SGRAエッセイ

  • 2012.12.26

    エッセイ362:シム チュン キャット「日本に「へえ~」その12:教育を取り戻すって?」

    かなり心配しています。近頃、自分の日本語能力は大丈夫かと本当に自信を失いかけています。とりわけ、2012年12月に行われた衆議院議員選挙の際に、各政党が打ち出したキャッチコピーには理解困難なものが多くて戸惑いを禁じえませんでした。例えば、日本維新の会の『今こそ、維新を。』って、あの倒幕運動から始まった明治維新の維新ですよね。うん、日本の現状を見ればそれをやりたくなる気持ちもわかりますが、本当にちゃぶ台返しのようにもう一回日本のすべてをひっくり返すのですか、危なくないですか。つぎに、日本共産党の『提案し、行動する。』って、あの…ちょっと待ってください…今まで提案し、行動してこなかったというのですか!?仕事はちゃんとしましょうね。あと、日本民主党の『動かすのは、決断。』って、主語がないのでそれは誰の決断を指しているのかちょっとわかりませんが、まあ、結局国民が決断してあなた達を壊滅状態の所に動かしたみたいですけどね。そして、自由民主党の『日本を、取り戻す。』って、なるほど詳細を見ていくと「経済・教育・外交・安心を取り戻して、新しい日本をつくろう」という意味だそうで、いいですね、これはわかります。うん?でも「教育を取り戻す」って?よく見るとそのすぐ下には「危機的状況に陥った我が国の教育を立て直します」という説明がついていましたが、あれっ、日本の教育は危機的状況に陥っていましたっけ?教育社会学者でありながら、その危機的状況に気付かなかった僕は寝ぼけていたのでしょうか。   日本に「へえ~」その6:「PISA調査における日本の最新結果、すごいじゃん?」にも書いたように、2009年のPISA(OECD生徒の学習到達度調査)に参加した、いわゆる「ゆとり世代」と言われてきた当時の日本の高校1年生の学力はそれでも世界トップレベルだったのです。さらに、2012年12月12日付の朝日新聞と毎日新聞の1面トップで報道されたように、63ヶ国・地域が参加した2011年の国際数学・理科教育動向調査(TIMSS)でも、調査対象であった日本の小学4年生と中学2年生の平均得点は、ともに数学と理科の両分野においてベスト5に入っていました。当然、日本の教育は完璧では決してありませんが(というか、日本の評論家がよく絶賛するフィンランドも含め、教育が完璧な国は存在しません)、2つの国際学力調査においてどちらも世界トップレベルの成績を収めた日本の教育がもし本当に「危機的状況に陥った」としたら、順位のより低い国々の立場はどうなるのでしょうか。まったく失礼な話です(笑)。危機感を煽るのも大概にして欲しいものです。   無論、教育は学力だけではありません。現に、教育再生に関する自民党の政権公約の中には世界トップレベル学力の育成のほかに(今でも世界トップレベルですから!)、6・3・3・4制および大学教育の見直し、幼児教育の無償化、教育委員会制度の改革や、教科書検定基準・近隣諸国条項の見直しやいじめ対策などもあって、中身は実に盛りだくさんです。紙幅の関係上、そのすべてに言及する余地はありませんが、とくに気になっている最後の二つについて簡単に私見を述べたいと思います。   まず、教科書検定基準の抜本的改善や近隣諸国条項の見直しについてですが、その狙いは、自民党の公約にも書いてあるように「子供たちが日本の伝統文化に誇りを持てる内容の教科書で学べるよう」、これまでの自虐史観的な教科書を駆逐することにあるのでしょう。無知を承知で素朴な疑問なのですが、今の日本の子供たちは本当に日本の伝統文化に誇りを持てていないのですか。そういう印象を僕は抱いていませんが、もしそうだとしても、それは自国の歴史の負の部分を強調しすぎた(とされる)教科書のせいなのでしょうか。実はそれ以前の問題として、負の部分どころか、あの戦争についてほとんど知らない日本の若者がなんと多いということが僕の率直な感想です。実際に大学の授業でも、当時の日本軍がシンガポールまで「進出」したことさえ知らなかったという大学生にたくさん会ってきました。そもそも、あの戦争についての教科書記述と日本の伝統文化への誇りとのつながりがいまいち見えてこない僕はバカでしょうか。なんか本当に心配になってきました。   つぎに、いじめ対策ですが、まあ無策よりはいいでしょう。ただ、別に悲観主義者というわけではありませんが(どちらかというとその逆ですが)、いじめは無くならないでしょう。しかも、今年8月に発表された文科省の学校基本調査によれば、2011年において日本の小中高校の生徒数はそれぞれ約676万人、355万人と336万人であり、なんと小中高生の人数だけでシンガポールやフィンランドの人口の2.5倍以上もいるではありませんか!これだけの遊び盛りの子供が学校という閉じられた環境でほぼ毎日学習生活を送らせられているわけですから、皆が皆おとなしくしているほうが反って不自然・不気味というものでしょう。時たま何かの事件が起きたりするのも無理はないのではないかと思います。言うまでもなく、いじめは許される行為ではありませんし、学校からいじめが無くなることに越したことはありません。ただ、殺人、強盗、放火、詐欺などの許されない犯罪行為が大人の社会から無くならないように、子供の社会である学校からいじめを完全に追放するのも至難の業といえましょう。学校現場では、保護者も含めてあれだけの人が集まってきますから、毎日いろいろなことが起きます。しかしながら、マスコミに報道されない限り、ほとんどの場合においてわれわれはそれらのことを知りようがありません。そして残念なことに、マスコミに大きく取り上げられるのが専ら最悪の事態に至った事故・事件ばかりですから、学校を見るわれわれの目はどうしても偏ってしまいがちになります。最近、いじめ自殺の報道が続けてなされていますが、その母集団が1300万人を超えるという事実を忘れてはなりません。視点を変えて見れば、いじめが最悪の事態を招く前に食い止め、それゆえマスコミにはまったく登場しない学校や教師もきっとたくさんいるはずです。繰り返し言いますが、僕は日本のいじめ問題を過小評価しようとしているつもりは毛頭ありません。然るに、いじめは日本に限った問題ではなく「いじめ問題国際シンポジウム」が定期的に開催されるほど各国が抱える共通の教育問題の1つでもあります。したがって、日本の教育だけが「危機的状況に陥った」わけではありません。そう思う僕はやはり楽観主義者でしょうか。   2012年の夏にわれわれSGRAが主催した「第44回SGRAフォーラムin蓼科『21世紀型学力を育むフューチャースクールの戦略と課題』」でも熱く議論され、またSGRAが2013年3月にバンコクで開催する第1回アジア未来会議でも僕の研究グループが同じテーマに挑みますが、情報通信手段の急激な進化の波と確実に広がるグローバル化の流れは、これまでの学校教育のあり方にも大きな変化を迫っており、従来とは異なる21世紀型の「学ぶ力」が強く求められています。そのような意味でも、「教育を取り戻す」のではなく、「新しい教育を創っていく」というような未来志向のメッセージが欲しかったなぁと思うのは僕だけでしょうか。   ------------------------------- <シム チュン キャット☆ Sim Choon Kiat☆ 沈 俊傑> シンガポール教育省・技術教育局の政策企画官などを経て、2008年東京大学教育学研究科博士課程修了、博士号(教育学)を取得。日本学術振興会の外国人特別研究員として研究に従事した後、現在は日本大学と日本女子大学と昭和女子大学の非常勤講師。SGRA研究員。著作に、「リーディングス・日本の教育と社会--第2巻・学歴社会と受験競争」(本田由紀・平沢和司編)『高校教育における日本とシンガポールのメリトクラシー』第18章(日本図書センター)2007年、「選抜度の低い学校が果たす教育的・社会的機能と役割」(東洋館出版社)2009年。 -------------------------------     2012年12月26日配信
  • 2012.12.20

    エッセイ361:朱 暁雲「第2回SGRAカフェ『福島をもっと知ろう』へのお誘いに参加して」

    今西淳子さんのお誘いで、SGRAが主催するカフェに参加しました。その集まりは、「福島をもっと知ろう」というテーマで、 福島県飯館村で牛を飼い、米と野菜を作り、土から生まれる命を育てる「生業」を営んでいる菅野宗夫さんを囲み、彼の身に実際に起った様々な出来事に耳を傾けて、生の声を聴く会でした。そこには「福島」を知る為のスタディツアーに参加したSGRA会員の方々と、日本の大学で教壇に立っている会員の先生方の報告に触発された学生達が参加していました。「報道」として作られた情報ではなく、目の前にいる人の口から発せられる苦悩や訴えは、心に直接響きました。   2011年3月11日、東日本に大地震が起った日、私は上海にいました。日本のNHK国際放送の映像から見た、巨大津波に飲み込まれて行く漁港と市場、押し流される家々、自動車。遠く離れている日本の東北の東海岸で、現実に起っている映像をリアルタイムで観ていたときの驚愕を、今も鮮明に思いだします。此の時の、言葉がないテレビの実況放映は、その後に報道された現場からの「報道」よりも生々しく、強烈でした。巨大津波の映像は世界中の人々を震撼させたにちがいありません。世界の人達の目が、日本の東北地方の町や村に生き残った人達を見つめました。   日本から発信された様々なテレビ放送からの「情報」の一部を、中国のメデアが採り上げ、上海の地下鉄のプラットホームやバスの停留所、街角のモニターTVから、地震と津波で破壊された街や田畑の惨状と避難所に身を寄せて身内の安否を心配する人々の映像が、上海の街中に流されました。上海市民の殆どが毎日、強い関心をもって画面を見ていました。その時市民にとって最も印象的だったのが、被災地の住人達が、静かな表情でテレビのインタビューに応えていた時の「日本人」の表情です。惨事にも人間らしさを失わない日本人の「尊厳の高さ」に感じ入り、インターネットでは感嘆の念を表すメッセージが飛び交っていました。   福島の原子力発電所の爆発は、津波のニュースとは全く違い、「脅威」として受け止められました。放射能汚染が上海までやってくる、海水が汚染されて塩がなくなるという流言が、サイバースペースを飛び交いました。「福島」は放射能汚染の代名詞となり、直接の被害を受けた福島の住人の苦悩は殆ど伝えられていませんでした。爆発した原子力発電所が与える「脅威」そのものの方が、その脅威に晒されている住人達の苦悩よりも、遥かにニュースヴァリューがあるからでしょう。福島県飯館村の菅野さんの発言は、私にとって初めて、福島の住人の生の声を聞く機会でした。   壊れた原子力発電所から飛び散る放射能に、家族が一緒に住む家を、手塩をかけて育てて来た牛達を、そして何世代にも渡って耕し続けてきた田畑を、見捨てなくてはならない無念さを、私は初めて身をもって感じました。菅野さんのお話を拝聴し、私が最も感じいったのは、菅野さんが抱いている「土」への念いです。飯館村の豊かな自然の中で「土」に根ざした生活を営むことは、生きることであり、生きる喜びと感じました。飯館村をこの上なく美しいと憶う故郷の風景への愛が、私の心の奥にも生き生きと映りました。菅野さんだけではなく、被爆地域の多くの住民達が共有する想いである筈だと思います。   私は今、上海市の北を流れる長江の中の島、崇明島の将来のために何ができるかを考えています。崇明島は「生態島」と呼ばれています。中国の中央政府が、国家の環境改善対策と持続可能な発展のシンボルとして、過去十数年以上も押し寄せる経済開発の波を押さえてきました。「生態島」という旗のもとで、有効な対策が立てられないまま、開発から取り残されて来たことが幸いして、崇明島の広大な湿地帯は今、生態環境保全のための研究プロジェクトの機会を提供するところとして注目されるようになっています。此の島の東端と西端に広がる湿地には多種の野鳥が棲息し、アジア大陸の東岸を飛来する渡り鳥に休息の場を提供しています。崇明島が「生態島」として生き残れるためにすべきことは何か。これが私の課題です。   長江の汚染はニュースになりません。しかしその河口にある崇明島の水環境は近年著しく悪化し、湿地の生態系を脅かしています。野鳥が姿を消し、渡り鳥が来なくなる日が遠くないと心配です。このようなことにならないように、科学的データを蓄積し、分析して、効力のある警告ができるようにしなくてはなりません。その一方で、崇明島の地元で漁業、農業、牧畜業を営む人々が、水と土の汚染を問題とは考えず、自分たちも汚染をしていることを気に留めず、生きる為の生業を営んでいます。私の活動は、目には見えない脅威を共有し、持続可能な生態環境を育てるため、研究者と技術者が地元の人達と対話できる場をつくることを目的にしています。そのような「場」が、地方の行政を動かし、中央政府に届く声になることを夢見ています。どのような場合でも、顔と顔を合わせて話し合うのが、最良の成果を産むと信じています。    インターネットやマスメディアで得ることのできる情報は、そのままでは「知」として、思考の材料にはなりません。菅野さんは、ご自身の一家が四世代に渡って飯館村で農業と牛畜業を営んできた歴史を話してくださいました。彼の代になって、東京の銀座に安心できる美味しい食材を届けるようになり、新しい生活基盤をつくっていると語りました。そのお話の間で、何回も「自然の恵みに感謝しています。」と言っていました。原子力発電所の爆発によってその生活が断絶されたままになっている今、その感謝の言葉がより鮮明に「失われたもの」を浮き彫りにし、都会の消費者の意識を、生産者の心に結びつける力になるのではないかと、私は思いました。私がそう思ったのは、菅野さんが私の眼の前でお話ししてくださったからに違いありません。「福島をもっと知ろう」に参加したことは、マスメディアの波の中で虚像になってしまった「知」、「知ること」に意味を見つける機会になりました。   福島原発事故は、人類の貪欲な消費活動がもたらした自然破壊です。日本国民を始め、国際社会の多くの研究者や政治家や行政指導者達にも、深刻な社会問題としての危機感を触発しました。その一方で、飯館村の美しい原風景は、菅野さんの心の原風景であり続けると思います。この原風景が安全な美味しさを生み出す叡智となり、菅野さんと飯館村の村民達の共有財産になっていると信じます。アジアの諸国の人々にとっても、共有できる原風景は貴重な財産です。機会があればこの日の「集い」の感激を私は崇明島の関係者たちにも伝えたいと思います   ------------------------------------ <朱暁雲☆Zhu Xiaoyun> 中国北京出身。1981年日本留学。日本大学理工学部建築学科卒業。東京芸術大学美術学部科建築科修士修了。現在中国発展研究院長江流域可持続発展研究中心研究員。上海崇明島低炭素街づくり計画をテーマに活動中。 ------------------------------------     2012年12月20日配信
  • 2012.12.05

    エッセイ359:オリガ・ホメンコ「バロック美術品を救った先生」

    数ヶ月前にテレビのニュースでウクライナの有名な美術館の館長が交通事故で亡くなったと知り、強いショックを受けた。リビフ美術館の館長だったボリス・ヲズニツキ先生、86歳だった。最後まで自分で運転をしていて、あちこちに出かけていた。その日は暑い日だったが、運転中の交通事故で亡くなったのだろう。   去年、先生とお会いする機会があった。背が高くてスラッとした体で、エネルギーが溢れている方だった。ヲズニツキ先生は50年前から多くの美術品を収集し保存に努めていたが、ある彫刻家の作品に夢中になり、一生をかけてその人の作品を探し続けた。その彫刻家は、18世後半に西ウクライナで活躍したヨハン・ゲオルグ・ピンゼリで、「ウクライナのミケランジェロ」とも呼ばれている。ソ連時代には宗教が弾圧されていて、教会は破壊されたり、倉庫にされたりした。昔の教会にあったルネサンスやバロック時代の美術品は宗教と一緒に捨てられた。暖房用の薪にされないために、ヲズニツキ先生は、そのような美術品を守ろうとした。1960年代から90年代まで、ヲズニツキ先生が副館長だった美術館のトラックを使って、壊された教会から、また破壊させられた墓地から、昔の彫刻家が作った彫刻やイコンなど、数多くの美術品を救い、自分が働いていた美術館の倉庫に隠していた。美物館を管理する上司から「宗教関係の粗大ゴミはもう持って来るな」とも言われたが、彼は止めずに密かに持ち帰って隠した。   ピンゼリの作品は、その中でも特別で、先生は一生をかけて探した。この彫刻家がどこで生まれ、どこで亡くなったかさえも分からない。名前からすればおそらくウクライナ出身ではない。だが彼の偉大な作品は西ウクライナで作られた。彼は謎の人物であり、神話の人物でもあるのかもしれないと思われたこともあった。記録がないので、ドイツ、イタリア、ポーランド、あるいはチェコからの旅人とも思われていたかもしれない。   最近の研究によれば、彼はおそらく1740年代半ばに西ウクライナのリビフ市の美術を支援していた、風変わりなお金持ちのミコラ・ポトツキの所に招待されて、そこで制作をしていたと考えられている。謎の人物ではなく、本当に存在していた人間であるという記録がいくつか見つかったのだ。この時代に残っているものは、教会に残る出産、結婚、死亡の記録に限られる。先ずは、リビフ市の聖ユーラ教会の彫刻を作った時に、その制作費が支払われたという記録。それから1751年5月3日に、未亡人マリアンナ・ケイトワと結婚し、2人の息子、ベルナルド(1752年)とアントン(1759年)が生まれたという記録。しかしながら、次の記録は、マリアンナが1762年10月に「未亡人で再婚した」という記録である。これにより、ピンゼリは、彼の下の息子が生まれた1759年とマリアンナが再婚した1762年の間に死亡したということになる。   彼の人生についての記録はあまりに少ないが、作品はいくつか残っていて、今でも美術家に注目されている。なぜなら、同時代のヨーロッパのバロック時代の建築や彫刻には、まだ、ピンゼリの作品ほどドラマティックなものはなかった。そこが面白いところなのだ。彼は初めの頃は、石像を作っていた。しかし、木像の方が有名である。教会が破壊されても、残って有名になった作品はほぼ木からできたものである。300年もの長い年月を経ても変形しなかったのは、ひびが入りにくく、かつ柔軟性のある菩提樹を素材としているからである。彼の彫刻の特徴は衣装のダイナミズムやドラマ性である。衣がとても悲劇的に身体を覆っており、この像が教会で祈る信者の前にあったと想像すると、非常に印象的なものであったに違いない。彼の作品には、イエスキリスト、アブラハム、マリア、聖ヨアキム、聖アンナなど、聖書をもとにしたモチーフが多い。   ウクライナが独立するまで、その作品は全てリビフ美術館の倉庫で眠っていた。独立後にヲズニツキ先生はリビフ市にピンゼリ博物館を設立させた。そこに28点のピンゼリの作品が展示されている。この10年の間に、ピンゼリは注目を浴びるようになった。数年前リビフ州は「ピンゼリの年」を定め、この彫刻家の作品やその歴史について、いくつかの展覧会が開かれた。2010年、ウクライナの郵便局はピンゼリのマリアと天使の切手を発行した。中央銀行は5グリブナのピンゼリ記念コインを5千枚も発行した。また2人の作家が、彼の人生や作品をもとにした小説を書いた。さらに、数種類の画集や写真集も発行された。そして今、以前「粗大ゴミ」とも言われたピンゼリの作品のために、ルーブル美術館で特別展が開催されている。ヲズニツキ先生の努力が報われた最高の結果でもあるといえるだろう。残念なことに、先生はそれを自分の目で見ることができなかった。   しかしながら、これからも、先生が救った美術品が、世界中で多くの人々の目を喜ばせることになるだろう。   ピンゼリの作品 ルーブル美術館の展覧会   ------------------------------------ <オリガ・ホメンコ ☆ Olga Khomenko> キエフ生まれ。東京大学大学院の地域文化研究科で博士号取得。現在はキエフでフリーのジャーナリスト・通訳として活動中。2005年 藤井悦子さんと共訳で『現代ウクライナ短編集』を群像社から刊行。 ------------------------------------  
  • 2012.11.28

    エッセイ358:韓玲姫「講演会『日英戦後和解(1994-1998)』報告」

    2012年度の「渥美奨学生の集い」が2012年11月1日午後6時より、渥美国際交流財団ホールにて開催されました。31名の出席者を迎えた本年度の集いは、渥美伊都子理事長の開会の辞に続き、ゲストの元駐カナダ、パキスタン大使、在英特命全権公使の沼田貞昭様に「日英戦後和解(1994-1998)」という社会的に関心の高いテーマで大変貴重なご講演を頂きました。   本講演会は、沼田元大使の経験談を交え、第二次世界大戦後日本がいかに英国と和解に向けて取り組んできたかを主題とした、とても興味深い内容でした。沼田大使はまず、戦後処理について法的処理から謝罪、そして和解という三つの側面から概観した後、1991年から1994年まで外務副報道官として在任中、海部俊樹総理大臣のシンガポールでの演説(1991年5月)から、細川護熙総理大臣の所信表明演説(1993年8月)に至る間の、侵略行為や植民地支配などに対する総理大臣、官房長官の「反省」から「お詫び」への経緯について述べました。そのうえで、90年代になって英国との和解が主要争点となったのは、日本では、太平洋戦争の責任について未整理のままで、国内の「ベルリンの壁」を抱えたまま戦後50年を迎えたことと、アジアの問題としてとらえがちで、米英蘭等の元捕虜・民間人抑留者問題は大方の意識に上がらなかったとの解釈を示しました。   沼田大使はまた、1994年から1998年まで在英日本大使館に在任中、日本政府と民間の対応を中心に「恨みの噴出から和解」を成し遂げた事例を詳しく説明しました。対日戦勝50周年を迎え、1995年年頭より英メディアに対日批判が溢れ、英国政府はVE Dayに独伊の首脳を招いたのに、VJ Dayは英国国内及び英連邦中心の行事として日本の要人が招かれなかったことを挙げ、1945年に戦争が終わり帰国した際に「忘れられた軍隊」として英国国民から冷遇されたビルマ戦線の英国軍将兵の「恨みの噴出」を英国政府とメディアが受け止めたことを指摘しました。そして、8月15日に「村山談話」が発表され、それが英国人捕虜をも対象とした閣議決定に基づく日本政府の公式な謝罪となり、それが契機となって英メディアの対日批判が静まったと説明しました。また、和解に向けての対応は政府だけでなく、民間においても行われたことを強調しました。即ち、1990年に英国に「ビルマ作戦同志会」が設立され、日本全ビルマ作戦戦友団体連絡会議と相互訪問したことや、1997年2月に日英双方の有志・家族等36人がビルマで合同慰霊祭を行ったこと、さらに、サフォーク州の高校日本語教師であるMary Grace Browning女史と英国在住の日本人である恵子・ホームズ女史の和解活動等を挙げ、日英の和解の輪が政府だけでなく、民間、そして個人へと広がったことについて詳しく説明しました。一方で、沼田大使はBBCテレビ、ラジオ、民放テレビに積極的に出演して説明したことや、1997年10月5日にコベントリー大聖堂での英米日の和解の式典に参列したこと、そして、1998年1月9日の自らの離任レセプションに100人を超える元捕虜、和解関係団体代表、日英交流関係者が参加してくれたこと等を挙げ、自ら英国和解に関わったことについてお話をされました。   そして最後に、日英戦後和解は成功したのかについては、全体として良好な日英関係の中で位置付けられると指摘しました。   講演終了後、会場からは「戦後日英和解がなぜ90年代になって争点となったのか」、「日本の昭和史を見直す必要があるのでは」という意見と、地理的に遠い英国とも和解を果たしているので、尖閣諸島、竹島等の問題で緊張が高まっている隣国の中国、韓国ともねじれた関係が克服できるだろうとの感想が寄せられました。政府、民間、個人の努力により成し遂げられた「日英戦後和解」を通して、今後の日中、日韓の和解の行方を考えさせられる、とても有意義なご講演でした。 講演会終了後、引き続き同会場において親睦会が行われ、渥美国際交流財団評議員で日本プロテニス協会理事長の佐藤直子様の乾杯の発声により開宴されました。当日は中華料理を楽しみながら、ゲストと出席者達と様々な話題で盛り上がり、交流を深めました。   当日の発表資料 English Translation   --------------------------------------- <韓玲姫(カン レイキ ☆ Lingji Han)> 中国吉林出身。延辺大学外国言語学及応用言語学修士号取得。現在筑波大学大学院図書館情報メディア研究科博士後期課程在籍。2012年度渥美財団奨学生。研究分野は比較文化、比較文学。 ---------------------------------------     2012年11月28日配信
  • 2012.11.21

    エッセイ357:デール・ソンヤ「ふくしまから帰ってきた私の素直な感想」

    豊かな緑。素晴らしい景色。朝の散歩をしながら、ふくしまが私のノルウェーの実家を思い出させ、懐かしい気持ちいっぱいで新鮮な空気を贅沢に深く吸い込んだ。ノルウェーの実家は、ライカンガー(Leikanger)という小さな村で、今回訪問した飯舘村と同じように農業が主な産業である。人口が少なく、各住宅は広く、隣家と距離がある村である。そのライカンガーで、私は毎日山の豊かさと孤独さを楽しんでいた。今でも懐かしく思い出すし、すぐに帰りたいという思いはずっと心の奥にある。 ふくしまにいた間に、複雑な気持ちを抱いたことはたくさんあった。まずは、人がほとんどいなかったこと。特に飯舘では、ふくしま再生の会のボランティア以外はひとりも見かけなかった。素晴らしい緑を一人占めできたが、今はそのような場合ではない、という現実をすぐ思い出した。ふくしま再生の会の代表の田尾さんの案内で、飯舘の空気、土、植物等の放射線量を計り、ここは人が住める場所ではないということを理解し合った。しかしながら、「住めるか住めないか」という問題だけではない。最初の夜に泊まったふくしま体験スクールで、ご主人の酒井徳行さんの話を聞いた。原発事故の影響で農業ができなくなったせいで、生活のことが不安になり自殺した農業者が、その小さい村にもいた。原発の問題は、「生きるか生きられないか」、もしくは「生きたいか生きたくないか」という問題でもある。 おひさまプロジェクト、いいたてカーネーションの会、いいたてホーム、ふくしま再生の会。ふくしまの再生のために、頑張っている方々の話をたくさん聞いた。絶望的な状況の中で、ふくしま、友達、自分、みんなのために明るい状況を作ろうとしている人々である。放射能の恐れで若者と子供がほぼ全員いなくなった村では、孤独さ、寂しさ、絶望に毎日襲われているのだろうが、私たちが出会った皆さんは、とても元気で、精一杯頑張っている。尊敬せざるをえない。 ふくしまから東京に帰った夜に、友達と夕食をして、私のふくしまの経験について話した。一人の友達が、「福島に行ったら、きっと自分の無力を感じるようになる」と言った。ふくしまのために、何かしたいが何もできないという思い込みは、珍しくないと思う。私も、その気持ちがよくわかる。しかし、この機会に、ふくしまのためにできることについて、少し考えてみたい。 ふくしまの住民の声を聞いている時に、「政府に頼れない」というセリフが、何回も繰り返された。この気持ちはふくしまの住民に限らず、日本の国民全体に広がっている感覚だと思う。政府を信用できない、政治家が市民のことを考えていない、日本の政治はもうダメ、というような意見は、様々な場面で聞こえる。そして、政府に頼れないと思っているから、選挙で投票しない。政治に興味を持たない。このような態度は、特に日本の若者の中で非常に明らかである。しかし、政府が国民のためにあるものでなければ、何のためにあるのだろう。また、政府に信用がなくても、政府の決めたことはみんなの生き方や生活に影響する。例えば、ふくしまの場合だと放射能の危険レベルや、どこの地域を立入禁止にするかなどは政府が決めることだ。 ふくしまにいた間に、一番印象的だったことは若者や子供がいないことだった。そして、お年寄りも自分の家に居られないことだ。人生の価値についての話に入るつもりはないが、放射線の影響は、すぐにわかるものではなく、何年かたってからその結果がでる。もしそういうことだったら、お年寄りは、自分が生きている間にその影響を受けないだろう。そういうことだったら、危険でも、自分が居たい場所に居ていいんじゃないか、と私は心の中で思っている。しかし、立入禁止区域は個人の決定ではなく、政府が決める。 私は、ふくしまのためにできることは、政治に興味をもつ、ということだと考えている。「日本が沈まないように強いリーダーが必要」という意見が最近よく耳に入る。しかし、私はそう思わない。それより、ちゃんと人の話を聞くリーダーが必要ではないか、と考えている。 30歳に近づいている私は、まだ「若者」だといえるだろう。そのため、周りにいる「若者」の政治や他人への無関心さがとても気になる。原発の問題や、政治の話などに全然興味を持っていない若者が、たくさんいるように思える。自分の生活に関わっている問題なのに、どうして興味を持たないのか、私にとって謎である。考えない、あるいは無視する方がきっと楽だろうが、やはり考えてほしい。自分の周りにいる、苦しんでいる人々、または自分の生き方に影響すること、ちゃんと考えてほしい。もっと、目と心を開いてほしい。 少しおおざっぱな感想だが、ふくしまにいた間の複雑な気持ちが、東京に帰ってからの欲求不満に飲み込まれて、周りの無頓着な学生たちを見ると毎日いらいらしている、ということである。ふくしまスタディ・ツアーは、大変良い経験だった。ぜひ、皆さんも、一回だけでも行って、ふくしまの人々と話してみてください。 スタディ・ツアー「飯館村へ行ってみよう」報告 ---------------------------------------- <デール、ソンヤ Sonja Dale> 上智大学グローバル・スタディーズ研究科博士課程。上智大学比較文化研究所リサーチ・アシスタント。ウォリック大学哲学学部学士、オーフス大学ヨーロッパ・スタディーズ修士。2012年度渥美財団奨学生。 ---------------------------------------- 2012年11月19日配信
  • 2012.11.01

    エッセイ356:今西淳子「Y先生へ」

    Y先生、   先日はわざわざご丁寧にお電話をありがとうございました。 勿論、こういう時にこそ中国で開催することに意義があるというご意見は全く正しいと思います。そして、上海で開催できなくなる確率はかなり低いと思いますし、国家主席が交代すれば、政治も落ち着くだろうという大方の予測も、おそらく正しいのでしょう。   しかしながら、95%の確率で開催できるとしても、日本やタイで中止せざるを得ない事態に陥る可能性は、それよりも遙かに低いです。たとえ、今後、政治情勢が落ち着いたと見えるようになったとしても、根本的な問題は何も解決されておらず、日本の政権が代わると状況が変わるかもしれませんし、もし何かを勘違いしている誰かが中国を刺激する発言をした時に、中国政府はまた強烈な攻撃を開始するでしょう。実際、複数の中国人の仲間から、9月の中国政府の対応や言説が文化革命当時を思い出させると聞きました。今までとは少し違うという印象を、私は持っています。   9月に北京とフフホトで開催するはずだったSGRAフォーラムをあっけなくドタキャンすることになってからは、いつ同じことが起きるかわからないと感じています。パートナーの開催大学の担当者は、大学が「幹部の勧告」を受けた時に、為す術がありません。「申し訳ありません」と言われた時に、私は何と答えればいいのかわかりませんでした。大きな流れに巻き込まれてしまった個人に迷惑がかからないことを最優先に対応する以外に何もできないのです。「勧告」は突然(前回は3日前)起こりえますし、起きてから対応するのでは遅すぎます。第一回アジア未来会議には、既に350名を越える方に登録していただいていますから、予定通りに確実に開催することが、私たちの責任だと思います。   実は、今回、早目に手を打ってアジア未来会議を上海からバンコクに移そうと思いついた時、解放感を感じました。もう政府の許可をとる必要がない、政治的な、あるいは歴史問題がテーマのセッションを開催しても、開催大学に迷惑がかからないだろうかと心配する必要がないと。そもそも、自分が信じた公益活動を遂行するために、自分で資金を工面して活動するのが、民間の公益法人です。日本政府の補助金を受けずに、政治や宗教から独立して自由に活動することを信条としているのに、時代錯誤の文化排除政策をとる中国政府の様子を伺いながら活動しなければならないのでしょうか。そのようにしてまで開催することが「日中友好」だとしたら、それは何を目指しているのでしょう。交流事業ができたことがニュースになること自体の滑稽さを皆が認識するようになるために、SGRAは何をすればいいのでしょう。   ここ数年、(日本人の中にも多くいますが)中国人の留学生たちから、「日本のメディアなどは言いたい放題で自由すぎる。もっと国が管理すべきだ」というような言説を聞くことがあり、ずっとひっかかっていました。もしかすると、欧米の過剰で乱暴な人権活動の反動があるのかもしれませんが、何か、世の中全体で、自由とか民主主義に対する感性が鈍ってきているようにも思います。しかしながら、中国版ツイッターでは、今回の反日デモに対して批判の声が圧倒的だということです。大勢の中国の人たちがもっと冷静に物事を見ていると想像するのは、それほど難しくないでしょう。今深刻なのは、民意の問題よりも、システムの問題なのではないかと思うようになりました。領土「問題」については、政治の場で時間をかけて議論すれば良いのではないですか。領土問題によって、関係国の国民の毎日の生活が左右される必要はないのです。増してや、情報を管理したり、人々の交流や自由な議論の場を制限したりしてはいけないのです。   アジア未来会議は、中国に限らず、アジア、あるいは世界各国から、日本で勉強した人、日本に関心がある人が集まり、アジアの未来を語る<場>を提供することを目的としています。中国政府の管理下でできることからやっていくよりは、もっと自由に開催できる場所で、勿論たくさんの中国人研究者にも参加していただいて開催したいと思います。   タイで開催する大きな理由は、地理的にも比較的アクセスが良いこと、ビザの手続きが非常に簡単であること、開催コストが安いことなどです。今回の移転を打診するとタイの皆さん全員が「それは良いアイディアだ!」と歓迎してくれました。   微笑みの国タイで、アジア未来会議をスタートすることをご理解いただき、引き続きご支援ご協力いただきますよう、お願い申し上げます。   渥美国際交流財団関口グローバル研究会 代表 今西淳子   2012年11月1日配信
  • 2012.10.17

    エッセイ355:道上尚史「‘われわれ’という垣根を越えて」

    8月以降の日韓の波風の中で思い出したことがある。1986年、日本経済が上り調子のころ、アメリカの識者が日本を批判した。「日本語という垣根の中で日本人だけで話しても、外に波紋を及ぼすことがある。日本人はそれに早く気づく必要がある」と。アメリカが日本に学べとその成功の秘密を研究した時期だ。「昔の日本はアメリカについてもっとひどいことを言っていました。でもその頃の日本は小さく、たいして重要でなかったので、そう気にしなかったんです」と彼は続ける。   当時私はやや不快に感じつつ、国際関係の現実はそういうものかとも思った。少なくとも冒頭の指摘は正しい。国内では「みなそう思っている」ことが外国には全く通じなかったり、かえって反発を招くことがある。外国に通じる合理的な説明が必要だ。それは譲歩でなく進歩だ。   同じ年、私が留学していたソウル大学で老教授いわく、「我々は日本をよく知っていると思いがちだが、そうでもない。他の国の方が日本をよく知っていることもある。韓国は実は日本をよく知らない。そこから始めよう。」   12年前、韓国の20代の青年から手紙をもらった。「韓国にとって日本との関係は<善と悪>だ。周囲の相当合理的な大人も、日本相手では非合理でよいと言う。独島が韓国領なのは数学の公理のように自明で、検証という発想も不純だという。これが大韓民国の現実だ。」   今回久しぶりに勤務した韓国は国際社会での活躍がめざましい。日本に対する姿勢は、新しい発想が芽生えたようでもあり、大きな進歩がないようでもある。   「中国に対しては外交儀礼を重視し、日本に対してはやりたいことをやるのか。中国が韓国を見下すわけだ」、「どの国も日本の底力を評価しているのに、韓国だけが日本を過小評価している」という知識人がいる。   島の件で韓国の見解に立ちながら、「サンフランシスコ講和条約、李承晩ライン等は(韓国にとり)簡単な論点ではない」という論文を見た。立場の差はあれ、日本が韓国に求めるのは、こういう客観的で掘り下げた冷静な姿勢だ。   一方で、冒頭の老教授や青年が指摘したような傾向も依然ある。日本政府は歴史からそっぽを向き、反省せず、慰安婦問題について何の取り組みもしてこなかったという人がいるが、事実をまっすぐ見てほしい。「植民地支配と侵略によって‥多大の損害と苦痛を与え」「痛切な反省の意‥心からのお詫びの気持ち」。1995年以降この総理談話が日本政府の一貫した立場だ。元慰安婦の方々にも歴代総理はおわびと反省を表明している。   島のことで日本が自国と違う立場を主張すること自体が帝国主義的侵略性であり歴史の反省の欠如だと非難することは、日本の良心的な人に対してもメッセージにならないだろう。   日本人は、自由民主の価値観を共にする友邦として韓国を見てきたし、韓国の言葉や歴史や文化への関心はずいぶん高まった。よいことだ。だが、素朴な韓流ファンや韓国を非常に重視する人たちの多くが、驚き失望した。   国どうし、立場の対立はつきものであって、合理的建設的平和的な議論が肝要だ。それには勇気と自己批判力がいる。国内での通念や「国民情緒」に反しても、事実を謙虚に直視する必要がある。これが真の愛国であり、これでこそ相手を動かす力になる。「開かれた心、事実そのまま」「敬意と礼儀」は国際理解と友好交流の基本だ。   日本も、多くの葛藤や苦痛な作業を克服して上記の歴史認識に至った。ただ日本にも課題はある。「ウリ(我々)」という小さな垣根をこえたところにさらなる成長の道があるのは、韓国も日本も同じだ。   日韓両国ともに謙虚に事実を見、感情的な言動を自制し、合理的な論議を大幅に増やし、連携協力を強化していこう。   *このエッセイのハングル版は、9月24日のハンギョレ新聞(「『ウリ』という垣根を越えて」)に掲載されました。     --------------------------------- <道上尚史(みちがみ ひさし)☆ MICHIGAMI Hisashi> 1958年大阪生れ。東京大学法学部卒、ソウル大学外交学科を経てハーバード大学修士。外務省にてアジア局、経済協力局、大臣官房、在ジュネーブ代表部(WTO)、在韓国大使館参事官、経済局国際経済第二課長、在中国大使館公使、在韓国大使館公使(公報文化院長)。『日本外交官 韓国奮闘記』(文春新書)、『外交官が見た中国人の対日観』(文春新書)等、発表論文多数。韓国の17大学、中国の10大学、日本の4大学で講義・講演。 ---------------------------------     2012年10月17日配信
  • 2012.10.12

    エッセイ354:李 鋼哲「領土問題で試される日中韓の知恵、解決策は?(2)」

    亜熱帯気候の東アジアの8 月は猛暑の季節であるが、今年はとりわけ暑かった。しかし、暑かったのは天候だけではない。67年前の2発の原爆が東アジアの地域を暑くしたのであろう。日本は原爆と空爆で国土が焦土化し、朝鮮半島や中国などアジア諸国は日帝から解放(光復)されて熱気が溢れた。67年の歴史が経っても、この暑さがいつも蒸し返す日は8月15日の前後である。   日本国民は8月6日と9日の原爆を忘れない。同じように朝鮮半島の国民も8月15日以前の植民地化と蹂躙された歴史を忘れない。中国国民も日本の侵略戦争開始を象徴する9月18日を忘れない。それぞれの国民が違う角度で心に深い傷を受けたからである。その傷を癒そうと、そして忘れようと多くの国民達が努力しているにも関わらず、一部の人間がその傷に塩をかけて痛みを甦らせている。とりわけ、日本の一部右翼的な政治家や言論人が侵略と支配で深い傷を受けた朝鮮半島や中国の国民に、「言論の自由」という道具を使って塩をかけるケースがたびたび発生する。   その一部の人間は偏狭で排外的な「ナショナリスト」に他ならない。日中韓3国とも、その「ナショナリスト」は少数であっても、その影響力は大きく、政治家や言論人、学者から一般国民まで巻き込まれてしまう。とりわけ、ナショナリストが「領土」問題で社会に向けて攻勢をかけると、どの国でも、どんな良識のある人でも、国内ではそれへの反論がほとんどできなくなるということが、今、日中韓で起っている「領土ナショナリズム」旋風である。その旋風が時代に逆行し、平和を愛する国民には迷惑であるにも関わらず。   周知のように、このようなナショナリズムの助長には、日中韓3国の経済力を基盤とした国力関係の相対的な変化がある。日本は長い間の経済の低迷で先進国の中での順位が下がっており、国内の閉塞感を打破するためにナショナリズムを煽りやすい環境にある。逆に韓国や中国は世界における経済的な地位が向上し、とりわけ中国はGDPで日本を超えて世界第二位の座に着いた。   ソウルのタクシー運転手との会話からでさえも、韓国では、「もう日本には負けないぞ」という雰囲気が強くなっていることを感じる。政治家も、国民からの支持を高めるために、日本にもっと強く臨んでもいいのだと判断する。その一番いい材料が「領土」問題である。2005年に筆者は盧武鉉大統領の国民向けのテレビ演説を生で見ながら、「これは日本に向けた宣戦布告」ではないか、なぜ大統領がこのような演説をするのか、理解に苦しんだことがある。さる8月の李明博大統領の独島(竹島)上陸や対日発言も、かつて語っていた「未来志向」の日韓関係を構築するとの方針とは全く逆行する言動ではなかろうか。   中国も同じような状況である。「もう日本には負けないぞ」、歴史や領土問題でも「日本に強く臨んでもいいのだ」と。 その背景には、韓国も中国も、日本との経済関係は大事だが、日本から援助を受けるような経済協力関係(ODA中心に)はすでに終わったということがある。さらに、韓国にとっても中国にとっても、貿易や投資関係での日本の相対的なボリュームがかなり下がっている。日本経済力への依存度とその重要性が下がっている、という事実と認識が両国にはある。   つまり、日中韓3国はそれぞれ違う立場でのナショナリズム高揚の環境が整えられている。そしてそれが一部の政治家やマスコミに利用されやすいような状況にある。利用されるということは、利用する側は何らかの自分たちの利益があるからではないか。3カ国の国内での受益者があるとともに、外部にも重要な受益者があるということを見逃してはいけない。戦後の東アジアの国際関係において、常にアメリカが重要なプレーヤーだったということを見逃してはいけない。   例えば、日中関係が緊張すれば誰が利益を得るのか。大局的に見れば、アメリカがその東アジア戦略において最大の受益者である。日本では国防予算とも関連して国防族や関連産業が一番大きな受益者であり、親米の政治家や官僚達も受益者だと言わざるを得ない。日米同盟というのは、アメリカが日本をコントロールして自国の世界戦略で利益を得る道具である。元日本外務省の国際情報局長で防衛大学教授をしていた孫崎亨氏は、2009年に出版した『日米同盟の正体――迷走する安全保障』で、日本が戦後から現在に至るまで、如何にアメリカに従属させられて、その戦略の道具になっているかを大胆に暴露している。   そのアメリカの東アジア戦略から逸脱しようとしたのは、民主党が政権の座に着いて当選した鳩山由紀夫元総理であった。鳩山は総理に就任すると、日米関係を見直す、普天間基地を県外または国外に移転する、東アジア共同体を目指す、という方針を打ち出した。日本という船が舵を切り替え、アメリカから離れて東アジアに向けば、それはアメリカの世界戦略から逸脱することになり、「国益」を損ねることになる。同時に、日本国内でも「日米同盟」に深く関係して利益を得ている受益者達の利益にも反するのである。鳩山が総理の座から追われたのは他の内政問題もあったが、根本的な要因はここにあったと見てよい。その後の民主党政権が、外交政策において明らかに自民党路線へと回帰したのがその証拠である。   朝鮮半島とアメリカ関係においても同じ構図が存在する。南北和解や統一を進めようとする韓国の大統領はアメリカからは警戒されるのである。南北間でたびたび衝突が起こっていることが、アメリカの韓国駐留軍の維持や韓国に対する軍事的な統制に利するのである。   つまり、日中韓3国の二国間関係または三国間の関係は、アメリカとの関係を抜きにして説明しきれないし、アメリカとの関係を無視しては解決できないと、筆者は見ている。(つづく)     李 鋼哲「領土問題で試される日中韓の知恵、解決策は?(1)」   --------------------------------- <李 鋼哲(り・こうてつ) 1985年中央民族学院(中国)哲学科卒業。91年来日、立教大学経済学部博士課程修了。東北アジア地域経済を専門に政策研究に従事し、東京財団、名古屋大学などで研究、総合研究開発機構(NIRA)主任研究員を経て、現在、北陸大学教授。日中韓3カ国を舞台に国際的な研究交流活動の架け橋の役割を果たしている。SGRA研究員。著書に『東アジア共同体に向けて―新しいアジア人意識の確立』(2005日本講演)、その他論文やコラム多数。 ---------------------------------     2012年10月12日
  • 2012.10.10

    エッセイ353:マックス・マキト「マニラ・レポート2012夏」

    Essay in English   8月のマニラ訪問で、フィリピン大学の先生たちと大きな論点になったのは、SHARED GROWTH(僕は「共有型成長」と訳している)とINCLUSIVE GROWTH(包括的な成長)という2つの概念である。1993年に世界銀行が発表した「東アジアの奇跡」という報告書では、1950~80年代までに急成長しながらも所得分配も改善した東アジアの8つの国や地域の経済実績がSHARED GROWTHという言葉でまとめられた。丁度、経済大学院生だった僕はその現象に惹かれて、機会ある毎に研究し続けてきた。一方、INCLUSIVE GROWTHは、2010年に日本がAPECの議長国になったときに策定された、この地域の開発戦略の1つの柱で、最近、開発経済の分野で流行語になっている。両方の概念の推進に日本が重要な役割を果たしていることがわかる。   この2つの概念は、両方とも経済格差を無くす成長を目指しているので、一見、違いがないと思うかもしれない。そして、日本は自国の独自性を大事にすべきだと長年強調し続けている僕が、日本がこのようにして、効率+公平を両立させる開発戦略を改めて唱えることを喜ぶはずだと思うかもしれないが、なかなかその気持ちになれない。フィリピン政府の経済企画庁の中期計画にも、INCLUSIVE GROWTHという言葉が盛り込まれたのだが、僕は、フィリピン大学の先生たちにその使い方に注意を促した。2つの概念は、微妙だが根本的に異なるからである。   共有型成長と包括的成長との違いは次のようになる。   1.共有型成長という言葉は包括的成長より古いが、現代にも当てはまる。つまり、効率+公平という考え方は、日本が今思いついたばかりのものではない。   2.共有型成長という可能性は、日本の経験に基づくものであるが、それは、主流の経済学の考え方と違っており、日本が積極的に世界銀行に働きかけて「東アジアの奇跡」報告となった。   3.共有型成長という開発戦略は、主流の経済学が唱える市場主義とは違い、一国の産業の競争力を向上するために、政府の役割が重要とされる。一方、包括的成長は、どちらかというと市場主義に偏る立場とされている。   以上のような違いを踏まえて、共有型成長は、包括的成長より有力な開発戦略であることが確認できる。共有型成長戦略が「東アジアの奇跡」で発表された時は、日本が資金的に強い立場にあったので、開発思想の主流に逆らう力があった。当時、日本は「金を出せ、口を出すな」と言われたが、お金(ODA)も出すが口も出すという立派な姿勢をとった。しかし、今は、日本は資金的に有利な立場にいないので、日本独自の開発戦略を世界に提言しても軽視される可能性が高い。果たして、日本は開発戦略について、依然として有力な提言ができるであろうか。   僕は、「できる!」と答えたい。資金力は弱くなっても、日本経済は本来、共有型成長のDNAを持っているのだから、その点を強調して開発戦略を提言すればいいと思う。   共有型成長戦略は、1993年に世界銀行の報告で命名されたが、実施されたのはその前の数十年間である。つまり、共有型成長は、包括的成長より20年以上前から続いている概念である。これは、効率性+公平性という経済目標が日本にとっていかに自然で、重要なものであるかを物語っていると思う。包括的成長のような最近思いついた概念では決してない。世界人口の4分の3の人々の未来に関わっている開発戦略を、流行語大賞のように扱ってはならない。   共有型成長戦略は、日本独自の経験に基づいた概念である。経済学では、効率性+公平性は両立しにくいとされているが、日本はそれが可能であることを証明した。一方、包括的成長は、実際に実現されたものではなく、あくまでも理想、あるいは希望的なものである。より時代に合っていると言う人がいるかもしれないが、せいぜい、失われた数十年の間に効率性+公平性を失ってしまった今の日本経済の現状が指摘されるだけであろう。   包括的成長は、経済学で主流の市場主義に寄っているので、政府の役割はゲームの審判のようになる。政府は、市場におけるゲーム(競争)に対して、ルールを決めて実施する。ルール違反の選手(企業)に罰を与える。それに対して、共有型成長は、政府の選択的介入(selective intervention)を認めて、政府がゲームのコーチのような役割を果たす。政府は現場の企業と一緒に勝って喜び、負けて泣き、ゲームに燃える。実際、日本政府はこのように日本企業の競争力の向上に貢献した。   振り返ってみれば、このような日本は僕の人生をかけたくなるほど魅了的な姿であった。SGRAでの活動は、このような日本の独自性を尊重すべきだという訴えでやり始めたものだし、マニラの活動はその共有型成長を基本理念としている。「東アジアの奇跡」報告で取り上げられた共有型成長という開発概念・戦略をさらに解明する必要があり、僕はこの仕事をSGRAの活動を通じてやらせていただいている。   お陰様で、2013年2月8日にフィリピン大学で開催する第15回目のマニラ・セミナーの企画が進んでいる。テーマは、「人々と母なる自然を大切にする製造業」(Manufacturing as if People and Mother Nature Mattered)。このセミナーに、名古屋大学の平川均先生と行っている「人材育成と持続可能な共有型成長」の調査研究の成果を発表することになっている。平川先生と一緒に、フィリピン大学労働と産業連帯大学院のサレ学部長を訪問し、共有型成長という概念を積極的に支援するという心強い言葉をいただいた。   今ほど、日本がその良き独自性を堂々と訴えるべき時はないであろう。こんな大事な時期に、迷ってばかりではCOOL JAPANらしくないし、大きな混乱を招き続けるばかりだろう。   また、今回のマニラ訪問中、東京大学の中西徹先生にもご参加いただいて、2013年8月に開催する第16回マニラ・セミナーについて企画委員会を開催した。その時に、来年3月のアジア未来会議についても話し合った。今年の春、中国からフィリピンへの観光の中止、フィリピンからの一次産品の輸入阻止、中国へのフィリピン出稼ぎ者の虐め等の報道がフィリピンであったにも関わらず、「学者は、国家の対立を超えるように行動すべきであり、状況が許す限り、上海の会議に出席しよう」というみなさんの決意を確認できた。学者同士の交流のために行くのだという、フィリピンの仲間たちの熱い思いに感動した。   -------------------------- <マックス・マキト ☆ Max Maquito> SGRA日比共有型成長セミナー担当研究員。フィリピン大学機械工学部学士、Center for Research and Communication(CRC:現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、アジア太平洋大学にあるCRCの研究顧問。テンプル大学ジャパン講師。フィリピン大学の労働・産業連携大学院シニア講師。 --------------------------     2012年10月10日配信
  • 2012.10.10

    エッセイ353:マックス・マキト「マニラ・レポート2012夏」

    Essay in English 8月のマニラ訪問で、フィリピン大学の先生たちと大きな論点になったのは、SHARED GROWTH(僕は「共有型成長」と訳している)とINCLUSIVE GROWTH(包括的な成長)という2つの概念である。1993年に世界銀行が発表した「東アジアの奇跡」という報告書では、1950~80年代までに急成長しながらも所得分配も改善した東アジアの8つの国や地域の経済実績がSHARED GROWTHという言葉でまとめられた。丁度、経済大学院生だった僕はその現象に惹かれて、機会ある毎に研究し続けてきた。一方、INCLUSIVE GROWTHは、2010年に日本がAPECの議長国になったときに策定された、この地域の開発戦略の1つの柱で、最近、開発経済の分野で流行語になっている。両方の概念の推進に日本が重要な役割を果たしていることがわかる。   この2つの概念は、両方とも経済格差を無くす成長を目指しているので、一見、違いがないと思うかもしれない。そして、日本は自国の独自性を大事にすべきだと長年強調し続けている僕が、日本がこのようにして、効率+公平を両立させる開発戦略を改めて唱えることを喜ぶはずだと思うかもしれないが、なかなかその気持ちになれない。フィリピン政府の経済企画庁の中期計画にも、INCLUSIVE GROWTHという言葉が盛り込まれたのだが、僕は、フィリピン大学の先生たちにその使い方に注意を促した。2つの概念は、微妙だが根本的に異なるからである。   共有型成長と包括的成長との違いは次のようになる。   1.共有型成長という言葉は包括的成長より古いが、現代にも当てはまる。つまり、効率+公平という考え方は、日本が今思いついたばかりのものではない。   2.共有型成長という可能性は、日本の経験に基づくものであるが、それは、主流の経済学の考え方と違っており、日本が積極的に世界銀行に働きかけて「東アジアの奇跡」報告となった。   3.共有型成長という開発戦略は、主流の経済学が唱える市場主義とは違い、一国の産業の競争力を向上するために、政府の役割が重要とされる。一方、包括的成長は、どちらかというと市場主義に偏る立場とされている。   以上のような違いを踏まえて、共有型成長は、包括的成長より有力な開発戦略であることが確認できる。共有型成長戦略が「東アジアの奇跡」で発表された時は、日本が資金的に強い立場にあったので、開発思想の主流に逆らう力があった。当時、日本は「金を出せ、口を出すな」と言われたが、お金(ODA)も出すが口も出すという立派な姿勢をとった。しかし、今は、日本は資金的に有利な立場にいないので、日本独自の開発戦略を世界に提言しても軽視される可能性が高い。果たして、日本は開発戦略について、依然として有力な提言ができるであろうか。   僕は、「できる!」と答えたい。資金力は弱くなっても、日本経済は本来、共有型成長のDNAを持っているのだから、その点を強調して開発戦略を提言すればいいと思う。   共有型成長戦略は、1993年に世界銀行の報告で命名されたが、実施されたのはその前の数十年間である。つまり、共有型成長は、包括的成長より20年以上前から続いている概念である。これは、効率性+公平性という経済目標が日本にとっていかに自然で、重要なものであるかを物語っていると思う。包括的成長のような最近思いついた概念では決してない。世界人口の4分の3の人々の未来に関わっている開発戦略を、流行語大賞のように扱ってはならない。   共有型成長戦略は、日本独自の経験に基づいた概念である。経済学では、効率性+公平性は両立しにくいとされているが、日本はそれが可能であることを証明した。一方、包括的成長は、実際に実現されたものではなく、あくまでも理想、あるいは希望的なものである。より時代に合っていると言う人がいるかもしれないが、せいぜい、失われた数十年の間に効率性+公平性を失ってしまった今の日本経済の現状が指摘されるだけであろう。   包括的成長は、経済学で主流の市場主義に寄っているので、政府の役割はゲームの審判のようになる。政府は、市場におけるゲーム(競争)に対して、ルールを決めて実施する。ルール違反の選手(企業)に罰を与える。それに対して、共有型成長は、政府の選択的介入(selective intervention)を認めて、政府がゲームのコーチのような役割を果たす。政府は現場の企業と一緒に勝って喜び、負けて泣き、ゲームに燃える。実際、日本政府はこのように日本企業の競争力の向上に貢献した。   振り返ってみれば、このような日本は僕の人生をかけたくなるほど魅了的な姿であった。SGRAでの活動は、このような日本の独自性を尊重すべきだという訴えでやり始めたものだし、マニラの活動はその共有型成長を基本理念としている。「東アジアの奇跡」報告で取り上げられた共有型成長という開発概念・戦略をさらに解明する必要があり、僕はこの仕事をSGRAの活動を通じてやらせていただいている。   お陰様で、2013年2月8日にフィリピン大学で開催する第15回目のマニラ・セミナーの企画が進んでいる。テーマは、「人々と母なる自然を大切にする製造業」(Manufacturing as if People and Mother Nature Mattered)。このセミナーに、名古屋大学の平川均先生と行っている「人材育成と持続可能な共有型成長」の調査研究の成果を発表することになっている。平川先生と一緒に、フィリピン大学労働と産業連帯大学院のサレ学部長を訪問し、共有型成長という概念を積極的に支援するという心強い言葉をいただいた。   今ほど、日本がその良き独自性を堂々と訴えるべき時はないであろう。こんな大事な時期に、迷ってばかりではCOOL JAPANらしくないし、大きな混乱を招き続けるばかりだろう。   また、今回のマニラ訪問中、東京大学の中西徹先生にもご参加いただいて、2013年8月に開催する第16回マニラ・セミナーについて企画委員会を開催した。その時に、来年3月のアジア未来会議についても話し合った。今年の春、中国からフィリピンへの観光の中止、フィリピンからの一次産品の輸入阻止、中国へのフィリピン出稼ぎ者の虐め等の報道がフィリピンであったにも関わらず、「学者は、国家の対立を超えるように行動すべきであり、状況が許す限り、上海の会議に出席しよう」というみなさんの決意を確認できた。学者同士の交流のために行くのだという、フィリピンの仲間たちの熱い思いに感動した。   -------------------------- <マックス・マキト ☆ Max Maquito> SGRA日比共有型成長セミナー担当研究員。フィリピン大学機械工学部学士、Center for Research and Communication(CRC:現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、アジア太平洋大学にあるCRCの研究顧問。テンプル大学ジャパン講師。フィリピン大学の労働・産業連携大学院シニア講師。 --------------------------     2012年10月10日配信