SGRAかわらばん

エッセイ199:李 鋼哲「論語読みの論語知らず」

日本で「論語読みの論語知らず」ということわざを聞いたことがあります。

 

 
一般的には、本質的な内容を理解できないまま、枝葉末節にばかりこだわるような人、言葉の定義はわかってもそれが持っている深い意味がわからない人、または意味がわかってもそれを行動に表わさない人に向かって発せられる言葉でありまして、決して良い意味に使われるものではありません。

 

しかし、私がここでこのことわざを持ち出したのは別の意味があります。つまり、『論語』をはじめとする中国古典のことわざや熟語などが日本人の日常生活でもよく使われているにもかかわらず、そのもとは中国の古典であることを知らない日本人が結構いるということです。日本人と話をしている時に、私は時々ことわざを使いますが、日本人が聞いて「李さんは日本のことわざをよく知っていますね」と「誉めて」くれるので、「いや、これは元々中国のことわざですよ」と答えると、「え~、中国にもそんなことわざがあるの?」と驚かれます。「おいおい、日本は中国五千年の文化を学んできたのではないですか」と返事すると、「あ、そうか」と、うなずく。

 

 
もちろん、日本に独自のことわざがあることは言うまでもありませんが、漢字とともに日本に伝わった中国文化が現在の日本文化の基盤になっていると言っても過言ではないでしょう。「東アジア文化圏」というときに、中国文化がその中心または基盤にあることに異論はないでしょう。しかし、今の日本人(とりわけ若者)は日本文化と中国文化の繋がりをあまり分かっていないように思われます。抽象的には分かっているかも知れませんが、具体的になると分からない人が多いようです。その原因は、近代化以来、日本人の目はほとんど欧米に向いていたからだと思います。。

 

 
もちろん、日本人は学ぶ精神が強いので、必要であれば中国文化であろうと、西洋文化であろうと、みんな取り入れて自分たちの文化を創り出すという優れた面があります。しかし、千五百年以上前から海を渡って取り入れてきた中国の文化は、日本文化の基本的なDNAになっていると言えるでしょう。西洋の文化を取り入れたのは、せいぜい二百年程度に過ぎません。また、西洋文化を取り入れたからといって、中国文化の影響が消えてしまったわけではありません。

 

 
ここで、もう一つ言いたいのは、「中国の文化」と言っても、今の中国と合致しない面が沢山あると思います。例えば、「儒教文化」と言えば、それは中国の思想・文化だと思う人が多いでしょう。しかし、私はそうではなく、かつては東アジア(日本・中国・朝鮮半島・ベトナムなど)の共通文化になっていたと思います。つまり、歴史のなかで、「儒教文化」は東アジアの「公共財」となっていると私は思います。現在の東アジアの国々を回ってみると、「儒教文化」を最も強く感じられる国は朝鮮半島、その次は日本であり、「儒教文化」を生み出した中国は、いつの間にかそれが喪失しているように見えます。例えば「礼儀」作法を取ってみても、日本人や韓国人は礼儀を重んじていますが、中国人の場合それが足りない場合が結構あります。それは、現代中国が礼儀作法を封建的なものとして批判(「批林批孔」:70年代後半に林彪と孔子を批判する運動)したり潰したりしたためでしょうが、何が原因であろうと現実は現実です。したがって、「儒教文化」というのは「いい意味」でも「悪い意味」でも、それは東アジアの共通文化だというのが私の考えです。

 

 
もう一歩進んで言うと、近年「東アジア共同体」論が取りざたされている東アジア地域では、何か共通する文化や価値観が存在するのかどうかという問題に我々は直面するのです。共通の価値観というとすぐに「民主主義」、「人権」を普遍的な価値観であると思い浮かべる人が多いかも知れませんが、もちろんそれはそれで重要な価値観ではありますが、人間の価値観はそれだけではないのだと私は思います。とりわけ、東アジア地域では「東洋の文化」というのがあり、「東洋の価値観」というのもあるのだと思います。

 

 
日韓アジア未来フォーラムの韓国側主催者である未来人力研究院の宋復先生の著作『東洋的価値とはなにか:論語の世界』(韓国語)という本を読んだことがありますが、そのなかで、先生は西洋の価値観は近代資本主義の合理主義や理性的な思考様式に基づいた価値観であり、そこには人の顔が見えないと批判した上で、論語の世界は「仁」や「徳」を重んじる人間主義を中心とした価値観であり、東洋のみならず、人間社会の「普遍的な価値」が宿っていると指摘しています。

 

 
昨今の金融危機の影響で首を切られた「派遣労働者」の扱いなどの問題、即ち資本主義が高度に発達し経済的に豊かになった日本で、この人達が人間扱いされないような事態を見ても、資本主義の思考様式に基づいた価値観では、人類社会の発展に限界があり、人間主義や人本主義に基づいた価値観を尊重する世界を創り出すことが求められているのだと思います。その意味で、二千五百年前に生まれ、現在も読まれている、孔子の『論語』思想を改めて勉強する価値があるのではないでしょうか。それが人間社会の「普遍的な価値」として認められるかどうかは別として、少なくとも我々に共通の価値観を模索する手がかりにはなるかも知れません。

 

———————————————
<李鋼哲(り・こうてつ)☆ Li Gangzhe>
1985年中央民族学院(中国)哲学科卒業。1991年来日、立教大学経済学部博士課程修了。東北アジア地域経済を専門に政策研究に従事し、東京財団、名古屋大学などで研究、総合研究開発機構(NIRA)主任研究員を経て、現在、北陸大学教授。日中韓3カ国を舞台に国際的な研究交流活動の架け橋の役割を果たしている。SGRA研究員。著書に『東アジア共同体に向けて―新しいアジア人意識の確立』(2005日本講演)、その他論文やコラム多数。
———————————————

 

2009年3月31日配信