SGRAエッセイ

  • 2022.12.16

    エッセイ726:ボルジギン・フスレ「ウランバートル・レポート2022年秋」

    2022年は日本・モンゴル外交関係樹立50周年だった。半世紀の日モ交流の成果を振り返り、同時に北東アジア各国の国際関係の現状や課題を総括し、ユーラシアの眼差しから日モ両国の関係がどのようなプロセスをへて構築されたか、どのように構築していくべきかなどをめぐって議論を展開することは、大きな意義を持つ。第15回ウランバートル国際シンポジウムはこの課題に応えるものであった。   9月3~4日、日本・モンゴル外交関係樹立50周年記念事業である第15回ウランバートル国際シンポジウム「日本・モンゴル ―ユーラシアからの眼差し」がモンゴル国立大学2号館203室で開催され、160名ほど研究者、学生等が参加した。昭和女子大学国際文化研究所と渥美国際交流財団関口グローバル研究会(SGRA)、モンゴル国立大学科学カレッジ人文科学系アジア研究学科の共同主催で、渥美国際交流財団、昭和女子大学、モンゴルの歴史と文化研究会、「バルガの遺産」協会から後援を、麒麟山酒造株式会社、ユジ・エネルジ有限会社から協賛を頂いた。   モンゴル国立大学科学カレッジ人文科学系アジア研究学科長Sh.エグシグ(Sh.Egshig)氏が開会の辞を述べ、モンゴル国駐箚日本国特命全権大使小林弘之氏(在モンゴル日本国公使参事官菊池稔氏代読)、モンゴル国立大学学長B.オチルホヤグ(B.Ochirkhuyag)氏、渥美国際交流財団事務局長角田英一氏、モンゴル国立大学科学カレッジ副学院長N.アルタントグス(N.Altantugs)氏が祝辞を述べた。その後、2日間にわたり、前在モンゴル日本大使清水武則氏、モンゴル科学アカデミー会員・前在キューバモンゴル大使Ts.バトバヤル(Ts.Batbayar)氏、一橋大学名誉教授田中克彦氏、ウランバートル大学教授D.ツェデブ(D.Tsedev)氏、東京外国語大学名誉教授二木博史氏、大谷大学教授松川節氏、モンゴル国立大学教授J.オランゴア(J.Urangua)氏などをはじめ、日本、モンゴルの研究者32名(共同発表も含む)により、21本の報告をおこなった。ウランバートル国際シンポジウムに初参加の角田氏はたいへん注目され、歓迎された。   シンポジウムはモンゴルの『ソヨンボ』『オラーン・オドホン』などの新聞により報道された。日本では『日本モンゴル学会紀要』第53号などが紹介する予定である。シンポジウムを終えて、9月5日午後から24日にかけて、私は「“チンギス・ハーンの長城”に関する国際共同研究基盤の創成」と「匈奴帝国の単于庭と龍城に関する国際共同研究」の研究プロジェクトでボルガン県、アルハンガイ県、ウムヌゴビ県、ヘンティ県などに行き、現地調査を実施した。その詳細も別稿にゆずり、ここでは番外編エピソードを紹介したい。   9月4日午後のエクスカーションで、海外からの参加者はトゥブ県のチンギス・ハーン騎馬像テーマパークを見学した。そこで予想もつかぬ「出来事」が起きた。ウランバートルから1時間半ほどの旅を経て、私たちのバスは目的地のテーマパークに着いた。88歳のK先生がバスを降りたとたん、ズボンのベルトをはずし、急いで近くの木に歩いていき、小便をしようとした。 「先生、白昼堂々とこんなところで…やめたほうがいい。罰金取られるよ。(テーマパークの)中にはお手洗いがあるから」と私は阻止しようとした。 しかし、K先生は「モンゴルでは大丈夫。もう我慢できない」と言いながら、木の下で用を足した。するとすぐ管理人らしい中年の男が走って来て、怒って止めようとした。   その後、みんなで記念写真を撮ってから、巨大なチンギス・ハーン騎馬像(建物)に入った。約1時間の見学を終えて、私たちが騎馬像から出ると、中年の女性 ―テーマパークの支配人が待っていた。「あなたたちの代表は誰ですか」と聞かれたので、「何かありましたか」と尋ねた。 「あなたたちのなかの1人がこのテーマパークの芝生で小便をした。罰金です。防犯カメラにちゃんと写っている」と支配人は言う。 「いくらですか」と聞いた。 「10万トゥグリグ(約4000円)」。 私はK先生に「どうしよう。やはり罰金です。10万トゥグリグ」と言った。 「10万トゥグリグ?高いね。ね、あの人に、“僕はそこで半分しかおしっこしなかった。だって、あのおじさんに阻止されたから。だから、半額にしてくれないか”と交渉してみて」と頼まれた。 言われた通り、女性支配人に説明した。 「半額?無理。半分したにしろ、全部したにしろ、おしっこしたことは事実でしょう。どれほどしたかとは関係ない。割引はできないよ」と、戸惑った支配人は厳しく言った。 K先生は「おかしいな。半分しかしなかったのに、なぜ全額を支払うか。納得できないね。半分したから、支払うのも半分にするのは妥当だろう」と、再び私に交渉させた。実はK先生、モンゴル語がうまい。しかし、なぜかずっと私に交渉させる。 支配人は突然何かを理解したようで、「そんなことってあるの。もういいわ。分かった。半額の5万トゥグリグをください」と笑いながら言った。 K先生は、まわりに悠然と歩いている牛や馬、羊などの家畜を指しながら、「彼女(支配人)に聞いて。牛とか、馬、羊とかさ、毎日自由にここでおしっこをしたり、うんこをしたりしている。これってどうやって罰金取るのか。誰が支払うのか。誰に支払うのか。ほら、あの犬おしっこしているよ」と。 支配人は一瞬言葉を失ったようだが、少し考えて、「これ…、これは罰金取らないよ。だって、これは自然のことで大自然には何の悪いことにもならないし、自分の家畜だから」と言いながら、笑いが止まらなかった。 「おかしいよね。だって、僕のも自然なことじゃないか。僕のおしっこで大自然に貢献したじゃないか。僕にお金を支払うべきじゃないか」とK先生も笑いながら5万トゥグリグを払った上で、今度は「ね、領収書をくれないかと聞いて」と私に言った。 「領収書?面白い人ね。ここには領収書はないよ。今日、ウランバートルの本社は休みなので、明日電話して。そこからちゃんともらえる」と支配人は笑いをこらえられず、電話番号まで教えてくれた。   結果を聞いたK先生は、こんな話をし始めた。 「モンゴルは本当に変わったね。昔はどこに小便しても大丈夫だった。今はダメになったか。不思議。領収書ももらえるのか。モンゴルはしっかりしているね」 「あの支配人も、なぜ僕に“おしっこを半分しかしなかったということをどのように証明するか”と聞かなかったのか。人間って、おしっこを半分で止めるのはけっこう難しいよ。ほとんど人はできない。それをどうやって証明し、どうやって検証するのだろう」 「でも僕は嘘ついていないよ。僕はできる。さっき、本当に半分しかしなかった」 「明日、ちゃんと領収書をもらってね。彼らはそこに何を書くかが興味深い。“罰金10万トゥグリグのところ、おしっこは半分しかしなかったため、その半額の5万トゥグリグ”と書くか。想像もつかない。その領収書をちゃんともらってくださいよ。日本に帰ったら、新聞にこのことを書くよ。面白いね…」   帰りのバスの中では、この出来事が延々と話題になった。   その夜、スフバートル広場近くの日本レストラン「ナゴミ」で懇親会が開かれた。最後に私がK先生に中締めのご挨拶をお願いした。K先生はいくつかのことを振り返ったが、やはりこの出来事が話の中心になり、大いに盛り上がった。   第15回ウランバートル国際シンポジウムの写真   <ボルジギン・フスレ BORJIGIN Husel> 昭和女子大学国際学部教授。北京大学哲学部卒。1998年来日。2006年東京外国語大学大学院地域文化研究科博士後期課程修了、博士(学術)。東京大学大学院総合文化研究科・日本学術振興会外国人特別研究員、ケンブリッジ大学モンゴル・内陸アジア研究所招聘研究者、昭和女子大学人間文化学部准教授、教授などをへて、現職。主な著書に『中国共産党・国民党の対内モンゴル政策(1945~49年)――民族主義運動と国家建設との相克』(風響社、2011年)、『モンゴル・ロシア・中国の新史料から読み解くハルハ河・ノモンハン戦争』(三元社、2020年)、編著『国際的視野のなかのハルハ河・ノモンハン戦争』(三元社、2016年)、『日本人のモンゴル抑留とその背景』(三元社、2017年)、『ユーラシア草原を生きるモンゴル英雄叙事詩』(三元社、2019年)、『国際的視野のなかの溥儀とその時代』(風響社、2021年)、『21世紀のグローバリズムからみたチンギス・ハーン』(風響社、2022年)他。     2022年12月16日配信
  • 2022.12.08

    エッセイ725:李鋼哲「養鶏金卵と殺鶏取卵」

    11月3日のSGRAかわらばん943号に、筆者のエッセイ『台湾をもっと知ろう』を題とする第6回アジア未来会議の東北亜未来構想研究所(INAF)セッションに関するレポートが掲載された。   筆者もそのセッションで「半導体産業におけるグローバル・サプライ・チェーン再編―米中覇権争いと台湾―」をテーマに発表した。米中貿易摩擦および覇権争いが激しさを増す中、「半導体を制する者は21世紀を制する」と言われるので、それに関する資料を収集・分析して、半導体の開発・生産・販売を巡る米中台3者の関係を明らかにしようとした。   このテーマと関連して11月に注目すべきニュースが流れた。「(バンコク中央社)アジア太平洋経済協力会議(APEC)の首脳会議が19日、タイ・バンコクで閉幕した。蔡英文総統の代理として出席した張忠謀(モリス・チャン)氏(91歳)は、会議初日の18日に中国の習近平国家主席と非公式に会話したことを19日夜に開いた記者会見で述べた。張氏によると、2人は18日午前、休憩室であいさつを交わした。張氏は昨年股関節の手術をしたと話すと、習氏は「今は元気そうで何よりです」と応じたという。また、19日にハリス米副大統領と会談したことについては、副大統領は半導体大手の台湾積体電路製造(TSMC)によるアリゾナ州での工場建設を歓迎する他、台湾を支援する米国の決意を改めて示したとした。張氏はTSMCの創業者で、APEC台湾代表に選ばれるのは2006年以来6回目で、蔡政権が発足した16年以降では5回目」、という内容だった。   TSMCは世界屈指の半導体製造企業。台湾経済部(日本の経済産業省に相当)によると、2020年時点で台湾のファウンドリー(半導体の受託生産)は世界シェアの7割を占め、世界1位のTSMCだけでシェア50%を超えるという。特に先端ロジック半導体で世界をリードしており、米国半導体工業会(SIA)によると、線幅10ナノ・メートル(nm、1nm=10億分の1メートル)以下の製造工場の92%が台湾、8%が韓国に立地。特に台湾のファウンドリーは携帯電話から戦闘機まで、すべてのハイテク機器に内蔵される世界最先端のコンピューターチップを製造している。   米中両大国は台湾製半導体に大きく依存している。日経の記事によると、TSMCは、F-35ジェット戦闘機に使用されるXilinx(ザイリンクス)などの米国の兵器サプライヤー向けの高性能チップや、米国防総省承認の軍用チップなども製造。米軍が台湾製チップにどの程度依存しているのかは不明だが、米政府がTSMCに対して米軍用チップの製造工場を米本土に移転するよう圧力をかけていることからも、その重要さがうかがえる。また、米産業界も台湾製半導体に依存している。iPhone 12、MacBook Air、MacBook Proといった各種製品で使用されているAppleの5ナノ・プロセッサ・チップを提供しているのはTSMC1社のみだと考えられている。iPhone 13やiPad miniなどAppleの最新ガジェット内蔵のA15 BionicチップもTSMC製。顧客はAppleだけではない。Qualcomm、NVIDIA、AMD、Intelといった米大手企業もTSMCの顧客だという。   中国も2020年時点で約3000億ドル(約45兆円)相当の半導体チップを大量に輸入しており、言うまでもなく台湾は最大の輸入元である。中国は外国製チップへの依存度を縮小すべく、「中国製造2025」という計画で数千億ドルを投資しているが、その需要を国内のみで賄えるようになるのはまだ先の話である。中国の最先端半導体メーカのSMIC製造プロセスは、TSMCより数世代遅れている。SMICは現在7nm製造のテスト段階に入ったところだが、TSMCはすでに3nm、2nm製造プロセスまで進んでいる。そのため、中国企業は台湾製チップに頼らざるを得ない。中国のハイテク企業Huaweiも20年時点、TSMCの2番目の大手顧客で、5nmと7nmのプロセッサーの大半をTSMCに依存している。HuaweiはTSMCの2021年総収益の12%を占めていると言われている。   このような話が、本エッセイのテーマ「養鶏金卵と殺鶏取卵」とどのような関係があるのか。2つの4文字熟語は中国の諺である。鶏を育てて金の卵を産み続けてもらうのか、鶏を殺して卵を取り出して肉と一緒に食べてしまうのか、という話である。賢いものは前者を選択し、愚かなものは後者を選択するという意味である。   米政府は今年7月から8月にかけて、中国の最大手ファウンドリー、SMIC向けの14nmから先の微細化世代に対応する半導体製造装置の輸出を許可制とし、事実上の禁輸とした。また中国向けの高性能AIチップの輸出を許可制として、軍事目的が疑われる場合の輸出を禁じ、対中国半導体規制は一段と強化された。また、8月9日には米国でCHIPS法が成立、今後5年間で527億ドルの米半導体産業に対する補助金や税額控除により、生産能力、研究開発や供給網(サプライ・チェーン)を強化するとしている。台湾の半導体技術だけではなく人材も米国にとって宝物(金卵)だとわかっているからである。もし、その台湾が中国に飲み込まれてしまうと、「半導体を制する者は世界を制する」ということで、中国が世界を制することになるが、覇権国の米国としては絶対に譲れない。しかし、台湾を巡る米中戦争はどうしても避けたいところだ。   中国の対応はどうなのか。8月2日にペロシ米下院議長が台湾を訪問したが、「中国の核心的利益(レッド・ライン)を犯す」と、複数の機関が声明を一斉に発表して猛反発した。外務省はバーンズ米大使を夜中に呼びつけるという異例の対応で「ペロシ議長は意図的に挑発を行い、台湾海峡の平和と安定を破壊した。その結果は極めて重大で決して見過ごすことはできない。米国は自らの過ちの代償を支払わなければならない」と厳しく非難した。さらにペロシ議長が台湾から帰国後の4日午後、台湾を取り囲むように6か所の海域と空域で11発のミサイル射撃を行い「重要軍事演習」を行うと発表、地域の緊張が高まったことは生々しく覚えているだろう。   10月の第20回共産党大会の報告で、習近平主席は台湾問題に関して、「武力行使を放棄するとは決して約束しない」、「我が国の完全な統一は実現しなければならず、それを実現する」と述べている。習氏が掲げる「中華民族の偉大な復興」の重要な内容は「祖国統一」である。米国をはじめとする西側諸国は、習氏が任期中に台湾統一を目指していると分析している。現状では台湾との平和統一は望めない(民進党は統一反対を表明)と判断した場合、武力を使うことも「なきしもあらず」だと思う。   また、中国国際経済交流センターのエコノミスト陳文玲氏(政策決定に影響力が大きいと言われる)は、5月30日に中国人民大学が主催した講演会で、「米国と西側諸国がロシアに向けたような破壊的な制裁を中国に科すならば、供給網を再構築するという意味で、台湾を取り戻さなければならない。もともと中国のものであったTSMCを中国の手中に収めなければならない」と発言した、とネット・メディア「観察者網」が6月7日に伝えた。   もし当局がこの発言通りに意思決定し実行するとすれば、「台湾解放」の戦争になりかねないし、そうなれば、金卵を産んでいる台湾が中国のものになるという考え方であろうが、結果的には「殺鶏取卵」になるのではないか。中国のリーダーはそんな愚か者ではないことを祈る。「養鶏金卵」という賢者の道を選択すべきだと思うし、それこそ平和への道である。その意味で今回のAPECでのTSMC創業者である張忠謀氏の米中両国首脳との柔軟な外交は重要な意味を持つのだ。     英語版はこちら     <李鋼哲(り・こうてつ)LI Kotetsu> 1985年北京の中央民族大学業後、大学院を経て北京の大学で教鞭を執る。91年来日、立教大学大学院経済学研究科博士課程単位修得済み中退後、2001年より東京財団、名古屋大学国際経済動態研究所、内閣府傘下総合研究開発機構(NIRA)を経て、06年11月より北陸大学で教鞭を執る。2020年10月1日に一般社団法人・東北亜未来構想研究所(INAF)を有志たちと共に創設し所長を務め、日中韓+朝露蒙など多言語能力を生かして、東北アジア地域に関する研究・交流活動に情熱を燃やしている。SGRA研究員および「構想アジア」チームの代表。近著に『アジア共同体の創成プロセス』、その他書籍・論文や新聞コラム・エッセイ多数。     2022年12月8日配信    
  • 2022.12.01

    エッセイ724:デール・ソンヤ「家から参加したアジア未来会議」

    2年に1度開催されるアジア未来会議(AFC)を、いつもとても楽しみにしている。興味深い発表やディスカッションはもちろんだが、それより、世界中の「ラクーン(元渥美奨学生)」との再会や新しい出会いの機会でもある。自分にとってのAFCは、とても賑やかな笑いと笑顔がたっぷりのイベントだ。コロナの影響で1年延長され、ハイブリッド形式で開催されることになったが、私を含めてほとんどの参加者が家からオンラインで参加した。台湾に行けなかったことは残念だが、今回はこのユニークなオンラインAFC体験について書く。   自分が担当したAsian Cultural Dialogues(ACD)の円卓会議の他に、セッションの座長およびクロージングセレモニーの司会として関わった。ACDは角田さん(渥美財団事務局長)の発案により作られたネットワークおよび対談のフォーラムであり、今年は初めて私が担当した。コロナの影響で当初の企画より少し短めのプログラムになった。テーマは、「アジアにおけるメンタルヘルス、トラウマと疲労」にした。その理由は、やはりコロナ時代において感じる日常的なストレスおよび社会的な変化だ。インドネシア、フィリピン、日本からの発表の後には、インド、タイ、ミャンマーにいる、または専門にしているコメンテーターからの意見をいただき、ディスカッションした。   コロナは世界中で共通している経験だが、それぞれの国の対応・状況は異なる。その違いや対策などについて知り、話すことはとても面白かった。フィリピンのMaria Lourdes Rosanna E de Guzman先生の発表で、活動家の長い闘いと成果のおかげで、政府もしっかりとメンタルヘルスの支援をするようになったと聞いて感動した。日本のVickie Skorjiさんの話から、ジェンダー不平等とメンタルヘルスの関係性を改めて考えさせられ、多様な立場にいる人々を想像し、適切に対応する重要性を感じた。また、インドネシアのHari Setyowibowo先生の発表から、「コロナの影響で新しく生まれてくる可能性」という、前向きな視点も与えられた。   コメンテーターは、以前のACD円卓会議に関わってくれたCarine JacquetさんとラクーンのRanjana Mukhopadhyaya先生、ACD円卓会議に参加してくれた方の紹介で新しく関わってくださったKritaya Sreesunpagiさんであった。それぞれのコメントからコロナの深い影響を感じ、コロナの政治的な問題および争いの関係性について学び、考えることができた。コメンテーターの参加により、ACDネットワークの連続性および絆を感じることができて、角田さんおよび最初からずっとACDに参加してくださっている皆さんに敬意を表したい。充実したディスカッション後には、Kritayaさんの指導で10分ぐらいの瞑想があり、すっきりした気持ちでセッションを終えた。世の中に大変な事がたくさんあっても、自分にやるべき事が山ほどあるとしても、ひとまず自分のケアをしっかりする必要性を感じた。参加者の皆さん、本当にありがとうございました!   AFCの魅力は、自分の分野以外の研究者と触れ合うことだ。私が座長をしたパネルは専門と全く関係のない工学関係の発表が多かったが、興味津々で発表を聞くことができた。会場でやるときより視聴者が少なく寂しかったが、それなりに楽しくできたと思う。   クロージングセレモニーではオンラインながらも皆さんの笑顔が見られて、とても楽しい気持ちになった。知っている人に声を出して「元気!?最近どう!?」と、言いたかったけど、司会として真面目にしなくてはいけないね、とがまんした。次のAFCの会場がバンコクと発表され、とても良い盛り上がった雰囲気の中で会議を終えた。   オンラインだけのAFCは、正直少し寂しかったが、何よりこの状況の中で開催できたことは素晴らしかった。皆さんとの再会、本当に楽しみにしている。またバンコクで会おう、乾杯しようね!     英語版はこちら     <デール・ソンヤ DALE Sonja> ウォリック大学哲学部学士、オーフス大学ヨーロッパ・スタディーズ修士を経て上智大学グローバル・スタディーズ研究科にて博士号取得。現在、インディペンデントリサーチャー。専門分野はジェンダー・セクシュアリティ、クィア理論、社会的なマイノリティおよび社会的な排除のプロセス。2012年度渥美国際交流財団奨学生。     2022年12月1日配信
  • 2022.11.24

    エッセイ723:キン・マウン・トウエ「アジア未来会議参加報告:20年ぶりの学術会議」

    第6回アジア未来会議に円卓会議II「コミュニティとグローバル資本主義:やはり世界は小さいのだ」の発表者として参加しました。学術研究の世界から離れて約20年たちましたが、渥美財団の今西常務理事とマキト先生のお誘いを受けて、学生時代に戻ったようでした。ホテル経営と観光業に力を入れてきたので、テーマは「ミャンマーの現状における観光業とそのコミュニティの発展」です。パンデミックや政権変動の後に立ち上がり始めたミャンマーの観光業の発展に関する報告をしました。   ミャンマーでは、コロナの影響によってお客様が来なくなって営業を止めたホテルがほとんどでしたが、再開し始めています。その際には国連世界観光機関(UNWTO)と世界保健機構(WHO)の基準に基づいて、厚生省と観光省が作成した(Standard Operating Procedure (SOP)規則によって、Health and Safety Protocol (HSP)認定が条件です。ホテル側は様々な準備や従業員へのコロナに関する教育指導、さらには観光業に関連するコミュニティ等への教育指導並びに準備も必要になりました。観光省の認定証は3つのレベル―地域レベル(Regional Level HSP)、国家レベル(National Level HSP)と国際レベル(International Level HSP)―があります。これから再開するホテルは国家レベルHSP認定証がないと営業は難しく、観光客からの信頼と信用を得られないでしょう。私も指導者の1人なので、教育と普及の責任を感じています。   現在、治安が良い観光地には国内観光客が増加しています。政府がオンラインビザ申請を再開したことによって、外国人観光客やビジネスの訪問者も増えていています。ただし、現状の物価急騰や国際的な燃料費の高騰、最も影響が大きい国内通貨の変動など問題は山積みです。このような課題があっても、「アジアのパラダイス」であるミャンマーの自然や歴史など、さまざまな観光資源を上手に開発して、今後の復興のために、観光に携わる人々の協力とそのコミュニティの発展を期待しながら、毎日一生懸命仕事をしていることを報告して発表を終えました。   その後、円卓会議座長のマキト先生の素晴しい進行によって、他の国際的な発表者たちと時間を忘れて楽しい議論をしました。最近、ミャンマーの観光業関係者の会議や打ち合わせが多くありますが、このような学術的な国際会議は約20年ぶりで大変興味深く、若返った気がしました。これからも平和な地球、より良いコミュニティを作るために頑張れるでしょう。   近年、ミャンマーではコロナの問題だけでなく、世界的に注目されている政権の変動によって人々の生活状況が大きく変わりました。ただ、治安の問題については、ミャンマーすべての場所でなく一部で起きていることです。治安が落ち着いている観光地では国内観光客が増加したことによって、経済も立ち直ってきたようです。政府が変わるのは国内の問題であり、毎日の生活のため、国民のひとりひとりが自ら実行できる対策を考えながら行動する必要があります。自由を求めることは、その人の考えに基づくものですし、レベルには差があると思いますが、まずは現状を見ながら生きることが最も重要・大切と思います。ミャンマーに自由がなければ、このようなオンラインの国際会議に私が参加することはできなかったでしょう。     英語版はこちら     <キン・マウン・トウエ Khin Maung Htwe> ミャンマーで「小さな日本人村」と評価されている「ホテル秋籾(AKIMOMI)」の創設者、オーナー。マンダレー大学理学部応用物理学科を卒業後、1988年に日本へ留学、千葉大学工学部画像工学科研究生終了、東京工芸大学大学院工学研究科画像工学専攻修士、早稲田大学大学院理工学研究科物理学および応用物理学専攻博士、順天堂大学医学部眼科学科研究生終了、早稲田大学理工学部物理学および応用物理学科助手、Ocean Resources Production社長を経て「ホテル秋籾」を創設。SGRA会員。   以下のエッセイもご参照ください。   https://www.aisf.or.jp/sgra/combination/sgra/2019/12587/   https://www.aisf.or.jp/sgra/active/network/2022/17933/
  • 2022.11.18

    エッセイ722:オリガ・ホメンコ「一番近い国、ポーランド」

    ウクライナの国境はロシアとベラルーシ以外に、ポーランド、スロバキア、ルーマニア、モルドバと接している。ロシアによる侵攻の後、隣の国々の対応はとても早かった。特にポーランドは積極的に動いてたくさん支援してくれたので、ウクライナ人は皆とても感謝している。   ポーランドと言えば子供の頃に読んだ旅と歴史の小説が思い浮かぶ。アルフレッド・シュクリャリスキーが書いたトメック君の連続冒険小説や、16世紀にウクライナのコサックと戦ったポーランドについて書かれたゲンリック・センケビチの歴史小説『火と刀で』など。学生時代に見たクシストフ・キスレフスキー監督の「三色・青・赤・白」や「ヴェロニカの2つの人生」などの映画もとても印象的だった。   国境を接する国なのでいろいろな時代があった。仲が良かった時とそうでもない時。ウクライナの一部がポーランドの領土になっていた時代もあり、コサック達が雇われてポーランドの軍隊で働いた時もあった。お互いに複雑な気持ちの時代もあった。信用できない時代もあった。歴史的な視点から見れば簡単な関係ではなかった。しかし文化的な交流はずっと続いていた。その中でさまざまな知識がポーランド経由でウクライナに入ってきた。ポーランドの教育システムを見て、コサック達は自分の子供達のためにカトリック学校ではなく、モヒーラ・アカデミーという正教の学校を初めて作った。ポーランドは西側に一番近い国だったので、中世からたくさんの文化や文物が入って来ていた。   昔ポーランドは帝国でウクライナの領土がその一部であった時期があるので、歴史的にウクライナのことを上から目線で見ることもあった。しかし違う時代違う場所で、ウクライナ人とポーランド人は協力し合ったことも少なくなかった。その中の一つが遠く離れた1930年代の満州だった。第1次世界大戦とロシア革命で流されたウクライナ人とポーランド人がお互い少数民族として手を合わせて戦って、「プロメテウス」というソ連解体を願う組織を作っていた。   冷戦時代、今のウクライナ人の60代や70代の人に大きな影響を与えたビートルズやロック音楽やジーンズは全て、ポーランド経由で入ってきた。キーウとワルシャワを往復する電車がいろんなものを運んできた。1970年から1980年代にかけてはポーランドのソポット音楽祭がテレビでよく放送されていたので、この期間に流行した音楽はポーランドから流れてきたとも言える。もちろん、文化的だけではなく政治的な影響もあった。特に1980年代からポーランドの民主化運動「連帯(ソリダルノスチ)」の成功事例をみて、ウクライナの独立にもつながった「市民運動ナロドニーイ・ルーフ」という政党が生まれた。   ソ連が崩壊した時、ウクライナは経済的に大変な状況で、ポーランドの市場までバスで行ってカメラやソ連の電気製品などを売り、代わりに衣類を買ってきて、それをウクライナの市場で売って金稼ぎをしていた人も少なくなかった。ポーランドは社会主義を早く離れて経済成長し、ウクライナよりお金持ちになるのが早かった。それが魅力的で、特にこの10年以上、ポーランド語学習は人気がある。多くの学校でポーランド学科ができて、ポーランドへ行くウクライナからの留学生も増えた。   ポーランドの世論調査に基づいた研究をみると、2004年のオレンジ革命までのウクライナに対しての思いはさまざまである。例えば第2次世界大戦中にヴォリーニでポーランド人がたくさん殺されたこと、1990年代に経済が落ち込んだウクライナからからヘルパー、ベビーシッター、建設業者等の出稼ぎ労働者が増えたこと。しかし、その時のポーランド人の回答には「ロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人の区別がつかない」が多かった。皆「ロシア人」と思われていたようだ。   ウクライナはソ連の一部であって、ポーランドは独立の歴史が長かった。社会主義を離れた時、多くのポーランドの人が仕事を求めてドイツ、フランス、イギリスに出稼ぎに行った。その代わりにウクライナが独立してから最初の10年間、ウクライナの人はよくポーランドに出稼ぎに行った。   お互いに経済が少しずつ良くなるにつれて関係が改善し、一緒に文化的なイベントをすることにもなった。2012年にヨーロッパのサッカー大会をポーランドと共催したことで、両国が近づいたとも言われている。行き来しやすいので観光業が盛んになり、ポーランドからの旅行者も増えた。観光が盛んになるとその国について知ることもたくさん増え、相互理解につながる。   2014年に東部で戦争が始まってから安全を求めて多くの人がポーランドに移住することになった。同じ国だった時代もあるので、特に西ウクライナの人は家族史をさかのぼればポーランド人のおじいちゃんなどが出てくることも少なくない。そうすると、ポーランド在留許可がとれる。大学生にも魅力的になった。ポーランドの大学を出ればヨーロッパのどこでも働ける。学費もウクライナとほぼ変わらないのに可能性を切り開ける。自分の子供の将来を考えてポーランドの大学を選んだ親も少なくなかった。幼なじみの友人の娘さんもワルシャワで国際関係を学び、アメリカに留学した。教え子の中にもポーランドの大学へ移って卒業し、そのままコンサルタント会社や学校、博物館などに就職している人もいる。ポーランドの生活費はウクライナより少しだけ高いが、給料も高く、安全で、質が高い食品がたくさんある。   家族の安全と将来を考えて、ポーランドを移住先としてみる人もいる。リビフのバリバリの実業家の女友達は2014年にウクライナの3つの事業を売ってポーランドに移った。自分のビジネスの拡大と子供の教育を狙っているのかと皆が思ったが、実はそれ以外にも理由があった。東部で戦争が始まった時に、愛する精神科医の旦那と一人娘と一緒にポーランドに移った。旦那が軍隊に取られるのではないかという不安があったからだ。コロナが始まるまでの6年間にポーランドとスロバキアで自分のビジネスを再開し、旦那も個人のクリニックを続けている。   ワルシャワとクラクフでタクシーを呼ぶと運転手はウクライナ人が多い。話を聞くとまさに現代のポーランドとウクライナの人の移動について勉強できる。クラクフで運転しているイワンさんはリビフ州出身で、ハルキフで勉強し8年間生活してから2014年にポーランドに移ることを決めた。理由は一つで、個人経営の会社の手続きが簡単で賄賂もいらない、税金さえきちんと払えばなんの問題も起きないから。   ポーランドの法科大学院に通っているロマンさんも3年前にワルシャワに同じ理由で移った。トラックの運転手のペトロさんもほぼ同じ理由。仕事をきちんとすれば家族を養えるし、安定した将来を築くことができると思っている。劇場と映画の仕事をしている俳優のオリガさんも、フリーで働く芸術家にとってはウクライナより環境が良いと言う。キーウの歴史学部を出た教え子もポーランドの大学院で勉強し博士号を取って、ポーランドの大学で教えている。ウクライナと違って大学の給料で生活が成り立つそうだ。この人たちは侵攻の前にポーランドに移った。   2月24日にロシアによる侵攻が始まってからポーランドは国境のゲートを開け、ウクライナ人にとっては「救いの場」となった。1939年秋に占領された経験があるポーランドはウクライナに対して深く同情してくれた。ポーランドの国境に集まったウクライナ人の多さ、寒い駅で紅茶とパンを配っているポーランド人と涙を流して受け取るウクライナ人の写真を見て感動した。友達はハルキフからきた病気の母親を出迎えてくれたポーランド人のボランティアの優しさに感激した。   ワルシャワや他の街にシェルターが作られ、今でもそこでたくさんのウクライナ人が帰る希望を持って暮らしている。仕事を見つけて頑張っているウクライナ人も多い。ワルシャワ駅の近くのマリオットホテルの接客スタッフの半分以上が若いウクライナ人だ。ワルシャワとクラクフのホテルの料理人にもウクライナ人女性が多かった。ポーランド語で「ジェンクユー(ありがとう)」と言ったら、普通にウクライナ語で「ジャークユー」と返ってきた。美容院、ネイルサロンのスタッフにも、コンビニのレジにも。多くの避難民はポーランド政府が給付する1回約100ドルの生活手当をもらうのではなく、皆すぐに仕事を見つけ、貯金を崩しながら暮らしている。   侵攻が始まってからポーランドに移ったウクライナ人は500万人を超える。2021年夏の統計を踏まえ、それ以前から来ている150万人の出稼ぎ労働者をプラスしないといけない。大変な数字である。   歴史的に複雑だった関係がこの大きな不幸のせいで改善されるとは誰も思っていなかった。ポーランドにとっては、ウクライナが「よく分からない隣国」から「なんとなく分かる国」に変わった。不幸な出来事でウクライナ、ウクライナ語、ウクライナ文化への関心も高まった。俳優のオリガさんはウクライナ語の個人レッスンもやっていて、3人の教え子がいる。30~40代の新聞記者と研究者とビジネスマン。今まではウクライナ人とロシア人とベラルーシ人は「皆ロシア人」と思っていたが、今回ウクライナ語とポーランド語の近さにお互いに驚いた。ポーランドのスーパーで、ウクライナ語で話してもそのまま買い物ができてしまう。ウクライナ人がポーランド語を習得するスピードにも驚かれる。   多くのウクライナ人はほぼ何も持たないで逃げてきたため買い物もそこそこするので、ポーランドの消費経済に貢献しているとも言える。キーウにあった外資系企業の事務所はほぼワルシャワに移った。家賃が高くなったことは確かだ。もともと高い給料であったがポーランドの生活レベルに調整されたらしい。   しかし、避難してきたウクライナ人は物質的な買い物よりも体験消費の方が多い。ロシアによる侵攻から命からがら避難できて家族の絆を改めて実感し、家族旅行、文化的な経験の消費が増えた。持っていたものを全部残して来なければならなかったので、これからは物質的なものを集めるのをやめて幸せな思い出をたくさん作るべきと確信した。戦争から逃げてきた人の心を癒すのは「物」ではなく、気分転換できることと皆が話している。   ポーランドの政治家もこの8ヶ月間にウクライナをよく訪問した。2022年5月、アンジェイ・ドゥダ大統領はウクライナ国会での挨拶を「兄弟のウクライナの皆さん、こんにちは」という言葉から始めた。そして「ポーランドに避難した親戚、両親、子供たちは、私たちの国では難民ではありません。彼らは私たちのゲストです。ポーランドでは安全です。」と言ってくれたので心が温まった。   国境のジェジューフという街は「ウクライナ人を救った街」とも呼ばれている。多くのウクライナ人がここを経由して避難できたので。   ワルシャワとキーウ、クラクフとリビフは結構似ている。緑が多くて、古い建築の中に新しい建物がある。街づくりも似ているので慣れやすいかもしれない。本当に暖かく受け入れてくれた。もちろん、ポーランド人の中にも外国人がたくさん来たことに対して不満を抱いている人もいるだろう。不満のある人はどこでも見つけられる。ウクライナの戦争でガス代や電気代が高くなったとも言われるかもしれない。戦争はヨーロッパにも大きな経済的、精神的な影響を与えている。しかし命を救われ、ポーランドに温かく受け入れてくれたことをウクライナ人は一生忘れないで、これからさらに良い関係を築くだろう。   11月15日にウクライナとの国境にあるポーランドの村にミサイルが落とされ2人の命が失われたニュースを聞いて心が痛みます。ウクライナとポーランドのことをずっと考え続けています。   <オリガ・ホメンコ Olga_KHOMENKO> オックスフォード大学日産研究所所属英国アカデミー研究員。キーウ生まれ。キーウ国立大学文学部卒業。東京大学大学院の地域文化研究科で博士号取得。2004年度渥美奨学生。歴史研究者・作家・コーディネーターやコンサルタントとして活動中。藤井悦子と共訳『現代ウクライナ短編集』(2005)、単著『ウクライナから愛をこめて』(2014)、『国境を超えたウクライナ人』(2022)を群像社から刊行。   ※ウクライナ首都の日本語の表記は、オリガさんによれば「クィーブ」が一番相応しいということですが、本エッセイではご了解いただき日本政府の決めた「キーウ」を使います。   ※留学生の活動を知っていただくためSGRAエッセイは通常、転載自由としていますが、オリガさんは日本で文筆活動を目指しておりますので、今回は転載をご遠慮ください。     2022年11月18日配信
  • 2022.11.11

    エッセイ721:マックス・マキト「マニラレポート2022年夏」

    パンデミックのせいで台湾は「近くて遠い国」になってしまった。プレカンファランスをオンラインで開催して1年延期された第6回アジア未来会議であったが、皆の祈りはかなわなかった。アジア未来会議の「現場」に行けなかったのは初めてだ。参加者もいつもより少ない気がした。   しかし、現場から離れていても会議ができるだけ成功するように、この狸(注:渥美財団のロゴに因んで元奨学生を「狸」と呼んでいる)は頑張った。一つの時間帯を除き、最初のセッションから閉会式まで参加し、分科会セッションでは質問をして議論を盛りあげた。国籍や専門分野や社会部門(大学・政府・民間・市民社会)を乗り越えることが狸の使命なのだ。狸はにぎやかな集まりを好んで、状況に合わせて化ける癖がある。他の狸たちも舞台の表裏で頑張っていた。皆と話したかったが、状況が許してくれなかった。   今回の会議でも僕にはさまざまな役割があった。共著論文2本の発表、セッションの座長、そして3時間の円卓会議を主催した。全て僕が日本留学によって学び、取り組み始めた「共有型成長」の研究と関係しており、研究とアドボカシーをさらに一歩進めさせてくれた。   8月28日(日)午前9時(台湾・フィリピン時間)からの分科会セッション「所得・富の地域的な格差」では共著論文を2本発表した。どちらもSGRAフィリピンが主催する持続可能な共有型成長セミナー(おかげさまで既に34回開催!)で取り上げているテーマである。1本目の論文は、地価税が伝統的な所得税などより効率的かつ公平でエコである税金だと主張し、いかにフィリピンで導入できるかを検討した。残念ながら優秀論文には選ばれなかったが、共著者と相談して発表することにした。共同研究者にも経験を積んでもらうため、地方公務員のミニー・アレハンドル(Minnie Alejandro)さんに発表をお願いした。2本目の論文は、地方分権政策が共有型成長の重要な原理の一つだという考えから、コロナ禍のインドネシア、タイ、フィリピンの地方分権政策を比較したものである。優秀論文に選ばれ、フィリピン大学ロスバニョス校の同僚ダムセル・コルテス(Damcelle Cortes)先生と共同で発表した。   29日午後4時からのセッションでは座長を務めた。テーマは「国際的な観点からみた所得・富の格差」で、発表論文は3本しかなかった。1本目はロシアからの研究者で、移民の移民先に対する影響についての研究成果を発表した。2本目は日本の大学を卒業したインドネシアの研究者たちが、金融危機における銀行の機能を巡って日本とアングロ・アメリカとの銀行管理システムを比較した。3本目はフィリピンの大学の研究者の発表で、フィリピンの出稼ぎ労働者からの送金が母国の危機における緩和役を果たした報告である。   自由討論の中で、フィリピン大学オープン大学のセザー・ルナ(Cesar Luna)副学長から1本目の発表に対してとても良い指摘があった。「なぜ移民先(先進国)への影響に注目したか」。まあ、先進国の立場からの研究だから無理もない。   3本目の報告は逆で、出稼ぎ労働者の海外からの送金の母国への影響を調べていたが、僕は「問題意識をもっと深くしたほうがいいではないか」と指摘した。フィリピンの出稼ぎ労働者の英雄的な存在は以前からよく取り上げられているので、今度はフィリピンの社会・経済コストを研究したほうが良いのではないか。頭脳流出もよく指摘されている。今日のニュースでは「パンデミックに対応するフィリピンの病院設備は十分あるが、医療スタッフがすごく足りない(看護婦が全国で12万人ぐらい不足)」と言っていた。社会的なコストも高い。出稼ぎ労働者で一杯の国際空港の出発ロビーは旅行気分で賑やかではなく、むしろ愛する家族・友達としばらく離れる悲しい場所である。そして、政策により出稼ぎ労働者が外貨稼ぎの主な手段として使われているため、政府は他の経済部門(農業や工業)の育成を怠っている。気が付かないうちに、いわゆるオランダ病に落ち込んでいる。このような課題の方をもっと研究するよう発表者にお願いした。   2本目の日米の比較研究は、内容も良く時間も守ってくれたので優秀発表賞に推薦した。僕が研究していた日米経済の根本的な違いを確認してくれたので、僕の研究をシェアして続けるよう奨励した。   僕として一番大事なセッションは、29日午前9時からの円卓会議だった。アジア未来会議では毎回さまざまな円卓会議が開催され協力してきたが、初めて僕が主催者となった。1年以上前から準備を始めたが、その難しさを肌で感じることになった。渥美財団の角田英一事務局長と相談しながら、新しい円卓会議を立ち上げた。この円卓会議はシリーズ化する予定で、総合テーマは「世界をアジアから東南アジアのレンズ(視点)で観る」(Contemplating the World from Asia through Southeast Asian Lens)である。今回はその1回目の円卓会議という位置づけで、テーマは「コミュニティーとグローバル資本主義:やはり世界は小さいのだ」(Community and Global Capitalism: It’s a Small World After All)だった。   元渥美奨学生でインドネシア出身のジャックファル(Jakfar-Idrus Mohammad)先生とミャンマー出身のキン・マウン・トウエ(Khin Maung Htwe)さんが発表を引き受けてくれたので心強かった。ジャックファルさんは村有企業(village-owned enterprise)という面白い試みを取り上げた。キンさんは、観光によっていかにコミュニティーを活性化させるか、彼自身の努力を語った。ベトナムのハ(Quyen-Dinh Ha)先生は、ベトナムではパンデミック危機を抑えるためにコミュニティーがいかに重要だったかを報告した。   円卓会議の基調講演はフィリピン大学ロスバニョス校の同僚ホセフィナ・ディゾン(Josefina Dizon)先生と僕が担当し、このテーマの問題意識を紹介した。社会ネットワーク分析の「小さな世界」という概念を利用して、今の世界経済秩序が同時多発テロのようなパンデミックに対して脆いことを指摘した。そして、もう一つの小さな世界であるコミュニティーがこの打撃に対応する時に重要であると指摘した。それに対して討論してくれたのは、フィリピン大学でコミュニティー研究が専門のアレリ・バワガン(Aleli Bawagan)先生とジャン・ペレズ(John Perez)先生だった。両者ともパンデミックに対応するためにはコミュニティーの役割が大きいことを確認しながら、パンデミックの特殊性に合わせて研究と活動の見直しが必要ではないか、大学のプログラムをどう再編すればいいか等、色々なヒントを与えてくれた。   円卓会議を初めて企画段階から務めた担当者として、円卓会議の概念はそもそも何かということまで考えさせられた。由来は、やはりあのアーサー王の円卓(ラウンドテーブル)であり、目的はアーサー王が騎士らと集まる時にテーブルの上座がない、つまり一番偉い人がいない座り方にして全員が等しく重要であることを強調した。今度の円卓会議の発表者の多くは3~4世代にわたって蓄積したコミュニティー開発の経験があり、実を言うと僕が一番新参者(新世代)だ。しかし、僕は皆が平等であることを目指し、「先生」「博士」ではなく、昔風にサー(SIR)かマダム(MA'AM)と呼び合うようにお願いした。そのほうが皆が率直に話ができる、というのが円卓会議の本質である。こうして我が東南アジアの騎士たちは活発で有益な議論をしてくれた。   日本の茶室の伝統はこの円卓会議と同じ狙いであろう。侍は刀を外に置いて、茶室の低いにじり口をくぐって入り正座する。茶室で集まると、皆平等になる。アーサー王の円卓と違うのは茶人(tea_master)がいることだ。AFCの円卓会議では僕が座長を務めたので「茶室会議」と呼んだほうが良いかもしれない。だって、狸は畳の上に寝転がるのと一期一会の世界が好きだからさ。   追伸:僕のアンケートに協力していただいた狸たちにお礼を申し上げます。これからもよろしくお願いします!   <フェルディナンド・マキト Ferdinand C. MAQUITO> SGRAフィリピン代表。SGRA日比共有型成長セミナー担当研究員。フィリピン大学ロスバニョス校准教授。フィリピン大学機械工学部学士、Center for Research and Communication(CRC:現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、テンプル大学ジャパン講師、アジア太平洋大学CRC研究顧問を経て現職。     2022年11月11日配信  
  • 2022.11.03

    エッセイ720:李鋼哲「第6回アジア未来会議INAFセッション『台湾をもっと知ろう』レポート」

    今年のアジア未来会議は8月末に台北の中国文化大学で開催予定だったが、コロナ禍の終息が見られずハイブリッド形式で開催、台湾の参加者は会場に集まり、海外からはオンラインで参加した。コロナ禍にも関わらず、世界各地から大勢の参加者が集まり盛況だったと思う。   大会2日目の28日は多くの分科会が設けられたが、その中の2つを一般社団法人・東北亞未来構想研究所(INAF)が主催した。   この企画は、INAF所長である筆者が準備段階から研究所内の皆さんに呼び掛け、東北アジア地域を対象とした研究所としての特徴を生かし、東北アジア諸国と台湾との関係をテーマに設定し、政治や歴史、経済・産業分野を中心にしたユニークなセッションとして注目された。   当初、台湾に旅する機会が少ない皆さんは、視察旅行を兼ねて学術会議に参加を申し込んだが、残念ながらその望みは実現できなかった。   にもかかわらず、発表者の皆さんは忙しい中でも膨大なエネルギーを注いで準備を行った。専門分野ではあるものの、台湾との関係についてはほとんど各自の研究の射程に入っていなかった。台湾の特殊な事情により、日本を始め台湾研究者は非常に限られている。   特殊な事情の一つは、第2次世界大戦後の1949年に同じ国であった中国と台湾が中華人民共和国と中華民国に分断されたこと。次に国際社会の中で中国の存在感が大きく、台湾が小さいこと。最後に国際連合(UN)での代表資格が1945年から1971年10月までは中華民国だったが、その後は国連決議により中華人民共和国にとって替われ、それ以来、世界多数の国は中華人民共和国と国交を締結する際に「一つの中国」しか認めない、という中国政府の条件を受け入れ、中華民国との国交関係を次々と断絶したことなどが挙げられる。   そのような台湾(中華民国)が、今度のINAFセッションによって少しでも脚光を浴びることになったかもしれない。   【Part1】では平川均INAF理事長をモデレーターとし、3名の報告と討論が行われた。   第1報告は、筑波大学大学院博士課程の李安・INAF研究員による「岸信介政権期における政財界の対中「政経分離」認識―新聞報道を中心に―」だった。1950年代に国交がない中で民間貿易がどのように展開されたのかについて、当時のメディアの報道をリサーチした日中両国関係についての研究であるが、発表者は当時の日本と中華民国との関係についてもメスを入れて、日本は如何に国交がない中国との民間貿易に取り組んだのか、その中で中華民国との関係をどのように処理したのか、という大変興味深い内容であった。討論は羽場久美子・INAF副理事長・神奈川大学教授が務めた。   第2報告は、川口智彦・INAF理事の「北朝鮮-台湾関係と国際関係」。北朝鮮(DPRK)は建国後、ソ連や中国など社会主義圏との交流関係が多く中国とは親密な関係を持っていたため、資本主義圏の中華民国(台湾)との交流はほとんど行われず、両者関係は空白と言っても過言ではなかった。そのような厳しい状況であるにも関わらず、発表者は一生懸命に資料を収集し、韓国研究者の論文を見つけ出し、北朝鮮と台湾の関係が形成された時期の台湾外交を「第1期、柔軟な外交(1972~1987)」、「第2期、実用外交(1988~1999)」、そして「定型化(2000~現在)」に分け、両岸関係、中米関係、中韓関係と関連させながら、それぞれの時期にあった当該国間の外交、経済交流の事例に関する研究を紹介した。日本では前例をあまり見ない先駆的な研究であるかもしれない。討論は三村光弘・INAF理事・ERINA研究主任(北朝鮮専門家)が担当した。   第3報告は、アンドレイ・ベロフ・INAF理事・福井県立大学教授の「Economic Relations between Russia and Taiwan」であった。前述と同じ理由で、台湾はソ連やロシアと外交関係がなかったため、相互交流がほとんどなく、それに関する先行研究もほとんど見当たらない状況の中で、経済交流に関する資料を収集し、エネルギーや半導体の貿易が行われていることを明らかにしたので、これも先駆的な研究であるかもしれない。討論は筆者が務めた。   【Part2】のモデレーターは川口智彦理事が務め、2名の報告と討論が行われた。   第4報告は陳柏宇・INAF理事・新潟県立大学准教授の「東アジアにおける帝国構造とサバルタン・ステイト:台湾と韓国を中心に」であった。報告者はINAFセッションの中で唯一台湾出身の学者であり、東アジアの国際関係や国際政治を専門とし、台湾と中国の関係、台湾と日本の関係など多くの研究成果を発表している。本報告では「サバルタン」とは植民地化または他の形態の経済的、社会的、人種的、言語的または文化的支配によってもたらされる従属の状態であることを説明した上で、戦後の韓国と台湾(中華民国)は東アジアのサバルタン・ステイトの代表例だ、という指摘は印象に残った。討論は佐渡友哲・INAF理事が務めた。   最後の報告は筆者で、テーマは「半導体産業におけるグローバル・サプライ・チェーン再編―米中覇権争いと台湾―」にした。筆者は半導体産業の研究が専門ではないが、米中貿易摩擦および覇権争いが激しさを増す中、「半導体を制する者は21世紀を制する」と言われるので、それに関する資料を収集・分析して、半導体の開発・生産・販売を巡る米中台3者の関係を明らかにしようとした。討論は平川均理事長が務めた。   発表と討論の後に総合討論が行われ、白熱した議論が交わされた。台湾で開催されるアジア未来会議であるがために、INAFセッションでは台湾を重点的に取り上げて、興味深い報告や分析が行われていたことで、多数の参加者がオンラインで参加し、有意義な交流の舞台となった。     英語版はこちら     <李鋼哲(り・こうてつ)LI Kotetsu> 1985年北京の中央民族大学業後、大学院を経て北京の大学で教鞭を執る。91年来日、立教大学大学院経済学研究科博士課程単位修得済み中退後、2001年より東京財団、名古屋大学国際経済動態研究所、内閣府傘下総合研究開発機構(NIRA)を経て、06年11月より北陸大学で教鞭を執る。2020年10月1日に一般社団法人・東北亜未来構想研究所(INAF)を有志たちと共に創設し所長を務め、日中韓+朝露蒙など多言語能力を生かして、東北アジア地域に関する研究・交流活動に情熱を燃やしている。SGRA研究員および「構想アジア」チームの代表。近著に『アジア共同体の創成プロセス』、その他書籍・論文や新聞コラム・エッセイが多数ある。     2022年11月3日配信
  • 2022.10.27

    エッセイ719:オリガ・ホメンコ「女、男、子どもの戦争」

    ◇女たち   戦争になったら女一人で何ができるか考えて、友達は2014年春にジムに通い始めて体を鍛えることに集中した。男より体が小さい女も、普通の生活においても自分自身と子どもたちを守るべきと思ったようだ。「少なくとも限られた荷物と幼い子供2人を抱えて歩きながら逃げるために役立った」と今は話している。   戦争の時に女性は命の危険を感じて避難しなければならない。避難先で新しい生活を作り直さなければならない。その過程で精神的な不安といろいろ危険な状況を乗り越えなければならない。2014年の春には不思議に聞こえたが、2022年の冬にはよく思い出していた。その前のコロナの2年間に研究ばかりしてジムへ通う時間が少なかったことを残念に思った。   8月にキーウに行く日本人記者の女性の友達にも「戦争の時に一人の女性に何ができるのか」と同じ質問をされた。答に詰まった。確かに戦争になったら女性は2倍くらいの危険を感じるようになる。女性だから知らない男の群れの近くを通るだけで危険を肌で感じる。   だが怖い時には余計に勇気が出せる。この半年にいろいろな女性を見て感動した。自分で運転して家族をドイツまで避難させた40代の母親。留学先のイギリスからウクライナに戻って寝たきりの母親をイギリスに連れて行った30代の独身女性。軍隊のために寄付を集める50代のビジネスウーマン。軍隊のために潜伏用のネットを作る80代の元数学の先生。ボランティアでカウンセリングをする40代の売れっ子の心理学者などなど。軍隊に志願した女性も少なくない。学生や会社員が看護婦、運転手、軍隊の広報員になって一生懸命頑張っている。最近の社会広告には「ウクライナには弱いジェンダーがない」というスローガンで軍服を着た女性が写っているポスターもある。   体が弱くても時には男性より精神的に強い女性が多いかもしれない。特に歴史的にみても20世紀に活躍する男性がたくさん殺されたウクライナでは、女一人でも自分で自分の生活を成り立たせることを、皆が学んできた。独立後の30年間でやっとそれを考えなくても良い、女性を守る男性が出てくるような安心できる社会になったところに戦争が始まった。   Kさんは外資系企業で働くバリバリのビジネスウーマンだったが、戦争が始まった時にキーウから子どもと避難することをやめた。チケットまで手配したのに、どうしてやめたか聞くと、旦那がもともとメンタル的に弱いから、独りで残したら悪化してしまうかもしれない、だから避難をやめたと言われた。「どうせ戦争はすぐに終わるでしょう」と楽観的だったが、8ヶ月後の今もキーウに居る。   もちろん強い女性ばかりではない。女性であるということだけで戦争で性的被害を受けることは少なくない。スロベニアからオーストリアに入る国境で、黄色と青のウクライナカラーの背景に「人身売買の対象になっている場合は合図してください」と書いてあった。なるほどと思った。被害者は連絡できないかもしれないが、国境の職員に合図することはできる。英国に避難した友達も、質問票の中に同じような項目があったと言っていた。緊急連絡先も教えてくれたという。「現代の奴隷」と呼ばれるものを予防するためのものだ。確かに必要だと思う。この半年間に欧州のホテル、レストランのキッチンで現地の人より安い給料で働いている避難民の女性をたくさん見た。   ◇男たち   戦争が始まってから70日間以上も病院で寝泊まりしていた看護婦に「どうして避難しなかったの?」と聞いたら、「ここで私が必要とされているから残った。避難先で何もしないで頭が狂ってしまうより、ここにいた方が合理的」という返事がきた。分からないわけではない。   ポーランドでたまたま乗ったタクシーの60代の運転手から全く同じ話を聞いた。キーウで会社勤務に加えて中心部に2つの駐車場を経営してバリバリに働いていた。ポーランドで大学に通っている下の娘のところに家族と避難したが、家にずっといるとおかしくなりそうでタクシーを始めた。   男性も戦争で大変だ。必ずしも皆が戦う能力を持っているわけではない。戦争で家族がバラバラになったことも大変だ。男にとっては特に厳しい選択の時代になった。軍隊に志願するか志願しないか。軍隊のために何ができるか深く考えさせられる。2月24日以降、お金持ちの息子たちは結構海外に出られたことも事実だが、普通18歳から60 歳までの男性は国を出られない。皆軍隊に呼び出される準備をしている。   国に留まっている男性は皆重い責任を感じている。男の友達から「男性の政治家でこの7カ月間で笑顔を見せた人は一人もいないことに気づいた?」と聞かれた。確かに。笑える時代ではない。   軍隊に志願した男は大変だ。軍隊にいる期間は無期限で戦争が終わるまで家に帰れる見込みがない。つい最近、軍隊に行ってから3人目の子供が生まれた父親だけが家族の下に戻ることができる法律ができた。2014年に徴兵された経験のある2人の作家は、その「無期限」の修正を大統領に申し立てた。   まだ徴兵されていない人も、別の形で役立つように頑張っている。若い時からスポーツオリエンテーションが好きな歴史家の友人もその一人だ。ハルキフとキーウの真ん中にあるポルタワ市の出身で、家族をポーランドに送ってから地元に戻って一般市民向けの「地図を読む講座」を開いた。スマホがつながらなくなった時でも避難できるようにするためだ。「YouTubeでしたら?」と提案したら、「だめだめ。実家の周辺は変わった地形なので、それをそのまま敵に知らせてはいけない。顔を合わせたオフラインの講座しかやらない」と言われた。確かにそういう時代だ。平和な時と違って、地図そのものも「大事な一品」になってきた。   感情を表に出すことが少ないウクライナの男たちが戦争になってから感情的になった。駅で家族を見送る時、子どもと奥さんに手を振りながら涙を流す。家族を避難させて家に帰っても一人で眠れなくて、夜遅くまで軍隊のためにバラクラバ(目出し帽)を裁縫する。今月キーウにミサイルが落とされた時、地下鉄の駅に集まった人々の中でおじいさんが泣いていたと教え子が言っていた。きっとキーウ駅近くのオフィスビルの破壊を目の当たりにして許せない気持ちになったのだろう。   ◇子どもたち   子どもたちはまだ幼いから避難先で一番先に慣れて友達を作れるが、彼らも大変だ。   戦争が始まった後に描かれた子どもの絵を見ると、その中に口にしない戦争が見える。11歳の甥がオーストリアに避難してから初めての美術の授業で描いた絵を見せてもらった時に戸惑いを感じた。まず自分の手を写生し、そこから絵にするという課題だったようだ。一見したところ黒い背景に描かれた鮮やかな鳥に見えた。しかしよく見ると、その「手・鳥」は叫んでいるか、助けを求めているように見える。「避難は怖かった?」と聞くと、無表情で「別に」としか答えない。でもその絵の全部がなんとなく怖いものに見える。その子の他の絵を見ると、戦車、武器、軍人やウクライナの旗が出てくるものも少なくない。たくさんの怖い思いをしたウクライナの幼い子どもたちを守ってください。   父親たちは妻と子どもを海外に送り出すために国境まで一緒に来ることが多い。それで国境での別れがまた辛い話になる。小さい子どもは「パパを逃したくない」と泣きじゃくる。11歳の甥は国境の職員に抱きついて「おじさん、お願いだからパパを通してください」と涙を流してお願いした。職員は冷たかった。母親にむかって「奥さん、子どもをどかしなさい」と言った。   それより小さい子はまだ状況が分からないから「父親は一緒に行きたくないのだ」と勝手に思う。ハンガリーに避難した友達の5歳の子は、パパからくる電話に出たくなかった。「どうしたの?」と聞くと、「パパは私たちを捨てたから話したくない」と言うので、みんなびっくりした。小さい子どもの頭の中がどうなっているかは謎だが、それなりに考えている。   戦争が始まった時に、キーウ郊外の地下室に隠れていた知り合いの7歳の息子は戦争が始まった理由が分からなくて「どうしてプーチンは私たちを嫌いなの?」と聞いたそうだ。どうしてでしょうね。答えがない。領土が欲しいけど、ウクライナ人はいらないからだ。   子どもの現実と夢だけではなく、遊びの中にも戦争が入り込んだ。ウクライナの子どもは昔から家の前で大勢集まって遊ぶことが多かったが、戦争でそれがなくなりつつある。しかしながら、先日、友達の車が家に入る時に7歳から10歳くらいの子どもたちのグループに止められた。どうも「ブロックポスト」という戦争ゲームをしていたらしく、顔も知っているのに、きちんと家の住民かどうか確認された。お互いに笑って通してもらったが、「戦争で子どものゲームも変わったなぁ」と言っていた。やはり、そうです。   ◇◇◇   女、男、子どもが自分を守りながら、この持ち込まれた戦争を嫌い、ウクライナのことを祈り続けている。自分が立っている場所に花を咲かせているのではなく、戦う。戦争は嫌いだが、戦わないといけない。戦わなかったらウクライナという国とウクライナ人が存在しなくなるからだ。イタリアの作家ジャーニー・ロダーリーの詩を最後に引用したい。「日中必要なものがある。遊ぶ、学ぶ、顔を洗うこと。そして昼には一緒に食卓でみんなで歌いながら笑うこと。夜にも必要なものがある。目を閉じて眠ること。そして、すべて実現できるような夢を見ること。ただし、絶対ダメなものが一つある。明るい昼でも暗い夜でも陸でも海でもみんなに悲しみをもたらすもの。それは戦争だ」。     <オリガ・ホメンコ Olga_KHOMENKO> オックスフォード大学日産研究所所属英国アカデミー研究員。キーウ生まれ。キーウ国立大学文学部卒業。東京大学大学院の地域文化研究科で博士号取得。2004年度渥美奨学生。歴史研究者・作家・コーディネーターやコンサルタントとして活動中。藤井悦子と共訳『現代ウクライナ短編集』(2005)、単著『ウクライナから愛をこめて』(2014)、『国境を超えたウクライナ人』(2022)を群像社から刊行。   ※ウクライナ首都の日本語の表記は、オリガさんによれば「クィーブ」が一番相応しいということですが、本エッセイではご了解いただき日本政府の決めた「キーウ」を使います。   ※留学生の活動を知っていただくためSGRAエッセイは通常、転載自由としていますが、オリガさんは日本で文筆活動を目指しておりますので、今回は転載をご遠慮ください。     2022年10月27日配信  
  • 2022.10.13

    エッセイ718:陳姿菁「第6回アジア未来会議を終えて」

    「来年、台湾台北で会いましょう!」 中国文化大学元学長の徐興慶先生、台湾のラクーン(元渥美奨学生)たちと一緒に、2020年1月にフィリピンで開催された第5回アジア未来会議のクロージングパーティーのステージに上がり、皆さんに呼びかける自分の声が耳元で響いていた光景が昨日の出来事のようです。   翌日のツアーで火山の噴火を目の当たりにし、そして火山灰で滑走路が閉鎖され、空港では長時間待たされ、混乱の中で帰国便の変更をしたことなど、皆さんは覚えているでしょうか。   帰国後、第6回アジア未来会議の準備が始まりました。いえ、準備はもっと前から始まっていました。火山見学の途中、噴火する直前の火山の横の展望台で、徐先生から「準備委員会の連絡グループを作りましょう」と指示を受けた時に始まっていました。   フィリピン大会から約1カ月後、日本から今西さんと角田さんの2人、タイからはアジア未来会議(AFC)事務局3人組が台湾で集合しました。   宿泊施設の視察、おもてなしの台湾料理の試食など朝から晩までぎっしりとスケジュールが詰まっていました。台湾の魅力をどのように皆さんに知ってもらうか、いろいろなアイディアが飛び交っていました。   101ビルはランドマークとして広く知られているかもしれません。では、圓山ホテル(ザ・グランドホテル)はご存知でしょうか。赤い柱と金の瓦の14階建て中国宮殿様式のホテルで、台湾では初めての5つ星ホテルです。歴史のある圓山ホテルの格式を味わってもらう宴会場を探しました。高さ11メートルの天井に、渦を巻いて空を飛ぶ龍が珠を吐き出すホールを見学し、ここでクロージングパーティーを開いたらきっと一層華やかな雰囲気を引き立てられるのではないか、視察チームは様々な想像を巡らせて、その会場を予約することにしました。   その頃は新型コロナが世界にこんなに大きな影響を与えるとは思いもよりませんでした。台湾ではすでに警戒態勢で、マスクは配給制になっていました。視察チームが帰国する際に、空港で今西さんが「マスクをあげようか」と言ってくれたのをまだ鮮明に覚えています。「いえいえ今西さん、ご自分に取っておいた方がいいですよ」と答えましたが、まさかその後日本でもしばらくマスクが不足するとは思いませんでした。   2020年3月19日、今西さんたちが帰国して間もなく台湾は国境を閉じ、新型コロナは火に油を注ぐような勢いで世界中に広まっていきました。   新型コロナの収束が見えない中、対面で会議が開けるか台湾の準備委員会では議論を重ねました。様々な国の学者と対面で議論し、学際的な交流をするのはアジア未来会議の醍醐味です。その醍醐味を最大限に保ちたいという思いを優先し、2021年8月に台湾で開催予定だった第6回アジア大会の延期を決めました。「1年延期すれば、なんとか光が見えてくるでしょう」と準備委員会で議論しました。そして本番の大会の宣伝を兼ねて、オンライン式の「プレカンファランス」を開くことになり、2021年8月26日(木)に実施しました。   「プレカンファランス」が大成功に終わり、いよいよ本番を目指します。しかし、新型コロナがベータからデルタ、オミクロンへと次から次へ変異し事態が思わぬ方向へと進んでいきました。オンラインかハイブリッドか対面か、どの形にするか最後の最後まで決めかねていました。準備委員会としてはアジア未来会議の醍醐味である対面会議での交流を大事にしたいと考えていましたが、ご存じの通り入国制限があり、最後はハイブリッド形式に決まりました。アジア未来会議が始まってから初めてのチャレンジです。   大会数日前にはパネリストや通訳などに続々と感染者が出て、臨時的措置を取らなければならない慌ただしい雰囲気が漂っていました。あと数分で日付が変わる25日の真夜中に、事務局から26日に公開する英語のお知らせの中国語への翻訳の依頼が入り、「間に合うか間に合うか」と秒単位で緊張しながらのやり取りです。さまざまなネットワークやチームメンバーが動員された大会がいよいよ開幕を迎えると実感しました。   8月27日当日、台北市北部の山に位置する中国文化大学で大会が始まりました。台湾ではまだ新型コロナ対策として「社交距離」、「マスク着用」など様々な規制があるにも関わらず、大会ホールには大勢の人が集まっていました。   シンポジウムでは基調講演者の前(第14代)中華民国副総統の陳健仁先生をはじめ、各国・各分野で活躍する先生方が新型コロナについて様々な視点から話をしてくれました。パネリストの一人である黄勝堅先生(台北市立聯合病院前総院長)の言葉を借りますと、基調講演とシンポジウムの話はまさに大会趣旨である「みんなの問題、みんなで解決」にぴったりだと、私も思わずうなずいていました。   開催会場の中国文化大学側の総動員、日本(+タイ)側のスタッフ、そして台湾の多数の学校をまたぐ準備委員会の委員たちが積極的に協力してくれたおかげで、3日間にわたった基調講演、シンポジウム、円卓会議、分科会などがスムーズに行われ、活発な議論が展開されました。大会が順調に行われた裏ではたくさんの方々の協力が欠かせませんでした。心から感謝を申し上げます。   私は準備委員の一員であるほか、コメンテーター、座長、共同発表、個人発表など数役を担い、日本語、中国語、慣れない英語を切り替えながら気を張り詰めて3日間を過ごしました。新しく取り入れた研究テーマが「ベストプレゼンテーション」という評価をいただき、とても励みになりました。新しい研究やチャレンジの成果をシェアできる場として、異なる分野、異なる国の学者が異なる視点で議論できる場として、大会の様子を見て「あー参加して良かった」とつくづく思いました。   第6回アジア未来会議は無事に閉幕しました。対面会議ではない形で開催され残念な気持ちはありますが、これからの時代はハイブリッド形式が普通になるのではという感想もあります。   第1回から第6回、コロナのない時代、コロナの時代、ポストコロナの時代、そしてウィズコロナの時代、これからはどんな時代になるのでしょうか。第7回アジア未来会議は最初の開催地であるバンコクに戻ります。どんな話題が繰り広げられるのか、とても楽しみです。   では、台湾の台北からタイのバンコクへバトンタッチします。 皆さん、2024年8月にバンコクで会いましょう。     英語版はこちら     <陳姿菁(ちん・しせい)CHEN Tzu-Ching> SGRA会員。お茶の水女子大学人文科学博士。台湾教育部中国語教師資格、ACTFL(The American Council on the Teaching of Foreign Languages)のOPI(Oral Proficiency Interview)試験官(日本語)。台湾新学習指導要領(第二外国語)委員。開南大学副教授。専門は談話分析、日本語教育、中国語教育など。     2022年10月13日配信
  • 2022.10.07

    エッセイ717:オリガ・ホメンコ「戦争とスマホ」

    コロナが始まってからの2年間はスマートフォン(スマホ)やパソコンを使う時間が増えた。ウクライナの子供や学生たちもオンライン授業になって画面と付き合う時間が急増した。何人かの教え子が修士課程のオンライン授業に飽き、その上に経済状況が悪化してお金を稼がないといけない厳しい現実に直面して、博士課程に進学するのをやめた。とても残念に思った。漢字文化圏に比べてウクライナの人々は視力が良いのだが、コロナの間に大人も子供も目を悪くして眼鏡をかける人が増えた。   戦争が始まったらスマホの画面と付き合う時間がさらに倍くらい増えた。子供、大人、老人も毎朝起きてベッドからまだ起き上がらない状態で恐る恐るニュースをチェックする。親戚や友達とメッセージ交換し、キーウの私のマンションや駐車場のチャットグループを確認して、やっとそれから顔を洗う。ベッドに入る時も同じことをする。日中には何度も同じことをする。   この7ヶ月の間にいろいろな国で出会ったさまざまな職業のウクライナ人から同じ話を聞いた。スマホでニュースを見ないと落ち着かない。見なかったら何か大事なものを見逃すかもしれない。自分の国、首都のキーウが存在しているか、ミサイルで破壊されてないか。ニュースを確認するのが大事な仕事になった。とにかくスマホと付き合う時間が増えすぎた。ニュースを読んでも何かできるわけでもないのだが、読まないと落ち着かない。よく分かる。自分は何の影響を与えることもできないが、ニュースを読むくらいは毎日できる。   それは時間の無駄使いかもしれない。ストレスになるばかりだ。何もできない時間でもある。受身的に怖い情報を受けるだけだ。コロナ以前、友達は子供がネットを使う時間を1日30分に制限した。その代わりに一緒にテーブルゲームし、絵を書かせて、そして数学の勉強に力を入れた。コンテンツを消費する人ではなく、将来的にはコンテンツを作る人として育てたいからだ。   しかし、スマホを止めるのは難しい。固定電話の昔とは違って電話番号も覚えていない。全てが入っている。家族や友達の連絡先、銀行、郵便局、地図、万歩計、天気、そして読書、言葉を学ぶアプリ、ガソリンスタンドの会員カード、さらには世界と付き合うInstagram(インスタグラム)、Twitter(ツイッター)、Zoom(ズーム)、Facebook(フェイスブック)、タクシーや買い物のアプリも入っている。ウクライナではコロナになって2年前から全ての大事な書類、つまりパスポート、免許、保険やワクチンパスポートなどがデジタル化してスマホのアプリひとつになったので、まさに命そのものだ。避難した人にとっても非常に重要だった。個人情報を盗まれるのではないかとデジタル化を嫌がった人もいたが、戦争になってからありがたみを感じるようになったようだ。国を出る時に必要な書類がなくても、アプリ1つあれば全部確認できる。デジタル化は他の分野でも進んだ。役所に並ばずに、ネットやアプリで結婚や離婚、また出産届も出せるようになったので便利だ。   そして、デジタル化が進んで、高齢者もどうしてもこの流れに乗らないといけなくなった。先ずはワクチン。注射を受けるためにネットで予約しなければならないが、あの頃は若い人が手伝ってくれた。だが戦争が始まってから年寄りでもスマホを使いこなすようになった。   年齢におかまいなくデジタル化が進んだ。それまでは機械やITが苦手でスマホの電話機能しか使わなかった70歳とか80歳のおばあちゃんが、戦争が始まってからたった1ヶ月で、避難先の外国でウクライナのニュースを見るためにスマホでYouTubeを使えるようになった。国営テレビはニュースをテレビやネットで24時間流している。元気な顔を家族に写メールで送れるようになった。以前はテレビのリモコンさえ使いたくなかったのに、信じられない発展である。母親から初めて写メールが届いた時、一瞬スマホを盗まれたのではないかと思った。電話して本人が送ったと分かって安心した。必要性に応じて、あるいは命に危険を感じたら物事を早く学べると分かった。   周りに若い人がいるとさらに早く学べる。戦争になってから子供や孫のおかげでTikTok(ティックトック)やインスタグラムのような新しいメディアを使い始めた高齢者が増えた。メラニアさんという84歳の有名なおばあちゃんはその一人だ。孫がおばあちゃんのためにアカウントを作成し、毎日情報発信するのを手伝っている。そのおかげでウクライナ全土で愛されるおばあちゃんになった。メラニアさんは生まれた時からずっとポーランド国境近くの村に住んでいる。子供の時に戦争を経験したが、まさかもう一度戦争が来ると思わなかった。歳をとって何もできないから、軍人に大量の手作り水餃子を作り、毎日ソーシャルメディアでメッセージを発信するようになった。家事、庭仕事、日常生活を紹介している。おばあちゃんがいない、あるいは優しいおばあちゃんを知らない30代、40代、さらには50代もフォローして、愛される存在になった。今ティクトックで70万人のフォロワーがいる。   今の時代ソーシャルメディアのおかげで良い意味でも悪い意味でもグローバル化され、情報を隠すことができなくなっている。インターネットさえあれば情報を発信することができる。しかも、Facebook(フェイスブック)やインスタグラムと違ってティックトックはすぐに大勢の人の手元にメッセージを届けることができる。空襲警報で地下室に入っている人たち、軍隊にいる人たち、避難している人たち、また遠い外国にいる人たちが一つの見えない糸でつながっている。   戦争になってソーシャルメディアにも新しいトレンドも現れた。今まではほとんど発信しなかった軍人が政治家並みに活躍している。イーロン・マスク氏の「スターリンク」のおかげで東部で戦っているウクライナ軍人もずっとネットが使えて家族ともつながっている。普通の投稿だけではなく、ウクライナの歌が全世界の人々と歌うために流される。歌ったり踊ったりして敵をからかう人も少なくない。そして面白い情報だけではなく危険を避けるための重要な情報も、投稿されるおかげで隠せないものになる。3月にザポリージャ原発が襲われた時、一人の市民ストリーマーがその映像を世界に流したので注目された。   戦争になってから一般住民がチャットグループで情報交換するようになった。私のキーウのマンションもそうで、チャットで毎日情報が来るようになった。2月末、高層マンションは空爆のため敵にマークされていたので、マンションの住人は屋上へ出る扉に鍵をかけ、1時間ごとに当番で確認していた。屋上の入口に小麦をまいて、誰かが歩いたらすぐ分かるようにした。サスペンス小説で学んだのかなと思った。また窓に緑か青のライトをつけていると空爆を呼び込むという情報が流れた時、建物の窓を全部チェックし、そのような光が出ている家が無いかを確認した。たまには間違うこともある。停電になった時に子供部屋のナイトライトが勝手について大騒ぎしたこともあった。まあ、結果良ければ全て良しですが。   でもそうではなかった時もあった。5月のある日、突然チャットに「マンションの9階あたりで女の叫び声が聞こえる」というメッセージが入ってきた。200家族が住んでいたマンションには5家族しか残ってないので、どうしたのかなと皆気になってとりあえず警察を呼んだ。お巡りさんはちゃんと来たが、叫び声は聞こえてないから帰った。2時間後、チャットグループに叫んだ本人からの連絡があった。「騒がせてごめんなさい。先ほどマリウポリにいる家族が皆死んだという連絡が来たので気持ちを抑えられなかった。。。それを読むだけでドキッとした。どう返事すれば良いかわからなくて戸惑った。だが、とにかく、この7か月間は新聞やテレビよりソーシャルメディア、スマホのチャンネルからもらう情報の方が早かった。   戦争が始まってから何人かのウクライナの有名なジャーナリストがテレグラムチャンネルを作り、新聞より早いいろんな情報が流されるようになった。だがそれ以外に毎日見るのが同級生のチャット(皆元気かな?)、それから家と駐車場のチャット(大丈夫かな)か。それを確認するだけで結構時間とられて忙しい毎日。   もう一つ昔のことを思い出した。子供の頃にキーウに田舎から親戚のおばちゃんが来る時、都会の親戚の住所を書いたメモを必ずポケットに入れていた。万が一大都会で迷子になった場合はきちんとその住所に届けてもらうために。あの頃、第二次世界大戦で両親と離れ離れになった子供がいると聞いたが、まさかその時代がもう一回来ると思わなかった。2月に戦争が始まってからニュースで両親の携帯電話番号を背中に赤いペンで書かれて避難先に送られた子供の映像を見た時にそれを思い出した。   しかしスマホは「救うもの」から「裏切るもの」に簡単に変わる可能性もあることが、今回の戦争でよく分かりました。記録されている情報や写真を見たら、その人の過去と現在が全部分かってしまうからだ。占領地域にいる人々がウクライナに帰る時に色々確認されたようだ。電話しかできない機種を持っていた人が割とスムーズに帰れて、スマホだと保存されている情報や特にウクライナの旗、民族衣装、軍人と撮った写真があると危険な目にあったという話も少なくない。また、移動中には電話しかできない機種の方がバッテリーが長持ちしたという話もある。電源オンのスマホは電波を流しているので、簡単に居場所が知られてしまうので危ないという話も聞いた。   平和の時と戦争の時とではスマホの使い方が違っているので、それまではチャットに投稿しても普通と思われた情報が危ないものになる可能性がある。例えば、ツイッターやインスタグラムに写真を載せるとその写真のファイルに位置情報がついているので簡単に場所確認できるため、非常に危険にさらす情報になる。いざとなったらスマホが友達から敵に化けないよう、最近ウクライナのメディアは一般市民に戦争中のスマホの知識を学ばせている。   <オリガ・ホメンコ Olga Khomenko> キーウ・モヒーラビジネススクールジャパン・プログラムディレクター、助教授。キーウ生まれ。キーウ国立大学文学部卒業。東京大学大学院の地域文化研究科で博士号取得。2004年度渥美奨学生。歴史研究者・作家・コーディネーターやコンサルタントとして活動中。藤井悦子と共訳『現代ウクライナ短編集』(2005)、単著『ウクライナから愛をこめて』(2014)、『国境を超えたウクライナ人』(2022)を群像社から刊行。   ※ウクライナ首都の日本語の表記は、オリガさんによれば「クィーブ」が一番相応しいということですが、ご了解いただいて本エッセイでは「キーウ」を使います。   ※留学生の活動を知っていただくためSGRAエッセイは通常、転載自由としていますが、オリガさんは日本で文筆活動を目指しておりますので、今回は転載をご遠慮ください。       2022年10月7日配信