-
2026.06.12
「まるで自動車教習所みたいだ」という言い方は、言語教育を批判するときによく用いられる。知識や技能をマニュアル化し、型通りに反復訓練するだけだ、という否定的な含意がある。単語や文法を機械的に暗記させる教育への不満、と言い換えてもよいだろう。
実際、「教養としての外国語」は実用的技能とは対極に置かれる。外国語とは本来、異なる文化や思考様式に触れ、自分の世界を広げるためのものと考えられるからだ。そのため、自動車教習所のような訓練的な学習は、表面的で貧しいものと見なされがちだ。
私自身も以前は教習所とは、決められた操作を受動的に身につける場所なのだろうと思っていた。しかし、通い始めてみると、印象は大きく変わった。そこでは、単純な操作技術の暗記以上のことが求められていたのである。
教習所では学科と技能に分かれている。交通ルールや標識、危険予測などについて学び、一定の暗記が必要となる。しかし、それらの知識は、技能教習のなかで初めて具体的な意味を持つ。たとえば、「十分な車間距離を取る」というルールも、実際に運転してみなければ、距離感を身体感覚として理解することは難しい。逆に、技能教習のなかで危険を体験することで、学科で学んだ注意事項が実感を伴って理解できるようになる。教習所では、学科と技能は別々に存在するものではなく、補完し合いながら結びついている。
実際の運転とは、固定された手順を機械的に再現する作業ではない。変化し続ける環境のなかで状況を判断し、知識と身体感覚を結びつけながら行動する営みだ。知識と実践は切り離されておらず、知ることと行うことが相互に結びつきながら深まっていく。その意味で、教習所の学習には「知行合一」に近い側面がある。
以前、私が目の前の操作に集中しすぎて周囲への注意が疎かになっていたとき、教習所の指導員に言われた)。「サッカーの試合を見たことがありますか。選手が見ているボールと、観客が見ているボールは違う。運転では、選手のようにボールだけを見るのではなく、観客のように全体を見なければならないのです」
この言葉を聞いて、運転とは単なる操作技術ではなく、状況全体を把握する営みなのだと気づかされた。もちろん、実際のサッカー選手も、ただボールしか見ていないわけではない。味方や相手選手の位置などを常に把握しているはずだ。それでも、指導員が言いたかったのは、「自分の車だけを見ていてはならない」ということなのだろう。
それは運転だけに限った話ではない。私たちはしばしば、目の前の作業や自分自身のことだけに集中してしまう。しかし実際には、周囲の環境や他者との関係のなかで行動している。自分だけを切り離して存在することはできない。
外国語を学ぶことも同じだ。単語や文法を暗記するだけではなく、その言語を使う人々の文化や価値観、社会との関係のなかに自分を置き直し、他者と関わりながら理解を深めていく営みだからだ。知識を得るだけでなく、それによって自分の振る舞いや考え方そのものが変わっていく。その意味で、言語を学ぶとは、単に情報を増やすことではなく、世界の見え方を変えることでもある。
だから、言語学習はもっと「自動車教習所」であってよいと思う。それは画一的な訓練を意味するのではない。知識を実践のなかで繰り返し用いながら、状況判断や身体感覚と結びつけ、少しずつ自分のものにしていくということだ。
運転が、実際に道路へ出ることでしか上達しないように、言語もまた、実際に使い、失敗し、言い直し、他者と関わる経験を通してしか習得することはできない。そこで重要なのは、「知っていること」と「使えること」との隔たりを、実践によって埋めていくということだ。
そう考えると、「まるで自動車教習所みたいだ」という言葉は単なる批判ではなく、言語学習の本質を言い当てた比喩として捉え直すことができる。
そして、もし新しい言語を学ぶことが、新しい世界の見方や新しい自分の在り方を獲得するプロセスでもあるのだとすれば、教習所のように、知識を実践のなかで繰り返し用いながら身体化していく学習こそが重要な第一歩なのではないだろうか。
<陳 希/CHEN XI>
中央大学経済学部助教。中国貴州省生まれ。天津外国語大学日本語学部卒業、同大学院修士課程修了、桜美林大学大学院言語教育研究科修士課程修了、東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。東京大学東アジア藝文書院特任研究員を経て、2024年より現職。専門は近代中国の言語政策史・思想史。論文「労乃宣と切音字運動」(『現代中国』第96号、2022年)にて、第19回太田勝洪記念中国学術研究賞を受賞。
2026年6月11日配信
-
2026.06.05
https://www.reuters.com/ar/world/7SVZ2QGWVVLK3APKKTTIWVJUFE-2026-04-01/
君に正直に話そう。本来私は、「郷に入っては郷に従え」で本当に良いのかを問うつもりだった。この言葉は、他者を尊重するという名目で、自らの個性や信念を抑圧するために使われることがある。さらに皮肉なことに、本来は宗教的背景を持つこの表現が、世俗社会において同調を促す言葉として機能していることも少なくない。
しかし、「郷に入る」ということは、その土地の文化や人々を理解することに他ならず、自らの信念を手放すことではない。一方的に自分の文化を消し去ることでもない。むしろ、それは互いに理解し合いながら、自らを貫くことの力でもある。私はそうした点について議論するつもりだった。そして最終的には、他者を尊重しつつも、迎合や期待に応じた表面的なパフォーマンスに堕することなく、自分自身として在り続けることの大切さを訴えようと思っていた。
しかし、この文章を書いている今この瞬間にも、自らの土地で生きる権利すら奪われ、価値観の問題以前に、「存在 ― Existence and being」そのものが否定されている人々がいる。その現実の中で、「郷に入っては郷に従え」と問うことも、異文化理解を語ることも、自分のアイデンティティに揺るぎなく立つことも、虚しく響く。
なぜなら、文化などお構いなしに土地に踏み込み、その土地を奪い、人々を強制的に追い出し、私たちの目の前で命を奪っている現実があるからだ。それが、今まさにパレスチナで起きていることだ。
この苦しみは、決して今始まったわけではない。およそ78年も前から続き、今なお終わりを見せない。
今朝、私は二つのニュースを目にした。それは、パレスチナの人々が耐え続けてきた不平等の海に浮かぶ、ほんの小さな断片だった。
一つは、ガザでの戦争が始まってから2年、2023年11月にアル・シファ病院の爆撃で家族と引き離され、未熟児のままエジプトに避難した8人の幼子たちが、2年以上を経てようやく戦火の土地に戻ったというニュースだった。それは、戦争の中で希少な喜びをもたらした瞬間ではあったが、私が目を逸らせなかったのは、その子どもたちの中に、自分の母親の顔すら知らず、再会した母の誰であるか分からずに泣く子がいたことだった。それは、あまりに残酷だ。
そして、私がこのエッセイの主題を変えるきっかけとなったもう一つのニュースは、3月30日、イスラエル国会(クネセト)が、パレスチナ人に対し、絞首刑を原則とする死刑制度を定めた法案を可決したというものだった。それは、特定の重大犯罪に限らず、いかなる理由で拘束された場合であっても、パレスチナ人であれば大人であれ子どもであれ適用され、陪審による審理を経ることなく執行されるものである。このような法律が正当化されることが、どうして「法」としてまかり通るのか。どうして、人を殺すことに加えて、その殺害を「法」という名のもとに祝うことが許されるのか。
私は、そのイスラエルの政治家たちがシャンパンで祝い、首を吊る縄を模したピンを胸に付けて、この残酷な法を祝う姿を思い浮かべる。私は問わずにはいられない。なぜ私たちは、このような世界に生きているのか。「すべてが政治ではない」と言う人もいるが、私が立っている場所から見れば、すべてが政治だ。文学でさえも例外ではない。
作家の西加奈子の言葉を思い出す。彼女はエジプトで育った幼少期を振り返り、ムスリムの門番(バワーブ)が「メリークリスマス」と声をかけた瞬間を語っている。その瞬間、彼女も門番も、イスラム教徒、仏教徒、キリスト教徒といった枠、エジプト人、日本人、男、女という区分を超えて、ただ人間同士として、すべての境界を超えて存在していたのだ。
今、君が置かれているその「枠」から一歩踏み出してほしい。そして、パレスチナで起きていることから、目を逸らさずに見てほしい。それは不正であり、非人間的であり、そして紛れもなく残酷な現実だ。
生きている限り、私はパレスチナについて語り続ける。それは、私がパレスチナ人だからではない。確かに私はパレスチナ人ではないし、そこに家族も親戚もいない。だが、これは私にとって、君にとっても、人間としての責任なのだ。
少なくとも、私はそう思う。君はどうだろうか。
<シルウィーディ サラ サイド ムハマド エルサイド
SHERWEEDY Sarah Sayed Mohamed Elsayed >
エジプト・カイロ出身。2017年、カイロ大学日本語日本文学科卒業。2021年、東京外国語大学大学院総合国際学研究科博士前期課程修了。2026年1月、同研究科博士後期課程を修了し、博士号を取得。現在、東京外国語大学、文京学院大学、拓殖大学で非常勤講師を務める。専門は日本近現代文学および翻訳研究。現在は “The (Un)Translatability of the Unseen” をテーマに、言語レベルの翻訳にとどまらず、経験の翻訳という観点から、現代日本文学におけるニューロダイバーシティの表象とその翻訳について研究している。研究の傍ら、日本文学のアラビア語翻訳にも取り組み、「第1回アラブ世界若手翻訳大会」(2020年)および「第2回アラブ世界若手翻訳大会」(2026年)にて受賞。
2026年6月5日配信
-
2026.05.21
登下校時にいつも目にする女子大の桜(著者撮影)
2026年3月26日、文化庁による国宝・重要文化財指定の報道発表が行われた。マスコミは新指定の文化財のみを大きく取り上げる慣例があるが、この指定には新指定のみならず、複数回に亘って追加指定を受けた文化財も含まれている。今回国宝に決まった「醍醐寺文書聖教」の文献史料群の94192点は、その追加指定の1つである。
私は2017年度から総本山醍醐寺霊宝館学芸員として、学業の傍らこの国宝指定業務に携わってきた。京都醍醐寺霊宝館に一括所蔵されている「醍醐寺文書聖教」という文献史料は、大正3年(1914)から文化財調査が行われ、平成元年(1989)に初めて国の文化財指定を受けて以来、今回で5回目の追加指定が行われた。その結果、約10万3千点の史料の内、合計94192点が国宝となった。特に今回の追加指定は、現状としては最後の指定であるため、私はアルバイト時代から数えれば醍醐寺の文化財調査歴史の最後の17年間を共にしたとも言える。そして、この指定の年度が私にとって特に意味深いのは、この史料群を用いて執筆した博士論文が合格となった年でもあるためだ。
そこで、今回のエッセイには醍醐寺の国宝指定と博士学位修了の同時達成の節目として、史料調査・歴史研究との出会いに大きく関わった3名の大恩人との思い出を綴りたい。
博士課程で在籍していた日本女子大学(以下、女子大)は、学部の時から「史学」専攻の学生としてお世話になっていたところであり、日本在住の約19年の内18年を共にした場所だ。博士修了となった今も女子大歴は増えつつあり、2/3以上の学科の先生よりも長く居続けることで周りからは「女子大の地縛霊」と称されている。一見、「地縛霊」が皮肉で恐ろしい表現に思われるかもしれないが、「女子大の史学科の居心地良さで長くいてくれている奇特な人」という良い意味で付けられたものなので、個人的には愛着のあるあだ名である。
しかしながら、このように居心地良さを感じている女子大史学科に受験を決めたきっかけは、実は大変意味シンプル(もしくは適当だったかもしれない)だった。韓国で高校生活を送っていた頃、たまたま日本留学経験のある世界史の先生からたくさんの日本の話を聞かされたことをきっかけに、日本史を本場で学びたいという夢が芽生えた。そこで、「日本で骨を埋めるつもりで行きなさい」という父との約束を守るべく、高校卒業と同時に単身で日本へ渡ってきた。最初の1年間は大学選びの年であり、たまたま女子大のホームページで目にした史学科教授(当時)の「永村眞」先生の寺院史研究の紹介文に魅力を感じ、ただそれだけで出願した。女子大に向いてなさそうとの周りからの声もあるぐらい当初は共学志願が強く、女子大は滑り止めで受けようという気持ちの方が大きかった。軽い気持ちで受けた女子大とのご縁が、その後の長い日本での生活において重要な3名の大恩人に出会えるきっかけになるとは思いもせずに。
最初に出会ったのは史学科の近世史・博物館専門教授の吉良芳恵先生で、面接官と受験生の関係だった。吉良先生は面接の場を忘れたかのように、ホワイトボードに博物館名や地域名を書きながら「今度ここに一緒に行こうね」、「永村さんを紹介してあげるわ」といったいろんなお話をしてくださった。その面接の内容に心地よさを感じて、まだ結果も出ていない帰り道で本命の大学の受験は諦め、女子大に行こうと決心した(その後、無事に合格通知を受けた)。女子大に入学した後は、吉良先生のもとで博物館の学芸員が備えるべき知識を学んだ。
吉良先生は面接の場でお話されたことを守るべく、2人目の大恩人であり、「日本のお父さん」でもある永村先生に「せっかく外国からあなたに学びに来た娘なのだから、きちんと面倒を見てあげなさい」と、裏で「私の養育」を押し付けたようだ。吉良先生の強いプッシュのおかげで、気づけば女子大で1年目を終える頃に永村先生の前で寺院史料調査とデータベース構築のアルバイトの面接を受けていた。面接では「漢字は読めるか」のただ1つの質問だけで合格となり、すぐに京都醍醐寺調査の撮影補助業務を任された。その後は永村先生の調査チームの一員として、醍醐寺をはじめとする奈良東大寺・三重専照寺・和歌山根来寺・大阪金剛寺・青森円覚寺・東京増上寺・京都智積院等の多くの寺院調査に参加し、時には文献史料群の国及び地域文化財指定業務にも携わるようになった。永村先生は博士課程1年目を過ごした後に定年退職されたが、その後も陰で博士論文の指導をしてくださった永遠の指導教員でもある。
初めての醍醐寺調査に際して、今は「日本のお母さん」として大活躍の3人目の大恩人、藤井雅子先生との顔合わせがあった。藤井先生は、永村先生が約40年前に女子大に着任された際の最初のお弟子さんであるので、私の姉弟子であると同時に、永村先生の定年退職後からの指導教員でもある。藤井先生は第2子の産休復帰直後だったが、博士論文指導だけでなく、同じ女性研究者の先輩として、自分の研究とどのように向き合うべきか、そして学生や後輩たちをどのようにサポートしていくべきかなど、お姉さんとしての姿勢をたくさん伝授してくださった。
この3名の先生方は、自分がイメージしていた日本人、そして大学教員像とは異なり、厳しい指導をくださりつつも、東日本大震災や日韓情勢の悪化、あるいは体調を崩した時に安否を気遣う電話や差し入れで、心身共に支えてくださった。このように女子大の地縛霊としてすくすくと育てられている中で、とある理由で「途中で学業を諦めなければいけないかもしれないです。わははは。」と軽い気持ちで口にした私の一言を受け、その場で3名の先生に囲まれ、緊急4者会議が始まった。議題は「この娘(私)をこれからどのようにして日本に残せるか」であり、会議の末に永村先生から「諦めさえしなければ、なんぼうでもなる(=諦めさえしなければ、後はなんとでもなる)」との一言をいただいた。実の娘のように必死に考えてくださる3名の先生方の姿と、永村先生からの一言は色々悩んでいた私の胸に深く響き、家に帰ってから涙と共に「もっと頑張ろう」という新たな覚悟を決める契機となった。そして、この言葉は今でも人生の最も重要な座右の銘となっている。
振り返ってみると、醍醐寺の国宝指定と博士学位取得を同時に達成できたのは、この3名の先生方との出会い、そしてあの4者会議のおかげであると強く思う。その感謝の気持ちを込めて大恩人の吉良・永村・藤井先生にこのエッセイを捧げる。そして、先生方から授かった「諦めさえしなければ、なんぼうでもなる」というこの言葉をもって、次の世代を担う後輩たちを支える先輩としても精進してまいりたい。
<姜錫正(カン・ソクジョン)KANG Suk-Jung>
韓国ソウル市出身。2013年日本女子大学文学部史学科卒業、2015年同大学院文学研究科史学専攻博士課程前期(修士)修了、2018年同博士課程後期満期退学、2023年同課程再入学、2026年3月博士修了。2010年より、醍醐寺・東大寺・根来寺・河内長野金剛寺・専照寺・智積院・中台延命寺等の諸寺院における文書・聖教・記録の文献史料の調査及びデータベース(DB)入力のための研究調査員として、国や地域の文化財指定業務を遂行。なお、2017年から醍醐寺霊宝館学芸員、及び2026年4月からは日本女子大学PDも兼任。
2026年5月21日配信
-
2026.05.13
インディラ・ガンディー国際空港を出てデリー大学のゲストハウスへ向かう道のりは、インドを初めて実感する時間だった。その第一印象は、ひとつの言葉に集約された。「混沌」。
それは無秩序、すなわちアナーキーというよりも、カオスに近い世界だ。道路にはバスやトラック、馬車、オートバイ、自転車、人力車、そしてオートリキシャ(いわゆる「トゥクトゥク」)が入り混じって流れている。タクシーや乗用車はその間を縫うように進み、人々は前触れもなく道路に現れる。逆走する車両さえいた。すべてが混ざり合いながら動いており、一瞬たりとも緊張を解くことができなかった。
翌日、オートリキシャに乗ってみた。それは移動手段というより、遊園地のジェットコースター。急加速と急停止、そしてわずかな隙間を縫って進むスリリングな走行の中で、身体は自然とこわばり、降りた時には全身の力が抜けたような感覚に襲われた。
驚くべきことに、このような状況の中でも秩序が崩壊しているわけではない。人口を考慮すれば、インドの交通事故死亡率は世界で最も高いわけではない。この巨大な混沌が、ある種の均衡のもとで維持されているという事実の方が、はるかに印象的だった。私はひとつのひらめきを得た。混沌そのものが、ひとつの秩序ではないか。
速度も方向も規則も異なるものが衝突しているように見えながら、実際には共存を前提として機能している世界。異質なものが排除されることなく存在している状態、それこそがこの場所の秩序だ。私はそれを「混沌という秩序」と呼びたくなった。
不思議なことに、その混乱は時間とともに次第に心地よさへと変わっていった。今日、私たちが直面している「ルールに基づく国際秩序」の揺らぎの中で、私たちはあまりにも単一の秩序を前提として未来を思い描いてきたのではないだろうか。異なる秩序が重なり合い、共存する世界を理解するうえで、インドはひとつの重要な示唆を与えているように思われる。
インド訪問は、このような感覚的体験にとどまらず、私が近年提起してきた学問的問題意識を再考する契機ともなった。今回の会議で、私は「ポスト地域研究(post-area studies)」の必要性を提起した。過去十余年にわたりソウル大学日本研究所で進めてきた研究は、グローバル化の過程でいったん解体された「地域性」を再び捉え直す方法論として、地域を固定的な実体ではなく、再構成される関係の枠組みとして理解すべきであるという結論に至っている。
しかしインドにおける日本研究は、この問題意識をそのまま適用することの難しさを示していた。韓国と日本が共有してきた歴史的経験や構造は、インドにおける日本認識とは明らかに異なる文脈に位置づけられていた。植民地経験、戦後秩序、安全保障環境―それらが異なる形で組み合わされることで、「日本」という対象そのものが全く異なる意味の網の中に置かれていた。
私はその隔たりの中に重要な示唆を見いだした。地域研究とは、特定地域に関する蓄積された理解を前提としながらも、他地域と出会う場において絶えず再構成される営みであるという点だ。インドにおける日本研究を通じて明らかになったのは、単なる違いではなく、私たちの問題意識を相対化し拡張する契機だった。その隔たりを直視しつつ、見出される接点を結び直していくことで、より普遍的な視座に近づくことができるだろう。
振り返れば、デリーの道路で体験した「混沌という秩序」も、この思考と重なっている。異なる論理や規則が衝突しているように見えながら、一定の均衡と共存が成立している状態。学問的思索も、そのような多層的秩序の中で新たに形成されていくのではないだろうか。
渥美国際交流財団の奨学生として、私は常に感謝の念を抱いている。そして感謝に報いる機会を求めてきた。財団が企画するさまざまな活動に貢献しようと努めてきたが、そのたびに自分が新たな恩恵を受けていることに気づかされる。
今回もまた、その一例だった。ランジャナ教授とのご縁も、財団が結んでくれた。これまでアジア未来会議などを通じて教授の研究に触れ、インドと日本の深い交流の歴史を知ることができた。このことが、今回ぜひ参加したいと考えた大きな理由でもあった。
人と人をつなぎ、地域と地域を結び、新たな思考の可能性を開く場。財団はそのような出会いの場を創り出してきた。この場を借りて関係者の皆様、会議を丁寧に組織してくださったランジャナ教授に、心より御礼申し上げたい。
今回の旅で出会ったインドの人々について付け加えたい。見知らぬ訪問者に対しても惜しみなく差し伸べられる親切、どのような状況にあっても消えることのなかった穏やかな微笑み。その表情は今も折に触れて思い出される。その微笑みがよみがえるたびに、またインドを訪れたいという気持ちに静かに誘われる。
「蛇の足」。インドで触れた韓流の威力は、私のなかで「韓国とは何か」という問題に目覚めさせた。「韓国から見つめる日本研究」を課題にするとき、「韓国から見つめる」ということは何なのか。帰国便のなかで頭の中が混沌から昏睡に変わっていくのを感覚しつつ、帰ろうとする韓国とは一体何か、問うていた。
<南基正(ナム・キジョン)NAM Ki-jeong>
1964年生まれ。ソウル大学校日本研究所教授。ソウル大学校外交学科卒業後、東京大学総合文化研究科で博士号(国際関係論)を取得。東北大学法学部助教授および教授、国民大学(韓国)国際学部副教授を経て現職。現代日本学会、韓国政治外交史学会(いずれも韓国)などで会長を歴任。
東北アジア国際政治の文脈から日本の政治や日米同盟の展開を中心とした外交を分析している。さらに日本市民社会の平和運動にも関心を持つ。
2026年5月14日配信
-
2026.04.30
開戦直後にホテルに避難してきた市民。2026年3月2日朝4時過ぎ(筆者撮影/一部加工)
現代社会を生きる我々は、いうまでもなく日々国際情勢の影響を受けているはずだが、それが意識されることはあまりない。少なくとも日本で育ってきた私にとっては、国際情勢は「ニュース」に過ぎず、多少の変化(例えばインフレの進行)があったとしても、生活で一刻を争う事態に出くわした経験はなかった。しかし、国際情勢という「大きな話」と日々の生活という「小さな話」を露骨に結びつけてしまうのが、戦争なのだろう。
エッセイを書いているのは、2026年3月3日、レバノン・ベイルートからの帰国便の機内である。あるイスラーム主義組織の調査のためにレバノンに滞在していたが、2月28日に発生したイスラエル・アメリカによるイラン攻撃を発端とする一連の情勢を受けて、急遽帰国することになった。
「大きな話」はこうだ。今回の戦争の背景にあるのは、2023年10月7日のハマースによるイスラエル奇襲攻撃以来続く中東の戦争だが、2025年末になると、今度はイラン国内で市民による反政府デモが広がりを見せた。これに対して、アメリカのトランプ政権は介入を示唆し、1〜2月にかけては米軍が中東地域で戦力を増強しているとも報じられた。一方、アメリカ・イラン間では核協議も継続していた。2月26日に開催された第3回会合の後、協議を仲介したオマーンの外相は交渉が進展したと話し、近く次回の協議が行われることも発表された。以上が「ニュース」としての「大きな話」である。私自身、2月26日の会合がひとまず無事に終わったと聞いて安堵し、次回日程とされた3月2日までに大きな動きはないだろうと、今にして思えば甘い期待を抱いていた。
イラン攻撃が始まったのは、こうした最中だった。現地時間2月28日の朝、ホテルの自室で対イラン攻撃の速報が飛び込んできた。アル=ジャズィーラをつけると、テヘラン市内のライブ映像が流れており、煙が上がっている。この時点で、レバノン国外への退避を検討し始めた。しかし、バルコニーから外を見ても昨日までと同じ平穏な日常であり、判断に困った。当初の旅程では、4日後にはベイルートを発つ予定だったからである。しかし、迷っているうちにベイルート発着便の欠航が続々と決まっていった。シリアとイスラエル、地中海に囲まれたレバノンの場合、ベイルート発の飛行機に乗れないと、出国するには陸路でシリアに向かうか、海路でキプロスなどに向かうしかなくなる。そこで慌ててカタール航空を予約したが、湾岸諸国への攻撃が激しいと見るや、すぐにミドル・イースト航空(レバノンのフラッグ・キャリア)の便も押さえた。ウェブサイトで購入操作をしている間にも、直近のチケットが瞬く間に売り切れていった。
結局、その日はレバノンのシーア派武装勢力であるヒズブッラーは参戦せず、抑制的な対応に終始した。イランやイスラエルのみならず、湾岸諸国にさえもミサイルやドローンが飛来する中で、レバノンだけが落ち着いているという不思議な状況だった。食事を買いにホテルの近くを歩いても、普段と何ら変わりはない。翌3月1日にはイランの最高指導者ハメネイ氏の殺害が報じられ、中東の戦争はエスカレートする一方であったが、滞在しているベイルートのホテル周辺は極めて平和で、欧米人のツアー客と思しき人々さえ目にした。この日まで「大きな話」と「小さな話」に接点はなかった。このままヒズブッラーが参戦しなければ、少なくとも数日は大丈夫だろうと考えながら就寝した。
目が覚めたのは夜中だった。窓の外から爆発音が聞こえる。急いでニュースをつけると、就寝中にヒズブッラーがイスラエルを攻撃し、その報復としてイスラエル軍がベイルート市内を攻撃したという。レバノンはスンナ派、シーア派、マロン派(キリスト教)を中心とするモザイク国家であるが、その中でもベイルートは各宗派の信徒が地区ごとに分かれて居住している。今回攻撃を受けたのは、これまでも度々攻撃されてきたシーア派のダーヒエ地区だ。情報を集めていると、何やら外が騒がしい。ロビーに降りると、避難してきた市民が殺到している。午前4時のことである。いつもお世話になっているドライバーはダーヒエ地区に住んでおり、心配になって連絡してみると、すでに家族と山間部に逃げたという。
私にとっては幸いなことに、この日はレバノンを出発する日だった。空港やその道中が攻撃を受けないようにと祈りつつ、現地のニュースをチェックする。朝になってもレバノン国内やベイルート市内への攻撃は続いていたが、空港は攻撃を受けていない。ホテルを出ると、上空では鈍い機械音が絶えず響いている。イスラエル軍の偵察用ドローンのようだ。テレビでは、南部から北部に避難する車の渋滞が報じられていた。
こうして、「大きな話」はあっという間に「小さな話」に直結した。私は日本に帰ることができる。帰国してしまえば、中東の紛争は一つの「大きな話」に戻るだろう。しかし、レバノンに残る多くの人々には、その選択肢は残されていない。
報道では、トランプ政権はそもそも真剣に交渉をしておらず、イランとの協議は、空母が到着するまでの時間稼ぎとの見方が出ている。そうだとすれば、あの「大きな話」は何だったのか。これからは「大きな話」の中でも、交渉の過程より軍艦の動きを見なければいけない時代になってしまったのだろうか。
〈山岡陽輝(やまおか・はるき)YAMAOKA Haruki〉
千葉県習志野市出身。慶應義塾大学大学院法学研究科後期博士課程。2026年度渥美国際交流財団奨学生。2023年3月慶應義塾大学大学院法学研究科修士課程修了。専門は政治学、中東地域研究、イスラーム主義研究。
2026年4月30日配信
-
2026.04.23
2019年7月、長野県の蓼科高原で、渥美国際交流財団の奨学生たちを前に「AIは怖くない!」というタイトルで講演を行った。当時の私は、AI(人工知能)への過度な恐怖心を解くことが目的だった。確かにあの頃、AIは「怖い存在」として語られることが多かった。しかし今、私は少し違うことを思う——「やっぱりAIは怖いかもしれない」と。
結局AIは怖いのか、怖くないのか。答えは「正しく理解すれば、怖くない」だと私は信じている。ただし、その「正しい理解」へ至る道のりが、2019年当時よりずっと険しくなったのもまた事実だ。
あの頃のAI——「賢い道具」だった時代
2019年当時、AIといえば何だったか。囲碁や将棋で人間のチャンピオンを打ち負かした「アルファ碁」の話題は記憶に新しい。スマートフォンの音声アシスタントに話しかければ天気を教えてくれる。ネットショッピングでは「あなたへのおすすめ」が並ぶ。すべてAIの働きだ。
しかし、それらのAIには明確な「限界」があった。囲碁が強くても、料理のレシピは作れない。音楽を聴けば作曲者を当てられても、自分で曲を作ることはできない。一つのことをこなすための「専門家」ではあっても、幅広く物事を考える「汎用的な知性」には程遠かった。だから私は蓼科で言えた——「AIはあくまで道具だ。怖くない」と。
その言葉は、あの時点では正確だったと思う。
飛躍した現在——「考えるAI」の登場
ところが、その後の展開は想像を大きく超えるものだった。
2022年末に登場した「ChatGPT」をきっかけに、生成AIと呼ばれる技術が一般に広まった。文章を書き、絵を描き、プログラムを作り、議論の相手にまでなれるAIだ。「専門家型」から「何でもこなす」タイプへ、根本的な変貌を遂げた。
今日、こんなことが現実になっている。医療の現場では、AIがレントゲン写真を分析してがんの疑いを指摘する。法律の分野では、契約書の問題点をAIが数秒で洗い出す。学校では、生徒各自の理解に合わせてAIが教材を変える。ニュース記事や広告のコピー文も、AIが書くようになった。
さらに驚くべきは、AIが「自分でAIを改良する」領域にまで踏み込んできたことだ。人間の研究者が1年かけて行う実験をAIが数日で終わらせ、新しい発見を持ち帰るという事例も出始めている。2019年の蓼科で話した「AIの限界」は、次々と書き換えられていく。
これを聞いて、怖いと感じる人がいるのは当然だ。私自身も、正直なところ「あの時の自分が語った基準では、今のAIは怖い」と思う瞬間がある。
本当の怖さはAIそのものではない
しかし、落ち着いて考えてほしい。AIそのものが本質的に「悪意ある存在」として我々を脅かしているわけではない。
今のAIには、意思がない。欲望がない。AIは「次にどんな言葉が来る確率が高いか」を膨大なデータから学習した、巨大な計算の集積だ。感情を持って人間を支配しようとしているわけでも、自分の利益のために動いているわけでもない。
本当の怖さは別のところにある。それは「AIを使う人間」と「AIについて何も知らない人間」の間に生まれる格差だ。AIを正しく使いこなせる人は、仕事でも学びでも圧倒的な力を手に入れる。一方で、AIが何をしているのかわからないまま振り回される人、あるいはAIが生み出した偽の情報を見抜けない人は、どんどん不利な立場に置かれる。
また、技術の進歩に社会のルールが追いついていない現状も危うい。AIが生成した偽の動画や音声が選挙に影響を与えたり、個人のプライバシーが無断で学習データに使われたりする問題が、すでに世界各地で起きている。これは「AIが怖い」のではなく、「AIを正しく管理する仕組みがまだ整っていない」という問題だ。
だからこそ——知ることが最大の対策
では私たちはどうすればいいのか。
まず、AIの「仕組みと限界」を大まかに知ることだ。AIは万能ではない。今のAIは、もっともらしい嘘をつくことがある。文脈を誤解することがある。最新の情報を知らないことがある。「AIが言ったから正しい」という思い込みは危険だ。仕組みを知れば、どこを信頼してどこを疑うべきかが見えてくる。
次に、新しい技術に目と耳を傾け続けることだ。AIの世界は今も猛烈なスピードで変化している。去年の常識が今年の非常識になる世界だ。専門家でなくてもいい。ニュースを読み、試しに使ってみて、「これは何をしているのか」と問いかける習慣を持つだけで、理解は着実に深まる。
そして最後に、AIの問題を「自分たちの問題」として考えることだ。良き地球市民として、AIが社会に何をもたらすべきか、どんなルールが必要かを、一人ひとりが(それぞれが)考え、声を上げていくことが求められる。これは技術者や政治家だけに任せるべき問題ではない。
「AIは怖くない!」と断言した2019年の自分と、今の自分は少し違う場所に立っている。しかし、目指す結論は同じだ。AIは、正しく理解し、賢く使い、社会として向き合えば、怖くないものになれる。
むしろ、地球規模の課題——気候変動、感染症、食糧問題——に取り組む強力な仲間になり得る可能性さえある。
怖がって距離を置くのではなく、知ることで近づいていく。それが、AIとともに生きる時代における、私たちの責任ではないだろうか。
------------------------------------------------
<李 周浩 Joo-Ho Lee>
1993年高麗大学電気工学科卒業 1999年東京大学大学院工学系研究科博士課程修了 工学博士 2000年日本学術振興会(JSPS)特別研究員,2002年東京大学ポスドック研究員,2003年東京理科大学工学部助手,2004年立命館大学助教授,2008年Carnegie Mellon University客員研究員,2017年高麗大学機械工学部研究教授,2011年より立命館大学情報理工学部教授,現在に至る
専門分野:空間知能化,知能ロボットなど
主な著作:「Intelligent Space – concept and contents」, Advanced Robotics, 16/3, pp265-280,2002
2026年4月23日配信
-
2026.04.16
法律や政策が目まぐるしく変わることが多い韓国だが、意外にも約40年も続いているのが現在の憲法だ。1987年に民主化して以降、韓国憲法は一度も改正されたことがない。当時の軍事独裁政権(全斗煥政権)が民主化運動を押さえきることができず、1987年10月に大統領直接選挙を受け入れた結果が「改憲のための第6次国民投票」だ。投票率は78.2%、圧倒的多数の93.1%が賛成し、改憲が実現された。韓国で「87年体制」と呼ばれる民主主義体制が成立したのだ。
それまでも選挙は存在しており、議院内閣制が採用されたこともあった。それでも安定的に一つの政治体制が続き、自由な選挙(大統領・国会議員・自治体)が行われてきているのは初めてだ。政権交代も比較的頻繁に起きており、保守と進歩の二大政党制も定着している。政治的分断が深いとはいえ、政治的争点もわかりやすくはっきりしている。軍部の影響力も非常に弱くなったと受け止められていた。
そうした中で、民主化過程や政権交代後における「清算」(移行期正義、Transitional Justice)は主に捜査機関、とりわけ政権側の意向を汲んだ検察が主導してきた。過去の過誤を発見・公表することで軋轢を解決するという南アフリカ共和国のような「真実和解委員会」モデルも導入はされているが、清算の軸足は「捜査と処罰」に置かれてきた。これが前職の大統領や政府関係者が頻繁に逮捕される背景でもある。
メディア側の人間としてそのような捜査や裁判を取材していた筆者としても、政治や社会の変化のためにも避けられないプロセスと認識していた。ところが、近年ではその考えが 変わってきた。社会的副作用が便益を上回っており、捜査や裁判による清算は「期限切れ」ではないかと考えていた。「復讐の連続」は、社会的かつ政治的な分断をより深めるようになったからだ。
ただし、2024年12月3日に突如宣布された尹錫悦氏の「非常戒厳」はそのような「希望」をも台無しにしてしまった。朴槿恵政権への清算の急先鋒として検事総長(韓国では検察総長)を務めた尹氏(彼自身も朴政権期に左遷されている)は、以前の政権への捜査が評価され、2022年の大統領選挙で当選した。任期中には独りよがりな政策推進や、不正が疑われる側近をかばう姿勢が不評を買い、支持率は常に低迷していた。多数派の野党との協力よりも強硬策を乱発していた。そこで、大統領夫人への捜査や閣僚への弾劾訴追が相次ぐ中、軍隊と警察を国会に投入したのだ。
現在の韓国憲法第77条では、大統領が「戦時・事変又はこれに準ずる国家非常事態において兵力により軍事上の必要に応じ、又は公共の安寧秩序を維持する必要があるときには法律の定めるところにより戒厳を宣布することができる」と定められている。その条文には「遅滞なく国会に通告しなければならない」「国会が在籍議員過半数の賛成で戒厳の解除を要求したときには大統領はこれを解除しなければならない」とも権限を制限する規定もある。法律として「戒厳法」があり、そこでも同様に「国会(立法権)重視」が述べられている。少なくとも戒厳を口実に立法権を侵害してはならないということだ。
また、同第84条には「大統領は内乱又は外患の罪を犯した場合を除いては在職中刑事上の訴追を受けない」とあり、この条文に基づき尹氏への捜査が始まった。そして、現職大統領としては初めて逮捕された。大統領経験者が内乱罪に問われたのは3人目で、まさに軍人出身の全斗煥と盧泰愚(氏)が「歴史の清算」の過程で適用された法律だ。今回、またもや尹氏の非常戒厳により、捜査や裁判で政治的問題を「清算」しなければならなくなったのだ。悪循環の拡大再生産ともいえる事態が続いている(民主化の産物として誕生した憲法裁判所が尹氏に対し罷免決定を下したのは不幸中の幸いかもしれないが)。
2026年2月19日、ソウル中央裁判所で尹氏への一審判決が下された。無期懲役だった。そもそも 内乱罪には「死刑」か「無期懲役」しか選択肢がない。別の裁判部でも他の罪や被告人に対する審理で、概ね非常戒厳にかかわる問題が追及されている。韓国政府でも各省庁において清算や懲罰が続いており、社会や政治に残る傷跡は深い。
個人的には87年体制、とりわけ現在の大統領制はもはや「寿命」ではないかと考えている。より民主的で、牽制の効く新しい政治制度への議論が「民主主義後退に対する清算」以上に求められている。少なくとも一人に権力が集中する現状の制度では、その人間の「善意」に頼らざるを得ず、常に危ういのだ。
<尹在彦(ユン・ジェオン)YUN Jaeun>
東洋大学社会学部メディア・コミュニケーション学科准教授。延世大学(韓国)社会学科を卒業後、経済新聞社で記者として勤務(裁判所・警察なども担当)。2021年、一橋大学大学院法学研究科にて博士号(法学)を取得。同大学特任講師、慶應義塾大学メディア・コミュニケーション研究所非常勤講師などを経て2025年、現職。渥美国際交流財団2020年度奨学生。専門は国際関係論およびメディア・ジャーナリズム研究(政治社会学)。
2026年4月16日配信
-
2026.04.09
横浜に暮らしてずいぶん経つ。大学は都内にあり、通学にはおよそ1時間かかる。通えない距離ではないが、なぜわざわざ横浜なのかと訊かれることは少なくない。そのたびに「好きだから」としか答えようがない。韓国で学生だった頃、好きな小説や漫画の舞台にこの街がよく出てきた。海があって、どこか異国の気配が混じっていて、日常から少しだけずれたような空気がある。留学という目的だけを考えれば合理的な選択とは言いがたいが、フィクションのなかの横浜にずっと惹かれていた私にとって、この街に住むこと自体がひとつの動機だった。
だが、長く暮らすうちに、憧れの像は静かに書き換えられていった。実際に暮らしてみると、フィクションが切り取っていたのはこの街のほんの一面にすぎないことがわかってくる。1859年の開港以来、横浜には絶えず人と言葉が流れ込んできた。山下町の外国人居留地から中華街が育ち、繁華街の裏手には韓国語の看板が並ぶ一角がある。市内に暮らす外国人の数は年々増え続けており、中区では9人に1人が外国籍だという。山手の坂を上れば西洋館が並び、中華街を歩けば中国語が絶えず耳に届く。異なる時代に、異なる事情でこの港にたどり着いた人々の生活が、街の風景のなかに幾重にも折り畳まれている。そしてそのことは、数字には表れない部分にも作用しているように思う。住まいを探すとき外国籍を理由に断られることも比較的少なく、日常のなかで異邦人であることを強く意識させられる場面も少ない。開港以来この街に積もってきた他者との共存の時間が、空気のようにしみ込んでいるのかもしれない。
ただ、その重層性を手放しで祝うわけにはいかない。1923年の関東大震災の際、流言を信じた人々によってこの地域で多くの朝鮮人が殺された。そもそも横浜の近代化は、日本が西洋文明を受け入れ、やがてアジアへの植民地支配に向かっていく歩みと切り離せない。和洋折衷の美しい街並みを歩きながら、韓国から来た私の胸にかすかなざわめきが走ることがあるのは、たぶんそのせいだ。
好きな作家のひとりである中島敦は、1933年にこの街の女学校に赴任し、8年間教壇に立った。少年時代を植民地朝鮮で過ごし、横浜を経て南洋群島パラオへ渡ったこの作家の足取りには、近代日本の膨張と収縮がそのまま刻まれている。散歩でよく訪れる山下公園は震災の瓦礫を埋め立てて造られ、戦後は占領下に接収された場所であり、図書館に向かう途中で通り過ぎる街にはかつて闇市が立っていたという。現在の風景のすぐ下に、そうした地層がむき出しになっている街。それが、長い時間をかけて私が知るようになった横浜である。
そう考えると、この街に暮らしていること、翻訳の仕事をしてきたこと、そしていまの研究のテーマ――戦後の日本語文学における朝鮮の表象――を選んだこと。そのどれもが、どこかでつながっているような気がする。植民地の記憶と冷戦の影が交差する「戦後」という時間のなかで、日本語文学が朝鮮をどのように描いてきたのかを、私は読もうとしている。そこにはつねに、移動という経験と、場所をめぐる問いがあるはずだ。
こうして振り返れば、かつて虚構のなかの風景にすぎなかったこの街が、いつしか自分の足元になっているようだ。馬車道、伊勢佐木町、元町中華街、みなとみらい……。しかしどれほど住み慣れた街であっても、それは私のものではない。在留資格という制度のもとで、この街に暮らすことを許されているにすぎないからだ。人と場所の結びつきは、愛着だけでは成り立たないのだ。この先、いつまでこの街にいられるのかはわからない。それでも、いつか私もまた、この港町の風景の一部になれたらいい。
<崔 高恩(チェ・ゴウン)CHOI Go-eun>
2024年度渥美奨学生。韓国・ソウル生まれ。東京大学総合文化研究科・言語情報科学専攻博士課程。東京外国語大学国際日本研究センター 特任研究員。専門は、日本近現代文学、日韓比較文学。日本文学翻訳者として、東野圭吾、平野啓一郎、村田沙耶香、米澤穂信、有栖川有栖など日本現代文学の翻訳も行っている。
2026年4月9日配信
-
2026.03.26
グローバル化と技術革新が急速に進む現代社会において、「地球市民の育成」は教育の重要な目標の一つとなっている。地球市民とは特定の国家や文化だけにとらわれず、人類全体および地球環境の持続可能性を考慮しながら行動できる個人を指している。特に、量子コンピューターや人工知能(AI)といった先端技術の発展は、人間の意思決定や社会構造そのものを大きく変えつつあり、地球市民の在り方にも新たな問いを投げかけている。
人工知能はすでに医療、金融、交通、エネルギー管理など、地球規模の課題解決に活用されている。AIは膨大なデータを解析し、人間には困難な最適解を提示する能力を持つが、その判断基準や価値観は人間がどのように設計したかに大きく左右される。したがって、AIを単なる効率化の道具としてではなく、人類全体の福祉や公平性を考慮した形で活用するためには、技術者だけでなく社会全体が倫理的視点を共有する必要がある。「地球市民の育成」とはAIの仕組みを理解し、その社会的影響を批判的に考察できる能力を育てることでもある。
一方、量子コンピューターは、従来の計算機では現実的に解くことができなかった複雑な問題を解決する可能性を秘めている。気候変動の精密なシミュレーション、新素材や新薬の探索、エネルギー最適化など、地球規模の課題に対して革新的な解決策をもたらすと期待されている。しかし同時に、暗号技術の無力化など安全保障やプライバシーに関する新たなリスクも生じる。量子技術の恩恵と危険性の両面を理解し、国境を越えた協調とルール形成を重視する姿勢こそが、地球市民に求められる資質である。
これらの先端技術が示しているのは、もはや一国単位の判断では対応できない問題が増えているという現実である。AIのアルゴリズム偏見や量子技術の軍事利用といった課題は、国際社会全体での合意形成なしには解決できない。したがって、教育の場では技術的知識に加え、多文化理解、科学リテラシー、そして地球規模で物事を考える倫理観を統合的に育成することが重要となる。
「地球市民の育成」とは、単に国際的に活躍できる人材を育てることではない。量子コンピューターや人工知能という強力な技術を前にして、「それを何のために使うのか」「誰の利益になるのか」を自ら問い続けられる人間を育てることである。技術が人類の未来を左右する時代において、地球市民としての自覚と責任を持つことは、もはや理想論ではなく、不可欠な現実的課題であると言えるだろう。
<マスティヤゲ ドン スディーラハサランガ グナティラカ MASTIYAGE DON Sudeera Hasaranga Gunathilaka>
国立研究開発法人産業技術総合研究所研究員。東京科学大学(旧:東京工業大学)大学院で工学(博士)を取得。2024年渥美奨学生。専門は量子・AI・高性能計算の融合による次世代計算科学の研究。スリランカ出身。
2026年3月26日配信
-
2026.03.19
リニア中央新幹線ができると東京―大阪間が約1時間でつながります。東京と大阪が一つの生活圏内に入ってしまうのかもしれません。大阪はどのように変わるでしょうか。既に東日本の地方都市、例えば新潟市や松本市の若者の間では、方言があまり使われていないと聞いています。若者が使う大阪弁にも標準語が大量に取り入れられるなど変化が指摘されています。20年後、30年後の大阪弁は消えることはないとしても標準語の強い影響のもとにおかれるかもしれません。
「明治革命」(政治学者の渡辺浩や苅部直は、明治維新が「革命」であることを強調している)以前の日本は、西と東の国言葉が通じないのはもちろん、江戸から少し離れるだけでも言葉遣いが異なるほど、非常に多様で豊かな方言を誇る社会でした。1894年に朝鮮を視察した政治家の荒川五郎が、違う地方からきた人でもコミュニケーションできてしまう朝鮮の事情に驚愕したように、明治前半期までの日本には全国統一の「標準語」は存在しませんでした。それが「廃藩置県」を契機として、日本社会は大きく姿を変えていくことになります。
政治学者の河野有理が指摘しているように、福沢諭吉は当初、この廃藩置県による日本社会の「郡県制」への転換を高く評価しました。「郡県制」とは簡単に言えば全国が統一された中央集権制のことでしょう。それに対して「封建制」は世襲する領主が地方を治めている分権的社会です。『学問のすゝめ』等において、福沢は徳川時代の「封建制」を、門閥に縛られ自由な活躍を阻まれた「怨望」の蔓延する社会であると批判し、「郡県制」こそが人民の解放をもたらすと考えたのです。
ところが、1877年の西南戦争以降に著した『分権論』において、福沢の論調は一変します。廃藩置県で実現した「郡県制」の弊害、とりわけ「東京一極集中」のリスクを強く懸念するようになりました。政治学者の松田宏一郎が指摘しているように、福沢は、かつての封建制下における諸藩の「競争」が、実は日本人の活力や「報国心」を育む原動力であったと再評価したのです。
藩が無くなり、あらゆる権力や富、人材が東京に一極集中する社会。表面上は学問や芸術が進歩し、穏やかで洗練されて見えるものの、福沢はそれが最終的に「薫もなく臭もなき群民の居処」となり、日本人が「無気無力」の極地に沈むことを危惧しました。誰もが政府の官職を狙える流動的な社会になった結果、限られたポストを巡って「怨望、嫉妬、阿諛追従(あゆついしょう)」ばかりが蔓延する事態を恐れたのです。
歴史学者の與那覇潤は、福沢が維新を「封建制」から「郡県制」への転換として捉えていたことを、「中国化」と表現しました。これは、宋代中国のように経済や社会を自由化する半面、政治秩序は一極支配で維持するシステムへの移行を意味します。
視点を変えて隣国・朝鮮を見ると、そこでは日本よりはるかに早く「郡県制」が定着していました。政治学者グレゴリー・ヘンダーソンは、朝鮮社会を中国の政治制度の縮小版であり、社会的流動性が極めて高く、ソウルを頂点とした中央集中的な「渦巻型構造」を持つ社会だと分析しています。 江戸時代の朱子学者・雨森芳洲も、「朴射夫」という朝鮮人から本質を突く話を聞き留めています。「わが国は郡県制であり、身分上昇が容易なため、常に賄賂や政争が絶えず世の中が騒がしい。身分が定まっている日本が羨ましい」というのです。
朝鮮の「郡県制」がもたらしたのは、福沢が恐れた「無気力」とは異なる現象でした。それは、流動的社会のなかで原子化された個人が、ソウルという中枢に向かって激しい上昇気流を生み出すダイナミックな政治構造でした。この構造は、植民地支配や朝鮮半島の南北分断を経て、現代の韓国にも引き継がれています。李承晩大統領の独裁や軍事クーデター、歴代大統領の逮捕・自殺といった激しい政治的葛藤や 最近の尹錫悦前大統領による非常戒厳も、この「ソウルへの渦巻き」に由来します。しかし同時に、そのエネルギーが韓国のダイナミックな政権交代を実現する原動力になっているのも事実です。
現在、日中韓の「郡県制」の在り方は大きく枝分かれしています。韓国がダイナミックで、たまには危険そうな民主主義体制を築き、中国が「民主集中制(共産党一党体制)」へと着地したのに対し、日本の「郡県制」は、政権交代があまり起きない独特の民主主義体制を見せています。(その原因を與那覇潤は「再江戸時代化」と語りますが、非常に大胆な話なので、今後じっくり検討する必要があるでしょう。)
政治学、とりわけ日本政治思想史の研究者たちは、19世紀後半に日本で起きた明治維新という急激な変化を、当時の知識人が、「郡県制」と「封建制」という問題から、どのように考えていたのかを取り上げてきました。その議論を東アジア諸国に拡大することもできるでしょう。19世紀後半から20世紀初頭は、明治維新をはじめとして辛亥革命など東アジアに大きな変化が起きた時期です。この時期、それぞれの国では、「封建制」と「郡県制」をめぐってどのような議論があったのでしょうか。この問いから歴史を捉え直すことで、各国の近代化をめぐる議論の違いがより鮮明に浮かび上がってきます。そして、「近代」と言われるこの時期を研究することによって、初めて現代の東アジア諸国の社会を理解できると思います。東アジアの「近代」という問題を理解する上で、思想史は重要なヒントを与えてくれます。
<崔民赫(チェ・ミンヒョク)CHOE Min-hyeok>
東京大学大学院法学政治学研究科附属法・政治デザインセンター特任研究員。東京大学大学院法学政治学研究科で法学(博士)を取得。2024年度渥美国際交流財団奨学生。専門は近代政治思想史の日韓比較研究。韓国聖公会大学社会科学部卒業。韓国海軍士官学校日本語教官を務めた。