる授業はほとんどない)。講義に携帯電話だけを持ってくる学生も毎日いる。そのため、真面目に勉強している学生の割合はたった1.1%という調査結果があり、これが今の大学生問題の深刻さをはっきり示唆していると言えるだろう。   普段真面目に勉強しないので、試験中にカンニングをしなければ、科目の単位は取れない(このカンニング方法は、極めて巧妙でギネスブックに載るほどである)。提出しなければならない科目のレポートやインターンシップ後の卒業論文は、パッチワーク、盗作を中心に、他の論文から文章をかき集めるしか方法はない。従って今日多くの大学生にとって、大学に行く目的は、全てあの卒業証書を貰うためであり、人間社会の全てのルール、学術的道徳、学者の良心などを含めて、必要であれば一切を無視することができるということになっている。   人間的成熟度はもちろんのこと、学業の面では今日の大学生を3等級下げて評価した方が適切だと思う。すなわち、博士を学部学生とし、修士を専門学校の学生とし、大学本科の学生をトレニングセンターの学生と考えたほうがより実際に合うと思う。   お年寄りの方々がよく、今は信仰(追求)が欠如した時代だと言っている。大学生のモラルの低下、人間性の喪失、信用の危機……など、最終的にこれら全てが、人口過剰の現実と不可分であると私は思う。人間が溢れている社会で生きていくために早くから走り回ることで精一杯であり、人類の文明の根幹であるモラルなどに従うより、いかにして生き残るのかがより大事だと思っているからであろう。   誰の責任?   今の大学生が上述するようになった主な責任者は言うまでもなく大学生たちの親たちだと思う。この親たちは1950年代以降、つまり社会混乱が激しい時代に生まれた人々であり、中国の伝統文化を維持しつつ、更に今日の実用中心文化の両方に教育された、今日の中国社会の主力階層である。一方、子供の教育の面では、残念ながら人類文明史上、最も下手な人々でもあると思う。彼らは、自分の子供を溺愛し、甘やかして育て、贅沢、怠惰、拝金、浪費、利己主義の人間をどんどん社会に送り、元々綺麗だった大学を堕落させたのだ。他方、大学生の変態的な行為の一部は、社会及び周辺の影響(社会全体の風習にはまだ問題が多い)を受けた為でもあり、さらには自分の親から学んだ(遺伝した)ものなのだ。例えば狡猾的な人柄、信用できない、ルールを守らないことなどである。そして、試験指向の中国の教育システム(小、中、高、大学)はその基本的な責任から逃げられない!いわば中国社会全体がこの責任を持つべきだ!とすら思う。(つづく)   --------------------------------------------------- <奇 錦峰(キ・キンホウ) Qi Jinfeng> 内モンゴル出身。2002年東京医科歯科大学より医学博士号を取得。専門は現代薬理学、現在は中国広州中医薬大学の薬理学教授。SGRA会員。 ---------------------------------------------------     2014年11月26日配信
  • 2014.11.26

    エッセイ435:張 桂娥「ゴー ホーム アゲイン、ふたたび飯舘村に~再生への長い道のり~故郷とともに生きる勇者たちに寄せて」

    あの日から3年半も過ぎて、避難先で眠れぬ夜を耐えてきた多くの帰還困難区域に住んでいた元住民たちを目の前にして、心から応援しているから復興に向けてがんばろうと軽々しく口にするのは、どんなに無責任な綺麗ごとだろうかと、思い知らされた2泊3日の飯舘村スタディツアーでした。   そもそも、今回の飯舘村スタディツアーにはるばる台湾から参加しようと決心した動機は、原発事故による放射能汚染被害の現状を台湾の大学生や国民たちに知ってもらい、被害者たちの未だに癒えぬ心の痛みを少しでも分かち合おうという漠然とした大義名分でした。実際現地入りして目の当たりにした<景色>といえば、整然とした風格ある町並みの中に立ち並ぶ立派な空き家の群れ、色づき始める里山に囲まれた田舎の綺麗な佇まいに不気味な影を落としている黒い袋の山、早秋の乾いた青空に聳えるはずだったのに無造作に置き去りにされている屋敷林居久根(いぐね)の切り株、がらんとした牛舎に張り巡らされた蜘蛛の糸に引っかかった虫の死骸など、留学時代に何度も足を運んでいた麗しき東北地方とは大きくかけ離れ、変わり果てた、見るも無残な光景でした。   かつて観光客として訪ねた福島の在りし日の面影を偲んでみたいという期待を胸にやって来た、この地域とは縁もゆかりもない私でさえ、目の前に繰り広げられた殺風景なシーンに心が痛んでやまないのに、何百年も前からこの地域に住み着き、先祖から受け継がれた土地を守り続け、鬱蒼と繁る山林をこよなく愛してきた元住民たち――あまりにも理不尽な形で未来の子孫に誇るべき故郷を根こそぎ奪われてしまった元住民たちの悲痛な心中を察すると、慰める言葉が見つかるはずもありませんでした。ただただ圧倒され、何もできなかった自分の浅はかな思い上がりを悔やんだり、いったい何しに来たのかと自分を責めたりしていました。   そんな中、自己嫌悪の渦に飲み込まれそうな私に、まぶしい光をいっぱい差し込んでくれる勇者たちと出会いました。   飽くなきチャレンジ精神で時代を先駆けるハイテクで放射能汚染と真っ向勝負に出る田尾陽一さんを始めとする<ふくしま再生の会>のメンバーたち、全く収束の見通しがつかない現状に苛立ちを感じながらも冷静沈着な判断力と圧倒的な行動力でコミュニティ再生活動を牽引する菅野宗夫さん、グローバルなネットワークを築き風化しつつある放射能汚染問題を世界中に向けて発信するためメディアの第一線を走り続けるジャーナリストの寺島秀弥さん、相馬地域に根ざした<真手(までぃ)>の信条を貫き惜しまぬ情熱で周りの人をあたたかく包み込む大石ユイ子さん、時に心が折れても故郷を思う気持ちを挫かない若者魂に光る佐藤健太さん、そして今でも足繁く通い続け、50年先、100年先にふくしまを故郷として誇れる若者のために、汚染された地域の再生という挑戦を命がけで活動を続けているボランティアの人々たち。   弱音を吐く代わりに、淡々とやるべきことに全力を尽くし、機敏なフットワークでプロジェクトをこなしている彼らの後ろ姿を見ているうちに、自分にできることが何かを考え始めました。なんて不思議なことでしょう。どんなに絶望的な災難に直面しても諦めずに己の恐怖と戦いながら苦難に立ち向かう人間の尊い姿を見ると、周りにいる人間は誰でもおのずと逞しくなり、みんなの輪に加わり一緒についていきたい気持ちがわいてくるのだと、気づかされたのです。   思い返せば、情に流されて何もわからないままにこのツアーに参加したのかもしれませんが、そこで出会った人々の真摯なる振る舞いと勇気ある行動に触れ、どこか放射能汚染に怯えていることを素直に認められない自分の心の弱さと向き合う機会を手にしました。その弱さを乗り越えないと、飯舘村の再生プロジェクトに何らかの力になれないと、大きな課題を手土産に持ち帰りました。まだ具体的に何ができるかは明言するのは難しいのですが、台湾に戻ってから機会さえあれば、飯舘村スタディツアーで見たことや体験したことを大学生に話したり、意見を交わした住民たちの考え方や再生活動の関連情報を周りの人たちに共有したりしております。   ふくしま相馬地域や飯舘村の住民たちの痛みを分かち合える日まで、まだ長い道のりです。ただ、諦めてしまってはいけません。ふくしま被害者の心の叫びを世界へ向けて発信するのも非常に有意義なことですが、うわべだけの理想論で終わりがちの復興支援ではなく、もっと地に足の着いた現実味のある活動に視野を移さねばならないと痛感した今回のツアーでした。私を含めて、スタディツアーに参加した一人ひとりの意識のささやかな変化をきっかけに、一日も早く実効ある行動に繋がればと期待しております。     英語版エッセイはこちら   ---------------------------- <張 桂娥(ちょう・けいが)  Chang Kuei-E> 台湾花蓮出身、台北在住。2008年に東京学芸大学連合学校教育学研究科より博士号(教育学)取得。専門分野は児童文学、日本近現代文学、翻訳論。現在、東呉大学日本語学科助理教授。授業と研究の傍ら日本児童文学作品の翻訳出版にも取り組んでいる。SGRA会員。 ----------------------------     2014年11月26日配信
  • 2014.11.19

    エッセイ434:奇 錦峰「憂慮すべき現在の中国大学生(その3)」

    「憂慮すべき現在の中国大学生(その1)」 「憂慮すべき現在の中国大学生(その2)」     1.3 卒業時の大処分   大学の校内では卒業が近づくと、ものを大量処分する(捨てる)季節になる。卒業生達は教科書も含め、使用していた物品をほとんど処分してしまう。処分しないものは、携帯電話とラップトップコンピューターぐらいか?デスクトップコンピューターまで処分する人もいるようだ。(清掃者は“つらーい!”と言いながら、使用可能なものをたくさん回収出来るため、内心は喜んでいる。)ゴミ捨て場へ捨てるのはまだ良いとしても、問題になるのは、わざと宿舎の窓から外へ捨てながら楽しむ事件が頻繁に発生していることだ。(ゴミ箱、枕、布団などの大きなゴミを窓から捨て、建物の下を通過していた人に怪我をさせたというニュースもあった。)大量処分のあと、宿舎の建物のまわりはゴミだらけだ。   物を捨てる行為の他に、更に驚いたことに、様々な特異的な卒業行動(大学の“卒業病”と言われている)が散見されている。例えば下品な卒業写真撮影、卒業スローガン掛け(シートにいろいろな言葉を書いて窓から垂らす)、卒業裸走り、卒業叫び(寮外で「XXさん!貴方をずーっと愛していたよ!」)、卒業セックス予約(中国語で“約砲”と言う、要は卒業生同士がセックスを約束する)などがある。一般の人々は、これらの現象について、現在の大学生たちが、自分たちは普通の人が行う行為と異なる方法で思い出と主張を表現し、自分の大学生活に区切りをつけ、新しい段階に入ることを宣言していると推測しているようだ。   2. 乱れるセックス及び性道徳の低下   今の大学生の二番目の問題は性的道徳の低下及び性的混乱であると思う。大学内の道路上、カフェテリア内、教室内などのいたる所で、熱愛中のカップル大学生が、まるでハネムーン夫婦のように、半分抱擁、半分ロマンスの姿がよく見られる。複数の機関の調査によれば、恋愛中の同棲は当然であり、上述した“約砲”も少なくない。一方、ガールフレンドのいない男性は買春に走っている(その証拠に、いくつかの大学自体がコンドームを無料あるいは有料で提供)。今の大学生の性体験について、高いという報告では80%であるが、それほど高くはなく30%という報告もある。大学生の80%が「ワン•ナイト•愛情」に反対していないそうだ。7%の大学生がホモだとも言われる。さらにレズビアンも大学生の中に多い(全国的に教育レベルが高いほどその割合も高くなるようだ)。今日の中国の女子大生の中には、平気で「パトロン」を有している人、週末のみ愛人になる人は、かなり認められる。また外国の国籍を得るため、来中の欧米人(特にアメリカ人)の男性に体を無償で提供する女子大生も少なくない。   女子大学生の中には、カードに「求包養」(意味は臨時妻として養ってくれる男を募集)と書いて、繁華街で配る者もいる。さらに面白いことは、北京大学の女子大生がお金のために自分の卵子を販売しているとか、北京外国語大学の女子大生がネット上に下品で挑発的な写真を載せ、「私の膣は云々」と宣伝していることもあった。   今の大学生は入学によって親や高校時代の厳しい監視から抜け出し、はるかに自由な大学のキャンパスに入ることが出来、自ずと解放感が生まれた。そのため、一部の大学生は理性を失い、動物的本能の亢進により性欲を満たすことに邁進するようになった。約1/3の大学生は勉学ではなく、“恋愛”に忙しく、またその半数が同棲し、伝統的中国のセックス観を無視するようになってしまった。調査によれば婚前交渉は大学生と言わず、今の中国の若い人々では一般化されている。恋愛中の二人は、互いに相手の家族の現状を重んじるのが多いようだが、一方で非常に現実的、ご都合主義的な愛を育んでいる。そのため、環境の変化を伴う卒業時期になると、愛情が揺れ、結果として別れの時間がやってくる。そのため今の大学生たちの恋愛の大半は、瞬間的な喜びのためのみで、真実の愛情ではない。他方、「パトロン依存」が急に流行し、お金のためか、生存のためか、それとも両方兼有かわからないが、現に一部の女子学生の一種の職業となっている。   3. 理性のこびと(dwarf)   “九つの罪”の中に記載されているように中国の昨今の大学生には、基本的な3つの能力が欠けている。真偽、是非を判別する能力、善悪を認識する能力、そして美しさと醜さを識別する審美的能力である。この3つの能力が欠けているから、これらの必要性(特に善悪)すら認識しない大学生がたくさんいる。そのため、無法、悪事は数え切れない!   一番目の問題として、朝寝坊がある。土日は言うに及ばず、平日でもギリギリの時間まで寝ており、自転車で超スピードでやってきて、朝食を講義室で済ませる大学生が多い。肉まん、焼きそばなど臭気のあるものが多く、毎朝2時間目の講義室までは“朝食室”と同じ状態(臭気)になっている。(こういう現象は一般的である)。経験がないので家事が出来ない人は山ほどいる。家へ帰っても、もちろん朝ごはんを作ったりしない。当然、夏休み、冬休みなどの長期休暇中にもしない(学校の寮で寝坊する学生は大勢いる)。   二番目の問題は、人間性が悪いことである。学校生活において利己主義、他の人との協調性の欠如や怠慢、無関心などは一般的な現象である。人間関係は薄く、大学生同志でも親友関係があるのは稀であり、相互間の助け合い言動は皆無である。その反面、お互いに何らかの形での“防止(防御)”のような行為、行動はよく見られる。礼儀に対する教養の不足により、普通の人にはもちろんのこと、自分の先生に対しても尊敬、尊重しない人が多くいる。例えば言葉づかいが汚いとか、講義中におしゃべりするとか、音をだして飲食するとか、メイクをするとか、携帯電話をするとか、教室を出入りしたりとか、イヤホンで音楽を聞くとか、ぐっすり寝るとか、恋愛中の学生はお互いにキスしたり抱擁したり(まるで誰もいない場所に自分たちだけがいるような行為)などの行為が見られる。先生に依頼する場合、例えば推薦書を書いてもらうとか、本を借りるとか、試験問題の傾向を聞くなどの時は非常に礼儀正しく、丁寧に対応する。しかし自分の要求がみたされると、豹変して、先生を無視する。その上、先生から借用した本、資料などは返却するのを忘れてしまう。   三番目の問題は社会に受け入れられない過激な行為。法律やルールの軽視、強盗のような行動は少数ではあるが現代大学生の中によくある行為である。交通信号を無視するのは国民全体に言えることであるが、しかし21世紀の期待の星である大学生なのに、これぐらいの人間のモラルを守れないことは、どうしても理解できない。そして、今の大学生は自分の競争相手(優等賞の選挙、留学及び奨学金のチャンス、さらには恋愛の同性相手)に対して、打ち負かすために善悪関係なしに可能な手段を行使する。極端な例ではあるが、競争相手を殺害する事件が、最近の十数年の間に十数例も発生している。   さらに、考えが浅く、かつ小心のため、些細なことで自殺をする学生はかなりいると報告されている。新華ネットの報道によると、自殺は中国の大学生の不自然死の一位であり、年間で100人もいると報道されている(10万人中2~4人が自殺)。例えば、広東省では2008年には26人が自殺した。2000~2008年の間、全国で自殺は500件発生し、400人余りが死亡している。このような行為が家庭、学校、社会に対してどのような影響を与えているのかを、利己主義が頭に満ち溢れている自殺者達は少しも考えていなかっただろうと思われる。(つづく)   --------------------------------------------------- <奇 錦峰(キ・キンホウ) Qi Jinfeng> 内モンゴル出身。2002年東京医科歯科大学より医学博士号を取得。専門は現代薬理学、現在は中国広州中医薬大学の薬理学教授。SGRA会員。 ---------------------------------------------------     2014年11月19日配信
  • 2014.11.05

    エッセイ429:葉 文昌「『伝統』 という名がつけば」

    3年前の出来事。趣味で金箔を一箱10枚6000円台でネット購入した。金箔で有名な金沢の、ネット検索で最初に出てきた会社である。他の会社がほとんど0.001mmであったのに対してこの会社の金箔は0.002mmのものがあり、価格が1~2割高かっただけだったので、これを選んだ。   しかし商品が届いてがっかりさせられた。あれは0.001mm未満であろう、透けて見える上、私が今まで接した金沢職人金箔と比較して、台紙から剥がせばボロボロになるほど極端に薄いのだ。(透過率測定か電子顕微鏡で観察すればデータは取れるが)   私は業者に問い詰めた。そうしたら「これは伝統技術で手作りなので、誤差」だと言われた。「0.001mmと0.002mmでは誤差は100%だぞ、これは詐欺だろう!」と怒った。   私のたかだか数千円の損はどうでも良い。真面目な業者がいる一方で、伝統を言い訳に不誠実なことをする業者が許せなかった。   消費者センターにも相談したが、これは職人技なので非は追及できないという答えだった。「匠を知らない外国人」vs「金沢伝統工芸」という構図になっていたのだろう。これ以上是非を追及しても無駄と、私は諦めた。   この金箔は使えなかったので、その後別の会社から0.001mmのものを買った。そうしたら透けて見えない上、台紙から剥がせる厚さの、まともな品が届いた。私のクレームは間違っていなかった。   世の中には「伝統」をつければいいと思っている人が多い。また外国人はどうせわからないと思い込んでいる人も多い。今年参加したある国際学会の晩餐会で日本伝統大道芸が披露された。和傘でお椀を転がしていた。演者は袴を着ていかにも「日本伝統」なのではあるが、普段着で道端でやっている大道芸のことを想像すれば普通の腕前で、そこに感動はなかった。   京都の枯山水。Wikipediaによれば「枯山水は水のない庭のことで、池や遣水などの水を用いずに石や砂などにより山水の風景を表現する庭園様式」とのこと。日本人にその美しさを理解しているか聞かれる。私は、枯山水は非常に素晴らしく、日本が世界に誇れる創造的な芸術と思っている。しかし次のことを付け加える。「石ころを水に見立てているのでこれは現代美術の先駆けである。素晴らしい創造力だ。当時コンクリートというものが発明されていれば、コンクリートの枯山水もあったかもしれない。だが私にとって現代美術は自然を越えられない。だから自分が庭を持つとしたら私は石ころを並べるよりも、本当の水を流した木々が鬱蒼と茂る庭を作るであろう。」大抵の場合、外国人は和を理解できない、というオチになるのだが。   通販和菓子、日本酒の利き酒・・・「和」がつけば「外人にはわからない」といい加減にする人は多い。台湾人にも「外国人はわからない」と美味しくない烏龍茶をプレゼントする人がいるのと同じである。それでは外国からの信頼を失うことになる。   日本の伝統工芸や芸能を否定しているのではない。それに逃げている、或いはそれだけを売りにしているのが少なくないと感じるのである。   ----------------------------------------- <葉 文昌(よう・ぶんしょう) Yeh Wenchang> SGRA「環境とエネルギー」研究チーム研究員。2001年に東京工業大学を卒業後、台湾へ帰国。2001年、国立雲林科技大学助理教授、2002年、台湾科技大学助理教授、副教授。2010年4月より島根大学総合理工学研究科機械電気電子領域准教授。 -----------------------------------------     2014年11月5日配信
  • 2014.10.29

    エッセイ428:川崎 剛「ウェストファリアの向こう側――第2回アジア未来会議のプールサイドから」

    会議に参加する皆さんの2 日前にバリ入りして、ホテルのプールサイドで潮風を楽しんでいたら、ベルギーからやってきたヴォルフガング・パペさん(Dr. Wolfgang Pape)と知り合った。飛行機の便の都合で会議のだいぶ前に着いてしまったそうだ。欧州連合(EU)で長く働いた法律家。その日は夜遅くまで(プールサイドからバーに移って)、アジア(特に東北アジア)のことや欧州(特にEU圏)のことを話した。お酒抜きでウェルカム・ドリンクのチケットで出てきたトロピカルジュースを飲みながら。   国際情勢について、お互い勝手に意見をぶつけあったのだが、僕がウェストファリア条約に触れた時、パペさんの雰囲気が何となく変わった。少しだけ語気を強めて「ウェストファリアはもう古い。ウェストファリア体制は終わったんです」と語った。欧州統合で欧州人はウェストファリア体制のくびきから解放されたんだ‥、人々は自由に移動できる‥、世界は変わりつつある‥、アジアはまだかもしれないけれど‥。(それは正しい方向だという確信を彼に感じた。)   1648年にドイツのウェストファリアで三十年戦争の講和条約が結ばれた。これがウェストファリア条約として主権国家や内政不干渉などの原則をうたい、その後の国際法を規定したというのが、僕たちの理解だ。絶対主義も帝国主義も、米ソ冷戦も9・11ですら、見方はいろいろあるだろうが、ウェストファリア体制下の国際秩序のもとでの出来事だった、らしい。多くのアジア諸国も当然、何らかの形で欧米中心の国際秩序に組み入られ、その中で植民地時代を経験し、独立を達成し、そして新興国家として発展してきた。   パペさんが「ウェストファリアはもう終わった」と語った文脈は、欧州の秩序確定以来370年以上続いてきた西欧の国家主義は緩んで、融和に向かうEUの実験は後戻りすることはない、人類は欧州の達成をスタートラインにして、歴史を前に進めるんだ‥という意思を日本人(アジア人か)にもう一度思い起こさせたかったのだろう。EU圏内の「国境」はなくなり、統一通貨は実現した。ウェストファリア体制は次の何かに変わらねばならない‥。   2014年8月22日に始まった第2回アジア未来会議の基調講演に立ったのは、シンガポール外務省のビラハリ・コーシカン無任所大使(Bilahari Kausikan)だった。「数百年間にわたって途上国が西欧の価値と制度を基準として受け入れさせられてきた世界の再編が起きている。そして、その中心は中国であり、中国がどのように変化するにしろ、それは中国独自の特性を持つ変化だろう」。コーシカンさんは、中国のさまざまな「問題」を注意深く指摘しつつ、中国を中心にした新秩序を受け入れざるをえない東アジア(そして世界)の未来図を描いた。   ウェストファリア体制がなくなっても、世界には別のウェストファリア(のようなもの)ができてくるのかも知れない。まだ形はよくわからないけれど。   会議2日目の分科会では、「これからの日本研究」に参加した。10分もらったけれど早口なので、多分6分くらいで終わってしまったと思うが、「概論への意志」ということを話した。   SGRAに集まっている多くの若い学者が、スペシャリストであると同時にジェネラリストを指向し、早い段階で(協同でいいから)概論を試みること。新しく作られる概論は国際性、同時代性をきっと持つだろうこと。概論は一般の読者にアクセス可能な知の第一歩になりうるのではないか、ということ。   国際関係のもつれた糸をほぐす時に「歴史を忘れない」とよく言われる。その通りなのだが、最近僕はこうも考えるようになってきた。2015年は、日中・日米戦争に日本が負けてから70年にあたる。戦争をはさむ歴史を生きた人々はとても少なくなっている。そして、歴史を知らないことに不都合を感じなかったり(多い)、歴史を恣意的に解釈したりする人々(ときどきいる)が増えてきた。だから、歴史は思い出されるだけでなく、新しい世代によってリバイズされてもいいと思うのだ。(書き直すというと、誤解を招くだろう)。   村上春樹はさまざまな場所で、歴史について「集合的記憶」という表現を使っている。たとえば‥。   「僕らの記憶は、個人的な記憶と、集合的な記憶を合わせて作り上げられている」と天吾は言った。「その二つは密接に絡み合っている。そして歴史とは集合的な記憶のことなんだ。それを奪われると、あるいは書き換えられると、僕らは正当な人格を維持していくことができなくなる」(村上春樹『1Q84』BOOK 1、 pp. 459-460、2009年、新潮社)   プールサイドでパペさんと、欧州の諸国民がその予兆にまったく気づかないまま、泥沼にはまりこんでしまった第一次世界大戦の話になった。1914年のサラエボ事件から100年。パペさんは欧州で評判になっている本を紹介してくれた。「Christopher Clark, “The Sleepwalkers: How Europe Went to War in 1914,” 2013, Penguin」。     帰国後紀伊國屋で見つけたので買った。クリストファー・クラークはケンブリッジ大学の現代史(Modern History)の教授。細かい場面を精密に浮かび上がらせるとともに、大きな流れを読者にうまくつかませることに成功した、同世代人による見事な概論だと僕は思う(拾い読みしかしていないのだけれど)。欧州人は、「すべての戦争を終わらせるための戦争」と呼ばれた第一次世界大戦に、夢遊病者(sleepwalker)のようにさまよい歩いて入っていき、気がつくとそこから逃げることができなくなっていた。   歴史を生きた人々がいなくなる。歴史を新たに生きる者たちは、歴史を書き継ぐとともに、時々リバイズして、僕たちにわかり、僕たちに読める歴史を書かなければならないと思う。もし僕たちが夢遊病者だとしたら、目を覚ますために。今度若い人たちと歴史について話してみたい、と思っている。   ---------------------------- <川崎剛(かわさき たけし)KAWASAKI Takeshi> 元朝日新聞アジアネットワーク(AAN)事務局長。早稲田大学教育学部卒。朝日新聞の社会部員、外報部員、アメリカ総局員(ワシントン特派員)、ナイロビ支局長(アフリカ特派員)、外報部次長、オピニオン編集部次長、ジャーナリスト学校主任研究員などを歴任。1999-2000年スタンフォード大学ナイトフェロー。2010-11年マスコミ倫理懇談会東京地区幹事。2014年7月よりフリー。津田塾大学非常勤講師。 ----------------------------     2014年10月29日配信
  • 2014.10.22

    エッセイ427:謝 志海「クールジャパンのあり方」

    2020年に東京でオリンピックが開催される事が決まり、日本では一層「クールジャパン」という言葉を耳にする。ここで強調したいのは、それが日本の中だけの話題だということ。クールジャパンの動きは海外ではどれほど浸透しているのだろうか。日本ではクールジャパンという言葉ばかりが先走っている気さえしてくる。「具体的には何をしているの?」と思っている人もいるかもしれない。そしてそれが日本政府主導ということまで知っている日本人は案外少ないかもしれない。   日本に住む日本人にとって生活に関わるものほぼ全て、衣食住に限らず公共交通機関をはじめとした安全で便利な暮らしが出来ていることは、当たり前のことだ。しかし外国人にとっては快適便利な暮らしこそがクールなのである。日本政府が旗振り役になって世界に発信しているクールジャパンはアニメ、アイドル、日本食に傾倒し過ぎているように感じる。しかしそれらは、日本通の外国人達にとっては、新しいものでも何でもない。インターネットの普及により、彼らは見たいもの、欲しいものを自国にいながらいつでも手に入れられるからだ。日本政府が民間企業と手を組みクールジャパンを促進するのなら、すでに海外に進出している民間企業が新規開拓に行き詰まっていたりする場合の手助けをする方がよいのではないだろうか。   海外では日本車が走り回り、ポッキー(お菓子)もマルちゃんのインスタントラーメンも手に入る。これらはクールジャパンという言葉が使われる前から、海外に果敢に販路を求めてきた日本企業の努力の賜物だと思う。しかし時は過ぎ、韓国や中国の家電メーカーの台頭により、昨今日本の存在は弱くなったと言われている。そして、そのようにマスコミが煽るから、ますます日本国民の元気がなくなるのではないか。これは実にもったいないことである。中国人にとっては、自動車や家電以外にも売り込める魅力的な物を沢山持っている日本の企業たちは、なんてパワフルなんだ!と感心せずにはいられないのに。   日本の民間企業はまだまだ底知れぬパワーを持っているのだ。日本で生活する外国人からすると、日本はまだまだクールジャパンを活かしきれていないように思う。日本の製品が海外で認知されているのは、ただ単に製品を輸出するだけでなく、便利さという付加価値と現地のニーズに合わせたものづくりをしているからではないだろうか?現地化というのは、欧米の企業も入念なマーケティング等の調査をしているはずだが、使いやすさ、例えばパッケージの開けやすさ一つをとっても日本の技術は世界のトップと言っても過言ではないだろう。これはもう細部にも手を抜かない日本の文化だと思う。例えば、「よその国はインスタントラーメンの粉末スープやソースのパッケージの開けやすさに、そこまでこだわらないし、期待してもいない」というスタンスではなく、自分たち(日本人)が快適と思えるレベルまで掘り下げて商品開発している。そしてどの国の人も結局は便利なものに手が伸びるのだ。いつしかこの便利さが世界のスタンダードになるかもしれない。   その他の例では、日本人のドラマ、映画離れがあるかもしれない。日本人が熱狂しなければ、世界でも認知度は低いだろう。現在ドラマと映画のようなエンターテイメントはアメリカと韓国に大きく水をあけられている。クールジャパンとして、今は、すでにおなじみの日本のアニメを海外で放映しているようだが、先述の通り、少しでも興味があれば今はインターネットを通して何でも手に入れられる時代だ、新鮮さがない。「クールジャパン=漫画、ドラマ、アイドル」だと思うなら、さらに新しいものを生み出せる環境や資金を整えてあげる方が良いのではないか。   では今後どういった文化を売り込めるのか?サービスやホスピタリティではないだろうか。サービスというと先述のパッケージの開けやすさなどは、日本のお家芸とも言えるだろう。同じく赤ちゃんのオムツや介護用品も企業が使いやすさを日々研究していて、すでに海外にもどんどん進出している。ホスピタリティというと、世界の先頭をきって走っている高齢化と、流行語「お・も・て・な・し」にヒントがあるかもしれない。日本中に星の数ほどあるかと思われる老人介護施設、それぞれが独自のサービスを行っている。日本には老いも若きも安全で便利に暮らせるシステムがある。海外ではなかなか同等の快適さは得られないのだ。   最後に、クールジャパンと言って表に出ることばかり考えているだけではいけないと思う。まずは日本の若者に向けてクールジャパンをして、自分たちが今の日本文化を作り上げ、牽引していく立場だという意識を持ってもらうのも近道かもしれない。   ------------------------- <謝 志海(しゃ しかい)Xie Zhihai> 共愛学園前橋国際大学専任講師。北京大学と早稲田大学のダブル・ディグリープログラムで2007年10月来日。2010年9月に早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士後期課程単位取得退学、2011年7月に北京大学の博士号(国際関係論)取得。日本国際交流基金研究フェロー、アジア開発銀行研究所リサーチ・アソシエイトを経て、2013年4月より現職。ジャパンタイムズ、朝日新聞AJWフォーラムにも論説が掲載されている。 -------------------------     2014年10月22日配信
  • 2014.10.15

    エッセイ426:葉 文昌「国旗」

    今年のお正月に台湾へ帰国した時のことである。台湾の元旦では早朝に総統府前で政府主催の国旗掲揚大会があり、愛国的な人達が国内外から集まって、国歌を歌ったりして中華民国の新年を祝う。なかには中華民国の国旗をモチーフにした、鮮やかな藍、赤、白からなるマフラーなどの装着品を身に着けていたりする。   台湾ではこういうことが愛国的とみなされる。すでに国外へ移住している人達でも、この日に戻ってきて国旗を振って「愛台湾」とでも口にすれば、台湾の人々はこの人達を愛国者と認定する。または外国人がその場で国旗を振れば、写真がクローズアップされて翌日のニュースには「愛台湾的外国人」として報道されるであろう。   こういう光景を見ると、私は口先だけ「I love you」の軽い人間を思い浮かべてしまう。或は一昔前のドラマの中の「同情するなら金をくれ」の名セリフ。口先なら誰でもできる。でも国旗を全身に纏っていようが、感無量で涙を流して国歌を歌おうが、それは国を利する行為とは関係ないはずだ。   社会での役割を全うしていれば、それで社会に貢献していることになる。海外へ移住している人は台湾では働いていないのだから、彼らがお祭の時に戻ってきて愛国と主張しても私は共感できない。台湾で真面目に働いていれば、それは台湾の社会に尽くしていることになる。今や台湾の社会に貢献している人は、国籍が台湾とは限らない。外国人配偶者や外国人労働者も多くいる。外国人でも社会に求められて真面目にその役割を全うしていれば、それ以上の愛国はないと私は思う。   世の中では、象徴的で表面的なことばかりが礼讃されているようだと私は悲しい気持ちになる。象徴的で表面的なものが嫌いな私は台湾では国歌を歌いたくないし、国旗への敬礼もしたくない。もちろん、私に国や社会に対する愛がないわけではない。しかし、世の中でうわべで判断されている価値観から見ると、私は非国民のレッテルを貼られてしまうだろう。   私のこのような考えは日本で培った部分が大きい。日本が近隣アジア諸国と比べて国家の象徴に対して狂信的ではない所に日本社会の先進性を感じていた。しかし日本もここ数年で少し変化しているようである。今でも近隣諸国と比較して先進的であることは確かではあるが、冒頭で示した私が嫌う価値観に近づく方向へ進むのは、やはり後退と言える。   私も今や日本社会の一員となった。自分が所属する社会に貢献し、その発展を願っているのは言うまでもない。この先、グローバル化に伴って国際的な人々の往来が盛んになるのは確実である。日本に居住する外国人も、外国に居住する日本人も増えていくはずだ。このような状況の中では、国籍や人種はあまり意味を持たなくなりつつあると私は思う。どの国であっても、うわべの行動や、国籍や人種だけでその国や社会への忠誠を判断されることがないことを願っている。   ----------------------------------------- <葉 文昌(よう・ぶんしょう)Yeh Wenchang> SGRA「環境とエネルギー」研究チーム研究員。2001年に東京工業大学を卒業後、台湾へ帰国。2001年、国立雲林科技大学助理教授、2002年、台湾科技大学助理教授、副教授。2010年4月より島根大学総合理工学研究科機械電気電子領域准教授。 -----------------------------------------     2014年10月15日配信