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エッセイ362:シム チュン キャット「日本に「へえ~」その12:教育を取り戻すって?」

かなり心配しています。近頃、自分の日本語能力は大丈夫かと本当に自信を失いかけています。とりわけ、2012年12月に行われた衆議院議員選挙の際に、各政党が打ち出したキャッチコピーには理解困難なものが多くて戸惑いを禁じえませんでした。例えば、日本維新の会の『今こそ、維新を。』って、あの倒幕運動から始まった明治維新の維新ですよね。うん、日本の現状を見ればそれをやりたくなる気持ちもわかりますが、本当にちゃぶ台返しのようにもう一回日本のすべてをひっくり返すのですか、危なくないですか。つぎに、日本共産党の『提案し、行動する。』って、あの…ちょっと待ってください…今まで提案し、行動してこなかったというのですか!?仕事はちゃんとしましょうね。あと、日本民主党の『動かすのは、決断。』って、主語がないのでそれは誰の決断を指しているのかちょっとわかりませんが、まあ、結局国民が決断してあなた達を壊滅状態の所に動かしたみたいですけどね。そして、自由民主党の『日本を、取り戻す。』って、なるほど詳細を見ていくと「経済・教育・外交・安心を取り戻して、新しい日本をつくろう」という意味だそうで、いいですね、これはわかります。うん?でも「教育を取り戻す」って?よく見るとそのすぐ下には「危機的状況に陥った我が国の教育を立て直します」という説明がついていましたが、あれっ、日本の教育は危機的状況に陥っていましたっけ?教育社会学者でありながら、その危機的状況に気付かなかった僕は寝ぼけていたのでしょうか。

 

日本に「へえ~」その6:「PISA調査における日本の最新結果、すごいじゃん?」にも書いたように、2009年のPISA(OECD生徒の学習到達度調査)に参加した、いわゆる「ゆとり世代」と言われてきた当時の日本の高校1年生の学力はそれでも世界トップレベルだったのです。さらに、2012年12月12日付の朝日新聞と毎日新聞の1面トップで報道されたように、63ヶ国・地域が参加した2011年の国際数学・理科教育動向調査(TIMSS)でも、調査対象であった日本の小学4年生と中学2年生の平均得点は、ともに数学と理科の両分野においてベスト5に入っていました。当然、日本の教育は完璧では決してありませんが(というか、日本の評論家がよく絶賛するフィンランドも含め、教育が完璧な国は存在しません)、2つの国際学力調査においてどちらも世界トップレベルの成績を収めた日本の教育がもし本当に「危機的状況に陥った」としたら、順位のより低い国々の立場はどうなるのでしょうか。まったく失礼な話です(笑)。危機感を煽るのも大概にして欲しいものです。

 

無論、教育は学力だけではありません。現に、教育再生に関する自民党の政権公約の中には世界トップレベル学力の育成のほかに(今でも世界トップレベルですから!)、6・3・3・4制および大学教育の見直し、幼児教育の無償化、教育委員会制度の改革や、教科書検定基準・近隣諸国条項の見直しやいじめ対策などもあって、中身は実に盛りだくさんです。紙幅の関係上、そのすべてに言及する余地はありませんが、とくに気になっている最後の二つについて簡単に私見を述べたいと思います。

 

まず、教科書検定基準の抜本的改善や近隣諸国条項の見直しについてですが、その狙いは、自民党の公約にも書いてあるように「子供たちが日本の伝統文化に誇りを持てる内容の教科書で学べるよう」、これまでの自虐史観的な教科書を駆逐することにあるのでしょう。無知を承知で素朴な疑問なのですが、今の日本の子供たちは本当に日本の伝統文化に誇りを持てていないのですか。そういう印象を僕は抱いていませんが、もしそうだとしても、それは自国の歴史の負の部分を強調しすぎた(とされる)教科書のせいなのでしょうか。実はそれ以前の問題として、負の部分どころか、あの戦争についてほとんど知らない日本の若者がなんと多いということが僕の率直な感想です。実際に大学の授業でも、当時の日本軍がシンガポールまで「進出」したことさえ知らなかったという大学生にたくさん会ってきました。そもそも、あの戦争についての教科書記述と日本の伝統文化への誇りとのつながりがいまいち見えてこない僕はバカでしょうか。なんか本当に心配になってきました。

 

つぎに、いじめ対策ですが、まあ無策よりはいいでしょう。ただ、別に悲観主義者というわけではありませんが(どちらかというとその逆ですが)、いじめは無くならないでしょう。しかも、今年8月に発表された文科省の学校基本調査によれば、2011年において日本の小中高校の生徒数はそれぞれ約676万人、355万人と336万人であり、なんと小中高生の人数だけでシンガポールやフィンランドの人口の2.5倍以上もいるではありませんか!これだけの遊び盛りの子供が学校という閉じられた環境でほぼ毎日学習生活を送らせられているわけですから、皆が皆おとなしくしているほうが反って不自然・不気味というものでしょう。時たま何かの事件が起きたりするのも無理はないのではないかと思います。言うまでもなく、いじめは許される行為ではありませんし、学校からいじめが無くなることに越したことはありません。ただ、殺人、強盗、放火、詐欺などの許されない犯罪行為が大人の社会から無くならないように、子供の社会である学校からいじめを完全に追放するのも至難の業といえましょう。学校現場では、保護者も含めてあれだけの人が集まってきますから、毎日いろいろなことが起きます。しかしながら、マスコミに報道されない限り、ほとんどの場合においてわれわれはそれらのことを知りようがありません。そして残念なことに、マスコミに大きく取り上げられるのが専ら最悪の事態に至った事故・事件ばかりですから、学校を見るわれわれの目はどうしても偏ってしまいがちになります。最近、いじめ自殺の報道が続けてなされていますが、その母集団が1300万人を超えるという事実を忘れてはなりません。視点を変えて見れば、いじめが最悪の事態を招く前に食い止め、それゆえマスコミにはまったく登場しない学校や教師もきっとたくさんいるはずです。繰り返し言いますが、僕は日本のいじめ問題を過小評価しようとしているつもりは毛頭ありません。然るに、いじめは日本に限った問題ではなく「いじめ問題国際シンポジウム」が定期的に開催されるほど各国が抱える共通の教育問題の1つでもあります。したがって、日本の教育だけが「危機的状況に陥った」わけではありません。そう思う僕はやはり楽観主義者でしょうか。

 

2012年の夏にわれわれSGRAが主催した「第44回SGRAフォーラムin蓼科『21世紀型学力を育むフューチャースクールの戦略と課題』」でも熱く議論され、またSGRAが2013年3月にバンコクで開催する第1回アジア未来会議でも僕の研究グループが同じテーマに挑みますが、情報通信手段の急激な進化の波と確実に広がるグローバル化の流れは、これまでの学校教育のあり方にも大きな変化を迫っており、従来とは異なる21世紀型の「学ぶ力」が強く求められています。そのような意味でも、「教育を取り戻す」のではなく、「新しい教育を創っていく」というような未来志向のメッセージが欲しかったなぁと思うのは僕だけでしょうか。

 

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<シム チュン キャット☆ Sim Choon Kiat☆ 沈 俊傑>
シンガポール教育省・技術教育局の政策企画官などを経て、2008年東京大学教育学研究科博士課程修了、博士号(教育学)を取得。日本学術振興会の外国人特別研究員として研究に従事した後、現在は日本大学と日本女子大学と昭和女子大学の非常勤講師。SGRA研究員。著作に、「リーディングス・日本の教育と社会--第2巻・学歴社会と受験競争」(本田由紀・平沢和司編)『高校教育における日本とシンガポールのメリトクラシー』第18章(日本図書センター)2007年、「選抜度の低い学校が果たす教育的・社会的機能と役割」(東洋館出版社)2009年。
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2012年12月26日配信