SGRAかわらばん

  • 2008.10.28

    エッセイ165:キン・マウン・トウエ「時の流れと健康」

      「40歳になると、身体機能、生活環境、職場環境などの影響によって、人間の視覚知識や視覚機能が低下する」・・・視覚工学研究や眼工学研究をしていた大学院時代に、論文や研究発表などの「概要」で良く使われていた表現でした。しかし、当時の私は、視力もよく、視覚知識が低下は自分で体験できないことでした。コンピューターシミュレーションによる実験で、本当の基礎データ-から求められた視覚機能低下者の画像結果を計算した時も、理論から考えて「このように見えるのだろう」と考えながら、研究を行っていました。    その頃、40歳を過ぎた方々から良く聞いたのが、「20代や30代の頃と比べると、体の調子が悪い。体のあちこちが痛い。生活環境を改善しなくては...」と言うことでした。留学時代は、徹夜をして2~3日続けて実験することもよくありましたし、研究室の方々や友達と一緒に無理なお酒を飲むこともありました。しかも、このように無理な生活をしていても、楽しく研究を行い、健康に暮らしていました。    ミャンマーに帰国後も、30代の後半までは、日本留学時代と変わらずに、職場でも自分がしたいことがあれば、昼夜関係無く、無理なこともよくしました。「健康」よりも「自分の目標」が大事で、体調は気に掛けずに、「私は大丈夫です。いくら無理しても、健康ですから」とよく言いました。    時の流れによって、私も昨年40歳になりました。まず、自分の視覚能力が低下してきたことを感じ、とってもショックを受けました。つまり、老眼が始まりました。40年間使用した眼の水晶体(レンズ)の働きが低下したということです。細かい作業をするときや、小さな字の本を読むときに、良く見えない。また、乱視にもなってしまい、雨の日の夜に車を運転する時は、見にくいので大変です。かつて私がシミュレー ションをしていた視力低下者の「見え方」を、自分で体験することができたわけです。そして、時の流れによる「年齢」を感じ、「健康の大切さ」について気づいています。      最近、また大きなショックを受けました。高血圧になり始めています。私の父が高血圧、母親が糖尿です。父も40代の時に高血圧の診断を受け、76歳の現在まで、生活環境にとても注意しながら血圧レベルを管理しています。母親も40代に糖尿病になり、62歳で糖尿病と関連する疾病が原因で亡くなりました。次兄も糖尿病を患っているし、姉も高血圧です。こんな家族の情況ですから、私も30代後半から食生活に大変注意してきました。    しかし、先月、風邪をひいて体調が悪いのに無理した時、眼の前が真っ暗になって、地球が回転して、その後何もわからなくなり、気づいた時は、病院のベッドの上でした。血圧が非常に上がった状態になっていたそうです。しばらく入院させられ、健康管理を行いました。検査の結果は、高血圧になり始めたけれども、その他の病気はまだ発生していない状態とのことです。今後、食生活の管理と運動によって血圧のレベルをコントロールしなければなりません。今まで健康な体でしたが、時の流れによって健康問題が発生してきました。    退院後、大きな問題はありませんが、コンピューターの前の仕事に影響が出ています。今まで、コンピューターの前に座って仕事するのは、何時間でも全く問題なかったのですが、退院後2~3週間ぐらいは、短いメールを書くのが精一杯でした。このエッセイも、締め切りに大変遅れて、申し訳ございません。今は、とっても健康でバリバリ仕事をしています。    一方、時が流れてよくなることもあります。5月のサイクロンによって甚大な被害を受けた地域は、かなり回復してきました。皆様の御支援を受けて支援活動を行った村も、寄贈したトラクターを使用して米を栽培し、まもなく村の人々の喜び季節がやってきます。今回は雨季の米の栽培でしたが、乾季栽培にも、寄贈したトラクターを利用する予定で、配置や分担などの準備が進んでいます。    時の流れによってよくなってきたこともあり、悪くなってきたこともあります。石や鉄でさえも、さまざまな要因によって、時が流れて無くなることもあります。我々人間の場合、健康を大事にすることが、自分の目標を達成するために、とっても重要なのだ感じています。    今回のエッセイは、私の体験に基づいて、皆様の健康管理の参考にしていただける内容を考えました。皆様のご健康をお祈り致します。   ---------------------------------------------  <キン・マウン・トウエ ☆ Khin Maung Htwe> ミャンマーのマンダレー大学理学部応用物理学科を卒業後、1988年に日本へ留学、千葉大学工学部画像工学科研究生終了、東京工芸大学大学院工学研究科画像工学専攻修士、早稲田大学大学院理工学研究科物理学および応用物理学専攻博士、順天堂大学医学部眼科学科研究生終了、早稲田大学理工学部物理学および応用物理学科助手を経て、現在は、Ocean Resources Production Co., Ltd. 社長(在ヤンゴン)。SGRA会員。 ---------------------------------------------  
  • 2008.10.17

    エッセイ164:マックス・マキト「今こそ、時と場のあるヴィジョンを!」

      アメリカの株価が戦後最大規模で暴落し、世界の経済に多大な打撃を与えた。格差が深刻に拡がっていたために、米国の経済の回復はなかなか進まない。そのような時に、大地震などの自然災害に苦しんだ日本から、政府の命によって、二人の若き日本人が、混乱する時代に陥ったヨーロッパへ旅立つ。世の中が崩壊しつつあることには囚われず、確固たる使命感を抱いて、長期的なスパンで日本をいかに発展させるかという「時」と「場」のあるヴィジョンを探しに出る。    上述の場面は現在のことだと思われるかもしれない。しかし、時は1930年頃、若き二人は、名古屋高等商業学校(現名古屋大学経済学部)の赤松要と外務省の鹿島守之助だ。世界大恐慌を招いたアメリカの株価暴落は1929年に発生し、米国経済は第2次大戦まで回復できなかったという。関東大地震直後の日本から、若き二人は、高いインフレに悩み、ヒットラーの人気が高まるドイツに派遣された。赤松は経済、鹿島は外交、それぞれの分野で、二人は、ドイツ滞在によって、日本が進んでいる長く暗いトンネルの先の光を、いかにして見抜くかという使命感で一杯だった。   あいにく、当時の殖民地ゲームに巻き込まれた日本では、彼らのヴィジョンは軍隊の道具として利用され、東アジアを戦争の海にした。東アジアでも世界でも戦争は決してあってはならないと、良き地球市民の誰でもが願っている。あの残酷な時代の経験が、これからの時代を考えていくのに生かされるのであれば、敢えてあの時代の良い思想を僕の研究に取り入れてみたいと思う。   赤松は、今でも盛んに利用されているドイツ学問の歴史重視の方法論を、日本の産業構造の分析に適用し、いわゆる雁行形態型発展を提唱した。鹿島は、当時の外務省では誰も関心を示さず、やがてナチスドイツで禁じられることになるパン・ヨーロッパの運動に大きく影響され、パン・アジアを提唱した。後に、その建設のために外交官の仕事を辞めて政治家を目指す。赤松は歴史観、つまり「時」のある経済政策を作り出した。一方、鹿島はアジアという地理的概念、つまり「場」の重要さを訴えた。   残念ながら、どちらの思想も帝国軍に利用され、あの大東亜共栄圏の戦争を正当化した。しかし、1985年に韓国で開かれた太平洋経済協力会議において、日本委員会の大来佐武郎委員長は、東アジアで進んでいる国際経済分業を説明するために、雁行形態発展論を取り上げたが、問題なく受け入れられている。また、1997年のアジア通貨危機以後、EUの誕生を受けて、東アジアにもASEANを超える地域統合の可能性が模索され始めている。    冒頭で描かれたような場面は今でも起こっていると気づかれたと思うが、僕が強調したいのは、最近の世の中の出来事は、大きな戦争に発展する可能性ということではない。それより、ある意味で、赤松と鹿島は、彼らからみれば植民地という、ひとつの時代或いは世界秩序の終焉を感じたのではないかということである。   現在、1980年代に社会主義という大規模な社会実験が失敗で終わったように、この21世紀の境目で発生した世界金融危機(1997年にタイ、2007年にアメリカから勃発)が示唆するように、資本主義という大規模な社会実験と、それを理論づけた新古典派経済学(市場万能主義)の失敗が到来したことを示しているではないかと思う。外交政策に関して専門外であるが、当時の赤松や鹿島のように、周りが崩壊しつつあるなかでも、長い目をもって国際秩序をみなければいけないと思う。   新古典派経済学では「時」と「場」に対する考察が十分でないことは、経済学者の中では指摘されていたが、社会主義に対する勝利に酩酊した状態であまり注目されなかった。新古典派経済学は「場」である市場の供給需要のバランス(均衡)と、その「時間」に伴う変化を確かに考慮しているが、古い均衡から新しい均衡への移転過程を無視し、経済活動の現場とそこにいる人々の顔がみえるような議論が行われていない。   僕が、この完全競争市場の最も良い例として、授業でよく使うのはウォール街である。マウスのワンクリックで、膨大な資金を、瞬間的に国境を越えて移動させる金融市場は、「時」と「場」に対する感覚が最も欠けている。金融業界が要らないと言っているのではない。あらゆる経済活動の中で、この業界が果たす役割は、これかも必要であろう。ただ、どこかがおかしい、という皆さんの認識が芽生えればいいと思う。   走りすぎたマネー・ゲームによる不安定性だけではない。1930年代の米国における格差は、戦争経済で持ち直された。しかし、1960年代からのジニ係数の上昇トレンドからみれば、依然として、広がっている傾向がある。このような格差は、極端な市場主義を受け入れている国々でも進行している。   社会主義でありながら資本主義だった日本でさえも格差が広がっている。それは、日本で1990年代から始まった、市場万能主義を唱えた経済学者・政治家の責任にほかない。最近の金融危機と関係している一例だけを言わせてもらえば、日本の金融業界が惨めな状態にあった1990年代には、現在アメリカ政府が提唱する「TOO BIG TO FAIL」という方針と違い、日本では「NO BANK IS TOO BIG TO FAIL」と主張する声が圧倒的に強かった。このように強調する経済学者・政治家にとっては、グローバル競争で死にそうな企業郡が存在するという古い均衡から、そのような企業群が淘汰されたという新しい均衡へ移転するのは、いたって簡単なプロセスであった。市場万能主義を一番強く押し付けているのは米国だと思うが、それでも、市場に任せきらずに、経済政策が必要なときがあると戦略的に認識している。   我が東アジアで、経済や政治の政策作成に関わる方々には、あらためて、「時」と「場」を取り入れるヴィジョンを作り出すようにお願いしたい。今こそ、一国も残さずに行きわたる、この地域の繁栄が必要とされている。そのヒントは赤松と鹿島が見出した「時」と「場」のあるヴィジョンに潜んでいると僕は思う。 -------------------------- <マックス・マキト ☆ Max Maquito> SGRA運営委員、SGRA「グローバル化と日本の独自性」研究チームチーフ。フィリピン大学機械工学部学士、Center for Research and Communication(現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、テンプル大学ジャパン講師。 --------------------------
  • 2008.10.10

    エッセイ163:太田美行「在住外国人児童生徒への日本語指導及び教材開発について(その2)」

      都内の公立小・中学校では、日本語指導が必要な外国人児童生徒が入学すると、各自治体の教育委員会に「日本語指導員の要請」を行う。そして教育委員会が日本語指導員を派遣するのだが、学校に日本語指導が必要な子供が多ければ国際学級(外国人児童生徒のための特別教室で日本語指導やその他の補習事業が行われる)が開設されるが、前述のように5人以下のケースが大半であるため、個別に日本語指導員が派遣されることが多い。指導時間は各自治体によって違っており、一人当たり1回2時間で20時間の場合もあれば36時間(必要に応じて延長あり)など様々である。新宿区などの日本語指導が必要な子供が多い学校(新大久保にある小学校では外国籍あるいは「外国につながりを持つ子供」(日本人とのダブルや、先祖が外国籍の児童など)が9割近くを占める)では、しっかりした学校独自の指導プログラムや熱意ある先生が国際学級を受け持っているが、多くの学校ではまず「どうしよう」と担任の先生が悩むことから始まっていることが多い。以前、東京都教育委員会でも外国人児童生徒受け入れのための冊子(国別に生活指導の要点等をまとめたもの)を作ったが、担当者が変わってしまうと、そうしたものの存在が忘れられたりしてなかなか広まらないという問題がある。    フォーラムでは各自治体や学校での意欲的な取り組みが取り上げられ、学校ごとの取り組み(学科教育の教材、「やさしい日本語」で書かれた教科書、ポルトガル語を用いた指導手引きなど)を共有できるよう、資料センターやインターネットで公開している自治体が紹介されていた。こうしたフォーラムによって教師間、学校間での取り組みの共有化が図られると強く感じた。フォーラムでも発表されていたが、最近新聞などでも注目されている「やさしい日本語」は有効ではないかと思う。これは子供だけでなく、大人にも該当するもので「避難してください」を「逃げてください」等のわかりやすい言葉やひらがなに置き換えるものである。災害時の案内や自治体からのお知らせに使われているが、外国人児童生徒のための教科書として使う例として、「明日家庭の時間に調理実習をするので、エプロンと三角巾が必要です」を「あした、家庭があります。料理をします(ごはんをつくります)。エプロンと三角巾をつかいます。もってきてください」とわかりやすく言い換える。このようにやさしい言葉に置き換えられた教科書を用いて学科教育を進めていくことで、「日本語がわからないだけで学習能力はある子供」にも対応していくことができる。このような「やさしい日本語」やルビを振った教科書を作る取り組みが現在一部地域や大学で進められている。   しかし教育委員会や文部省の認識はかなり不足しているように見受けられる。なぜならこうしたフォーラムに参加していない「一般の教師」たちがこのような便利なサイト情報や教材の情報を何も知らないからである。教育委員会が各学校に対して積極的に情報を提供しなければ何も実を結ばない。そもそも(一部地域を除いた)教育委員会自体にこの問題への認識がないのではないかとすら思ってしまうことも多い。これは外国籍人口が高い東京でも同様だ。さらに日本語指導員の待遇が悪いことも指摘され「このままでは裾野が広がらないし、そもそも日本語指導をやる人がいなくなってしまう」との危機感すら叫ばれ、会場内から大きな拍手をもらっていた。一人の熱意に頼るところが大きい割りに、正規の教師と異なり、低賃金で雇用が安定せず(数ヶ月の短期契約など)、正直なところ本業にするには「食べていけない商売」なのである。そのためか安定した経済的背景をもつ主婦がこの職に多いことも事実だ。今の時代、例えば月収27万円が派遣社員として働いて得られるのに、こうしたフォーラムに出席する教師や日本語指導員たちは、教育に対する熱意や使命感だけで続けている。    もっとも実際に現場の教師たちが何とかしたいと思っていても、日本語教育や学科教育に対する知識や時間がなかったりすることも多い。教師たちも日常業務で手一杯な状況の中、やむをえず一部の教師やボランティアの熱意にのみ頼っているように思えることも多々あった。ある教師が外国の教科書を山と積んだ写真を見せて「これは私一人で集めたものです。一人でもこれだけ集められるのに、どうして国や自治体が努力しないのでしょうか。いつまでも個人の努力に頼り放しの現状には限界があるのです」と訴えていたのは印象的であった。ちなみにこの教師は自分が勤務する自治体が「国際都市」を標榜していることに大きな皮肉を感じていると言う。    ある国際学級の先生に「日本語が全くわからない子供が日本語の教科書を習得するのに平均してどれくらいの年数がかかりますか」と聞いたことがある。「差はあるけれど大体5年程度」との答えをもらった。このフォーラムとほぼ同時期に行われた厚生労働省の「インドネシア人看護士・介護士雇用に関する説明会」では日本語能力検定2級程度の人材の雇用を考えており、日本の看護士試験に合格しなければ彼らは帰国しなければならないことが説明された。ちなみに日本語指導をする期間は「6ヶ月」とのことだった。   --------------------------------------- <太田美行☆おおた・みゆき> 東京都出身。中央大学大学院 総合政策研究課程修士課程修了。シンクタンク、日本語教育、流通業を経て現在都内にある経営・事業戦略コンサルティング会社に勤務。著作に「多文化社会に向けたハードとソフトの動き」桂木隆夫(編)『ことばと共生』第8章(三元社)2003年。 ---------------------------------------  
  • 2008.10.07

    エッセイ162:太田美行「在住外国人児童生徒への日本語指導及び教材開発について(その1)」

      最近読んだ産経新聞の記事「残留孤児の2世・3世がマフィア化 同胞からみかじめ料取り勢力拡大」(9月1日)が大きなショックだった。内容は「中国残留孤児(婦人)の子供たちである2世・3世が正規の在留資格を持ち、不正行為をしても強制送還されないため、中国人の店からみかじめ料をとっても、経営者が被害者を訴えない泣き寝入り状態だ」というものだ。   この記事をそのまま評価するわけにはいかない。というのも、この記事の書き方自体に問題があると思うからだ。産経の記者の視点が、中国残留孤児(婦人)の2世・3世を中国人と位置づけしているようなのが気にかかる。もちろん彼らは日本国籍を保持する日本人であるから、「強制送還」に該当しない。そして彼らの「同胞」は中国人なのか、日本人なのか。記事ではどうも中国人としているようだ。   しかしそうした問題はさておき、この記事がショックだったのは、かつて事件にもなった中国残留孤児2世・3世による暴走族のドラゴン(怒羅権)を思い出したからだ。ドラゴンに関しては、当時の日本の受け入れ態勢の不備、学校教育が行き届かない事によるドロップアウト等が原因の一つという指摘もある。日本に着いたばかりの子供に日本での生活の第一歩を導くはずの学校で、逆に大きなストレスと挫折感を味わってしまうことが原因とは皮肉ではないだろうか。それから何年か経ち、当時の暴走族が大人になってみかじめ料をとっているのか、また当時と今とでは状況がどのように変遷したのか等の記述が記事にはなかったが、もし2世・3世の子供たちが来日当初にスムーズに日本社会に馴染めていたら状況は大きく変わっていたと思う。    そうした意味で外国人児童生徒の日本語指導に関わったことがある私には、先の記事が胸の痛むものだったのだ。もし学校が子供たちの「日本に軟着陸する」手伝いの機能をある程度果たしていたら・・・と思う。もちろん頑張っていた先生たちも多いとは思う。現場の教師たちも何とかしようと努力はしているものの、外国人の子供を初めて指導するケースや、まず何から手をつけていいのかわからなかったり、あるいは教師自身が抱える仕事量の多さから子供たちに十分手が回らなかったりで、状況は厳しい。  しかし状況は少しずつでも明るくなってきている。そこで本エッセイでは、この夏、東京外国語大学で行われたフォーラム「在住外国人児童生徒のための教材開発から見える課題とその解決に向けて」を紹介したいと思う。大変活気あるフォーラムで、留学生、元留学生の皆さんの中にも、日本語指導のアルバイト経験者がいて面白いのではないかと思う。    日本語指導が必要な外国人児童生徒数は22,413人(平成18年9月現在)とされており、文部省の平成11年の調査開始時から最も多い。中でもポルトガル語を母語とする児童生徒が4割近くを占め、中国語及びスペイン語の3言語で全体の7割以上を占めるとの結果が出ている。また外国人児童生徒が「1人」の学校が2,591校(47.3パーセント)で約半数を占め、「5人未満」の在籍校が4,337校で79.2パーセント、一方「30人以上」の学校は85校と少数ではあるものの増加しており、「分散と集中の二極化の状況」にあるといわれている。(出典:文部科学省URL) こ  の分散と集中の二極化を意識したためかフォーラムでは、「ブラジル人コミュニティとの教育における連携」、「使ってください!領域別系統表-系統別に指導できるトゥカーノ算数教材を例に-」、「分散地域における教材開発を含む教育支援システム構築に向けて」、「集住地域における教材開発を含む教育支援システム構築に向けて」の4つの分科会に分かれて行われた。東京外国語大学ではブラジル人児童生徒のための学科指導用教材を開発しており、現在はフィリピン人児童生徒のための 学科指導用教材を開発している。 こ   皆さんは留学生、あるいは元留学生として大学や大学院での現状はご存知のことと思うが子供たちの日本語教育についてはどのようにお考えだろうか?まず指摘されるのが不就学児童生徒の問題だ。複数回答の質問による答えからは、「学校へ行くためのお金がないから」(15.6パーセント)が最も多く、次いで「日本語がわからないから」(12.6パーセント)「すぐに母国に帰るから」(10.4パーセント)と続いている。しかし、親が「すぐに母国に帰るから」と考えていても、様々な事情で日本での滞在期間が延びることも多く、「結果としての長期滞在」は健康保険加入などの問題などでもよく指摘されている。 こ  教師でもしばしば勘違いしてしまうのが「子供の頃から日本に住んでいれば、日本語を習得するのは簡単だ」という考えである。確かに子供はすぐに言語を習得することが多い。しかしそれは日常言語のことであり、学習言語はまた別の問題であることはあまり知られていない。フォーラムでは「『日本の学校教育は日本文化・日本語を前提にして成り立っている』という限界」が指摘された。教科書には日常会話では使われないような言葉が出てきたり、また長い文章や難しい構文からなる問題文で、日本語習得が十分でない子供たちが、(言語に頼る度合いが少ないといわれる算数でも)内容が理解できなかったりすることがある。  こ  最近の傾向として小学校1年生から日本の学校に入学する子供たちの増加が挙げられる。こうした子供たちは、日本語あるいは学科教育には問題がなくついていけると思われているが、日本の保育園や託児所を利用していない(地域によっては日本語を使わなくても生活できるコミュニティが既に形成されており、ブラジル人による託児所の利用も多い)、あるいは家庭内での会話に日本語が使用されていない等の理由で、学習についていける程度の語彙力がないことが指摘されている。実際に調査をすると、小学校1年生から日本の学校に入学した子供でも授業の内容についていけない子供たちがいることが紹介されている。こうしたことから日本語指導が単なる語学指導に留まらず、学科教育にまで至ることが多々ある。つまり日本語指導以外でもやることが山のようにあるということだ。私の知っているケースでは親が深夜も働いているため、子供の睡眠時間や生活が乱れて学校では寝ているだけとか、幼い兄弟の面倒を見るため勉強できない等の生活問題に学校が対応しなければならないことがかなりあった。 (つづく) こ  --------------------------- <太田美行☆おおた・みゆき> 1973年東京都出身。中央大学大学院 総合政策研究課程修士課程修了。シンクタンク、日本語教育、流通業を経て現在都内にある経営・事業戦略コンサルティング会社に勤務。著作に「多文化社会に向けたハードとソフトの動き」桂木隆夫(編)『ことばと共生』第8章(三元社)2003年。 --------------------------- こ  (2008年10月7日) こ 
  • 2008.09.30

    エッセイ161:李 垠庚「韓流とともに歩む」

      私が高校生の頃、我が家ではいわゆる「スポーツ新聞」を購読していた。主にスポーツ関連記事や芸能界のゴシップで埋められたスポーツ新聞を、店や会社でもない一般家庭で購読することは、韓国でスポーツ新聞が創刊された直後の20年前はもちろん、今も滅多にない。そのためか、ポストからスポーツ新聞だけが狙われてなくなることも度々あった。友達との飲み会でも、私がその事実(スポーツ新聞購読)を明かすと、聞いていた皆が唖然として、「あなたの芸能界に関する雑学の源泉がようやくわかった」といわんばかりの顔をしていたのを覚えている。   それから相当の時間が経過した21世紀の日本・東京、私はある韓国語塾の「上級韓国語クラス」の映画を用いた授業を行なっていた。10人弱の日本人に対し、毎週末に、毎回約10分程度の分量のディクテーションを中心とし、セリフの表現について説明し、使い方の練習を行った。すでに韓国語をマスターしていた人々なので、韓国語という語学だけでは十分ではなく、時には俳優の裏話、映画の秘話、韓国の時事ニュースに関しての説明を加えた。韓国についてかなり詳しい彼らでも、さすがに20年近く前から情報を蓄積して来た私には及ばなかった。「先生。先生の専攻は何ですか。何であっても、その専攻より、韓国の芸能界に関する文章や講演のようなことをした方が売れるんじゃないでしょうか」。ある日、授業後の飲み会の中で、真剣な顔でそう言われたことは今でもはっきりと覚えている。   その2年後、平日の夕方に社会人が通う大学の生涯センターで「初級韓国語クラス」を教えることになった。前の上級クラスとは違って、日本語を使って韓国語のイロハから教えるクラスであった。ほとんどが韓国ドラマを見てファンになって韓国語を学びに来た人々なので、私の芸能情報はそこでも非常に歓迎された。一日の仕事と厳しい韓国語の勉強に疲れ、眠くなっている彼らの目を覚ますためには何よりだった。   どちらも韓国語を教えるという仕事は同じであるが、二つのクラスの雰囲気の違いは、最近の日韓文化交流が活発になることによる、日本における韓国関心者の性質の変化を象徴している。すなわち、韓国に関心をもって交流しようとする日本人層がどのように変わったのかを表わしているのだ。上級クラスの学生たちは、日本で韓国文化が流行る以前から、各自の様々な理由による関心から、韓国経験をしていた。彼らは、いわゆる典型的な日本人とは異なっていた。彼らは、悪びれもせず授業に遅れたり、授業中に食べ物や飲み物(しかもアルコール)を持ち込んだり、無遠慮な言い方で無理やり飲み会に誘った。悪意のない彼らの態度は、かえって韓国人気質に似ているものだった。実際に、彼らは韓国での生活体験を懐かしがり、辛い食べ物や、ジェット・コースターを連想させる韓国の市内バスを恋しがった。そのクラスの中では、「先生(すなわち私!)がもっとも日本人らしい」とよく言われた。   それに比べると、初級クラスの学生たちは相当異なっていた。彼らは、日本社会の中流階級の平凡なおばさんや、会社員、管理職を退職した年配の方々だった。韓国のドラマを通じて韓国文化に出会うまでは、韓国に接したことがほとんどなく、今も映像に映る韓国の荒っぽい生活と刺激的な食べ物に、好奇心と恐怖心を半々に抱いていた。長い間勉強から遠ざかっていた人々が、まったく新しい外国語に向き合うことは容易なことではない。日本人にとっては、どうしてもし難しい発音のために、筋肉に微かな痙攣を起しつつ必死に頑張る様子からは、私も感動と励みを感じた(ある人は、韓国語の一部の発音が、日本の女性にとっては一生したこともなく、抵抗感を感じさせる発音なので、どうしても素直に出来ないと言訳をしたが、真偽は確かではない)。彼らは、非常に丁寧で(個人差はあるものの)私に対しても絶対に無礼な言動をしなかった。また、日本人は必ず一つ以上の特技を持っていると言われる通り、茶道、生け花、三味線、私が聞いたことのない外国のダンスなど、必ず一つ以上の趣味を持っていた。韓国では想像さえ出来ないほどのちっちゃなプレゼントを照れずにいただくことに慣れたのもこのクラスのおかげであった(一言では説明できないが、日本と韓国のプレゼントの文化はかなり異なっている)。   上級クラスの学生の中では、韓国の光州民主化運動(1980)を見たことや、「在日」問題に関わることになったことがきっかけで、韓国に関心を持ちはじめたという「重い」動機から韓国と付き合うようになったケースが多かった。韓国旅行の計画をのぞいてみても、私でも行ったことのない歴史的な遺跡地と地方文化探索を試みるものだった。その反面、初級クラスからは、韓国芸能人の日本内活動やファンクラブの動向に関する情報を得ることができた。   この対照的な二つのクラスは、私個人の偶然な体験だけとは言い切れない。昔、日本で韓国に興味を抱いて学ぼうとした人々は大抵、日本社会に息苦しさを感じ、それとは対照的な韓国人気質や歴史に興味を抱き始めた人々、ある意味では「変わり者」やアウト・サイダーが多かった。ところが、最近、新たに現れた韓流ファンは、平凡な日常生活を送りながら、黙々と家庭と社会を支えてきた人々である。昔は、韓国語を教えるところが少なかったゆえに、韓国語を勉強しようとすれば、必ず(前述した塾をはじめ)いくつかの限られた場所にたどり着くようになっていたが、昨今では、韓国語を教えるところが「雨後の筍のように」出来たので、伝統あるところは「古臭い」と度外視されている。その結果、韓国に対する関心があまりにも軽く、興味本位へと傾いてしまうのではないか、と懸念する声もある。日韓交流におけるこのような変化の意義はともかく、私の在日期間中にこのような変化が起こり、自分のもっとも身近なところでそれを目の当たりにできたことを非常に意味深く感じている。   高校時代、夜遅く家に帰り、疲れを抱えて、間食を食べながらスポーツ新聞を読むことを一日の楽しみにしていたあの頃は、まさか21世紀、東京の片隅で、自分が日本人の前に立って、その新聞で得た情報をもとにして韓国の言葉と文化について教える日がくるとは想像すらしなかった。今でもたまに不思議な気持になる。そして今、21世紀初頭の日々を東京の隅っこで過ごしながら見聞きし、考えたことが、また想像も出来ない「何か」で実ることを期待する。   2001年、韓流のはじまりと共に始まった私の留学生活は、そのうねりとともに歩み、そのかげりが見え始める今、そろそろ終着地点が見えようとしている。偶然か必然かは、今後、開かれる道によって証明されるだろう。   -------------------------------------- <李垠庚(イ・ウンギョン)☆ Lee Eun Gyong> 韓国の全北全州生まれ。ソウル大学人文大学東洋史学科学士・修士。現東京大学総合文化研究科博士課程。関心・研究分野は、近代日本史・キリスト教史、キリシタン大名、女性キリスト者・ジャーナリスト・教育者など。現在は、韓国語講師を務めながら「羽仁もと子」に関する博論を執筆中 --------------------------------------   *このエッセイは、2007年度渥美国際交流奨学財団年報に投稿していただいたものを、筆者の許可を得て再掲載しました。   (2008年9月30日)
  • 2008.09.26

    エッセイ160:侯ヤンクン「すばらしき中秋の週末」

      なんて素晴らしい中秋節の週末!この日、私は37歳になり、私の雇い主のリーマン・ブラザーズは倒産しました。なんて素晴らしいプレゼント!   まずはご無沙汰してしまった皆さんにお詫び申し上げます。あまりご連絡を差し上げませんでしたが、皆さんのことを忘れていたわけではありません。リーマンの倒産以来、メールや電話を通して暖かい言葉をいただきまして本当にありがとうございます。   それでは、私の近況をお知らせいたします。   娘のアリスは6歳になり、数週間前に小学校に入学しました。 息子のセイジは4歳になり、私よりずっとハンサムです(笑)。あいにく、過去3年の間、子どもたちと一緒に過ごす時間はあまりありませんでした。化学者から転職した証券アナリストの私は、コーネル大学を卒業してからとても忙しく、東京のUBS証券で1年、香港のリーマンで2年働いてきました。香港にきてからは、妻は育児に専念していますから、この2匹の幸せな小さな虎たちがすくすくと育っているのは、すべて彼女のおかげです。   この2年間、出張でどれくらいの距離を飛んだか当ててみませんか?   私たちは、この2年間に家族旅行を5回もしました。1回はこの夏に北京へ。もう1回は去年のクリスマスに三亜へ。残りの3回は、私の故郷の青島に行きました。全て、出張で集めたマイレージの特典です。これは自慢すべきことなのか、みじめな生活を示すものなのか、私にはわかりません。   リーマンでの仕事はとても楽しかったのです。今、私の人生の途中で職の安定を失って困っているということだけでなく、158年の歴史があるこの偉大な会社が倒産して、その名声がなくなるのを見送らなければならないのが大変悲しいです。   でも、リーマンとウォール街のこの半年間の激しい変化を経験したことは、私の人生にとって大きな資産になったと思います。最初は月ごと変わり、それから毎週、毎日、そして毎時間、最後は10分ごとに事態が変わりました。もし将来、自分のビジネスを経営するチャンスがあれば、もっと慎重になりたいものだと思います。MBAを取得した後も、たくさんのことを学び、たくさんの友たちができました。   本当は子どもたちと一緒に2ヵ月くらい、中国あるいはアメリカの大陸横断ドライブへ行きたいところです。でも、学校は、もう秋学期が始まってしまいました。どうせだったら、もうちょっと早く倒産してくれたらよかったのに。あるいはもう数カ月後に倒産してくれれば、私は国際アナリストのランクをもう一段あげて、スターアナリストになることができるはずだったのに。   どんな未来がくるのか今は定かではありませんが、ひとつだけ確かなのは、自分がもっとバランスのとれた人間になるだろうということです。   もう一度、皆さんからの励ましの言葉に感謝します。近いうちに、また一緒に飲みに行く機会があることを願いつつ。   (2008年9月26日)   ★「その後」の報告(10月7日SGRAかわらばん会員だより)。   ---------------------   リーマン・ブラザースが倒産してから今まで、みなさまから暖かい激励の言葉やご支援をいただきありがとうございます。   決して忘れられない、ものすごい半月間でした。現実に起こっている金融の津波の真っただ中に居合わせたわけですが、ある意味で幸運だったと思うこともあります。もっとも、もう一度この幸運を繰り返したいとは決して思いませんけど。中国のことわざによれば「最も危険な場所が一番安全」なのだそうです。   新聞でお読みになったように、結局リーマンはノムラホールディングスに買収されました。そして私たち全員が、ほとんどそのままノムラの従業員になります。給料や賞与、そして雇用年数もそのままです。(つまり、もしリーマンに10年間働いていたら、その分の10ヶ月分の退職金も、将来ノムラから支払われます。)会社の電話番号まで同じなんですよ。勿論、名刺は新しく印刷しなければいけませんけど。おまけに、法律上の何らかの理由で、10月の下旬まで働いてはいけないそうで、実際、それは私にとって好都合です(上司には言わないでくださいね)。   この2週間、毎晩家に帰って子どもたちと食事ができました。過去3年間できなかったことです。そして明日から1週間、四川省の九寨溝に家族旅行します。その後、香港に戻ったら、多分、毎日毎日市場の動向を見る代わりに、本を読んで過ごすでしょう。あるいは、香港の蘇豪地区や深せんを探索するかもしれません。そして、毎日毎日やかましい情報を処理して暮らす代わりに、人生や自動車産業や金融業について、もっと深く考えることができるでしょう。   なんてすばらしい、仏様(あるいはあなたの信じる神様をいれてください)からの贈り物でしょう!倒産から、グローバルな知名度はかなり低くなるけど安全な(皮肉にも今や世界で唯一の)投資銀行への異動、そして家族との休暇という道すじの、「貴重な体験」という贈り物です。   ------------------------------- <侯 延クン (こう・えんくん)☆ Hou Yankun> 2000年東京工業大学より工学博士取得、有機合成を専攻。エール大学医学院勤務の後、コネール大学でMBA。2005年から、UBS東京支社で一年間勤務の後、2006年にLehman Brothers香港支社勤務。中国自動車及び部品業界のEquity Analyst。 - ------------------------------
  • 2008.09.23

    エッセイ159:玄 承洙 「ウズベキスタンの韓流ブーム」

    今年の7月、ウズベキスタンに行ってきた。今年の4月まで私が勤めていた韓国外語大の中央アジア研究所とウズベキスタンの識者グループが夏に共同でセミナーを開くことになっていたため、夏の休暇を利用してウズベキスタン入りをしたのである。セミナーはタシュケントにあるウズベキスタン国立大学の一室で行われたが、それほど密度のある学術交流とまではいえず、少し気の抜けた感じのものであった。私は中央アジアのイスラーム、特にイスラーム原理主義や過激派、テロリズムなどを専門にしているが、現地ではこれらの話題を口にすること自体が禁忌とされたため、がっかりした。また、ウズベキスタン大統領の宗教政策の成功事例ばかりを羅列する向こう側の学者たちには正直あきれたものである。しかし、セミナーが終わってからはウズベキスタンの主要都市を周りながら、自分なりのフィールドワークができたことを感謝している。コースは首都タシュケントからブハーラ、サマルカンド、ヒーヴァとウズベキスタンの中央部と南西部を一周するルートであった。摂氏40度を越える酷暑のなかを、クーラーもついていない小型車で毎日6時間以上走るというハードな旅程であったが、現地のモスクを訪問しイスラーム教徒たちの素直な声を聞くことができた。   ところで、いまだ韓国では「ウズベキスタン」というと、「あ〜ウクライナね」という返事が返ってくることが多い。せめてウズベキスタンという国名を正確に言える人も、十中八九はあの国がどこにあるのかよくわからない。「スタン」で終わる国は貧乏な国、イスラーム色が強い国、どこか怖いイメージがするという人も多い。韓国ではあまりウズベキスタンのことは知られていないのである。   だが、ウズベキスタンでは事情は正反対である。まず首都タシュケントをはじめあの国のほぼ全域で道路は韓国車で溢れかえっている。今韓国では没落した財閥企業の代名詞となっている「デウ」の車である。デウはソ連邦崩壊後、ロシアの支配から抜け出して新しい独立共和国を創り始めていた中央アジアのスタン五カ国に速やかに進出を図った。なかでもウズベキスタンでデウの活躍は眩しく、現地に自動車工場をつくるまでに成長した。その結果、ウズベキスタンで走る自動車の約9割はデウの車が占めるようになった。しかし90年代末、デウ自動車は破産してしまった。海外で無理に事業を拡張していたことが原因とされる。ウズベキスタンで稼働していた自動車工場も閉鎖される危機に直面した。幸いにも、ウズベキスタン政府がこれらの工場を買い入れたおかげで、工場は運営を続けることができた。ただ、もはやそこで作られる車はデウ製ではなくなった。ブランドはデウであってもウズベキスタンの車である。しかしウズベキスタンの人たちはデウが韓国の車だということをみんなよく知っている。それゆえ、タクシーに乗ったら運転手から韓国車の褒め言葉で耳が痛くなることを覚悟しなければならない。   またウズベキスタンで「韓流」を実感することもできた。旅行中現地の市場でぶらぶらと歩くことが大好きな私であるが、市場にいったら現地の人々から「ジュモン」という言葉でよく声をかけられた。最初はそれが何を意味するのかわからなかったが、ある子供が写真を見せながら「ジュモン」、「ジュモン」と言った途端、それが昨年韓国で大人気を集めた時代劇のタイトルだということがわかったのである。事情はこの国の最西端にある古都ヒーヴァでも同じである。そこで偶然出会った現地の大学生は「『ジュモン』は子供向けの幼稚なドラマだが、ベ・ヨンジュン主演の「冬の恋歌」は秀作だ。あのドラマはウズベキスタンでもう6回も再放映され、その度に視聴率は60パーセントを記録している。僕もあのドラマを観てから人生が変わったんだ。必ず韓国にいく。」とまで言ったのである。日本でもヨン様ブームを巻き起こしたあの「冬ソナ」のことである。   ウズベキスタン第二の都市でこれまたシルクロードの古都でもあるサマルカンドでは街のいたるところで韓国語が聞こえてくる。それも現地の商人が客引きをするために片言で話す韓国語ではない。すばらしい発音とイントネーションはもちろん、今韓国で流行っている流行語なども混じった流暢な韓国語である。彼らに聞くと、韓国で3年以上働いた経験のある人がほとんどである。実はいま韓国ではウズベキスタンから出稼ぎに来ているウズベク人労働者が非常に多い。彼らのほとんどはソウル周辺の工場などで働いているが、3年くらい働くと結構大きなカネを稼いで国に帰ることができるという。さらにウズベク人女性が韓国人男性と結婚して韓国で住み着くケースも増えているようである。この国では韓国は夢を実現する地として知られているらしい。   こうした韓流ブームには、当然であるが、問題も付きまとう。ウズベキスタンにはあまり興味を示さない韓国人だが、例外の人たちがいる。キリスト教の猛烈信者たちである。夏の観光シーズンになるとソウルからタシュケントまでの航空便がよく満席になったり、チャーター便ができたりするが、それはウズベキスタンに行く韓国人のキリスト教宣教団が急増するからだという。韓国の大型キリスト教会は、だいたい、中央アジア、なかでもイスラーム色の最も強いウズベキスタンで活発な宣教活動を展開している。彼らが現地で様々な問題を起こし、現地警察に摘発されて追放されるケースも増えているという。真偽のほどは確かではないが、ウズベキスタンのイスラム・カリモフ大統領がつい最近「もうこれ以上、ウズベキスタンを外来宗教のゴミ捨て場にはさせない」と警告したようであるが、それは韓国の宣教団に当てた警告であるらしい。アフガニスタンでも韓国人宣教団がターリバーンに人質にされ物議を醸した事件があったが、同胞たちの自制を願いたい。   ---------------------------------- <玄承洙(ヒョン・スンス)☆ Seungsoo HYUN> 2007年東京大学総合文化研究科より博士学位取得(博論は『チェチェン紛争とイスラーム』)。専門はロシア及び中央ユーラシアのイスラーム主義過激派問題。韓国外国語大学中央アジア研究所勤務の後、2008年4月より国会議員李相得政策特別補佐官。SGRA会員。 ----------------------------------  
  • 2008.09.19

    エッセイ158: 今西淳子「ナショナルナイト」

      留学生の支援と同時に、CISVという異文化理解と平和教育を行うグローバル組織でボランティア活動をしている(www.cisv.org 参照)。世界各国から参加者が集まって2~4週間の短期合宿生活を送るもので、11歳から成人まで年齢にあわせたプログラムがある。現在、73カ国が参加しており、毎年世界各地250箇所で開催され、参加者は8000人。日本からも毎年150名を越える参加者を送り出し、各国から同数の参加者を受け入れている。   CISVはアメリカの児童心理学者のドリス・アレン博士によって始められ、1951年に第1回目のキャンプがアメリカのオハイオ州で開催された。しかし、現在、国際事務局はイギリスにあり、参加者もアジア太平洋地域が10%、南北アメリカ地域が30%、そしてヨーロッパ(一部中東とアフリカを含む)が60%と、圧倒的にヨーロッパが多い。また、国際総会では一国が一票を持つので、当然、方針決定は参加国数が多いヨーロッパが強い。つまり、いろいろな決まりごとの「国際標準」は欧米、特にヨーロッパがとることが多い。   57年前に最初に開催されたのは、CISVの中では最年少の子どもたちを対象としたビレッジと呼ばれる国際プログラムである。そこでは11歳の男子2名と女子2名と21歳以上のリーダー(引率者)がチームを作り、12カ国から12チームが集まって4週間の合宿生活を送る。遠足、オープンデー、ファミリーウィークエンド(ホームスティの週末)以外は、殆ど外部とは遮断された状況で、様々なゲーム、スポーツ、音楽やダンス、図画工作などを通して、文化の違う人たちとどうやって一緒に過ごすかを体験しながら学ぶ。ボランティア組織ながらも、当初より児童心理や教育に携わる学者が関わっており、50年の歴史があるから活動内容や経験の蓄積も豊富で、CISVの目的に沿う教育効果を得ることができるように指導者研修なども充実している。英語が公用語なので、参加者の中で一番話せないのが日本人だったりすることは珍しくないようだが、それでも11歳の子どもたちは言葉がなくても十分楽しめる。4週間が過ぎてキャンプが終わる時には、皆大泣きして別れを惜しむことになる。この11歳の体験が、大人になってから物事の判断に大きな影響を与えるという。   その11歳プログラムの中に「ナショナルナイト」がある。お国自慢の夕べである。日本のナショナルナイトには、日本的な料理を振る舞い、はっぴを着てソーラン節を踊り、筆で外国の友だちの名前を書いてあげたりする。上述のように、圧倒的に欧米諸国からの参加者が多いので、珍しい日本文化紹介はとても人気がある。日本の子どもたちにとっては、初めてゆかたを自分で着たり、ソーラン節を習ったりする自国文化を知る機会でもあるし、それによって英語はできなくても人気者になれるので自信をつけるチャンスでもある。つまり自己アイデンティティーを確立できる。もし空手などできたら、その子はもうキャンプのヒーローである。   ところが、14~5歳のサマーキャンプというプログラムになると「ナショナルナイト」はもうない。日本でいう中学生以上のプログラムには、それぞれテーマがある。たとえば、そのキャンプのテーマが「差別」だとすると、参加者はチームごとにそのテーマについて自国の状況を調べてきて発表したり、そのテーマに沿ったセッションを企画したりする。つまり国境を越えた共通の大きなテーマについて、参加者がそれぞれの角度から参加し、皆で考える。必ずディスカッションになるから、英語にもディスカッションにも慣れていない多くのアジアからの参加者にとっては結構大変である。珍しいからと注目を浴びることも少なくなる。民族衣装も特別料理もいらない。キャンプによって若干の違いはあるが、基本的にはお国自慢はもう卒業したのである。   毎年イースターの休みの頃に、国際プログラムのリーダーやスタッフ、そしてジュニアたちの研修のため、アジア太平洋地域、アメリカ地域、そしてヨーロッパ地域の3か所、計5か所でワークショップが開催される。その中で、唯一、「ナショナルナイト」をするのはアジア太平洋地域である。特にアジアの国々の参加者にとって、これは一大イベントである。皆、民族衣装を用意し、歌と踊りを練習して披露し、それぞれの国で人気のあるお菓子を持参し、盛大にお国自慢を楽しむ。実際、アジア諸国の文化がどんなに多様であるかを知る良い機会でもある。   しかし、たとえば、北ヨーロッパ地域のワークショップに集まった、スウェーデンとデンマークとオランダの中高校生たちが民族衣装を持参してお国自慢の夕べをすることは考えられない。彼らは既に「大人」の組織とは独立して、ジュニア部会を独自に運営しており、最先端のIT技術を駆使して、グローバルなネットワークを構築している。彼らの関心は、お互いの考え方や文化の差を知り、それをどうやって調和させていくかというよりは、いかに自分たちのグローバル組織を運営し、発展させていくかということなのである。ラテンアメリカも含む欧米のジュニア達の活動を見ていると、彼らにとって国境はあるのか、移動する航空運賃だけが問題なのではないかと思うほど、いとも軽々と実際に、そしてバーチャルに飛びまわっている。    日々の活動でそんなことを感じていたところ、先日、「EUが挑む民主主義」という新聞記事に興味をひかれた(朝日、2008年9月14日)。そこでは、ロンドン大学のヒクス教授の言葉を次のように引用している。「欧州議会の議決は『今や8割程度が議員の出身国ではなく政治会派に分かれて争った結果』。左派議員は国籍にかかわらず、環境問題では規制強化、移民には開放的、財政支出は増やす政策への投票傾向が強いのに対し、右派はその逆という。理事会でも閣僚らは必ずしも自国の損得で動かず、EUレベルで政策の適否を論争することが増えていると見る。『EUでせめぎ合っているのは各国アイデンティティーではなく政治思想だ』」    CISVの国際総会でも、ヨーロッパ各国の若い代表たちが、自分の国の利益というよりは、国際組織がどのように進むべきなのかということを中心に議論する姿を眺めていると、この「EUが挑む民主主義」も当然の展開のように思う。全てヨーロッパに学べばいいというわけではないが、グローバル化の大きな流れが逆行するとは思えないし、アジアの独自性を叫んでいるだけでは差異が広がるばかりであろう。欧州で進んでいる改革を知り、その意味を理解する必要はあるのではないかと思う。そして、国境を超えた地球規模の利益、あるいは人類の普遍的な価値を考える広い視野を持たせ、それを国際の場で語る力を養う教育の必要性を感じる。そのためには、あえてお国自慢を卒業させる必要がある場合もあるかもしれない。    ------------------------------------------ <今西淳子(いまにし・じゅんこ☆IMANISHI Junko> 学習院大学文学部卒。コロンビア大学大学院美術史考古学学科修士。1994年に家族で設立した(財)渥美国際交流奨学財団に設立時から常務理事として関わる。留学生の経済的支援だけでなく、知日派外国人研究者のネットワークの構築を目指す。2000年に「関口グローバル研究会(SGRA:セグラ)」を設立。また、1997年より異文化理解と平和教育のグローバル組織であるCISVの運営に加わり、現在英国法人CISV国際副会長。 ------------------------------------------ (2008年9月19日)     【読者の声】   今西さんのCISVに関するSGRAメールを拝見して、嬉しくなってメール致しました。   エッセイ、大変興味深く読ませて頂きました。CISVの北欧のキャンプのことなどを思い出し、今西さんのご意見は、考えてみると本当にその通りだなと実感しました。   彼らは確かに「お互いの考え方や文化の差を知り、それをどうやって調和させていくか」というフェーズを飛び越えて、さらに一歩広い世界から物事を考えているように感じます。世にいうグローバルシティズンなんだなあと。   ヨーロッパは歴史や宗教、大まかな民族のバックグランドに関しても、アジアより共有していることがたくさんあるのは確かです。そんな前提を考慮しても、「EUが挑む民主主義」の国家や民族の枠組みを超えた考え方は、日本から見ると本当に異質だと感じます。   アジアが例えばASEAN+3のような地域間枠組みを今後想定したとしても、ヨーロッパのような国家を超越した考え方を、人々がすぐにできるようになるとは、日本人の私にはとても想像できません。   自分は、頭ではそういった考え方を理解しても、なかなか「日本」・「日本人」というパースペクティブを抜かして物事を考えられないのが現実です。これも島国・日本でぬくぬくと育ったせいなのでしょうか。   どちらの考え方がいいとか悪いとかではないと思いますが、今西さんもおっしゃる通り国際社会の中で、世界をまたにかけて主導的役割を果たすには、そうした〝世界的視点〟も持てることは非常に重要であると考えます。   そしてそのために日本人は語学力であったり、世界で影響力を行使する経験をたくさん積む必要があるとひしひしと感じます。(こうやって「日本人は・・」とすぐに日本視点で考えること自体、私が「島国・日本人」を抜け切っていない証拠なのかもしれませんが・・)   私事ですが日本でサラリーマンをしていると、視野を広げようと意識はしていても、気付くとどんどん視野が狭まっています。今回のエッセイを読ませて頂き、改めて自分の世界を広く持ち、色々な考え方ができることの大切さを再認識しました。どうもありがとうございました!   ゆぶ (2008年9月26日)  
  • 2008.09.16

    エッセイ157: 韓 京子「秋夕の無料帰省バス」

    帰国してもう2年半が経とうとしています。帰国後、留学中の8年間の変化というものを目の当たりにして「浦島太郎」になった気分でしたが、いまだに「ここはどこ?」という心境です。 エッセイを書き始めた頃は、今韓国で流行っているものなどを中心にお伝えしていこうと思っていましたが、なんだかねた切れ気味になってしまいました。そんなところ、キャンパス内で目に入ってきたものがありました。それは「無料帰省バスの運行」についての張り紙でした。   もうすぐ(9月14日)韓国は秋夕(旧暦のお盆のようなもの)です。日本ではお盆は夏休み中なのですが、韓国では旧暦ですごすため毎年9月か10月と日にちが違ってきます。今年はいつもよりも早く9月の中旬で、残暑がきびしいため秋の収穫への感謝という感じがうすれてしまった気がします。   さて、この秋夕はお正月(旧暦)と合わせて韓国では民族大移動の日となるのですが、お正月と違って秋夕は学期中なので大学の授業は休講となることがしばしばあります。帰省の電車やバスの切符がとりにくく、休日となる前日に帰省し、連休明けの次の日に戻ってきたりするため、帰省する人数の多いクラスは休講となることが多いのです。休講でない場合でも、帰省のためやむなく欠席する学生を出席と認めたりすることもあります。それだけではなく、帰省する切符が買えなかった学生のため無料バス(学校によってはバス代を払う場合もあります)まで運営しています。この帰省バスの運行は学生福祉委員会が毎年行っているようです。無料という魅力の上に同郷の学生と帰省する楽しみまで味わえます。路線によってはお弁当やお土産も出るそうです。こういうことは日本のように交通費の高い国では考えられないことのような気がします。韓国の物価も日本並み(日本以上のものも)に相当上がりましたが、なぜか交通費だけはそれほどでもないため可能なのでしょう。また、日本だと北海道から九州までバスでというと気の遠くなるような距離ですが、韓国は日本ほど国土が長くないということもあるのだと思います。   秋夕は前後1日ずつを休みとして3連休となっていますが、運がよければ週末と合わせて5連休にもなります。しかし、今年は誰もが最悪と言うように土日月のたったの3日だけの休みとなりました。しかも土曜日はもともと休みの人も多いので月曜日が休みというだけです。つくづく振り替え休日制度を取り入れてほしいと思います。   このご時世、秋夕をめぐる行事もずいぶん簡素化されてきました。秋夕の2週間ほど前に先祖のお墓の雑草を刈る行事があります。今は火葬も増えましたが韓国の一般的なお墓は山や丘の傾斜面に土葬した封墳がほとんどでした。このお墓に芝が植えられているのですが、この時期になると雑草がぼうぼうと生い茂るため、秋夕の前にあらかじめお墓をきれいにしておくのです。これまた地方にあるため週末を利用して帰省して行います。この草刈、親戚一同が集まり一族のお墓全部(ほとんど近くに集まっています)をするため相当な時間と労働力を要します。今は、多くの人が実家を離れて暮らしており、また少子化に伴い家族構成員が減少しているため、実際この草刈をすることは非常に大変なことです。予定した日が雨になることも多く、実際私も(まだ1度しか参加したことはありませんが)ちょうど台風がきていたため大変な経験をしました。そこで現れたのが、草刈代行業者です。帰省する費用より業者さんに頼むほうが安上がりだし、地元の業者なので週末にこだわらずいつでもできるということもあり、最近では大盛況らしいです。   数年前から法事の際のご先祖へのお供え物の料理を代行して作ってくれる業者があらわれたり、その料理を持って連休を利用した海外旅行先でご先祖への法事を行う人もいるというニュースを聞いたりしましたが、こうも変わっていいものかと思ってしまいます。   このような韓国内のめまぐるしい変化の流れに乗れず、私一人取り残されてしまうような気がします。「浦島太郎」の結末ってどうだったかなと、気になる今日この頃です。   ------------------------------------------- <韓 京子(ハン・キョンジャ)☆ Han Kyoung ja> 韓国徳成女子大学化学科を卒業後、韓国外国語大学で修士号取得。1998年に東京大学人文社会系研究科へ留学、修士・博士号取得。日本の江戸時代の戯曲、特に近松門左衛門の浄瑠璃が専門。現在、徳成女子大学・韓国外国語大学にて非常勤講師。SGRA会員。 -------------------------------------------
  • 2008.09.12

    エッセイ156:ガンバガナ「故郷」

    これは十年ぶりの生まれ育った故郷への訪問だ。ここには幼い頃の数多くの思い出が残っている。あのころ、私は山のぼりが大好きで、よく山に入って、杏、モイル、ウレル、オラーガナなど、野生の果物を拾って食べた。時にはキノコ採りに行ったり、家畜を探しに行ったりもした。今回、私が里帰りを決断したのは、時間の流れにつれて薄れていく少年時代の記憶の再現と、故郷の土から新たなエネルギーをもらうためである。   しかしながら、私のその思いがいかに愚かで、なおかつ幼稚であったかということを、私が故郷の土を踏むや、悟ったのである。というのは、この十年ぐらいの間に、私の故郷は余りにも大きく変化していたからである。   翌日、私は車で草原へ出かけた。そこは私にとっては知恵と命の源であり、昔は至る所が家畜の群れであふれていた。ところが、今、その風景はまったく変わっていた。群れる家畜どころか、人間の影さえほとんどなかった。私は空しくなった。その原因を隣に座っていた運転手さんから聞いたところ、彼は、「近年、環境保全型移民政策の導入によって、多くの人が故郷を離れ、町に移住することを余儀なくされた」と、説明してくれた。なるほど、最近、話題となっている、いわゆる「生態移民政策」とはこんなものなのか、以前本で読んでいたことを、こうして体で実感することとなった。だが、正直に言えば、こうした現実を素直に受け入れる勇気は私にはなかった。とりわけ、生まれ育った故郷から追い出された人々の現状を考えると胸が痛くなった。   私は、せっかくの里帰りなので、「変なことを考えないほうがいい」と、自分に言い聞かせるように呟き、現実から逃避することを試みた。まさに自分との戦いであったが、なかなか思い通りにいかなった。   西の方を眺めていると、列車が走っていた。鉄道ができたのだ。何のために? 運転手さんが、北のほうで露天炭鉱が発見されたからと教えてくれた。そういえば、夕べのテレビで、これから産業開発を重点的に行うというニュースが流れていたことを思い出した。   ところで、ここは私にとっては、思い出の場所なんだよ。あのころ、そこには、「ボロガース」という柳の枝のような植物が大量に生えており、冬になると、ウサギの罠を仕掛けていたんだよ。今は砂漠と鉄道以外はなにもないようだ。   その変化の速さに私は驚いた。   いったい、なぜ、こんなに猛スピードで砂漠化が進行しているか、最近の研究、記事などについてちょっと考えてみた。海外の研究では、漢人の入植と開墾に一因があると主張しているのが多いが、中国では、家畜の増産、とりわけヤギの繁殖にその原因を求めているようだ。またも政治と学問の癒着ということか。聞いてみたら、運転手さんの見解も後者のほうであった。私は反論しようと思ったが、途中であきらめた。彼には彼の事情、私には私の人生があるからだ。   しばらくたったら喉が渇いたことに気づいた。この辺で、誰かの家に寄ってお茶を飲みましょうと運転手さんに提案した。「みんな移住してしまったから、おそらく無理だろう」との返事だった。仕方がない。なら、あの先祖から祭られてきた聖なる山に登って、祈りをささげてから帰ったらどうかと聞いた。彼は同意してくれた。   二人で山へ向かって車を走らせた。まもなく検問所に行き当たった。「自然保護区」との看板が掛けられ、観覧するだけでも、料金を払わなければならないことになっていた。さらに、不思議なのはその経営に当たっていたのは、なんと南のほうからやってきた開発商人であった。違和感があったが、従うしかなかった。私はその検問所に立っていた人をじっと見つめた。どう見ても違う顔であった。それが私ができる唯一のことであった。自分の無力さを痛感した。   「もう充分!」私は何も語らずひたすら山頂へ向かった。頂上に着くや、モンゴル人の慣習どおりオボー(石を円錐状に積み上げたもので土地の守護神が宿るとされている)を三週回り、合掌しながら祈りをささげ、最後に、自分のもってきた供物を供えておいた。そうしたら運転手さんが、「気持ちを表すぐらいでいいじゃない。何を供えておいてもすぐ持って行かれちゃうから」と言った。彼の言葉の意味をよく理解できなかった私が、その理由を聞いたら、彼は山の右側のふもとを指差しながら説明してくれた。その方向に目を移すと、そこには大勢の人が石の採掘作業をしていた。彼の話では、それらの人はみんな外地の労働者で、開発商人が連れてきたという。   私の気持ちはもはや限界に達した。「だって、ここは自然保護地域でしょう?だって、我々は、入場料を払って入ってきたでしょう?だって、これは我々の聖なる山でしょう?」私はいきなり多くの質問を運転手さんに向かってぶつけた。なんの返事もなかった。当然のことだ。私は狼に押さえられた子羊のように、最後の力を搾り出して、大声で叫んだ。それでも反応はなかった。戻ってきたのは山の響きだけであった。それも当然といえば当然なことだ。なるほど、ここではすべてのことが当然のように行われているようだ。   -------------------------------- <ガンバガナ ☆ Gangbagana> 中国内モンゴル出身、東京外国語大学地域文化研究科博士後期課程在籍、内モンゴル近現代史専攻。 --------------------------------   ☆このエッセイは、2007年度渥美国際交流奨学財団年報に投稿していただいたものを、筆者の許可を得て再掲載しました。   ☆会員のマイリーサさんより、下記の書籍をご寄贈いただきましたのでご紹介します。   小長谷有紀・シンジルト・中尾正義 編 地球研叢書「中国の環境政策:生態移民―緑の大地、内モンゴルの砂漠化を防げるか?」   マイリーサさんの論文「『生態移民』による貧困のメカニズム」も掲載されています。