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2008.12.23
北京オリンピックは、これまで中国が主催した最大級の国際的なイベントであったが、去る8月に無事閉幕した。もう一つ注目されている国際的なイベントは、2010年に開催予定の上海万博である。万博は上海にとって百年に一度の大きなチャンスであるから、市政府は前々から万全な計画を立てており、近年では都市のインフラ整備などを急いでいる。だが、上海にはさらにもっと大きいプロジェクトがある。それは上海をニューヨークやロンドンのような国際金融センターとして建設することである。2006年に公表された上海市政府の計画によると、2010年までに国際金融センターの基本的な骨組みを構築し、2020年には国際的な影響力を持つ金融都市になるとの目標である。
経済発展における金融市場の役割は非常に大きい。中国経済が急速に発展し、国際的な影響力が向上するにつれ、国際金融センターを建設することは必然的なことだ。だが、中国国内で国際金融センターを目指しているのは上海だけではない。上海以外にも、北京や天津、深センなども目指しているとされている。こうした無計画な話はいかにも中国的だと思うが、上海は中国最大の経済都市であり、また外資系企業をはじめとする金融関連企業が最も集中している地域でもあるから、国際金融センターとしての条件が他の都市に比べて一番整っていると言える。しかし、上海もいろいろな問題を抱えている。中でも最も肝心なのは、金融専門人材が不足していることである。
ロンドン市政府が08年3月に発表した「世界金融センター指数」によると、上海は第31位にランクされている。「優秀な人材と活気のある人材市場」がランキングを影響する重要な要因となっているが、上海には国際的なレベルに達した金融関連の専門人材は一万人未満だという。
人材不足の問題を解決する方法の一つは、自分で育成することである。上海には何十の大学も所在しているが、金融分野における専門的な教育と研究は依然としてかなり弱く、充実してきたのは1990年代後半のことであった。ここ数年は、金融への関心と需要がますます高まっている。私が勤めている上海財経大学では、もうすでに財務や会計、証券、保険、国際金融などの学科が入試の難関となっている。それでも供給が需要に追いつかないから、上海の各大学や大学院が競って金融専門の学生募集規模を拡大しようとしている。中でも一番注目されているのは上海交通大学の「上海高級金融学院」である。
今年の9月に開校された「上海高級金融学院」は、上海市政府が世界に通用するような高級金融人材を育成するために上海交通大学に委託して作った大学院である。高級金融学院への出資金は5億人民元にのぼり、施設や教育内容、教授陣などは海外の一流の大学と同じレベルを目指している。ただし、学部を持たず、主に修士と博士を育成する。5年後には、毎年500名の卒業生を送り出すような規模となるが、それだけではまるで焼け石に水のようで、上海の人材不足解消にはならない。
そこでもう一つ可能な方法は、海外から直接、必要な人材を採用することである。もともと、上海が必要としているのは大学の卒業生よりも金融業界の経験者であり、また欧米の一流金融機関に働いている中国人元留学生がたくさんいるから、その手は前から考えられていた。だが、こうしたエリートたちはあまり母国に戻ろうとしていなかった。給料などの待遇を考えると雲泥の差があるからだ。
しかし、今回の米国に端を発した金融危機は、上海に人材獲得の絶好のチャンスをもたらした。リストラの波が欧米の金融業界に押し寄せる中、上海市金融当局は、底値を狙うつもりで海外の優秀な金融人材を積極的に取り込むと決めた。12月初め、そのための大規模な募集団が上海から出発した。行く先は、ニューヨークとシカゴのほかに、ロンドンも含まれている。募集団には上海に拠点を置く27の金融機関が参加しており、募集人数は約200人規模で、専門分野は銀行、証券、保険、投資信託、資産管理、リスク管理など多岐にわたる。
この数ヶ月で、ウオール街だけで何万人の失業者が出ているから、上海市政府の今回の募集活動はかなり期待できるだろう。しかし、優秀な人材が導入されても、上海に長期的に定住する保証はどこにもない。そもそも、上海市の戸籍の取得は他都市と比較して困難であるため、優秀な人材を引き留める環境が整っていない。元留学生にとっては、その多くが外国の定住権あるいは国籍を持っているから、戸籍制度の影響はあまりないが、子供の教育、医療サービスなどが問題となっている。香港やシンガポールに比べて高い個人所得税も大きな壁となっている。これらの問題だけを考えると、上海がニューヨークやロンドンのような国際金融センターになるまでは、まだまだ時間がかかりそうだ。
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<範建亭(はん・けんてい) ☆ Fan Jianting>
2003年一橋大学経済学研究科より博士号を取得。現在、上海財経大学国際工商管理学院助教授。 SGRA研究員。専門分野は産業経済、国際経済。2004年に「中国の産業発展と国際分業」を風行社から出版。
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2008.12.16
11月末、タイのバンコクで政権の退陣を求めて国際空港占拠事件が起きました。前代未聞のこの事件の背景をレポートします。
ご存知かもしれませんが、この事件の背景には2つのグループの対立が潜んでいます。
まず市民団体PAD。タクシン元首相に反対するグループです。タクシン政権の政策で職を失った都市部のビジネスマン、利権や権力を奪われた実業家、特権階級、エリート層が支持母体となっています。2007年8月の首相府占拠から始まったPADの大規模な抗議行動は、憲法を修正しタクシン氏の政界復帰を可能にしようとする前政権の打倒を目指すものでした。11月末の空港占拠の大胆な行動もPADによるものです。
もう一つはタクシン元首相の支持派。タクシン元首相が打ち出した貧困層の救済や農村部の振興政策により農村部の支持を集めました。国民の人口の4割を占めると言われるグループで、PADより数の多いグループです。そのため、選挙になればPADが負けてしまうという限界から、PAD側は首相府や今回のような国際空港の占拠行動に出たのです。
ところで、この二つのグループにはシンボルカラーがあることをご存知でしょうか。PADは黄色で、タクシン元首相の支持派は赤になっています。「黄色」は国王の生まれた曜日である月曜日の色で、「赤」はタイの国旗にもある色で、国家を意味しています。テレビでこの2つのグループの集会を見ればお分かりになるかと思いますが、それぞれ黄色いシャツと赤いシャツを着て抗議運動をしています。
この色分けは、抗議運動する人達だけではなく、一般市民にまで広がり、色を使って自分の立場を主張するようになりました。元々タイの人は色を使って自分の信念や気持ちを表す傾向があります。一週間の各曜日にも色があり、月曜日が黄色、火曜日がピンク、水曜日が緑、木曜日が橙、金曜日が青、土曜日が紫、日曜日が赤となっていて、各曜日にその日の色を身につけると運気が上がると信じています。2006年プミポン国王の即位60周年の年には、国王の誕生日が月曜日であることから、敬愛を表すために、毎週月曜日にシンボルカラーである黄色の服を着る習慣が始まり、町中黄色い服に染められ、一時的に黄色い服が品切れ状態にまでなりました。PAD側が黄色をシンボルカラーにしたのは国王への敬愛ぶりを強く表し、そういう主張をしたいからだと考えられます。
対立が高まった11月に、赤いシャツを着て大学に行くと、もしかしてタクシン派なのかと聞かれてしまいました。また、「学者=反タクシン派」という一般的な理解があることから、ある日、勤め先の大学に「爆弾を仕掛けた」という脅迫電話までがかかってきたこともありました。結局ただのいたずら電話でしたが、その事件の後、身の安全のため自分の立場を隠すため、黄色と赤以外の服を着る職員が増えたそうです。
私の勤め先には反タクシン派の人が多いのは確かです。しかし、タクシン元首相を支持する人も少ないながらいます。10月に大規模なデモによる犠牲者が出た時に、学部の教授会の決定により公務員・職員に1週間の喪服着用の推奨期間がありましたが、それに反発して、わざと赤い服を着る職員もいました。これまでにはないタイ社会における対立がシンボルカラーの使用とともにおきています。
しかし、11月末のPADによる国際空港占拠は、極めて異常な行動だと思う人がほとんどです。このことによりPADに対する国民の支持が離れ始めたという感もあります。国の信用と威信を大きく傷つけてしまったPADの行動を非難し、黄色の服を着る人が少なくなったような気がします。また、黄色のシャツを着ている人を嫌って、近寄りたくないという人も増えてきました。最近、平和を訴えるグループが登場し、黄色の代わりに平和を意味する白の服を着ようという動きまで出てきました。
そして、先週、タイの政界にまた新しい動きがありました。憲法裁判所の命令でソムチャイ政権が崩壊したため、野党だった民主党主導の連立政権が誕生する公算が大きくなりました。PAD側にとっていいニュースですが、タクシン派にとっては望ましくない結果になりました。今後しばらくはPADの抗議運動の代わりに赤いグループの抗議運動があるだろうと専門家が言っています。
同僚である日本人の先生にこう言われました。タクシン派ではない民主党政権になったら、しばらく黄色のシャツも赤いシャツも着ないことにしよう。身の安全のため。
この対立はまだまだ続きそうです。タイに遊びにいらっしゃる皆様、服の色選びにご注意ください。
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<カタギリ、カノックワン・ラオハブラナキット(ノイ)☆ Katagiri, Laohaburanakit Kanokwan (Noi)>
タイ、バンコク生まれ。チュラロンコン大学文学部学士、筑波大学地域研究科修士修了。筑波大学文芸言語研究課応用言語学博士取得。専門は、言語学、日本語教育。現在、チュラロンコン大学文学部日本語学科助教授。SGRA会員。
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2008.12.12
今年はどういう訳か病院と縁のある年だった。私のみならず家族の分も含めて内科(3箇所)、外科、眼科、耳鼻科(2箇所)、皮膚科、さらに救急外来と入院及び転院、あげく救急車にも2回も乗ったり。領収書もどっさり。通院した科の名前だけで総合病院ができそうだ。
うんざりする程の病院通いの中で「これは改善して欲しい」と強く思ったことがある。それは病院の内装で、患者視点のものが少ないように感じる。
まず色のお粗末さ。衛生面を重視する観点から白を基調とするのはわかるけれど、どこもかしこも白。そして蛍光灯の白。新しくできた病院だとパールを使ったりして少しは変化もあるけれど、基本的にペンキ塗りの白。これは総合病院や古い個人医院にも多い。見た目が寒々しく、待合室にいると時間が長く感じる上に、緊張感までが加わってくるようだ。夜間、救急外来に付き添いで行き、廊下で待たされた時は周囲の電気も消えて物寂しく、気分の落ち込みに拍車がかかった。また数年前、外科のリハビリ棟にやはり家族の付き添いで行った時、廊下が全て白一色で何とも憂鬱になったことがある。季節は冬。窓から見える風景もロの字の建物に囲まれた枯れ木だけ。リハビリで歩行練習する人達も変化のない同じ所を何度も歩くのは面白くないだろうとため息をついたものだ。
そして待合室に至っては白一色で「他に見るものが何もない」こと。ニセモノでもいいので観葉植物を一つ置いておくことがどれだけ安らぎになるか。できればクリスマス等の季節に応じた飾りつけもあるともっと良いのだけれど、そこまでは余裕がないのかもしれない。病院は患者だけでなく、付き添いや見舞いの人も利用するところだが、そうした点への配慮がまだ欠けているように感じる。
次に入口の段差とスリッパの問題。小規模の個人医院に多いが、入口で内履きに履き替える。これがお年寄りや障害者には大変な障壁となる。体をかがめて靴を脱ぎ、スリッパに履き替える。まずこれが一苦労。入り口に椅子や手すりがないので、片足状態になる時にふらつく。車椅子の利用者の場合は車椅子から降りて歩き、段差をまたぐ必要が出てくる。一人で歩けない人は介助の人が必要となり、家族やヘルパーの都合も考えて通院しなければならない。(医院のスタッフは手伝い方がわからないのか、忙しいのか手を貸さないようだ)段差が低い場合も高い場合もこうした人々にとっては重労働だ。そして建物の中ではスリッパで歩くため滑りやすい。靴を家の中と外で履き替えるのが日本の伝統だが、高齢者や障害者は足元が不安定なのにスリッパに履き替える必要性がどこにあるのだろうか。最後の関門が元の靴への履き替え。特に混雑時は目も当てられない。玄関いっぱいに脱がれている靴の中から、他人の靴を踏まないよう、足にアクロバットのような動きをさせて自分の靴までたどり着くのは至難の業だ。病院は病気の人が行くところなのに、どうして病人、とりわけ主要な顧客である高齢者と障害者に優しくないのか不思議でならない。わずか数センチの段差が大きなハードルとなっていることを、毎日見ているスタッフは気づかないのだろうか。
内装に色を使うことはそれほどお金のかかることに思えないが、どうだろうか。無機質な壁を楽しい壁画で埋める為に、コンペ形式で美大生や一般からの公募してみるのも良いだろうし、ペンキの塗り手も例えば学生のボランティア活動として学校に募集してみれば反応がきっとあると思う。マンネリ化しがちな総合学習の内容も充実するのではないか。「地域学習」を目指している学校教育にはぴったりではないか。色彩心理学の観点からしても剥き出しのコンクリートの壁が病人と家族にとって良いものでないのは明白だ。蛍光灯の光の中で顔色は沈んで見え、また緊張を気づかぬ内に強いられる。重病の患者を支える家族はただでさえ気持ちが張り詰めているのだ。それを和らげるような内装にすべきではないか。最近でこそ入院患者に木目調の家具を使用する病室も出てきているが、一般の病室でなく、差額ベッド代が必要とされる特別室だったりして道の険しさを感じる。
しかし一方でこうした点に配慮する所も現れている。私が現在通院している内科では(オフィスビルにあるためか)靴を履き替える必要がなく、パステルの淡い色でソファや受付のカウンターが彩られている。診察室のドアもユニークな木目があるもので、更に待合室にリラックス系の音楽が静かに流れている。2時間近く待たされることもあるが、本や雑誌も沢山あるのでそれほど飽きない。最近はモニターを設置し、「病気一口メモ」的な情報を流す所もある。また薬局でも同じような工夫をしている。ここまで充実させなくても、ちょっとした工夫で病院の雰囲気は大きく変わるのに・・・と思いながら私は今日も病院通いをしている。
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<太田美行(おおた・みゆき)☆ Ota Miyuki>
東京都出身。中央大学大学院 総合政策研究課程修士課程修了。シンクタンク、日本語教育、流通業を経て現在都内にある経営・事業戦略コンサルティング会社に勤務。著作に「多文化社会に向けたハードとソフトの動き」桂木隆夫(編)『ことばと共生』第8章(三元社)2003年。
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2008.12.09
結びに代えて: 証言者、その「記憶」に出会った人々の「アリラン」の歌
アジア太平洋戦争期には日本軍の基地が存在し、米軍占領期間には米軍の通信施設があり、今は自衛隊の通信施設がある宮古島の野原岳に、2008年9月、日本軍「慰安婦」のための碑が建てられた。 碑の除幕式に2年間の調査過程で証言をしてくれた多くの証言者が駆けつけてくれたが、そのうち、歌を歌いたいと3人の女性たちが名乗り出た。子どもの頃、自分を可愛がってくれた朝鮮の女性たち、当時は苦しい思いをしていたことは知らないで「アリラン」の歌を教えてもらったが、今度は宮古島の歌を「慰安婦」の方に捧げたいと。
当日の会場は、歌を歌いたいと駆けつけてくれたおばあさんたち、証言調査に参加してくれた地元の方々で朝からたくさんの人々で賑わった。ところが、歌どころではなかった。なんと除幕式当日なのにまだ碑は完成されていなかったのである。石材屋さんは、まだプレートを岩にはめこんでいなかった。そして、「こうすればもっと綺麗ではないか」などと話し合っているのである。私も日本から来ていた人々も、それにはびっくり。「もう、これ以上綺麗ではなくてもよいですから、早く、早く進めてください!」叫ぶかのように声をかけたが、相変わらず「慎重」で「ゆっくり」。我慢できなくなった私や実行委員会のメンバーは、会場を掃除し、花飾りなどを必死で運んだ。すると、宮古島の人々は、「除幕式は1時だから間に合うよ。洪さんは力もちだね。花は重いよ。ゆっくりね、間に合うからさ」と笑って話しているではないか。泣きそうな気持ちだったが、除幕式の10分前にようやく碑が完成。それが宮古タイムだった。
幕がようやく掛けられると、この日のために「アリラン」を初めて学び練習したという宮古高校吹奏学部の高校生たちが、ゆっくり「アリラン」を演奏してくれた。賑やかだった空間が静かなメロディーに包まれ、完成したばかりの碑にかけたばかりの幕を、除幕した。高校生たちの「アリラン」の歌を聞いていると、安心したせいか、いつのまにか自然と涙が流れてきた。振り返ってみると、一緒に宮古島に来た韓国や日本からの参加者はもちろん、先ほどまでせいいっぱい碑のプレートをはめこんでいた石材屋さんまでもが泣いていた。皆が一つになって泣いていた。このように一つの心になれるということに驚いた。
次は、宮古島の方々から元「慰安婦」の被害者に花束贈呈があったが、元「慰安婦」朴順姫さん(パク・スンヒ)は、その花束を、自分たちを覚えてくれた与那覇さんに渡した。それから先日、歌を「慰安婦」の方に捧げたいと駆けつけてくれた3人のおばあさんたちが宮古島の方言で歌を歌った。その場に集まった地域住民たちによって、静かな合唱として響いていった。
朴さんは家族に迷惑になるのをおそれ、証言を避けてきた女性である。自分を歓迎してくれる島の人々、かつてこの島にいた「慰安婦」を忘れない人々の暖かい気持ちに囲まれ、碑を手で触り、亡くなった人々が「安らかに眠ってほしい」と短い一言を残した。そして、今の感動は、言葉にはできないと、突然、「アリラン」の歌を始めた。碑の完成もはらはらしながら見届けていた私たちは、除幕式の打ち合わせもできず式に挑んでいた。朴さんの「アリラン」は予測もつかなかったことだった。その歌声は、涙でところどころ躓いたのだが、歌声に合わせて宮古島の高校生たちがそのメロディーを演奏してくれた。通訳者であった私も、彼女の途切れた「アリラン」の声には涙を我慢することができず、マイクを持ったまま泣いてしまった。涙で歌を歌う「慰安婦」の声が通訳者にも聞こえなくなっていくと、いつのまにか会場の皆が、合唱してくれた。その歌にあわせ、元「慰安婦」の方々の多くが好んだ「キキョウ」の花を参加者の皆が碑の周りに植えた。そしてすべての式が終わると、朴ハルモニが20名あまりの高校生たちを一人一人、ありがとうと抱いていた。式が始まった時から終わるまでの2時間、皆がともにうたい、ともに泣いた「アリラン」の歌のある空間。それが、2008年9月7日の除幕式の出来事である。
かつて「慰安婦」と呼ばれ差別されてきた被害者の女性、それを「見た人々」そして、その「見た人々の記憶を聞く人々」が共に歌う「アリラン」が、私にとっては、今も生き続けている主体の声として、お互いの痛みを「共感」してこそ現れる具体的な歴史、文字や形には刻み切れない、しかし、はっきりとした身体に刻み込まれた、一人一人の歴史そのものとして聞こえてきた。
そして、この一人一人の小さい歴史は、琉球新報や沖縄タイムスのような沖縄の地元新聞はもちろん、朝日新聞、東京新聞により東京に、共同通信の発信により様々な地方新聞やJAPAN TIMESにも報道された。韓国にも6社の新聞社により世間に知られ、KBSによる取材も行われた。しかし、除幕式が終わった今、もっともうれしいのは、あの宮古タイムである。除幕後も、さらなる作業が進み、碑の建立後の建立が始まった。碑の周りに植えた「キキョウ」の花に毎日水をあげ、掃除をする住民も出てきた。南の小さい島、ここは、日本の「民族の聖地」ではない。しかし、そこから発信する人々の歌声のようなメッセジーは確実に、「民族」を掲げ、戦争を生き抜いた人々が、経験したからこそ戦争に反対する心を伝える場所である。それは、「慰安婦」を記憶することで始まったが、「反日」ではない。それは、真の平和を求める人々の思いそのものである。私は、この小さい島での出来事が、日韓の反目の歴史を人権の観点から乗り越え、人々の心を結んだら小さな、しかし、確実な第一歩であると信じている。
除幕式の写真をここからご覧ください。
このエッセイの前半2編は下記よりご覧いただけます。
「アジアに一つしかない碑―宮古島の<慰安婦>のための碑建立までを中心にー(その1)」
「アジアに一つしかない碑―宮古島の<慰安婦>のための碑建立までを中心にー(その2)」
洪さんが2008年4月に投稿してくださったエッセイ:
「思いを形にすることについて~宮古島に建つ日本軍「慰安婦」のための碑に係わりながら~」
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<洪ユン伸(ホン・ユンシン)☆ Hong Yun Shin>
韓国ソウル生まれ。韓国の中央大学学士、早稲田大学修士卒業後、早稲田大学アジア太平洋研究科博士課程在学中。学士から博士課程までの専攻は、一貫して「政治学・国際関係学」。関心分野は、政治思想。哲学。安全保障学。フェミニズム批評理論など。現在、「占領とナショナリズムの相互関係―沖縄戦における朝鮮人と住民の関係性を中心に」をテーマに博士論文を執筆中。SGRA会員。
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2008.12.05
日本軍「慰安婦」の碑を建てるまで
沖縄戦における朝鮮人と住民の関係性について調査を進めてきた筆者は、『平良市史』をはじめとする住民の戦争体験の中で語られている「慰安婦」についての証言を参考にしながら、1992年に沖縄の女性史グループがまとめたのべ130ヶ所の慰安所の中、宮古島にあったとされる11ヶ所の「慰安所」を手掛かりに、再調査を実施した。そして、野原の「慰安所」について語る証言者、与那覇博敏氏(1933年生)に出会った。
与那覇氏は少年時代に家の近くに「慰安所」があり、朝鮮人の女性たちがやや離れたところにある井戸まで洗濯しに行き来していたことを記憶していた。彼女たちはよく井戸からの帰りに道端にある木の下で腰をおろして休んでいたという。当時まだ小学生だった与那覇氏は、色白で綺麗な女性たちだったと思って彼女たちに唐辛子をあげたりして喜ばせたという。しかし、戦後、彼女たちが何故宮古島にいたのかを知り、木の下で休んでいた彼女たちの何処か寂しげな姿が、どうしても忘れられなかった。いまや木もなくかつての「慰安所」もない原野になっているその場所に、与那覇氏は岩を置いた。そしてそこに日本軍「慰安婦」のための碑を建てることを望んでいた。私は与那覇氏のことや宮古島の状況を、韓国の梨花大学の名誉教授である尹貞玉先生に伝えた。こうして、日韓の研究者による共同調査団が結成された。
調査は2007年5月に実施され、その後の追加調査などを含め3回行われた。筆者の個人調査を含めると同じ証言者を5回以上訪問した場合もある。これらの調査過程で、与那覇氏を始めとする住民の「記憶」に出会った調査団のメンバーを中心に、何の組織も持たないままの募金活動が始まった。
そして、2008年9月、日本軍「慰安婦」のための碑が宮古島に建立された。日本軍「慰安婦」のための碑は、与那覇氏の記憶を留めた「アリランの碑」と、「アリランの碑」の後方に3つの石碑を立て「女たちへ」(韓国語では「平和を愛する人々へ」)という題で、アジア太平洋戦争期に慰安婦とされた女性たちの出身地の11の言語と、今も続く戦時性暴力の象徴として、ベトナム戦時に韓国軍による被害を受けたベトナム女性たちのためにベトナム語を加え、12の言語で追悼の碑文を刻んだものである。沖縄の小さい島、宮古島に、韓国にも、そして他のアジアの被害国にも存在しない碑が建った。それは、「慰安婦」の被害者の問題を、日韓関係の問題として限定してはいない。今現在も続く「武器紛争下の女性への暴力」に抗するために、だからこそ、記憶すべき「現在進行形」の問題として訴える碑である。
そもそも「慰安婦」問題は、はじめて実名で被害を名乗った1991年金学順さん(キム・ハクスン)の「記憶」によって始まった。実名で「慰安婦」であった事実を訴えるのに、半世紀近くの時間がかかった。金学順さんが、自分の身に起きた傷跡を、あえて、公にしたその悲しみは、「謝罪」と「賠償」を言う前に、むしろ、「自分の存在についての肯定」つまり、共に生きた人々、そして今共に生きる人々への「共感」をまずもって願っていたのではなかろうか。私は、いわゆる「民族の聖地」である「西大門独立公園」に、慰安婦のための祈念碑建立に強く反対している独立運動家の末裔たちの動きを見ながら、それを、もう一度考えざるを得ない。 (続く)
○ 洪さんが2008年4月に投稿してくださったエッセイ:
「思いを形にすることについて~宮古島に建つ日本軍「慰安婦」のための碑に係わりながら~」
○ このエッセイの前半:
「アジアに一つしかない碑―宮古島の<慰安婦>のための碑建立までを中心にー(その1)」
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<洪玧伸(ホン・ユンシン)☆ Hong Yun Shin>
韓国ソウル生まれ。韓国の中央大学学士、早稲田大学修士卒業後、早稲田大学アジア太平洋研究科博士課程在学中。学士から博士課程までの専攻は、一貫して「政治学・国際関係学」。関心分野は、政治思想。哲学。安全保障学。フェミニズム批評理論など。現在、「占領とナショナリズムの相互関係―沖縄戦における朝鮮人と住民の関係性を中心に」をテーマに博士論文を執筆中。SGRA会員。
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(2008年12月5日SGRAかわらばんで配信)
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2008.12.02
韓国における「光復会」と「慰安婦」問題
「また、慰安婦問題か。いつまで謝罪すれば済むのか」と、戦争責任問題やアジア太平洋戦争による被害者の声を「反日」とする右傾化を、日本でよく目にする。実は、韓国においても、過去の問題によって現在の日韓関係の妨げになる行動、つまり「反日」感情を煽る行動をしてはいけないとの批判が、若い世代や政治家の発言でよく見られる。問題は、その懸念にあるわけではない。歴史的な研究や省察なしに印象だけで物事を考えようとする無意識が問題である。また、このような右傾化の背後に、利害関係に基づく「自己愛」的な傾向があるのが問題であると、私は考えている。
去る11月3日、32期独立運動関連団体が、「慰安婦」のための祈念館建立に反対する声明文を出した。「戦争と女性のための人権博物館」と称される「慰安婦」のための祈念館は、韓国の「西大門独立公園」内に建設される予定で、ソウル市から建築許可を得たばかりであった。「西大門独立公園」は、植民地時代に、日本に抗して独立運動をしていた方々が拷問を受けた場所で、「民族の聖地」とされているところである。32期独立運動関連団体は、その「民族の聖地」に「慰安婦」の祈念館の建築許可を出したのは「(独立公園内の博物館建設は)独立運動をさげすむことで殉国烈士に対する名誉毀損」と規定した。(『国民日報』(韓国)、2008年11月3日参照)
このような韓国国内の動きは、時代に逆流するものであるとしか言いようがない。「慰安婦」問題は、1996年の国連人権委員会の特別報告者ラディカ・クマラスワミ氏の日本政府に対する勧告、1998年に国連人権委員会で受理されたゲイ.J.マクドゥガル氏の報告書などにより、国際的にも女性に対する深刻な人権侵害であったことが知られることになった。米国下院、カナダ、オランダ、ヨーロッパ議会、つい最近は韓国国会でも同様な勧告決議が出された。10月30日には国連の自由人権規約委員会が日本政府に対して、審査報告書及び勧告をだした。その中で「慰安婦」問題に対し、「生存している慰安婦に十分な補償をするための法的・行政的な速やかな措置」と「法的責任を認め、被害者の多数が受け入れられる形で謝罪」を勧告している。このような日本政府への勧告に世界が注目している理由は、「慰安婦」問題が、ただ単に日韓関係に留まらない「女性の人権問題」として世論化されているからである。
「光復会」の動きは、時代の逆流であると共に、いわゆる「日本軍に性を奪われた女性」を「恥」として捉える、韓国社会の根強い家父長制や男性中心的な考え方を暴露するものである。「独立運動」をした人々のための「民族の聖地」には、「慰安婦」の人々はふさわしくないというのだから。それ対して、韓国の女性団体・人権団体などが相次ぐ抗議文を出しているが、こういう動きにいち早く反応した日本からの原稿が、11月5日、韓国のハンギョレ新聞に掲載された。中原道子 早稲田大学名誉教授の投稿原稿である。本原稿は、「慰安婦」問題が単に日韓関係の問題ではなく、国際的な人権問題であることを主張した上、次ような言葉で締めくくった。
日本軍の性暴力被害をうけた一人一人の女性の苦しみを記憶し、 全世界の戦時性暴力の被害者を悼み、 二度と戦争のない平和世界を祈ります。
実はこの締め言葉は、去る9月7日に宮古島に建った日本軍「慰安婦」のための碑文である。2007年、韓国、日本、沖縄、そして、世界各国の人々と協力して沖縄宮古島に「慰安婦」を悼み、その記憶を永遠に未来の世代につたえるために追悼碑「女たちへ・平和を愛する人たちへ」を建立した。そして、上記の碑文を「慰安婦」とされた女性たちの故郷の12の言葉で刻んだ。オーストラリア、中国・台湾、グアム、インドネシア・マレイシア、日本、韓国、ミャンマー、オランダ、タイ、フィリピン、東チモール、ベトナムの言葉である。この運動に参加し中原道子教授は、国際的なメッセジーを、今度は、逆に韓国に発信したのである。
本稿では、このような韓国の状況に対して、むしろ、日本からの発信の拠点となっている「宮古島における慰安婦のための碑」の建立過程・除幕式の様子などを伝えることにする。(続く)
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<洪ユン伸(ホン・ユンシン)☆ Hong Yun Shin>
韓国ソウル生まれ。韓国の中央大学学士、早稲田大学修士卒業後、早稲田大学アジア太平洋研究科博士課程在学中。学士から博士課程までの専攻は、一貫して「政治学・国際関係学」。関心分野は、政治思想。哲学。安全保障学。フェミニズム批評理論など。現在、「占領とナショナリズムの相互関係―沖縄戦における朝鮮人と住民の関係性を中心に」をテーマに博士論文を執筆中。SGRA会員。
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(2008年12月2日SGRAかわらばんで配信)
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2008.11.25
今は、世界的な規模で百年一度の金融危機にあると言われるが、タイムリーにも渥美財団の評議員で、新生銀行社長の八城政基先生から、何故このような危機が起こったかというお話を伺う機会があった。ご講演を伺って、大変勉強になった。金融に関する知識がまったくない、言語学を研究する北京出身の私が直感できる金融危機は物価の高騰と株式市場の暴落である。
日本は二度目である。前回は2004年アテネオリンピックの時で、今度は北京オリンピックの最中にまた東京にやってきた。この4年間に北京も東京も物価がかなり高くなったと実感している。もちろん、東京は北京ほど激しくはない。物価の高騰というと、まず「頭に来るのは最近の住宅価格だ」と中国人ならだいたいそう思っているようである。何故かというと、住宅費は食費や交通費などと比べて、生活費のかなりの比重を占めているからであろう。2004年前後に6000元/平方メートルで購入したマンションが、今年になって15000元/平方メートル近くまで高くなっている場合も少なくない。毎月の給料でどれぐらいの面積を買えるのかという、冗談半分悩み半分の話も時々耳に入っている。確かに、今20代30代の若者たちが北京にマンションを買うには、親からの援助なしにはほとんど不可能というのは事実である。近年、政府は市民の交通代などを減らそうといろいろな対策を出していながらも、それは住宅費の高騰に比べて、まさに「杯水車薪」(馬車に載せた薪が燃えているが、その火を消すには一杯の水ぐらいでは何の役にもたたない)である。
こんな状況の中で、2006年は中国の株式市場は非常に望ましい時期に恵まれていた一年であった。この一年で、株式に何の知識もない爺ちゃん婆ちゃんも少なくとも投資金額の2倍の利益を獲得したと言われている。2007年の春節のお休みの後、ますます多くの人たちが株式市場に投資し始めたが、5月30日に激落した。そして10月17日から今日までずっと続いている株式市場の低迷は、若い投資者にとってすごいショックである。一方、まだまだ株式市場の回復、そして中国の経済発展に自信を持っている投資家も少なくないようである。
2008年は中国にとって決してオリンピックの開催のようなよいことばかりの年ではなかった。年初の大雪災害、5月の四川大地震、そして9月10月に発生したメラミン事件や他の食品安全に関する一連の事件で、中国政府はより有効な経済・食品安全政策を求められている。
● 八城評議員にご講演いただいた「渥美奨学生の集い」の報告
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< 劉 健(りゅう・けん)☆ Liu Jian>
中国の山東省生まれ。山東大学日本語学科学士。北京外国語大学北京日本学研究センター修士。現在北京大学日本語言語文化研究科博士課程に在籍し、交換研究員として早稲田大学日本語教育研究科に留学中。関心・研究分野は日本語漢字熟語サ変動詞の文法的特徴・日本語漢字熟語と中国同形語との対照研究など。
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2008.11.21
[農村でも街と同様な生活を]
今年も中国の東北地域では降水量が多く、農民たちにとっては収穫のよい年であった。物質的な向上は農民たちに精神的な向上をもたらしていると言える。ウンドル村から3キロ離れた解放村では、華麗なレストランとカラオケ、休憩所、銭湯などを完璧したお店ができた。この村だけではなく、条件があう多数の村(黄花村、長発村、永発村)には、このような娯楽施設ができている。農民たちは農産物の収穫の忙しい季節を終え、一年の疲れを取るのに、こういった場所を利用するようになった。
今年10月12日(筆者が中国滞在中)、北京で閉幕した中国共産党第十七期中央委員会第三回全体会議は、『農村の改革と発展を推進するいくつかの重要問題に関する中国共産党中央の決定』を採択し、農村の改革と発展に向け、新たな戦略的政策を打ち出した。
会議は改革と革新を大々的に推進し、農村の制度整備を強化し、近代的な農業を発展させ、農業の総合的な生産能力を高めること、農村の公共事業の発展を速め、農村社会の全面的な進歩を促すとしている。さらに2020年までに、農業の総合生産能力を著しく向上させ、国の食糧安全と主要農産物の供給を効果的に保障し、農民の一人当たりの純収入を2008年より倍増させるという。農村部の住民がすべて教育を受ける機会が持てるようにし、基本的な生活保障や医療・衛生制度をさらに健全なものにすると強調している。これらをみると、この地域の農民たちは良い土地や政策に恵まれていると言えるだろう。
[農薬に関する知識の重要性]
ウンドル村では、農薬の大量使用が人体に害をもたらすことを知らない人々がいる。今は、農業の高収穫だけを考え、化学肥料や殺虫剤、除草剤などを大量に使用する現象がでている。
ウンドル村では、昔、農民たちは化学肥料を使用せずに、自然の肥料によって農地を営んでいた。それに毎年、植えた農産物に対して、手作業で丁寧に「除草」作業をし、無農薬の農産物を作っていた。このような手作業は1980年代末まで続けられていた。
しかし、今は、無農薬の農産物が少なくなった。現在、多数の家庭は、農産物の高収穫を望み、また労働力を節約するため、すべての雑植物を大量の「除草剤」で「殺している」という。自分が食べる目的で自家の周辺に植えた野菜にさえ化学肥料や殺虫剤などを使用しているという。農薬の使用について農民Bさんから聞いたところ、Bさんは自分の庭園に自家用のため植えた野菜に化学肥料を使用しなかったことで奥さんと喧嘩になったと話していた。Bさんの奥さんは農薬について、その量が多ければ多いほど農産物の収穫がよいという考えを持っているそうである。このような考えを持っている人は少なくないという。
このように一部の農民が農薬に関する知識を全く持っていない状況が浮き彫りになってきた。化学肥料や殺虫剤を作っている人、あるいはそれを販売している人たちは、農民たちに農薬に関する知識をどれほど伝えているのかが疑問として残った。
○ 食の安全問題
中国の高度経済成長に伴い、農業が増収し、農村も著しい発展を成し遂げ、よい成果をあげているという喜ばしいことがある一方、食の安全問題が懸念されている。
人間にとって、食の安全は最も重要である。最近、中国のミルク粉に標準値を越えたメラミンが含まれていたことが中国メディアによって報道された。多くの業者が同様な手口でメラミンを故意にミルクに入れていたことが明かされた。この事件が人々に警報を鳴らし、食の安全に対する意識を高めるきっかけになったらと願ってやまない。
人々はこうした中で何を信じればよいのか。ある大学の教師は、「われわれは安全な食品、無農薬の食品を求めており、値段が高くても買って食べている。ときに、安全だと言われている食品、無農薬の食品を買い求める客で長蛇の列までできている」という。このように食の安全を求める人がいる一方で、食の安全に関する知識を持たない人もいる。これからは、「食」を作る人、「食」を買い求める人への知識伝達、食の安全意識への教育が必要となってくるだろう。
黒龍江省でのフィールドワークの写真
写真の中に出ているウンドル村の小学校の再建について書いた包聯群さんのエッセイ「火事で焼失した小学校の再建をみんなの手で実現させることができた」
このエッセイの前半
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<包聯群(ホウ・レンチュン)☆ Bao Lian Qun>
中国黒龍江省で生まれ、1988年内モンゴル大学大学院の修士課程を経て、同大学で勤務。1997年に来日、東京外大の研究生、東大の修士、博士課程(言語情報科学専攻)
を経て、2007年4月から東北大学東北アジア研究センターにて、客員研究員/教育研究
支援者として勤務。研究分野:言語学(社会言語学)、モンゴル系諸言語、満洲語、
契丹小字等。SGRA会員。
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2008.11.18
言語接触や言語変容に関する調査のために中国黒龍江省に、9月から10月にかけて約1ヶ月ほど滞在した。調査地は主に大慶市ドルブットモンゴル族自治県、チチハル市の泰来県が中心だった。移動手段は鉄道や車を利用した。ちょうど農民たちが農産物を収穫している忙しい時期でもあった。各地域内での移動は車だったので、これらの地域の変化を直に自分の目で確かめることができ、また農民たちとも話をする機会があった。
○中国東北地方の中都市(城鎮)の変化
2003年の調査を最後に、黒龍江省大慶市ドルブットモンゴル族自治県に足を運んだのは5年ぶりのことだった。街は見違えるほどの変化だった。道路が整備され、大きなビルが道路の両端に立ち並ぶ。その数は倍増し、かつての古い街並みは変貌してしまった。新しい商店街ができ、多くの人でにぎわっていた。夜になると、多種多様な電灯が住宅のビル全体をてりつけ、華やかな街並みとなっていた。現在の街は昔の何倍にも拡大され、マンションを買う農民も増えているようである。本県の領域では、石油の採掘ができることが経済発展に直接結びついていると市民たちが話していた。
黒龍江省泰来県では石油の資源がないため、経済的に他の県とある程度の差がみられるが、それでも、村と村を繋ぐ道路が整備されるなど、昔と比べると、発展しつつあることが見うけられた。このように、地方都市の外観からでも中国の経済発展の一角がみられるのである。
地球温暖化の原因となる二酸化炭素(CO2)を排出しない太陽光の自然エネルギー利用への転換は、環境やエネルギー資源に対する積極的な取り組みととらえられるが、中国東北地域では太陽エネルギーの使用が普及しつつある。各家庭の給湯、シャワーなどで使われている。これもまた5年前には見られなかった風景である。街にしろ、農村にしろ、屋根の上に横1メートル以上、縦60cm程度(?)の管を横に並べているのがはっきり見られる。太陽熱温水器の値段は、一番安いものが3000人民元(約5万円程度)であり、一般的な家庭でも設置できる手ごろな値段と言われている。業者が村まで行ってチラシ(“東北王太陽エネルギー”)を配っている事情をみると、太陽エネルギーを使用する家庭がさらに増えているのだろう。環境問題が世界的に取り上げられている時代では、これは地球環境を守る一つの手段と言えよう。
○中国東北地方の農村の変化
言語調査の傍ら、農村の生活を体験し、その変化を感じ取ったことも今回の収穫の一つだと言える。黒龍江省チチハル市泰来県ウンドル村で行われたインタビュー調査をもとに中国農村の変化をみてみよう。
筆者:今の生活をどう思いますか。
農民Aさん:今は昔と比べると、毎日“過年”(お正月)みたいだ。今は、毎日お米や麺類を食べられるようになった。さらに魚、鶏肉、豚肉をいつでも買って食べられるしね。70年代末まではお腹いっぱいに食べられず、いつも空腹感が残っていたので、大変だったよ。新しいトウモロコシが食べられる秋になる前に、それまで食べていた食べ物がすでになくなってしまう。今、トウモロコシを食べる人は一人もいないよ。
筆者:それはよかったね。
農民Aさん:そうですね。これだけじゃないよ。今はね、農民の土地から税金を取られなくなったよ。逆に国から一畝の土地に300元以上の耕地用の支援金をくれるのよ。昔なら、絶対想像できなかった。収穫があってもなくても税金を払っていたよ。
筆者:そうですか。
農民Aさん:うん。今はね、満足しないことがないよ。今年からね、数年間をかけて、国が土で建てた家を壊す計画が出ているよ。誰かが(煉瓦で)新しい家を建てると、国から一万元(農村で100平方メール近くの家を建てるには安くても大体8万元ほどかかる)の補償があるよ。家を建てたい人は登録をすでに済ませて、これからその政策が実行されるとみんなが言っているよ。
筆者:けっこうすごいですね。
農民Aさん:そうだよ。今、ウンドル村では、農業以外、酪農用の牛を育てる家庭も増えているよ。国の支援策があるからね。今農村でも忙しいときに人を雇って農業をやっているよ。昔の地主みたいね。勤勉の人は結構お金を儲けているよ。
筆者:そうですか。
農民Aさん:農民たちは新しい家を建てる際にも、先進的な設備を備えるように工夫している。街にあるシャワー、暖房、水道などの設備がすべてあるよ。
筆者:なるほど、これをみると、昔の農村のイメージと大分違いますね。農村と思えないほどの変化ですね。
農民Aさん:そうでしょう!!(自慢気に)。
(次号に続く)
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<包聯群(ホウ・レンチュン)☆ Bao Lian Qun>
中国黒龍江省で生まれ、1988年内モンゴル大学大学院の修士課程を経て、同大学で勤務。1997年に来日、東京外大の研究生、東大の修士、博士課程(言語情報科学専攻)を経て、2007年4月から東北大学東北アジア研究センターにて、客員研究員/教育研究支援者として勤務。研究分野:言語学(社会言語学)、モンゴル系諸言語、満洲語、契丹小字等。SGRA会員。
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2008.11.11
5つの国立大学が世話人となって開催する「『留学生30万人計画』と『短期外国人留学生支援制度』の行方」という会合があったので行ってみた。各大学の短期留学プログラム担当者の会だったようだが、私は以前から、5年とか10年とかかけて日本の大学から学位を取得するための留学ではなく、1年未満の短期間の青少年の国際交流をもっともっと大量に増加すべきだと思っているので、短期留学の現状がどうなっているかを知りたいと思ったからだ。主催者から、参加者は全員、短期留学プログラムの資料を提出すべきということだったので、私も渥美財団とSGRAの紹介の後に、今年から始めた北京・ソウルでの面接による奨学生の現地採用について説明し、最後に次のようなコメントを付け加えた。
[短期留学推進への期待]
留学生30万人計画は、勿論悪くない。世界中の若者が、国境を越えて異文化に接する機会が増えれば増えるほどいい。でも、何故か、現場の方々は、あんまり喜んでいないように見受けられる。30万人なんて無理、10万人計画でも問題が山積みだったのにと。勿論喜んでいる人もいる。大きな政策があれば予算がつくから、その恩恵に預かろうと思っている方々。昨今は、ビジネス日本語や企業への就職斡旋や日本企業に相応しい高度人材の育成が大流行り。でも、少子高齢化の日本を救うための留学生受入政策って本物ですか?これから景気が悪くなったら企業の採用も激減するのでは?そうなったら外国人の方が使い捨てになる可能性が高いかも。青少年の国際交流は、異文化に接触することによって個々が成長し、異文化が融合することによって新しいものを創造するところに、その使命と醍醐味があるのでは?通信と交通手段が発達して、時間の流れが早くなった今日、人生の一番大切な20歳代の10年間をかけて日本の大学の博士号を取得しにくる留学生は、これ以上多くはならないでしょう。短期留学の促進にとても期待しています!短期留学促進には、奨学金よりも、英語(中国語も?)による授業、単位交換、宿舎の整備、リスクマネジメントなどがもっと必要なのではないかと思います。
セミナーの前半には、文部科学省高等教育局学生支援課留学生交流室の方による留学生政策の説明があった。留学生30万人計画骨子の3つのポイントは、1)「グローバル戦略」展開の一環として2020年を目途に留学生受入れ30万人を目指す。2)大学等の教育研究の国際競争力を高め、優れた留学生を戦略的に獲得。3)関係省庁・機関等が総合的・有機的に連携して計画を推進、ということであった。最後に短期留学のデータが紹介されたが、2008年5月1日の時点で、留学生総数118,498人に対して、短期留学生は7.1%の8,368人。出身国は、留学生全体では圧倒的にアジアが多いのに対し、短期留学では中国韓国の次にアメリカ、台湾、ドイツ、フランス、タイ、イギリスと、欧米諸国からの留学生も多い。そして文科省の奨学金のひとつの枠である「短期留学推薦制度」については、1996年より2007年まで、採択者数は2千人前後とあまり変化しないが、応募者は2,464人から10,207人に急増している。尚、文科省による「短期留学」の定義は、3か月以上1年未満の留学である。3か月以上とするのは、それ以上滞在するためには留学ビザが必要になるので、留学生ビザによって正確な統計がとれるからだと思う。
セミナーの後半は参加した38機関が、それぞれ1分間で自分の短期プログラムを紹介した。部外者として聞いていると、国立大学と私立大学の差が明確で興味深かった。そもそも、この会合のテーマにある「短期外国人留学生支援制度」というのは、文科省のひとつの施策を意味するらしく、国立大学は、当然のことながら、その恩恵にどうやって与るかが大きな関心事らしかった。また、正確には把握できなかったが、この制度は大学間協定による交換留学に使われることが多いようでもあった。この施策の恩恵を受けることのできるプログラムを「短期プログラム(短プロ)」というらしいのであるが、留学生を1000人以上受け入れている大きな国立大学が、20人とか30人の短プロだけを1つだけ紹介しているので驚いた。このような大学には、それ以外にも1年未満の短期留学生がたくさん来ていると思うのだが、そのような留学生たちはどのように把握されているのだろう。また、留学生30万人計画の中では、そのような「短プロ」以外の短期留学の推進はどのように行われているのだろう。
一方、私立大学は、文科省の「短期外国人留学生支援制度」とはあまり関係なく、独自にいろいろな短期プログラムを工夫しているようだった。中には、自由研究を主体とし、キャンパスのない留学生受入をしているという報告もあり、ちょっと心配になった。一般的には、国公立大学も含め、地方にある大学も、それぞれ工夫して短期留学を推進しようとしているようであるし、何よりも日本に短期留学したいという希望者が増加しているようであった。奨学金がなくても来るという希望者も多いようで、むしろ宿舎の不足が問題という報告もあった。
このセミナーでは、参加者全員が発言することになっていたので、私の番がまわってきた時に、次の2点の感想を述べた。
まず、現在、日本に居る留学生11万人の留学生のうち8千人が短期留学というデータは、日本で受け入れている短期留学生の実態を正確に表していないのではないかという問題提起をした。日本で受け入れた1年未満の留学生の数を把握するのに、ある年の5月1日に、たまたま短期プログラムで来日して滞在していた人を数えても、今、グローバルに激増している青少年の国際交流の実態を把握できないように思う。しかも、3ヵ月未満の超短期留学や各種の交流プログラムを含めると、1年間に短期留学で日本にやってくる青少年の数は、8千人よりはかなり多くなるであろう。30万人計画を進めるために、好都合なトリックになってしまうかもしれないが、現在の国際社会のダイナミズムをもう少し正確に表すことができるデータを使った方がいいのではないかと思う。
そして、各大学の報告を聞いて、一番気にかかったことは、大学間協定を結んで交換留学プログラムを立ちあげても、海外から日本への留学したい希望者は増えているのに、日本からの海外留学の希望者が非常に少ないという、複数の大学からの報告だった。私が「日本全体、大学生までもが、とても内向きになっている。在学中に一度留学しなければ卒業できないというような、制度的な工夫が必要なのではないか」と、部外者の特権で勝手な発言をすると、大学の担当者の皆さんは大きく頷いて賛同してくださった。
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<今西淳子(いまにし・じゅんこ☆IMANISHI Junko>
学習院大学文学部卒。コロンビア大学大学院美術史考古学学科修士。1994年に家族で設立した(財)渥美国際交流奨学財団に設立時から常務理事として関わる。留学生の経済的支援だけでなく、知日派外国人研究者のネットワークの構築を目指す。2000年に「関口グローバル研究会(SGRA:セグラ)」を設立。また、1997年より異文化理解と平和教育のグローバル組織であるCISVの運営に加わり、現在英国法人CISV International副会長。
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