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エッセイ722:オリガ・ホメンコ「一番近い国、ポーランド」

ウクライナの国境はロシアとベラルーシ以外に、ポーランド、スロバキア、ルーマニア、モルドバと接している。ロシアによる侵攻の後、隣の国々の対応はとても早かった。特にポーランドは積極的に動いてたくさん支援してくれたので、ウクライナ人は皆とても感謝している。

 

ポーランドと言えば子供の頃に読んだ旅と歴史の小説が思い浮かぶ。アルフレッド・シュクリャリスキーが書いたトメック君の連続冒険小説や、16世紀にウクライナのコサックと戦ったポーランドについて書かれたゲンリック・センケビチの歴史小説『火と刀で』など。学生時代に見たクシストフ・キスレフスキー監督の「三色・青・赤・白」や「ヴェロニカの2つの人生」などの映画もとても印象的だった。

 

国境を接する国なのでいろいろな時代があった。仲が良かった時とそうでもない時。ウクライナの一部がポーランドの領土になっていた時代もあり、コサック達が雇われてポーランドの軍隊で働いた時もあった。お互いに複雑な気持ちの時代もあった。信用できない時代もあった。歴史的な視点から見れば簡単な関係ではなかった。しかし文化的な交流はずっと続いていた。その中でさまざまな知識がポーランド経由でウクライナに入ってきた。ポーランドの教育システムを見て、コサック達は自分の子供達のためにカトリック学校ではなく、モヒーラ・アカデミーという正教の学校を初めて作った。ポーランドは西側に一番近い国だったので、中世からたくさんの文化や文物が入って来ていた。

 

昔ポーランドは帝国でウクライナの領土がその一部であった時期があるので、歴史的にウクライナのことを上から目線で見ることもあった。しかし違う時代違う場所で、ウクライナ人とポーランド人は協力し合ったことも少なくなかった。その中の一つが遠く離れた1930年代の満州だった。第1次世界大戦とロシア革命で流されたウクライナ人とポーランド人がお互い少数民族として手を合わせて戦って、「プロメテウス」というソ連解体を願う組織を作っていた。

 

冷戦時代、今のウクライナ人の60代や70代の人に大きな影響を与えたビートルズやロック音楽やジーンズは全て、ポーランド経由で入ってきた。キーウとワルシャワを往復する電車がいろんなものを運んできた。1970年から1980年代にかけてはポーランドのソポット音楽祭がテレビでよく放送されていたので、この期間に流行した音楽はポーランドから流れてきたとも言える。もちろん、文化的だけではなく政治的な影響もあった。特に1980年代からポーランドの民主化運動「連帯(ソリダルノスチ)」の成功事例をみて、ウクライナの独立にもつながった「市民運動ナロドニーイ・ルーフ」という政党が生まれた。

 

ソ連が崩壊した時、ウクライナは経済的に大変な状況で、ポーランドの市場までバスで行ってカメラやソ連の電気製品などを売り、代わりに衣類を買ってきて、それをウクライナの市場で売って金稼ぎをしていた人も少なくなかった。ポーランドは社会主義を早く離れて経済成長し、ウクライナよりお金持ちになるのが早かった。それが魅力的で、特にこの10年以上、ポーランド語学習は人気がある。多くの学校でポーランド学科ができて、ポーランドへ行くウクライナからの留学生も増えた。

 

ポーランドの世論調査に基づいた研究をみると、2004年のオレンジ革命までのウクライナに対しての思いはさまざまである。例えば第2次世界大戦中にヴォリーニでポーランド人がたくさん殺されたこと、1990年代に経済が落ち込んだウクライナからからヘルパー、ベビーシッター、建設業者等の出稼ぎ労働者が増えたこと。しかし、その時のポーランド人の回答には「ロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人の区別がつかない」が多かった。皆「ロシア人」と思われていたようだ。

 

ウクライナはソ連の一部であって、ポーランドは独立の歴史が長かった。社会主義を離れた時、多くのポーランドの人が仕事を求めてドイツ、フランス、イギリスに出稼ぎに行った。その代わりにウクライナが独立してから最初の10年間、ウクライナの人はよくポーランドに出稼ぎに行った。

 

お互いに経済が少しずつ良くなるにつれて関係が改善し、一緒に文化的なイベントをすることにもなった。2012年にヨーロッパのサッカー大会をポーランドと共催したことで、両国が近づいたとも言われている。行き来しやすいので観光業が盛んになり、ポーランドからの旅行者も増えた。観光が盛んになるとその国について知ることもたくさん増え、相互理解につながる。

 

2014年に東部で戦争が始まってから安全を求めて多くの人がポーランドに移住することになった。同じ国だった時代もあるので、特に西ウクライナの人は家族史をさかのぼればポーランド人のおじいちゃんなどが出てくることも少なくない。そうすると、ポーランド在留許可がとれる。大学生にも魅力的になった。ポーランドの大学を出ればヨーロッパのどこでも働ける。学費もウクライナとほぼ変わらないのに可能性を切り開ける。自分の子供の将来を考えてポーランドの大学を選んだ親も少なくなかった。幼なじみの友人の娘さんもワルシャワで国際関係を学び、アメリカに留学した。教え子の中にもポーランドの大学へ移って卒業し、そのままコンサルタント会社や学校、博物館などに就職している人もいる。ポーランドの生活費はウクライナより少しだけ高いが、給料も高く、安全で、質が高い食品がたくさんある。

 

家族の安全と将来を考えて、ポーランドを移住先としてみる人もいる。リビフのバリバリの実業家の女友達は2014年にウクライナの3つの事業を売ってポーランドに移った。自分のビジネスの拡大と子供の教育を狙っているのかと皆が思ったが、実はそれ以外にも理由があった。東部で戦争が始まった時に、愛する精神科医の旦那と一人娘と一緒にポーランドに移った。旦那が軍隊に取られるのではないかという不安があったからだ。コロナが始まるまでの6年間にポーランドとスロバキアで自分のビジネスを再開し、旦那も個人のクリニックを続けている。

 

ワルシャワとクラクフでタクシーを呼ぶと運転手はウクライナ人が多い。話を聞くとまさに現代のポーランドとウクライナの人の移動について勉強できる。クラクフで運転しているイワンさんはリビフ州出身で、ハルキフで勉強し8年間生活してから2014年にポーランドに移ることを決めた。理由は一つで、個人経営の会社の手続きが簡単で賄賂もいらない、税金さえきちんと払えばなんの問題も起きないから。

 

ポーランドの法科大学院に通っているロマンさんも3年前にワルシャワに同じ理由で移った。トラックの運転手のペトロさんもほぼ同じ理由。仕事をきちんとすれば家族を養えるし、安定した将来を築くことができると思っている。劇場と映画の仕事をしている俳優のオリガさんも、フリーで働く芸術家にとってはウクライナより環境が良いと言う。キーウの歴史学部を出た教え子もポーランドの大学院で勉強し博士号を取って、ポーランドの大学で教えている。ウクライナと違って大学の給料で生活が成り立つそうだ。この人たちは侵攻の前にポーランドに移った。

 

2月24日にロシアによる侵攻が始まってからポーランドは国境のゲートを開け、ウクライナ人にとっては「救いの場」となった。1939年秋に占領された経験があるポーランドはウクライナに対して深く同情してくれた。ポーランドの国境に集まったウクライナ人の多さ、寒い駅で紅茶とパンを配っているポーランド人と涙を流して受け取るウクライナ人の写真を見て感動した。友達はハルキフからきた病気の母親を出迎えてくれたポーランド人のボランティアの優しさに感激した。

 

ワルシャワや他の街にシェルターが作られ、今でもそこでたくさんのウクライナ人が帰る希望を持って暮らしている。仕事を見つけて頑張っているウクライナ人も多い。ワルシャワ駅の近くのマリオットホテルの接客スタッフの半分以上が若いウクライナ人だ。ワルシャワとクラクフのホテルの料理人にもウクライナ人女性が多かった。ポーランド語で「ジェンクユー(ありがとう)」と言ったら、普通にウクライナ語で「ジャークユー」と返ってきた。美容院、ネイルサロンのスタッフにも、コンビニのレジにも。多くの避難民はポーランド政府が給付する1回約100ドルの生活手当をもらうのではなく、皆すぐに仕事を見つけ、貯金を崩しながら暮らしている。

 

侵攻が始まってからポーランドに移ったウクライナ人は500万人を超える。2021年夏の統計を踏まえ、それ以前から来ている150万人の出稼ぎ労働者をプラスしないといけない。大変な数字である。

 

歴史的に複雑だった関係がこの大きな不幸のせいで改善されるとは誰も思っていなかった。ポーランドにとっては、ウクライナが「よく分からない隣国」から「なんとなく分かる国」に変わった。不幸な出来事でウクライナ、ウクライナ語、ウクライナ文化への関心も高まった。俳優のオリガさんはウクライナ語の個人レッスンもやっていて、3人の教え子がいる。30~40代の新聞記者と研究者とビジネスマン。今まではウクライナ人とロシア人とベラルーシ人は「皆ロシア人」と思っていたが、今回ウクライナ語とポーランド語の近さにお互いに驚いた。ポーランドのスーパーで、ウクライナ語で話してもそのまま買い物ができてしまう。ウクライナ人がポーランド語を習得するスピードにも驚かれる。

 

多くのウクライナ人はほぼ何も持たないで逃げてきたため買い物もそこそこするので、ポーランドの消費経済に貢献しているとも言える。キーウにあった外資系企業の事務所はほぼワルシャワに移った。家賃が高くなったことは確かだ。もともと高い給料であったがポーランドの生活レベルに調整されたらしい。

 

しかし、避難してきたウクライナ人は物質的な買い物よりも体験消費の方が多い。ロシアによる侵攻から命からがら避難できて家族の絆を改めて実感し、家族旅行、文化的な経験の消費が増えた。持っていたものを全部残して来なければならなかったので、これからは物質的なものを集めるのをやめて幸せな思い出をたくさん作るべきと確信した。戦争から逃げてきた人の心を癒すのは「物」ではなく、気分転換できることと皆が話している。

 

ポーランドの政治家もこの8ヶ月間にウクライナをよく訪問した。2022年5月、アンジェイ・ドゥダ大統領はウクライナ国会での挨拶を「兄弟のウクライナの皆さん、こんにちは」という言葉から始めた。そして「ポーランドに避難した親戚、両親、子供たちは、私たちの国では難民ではありません。彼らは私たちのゲストです。ポーランドでは安全です。」と言ってくれたので心が温まった。

 

国境のジェジューフという街は「ウクライナ人を救った街」とも呼ばれている。多くのウクライナ人がここを経由して避難できたので。

 

ワルシャワとキーウ、クラクフとリビフは結構似ている。緑が多くて、古い建築の中に新しい建物がある。街づくりも似ているので慣れやすいかもしれない。本当に暖かく受け入れてくれた。もちろん、ポーランド人の中にも外国人がたくさん来たことに対して不満を抱いている人もいるだろう。不満のある人はどこでも見つけられる。ウクライナの戦争でガス代や電気代が高くなったとも言われるかもしれない。戦争はヨーロッパにも大きな経済的、精神的な影響を与えている。しかし命を救われ、ポーランドに温かく受け入れてくれたことをウクライナ人は一生忘れないで、これからさらに良い関係を築くだろう。

 

11月15日にウクライナとの国境にあるポーランドの村にミサイルが落とされ2人の命が失われたニュースを聞いて心が痛みます。ウクライナとポーランドのことをずっと考え続けています。

 

<オリガ・ホメンコ Olga_KHOMENKO>
オックスフォード大学日産研究所所属英国アカデミー研究員。キーウ生まれ。キーウ国立大学文学部卒業。東京大学大学院の地域文化研究科で博士号取得。2004年度渥美奨学生。歴史研究者・作家・コーディネーターやコンサルタントとして活動中。藤井悦子と共訳『現代ウクライナ短編集』(2005)、単著『ウクライナから愛をこめて』(2014)、『国境を超えたウクライナ人』(2022)を群像社から刊行。

 

※ウクライナ首都の日本語の表記は、オリガさんによれば「クィーブ」が一番相応しいということですが、本エッセイではご了解いただき日本政府の決めた「キーウ」を使います。

 

※留学生の活動を知っていただくためSGRAエッセイは通常、転載自由としていますが、オリガさんは日本で文筆活動を目指しておりますので、今回は転載をご遠慮ください。

 

 

2022年11月18日配信