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2026.07.23
大ヒットSF映画『プロジェクト・ヘイル・メアリー』を観た。
人類滅亡の危機を救うため、たった一人で宇宙へ送り出された科学者ライランド・グレースの物語である。太陽のエネルギーを捕食する未知の微生物「アストロファージ」の出現により、人類は滅亡の危機に瀕する。唯一影響を受けていない恒星「タウ・セチ」を調査するため「プロジェクト・ヘイル・メアリー(神頼み計画)」が立ち上がる。
グレースは突如参加を余儀なくされた、しがない研究者の一人だ。強制的に11光年先の片道切符の任務を託されてしまう。
タウ・セチで彼が遭遇したのは、別星系の惑星エリドを救うため飛来したロッキーだった。姿形も文化もまったく異なる異星人との「未知との遭遇」に二人は互いに驚くが、数学や科学を共通語とし、少しずつ意思を通わせ信頼を築いていく。互いの目的を理解し合った2人は、それぞれの故郷を救うという使命のため、命を懸けて協力することになる。
物語の終盤、彼らはついに故郷を救う方法を見つける。グレースはロッキーから帰りの燃料を分けてもらい(当初は片道燃料しかなくカプセルのみを地球へ送還する計画だった!)地球へ帰還できることになったが、帰路でロッキーが死の危機に瀕していることを知りヘイル・メアリー号の進路を反転させ「友」を救う道を選ぶ。
地球だけでなく、惑星エリドも救ったグレースはエリドで教師として暮らし、ロッキーやエリドの子どもたちと新たな人生を歩み始める。
誰もが幸福な結末だと思うだろう。私も映画館を出た直後はそうだった。
映画館を出た時、友人と「この映画は今どきだよね」と話した。恋人でも家族でもなく「友」のために世界を救う主人公。軍人でも英雄でもない、少し頼りない科学者。現代だからこそ共感される物語なのだと思ったのだ。
物理の「ぶ」の字も知らない私には、科学考証の面白さは分からない。スター・ウォーズのフォースと同じ「なんかスゴイ物質」でしかない。
それでも私は夢中になった。
何より、ロッキーという存在である。見た目は岩。5本脚で這い回る。初登場では、映画『エイリアン』のフェイスハガーかと思い、「キモッ」が率直な感想だった。しかし映画が進むにつれて、私はこの岩の塊を好きになっていた。知的で、ユーモアがあり、友のためなら命さえ投げ出す。
今ではロッキーのフィギュアが欲しくてたまらない。しかし日本ではなぜか売っていない。調べてみると、公式サイトではロッキーの3Dプリンター用データを無料公開していた。時代は変わったね。「まずは3Dプリンターからお買い求めください」と言わんばかりだ。一緒に映画を観た友人は、本当に20万円の3D プリンターを買ってしまった。
この映画について文章を書こうと思った理由は、ロッキーが可愛いからではない。私の中で最後まで消えなかった違和感があったからだ。
私の中で引っ掛かったのはラストシーンだ。映画館では幸福な結末だと思ったが、時間が経つほど、「本当に幸福なのか」という疑問が強くなった。私は批評を読み始めた。科学、異文化理解、孤独、現代社会論。どれも面白かった。しかし決定的だったのは、町山智浩氏による新約聖書からの解読だった。
英語圏の考察や原作小説へと読み進めるうちに、日本や中国ではあまり見かけないキリスト教に基づく解釈が行われていることを知った。「ヘイル・メアリー」とはカトリックの祈り「アヴェ・マリア」の英語表現で、アメリカンフットボールで「神に祈るしかないような最後の賭け」の意味で試合終了間際の一発逆転の超ロングパスを指すという。映画のテーマソングとして象徴的に使用されるHarry Stylesの『Sign of the Times』。2017年に一人のポップスターが歌った恋愛曲が、映画ではいかにもキリスト教的な「時代の徴(しるし)」という題名とともに、更なる意味を帯び始める。
興味深いのは、救済の描き方が一様ではないことだ。
劇中でプロジェクトを主導するリーダー「ストラット」の人物像には、彼女が人類を救う使命を最優先し、必要であれば個人の意思さえ切り捨てる。そこには、使命の完遂に邁進するプロテスタント的倫理観を見て取れる。一方、グレースとロッキーは互いのために犠牲を引き受け合い、人格的な交わりを深めていく。その姿は、どこかカトリック的な救済観を思わせる。
さらに面白いことに気付いた。ロッキーを救うため引き返すグレースの姿は、聖書外典『Quo Vadis』の逸話を反転させた構図にも読める。彼はキリストというより、その名の通りGrace(恩寵)そのものとしてロッキーのもとへ救済に向ったのではないか。
そのように読み始めると、映画は単なる英雄譚ではなく、「救済とは何か」を問い続ける物語へと姿を変える。「友のために命を捨てること、これよりも大きな愛はない。」という新約聖書の言葉を知ったとき、「今どき」だと思っていたものは、2千年ものあいだ語り継がれてきた物語でもあったことに気付く。
それでもなお、ラストシーンの答えは出ない。
グレースは幸福なのか。
故郷を捨て、新しい世界を故郷として受け入れることは、本当に救済なのか。
音楽を消してあの場面を眺めたら、少し恐ろしい光景にも見えてしまう。異星でたった一人、異星人に囲まれて満面の笑みを浮かべる主人公の姿に違和感をもつのではないだろうか。
結局、私は映画館を出たときと同じ問いの前に立っている。
ただ一つ違うのは、あの日の私は、この映画を「今どき」の物語だと理解した。
しかし今では、その「今どき」という言葉そのものが、私には最も捉えがたいものになってしまった。
聖書から2千年語り継がれてきた物語が、これほど自然に「今」を語ってしまうのだとすれば、現在というものは、私が思っていたほど「今どき」という一言では語れないのかもしれない。
<銭 海英/QIAN Haiying>
2022年度渥美奨学生。中国出身。東華理工大学外国語学部卒業。明治大学院教養デザイン研究科博士前期課程・博士後期課程修了。博士(学術)。現在、成城大学文芸学部・日本大学法学部・神奈川大学外国語学部で非常勤講師を務める。明治大学リベラルアーツ研究所客員研究員。専門は近代中国教育思想史。
2026年7月23日配信
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2026.07.16
私がほぼ毎日利用しているJR東日本中央(快速)線では、6月にホームドアの運用がいよいよ始まった。10年以上この路線を利用しているが、さまざまな理由による遅延は日常茶飯事だ。なかでも「人身事故」が多発する路線として知られ、運転見合わせや遅延を知らせるアプリの通知が届くたびに、「この問題は、いつ解決されるのだろうか」と疑問を抱いてきた。同時に思い出していたのが、いち早くホームドアの整備に踏み切った韓国の事例である(もちろん、東京メトロをはじめ、すでにホームドアを導入している鉄道会社がたくさんあることは承知しているが、本稿では中央線と韓国の事例に焦点を当てたい)。
韓国・ソウルの地下鉄のホームには、ほぼすべてホームドア(韓国では「スクリーンドア」と呼ばれる)が設置されている。ソウルを訪れたことのある読者なら、一度は目にしたことがあるだろう。ホームドアは天井近くまで設置されており、線路はほとんど見えない。多少窮屈に感じることはあっても、線路へ転落する不安を感じることはない。
韓国では、ホームドアの整備が短期間で急速に進んだ。2000年代後半から、ソウル地下鉄公社や韓国鉄道公社(KORAIL)は数百億円規模の予算を投じて設置を進めた。その背景には、一つの衝撃的な事件がある。偶然にも私は、その事件の遺族として社会的なキャンペーンを展開した当事者と直接会う機会があった。本稿では、その経験について紹介したい。
2003年、ソウル中心部の人気観光地、南大門市場最寄り駅である会賢(フェヒョン)駅で事件は起きた。当時、市場で店を営んでいた女性がホームで地下鉄を待っていたところ、駅に電車が進入した瞬間、後ろから男に背中を押された。女性は線路に転落し、進入してきた電車にはねられ、その場で死亡した。事件は韓国社会に大きな衝撃を与え、ホームの安全対策への関心が一気に高まった。すでに一部の駅で試験運用されていたホームドアにも注目が集まったが、この事件だけで設置が急速に進んだわけではない。
2011年、私は駆け出しの新聞記者としてソウル麻浦(マポ)警察署を担当していた。同署はソウル西部を管轄し、映画化もされた連続殺人事件の舞台となった地域でもある。そのため、(良い意味でも悪い意味でも)ニュースバリューの高い事件・事故が多く、個性的な警察官や刑事も少なくなかった。女性として初めて強力犯対策チームを率いた刑事や、後に国会議員となる女性幹部もいた。
その麻浦警察署で治安対策を担当していたのが、前述した会賢駅事件の被害者の夫、A氏だった。当時の私は、「ホームドア設置のきっかけとなった事件」という程度の認識しか持っていなかった。A氏を訪ねたのも、警察担当記者として幹部へ挨拶回り(韓国でもこれを「マワリ」と呼ぶ)をするためであり、事件について詳しく話を聞こうという意図は全くなかった。
雑談の中で話題はマスコミの役割に及び、A氏は「報道の力を実感した瞬間が何度もあった」と強調した。当初は、初対面の新聞記者への社交辞令のような話だと受け止めていた。しかし、その言葉からは並々ならぬ本気が伝わってくる。不思議なことに、最後まで彼がホームドアについて口にすることはなかったが、その場に漂っていた独特の空気は鮮明に覚えている。
記者室(日本の記者クラブが使用しているものと同様の空間で「記者団」のみ使用できる)に戻り、彼の名前を検索すると、会賢駅事件の被害者遺族でありながら、警察官として勤務を続ける一方、ホームドア設置を求める社会運動の中心人物として活動していたことを初めて知った。
もちろん、ソウル地下鉄公社などが彼の訴えにすぐ応じたわけではない(詳細はチョン・ドゥヨン「自殺手段へのアクセス制限政策の政策過程に関する研究―ソウル市地下鉄のホームドア設置事例を中心に―」(2016年)を参照)。事業者側は、「事件の責任は加害者にあり、莫大な費用や技術的な課題からホームドアの設置は困難」と回答した。国会やソウル市議会でも賛否が分かれた。それでもA氏は、損害賠償訴訟を起こす一方で、積極的にマスコミの取材に応じ、訴え続けた。2005年、ソウル高等裁判所はA氏の主張を認める判決を下し、確定した。地下鉄事業者の法的責任が初めて認められたのだ。
この判決はホームドア設置を大きく後押しした。2006年に就任した新ソウル市長は設置を公約に掲げ、2009年には市内すべての地下鉄駅への設置が完了する。その結果、地下鉄駅での死傷事故は大幅に減少した。2009年には46件だった事故は、2010年以降は年間0~2件まで激減し、人身事故は事実上ほぼ姿を消した。
ここで日本に目を向けたい。中央線で人身事故が発生するたび、私には二つの疑問が浮かぶ。一つは「事故の背景がほとんど報じられないこと」、もう一つは「改善を求める社会的な声が広がらないこと」だ。もちろん、多くの人身事故には事件性がなく、詳細な情報も公表されない。そのため報道が限定的になる事情は理解できる。しかし、中央線では今年3月だけでも6件の人身事故が発生したにもかかわらず、その原因や背景はほとんど語られず、件数だけが積み重なり、やがて忘れ去られてしまう。
中央線でホームドア設置が進まない理由として、予算や技術的な課題、特急列車と普通列車で停車位置が異なることなどが指摘されてきた。確かに現実的な課題だろう。しかし、人命を守ることが最優先課題であるという点に変わりはない。人身事故によって失われる命だけでなく、利用者への影響や鉄道会社が被る損失も決して小さくない。
中央線でもホームドアの設置が始まった現在では、こうした懸念は解消へ向かっているようにも見える。つまり「なせばなる」のだ。これまで鉄道での人身事故を「日常」の出来事として受け止め、その背景を十分に掘り下げてこなかった日本のメディアや、社会全体で改善を求める動きが大きくならなかったことには、いまも複雑な思いが残る。それでも、ホームドアの設置が始まったことは間違いなく前進だ。人身事故が一件でも減り、一人でも多くの命が守られること、それ以上の願いはない。
<尹在彦(ユン・ジェオン)YUN Jaeun>
東洋大学社会学部メディア・コミュニケーション学科准教授。延世大学(韓国)社会学科を卒業後、経済新聞社で記者として勤務(裁判所・警察なども担当)。2021年、一橋大学大学院法学研究科にて博士号(法学)を取得。同大学特任講師、慶應義塾大学メディア・コミュニケーション研究所非常勤講師などを経て2025年、現職。渥美国際交流財団2020年度奨学生。専門は国際関係論およびメディア・ジャーナリズム研究(政治社会学)。
2026年7月16日配信
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2026.07.08
「その研究、何の役に立つの?」という質問は、研究を行う上で避けられず、多くの研究者が聞き飽きているのではないだろうか。とりわけ、応用や製品化を前提としていない「基礎研究」に携わっている研究者の多くにとっては、決して楽しい質問ではないだろう。私は内心、
「愚問ですね」
と返したい気持ちもあるが、さすがに過言であり、かつ思考の放棄である。ましてや、公的資金や財団資金など、他人のお金を使って研究を行っている以上、説明責任がある。私はこれまで、ゴキブリやカメムシ、ショウジョウバエなどに関する研究を行ってきたため、申請書などを書く際には「害虫駆除への応用」というような謳い文句を使ってきた。嘘ではない、が、日頃このようなことはほとんど考えていない。
近年、研究が「役に立つ」かどうかは社会的にも非常に重要なテーマとなっている。「選択と集中」に代表されるように、「役に立つ」研究を優先し、基礎研究を軽視する傾向が世界中で見られるからである。日本の研究力低下の要因として基礎研究の規模縮小は度々取り沙汰されており、2025年ノーベル生理学・医学賞受賞者の坂口志文氏は、近年の日本の研究環境について警鐘を鳴らしている。
「基礎研究に対する支援の厚みが、昔と比べて薄くなってきている」
坂口志文
また、2016年ノーベル生理学・医学賞受賞者の大隅良典氏は、大隅基礎科学創成財団を設立し、自ら基礎研究支援に取り組んでいる。基礎研究をとりまく環境は、多くの研究関係者が危機感を抱いている問題である。
「国に頼らず、社会が大学の基礎科学研究をサポートする仕組みを創りたい」
大隅良典
基礎研究はなぜ重要なのか。また、その重要性がなぜ社会に十分浸透しないのか。実用的側面と、研究という文化に関わる哲学的側面の両方から考えてみたい。
基礎研究の重要性は、一言で言えば「無用の用」に尽きる。一見、役に立たないように見えるものが、実は重要な役割を果たしているという、道家思想であり、思いがけない形で「役に立つ」ことのある基礎研究の本質をよく表している。現代では生活の一部となった衛星利用測位システム(GPS)は、アインシュタインの相対性理論なくしては機能しない。しかし、アインシュタインが相対性理論を発表した1905年から、GPSの開発が始まった1973年の間には半世紀以上の隔たりがあり、当時このような応用がなされるとは考えていなかったであろう。アインシュタインは自然の摂理を追究していたのであり、「役に立つ」かどうかは重要ではなかったのである。思いがけない基礎研究の点と応用研究の点がつながる例は枚挙にいとまがない。科学技術の発展には基礎研究と応用研究の両方が不可欠であり、基礎研究は応用研究の土台となるのである。この点について、2012年ノーベル生理学・医学賞受賞者の山中伸弥氏は次のように述べている。
基礎研究は種をまく研究で、応用研究は育ってきた芽を大きく咲かせる研究
種をまく基礎研究がなければ、想像を超える大きな花は咲かない
山中伸弥
つまり、人間は、何が「役に立つ」かを事前に予測できるほど賢くないということである。一見すると悲観的な見方かもしれないが、私にとって、この上なく開放的である。やってみなければ分からない。そして、それがいつ、どのように「役に立つ」のかもまた分からないのだ。
一方で、基礎研究に携わっている立場からすると、この理由だけでは不十分とも感じる。そこには、研究という文化や哲学に関わる側面があると考える。
話は逸れるが、人間とその他の生物を分けるものは何だろうか。一見単純な問いであるが、人間特有と考えられていた性質は次々と他の生物にも見出されており、明確な答えを出すのは意外と難しい。私はその一つとして、「知の蓄積と継承」を挙げたい。人間以外の生物は、直接接触した個体(例:親から子へ)から知識を得ることはできても、500年前の知識にアクセスすることはできない。一方、人間は書物や記録を通じて、1000年以上前の思想に触れることができる。人間は知を蓄積し、それを後世に継承し積み重ねることで発展してきたのである。その根底には、知の集積(知識欲)とその継承(共有欲・顕示欲)が人間にとって根幹的な欲求であり、人類の発展を支えてきた重要な要素の一つではないだろうか。そして、基礎研究とはその欲求の最大の現れなのではないだろうか。
私は生物や自然世界が好きであるとともに、研究というプロセスに惚れ込み、研究の道に進むことを決意した。私の個人としての知的好奇心を満たしてくれる行為であるとともに、研究という文化や哲学に惹かれたからである。長い年月の中で、途方もない数の人々が抱いた小さな疑問への探究、一人一人の貢献は限りなく小さい微々たるものであっても、その集積によって、現在の人間の英知が形作られているという点に研究の哲学がある。私もその一人でありたい。私の小さな貢献がいつか、誰かの新たな疑問のきっかけとなれば、それは私の基礎研究が真に「役に立つ」瞬間であろう。
そんな研究ロマンに思いを馳せながら、私は今日もゴキブリを眺めるのだ。
<野田 智仁(ノダ・トモヒト)NODA Tomohito>
1996年、日本生まれ。2025年度渥美奨学生。2018年英国エクセター大学環境生命学科卒業。2021年東京大学大学院理学系研究科生物科学専攻前期(修士)修了。2026年3月、同博士課程後期(博士)修了。ゴキブリをはじめとした、様々な昆虫と微生物の共生関係についての研究を展開。2026年4月より沖縄科学技術大学院大学(OIST)進化ゲノミックスユニット・日本学術振興会特別研究員(PD)として研究活動を継続。
2026年7月9日配信
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2026.07.04
異国で暮らし、学び、働きながら、場所に触れるということを長く考えてきた。最初の頃、その感覚はいつも少し遅れてやってきた。電車を降りた後に街の匂いが身体に届き、誰かの話し方の癖や、道端に置かれた植木鉢の並び方を見て、ようやくその場所の輪郭がうっすらと立ち上がる。言葉を理解することより先に、身体のほうが何かを受け取っているような瞬間があった。
中国で育ち、日本で生活を始めてから、学ぶことと生きることはずっと切り離せなかった。授業に出て、文章を書き、制作をし、仕事をする。その傍らで新しい住所に慣れ、近所のパン屋に行き、どの季節にどの空気が流れるかを覚えていく。異国で暮らすとは、大きな出来事の連続というより、小さな調整の積み重ねである。その反復のなかで、自分の感覚も少しずつ書き換えられていった。
「場所を表現する」という行為は、土地の風景や歴史を視覚的あるいは物語的に提示することとして理解されてきた。しかし、その表現が、必ずしもそこに生きる人びとの経験と重なっているとは限らない。外部からの視点によって整理されたイメージが先行し、生活の実感が後景に退く場面は少なくない。
博士研究でのフィールドワークを通じて見えてきたのは、場所はあらかじめ存在する対象ではなく、人びとの語りや身体的経験、日常の反復のなかでその都度立ち上がるものだという点である。場所にいる人間の語りに耳を傾けると、語られるのは作品の意味や評価ではなく、生活の変化や違和感、言葉になりきらない感覚であることが多い。そうした断片の集積が、場所のあり方を形づくっている。
雪の深い土地を歩いた時、道そのものより先に、身体がその場所の厳しさを理解した。海辺の町では、観光のイメージとして消費される風景とそこで生きる人の時間の流れが、重なりながらも決して溶け合わないことを知った。都会の下町では、狭い路地や店先の何気ないやりとりのなかに、制度や観光の言葉では捉えきれない気配が息づいている。こうした経験を経て、自分の研究で扱う「雰囲気」という概念──人と環境のあいだに生じる、言葉にしにくいが確かに感じ取られる感覚──が、場所を考えるための重要な手がかりとなった。
越後フィールドワーク。住民の方と4メートルを超える雪の上を歩いた日に撮影。
モノづくりの行為こそ自分の内側を形にすることだと考えていた時期がある。けれども、土地を歩き、人の話を聞き、異なる背景を持つ人びとと関わるうちに、表現はもっと静かで、もっと不確かなものになっていった。誰かの記憶の断片、口調の揺れ、場に漂う沈黙。そうしたものに触れるたびに、作品は何かを強く語るものというより、すでにそこにある感覚を傷つけずに掬い上げるための器に近づいていった。重要なのは完成した作品を提示することではなく、人びとが自らの感覚や記憶に気づき、それを差し出すことができる状況をいかにつくるかである。
寒い日に自宅へ招いてくださり、お餅をごちそうになった。
この問題意識は、「文化交流」の捉え方にも及ぶ。文化交流は一般に、異なる背景をもつ人びとが共通の認識に到達する過程として語られる。しかし、言語や生活習慣、価値判断の基準は容易には一致しない。同じ場所を歩き、同じ風景を見ていても、何に目を留め、何に意味を見出すかは人によって異なる。知らない土地で人に会い、話を聞く時、調査者である前に、ひとりの異邦人として立っている自分がいる。発音のわずかなずれ、言い回しの硬さ、沈黙の置き方の違い。そのどれもが、自分がその土地の内部に完全には入り込めていないことを教えてくれる。
同時に、その距離があるからこそ見えてくるものもある。自然で、そこに暮らす人にとっては説明の必要もない営みが、外から来た目には強い輪郭をもって現れることがある。文化交流とは差異を解消することではなく、差異を抱えたまま関係を持続させることだと考えている。理解が一致しないままでも、同じ場に居合わせ、互いの見方に触れ続けること。その反復のなかで既存の前提がわずかに揺らぎ、自分の見方が特定の文脈に依存していたことが浮かび上がる。場所は単層的なものではなく、複数の層が重なり合うものとして感じられるようになる。
場所も文化交流も到達点はなく、終わることのないプロセスである。ずれを引き受けたままリレーションを継続させること。その継続のなかに、これまで見えていなかったものが立ち現れる契機があるのかもしれない。自分と土地のあいだ、言葉と感覚のあいだ、自他文化のあいだ。いくつもの距離を抱えたまま、そこに留まり続けること。それが、いまの自分の立っている場所である。
<路夢瑶(ロ ムヨウ)LU Mengyao>
中国出身。京都芸術大学情報デザイン学科講師、武蔵野美術大学ソーシャルクリエイティブ研究所客員研究員。2025年度渥美奨学生。武蔵野美術大学大学院基礎デザイン学専攻博士前期課程修了、修士号(造形)取得。同大学造形構想専攻博士後期課程修了、博士号(造形構想)取得。2026年4月より現職。アーティスト・コレクティブ 1220 (LuM;YangH) としても活動。研究分野はクリティカルデザイン、デザインリサーチ&リテラシー、エスノグラフィー。場所をテーマに、現象学的美学と人文地理学の視点からpractice-led researchに取り組んでいる。
2026 年7月2日配信
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2026.06.30
私の研究は、「失業」をテーマとしている。労働する意思と能力を持ちながら就業していない状態を指すこの概念は、現代社会において広く共有された常識でもある。しかし、「失業」とは何か、そして「仕事」とは何か——博士論文の完成を前に、アカデミアという労働市場への参入を意識しはじめた今、そうした問いが以前よりも身近なものとして浮かび上がってきた。
研究者という仕事は、境界線が曖昧な仕事の一つかもしれない。「出勤」と「退勤」が判然とせず、教育・研究・社会貢献といった異なる営みが混在している。学生時代は論文の執筆も資料調査も思考の時間も、「学び」の一部として自然に受け止めていた。一方、近年は研究だけでなく、学内業務、非常勤といった「仕事らしき仕事」が増えるにつれ、「研究」と「仕事」のバランスが求められ、改めて学問を職業として志すとはどういうことか、以前よりも考えるようになった。
私が研究するのは、社会主義国家である中華人民共和国における「失業」に対応する政策の歴史的展開だ。一度「失業という現象を消滅させた」計画経済体制において、「失業」という概念は一般的に存在していなかった。「類似する現象」が大規模に現れる際には「失業」の代わりに、国家による労働配分を待つ「待業」という言葉が用いられていた。この一文字差の言葉の背後には、制度や政策の変化とそれに影響する社会観念も含まれる。今日では「失業」も社会主義中国において一般的な用語となり、失業率の動向も広く報道されている。しかし私はむしろ、一度「失業を消滅させた社会主義国家」が「失業」に対するある種社会的な「忍耐力」がどのように成立してきたのかという点に好奇心をかき立てられている。そうした好奇心から、博士論文では、計画経済期という現在からはやや想像しにくい社会において、言葉や観念に影響されながら形成されてきた失業対策の歴史を辿った。
そもそも「仕事」という言葉自体が、単純なものではない。日本語には「仕事」「働く」「労働」などがあり、英語には job・work・labor の区別があり、中国語にも「工作」「労働」など複数の言い方が存在する。普段はそれほど意識せずに使っているこれらの言葉のあいだにも、微妙な差異がある。
たとえば、おそらく多くの研究者に影響したというマックス・ウェーバーは1917年の講演『職業としての学問』のなかで、学問という「仕事」の複雑さを論じた。ウェーバーが用いた Beruf という語は、生計を立てるための職業という意味にとどまらず、それに従事し続けるあり方や、ある種の志向のようなものを含んでいる。しかしウェーバーの議論は、学問を理想化するものではない。むしろ彼は、大学制度の不安定さや、学問が職業として制度的にも精神的にも不確実な営みである現実を指摘している。そのうえで、こうした条件のもとでもなお学問に向かおうとする人間がいるとすれば、それは単なる職業選択というよりも、ある種の動機によって支えられているはずだと示唆している。講演のタイトルも、日本語では「職業」や「仕事」と訳されるが、英語の vocation は単なる職業にとどまらず、ある種宗教的な志向を含む語であり、中国語でも「志業」や「天職」と訳されることがある。こうした訳語の揺れは、研究という営みが単なる職業として捉えきれない側面を持っていることを示している。
学問に限らず、ハンナ・アレントもまた、こうした概念をより精緻に区別している。『人間の条件』において彼女は、人間の活動的生を「労働(labor)」「仕事(work)」「活動(action)」の三つに分類した。「労働」は生命維持のために繰り返され、消費されていくものを生み出す営みであり、「仕事」は人工的な世界を形成し、一定の持続性をもつ成果物をつくる営みである。そして「活動」は、人と人とのあいだで直接展開される行為であり、人間の複数性と公共性を支えるものとされる。この枠組みから研究という営みを考えると、それは単純にいずれか一つに分類できるものではないように思われる。論文や著作として残るという意味では「仕事」に近いが、制度の中で繰り返し求められる成果や作業の側面は、「労働」にも接近する。また、教育や渥美(国際交流)財団のような場で異なる背景を持つ研究者と接する経験は、研究の「活動」としての側面を実感させる。研究はそのいずれでもありながら、同時にそのいずれか一つに収まるものでもない。
まだ職業としてのアカデミアの世界に入り始めたばかりの自分にとって、学問や教育の重みや深さを十分に理解しているとは言いがたい。ただ、そうした概念の歴史や違いを辿ってみること自体も、「仕事としての研究」の一部なのかもしれない。
これから学問の労働市場に踏み出そうとしている私は、「失業させないための失業の研究」をしているとも言える。研究とは何か、それは仕事なのか。この問いに明確な答えを出すことはできない。ただ、その問いについて考え続けること自体が、今の自分の営みの一部であるように思われる。
<許楽(XU Yue)>
2025年度渥美国際交流財団奨学生。中国福建省厦門市出身。北京大学政府管理学院政治学と行政学専攻、慶應義塾大学法学研究科政治学専攻前期・後期博士課程を経て、現在慶應義塾大学法学研究科助教(有期・研究奨励)。専門は、現代中国政治、比較福祉国家論。
2026年6月25日配信
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2026.06.19
ニカラグアで、来日経験のある画家のマリオさんに描いていただいた素朴画
自分の活動にまつわるものを詰め込んでいただきました
ニカラグアで活動を共にした日本の鍼灸師ご夫妻と再会した。視覚障害のある鍼灸師の夫を妻が支えながら二人三脚で活動されていた。彼らが活動してきたニカラグアやカリブ海の島セントルシアの話に花が咲き、当時の経験が鮮明によみがえった。
ニカラグアは中南米に位置し、西に太平洋、東にカリブ海を望む自然豊かな国だ。私の任地は標高約1000メートルの山岳地帯ヒノテガ県、「霧の街」とも呼ばれる地域だった。首都から長距離バスで山を登るにつれ、次第にひんやりとした空気に変り、やがて緑の山々に雲が降りてくる。気候は低地よりも過ごしやすく、周囲にはコーヒー農園が広がっている。
ホームステイ先は、一人暮らしの美容師の女性で、娘と孫は米国のマイアミに住み、彼女たちと毎日テレビ電話で会話をするのが一番嬉しそうだった。お手伝いの女性もおり、しばしば口げんかをしていたが、それでも「一緒にいること」を大事にしていた。関係の円滑さ以上に、共に生活すること自体に価値を見出す姿勢は、ニカラグアの人とのつながりを象徴するものだった。
私の活動拠点は「カサマテルナ(お産を待つ家)」と呼ばれる施設。遠方に住む妊婦が臨月になると滞在し、陣痛が来ると病院へ向かい、出産翌日に施設に戻ることもあれば、そのまま赤ちゃんを抱いてバスで村へ帰ることもある。施設では医師による妊婦健診やスタッフによる健康教育が行われ、それ以外の時間は比較的自由に過ごしていた。
ニカラグアでは若年妊娠やシングルマザーが多いが、女性たちは非常にたくましく、日本でしばしば語られる出産への不安とは対照的に、出産を恐れる様子はほとんど見られなかった。「Si Dios quiere(神様が望めば)」という、運命を受容する態度を示す言葉に象徴されるように、宗教観とともに家族を最優先とする価値観が社会に深く根付いている。こうした価値観は、仕事や社会活動よりも家族との時間が優先される日常の選択にも表れていた。
その後数年を経て、ニカラグアの隣国エルサルバドルの首都にある国立女性病院の分娩室で活動する機会を得た。印象的だったのは、家族を支えるために医療者たちが国立病院で働くことへの強い職業的な誇りを持っている点と、過去に関わった日本人ボランティアへの信頼だ。過去の日本人の活動は現地に深く記憶されており、その積み重ねが、同じ日本人である私への温かい対応として表れていた。そこには、個々の行為が次の他者との関係性を形づくっていく連鎖が確かに存在していた。
これらの経験から、私が繰り返し実感したのは、「家族」という存在の普遍的な重要性であると同時に、人と人との関わりが時間と場所を超えて受け継がれていくという事実だ。海外で受ける親切は決して偶然ではなく、過去にそこに関わった人々の誠実な行為の積み重ねの結果なのかもしれない。
これは、受けた善意を相手に返すのではなく、次の誰かへと手渡していく「ペイフォワード」の実践のように思える。その連鎖は目に見えにくいが、確実に信頼を蓄積し、文化や国境を越えた関係性を形成していく。誰かの誠実な関わりは、その場限りで完結するものではなく、時間を超えて他者への態度として引き継がれていくものだ。私が現地で受け取った温かさもまた、過去にそこに関わった人々の行為の延長線上にあった。そして今、自分のふるまいもまた、未来に出会う誰かへの関係性を形づくっていくのだと実感している。
鍼灸師のご夫妻はコロナ禍でセントルシアへの渡航が2年半延期になったが、現地の学生たちは待ち続けていたという。視覚障害のある学生に指圧を教え、指圧のなかった国に指圧を根付かせようと活動し、卒業生が対価を得て活動できるクリニックの設立にも尽力された。帰国後、天皇皇后両陛下に拝謁した際、「個々のボランティアの誠実な関わりが、世界の平和につながると信じています」という趣旨のお言葉をいただいたという。この言葉は、私の体験と深く重なり合う。また、渥美国際交流財団による留学生への丁寧なおもてなしも、こうした善意の連鎖を体現するものだ。草の根レベルの個々の小さな関わりが積み重なり、やがて文化や国境を越えた信頼関係を築いていく。そのプロセスこそが、多文化共生社会を支える基盤を形成していく。
世界では国同士の関係が混沌とした状況にあるが、私自身は、これまで受け取ってきた数多くの支えを次の誰かへと手渡していく存在でありたいと考えている。そして、これまで関わってきた人々への感謝を心に留めながら、目の前の家族や関わる人々に対して誠実に向き合い続けていきたい。
<宮内愛(AI Miyauchi)>
千葉県出身。聖路加国際大学大学院ウィメンズヘルス・助産学助教/IBCLC(国際認定ラクテーション・コンサルタント)。2025年度渥美奨学生。
新潟大学医学部保健学科看護学専攻卒業。その後都内地域周産期母子医療センターで助産師として勤務。2021年聖路加国際大学大学院博士前期課程修了、日本赤十字看護大学 国際保健助産学助教勤務。2026年3月同博士後期課程修了、博士号(看護学)取得。2026年4月より現職。国際協力に関心を持ちJICAボランティアの助産師としてニカラグア共和国での2年間の活動経験を有する。研究分野は母乳育児支援および女性を中心とした分娩時ケア。
2026年6月18日配信
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2026.06.12
「まるで自動車教習所みたいだ」という言い方は、言語教育を批判するときによく用いられる。知識や技能をマニュアル化し、型通りに反復訓練するだけだ、という否定的な含意がある。単語や文法を機械的に暗記させる教育への不満、と言い換えてもよいだろう。
実際、「教養としての外国語」は実用的技能とは対極に置かれる。外国語とは本来、異なる文化や思考様式に触れ、自分の世界を広げるためのものと考えられるからだ。そのため、自動車教習所のような訓練的な学習は、表面的で貧しいものと見なされがちだ。
私自身も以前は教習所とは、決められた操作を受動的に身につける場所なのだろうと思っていた。しかし、通い始めてみると、印象は大きく変わった。そこでは、単純な操作技術の暗記以上のことが求められていたのである。
教習所では学科と技能に分かれている。交通ルールや標識、危険予測などについて学び、一定の暗記が必要となる。しかし、それらの知識は、技能教習のなかで初めて具体的な意味を持つ。たとえば、「十分な車間距離を取る」というルールも、実際に運転してみなければ、距離感を身体感覚として理解することは難しい。逆に、技能教習のなかで危険を体験することで、学科で学んだ注意事項が実感を伴って理解できるようになる。教習所では、学科と技能は別々に存在するものではなく、補完し合いながら結びついている。
実際の運転とは、固定された手順を機械的に再現する作業ではない。変化し続ける環境のなかで状況を判断し、知識と身体感覚を結びつけながら行動する営みだ。知識と実践は切り離されておらず、知ることと行うことが相互に結びつきながら深まっていく。その意味で、教習所の学習には「知行合一」に近い側面がある。
以前、私が目の前の操作に集中しすぎて周囲への注意が疎かになっていたとき、教習所の指導員に言われた)。「サッカーの試合を見たことがありますか。選手が見ているボールと、観客が見ているボールは違う。運転では、選手のようにボールだけを見るのではなく、観客のように全体を見なければならないのです」
この言葉を聞いて、運転とは単なる操作技術ではなく、状況全体を把握する営みなのだと気づかされた。もちろん、実際のサッカー選手も、ただボールしか見ていないわけではない。味方や相手選手の位置などを常に把握しているはずだ。それでも、指導員が言いたかったのは、「自分の車だけを見ていてはならない」ということなのだろう。
それは運転だけに限った話ではない。私たちはしばしば、目の前の作業や自分自身のことだけに集中してしまう。しかし実際には、周囲の環境や他者との関係のなかで行動している。自分だけを切り離して存在することはできない。
外国語を学ぶことも同じだ。単語や文法を暗記するだけではなく、その言語を使う人々の文化や価値観、社会との関係のなかに自分を置き直し、他者と関わりながら理解を深めていく営みだからだ。知識を得るだけでなく、それによって自分の振る舞いや考え方そのものが変わっていく。その意味で、言語を学ぶとは、単に情報を増やすことではなく、世界の見え方を変えることでもある。
だから、言語学習はもっと「自動車教習所」であってよいと思う。それは画一的な訓練を意味するのではない。知識を実践のなかで繰り返し用いながら、状況判断や身体感覚と結びつけ、少しずつ自分のものにしていくということだ。
運転が、実際に道路へ出ることでしか上達しないように、言語もまた、実際に使い、失敗し、言い直し、他者と関わる経験を通してしか習得することはできない。そこで重要なのは、「知っていること」と「使えること」との隔たりを、実践によって埋めていくということだ。
そう考えると、「まるで自動車教習所みたいだ」という言葉は単なる批判ではなく、言語学習の本質を言い当てた比喩として捉え直すことができる。
そして、もし新しい言語を学ぶことが、新しい世界の見方や新しい自分の在り方を獲得するプロセスでもあるのだとすれば、教習所のように、知識を実践のなかで繰り返し用いながら身体化していく学習こそが重要な第一歩なのではないだろうか。
<陳 希/CHEN XI>
中央大学経済学部助教。中国貴州省生まれ。天津外国語大学日本語学部卒業、同大学院修士課程修了、桜美林大学大学院言語教育研究科修士課程修了、東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。東京大学東アジア藝文書院特任研究員を経て、2024年より現職。専門は近代中国の言語政策史・思想史。論文「労乃宣と切音字運動」(『現代中国』第96号、2022年)にて、第19回太田勝洪記念中国学術研究賞を受賞。
2026年6月11日配信
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2026.06.05
https://www.reuters.com/ar/world/7SVZ2QGWVVLK3APKKTTIWVJUFE-2026-04-01/
君に正直に話そう。本来私は、「郷に入っては郷に従え」で本当に良いのかを問うつもりだった。この言葉は、他者を尊重するという名目で、自らの個性や信念を抑圧するために使われることがある。さらに皮肉なことに、本来は宗教的背景を持つこの表現が、世俗社会において同調を促す言葉として機能していることも少なくない。
しかし、「郷に入る」ということは、その土地の文化や人々を理解することに他ならず、自らの信念を手放すことではない。一方的に自分の文化を消し去ることでもない。むしろ、それは互いに理解し合いながら、自らを貫くことの力でもある。私はそうした点について議論するつもりだった。そして最終的には、他者を尊重しつつも、迎合や期待に応じた表面的なパフォーマンスに堕することなく、自分自身として在り続けることの大切さを訴えようと思っていた。
しかし、この文章を書いている今この瞬間にも、自らの土地で生きる権利すら奪われ、価値観の問題以前に、「存在 ― Existence and being」そのものが否定されている人々がいる。その現実の中で、「郷に入っては郷に従え」と問うことも、異文化理解を語ることも、自分のアイデンティティに揺るぎなく立つことも、虚しく響く。
なぜなら、文化などお構いなしに土地に踏み込み、その土地を奪い、人々を強制的に追い出し、私たちの目の前で命を奪っている現実があるからだ。それが、今まさにパレスチナで起きていることだ。
この苦しみは、決して今始まったわけではない。およそ78年も前から続き、今なお終わりを見せない。
今朝、私は二つのニュースを目にした。それは、パレスチナの人々が耐え続けてきた不平等の海に浮かぶ、ほんの小さな断片だった。
一つは、ガザでの戦争が始まってから2年、2023年11月にアル・シファ病院の爆撃で家族と引き離され、未熟児のままエジプトに避難した8人の幼子たちが、2年以上を経てようやく戦火の土地に戻ったというニュースだった。それは、戦争の中で希少な喜びをもたらした瞬間ではあったが、私が目を逸らせなかったのは、その子どもたちの中に、自分の母親の顔すら知らず、再会した母の誰であるか分からずに泣く子がいたことだった。それは、あまりに残酷だ。
そして、私がこのエッセイの主題を変えるきっかけとなったもう一つのニュースは、3月30日、イスラエル国会(クネセト)が、パレスチナ人に対し、絞首刑を原則とする死刑制度を定めた法案を可決したというものだった。それは、特定の重大犯罪に限らず、いかなる理由で拘束された場合であっても、パレスチナ人であれば大人であれ子どもであれ適用され、陪審による審理を経ることなく執行されるものである。このような法律が正当化されることが、どうして「法」としてまかり通るのか。どうして、人を殺すことに加えて、その殺害を「法」という名のもとに祝うことが許されるのか。
私は、そのイスラエルの政治家たちがシャンパンで祝い、首を吊る縄を模したピンを胸に付けて、この残酷な法を祝う姿を思い浮かべる。私は問わずにはいられない。なぜ私たちは、このような世界に生きているのか。「すべてが政治ではない」と言う人もいるが、私が立っている場所から見れば、すべてが政治だ。文学でさえも例外ではない。
作家の西加奈子の言葉を思い出す。彼女はエジプトで育った幼少期を振り返り、ムスリムの門番(バワーブ)が「メリークリスマス」と声をかけた瞬間を語っている。その瞬間、彼女も門番も、イスラム教徒、仏教徒、キリスト教徒といった枠、エジプト人、日本人、男、女という区分を超えて、ただ人間同士として、すべての境界を超えて存在していたのだ。
今、君が置かれているその「枠」から一歩踏み出してほしい。そして、パレスチナで起きていることから、目を逸らさずに見てほしい。それは不正であり、非人間的であり、そして紛れもなく残酷な現実だ。
生きている限り、私はパレスチナについて語り続ける。それは、私がパレスチナ人だからではない。確かに私はパレスチナ人ではないし、そこに家族も親戚もいない。だが、これは私にとって、君にとっても、人間としての責任なのだ。
少なくとも、私はそう思う。君はどうだろうか。
<シルウィーディ サラ サイド ムハマド エルサイド
SHERWEEDY Sarah Sayed Mohamed Elsayed >
エジプト・カイロ出身。2017年、カイロ大学日本語日本文学科卒業。2021年、東京外国語大学大学院総合国際学研究科博士前期課程修了。2026年1月、同研究科博士後期課程を修了し、博士号を取得。現在、東京外国語大学、文京学院大学、拓殖大学で非常勤講師を務める。専門は日本近現代文学および翻訳研究。現在は “The (Un)Translatability of the Unseen” をテーマに、言語レベルの翻訳にとどまらず、経験の翻訳という観点から、現代日本文学におけるニューロダイバーシティの表象とその翻訳について研究している。研究の傍ら、日本文学のアラビア語翻訳にも取り組み、「第1回アラブ世界若手翻訳大会」(2020年)および「第2回アラブ世界若手翻訳大会」(2026年)にて受賞。
2026年6月5日配信
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2026.05.21
登下校時にいつも目にする女子大の桜(著者撮影)
2026年3月26日、文化庁による国宝・重要文化財指定の報道発表が行われた。マスコミは新指定の文化財のみを大きく取り上げる慣例があるが、この指定には新指定のみならず、複数回に亘って追加指定を受けた文化財も含まれている。今回国宝に決まった「醍醐寺文書聖教」の文献史料群の94192点は、その追加指定の1つである。
私は2017年度から総本山醍醐寺霊宝館学芸員として、学業の傍らこの国宝指定業務に携わってきた。京都醍醐寺霊宝館に一括所蔵されている「醍醐寺文書聖教」という文献史料は、大正3年(1914)から文化財調査が行われ、平成元年(1989)に初めて国の文化財指定を受けて以来、今回で5回目の追加指定が行われた。その結果、約10万3千点の史料の内、合計94192点が国宝となった。特に今回の追加指定は、現状としては最後の指定であるため、私はアルバイト時代から数えれば醍醐寺の文化財調査歴史の最後の17年間を共にしたとも言える。そして、この指定の年度が私にとって特に意味深いのは、この史料群を用いて執筆した博士論文が合格となった年でもあるためだ。
そこで、今回のエッセイには醍醐寺の国宝指定と博士学位修了の同時達成の節目として、史料調査・歴史研究との出会いに大きく関わった3名の大恩人との思い出を綴りたい。
博士課程で在籍していた日本女子大学(以下、女子大)は、学部の時から「史学」専攻の学生としてお世話になっていたところであり、日本在住の約19年の内18年を共にした場所だ。博士修了となった今も女子大歴は増えつつあり、2/3以上の学科の先生よりも長く居続けることで周りからは「女子大の地縛霊」と称されている。一見、「地縛霊」が皮肉で恐ろしい表現に思われるかもしれないが、「女子大の史学科の居心地良さで長くいてくれている奇特な人」という良い意味で付けられたものなので、個人的には愛着のあるあだ名である。
しかしながら、このように居心地良さを感じている女子大史学科に受験を決めたきっかけは、実は大変意味シンプル(もしくは適当だったかもしれない)だった。韓国で高校生活を送っていた頃、たまたま日本留学経験のある世界史の先生からたくさんの日本の話を聞かされたことをきっかけに、日本史を本場で学びたいという夢が芽生えた。そこで、「日本で骨を埋めるつもりで行きなさい」という父との約束を守るべく、高校卒業と同時に単身で日本へ渡ってきた。最初の1年間は大学選びの年であり、たまたま女子大のホームページで目にした史学科教授(当時)の「永村眞」先生の寺院史研究の紹介文に魅力を感じ、ただそれだけで出願した。女子大に向いてなさそうとの周りからの声もあるぐらい当初は共学志願が強く、女子大は滑り止めで受けようという気持ちの方が大きかった。軽い気持ちで受けた女子大とのご縁が、その後の長い日本での生活において重要な3名の大恩人に出会えるきっかけになるとは思いもせずに。
最初に出会ったのは史学科の近世史・博物館専門教授の吉良芳恵先生で、面接官と受験生の関係だった。吉良先生は面接の場を忘れたかのように、ホワイトボードに博物館名や地域名を書きながら「今度ここに一緒に行こうね」、「永村さんを紹介してあげるわ」といったいろんなお話をしてくださった。その面接の内容に心地よさを感じて、まだ結果も出ていない帰り道で本命の大学の受験は諦め、女子大に行こうと決心した(その後、無事に合格通知を受けた)。女子大に入学した後は、吉良先生のもとで博物館の学芸員が備えるべき知識を学んだ。
吉良先生は面接の場でお話されたことを守るべく、2人目の大恩人であり、「日本のお父さん」でもある永村先生に「せっかく外国からあなたに学びに来た娘なのだから、きちんと面倒を見てあげなさい」と、裏で「私の養育」を押し付けたようだ。吉良先生の強いプッシュのおかげで、気づけば女子大で1年目を終える頃に永村先生の前で寺院史料調査とデータベース構築のアルバイトの面接を受けていた。面接では「漢字は読めるか」のただ1つの質問だけで合格となり、すぐに京都醍醐寺調査の撮影補助業務を任された。その後は永村先生の調査チームの一員として、醍醐寺をはじめとする奈良東大寺・三重専照寺・和歌山根来寺・大阪金剛寺・青森円覚寺・東京増上寺・京都智積院等の多くの寺院調査に参加し、時には文献史料群の国及び地域文化財指定業務にも携わるようになった。永村先生は博士課程1年目を過ごした後に定年退職されたが、その後も陰で博士論文の指導をしてくださった永遠の指導教員でもある。
初めての醍醐寺調査に際して、今は「日本のお母さん」として大活躍の3人目の大恩人、藤井雅子先生との顔合わせがあった。藤井先生は、永村先生が約40年前に女子大に着任された際の最初のお弟子さんであるので、私の姉弟子であると同時に、永村先生の定年退職後からの指導教員でもある。藤井先生は第2子の産休復帰直後だったが、博士論文指導だけでなく、同じ女性研究者の先輩として、自分の研究とどのように向き合うべきか、そして学生や後輩たちをどのようにサポートしていくべきかなど、お姉さんとしての姿勢をたくさん伝授してくださった。
この3名の先生方は、自分がイメージしていた日本人、そして大学教員像とは異なり、厳しい指導をくださりつつも、東日本大震災や日韓情勢の悪化、あるいは体調を崩した時に安否を気遣う電話や差し入れで、心身共に支えてくださった。このように女子大の地縛霊としてすくすくと育てられている中で、とある理由で「途中で学業を諦めなければいけないかもしれないです。わははは。」と軽い気持ちで口にした私の一言を受け、その場で3名の先生に囲まれ、緊急4者会議が始まった。議題は「この娘(私)をこれからどのようにして日本に残せるか」であり、会議の末に永村先生から「諦めさえしなければ、なんぼうでもなる(=諦めさえしなければ、後はなんとでもなる)」との一言をいただいた。実の娘のように必死に考えてくださる3名の先生方の姿と、永村先生からの一言は色々悩んでいた私の胸に深く響き、家に帰ってから涙と共に「もっと頑張ろう」という新たな覚悟を決める契機となった。そして、この言葉は今でも人生の最も重要な座右の銘となっている。
振り返ってみると、醍醐寺の国宝指定と博士学位取得を同時に達成できたのは、この3名の先生方との出会い、そしてあの4者会議のおかげであると強く思う。その感謝の気持ちを込めて大恩人の吉良・永村・藤井先生にこのエッセイを捧げる。そして、先生方から授かった「諦めさえしなければ、なんぼうでもなる」というこの言葉をもって、次の世代を担う後輩たちを支える先輩としても精進してまいりたい。
<姜錫正(カン・ソクジョン)KANG Suk-Jung>
韓国ソウル市出身。2013年日本女子大学文学部史学科卒業、2015年同大学院文学研究科史学専攻博士課程前期(修士)修了、2018年同博士課程後期満期退学、2023年同課程再入学、2026年3月博士修了。2010年より、醍醐寺・東大寺・根来寺・河内長野金剛寺・専照寺・智積院・中台延命寺等の諸寺院における文書・聖教・記録の文献史料の調査及びデータベース(DB)入力のための研究調査員として、国や地域の文化財指定業務を遂行。なお、2017年から醍醐寺霊宝館学芸員、及び2026年4月からは日本女子大学PDも兼任。
2026年5月21日配信
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2026.05.13
インディラ・ガンディー国際空港を出てデリー大学のゲストハウスへ向かう道のりは、インドを初めて実感する時間だった。その第一印象は、ひとつの言葉に集約された。「混沌」。
それは無秩序、すなわちアナーキーというよりも、カオスに近い世界だ。道路にはバスやトラック、馬車、オートバイ、自転車、人力車、そしてオートリキシャ(いわゆる「トゥクトゥク」)が入り混じって流れている。タクシーや乗用車はその間を縫うように進み、人々は前触れもなく道路に現れる。逆走する車両さえいた。すべてが混ざり合いながら動いており、一瞬たりとも緊張を解くことができなかった。
翌日、オートリキシャに乗ってみた。それは移動手段というより、遊園地のジェットコースター。急加速と急停止、そしてわずかな隙間を縫って進むスリリングな走行の中で、身体は自然とこわばり、降りた時には全身の力が抜けたような感覚に襲われた。
驚くべきことに、このような状況の中でも秩序が崩壊しているわけではない。人口を考慮すれば、インドの交通事故死亡率は世界で最も高いわけではない。この巨大な混沌が、ある種の均衡のもとで維持されているという事実の方が、はるかに印象的だった。私はひとつのひらめきを得た。混沌そのものが、ひとつの秩序ではないか。
速度も方向も規則も異なるものが衝突しているように見えながら、実際には共存を前提として機能している世界。異質なものが排除されることなく存在している状態、それこそがこの場所の秩序だ。私はそれを「混沌という秩序」と呼びたくなった。
不思議なことに、その混乱は時間とともに次第に心地よさへと変わっていった。今日、私たちが直面している「ルールに基づく国際秩序」の揺らぎの中で、私たちはあまりにも単一の秩序を前提として未来を思い描いてきたのではないだろうか。異なる秩序が重なり合い、共存する世界を理解するうえで、インドはひとつの重要な示唆を与えているように思われる。
インド訪問は、このような感覚的体験にとどまらず、私が近年提起してきた学問的問題意識を再考する契機ともなった。今回の会議で、私は「ポスト地域研究(post-area studies)」の必要性を提起した。過去十余年にわたりソウル大学日本研究所で進めてきた研究は、グローバル化の過程でいったん解体された「地域性」を再び捉え直す方法論として、地域を固定的な実体ではなく、再構成される関係の枠組みとして理解すべきであるという結論に至っている。
しかしインドにおける日本研究は、この問題意識をそのまま適用することの難しさを示していた。韓国と日本が共有してきた歴史的経験や構造は、インドにおける日本認識とは明らかに異なる文脈に位置づけられていた。植民地経験、戦後秩序、安全保障環境―それらが異なる形で組み合わされることで、「日本」という対象そのものが全く異なる意味の網の中に置かれていた。
私はその隔たりの中に重要な示唆を見いだした。地域研究とは、特定地域に関する蓄積された理解を前提としながらも、他地域と出会う場において絶えず再構成される営みであるという点だ。インドにおける日本研究を通じて明らかになったのは、単なる違いではなく、私たちの問題意識を相対化し拡張する契機だった。その隔たりを直視しつつ、見出される接点を結び直していくことで、より普遍的な視座に近づくことができるだろう。
振り返れば、デリーの道路で体験した「混沌という秩序」も、この思考と重なっている。異なる論理や規則が衝突しているように見えながら、一定の均衡と共存が成立している状態。学問的思索も、そのような多層的秩序の中で新たに形成されていくのではないだろうか。
渥美国際交流財団の奨学生として、私は常に感謝の念を抱いている。そして感謝に報いる機会を求めてきた。財団が企画するさまざまな活動に貢献しようと努めてきたが、そのたびに自分が新たな恩恵を受けていることに気づかされる。
今回もまた、その一例だった。ランジャナ教授とのご縁も、財団が結んでくれた。これまでアジア未来会議などを通じて教授の研究に触れ、インドと日本の深い交流の歴史を知ることができた。このことが、今回ぜひ参加したいと考えた大きな理由でもあった。
人と人をつなぎ、地域と地域を結び、新たな思考の可能性を開く場。財団はそのような出会いの場を創り出してきた。この場を借りて関係者の皆様、会議を丁寧に組織してくださったランジャナ教授に、心より御礼申し上げたい。
今回の旅で出会ったインドの人々について付け加えたい。見知らぬ訪問者に対しても惜しみなく差し伸べられる親切、どのような状況にあっても消えることのなかった穏やかな微笑み。その表情は今も折に触れて思い出される。その微笑みがよみがえるたびに、またインドを訪れたいという気持ちに静かに誘われる。
「蛇の足」。インドで触れた韓流の威力は、私のなかで「韓国とは何か」という問題に目覚めさせた。「韓国から見つめる日本研究」を課題にするとき、「韓国から見つめる」ということは何なのか。帰国便のなかで頭の中が混沌から昏睡に変わっていくのを感覚しつつ、帰ろうとする韓国とは一体何か、問うていた。
<南基正(ナム・キジョン)NAM Ki-jeong>
1964年生まれ。ソウル大学校日本研究所教授。ソウル大学校外交学科卒業後、東京大学総合文化研究科で博士号(国際関係論)を取得。東北大学法学部助教授および教授、国民大学(韓国)国際学部副教授を経て現職。現代日本学会、韓国政治外交史学会(いずれも韓国)などで会長を歴任。
東北アジア国際政治の文脈から日本の政治や日米同盟の展開を中心とした外交を分析している。さらに日本市民社会の平和運動にも関心を持つ。
2026年5月14日配信