SGRAエッセイ

  • 2024.10.09

    エッセイ775:エマヌエーレ ダヴィデ ジッリォ「宗教における『自民族中心主義』と『脱民族中心主義』~世界宗教の条件について~」

    私は仏教思想と仏教的な信仰に興味を持ったキリスト教文化の西洋人だ。「キリスト教思想と仏教思想」、「キリスト教的な信仰と仏教的な信仰」を両方とも自分の今の思想と精神性の大事な一部*だと思っている。   昔、日本の多くの仏教者とお話をした時、私はよく次の二点を述べていた。仏教思想と仏教的な信仰を理解し受け入れるためには、キリスト教文化の西洋人としての自分を超えなければならない(東洋的なものを西洋的なカテゴリーで理解しようとするのではなく、東洋的なカテゴリーで理解すべきだ;相手のことを相手のカテゴリーで理解すべきだ)、と。しかし、東アジアの仏教者側では何が待っているのだろうか。私のような人を迎えるための「心の準備」ができているのだろうか。私のように「自分を超える」という心構えができているのだろうか、と。   多くの相手は、私が言おうとしたところのポイントをあまり理解できなかった気がする。その時から何年もたった今、特に後段の「心の準備」ついて詳しく述べたい。私はこれまで多少の無理をしてでも、よく異文化の相手に合わせてきた人だが、今回は純粋にキリスト教文化の西洋人として語りたい。   キリスト教文化の西洋人から見れば、キリスト教以外の宗教はまだ「自民族中心主義(エスノセントリズム)」に思える。   「自民族中心主義」とは、自分たちの育ってきたエスニック集団(族群)の言語と伝統文化や宗教などは基本的に自分たちのものだとか、自分たちにしか理解できないとか、万が一理解されてしまった場合、逆に嬉しくないとか、悔しいとか、大事なものを関係ない人たちに持っていかれてしまったとか、盗まれてしまったとかいう感覚のことだ。これは体験的な定義だ。文化人類学や社会心理学の世界では他にも定義が存在*している。   宗教の世界では、「自民族中心主義」の典型的な特徴はどのようなものなのか。私が触れた日本仏教の場合は次のような話になる。   特徴その一。世界のどこの人であろうと、日本語でお祈りしなければならない。日本の読み方でお経を唱えなければならない。本尊は仏像であれば、アジア人の顔をしている。文字曼荼羅(まんだら)であれば、漢字で書かれていて、何と書いてあるかすぐには分からない。バイリンガルと認められている私にとって、この点はむしろ好都合だが、そうでない外国人にとっては大変な壁だ。外国語で祈らなければならないことを受け入れられる人間は今の世界でもあまり多くない。   特徴その二。聖典(経典、宗祖の著作、後の歴代法主や学僧たちの注釈書)はすべて外国語に翻訳されているわけではなく、一部だけだ。多くの注釈書は翻訳されていないし、教団自体が翻訳させたくないと言っているケースすらある。理由は様々であろう。私が聞いているのは、「外国人には理解できないから混乱させてしまうかもしれない」というものだ。   特徴その三。海外でも教団のトップにはやはり日本人がいなければならず、外国人はあまりいない。その宗教が生まれ発展した人種の人しかその宗教のトップにはなれない。外国人がなるという可能性すらまだ考えづらい。   現代のキリスト教文化の西洋人には、これらはすべて自民族中心主義の典型的な特徴に思える。   このようなことを言っている者たちがいる(キリスト教文化の西洋人ではない者たちだ)。「自民族中心主義」とは西洋人たちが自己批判で考え出した概念で、西洋人でない者たちとは関係ない、と。西洋的な概念で、例えばアジア人の文化と歴史とは関係のないものだ、と。   私なら本能的にこう答えたくなる。人種の違いを乗り越えるということは、西洋的な概念だけなのだろうか。人種の違いを乗り越えるということは、平和的な人類に進んでいくための当然で自然なステップではないだろうか。   このようなことを言っている者たちもいる。我々の宗教も万人に開かれているよ、と。しかし、上記のような自民族中心主義的な特徴はそのまま残っている(その宗教が生まれ発展した人種の人たちと同じ言語で祈らなければならない、など)。   仏教文学関係の資料を日本人の研究者と同じやり方で日本語で研究してきた私は、日本の仏教者を名乗る一部の者たちに色々言われてきた。まだ仏教関係の難しいテキストを読めていなかった時は「あなたには難しいでしょう」と。読めるようになって研究上成果を出せるようになった時は急に変わって、このようなことを言われた:「日本的なものは日本人にまかせて、あなたは日本人たちがどのように日本的なものを研究しているか、それだけを研究してくれればいいんだ。イタリア語で。イタリアで」とか、「なんでこんなところに来るんだ?!あなたは他のところで違うこともできるはずなのに」とか、「日本的なものを日本人よりも理解できると言おうとしている。あなたはそう思われる」とか(意味について様々な解釈が可能であろう)。   私は博士号を取得するためにやっていただけで、西洋人として日本人の宗教者たちに何かを見せようなど、少しも思っていなかった。「西洋人」「日本人」という区別もしていなかった。区別していたというなら憧れていたからだ。一部の人にそのように思われていたと聞いた時は寝耳に水だった。   東アジアの仏教者たちが昔受けてしまったトラウマのようなものが関係しているかもしれない。19世紀末には、西洋人による現代的な仏教学研究が誕生する。「社会進化論」*と植民地主義の時代だ。この時代の、東アジアの仏教者に対する西洋の多くの学者の態度は次のようなものだったと言われる。仏教はインドで生まれた、と。元々インドヨーロッパ語族の人たちの宗教だ、と。つまり、我々西洋人の先祖たちの宗教だった、と。仏教はその後、インドから東アジアと東南アジアに移動し、これらの地域の異質な文化と混ざってしまい、変質した、と。よって、本当の仏教はインドの仏教だけだし、仏教の本当の本質はインドヨーロッパ語族の正当な継承者である我々西洋人たちにしか理解できないであろう*、と。東アジアの仏教者たちはこのような態度をとられて嫌な思いをされたであろう。ここは、その時代の西洋人たちが悪い。この歴史から考えれば、日本の仏教者を名乗る一部の者たちが私に言っていたことは理解できる。「なるほど、最初はそう思われるだろうな。仕方ないかもしれない」と。   私が日本で最初にお付き合いした方は、ご家族の信仰の関係で仏教者だった。今のキリスト教会は家庭事情があるのであればキリスト教以外の信仰も同時に持っていて良い。キリスト教を否定さえしなければパートナーの信仰も受け入れて、同時にやっていて良いということを許してくれる。他の宗教はどうか。   前ローマ法王ベネディクト16世はこのようなことまでおっしゃっていた。「東洋や、キリスト教以外の偉大な宗教に由来する本物の瞑想法の実践は、混乱している現代人にとって魅力的であり、祈る人が外的なストレスの中にあっても、内的な平安をもって神の前に立つことを助ける適切な手段となりうる」*と。   キリスト教以外にもこのような姿勢はあるのだろうか。東アジアの仏教者たちはキリスト教的な瞑想法の何かを取り入れようと考えたことがあるのだろうか。   キリスト教には他に、「聖霊降臨の神秘」という出来事がある。聖霊は十二人の使徒たちに下り、そうすると使徒たちは突然に世界の言語を色々と話せるようになる。聖霊は、世界の全ての言語で全ての人に福音を伝えてほしいと最初から考えておられるようだ。アラム語だけでなければならないことはない。へブライ語だけでも、ギリシャ語だけでも、ラテン語だけでなければならないこともない。これは最初から霊的な次元で決まっているはずで、使徒たちの言葉にも現れている。異邦人(外国人)とそうでない者とか、奴隷とそうでない者たちとか、もうそのような区別など存在しない*、と。   キリスト教の「脱民族中心主義」は最初から始まっているはずだが、歴史的に本格的に始まるのは、おそらく東西教会の分裂(11世紀)の時であろう。そこから東の教会(正教会)はラテン語と違う言語で色々とやり始める。正統派総主教ももちろん、ローマの人ではない。その次は宗教改革(16世紀)の時であろう。M.ルターは聖書をドイツ語に訳す。プロテスタント教会の誕生だ。ローマ教会では、まだラテン語以外の言語を使ってはだめだという時代だった。最後に、カトリックの世界では第2次バチカン公会議(1962年)の時代がやってくる。その時はカトリックの世界でも次のようになる。世界各国ではその国の言語でお祈りして良い。ラテン語でなくとも良くなる。ごミサや礼拝も、それぞれの国の言語で行ってもいい。聖書はもちろん、教父たちや聖人たちの著作も全て、世界の主な言語に翻訳される。今はアジア人やアフリカ人の枢機卿もいらっしゃるし、みな法王にもなれる。   このようにキリスト教の世界では「脱民族中心主義」は進んでいる。これこそ世界宗教であるための条件ではないか(私の中の「キリスト教文化の西洋人」の生の声だ)。   キリスト教以外の宗教も、世界宗教か海外での人間関係の拡大を目指すのであれば、キリスト教会の歴史上の様々な分裂と争い、自民族中心主義的な過ちの歴史から学び、似たような「脱民族中心主義」を成し遂げるように努力することをお勧めしたい。でないと、家庭事情や人間関係のような理由がなければ、現代のすべてのキリスト文化の西洋人にとって信仰として受け入れることがまだ難しいであろう。せっかく西洋の主な精神性では「脱民族中心主義」が進んでいるのに、再び異国の自民族中心主義的なものに魂のケアーを任せるのか。逆戻りではないか、と。   海外での人間関係の拡大や世界宗教を目指している各教団に告げたい。その目的を実現するということは、西洋も含め海外で何人もの信者を持てば良いだけの話ではない。現代のキリスト教文化の西洋人たちの感覚のことも慎重に考えていただきたい。そして、昔の西洋人たちと同じ過ちをしてほしくない。世界では、すぐには理解できない遠い言語で祈ろうとして、「自分はいったい何をやっているんだろう」と違和感を持ち続ける者たちもいる。「重要なテキストはまだすべて翻訳してくれているわけではないのか」、と不信感までいだく者たちもいる。「結局、その教団のトップにはその教団が生まれ発展した人種の人たちしか行けないのか」、と差別主義を疑う者たちすらいる。 私は、翻訳の点ではいつでも協力したい。   海外での布教と人間関係の拡大を考えている各教団のお役に立てればと願いつつ   Giglio(ジッリォ), Emanuele(エマヌエーレ) Davide(ダヴィデ) 東京、2024年9月28日   *注釈   注釈付き本文   <エマヌエーレ・ダヴィデ・ジッリォ Emanuele_Davide_Giglio> 渥美国際交流財団2015年度奨学生。2007年にトリノ大学外国語学部・東洋言語学科を首席卒業。外国語学部の最優秀卒業生として産業同盟賞を受賞。2008年4月から2015年3月まで日本文科省の奨学生として東京大学大学院・インド哲学仏教学研究室に在籍。2012年3月に修士号を取得。2014年に日蓮宗外国人留学生奨学金を受給。仏教伝道協会2016年度奨学生。2019年6月に東京大学大学院・インド哲学仏教学研究室の博士課程を修了し、哲学の博士号を取得。日本学術振興会外国人特別研究員。現在、身延山大学・国際日蓮学研究所研究員。医科大学にて哲学講師・倫理学講師・国際コミュニケーション講師。工科大学にて日本語講師。NHKバイリンガルセンター所属。
  • 2024.09.26

    エッセイ774:葉文昌「『歩きスマホ』は悪か?」

    新テクノロジーが出るたびに、世の中では是か非かの論争が起こる。携帯電話が普及した頃は電車内の通話問題、最近では歩きスマホ問題だ。   日本では車内の携帯通話は悪である。会話は良いのに、なぜ携帯はだめなのだろうか?2000年代の新聞で、会話は対話が聞こえるから不快にならないのに対し、通話は片方だけ聞こえるから不快に感じるのが禁ずる根拠という専門家の意見を見たのを覚えている。日本では車掌による懸命な肉声アナウンスによって、日本人の「マナー」は大変良くなった。最近でも私が路線バスで小声で着信通話していたら運転手に「車内での通話はお止めください」とアナウンスされたことからして、車内通話が悪であることは健在のようだ。人は環境に順応して聞きたくない音を無視することができるはずなので、本当にこれで良いのか?   車内通話禁止により生じたおかしな例として、2000年代に東京に行った時のエピソードを紹介する。女性が電車内で通話をしていた。声を抑えていたので気にならなかったが、向かい席のお酒片手の酩酊中年男二人組が通路越しに大声で、「電車の中では通話しちゃだめじゃないのか」と絡む。女性は無視してかたくなに通話し続けていたが、男たちの執拗な絡みにたまりかねて席を移動してしまった。心の中で酔っ払いに屈するなと応援していたので残念である。「あなた達の声と酒の方が迷惑だ」と言いかけたが、車内通話は明らかな悪なのだから女性の分が悪いことになるのだろう。   一方で台湾はどうか?録音による放送だったせいか、誰も気にせずに通話し放題で、マナーの悪さが目立っていた。当時の携帯の音質の悪さが、大声での通話に拍車をかけていた。しかしその後のスマホの飛躍的進化で、今では車内通話で迷惑に感じることはなくなった。普通の会話でも声を大きくすれば不快になる。「車内通話は悪」とまでする必要はあったのだろうか。新技術によって出たマナー問題を、技術やマナーが進化する前に規制すると、その規制は地縛霊のように居付いてしまう。   スマホにまつわるもう一つの困った規制は、シャッター音である。日本ではスマホで撮影する時は、シャッター音を出すよう規定されている。盗撮防止のために、技術の進化に逆らって音を出しているのである。日本と韓国以外では、スマホカメラは音が出ないのが常識。だから海外で静粛が求められる場面で写真を撮ると、「なんでスマホでわざわざ音出すの?」と周りから白目を向けられて恥ずかしい思いをする。さらに犯罪現場で犯人を撮影すれば事件に巻き込まれるリスクもある。アプリを入れたり、海外でスマホを買ったりすれば音は出ないが、生活している日本でシャッター音が出ないスマホを使えばやましいことをしていると思われるのでやりたくない。   ちなみに台湾の通勤電車MRTでは規制がないわけではなく、シンガポールに見習って飲食とガムは厳格に禁止されている。マナーは各人の良識にゆだねるべきなので窮屈に思ったが、90年代に台湾の満員通勤バスでの飲食で他人への迷惑と車内が不潔になっていたことからして、規制はやむを得ないと思う。車内飲食規制は、より普遍的だと思う。   続いて最近の「歩きスマホは悪」とみなされる風潮である。私の所属する組織では、キャンパス内で「歩きスマホ」する学生を見かけたら注意するよう通達がきた。理由は「危ないから」とのことである。「歩きスマホ」とは、歩きながら視覚メディアによる情報摂取である(「歩き情報摂取」と言おう)。「歩き情報摂取」の日本での大先輩は二宮金次郎で、今でも多くの小学校で薪を背負って歩きながら読書に没頭する彼の銅像が勉学のアイコンとして立っている。地図を見ながら歩く観光客も「歩き情報摂取」だ。「歩きスマホはいけない」と言っている人たちは観光地で紙地図は使わないのだろうか?二宮金次郎の銅像を見てクレームしたことがあるのだろうか?紙は良くてスマホはだめというのは、新テクノロジーに対する拒否反応だと思う。   学生の「歩きスマホ」に対する教員の注意の呼びかけには戸惑った。危険性は認識しているので私は「没入型情報摂取」はしないが、スマホで時間は見る、地図は見る、メッセージ着信があれば確認する、だから「歩きスマホは悪」とされては困るのだ。キャンパスで「歩きスマホは悪」になれば、一時期流行ったポケモンGoのような拡張現実もできなくなる。歩いてスマホをすれば年寄りから「いけないよ!」と注意が来るような窮屈なキャンパスに若者は集まるのだろうか?キャンパスでも歩道でも、子供でも障がい者でも安心安全に歩けることを目指すべきなので、「ながらスマホ」で歩行者がとがめられるのは本末転倒であり、「私はこれからも歩きスマホはします」宣言をさせてもらった。   ちなみにここ2-3年は「ながら自転車」も頻繁に見かけるようになった。私は若者の「ながら自転車」を見かければ、「他人にぶつけたら将来が大変だぞ」と注意している。他人に危害を加える可能性があるので、「歩きスマホ」とは次元が違う。これこそに注意を促すべきだろう。歩行者は他人に危害は加えないので、自己責任であるはずだ。   <葉文昌(よう・ぶんしょう)YEH Wenchang> SGRA「環境とエネルギー」研究チーム研究員。2001年に東京工業大学を卒業後、台湾へ帰国。2001年国立雲林科技大学助理教授、2002年台湾科技大学助理教授、2008年同副教授。2010年4月より島根大学総合理工学研究科物理工学科准教授、2022年より教授。     2024年9月26日配信
  • 2024.09.12

    エッセイ773:尹在彦「海を越え歌は響き渡る」

    YouTubeのアルゴリズムは、個々人を特定の情報空間に閉じ込めるという問題点(いわゆる「フィルターバブル」)があるが、個人的にはそれほど抵抗はない。その閉じられた空間が「意外と広い」ということもあるからだ。YouTubeの「おすすめ」に表示されるものは「再生回数稼ぎ」のための低レベルの動画ばかりではなく、知識の面で有益な情報も少なくない。最近は有名YouTuberではない人の動画も表示されたりする。アルゴリズムも批判を意識し、それなりに進化しているのだ。   2024年6月26、27日、日韓の交流サイト(SNS)で同時に話題になる出来事があった。K-POP女子アイドル「NewJeans(ニュージーンズ)」が日本で初めての公式イベントを東京ドームで開催し、そこで披露した一曲が大きな関心を集めた。1980年代に一世を風靡した松田聖子が歌った「青い珊瑚礁」(1980年)だ。44年前の名曲が、K-POPアイドルによりカバーされたことで、日韓両国のファンたちが熱く反応した。数多くの動画が既にYouTubeにアップロードされていた。   NewJeansは2022年7月にデビューした女子5人のアイドルグループ。韓国だけでなく多国籍メンバーで構成されており、「青い珊瑚礁」で注目されたのはベトナム系オーストラリア人のメンバー(ハニ)だった。男子アイドルBTSと同じ事務所(「HYBE」)の傘下に属しているが、「レトロ」「イージーリスニング」を標榜した点から若年層だけでなく、やや上の年代までファン層を広げている。   NewJeansの日本上陸を受け、YouTubeで関連する動画や反応を調べてみた。ファンたちがアップしたとみられる「直撮」(韓国アイドル界隈で使われる用語で、「ファンが現場で撮った動画」)の動画が多数見られた。そこでYouTubeのアルゴリズムが新たな動画の存在を教えてくれた。日本人女性たちが韓国のテレビ番組で「青い珊瑚礁」を歌う動画だ。再生回数は既に100万回に迫っており、かなり注目されていることが分かるが、私にはなじみのない番組だった。   タイトルは「韓日歌王戦」(日本版は「日韓歌王戦」)。日韓それぞれのオーディションを勝ち抜いた14人が両国の「古き良き時代の歌」を披露し、競い合う番組だ。審査員として松崎しげるなど両国の大物歌手が出演していた。   YouTubeには「韓日歌王戦」で歌われた多くの名曲がアップロードされていた。最初は意識していなかったが、段々とある変化もしくは事実に気付かされた。これまで韓国のテレビ番組で「日本の歌」が「日本語」で堂々と歌われたことがなかったということだ。MBNは「総合編成チャンネル」で、ケーブルチャンネルだが地上波テレビ局と編成の面で大差はない(ニュースやバラエティー番組が放映できる)。放送に関係する法律などで日本の歌が禁止されているわけではないが、これまでは「暗黙のルール」がそれを阻んできた。今回、その見えないタブーの一部が崩れた。私はかつて同テレビ局の系列会社(新聞社)で働いていたので内部を取材したことがあるが、政府の(暗黙の)了解は必要だった。   一説によると「韓日歌王戦」で歌われた「青い珊瑚礁」は、NewJeansのプロデューサー(もしくは所属事務所の代表)の選曲の参考になったという。原曲になかった振り付けがそのままNewJeansのコンサートで取り入れられたのが根拠だ。「韓日歌王戦」動画のコメント欄も興味深い。歌を純粋に楽しむコメントが多く、そこに国境は見られない。この番組は放送時間帯視聴率1位を記録した。単純に日本の歌が韓国のテレビ局で歌われた以上に有意義な結果を残したのだ。日本側の出演者の一人は歌唱力が韓国で大きな話題になり、長きにわたった無名歌手としての人生が報われたということで、日本のフジテレビで取り上げられた。   同番組の人気を受け、続編「韓日トップテンショー」も放映中だ。最近は日本での「韓流の先駆け」とも呼ばれた桂銀淑が舞台に立ちヒット曲を日本語で歌った。コメント欄には昔の彼女の歌声を覚えている日本のファンたちの反応も少なくない。韓国では近年、日本のいわゆる「シティ・ポップ」が再発見され「はまった」という人も増えている。   コロナ禍が立ちはだかった両国間の文化交流は再び活発化している。メディア界では合作プロジェクトが続々とスタートした。少なくとも文化では「タブーなき享受」が長らく続くことを願う。   <尹在彦(ユン・ジェオン)YUN Jaeun> 立教大学平和・コミュニティ研究機構特別任用研究員、慶應義塾大学メディア・コミュニケーション研究所非常勤講師。2020年度渥美財団奨学生。新聞記者(韓国)を経て、2021年一橋大学法学研究科で博士号(法学)を取得。国際関係論及びメディア・ジャーナリズム研究を専門とし、最近はファクトチェック報道や、国際人権規範と制度化などに関心を持っている。     2024年9月12日配信
  • 2024.08.02

    エッセイ772:賈海涛「小説『繁花』のドラマ化:虚無から主旋律の「大きな物語」へ」

    金宇澄の長編小説『繁花』は学部4年生の頃から研究対象としてきたもので、昨年提出した博士論文の中でも一章を割いてこの作品を論じた。ここ数年の中で上海語の方言語彙を取り入れた有数の小説であるだけでなく、戯曲・舞台劇・ラジオやテレビドラマなど様々な様式に改編され、広く注目されている文学作品でもある。金宇澄自身は絵を描くことが好きで、小説の中に多くの手描きのイラストを取り入れ、近年は各地で個展を開き、画集を出版するなど、すでに画家と言えるほどになっている。   2024年1月、ウォン・カーウァイ監督のドラマ『繁花』が中国大手の動画共有プラットフォームであるテンセントビデオで配信され、大きな反響を呼んだ。近年中国本土で高品質のドラマが非常に少ない現状で、その質と影響力は否定できない。ただし、『繁花』の「素晴らしさ」は、監督の一貫した高水準の撮影によるものであり、原作の物語を上手く翻案した「素晴らしさ」ではなかった。ドラマが配信された後、原作の研究者としてレビュー記事を執筆しようと考えたが、ドラマの内容は原作の物語をほとんど踏まえず、人物設定や背景の一部を借りただけで、全く新しい物語とも言えるので見送った。   原作の『繁花』は、1960年代から70年代の文化大革命期、そして80年代以降の経済成長の時代という二重のタイムラインで交互に語られる。特に文化大革命期の物語が高く評価された。上海で育った主人公のひとりである少年時代の阿宝はブルジョア階級家族の出身で、旧フランス租界にあった西洋風の家屋に住んでいた。文革の階級批判によって家財が没収され、幼なじみの女友達も家政婦も姿を消した。家族は上海近郊の労働者階級向けの団地に強制的に引っ越しさせられ、プライバシーのない生活を余儀なくされた。その経験は後に貿易に携わる阿宝の虚無的な恋愛観や人生観に大きな影響を与え、80年代の物語における彼の言動を理解する上で不可欠な背景といえるだろう。   しかし、ドラマ『繁花』は文革期のタイムラインがほぼ削除され、阿宝は単に経済成長期の発展を追い風に対外貿易で最初の資金を稼ぎ、成功して株式投資に進出する商人というルーツがない人物像として描かれている。この人物像の背後には、中国の改革開放政策や90年代の上海浦東開発政策により、中国社会全体が急速な発展を迎えようとした物語が含まれている。このような「大きな物語」へ賛歌を捧げる傾向を強く感じてしまう。これは90年代というタイムラインが具体的な歴史事件や背景を意図的に隠しながら、登場人物たちが食事会をする場面を次々と描き、物語の筋が不明瞭なまま虚無的な終わりを迎える原作の流れとは大きく異なっている。   小説のドラマ化では、必ずしも原作の物語を忠実に再現するわけではない。しかし、原作で最も評価の高い部分が削除され、核心となる虚無感が国家発展を背景にした物語に変えられてしまうと、そのドラマは「全く新しい作品」として認識されていると言ってもよい。ドラマ『繁花』のような高品質な作品は稀にしか見られないが、中国経済の発展と社会の進歩を伝えようとする公式の「主旋律」を謳うものは、決して稀なものではない。   <賈海涛(か・かいとう)JIA Haitao> 一橋大学言語社会研究科博士課程修了。博士(学術)。神奈川大学外国語学部中国語学科外国人特任助教、東京工業大学非常勤講師、上海大学(東京校)非常勤講師、2023年度渥美奨学生。人文系ポッドキャストの運営者。研究分野は中国現代文学、文学言語で、主な論文に「方言文学における「叙言分離体」――五四時期の文学言語の変容に関する議論を中心に」『中国:社会と文化』(37)などがある。     2024年8月2日配信
  • 2024.07.18

    エッセイ771:シム ミンソプ「私の奉仕活動を振り返り、私を支えてくれた皆様へ捧げる書簡」

    窓を通り抜ける風の音が聞こえるほど静かな夜明け。日本では渥美国際交流財団の30周年イベントがこの時間帯に行われているだろう。私は小さな照明と温かいお茶を親しみながら、英国で、この1年間を振り返ろうとこの文を書いている。最大のイベントに参加できず残念でならないが...   2023年3月の真夜中過ぎ、眠りにつこうとしたその時、メール通知音で目が覚めた。 「トルコ地震の被災地にスタッフとして参加できれば連絡ください」   2023年の新年、始まりのドキドキ感に満ちていた2月、トルコとシリアは大地震に襲われた。   世界中から救援活動と支援の手がトルコに向かっていた。少しずつ温かい春の気配が冬の名残を追い払いつつある時期、家族を残し英国へ向かった。いつも憂鬱だと感じる英国の天候は、銀色の海に静かに浮かぶ街のように深い霧に覆われていた。私を待つチームは紅潮した顔で、突然の準備に緊張感が漂っていたが、久しぶりの再会を喜んでいる様子だった。長い移動の疲れを癒す余裕もなく我々はトルコに向かった。   “惨状だった。これまでの救援活動の現場とは比べものにならないほど惨かった”   現場を確認し、本格的な活動に備えて救援物資の調整のため少し離れた補給所で活動を始めた。本当に何も考えられないほど忙しい日々が続いた。ほんの少し目をつぶって仮眠だけでも取ろうとしたその時、周りで騒々しい声や悲鳴が聞こえ、血を流しながら倒れる仲間の姿が見えた。救援物資を強奪する現地の人々で大混乱になり、私たちは呆然とただ見守ることしかできなかった。   “私たちの奉仕活動はこのような人々のためだったのか。私たちの活動の意味は一体どこにあるのか”   答えを見出せないまま活動を終えようとしていた頃、団体からまた別の連絡があり、団体の配慮と支援のお陰でガーナに向かった。私と妻によく懐いていた子どもが、私と妻に会いたがっているという。事故で、もう少しでこの世を去らねばならないかもしれないという悲しい知らせだった...私は疲れ切った体で飛行機に乗り、何も考えずガーナに向かった。残念ながら体と心は疲労の極みにあった。しかし到着して、私の心はすぐに罪悪感に襲われ、涙が溢れとまらなかった。その小さな手には、私たちの団体の名前が書かれた読めない手紙と、私と撮った写真が握りしめられていたからだ。   “この小さな子供にとって、私は親友であり、生きる希望だったのではないか”   「悪かった、遅くなって。もしかしたら私は君にとって人生の全てだったかもしれないのに、ただすれ違う一時の出会いだと思ってしまい、自分の疲れた心を優先した。本当にごめんなさい」ただただ涙を流した。数日後、その子はこの世を去った。私は一緒に掘った井戸のそばに佇んで、私の真心が届くようにと祈った。   日常に戻った私は、他の皆と同じように論文執筆に集中し、日々を過ごしている。日常の流れに身を任せ、無気力になっていた私にとって、財団への参加は単なる義務だったかもしれない。しかし、参加のための準備をしている最中、鏡を見ると、いつの間にか参加への期待感で顔がほころんでいた。久しぶりの笑顔だ。1度、2度、参加が重なることで、徐々に前向きに変わっていく自分が新鮮に感じられ、活動中の日々での仲間が、私にとって次第に大切な人々と感じられるようになっていった。   私の心の変化を、財団でもすぐに分かったようだ。 「顔が随分明るくなりましたね」と、常務理事の今西さんが気づいてくださった。   空虚だった心と疲れた心を黙々と支えてくれたのが、今年の私にとっての大きな変化だった財団の存在だと思う。私の姿をただ応援し励ましてくれ、私の帰るべき場所となってくれた財団があったからこそ、自分の道を歩むことができた。   世の中が変わっていく時、共に自分自身もそのような社会と似て変わってきたのではないか。今の自分に失望し、言い訳ばかりしていた。今までは過ぎ去る時の中で、この世に生を受けた意味への答えは見出せなかったが、やっとそれを見つけた気がする。   「現場で私を必要とする人と共に生きていこう」   「国境なき医師団」での活動をより躊躇なく遂行できるようしっかりと支えてくれる渥美財団があることで、私は自分の人生の方向を決めることができた。人生への答えを見出すべく、ずっと1人で歩んできたと思っていたが、結局、だれかと共に歩むことでこそ真の意味を見出せることが、今やっと分かった。この発見が遅くなったことについての後悔よりも、感謝の気持ちが大きくなっている。   これから英国に戻り、研究員としての計画に取り組み、それが終わり次第また現場に戻ろうと思う。これが私の道だと信じて、いつか過ぎ去った時の中で答えを見出せなかったとき、誰かが「正しい道を1人で歩んできたか」と訊ねれば、答えられるだろう。「共に歩み、私を支えてくれた人がいる」と。そして、今までの過去に後悔はないと。   歩んできた道が善き道であるよう、そしてまたいつか善き影響力を及ぼすことができたらと願う。皆とこれから別の道を歩んでいくことになるかもしれないし、アカデミズムから遠のくこともあるかもしれない。それでも、皆の活動を遠くからでも聞き、知ることができれば、再び立ち上がる力を得られるだろう。   どんな私であっても財団を訪ねると、喜んで迎えてくれるという確信ができた。そしてこの確信は財団が私にくれたものだ。これからの私の進む道が財団への恩返しとなっていればと願う。   用意しておいたお茶が冷めていく今、この手紙を締めくくろうとしている。書き始めた時は名残惜しい気持ちでいっぱいだったが、30周年イベントでの同期の写真が送られてきて、皆の心が私に届いた今、再び明るい笑顔を浮かべてこの手紙を締めくくることができる。   静かでいつもより冷たい空気が漂っていた銀色の街ロンドンは、徐々に昇る陽ざしと共に金色に染まっていく。 「後輩たちに、私たちが過ごした暖かさに満ちたこの場所を譲る時が来た。皆に今のこの金色の光のように明るい未来が共にあることを願って...」   <シム ミンソプ SIM_Minseop> ロンドン大学衛生熱帯医学大学院熱帯疾病研究所特別訪問研究員。一橋大学大学院社会研究科歴史専攻博士課程満期退学。東京大学論文博士修了予定。韓国国家記録院海外史料調査委員、韓国空軍士官学校特性化専門研究室・軍事人文研究室郊外研究室研究員、朝鮮史研究会幹事、日本歴史学協会若手研究者問題特別委員。国境なき医師団ヘルスプロモーターとして、現在ウガンダで活動中。     2024年7月18日配信
  • 2024.07.04

    エッセイ770:李鋼哲「図們江ゴールデン・デルタ開発は新たに脚光を浴びるのか」

    2024年6月19日、朝鮮民主主義人民共和国(略称「朝鮮」、日本では「北朝鮮」と呼ぶ)を訪問していたロシアのプーチン大統領と金正恩(キム・ジョンウン)委員長との間で『包括的戦略パートナーシップ条約』が締結された。軍事同盟に近い「互いの国が第三国から攻撃された場合には互いに支援する」という項目が盛り込まれた。合意文書には「図們江※に架かる国境道路橋の建設に関する」両国政府間の合意も含まれたという。5月16~17日に国賓として訪中したプーチン大統領は習近平国家主席と会談し、共同声明を発表した。その中で、プーチン大統領は「(中露)両国は図們江下流域を航行する中国船舶の問題について朝鮮民主主義人民共和国と建設的な対話を行う」と約束した。   私の専門である図們江ゴールデン・デルタの国際開発が、朝露関係の変化で転機になる可能性が出てきた。33年前の1991年9月に中国・長春で開催された「東北アジア経済フォーラム」には、東北アジア6カ国から代表や専門家たちが参加したが、中国・吉林省代表が「図們江ゴールデン・デルタの国際開発」構想を提案し注目を集めた。94年には国連開発計画(UNDP)が現地調査をしてリポートを提出し、開発計画を多国間協力プロジェクトとして進めることが決まった。1995年、このプロジェクトを実行するためにニューヨークに図們江事務局(Tumen Secretariat)を設置し、関係5カ国(中国、ロシア、朝鮮、韓国、モンゴル。=日本はメンバーになることを断った)からスタッフを派遣し運営していたが、翌96年には北京に事務局を移転し現在に至る。   私は1991年に来日し94年に大学院に入学した頃、この情報に接した。そして、図們江開発プロジェクトを研究テーマとして決めた。このテーマは私にとっては特別な意味があると思い、私の生涯の課題、歴史的な使命として受け取り、30年間研究してきた。というのもこの開発計画の中国側の延辺は私の故郷であり、朝鮮半島は祖先の国であり、2つの言語に恵まれているだけではなく、北京の大学院ではロシア語を独学していたので、3か国語が分かる自分にとっては二度とない貴重なチャンスだったと思ったからである。   アルバイトで生計を立てる状況にもかかわらず、95年夏休みには現地を訪問。コロナ禍前までほぼ毎年現地調査をした。延辺は故郷であり、延吉市から120キロ先に琿春市があり、そこから30~40キロ先の防川村まで足を運ぶ。その先はロシアと朝鮮の領土で、展望台からロシアのポシェト港、図們江の対岸は朝鮮、15キロ先は日本海が肉眼で見える。現在では有数な観光地になり、近くには国連公園までできている。防川から図們江に架けられた約500メートルの橋を渡って、朝鮮の羅津・先鋒に3回も調査訪問し、バスで陸路からロシアのウラジオストックにも2回訪ねた。   2002年に中国政府が「東北大振興政策」を打ち出したが、図們江から日本海への出口が確保されたら、プロジェクトに新しい機運が生まれるだろう。23年9月7日に習近平主席が黒竜江省ハルビン市で「新時代の東北全面振興を推進する」という座談会を開いた。すると、それに呼応するように9月11~13日にウラジオストクで開催した「東方経済フォーラム」で、プーチン大統領は「ロシアは極東の重点開発戦略に着手する」と宣言した。   ただし、ロシアがどこまで本気なのか疑問もある。ロシアはなぜ米国の同盟外交に対抗して中国との同盟関係を進めないのか。報道によるとロシアの国会議長は、米国との協力関係ができるのであればロシアは中国の台頭を抑えたい、と発言しているという。中露関係はとても親密のよう見えるのに、米国中心の西側同盟に対して、こちらは同盟を作らないのはなぜだろう。両国の心底に不信感があるからだろう。   かつてプーチン大統領と胡錦濤国家主席両首脳による政治決着で、2004年10月14日に最終的な中露国境協定が締結されたが、それ以前に中国側は図們江の防川から日本海までの15キロの領土を譲ってもらい、その代わりに新疆の領土の相当な部分をロシア側に譲渡すると提案したと言われている。ロシア側がその提案を受け入れなかったことから推理すると、両国首脳は「中露関係は『上限なき協力関係』である」と言いながらも、お互いに相手を牽制していることが窺える。   中国のロシアに対する不信感は歴史が長い。1689年清国はロシアとの間で「ネルチンスク条約」を締結し、シベリア東部と極東地域は中国の領土だと決めた。しかし、1840年アヘン戦争に始まる西欧列強の中国侵略と勢力圏分割の流れに乗ったロシア帝国は、強い軍事力を後ろ盾に1860年に清朝との間で「愛琿条約」と「北京条約」を締結し、清国から約160万平方キロメートルの領土を奪ったと中国の歴史教科書で教えている。2008年に国境画定協定が結ばれ、約4,300キロの国境が最終的に確定した際は、中国のネット世論は失った領土を認めたのは「売国行為」だと政府を批判した。   今年5月の習近平主席とプーチン大統領との会談で、「図們江から日本海への出口を確保したい」という中国側の提案に対して、プーチンは「金正恩さんと相談して解決したい」と応答した。それが今回の朝露首脳会談と「共同宣言」の中に盛り込まれ、図們江に鉄道橋に加え新しい道路橋を建設することが決まったという。防川から船で日本海に出るという中国側の念願は達成できるのか、ロシアと中国、ロシアと朝鮮の間で詳細に関してどう話し合っているのか、今のところ分からない。ただし、中国側の日本海へ自由に出入りしたい30数年来の念願に対してプーチン氏は満足できる回答を出していないのは事実である。朝露間の准同盟条約の締結を含め諸合意に対して、中国側がどう思っているのか推移を見守るしかない。   朝露間の同盟が中朝同盟にどのような影響を及ぼすのか、5月の訪中でプーチン大統領は習近平主席と事前に協議して了解を得ていたのか、それとも中国を蚊帳の外に置いているのか、今までの情報では知るすべがない。中朝露の三角関係が微妙に変化していることが東北アジア地域の地政学をどう変えていくのか、さらなる観察と分析が必要であろう。   ※図們江:国連の公式名称はTumen River、日本語では「とまんこう」、中国語ではTumen jiang、朝鮮語では豆満江   <李鋼哲(り・こうてつ)LI Kotetsu> 1985年北京の中央民族大学業後、大学院を経て北京の大学で教鞭を執る。91年来日、立教大学大学院経済学研究科博士課程単位修得済み中退後、2001年より東京財団、名古屋大学国際経済動態研究所、内閣府傘下総合研究開発機構(NIRA)を経て、06年11月より北陸大学で教鞭を執る。2020年10月1日に一般社団法人・東北亜未来構想研究所(INAF)を有志たちと共に創設し所長を務め、日中韓+朝露蒙など多言語能力を生かして、東北アジア地域に関する研究・交流活動を幅広く展開している。SGRA研究員および「構想アジア」チームの代表。近著に『アジア共同体の創成プロセス』、その他書籍・論文や新聞コラム・エッセイ多数。     2024年7月4日配信  
  • 2024.06.27

    エッセイ769:小美濃彰「来し方行く末」

    かつては大学院生としての生活すら想像していなかったにもかかわらず、どうしたことか現在も研究を続けることができている。それは偶然でないにしても、すべてが決然とした判断と行動の積み重ねであったわけでもなく、ありがたい縁に導かれてたどりついたというほかない。   大学院博士後期課程への進学後、郵便局でのゆうパック配達と大学での教務補佐とのかけもちで得た収入から研究費用をわずかに捻出していた私にとって、渥美奨学生として研究活動に没頭することのできた1年はきわめて貴重なものとなった。奨学金に支えられながらゆっくりと思考を広げることができたひとまとまりの時間は、それ以前のような生活のなかで断片になっていた時間をいくらかき集めたとしても、代えることはできない。学部生の頃から積み重なっている日本学生支援機構からの借金をさらに膨らませるわけにもいかず、あれやこれやに追われていた生活も、また別の固有な時間であったとはいえど。   釜ヶ崎(大阪)や山谷(東京)における日雇労働運動史に大きな影響を与えた船本洲治という革命家・思想家がいる。船本洲治は1975年6月に沖縄米軍嘉手納基地第2ゲート前での焼身決起をもって、当時の皇太子訪沖に抵抗した。半世紀近くの指名手配生活を経たのち、今年1月に名乗りをあげた桐島聡が加わっていた東アジア反日武装戦線「さそり」のなかでも、帝国主義や植民地主義に対する船本の思想は共有されている。   その船本が猛烈な批判を突きけていた人物である梶大介の思想と活動を、私は研究対象にしている。船本洲治の思想が『新版 黙って野たれ死ぬな』(共和国、2018年)を通じて新しい読者を獲得していることを思えば、私の研究テーマは的を外してしまっているような気がしている。船本による梶大介批判があまりに激烈なために、一体どんな人物なのかという素朴な疑問から史料探索を始めて抜け出せなくなってしまったのだ。かといって、なにかを後悔しているわけでもない。   梶大介には『山谷戦後史を生きて』上・下(績文堂、1977年)という、山谷に関心を寄せたことのある人々のなかでそれなりに知られた著作がある。それを手がかりに何か関連史料を見つけて読んでいけば、この人物がいつどこで何をしていたのかを知るのは、とりたてて難しいことではない。しかしながら、山谷における地域社会と日雇労働運動の歴史という枠組みのなかで何かを考えようとすると、それだけでは梶大介をうまく位置づけることができない気もしていた。   もともと梶大介は『バタヤ物語』(第二書房、1957年)を書いたバタヤ作家として知られていた人物で、その活動と存在は何らかのルートでインドにまで伝わっていたらしい。梶大介を中心とするバタヤ=屑拾いのグループがインドの思想家・社会運動家、ビノーバ・バーベから招待を受け、2名の仲間が渡航予定ということを『読売新聞』(1960年7月29日付夕刊)は報じていた。さらに、梶大介はミサイル試射場建設の是非が激しく争われていた伊豆諸島の新島にも足を運んでいる。思いつくだけでも切りがなく、山谷における運動の前史として時系列に記述を整えただけでは何の意味もつかめないような事実がいくつも連なる。   1993年11月14日に死去した梶大介が同年7月3日に遺した自筆には、釋襤褸という法名と共に「親鸞さま ありがとうございました。/山谷さま ありがとうございました。/和田先生さま ありがとうございました。/すべてのみなさま ありがとうございました。/南無阿弥陀仏」と記されている。「和田先生」とは非戦平和を訴え、かつ「闇の土蜘蛛」による東本願寺大師堂爆破事件(1977年)が意味することの追究にも努めた真宗僧侶・和田稠である。『実践・歎異抄:浄土真実身読記』(いし・かわら・つぶて舎基金/伊豆歎異抄に聞いていく会、1994年)という講述を遺した梶大介は、念仏者としても知られていた。   梶大介の人物の活動と思想を山谷だけで見ることはできないし、また山谷という限られた地域が一体どのような広がりを持つのかということも、丁寧に考える必要があった。そのような意味で、この1年間の研究生活は博士論文を仕上げていく段階でもう一度これまでの作業を見直す、絶対に不可欠な時間であったように思う。その成果として(いまだに...)執筆中の博士論文では、日本における社会運動の高揚期でもあった1960年代に、山谷という場所において無数に折り重なっていた思想の平面を一端でも叙述できるよう試みている。   悠長に構えている場合ではないという叱咤を各方面から受けているところだが、この1年ほど自分自身の研究活動のなかで多くの知的刺激にあふれた密度の高い時間はなかった。一刻も早く博士論文を書き上げなければならない立場ながら、いまに至る道のりを振り返っては感謝の念に堪えない。   <小美濃彰(おみの・あきら)OMINO Akira> 東京都生まれ。東京外国語大学大学院総合国際学研究科博士後期課程単位修得満期退学。東京都公文書館専門員(史料編さん担当)、2023年度渥美奨学生。専門は日本近現代史・都市社会史。     2024年6月27日配信
  • 2024.06.20

    エッセイ768:金希哲「AIとロボット革命」

    ここ数年間で人工知能(Artificial Intelligence=AI)とロボット工学は目覚ましい発展を遂げました。特にチャットボットのような対話型AIや画像、動画生成AIは日常生活の中でもその影響力を確実に感じることができます。   過去、AI技術の活用性に様々な疑問が寄せられてきましたが、今ではそのような懐疑の声は聞かなくなりました。この数年、AIは囲碁で人間を打ち負かすなど新技術として評価される一方、実用的なアプリケーションとしては性能の問題があったため、実用化には悲観的な専門家も多くいました。しかし、多くの研究者が様々な分野からの研究を行い、その問題を解決できるようになりました。   この変化の中心には、過去の研究方法論を超える新しいアプローチがあります。これまではそれぞれの小さなタスクに焦点を当てていましたが、最近ではより汎用的に活用しようとする努力がなされています。最近のAIは「Transformer」という単一のニューラルネットワーク構造を基盤に発展しており、以前に提案された「画像生成専用構造」、「対話型AI専用構造」などは全てこのTransformer基盤の構造に統一されています。AI研究におけるこのような統一は、学習に必要なノウハウの公開につながり、結果的に誰でもAIを学習させることができるようになり、AI研究を爆発的に加速させました。この汎用的なデータを学習できるTransformer構造の発見により、あらゆる状況に一般的に適用できる「一般人工知能」(Artificial General Intelligence=AGI)誕生の可能性まで提起されています。   ロボット工学における革命も始まったばかりです。もともとAIとロボットは同じ研究分野の両輪でした。人間に似た創造物を作る目標は、実体的な面(ハードウェア)と精神的な面(ソフトウェア)の融合があってこそ可能になるはずでした。ロボットという実体とAIという人工的な精神は、そもそも互いに分離しては存在できないものです。しかし、その二つを同時に人間のレベルに引き上げる神話のようなことは起きませんでした。ロボットはAIを搭載しないまま、工場などでのごく単純な反復作業で価値を証明してきました。一方、AIはウェブとビッグデータの成長、そしてコンピュータの発展に支えられ、実体を持たずにウェブ上の無限のデータを基盤に成長してきました。それが今ではAIが現実世界を理解できるようになり、AIとロボットが統合されています。これはロボットがAI技術を活用して、より複雑で多様な作業を遂行できるようになったことを意味します。   私が修士・博士課程の間に進めた研究は、精密な操作をする能力にAIを適用することでした。例えばロボットによる「針に糸を通す」、「バナナの皮むき」というテーマも挑戦的でしたが、研究室の優秀で精密なロボットシステムと計算資源を使って、他の研究室では得られない精度の成果を出すことができました。さらに研究室の環境支援のおかげで、一連の面白くて挑戦的な課題を遂行することができたのは非常に貴重な経験であり、今後の研究と開発に大いに役立つと思います。   私は卒業後、Tefa Robotics(本社ソウル)というスタートアップ企業で、現実世界で実際に役立つロボットを制御できるAIを開発することに専念する予定です。近い将来、少子高齢化の影響で日本および韓国社会は労働力不足に直面しますが、私はAIとロボットの結合を通じて、この問題の解決に取り組んでいきます。   <金希哲 KIM Heecheol> 東京大学工学部機械情報工学科卒業、同大学院情報理工学系研究科知能機械情報学専攻修士、博士。TEFA Robotics Inc.に在職中。2022年度渥美奨学生。     2024年6月20日配信  
  • 2024.06.14

    エッセイ767:徳永佳晃「4年ぶりのイラン調査」

    2024年2月23日から3月7日にかけて、イラン・イスラーム共和国の首都テヘランに赴き、史料調査を行った。イラン立憲制史を研究対象として同地に2年間留学していた筆者にとって、ある程度勝手の知った場所である。しかしながら、コロナ禍後4年ぶりに訪れ、少なからず時の変化も感じられた。このエッセイでは、自分が外国人の研究者として体験した出来事を紹介し、そこから浮かびあがるイランの大学、学界の現状について簡単な展望を示したい。   まず史料調査の環境に関して、結論を先取りして述べれば、4年前と同様かむしろ改善の傾向が見られた。この結果は意外であった。イランの現状として欧米諸国との関係改善が絶望的になり、外国人への管理を強化する傾向が強まっていると聞いていたからである。もちろん、歴史史料の複写・閲覧はおろか外国人の立ち入り自体を禁止している文書館があるほか、調査可能ではあるものの担当者によって閲覧ルールが異なるなど、利用者を当惑させる状況は続いている。しかしながら、文書の閲覧申請を許可するまで数週間待たせることや、文書館に持参する紹介状の文言に細かな注文を付けるなど、文書を出し渋るような対応は見られなかった。   文書館が幾分ながら協力的となった背景には、いくつかの理由が推測できる。一つ目は文書を含めた歴史史料のデジタル化・公開の促進である。これは欧米諸国をはじめ世界的な潮流を踏まえた動きであり、非常にゆっくりとした歩み(かつしばしば逆行する)ではあるものの、イランにおいても確実に進展している。少し前までは刊行史料のみに依拠したイラン近代史の学術書、論文が多く出版されていたが、現在少なくとも同国内においては、文書その他の未刊行史料を一切用いない研究を見つけることのほうが難しい。   二つ目の理由としては、訪問する海外研究者が急減したことが考えられる。欧米諸国との関係改善が絶望的な現状において、国内の大学その他の機関で活動できる研究者はトルコ、イラク、シリアなどの近隣諸国、そして中国、韓国、日本といった東アジア地域の出身者に事実上限定されている。そのなかで曲りなりにも「先進国」であり、政治、経済的にもイランとの大きな軋轢がない日本は、学術交流の相手として概ね歓迎されている。さらに、日本人は研究もしくは学問目的で現地に渡航する割合が他国と比べて大きめであり、少人数ながら政治、経済状況に比較的影響を受けず、継続的な往来がある点も特徴である。このように地味ながら着実に積み重ねてきた交流の実績に、K-POPや日本のアニメ・漫画の流行による東アジア全体の文化イメージ向上が加わり、日本人研究者への好感が官民ともに維持されている。   日本人研究者に対する(あくまで他国との比較の上ではあるが)好意的な対応は、文書館だけではなく現地の大学においても確認できた。研究ビザの取得においては窓口となる現地の大学の国際局が迅速に対応してくれたことにより、想定より大幅に短い3週間ほどで終えることができた。また、今回の調査では何名かの現地の研究者や教授の方々と面会したが、皆好意的に応対してくださったことに加え、国際会議の開催や更なる日本人留学生の受け入れを繰返し打診されたことが印象的であった。筆者が一介の博士課程学生に過ぎず、そのような学術交流を行う予算も権限もないことは、先生方も十分に分かっている。それでも、敢えて何度もこれらの話題が出たことに、日本との交流に積極的な現地の先生方の姿勢を窺い知ることができた。   コロナ禍後の国際情勢緊迫化、それに伴う外国人への管理強化といったイラン政治の現状にもかかわらず、日本人研究者の調査環境は、好転とまでは言えないまでも従来通り維持されている。この4年間の環境変化は、現地大学への留学や調査が事実上不可能になりつつある欧米諸国の研究者のそれとは、対照的である。このような日本人研究者への「好待遇」から、欧米諸国と早期の関係改善が絶望的になった今、その他の国々との関係性を維持、強化することで生き残りを図るイランの戦術を読み解くことができる。日本に対する「好待遇」は、政治、経済面、さらには大学や学界をも含めイランが置かれている厳しい現状を反映した現象であると言えるかもしれない。   <徳永佳晃(とくなが・よしあき)TOKUNAGA  Yoshiaki> 東京都生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。日本学術振興会特別研究員PD(日本大学)、2023年度渥美奨学生。専門はイラン地域研究・近代政治史で、主な論文に「「不法な影響力の排除」を目指して:パフラヴィー朝成立期のイランにおける1304年選挙法改正(1925) 」『歴史学研究』 (1044)などがある。     2024年6月14日配信  
  • 2024.06.06

    エッセイ766:丁乙「現代社会における研究者のあり方」

    2022年11月から2023年8月まで東京大学東洋文化研究所にある東アジア藝文書院(EAA)という組織で特任研究員を務めた。数多くのイベントに参加し、自らもプロジェクトを立ち上げたことで、社会連携・研究・教育を総合する組織での学問の可能性に関して広く考える機会に恵まれた。   私が担当したのは「東洋美学の生成と進行」というシリーズ講演・討論で、計6回実施した。初回は小田部胤久先生(東京大学)、第2回は陳望衡先生(武漢大学)、第3回は王品先生(上海交通大学)、第4回はKevin M. Smith先生(UCバークレー)、第5回は青木孝夫先生(広島大学)、第6回は塚本麿充先生(東京大学)。グローバルな視点から見ると、西洋に発端した美学という学問領域を参照して近代に作られた東洋美学は、未だ十分適切に位置付けられてきたとは言えない。そこで、EAAという場において、東洋美学と称されうる領域の射程やあり方について検討を試みた。本イベントを通して目指すのは、「東洋美学」をすでに定まった領域と見なしてそれに該当する最新の研究を紹介するのではなく、むしろ「生成中の領域」としてそれがいかなる形で進行しているのか、哲学・美学のほか、文学や芸術批評、美術史などの分野にも注目し探求することである。日本だけでなく、交流のあった中国やアメリカの研究者からも、それぞれの立場から東洋の美学に対する理解や視点を得ることは重要である。   このプロジェクトのほか、EAAでの活動を通じて、研究や学問のあるべき姿やその意義について考えさせられた。まず、研究のスピードについて。私が以前より慣れ親しんだ人文社会系という伝統的な学問分野や学的環境では、基本的に文献研究が行われており、その性質のゆえか研究成果の産出スピードは速くはなかったし、おそらく速くなりえないだろう。対照的に、EAAで目にしたのは新たな学問を開拓するために、必然的に量的にも範囲的にも膨大かつ多様な研究と向き合わねばならず、社会連携からの要求もあるため、素早く発信している姿であった。初めは自分がそのスピードに合わせることができるのか心配していたが、一定の蓄積を持つ研究者ならば、必ず物事に対する独自の視点があり、そこから何らかの感想やコメントを述べられることに気づいた。しかし、それは本当にその発表や研究に対する理解に基づく適切なものであるのか、という別の不信が生じてきた。着任当初の自己の能力への不安から、次第に、学問のあり方についての別の問いが生まれてきた。   また痛感したのは、いわゆる研究のパフォーマンス性である。学生の時に有名な研究者の講演を聴講しに行き、失望した経験が時々あった。著作と比べ、なぜ面白くなかったのかと考えていた。だが現在の自分は、もはや一つ二つの講演で研究者の研究を評価しない。同じ分野内の学者向けの発表と、分野外の学者向けのもの、さらに一般向けのものがあるからである。これらの発表に求められるものは必ずしも一致しておらず、互いに相反する部分も少なくない。人文系の研究の価値は広く発信していかなければ、一種の傲慢なエリート主義に陥りうる。しかしそればかり行えば、現在の社会ではあるいはそれだけで名声や地位を獲得することも考えられ、学者より数的に圧倒的な公衆に認められ、必要性があると判断されることに偏重してしまう、というアポリア(論理的難点)が存在するように感じ取れる。   この一年間、学問の可能性に興奮した瞬間は多かったが、他方で虚しさもしばしば感じた。そして、自分がいかなる研究者になりたいのか、また現実的になれるのか、という課題が頭に浮上してきた。これは今後、研究者として現代社会を生きていく上で重要な課題となるであろう。   <丁乙(てい・おつ)DING Yi> 東京大学人文社会系研究科修士・博士課程、東京大学東洋文化研究所の特任研究員を経て、現日本学術振興会外国人特別研究員(京都大学)。カリフォルニア大学バークレー校やHerzog August Bibliothek Wolfenbuttel(ドイツ)など客員研究員。研究分野は中国美学、比較美学。博士論文『『ラオコオン』論争からみる二〇世紀中国美学』は第14回東京大学南原繁記念出版賞を受賞し、2024年度中に東京大学出版会より刊行予定。     2024年6月6日配信