SGRAエッセイ

  • 2007.12.29

    エッセイ104:李 鋼哲「中国人の近隣感覚」

    日本では中国人の反日感情が非常に強いと思う人が多い。しかし、中国人の近隣感覚は必ずしもそうではない。最近、インターネット・メディア「新華網」が発表した「中国人の隣国イメージ調査」によると、「最も好きな隣国」はパキスタン28%でトップ、ロシアが二番目で15.1%、日本が三番目で13.2%という結果が得られた。また「最も好きではない隣国」の第一位は隣の韓国が40.1%、日本が30.4%で第二位、インドネシアが18.8%で第三位である。調査は中国ネティズン1万2千人を対象に行ったもの。   日本人にとって嬉しいことか憂うべきことかそれぞれの判断であろうが、注目したいのはインターネットが感情発散のはけ口で、反日感情が強いと思っていた中国のネティズンは、意外と冷静に隣国を見ているのだとする中国の専門家の分析である。20の隣国と接する中国にとっては、「善隣友好」関係は政府も国民も望ましいが、現実では近隣関係は理想的ではなく、近隣環境が厳しいと見る人が少なくない。   日本に対しては、愛と憎みが入り混ざっていると関係者は分析している。「日本は歴史的な原因により嫌いな国であるが、我々が学ぶべきところが多く、日本民族の多くの特徴は我々の自己反省の鏡となる」と調査結果を読んだある読者は自分の意見をネットで書いたという。   パキスタンが最も好きな隣国になった理由は、パキスタンは中国を裏切ったことがなく、いつも中国人に対して友好的だから。しかし、中国人はパキスタンについてどれぐらい知っているだろうか。昨年パキスタンを訪問した中国人はわずか6万人である。中国を訪問するパキスタン人も限られている。つまり、お互いに接触が少なく、ある「造られたイメージ」による判断になりかねない。   筆者が小学校や中学校時代の1960~70年代、中国は「日本は中国を侵略したが、それは日本の一部軍国主義者が悪いので、日本国民も被害者である」と国民を教育したので、反日感情というのはそれほど見られなかった。もちろん、日本を訪問できる人はほとんどいなかったので、日本の実態を分かる人は誰もいなかった。つまり、「造られたイメージ」により国民は日本を想像し、日本人を認識したのだ。それが、1日平均1万人以上の交流時代(今年は双方訪問者500万人になる見通し)になると、日本に対する評価も様々である。   近年、韓国ドラマで韓流ブームになっていた中国国民のなかで韓国人嫌いが急速に増えたのは、「韓国人は中国で偉そうに振る舞っている」、「中国人を見下ろしている」からであると前記の調査では解説している。近年急増して日本を超える規模の韓国人の中国訪問者、そして現在70万人といわれ、来年は100万人になるといわれる(駐中国韓国大使の話による)中国での韓国人居住者。付き合いが多くなると好き嫌いも明確になるのではないか。やはりドラマで見るのと実物を見るのは違うのか。   ----------------------------------------- <李鋼哲(り・こうてつ)☆ Li Gangzhe> 1985年中央民族学院(中国)哲学科卒業。91年来日、立教大学経済学部博士課程修了。東北アジア地域経済を専門に政策研究に従事し、東京財団、名古屋大学などで研究、総合研究開発機構(NIRA)主任研究員を経て、現在、北陸大学教授。日中韓3カ国を舞台に国際的な研究交流活動の架け橋の役割を果たしている。SGRA研究員。著書に『東アジア共同体に向けて―新しいアジア人意識の確立』(2005日本講演)、その他論文やコラム多数。 -----------------------------------------
  • 2007.12.26

    エッセイ103:高 煕卓「2007年韓国大統領選挙を見て(その1)」

    韓国の2007年大統領選挙(「大選」)はあっけなく終わった。今回ほど、投票前に形勢がほぼ決まり、選挙関係者だけのお祭りで、面白くない大選もなかった、といったのが多くの人びとの実感であろう。   といっても、今度の大選がもたらした政治的出来事は決して小さいものではない。   その一つ。韓国の人びとは去る12月19日の投票でいわば政権交代を起こした。現政権の統一相を歴任した与党候補の鄭東泳(チョン・ドンヨン)氏ではなく、野党のハンナラ党から立候補した李明博(イ・ミョンバク)氏を選んだのだ。   その二つ。圧倒的な票差。得票2位に止まった与党候補との間では、得票率において20%以上、得票数において五百万票以上といった、史上前例のないほどの大差がついた。最後の最後まで判らないといった薄氷の勝負を繰り広げた前回や前々回の大選とは様相が全然違うものだった。   その三つ。史上最低の投票率。大選平均の80%台にはほど遠く、最低だった前回を7%も下回る63%だった。3人に1人が棄権ということになるが、とくに前回に比べれば、さらに約2百万人以上の人が投票をしなかったわけだ。   このように今度の大選で韓国の人々は大きな政治的変動を選択した。が、その選択は、これまで緊迫感に満ち活気が溢れていたものとは対照的に、冷笑が漂う静けさのなかで行われたのだ。   こうした政治的現象はどう理解すれば良いのだろうか。いったい韓国社会のなかで何が起こっているのだろうか。ここでは私なりの解釈を試みてみたい。   まず、注意を引くのは、政治と道徳との平面的連動構造の弱化である。   最近10年間の大選において候補者の道徳性問題が勝敗の大きな分かれ目となったのと比べれば、今回のそれは異様なほど違っていた。現大統領の慮武鉉氏(2002年)やその直前の金大中氏(1997年)が大選で勝利できたのは、あえていえば、そこに対立政党・候補の道徳性問題が大きく絡んでいたからである。   また、とくに今回の選挙では与党側に道徳的公憤をもとに劣勢を挽回し大逆転の期待を抱かせた、「BBK事件」も結局「大選の雷管」にはならなかったのだ。   「BBK事件」に限っていえば、今年の前半期からその事件への李氏の関与疑惑が持ち上がり、先月の半ばにはマスメディアの集中的な照明のなか、その事件の主犯格とされる人がアメリカの拘置所から韓国に引き渡され、それに対する検察の特別取り調べが実施されたし、「李氏はBBK事件の共犯者だ」といったその人の供述さえ報道されていた。ましてや投票日3日前には、ある大学で李氏自ら「BBKを創業した」という内容の入った当時の講演映像が流された。   しかし、それにもかかわらず、「BBK事件」への取り調べが軌道に乗った後で行われた世論調査においても、李氏への高支持率に大きな変動はなかった。「BBK事件」だけでなく、さらには偽装転入問題や脱税などのさまざまな疑惑のため、ある意味では「腐敗政治人」の典型としても映された李氏のイメージが大選の焦点に持ち挙げられるなかでも、圧倒的な票差による李氏の当選が現実化したのだ。   今は透明になりつつあるとはいえ、これまで大小の腐敗や虚偽問題に苦しまされ続け、それゆえ道徳性の問題に敏感だった韓国人のことだけに、今回大選の結果は従来の政治と道徳との平面的連動構造の弱化を示唆しているように思われるのだ。   だが、ここでまた、注意を要するのは、その意味への解釈ではないだろうか。   一つの解釈は、李氏への支持を、いわば「勝てば官軍」といった情緒の表現と見なし、国民的な「道徳的堕落」と受け止める立場である。先月の半ば、与党の選挙対策共同委員長を務める人から、政治と道徳との平面的比例構造の弱化の様相をふまえて、「国民は呆けているのではないか」といったイライラの発言が飛び出たほどだ。が、その解釈は一面に傾いた感を免れない。   もう一つの立場は、上記の立場への批判的意味も込めて、今回の大選は現政権に対する懲罰的投票が最も顕著に現われたケースとして見なすのだが、こうした見解は割りと多い。前回2002年の大選ではその愚直さと斬新さで大きな期待をもって迎えられた慮武鉉政権だったが、その斬新さはアマチュアリズムの無能に、その愚直は傲慢や独善に取って代わったというのだ。それからの「学習効果」が今回の大選で大きく反映されたと憤慨する人びとを私の周りではよく見かける。が、敗北の真の原因を探すより敗北の責任者を探し出すことにもっとエネルギーが投入されているような感じで、部分的には理解できるものの、やはり納得いかないところも多い。   私は、今回の投票傾向の分析から明るみに出ている、これまで政治的形勢に大きく影響を与えてきた世代や理念、あるいは地域といった要素の比重が低下したという側面に注目したい。それは韓国社会の構造的変動と絡み合いながら、そのなかの人びとの政治意識構造の変動をも示唆しているように思われるからだ。 (これ以降は次に譲る)   ------------------------------------ <高 煕卓(こう ひたく)☆ KO HEE-TAK> 2000年度渥美奨学生、2004年東京大学総合文化研究科より博士学位取得(『近世日本思想における公共探求』)。専門は近世近代日本思想史。最近の関心分野は東アジア比較思想文化、グローバル時代における文化交流の理論と実際など。現在、国際NGO=WCO(World Culture Open、本部はニューヨーク)調査研究機関の一つとしてのGlocal Culture Research Institute(ソウル所在)のディレクターを務めている。SGRA地球市民研究チームのチーフ。 ------------------------------------
  • 2007.12.21

    エッセイ102:太田美行「私の残業物語」

    先日長めの残業をした。午後5時半に始まった会議が翌朝2時まで続いたのだ。その後軽く打ち合わせがあり、退社は午前3時。夕飯、休憩なし。もちろん数時間後には始業時間なので自宅で軽く仮眠をとった後に出社。さすがにこんなに残業時間が長いことは普段ないが、でも長い。自宅の机の上には『定時に帰る仕事術』と『WORK AND LIFE BALANCE』の本。どうも実践できておらず、本のタイトルを見てため息。   これまで学生時代のアルバイトを含め、複数の業界で仕事をしてきた。会社により残業のスタイルもかなり違う。単に会社の規模や仕事内容だけの問題でなく、背後にある社員に対する考え方や、給料体制など色々な背景事情が関係しているのがわかる。例えばA社では頻繁に午後10時位まで残業があるが、その代わりラーメンや弁当などの夜食が出される。仕事も楽しいので終電で帰宅しても少し疲れたと思うくらい。B社では残業は一切なく、残業させる時には「今日は30分ほど残業してもらえる?」と聞かれた上で残業を行う。1時間以上の残業はほぼゼロ。社長が残業代に大変厳しい人だったので就業時間内に終わらせることが最優先。終わらなければ社長がその分の仕事をするか、翌日へ持ち越し。C社(日本語学校)では残業代が一切支給されないが、皆残業が当たり前。自宅でも皆仕事をする。私も授業の準備のため、よく机にうつ伏せになったまま朝まで寝ていた。ヨーロッパ企業のD社では「ワークバランス」を標榜しており、残業は好まれない。どれが良くてどれが悪いかは、その人のポジションによっても違うので一概には言えない。   面白いのは、この中でつらかったと感じる原因が、単純に仕事量の多さではなかったことだ。自分のしている仕事が活かされていることが見える時は、自分の仕事が全体の中でどれほどに小さくてもやりがいを感じる。逆に先が見えなかったり、仕事の意味が見えなかったりすると疲れもひどく感じる。   日本語教師をしていた時は睡眠時間が3時間くらいしかない時が度々あったが、「新人教師はこんなものだろう」と、あまりつらく感じなかった。周囲の教師も指導法や文法などで行き詰まると互いに相談や議論をして元気が良かった。もちろん生徒がおしゃべりをして授業をまったく聞かない時と、先輩であるベテラン教師に「授業の準備があるから布団に入って寝たことなんてないわよ」と言われた時は疲れが雪崩のように押し寄せてきたが。(これを読んで思い当たる節のある元日本語学校の生徒は大いに反省して下さい)   D社は「ワークバランス」を掲げており、自分の裁量に任されていて大変良かったが、現状に危機感を持つ「ローカルスタッフ=日本人」がいつも残業する結果になってしまう。ある時、一緒に仕事をしていたある人(ヨーロッパ出身)による仕事の押し付けが激しく、残業の日が続いた。多少の皮肉も込めて、「昨日は会社に泊り込んで仕事をした」と話したらヨーロッパの人の反応は私の予想をはるかに超えるものだった。「これは大問題だ!」「まあ何てこと!」「日本の悪い習慣がここにまで!だから日本企業は駄目なのよ」「いいえ、あなたがこうした事を問題にしたくないのはわかるけれど、これはみんなで解決すべき問題です。さっそく会議にかけなければ」と大騒ぎになった。   「そんなに残業を問題視するなら、自分の仕事をきちんとやってよね。私も好きで残業しているわけでもないし」と思いつつも、問題にしたくない旨を伝えた。しかしその場にいた“親切な人”が「日本人の上司にだから彼女は言えないに違いない。自分の上司(イギリス人)から彼女の上司に言ってもらおう」と勝手に判断し、その通りに行動した。   数日後、私の上司から「事実確認」の電話が入り、そして何事もなく終わった。仕事量が減ったわけでも、残業禁止令が出たわけでもない。もちろん仕事の押し付けがなくなったわけでもなかった。   仕事量はともかく、この件では国による考え方と表現の違いを示す一つ面白いエピソードがあった。「会社に泊まりこんだ」ことを話した時、その“親切な人”は休みを取らせようとして「あなたがいなくても会社は動きます」と言った。大変微妙な響きのあるコメントで、たぶん日本人にとっては「あなたの存在は大したものではない。あなたは会社の歯車に過ぎません」と聞こえる可能性もある表現。もちろんその人が大変良い人で、親切心から「休みを取りなさい」と言ってくれたことを知っていたので、誤解はしなかったが、もし信頼関係ができる前に今の言葉を聞いたら、きっと会社の屋上に上って「私は会社の歯車なの~~~~~!?死んでやる~~~」と絶叫していたに違いない。その後「『あなたがいなくても会社は動きます』と言われたらどう思う?」と周囲の日本人に聞いたら次のような答えが返ってきた。 「・・・(しばらく沈黙の後)きついですね」 「そんな事言われたら、言ってる奴の首を絞めてやる」   こうした数々の出来事を経験して今日がある。この原稿を書いている間に現在勤めている会社の社長と上司から呼ばれ、残業についての話し合いがあった。何が問題なのか、仕事量を減らすために会社ができることはないのかを話し合った。大変前向きな話でほっとしている。だからといって仕事量がずっと楽なままではないだろうが。こうして私のライフ・ワーク・バランスを考える日々はまだまだ続く。   皆さんの国の残業事情はどうですか?   ----------------------------- <太田美行☆おおた・みゆき> 1973年東京都出身。中央大学大学院 総合政策研究科修士課程修了。シンクタンク、日本語教育、流通業を経て現在都内にある経営・事業戦略コンサルティング会社に勤務。著作に「多文化社会に向けたハードとソフトの動き」桂木隆夫(編)『ことばと共生』第8章(三元社)2003年。 -----------------------------
  • 2007.12.19

    エッセイ101:葉 文昌 「台湾版クールビズ」

    インドネシアのバリ島で開催されているCOP13(国連気候変動枠組み条約第13回締約国会議)で、日本は地球温暖化防止交渉にマイナスな発言をしたとして「化石賞」をもらったりして苦戦している。しかし、僕から見ると、日本では地球温暖化の軽減策として、社会が一丸となってCO2排出量低減に取り組んでいるように思える。一昨年来政府が音頭をとって世間を賑やかにしたクールビズがそうである。夏の間、オフィスで上着とネクタイを未着用として、エアコンの温度設定を高めの28℃に設定するということだ。ちなみに、冬の間は、もう一枚多く着て、設定温度を低めの20℃に設定するウォームビズが提唱されている。   台湾ではもともとビジネスの場で滅多にネクタイを着用しないのであるが、日本のクールビズのお陰で台湾人はルーズな格好に大義名分を得たようだ。例えばである。去年夏、政府主催の太陽電池フォーラムでの出来事だ。その席で官僚が挨拶した。「日本は地球温暖化対策としてネクタイ未着用としている。だから私も率先してノーネクタイにした」と自慢げに言っていた。台湾では学歴とは無関係にいろいろな人からこのような発言が聞かされるものなのだが、これにはいつも怒りを覚える。なぜならば台湾の公の場ならどこでもエアコン温度は気持ちよく涼しい。誰も28℃設定を口にしない。僕は決して環境にやさしい人間ではないのだが、しかし社会の上から下まで安易に「ノーネクタイ=環境にやさしい、だからノーネクタイ」と、考えていることにもどかしさを感じる。権利(=ノーネクタイ)あれば義務(=エアコンの温度設定は高め)が伴う。角度を変えて言えばギブアンドテークなのである。しかし、台湾でそうならないのは、教育全体が思考より記憶重視であるために目先の権利や利益しか見えなくなってしまうからなのかも知れない。   台湾でもエコロジーの機運はあり、リサイクルも一応まじめにやっている。しかしやり方がどこかアンバランスで本気でエコロジーしたいのかわからない。大学でPC節電の宣伝を聞いたことはないし、学生も進んでPC節電はしない。若い人さえ短距離の移動もバイクか車を使う。政治家は政治家で、環境保全へのアピールをさせれば、「台北市はエコロジーの見地から、ゴミ回収車は廃サラダ油使用車に買い換えました」である(冒頭の官僚)。金を使えばエコロジーができると考えているようで自己要求はなにもない。その一方で台北市のバイクは相変わらず排気を都市中に充満させている。学生も学生だ。反化学工場建設、反核運動の急先鋒に立つ学生はいるが(その前にスクーターを自主規制しろといいたいが…)、大抵は偽の運動家で社会人になった途端でかい外車を乗り回すようになる。上から下までなにもかもが贋物なので、台湾のエコロジー志向がどこまで本物かも疑問に思ってしまう。   この点、東京の人たちは偉い。どこかがハイブリッドカーを開発しただの、太陽電池出荷量世界一だの、のことではない。若い女性も長い距離を歩く、電車を使う、アイドリングはできる限りしない(台湾ではこの考えすらまだない)、エアコンの高い温度設定にも我慢できる。豊か(台湾との比較)でありながらこのようにたくさんの自己要求ができるから偉いと思うのである。   --------------------------- <葉 文昌(よう・ぶんしょう) ☆ Yeh Wenchuang> SGRA「環境とエネルギー」研究チーム研究員。2000年に東京工業大学工学より博士号を取得。現在は国立台湾科技大学電子工学科の助理教授で、薄膜半導体デバイスについて研究をしている。 ---------------------------  
  • 2007.12.15

    エッセイ100:オリガ・ホメンコ「小柄なマリーナおばあさん」

    【人物で描くウクライナの歴史④】   彼女は今83歳なのに、60歳にしか見えない、口紅をつけずに外出することのない女性である。彼女の毎日は必ず体操から始まる。そして親戚の若い子にとっても、とてもリベラルな考え方を持っている。道で他人が振り向くような変わった服を着ていたとしても、それを見た親戚が下の唇を上にあげて不満を示しても、彼女は肩を振って「まだ若いから人生を楽しんでもいいじゃない」と微笑みながら言うだけ。   彼女は20歳も年上の人と結婚していた。彼は彼女に夢中で、彼女をとても甘やかしていた。きれいな洋服を買ってあげたり、クリミアやソチの保養地に連れて行ったりした。彼女には重い荷物を一切持たせなかった。彼、旦那のリョーニャは、彼女のためにそこに居たのだった。子供が生めないと分かった時にも、彼は静かに彼女の手を握って「マリーナ、もういいよ。自分を苦しめないで。そのままでいい。僕たちは二人で十分楽しく生きていける・・」と言ってくれた。   時がたって、彼女は姑の葬儀、それから従兄弟の葬儀、そして彼の葬儀に立ち合った。彼女はとても強かった。他の人が同じ状況に陥ったらパニックになったかもしれないが、彼女はとても冷静だった。「皆、いつかは亡くなるのだから、仕方ない。天寿を祝って喜べるだけ喜ぶべき」と語り続けた。周囲の人から、「わがまま」と思われることも少なくなかった。彼女は今83歳で、毎日が体操から始まり、微笑みながら仕事に出かけ、大学の寮で受付の仕事をしている。   私は、そんなマリーナを見て、「こんなに粘り強い秘密は何だろう」と考えつづけていた。80歳を超えてもどこからこんな元気をもらえるのか疑問に思っていた。遺伝子?それともただ偶然の一致?   だがある時分かった。急に全部分かった。   1944年、再び赤軍(ロシア軍)が村に戻ってきたとき、彼女の両親は赤軍に殺された。彼女の目の前で。二人とも。マリーナの家の墓に行った時、ご両親が亡くなった日にちが同じなので、「ロメオとジュリエレトみたいに同じ日に亡くなった。きっとすごく好きだったに違いない」と思った。だがその「亡くなった日」が戦争中の1944年だったのでちょっと不思議に思った。それで、聞いてみたら、彼女は教えてくれた。彼女がそれを見た日から10年が過ぎていた。10年前は、まだいろいろ「話せない時代」だったので、その時に大人が黙っていたことはおかしくない。彼女の父親はドイツ語ができたので、占領軍(ドイツ軍)の事務所で秘書として働いていた。そこへ再び赤軍が来たから家族全員が殺されたのだった。小柄なマリーナはまだ子供だったので、隠れていたから助かった。隠れていた所から家族の遺体が墓に運ばれるところも見ていた。見つからないように、声をださないで泣いた。そして、その後、自分の家族のことを一切話さなかった。家族のことを聞かれたら「みんな戦争で亡くなった」と言っていた。その頃は、戦争で亡くなった人が多かったから疑われなかった。話せないことが多いから、代わりに微笑んでいった。なんとか生き延びる必要があったからだ。それで微笑んでいた。   そして20歳の時に恋に落ちた。大好きなアレクセイの父親は村長で、とても尊敬されていた。しかし、彼女との結婚は「好ましくない」と考え反対した。だが若者は怖いものなしだから、隠れて結婚式をしてしまった。市役所でもらった結婚登録書は父親の怒りから守ってくれると思い込んでいた。父親はとても怒っていたが、アレクセイはマリーナを愛していたので気にしなかった。だが父親は、その結婚をどうしても取り消そうと思い、「あるところ」に無名の手紙を出した。そこの反応はとても早かった。数日後、マリーナさんを連れて行く車が来た。戦後の厳しいスターリン時代だった。その車はマリーナをもっとも遠くに運べる汽車の駅に連れて行った。マリーナはとても若く、旦那のアレクセイを大好きだったので、夜警察官が寝ている時に走っている汽車から飛び降りた。そして、一週間歩いて家にたどりついた。だが振り返ってみれば、家に戻ったのは間違いだった。そこには再び通報する人間がいたからだ。だけど、彼女はアレクセイを大好きだったし、彼以外彼女を守ってくれる人はいなかったし、結局、彼女には他に帰るところがなかった。   村に戻ったマリーナは、アレクセイは親戚がいる西部にむりやり送られたと聞いた。少し「頭を冷やす」ために。家には誰もいなかった。彼女の父親のことが知られたら、彼女は戻ってくることができないと、彼は思ったに違いない・・・   それで家には誰もいなかった。彼女は普段の生活に戻り、家の掃除をするために井戸から水を運び、その水を家の前に高く伸びた赤い朝顔にあげていた。監視員に見られたのか、誰かが通報したのか、今はもう分からないが、再び黒い車が迎えに来た・・・今度は、もっと遠く、一ヶ月走ってもたどりつかない場所へ送られた。絶対に逃げられないように。炭鉱でとてもきつい肉体労働をした。あの時に逃げださなければ、もっと普通の仕事ができて体を壊すこともなかったのに、と自分自身に文句を言い続けていた。だけど、彼女は粘り強かったので、口や目を閉じてまじめに働き続けていた。それで数年後、そこから出ることができた。もう村には帰らなかった。そこはもう「帰るところ」ではなかったからだ。首都に行った。そこで20歳も年上の彼と知り合って結婚した。彼は彼女の「過去」について知っていたけれど、一度も非難しなかった。彼女をとても尊敬していた。彼らは25年間も一緒だった。あの炭鉱の仕事のせいで子供は生まれなかったけれど。   リョーニャが亡くなった数年後、彼女がこの首都の真ん中のアパートで一人暮らしの生活になれた頃、一通の手紙が届いた。封筒に西部の小さな町の名前が載っていた。なにか不思議な予感がした。胸で何か重いものが切れて落ちた感じがした。封筒をあけたら知っている字が見えた。アレクセイからの手紙だった。アレクセイはいろいろと謝罪して、「もう一度会ってください」と書いてきた。勇ましい小柄なマリーナは、この時、初めて泣いた。とても泣いた。あまり泣いたので、次の朝起きていつも通り体操しても元気が出なかった。そのとき初めて、もうほとんど忘れかけていたあの大好きな「最初の夫」のことについて話しだした。   しばらくして彼が会いにきた。大きくなっている二人の子どもやこの前亡くなった奥様のことを話した。だけど、マリーナのことを一生忘れられなかったと告白した。彼は、彼女のことをずっと思い出していた。他の人と結婚しても、子育てをしていても思い出していた。あの小さい村に戻って、もう知らない人が住んでいるあの家を訪ねた時も思い出していた。家の前は、もう高くて赤い朝顔ではなく、ほかの奥様が植えた低くて粘り強いマリーゴールドを眺めた時も思い出していた。   彼はまだ若くて無責任で彼女を守れなかったことに対して謝罪した。自分の父親から彼女を守れなかったことも含めて。西部に行かされて、若い女性に会って、また人生を最初から、新しいきれいな一枚の紙からはじめたことに対して謝罪した。その一枚の新しい紙に長く書き続けていたことに対しても謝罪した。子どもたちは成長し、妻を尊敬していたが愛がなかったようだ。心の中に針がささっているように、あの小柄なマリーナの思い出が生きていたようだ。自分が守れなかった小柄なマリーナ。自分の若さ、それとも心細さで守れなかったマリーナのこと。しかし、彼女は生き残って再婚して幸せになれた。アレクセイはこのことがうれしかった。そして、結局今再会できたのだから、残りの人生を一緒に生きられれば良いと思っている。破れたあの人生の紙一枚をのりで張り合わせるような感じだ。   マリーナさんは彼に夕食を作ってあげた。彼の話を黙って聞いていた。ただ微笑んでいただけ。それから彼に「来てくれてありがとう」と言った。だが人生は遠い昔にそれぞれの流れ方を決めた。彼らの人生の一ページは、違う本の中に綴じられてしまった。その本の内容が似ていても、ジャンルが違うので、本屋さんも違う階で売れている。長い間に、彼女は自分を自分で守れることを学んだ。勿論、その前にもできたのだけど、自信がなかった。いや、ただ自分の力を知らなかっただけかもしれない。   彼はさびしい顔で西部の家に帰っていった。彼はこの物語に違う「終わり」が期待できると思い込んでいた。   しばらくして、あの西部の町から再び郵便物が届いた。今回ははがきだった。住所は一緒だったが、名前だけ違っていた。彼の名字でマリーナという名前の女性が、父親が急に心臓発作で亡くなったことを知らせていた。小柄なマリーナは意識を失った。   マリーナが気づいた時、まだあのはがきを手にしていた。「そうか、彼にも痛みを感じる<心>があったんだ」としか考えられなかった。娘に彼女の名前をつけた。会ったときには言わなかったけど。だがマリーナは葬式に出なかった。自分の最初の夫のアレクセイは遠い昔に亡くしたのだから・・・違った書架に運ぶあの黒い車に彼女を手放したとき、彼は彼女を亡くしたかもしれない。彼女は彼を許したが、それは、この長い年月の間に、自分を評価し、自分の命を大事にしなければいけないことを学ばせられたからだ。   ------------------------------------ <オリガ・ホメンコ Olga Khomenko> 「戦後の広告と女性アイデンテティの関係について」の研究により、2005年東京大学総合文化研究科より博士号を取得。キエフ国立大学地理学部で広告理論と実習の授業を担当。また、フリーの日本語通訳や翻訳、BBCのフリーランス記者など、広い範囲で活躍していたが、2006年11月より学術振興会研究員として来日。現在、早稲田大学で研究中。2005年11月に「現代ウクライナ短編集」を群像社から出版。 ------------------------------------  
  • 2007.12.12

    エッセイ099:奇 錦峰「中国の大学の現状(その4)」

    大学の教員のこともすこし言わせてもらおう。グローバル化している現在、中国全土的に大学教員が若くなり、しかも“博士化”している。数多くの優秀な方が海外或いは国内の名門大学を出て、あちこちの大学のポジションについている。だが、後者----“博士化”の中身をみると、恐らく多くの一般大学でそんなに正常ではない。博士号をもらう正常な道は、大学院の博士課程に入り、3~4年間勉強して定められた単位をとり、学位論文を完成した後、厳しい審査を経てから学位をもらう。論文博士の場合はもっと長い時間がかかり、論文審査は更に厳しい。しかし、ここ数年間、数多くの一般大学が各自で自分の教員に博士号を“もたせている”。“在職学習”という博士養成方法が、知らないうちに中国で普及した。つまり大学の教員が自分の仕事をしながら(給料をもらいながら)暇な時間にちょこっと単位を集め、学生に自分の実験をやらせ、“学位論文”を完成して学位をもらっている。こんな博士たちは、厳しい競争を経て博士課程のトレーニングを受けた正真正銘の博士と大分違い、海外から帰国した博士とは比べ物にならないのが事実だ。しかし、こういう“特産品博士”たちはその人の学校の“人脈事情”に詳しいのでよく出世し、優遇される。更に一部の学科(たとえば、うちの大学みたいな伝統医学科とか)では、教員の大半が自分の巣から出たものばかりの場合もある。学問分野で“雑交優勢”を重んじている現在、“近親繁殖”をまだ続けていると笑われてしまう。   親は子どものために生きている、親は子どものためならば何でもしてあげる(子どものためなら無理も当然)という習慣は中国伝統文化の一つだというのをよく聞く。何といっても、“80後”世代を育成したのは彼らの親およびその時代と文化なのだ。責任はこの世代にはない!一昔前の中国では、多子多孫の伝統が“人口爆発”を引き起こした。では、今、子どもを甘やかし溺愛する習慣がどんな社会を作り出すのだろうか。中国大陸の親たちは、この新人類たちが生まれた理由が徐々にわかってきたらしい。しかし、残念ながらもう遅いではないだろうか。   最後に、インターネット上で見つけた“80後”の文章をご紹介しよう。   80年到85年出生的人的十大尴尬 (80年から85年に生まれた人の気まずい10点)   1. 辛辛苦苦小学六年,勤勤恳恳初中三年,废寝忘食高中三年,却赶上国家扩招,任他猫猫狗狗也都能混个大学文凭。   苦労した小学校の六年間、勤勉だった中学校の三年間、寝食を忘れて勉強した高校の三年間、しかし、国家が大学生を拡大募集する時代になって、今や猫も杓子も大学生だ。   2. 稀里糊涂大学混了四年,使尽浑身解数拿到英语四级证、计算机等级证、毕业证,却怎么也找不到如意的工作,有的连工作都找不到。   ぼんやり過ごした大学4年間だけど、一所懸命に頑張って、英語検定四級、コンピューター検定、そして卒業証書ももらったが、どうしても自分にあう仕事が見つからない。仕事が全く見つからない人もいる。   3. 千心(この字は間違っている、じつは“辛”です)万苦进了外商独资企业当白领,才发现原来中国现在遍地都是外企,500强有499家在中国有分号。   千辛万苦のあげく外資系の会社に採用され、ホワイトカラーになった後分かったのは、中国全土のどこにも外資系の会社があり、グローバル企業500社のうち、499社が中国に支店をもっている。   4. 福利分房早已成为昨日黄花,住房公积金少得可怜,又赶上无耻之徒遍地炒房,一年攒下来的钱才能买两三平方米住房。   福祉政策の部屋配りはもう大分前に終わってしまった。住宅公共積立金はかわいそうなほどの額。その上、恥を知らない奴らが住宅を転売した結果、1年間蓄えたお金では住宅の2~3平米ほどしか買えない。   5. 小时侯教育要做个诚实的孩子,中学大学又普及诚信教育,工作后又不得不说假话,拿假文凭,在假发票上签字。   子供の時には誠実な人になれと教えられた。中学校と大学でもまた「信用が大事」という教育を受けた。しかし就職してからは嘘をつかざるを得なくなった。偽の卒業証書を作ってもらったり、偽の領収書にサインしたり。   6. 他们说计划经济的教育已经跟不上时代,要普及素质教育,结果我们什么都得学,什么都要摸到皮毛却连皮毛都不知道。   計画経済の教育は時代遅れと批判され、素質教育の普及が提唱され始めたために、この世代はいろんな学問を学ばなければならなくなってしまったが、結局何もよく分からない。   7. 电子信息产业高速发展,网上信息如潮涌,不论是垃圾还是精华都让人疲惫不堪,没有手机和电脑人家会觉得你生于60年代。   IT産業が急速に発展し、ネット上の情報が洪水のように殺到する。有用無用の情報が人々を疲れさせるが、携帯電話やコピューターのない人は60年代生まれと見なされる。   8. 从小学完雷锋学赖宁,接着学习李素丽,现在学习杨利伟,表面文章做足了接着自私自利。   小学校時代は雷鋒と頼寧の模範を学ばされ、続いて李素麗の模範を、現在は楊立偉から学ばされている。「表」のことは十分やったが、実は全部エゴイズム。(個人名は1960年代から今までの各時期の中国の英雄)   9. 闯荡社会若干年后发现一事无成一钱未赚一权未谋,逼不得已重新拾起书本,泡在冲刺、精华、宝典的密题中,希望混个更高一点的文凭出来好混日子。   社会にでてから数年後、突然何もできなかったことに気づいた。一銭も儲けていない!少しも出世していない!仕方がないから、良い仕事を探すために、新たに大学時代の教科書を集め、修士課程の試験問題集に没頭する。   10. 美好的生活属于谁呢?二十年前:“属于八十年代的新一辈”;十五年前:“太阳是我们的”;十年前:“让我们期待明天会更好!”;八年前:“不经历风雨,怎能见彩虹”;现在:“我闭上眼睛就成天黑”。   誰が豊かな人生を送れるのか?二十年前には“1980年代生まれは新世代だ” と言われた。十五年前には“私たちの人生は豊かだ” と、十年前には“私たちの明日はもっと美しくなる” と、八年前には、“辛い努力をしなければ、いい結果は得られない” と。今、僕が“目を閉じると、真っ暗だ。”   --------------------------------------------------- <奇 錦峰(キ・キンホウ) ☆ Qi Jinfeng> 内モンゴル出身。2002年東京医科歯科大学より医学博士号を取得。専門は現代薬理学、現在は中国広州中医薬大学の薬理学教授。SGRA研究員。 ---------------------------------------------------
  • 2007.12.07

    エッセイ098:奇 錦峰「中国の大学の現状(その3:学生の質②)」

    三番目の特徴は怠け者。“80後”たちは、子どもに家事をさせない家庭で育てられたものが圧倒的に多いから、怠け者になってしまうのは当然だ。大学に入って寮生活をするまで靴下を洗ったこともない人がいっぱいいるそうだ。大学の集団生活(ある意味では独立した生活)を送らなければならなくなったときから、洗濯ぐらいはするはずだろうが、今の学生は全てをコインランドリーに頼る人が多いそうだ。   広州の大学城では恐らく8割の人が朝寝坊である。土日はもちろん、平日も! ぎりぎりの時間に起きて、朝食を持って、自転車(宿舎から教室までせいぜい500mなのに、学生の6割が持っている)で飛ぶようなスピードを出して、始業ベルの鳴る前後に教室に入り、一日の勉強は朝食を始めるのと同時にスタート!教師たちにとっては、まるで台所で講義を始める感じだ(プ~ンと美味しい香りがどんどん飛んでくる)。涼しい季節なら、窓を開けて新鮮な空気をいれればいいが、夏は辛いよ!(広州では年間約5ヶ月間はクーラーが必要)----窓を閉じているから、教室の中は10時ぐらいから変な臭いで一杯----先ずは口臭(朝食後口をすすがないから)、それに、汗、足……。信じられないでしょう?今の大学のクラスは平均100人、多い場合は200人、どんなに少なくても50人だよ。では、「なぜ注意して止めさせないの?」と思う方もいらっしゃると思う。それは少数の行動ではなくて、半分以上の人がこうしているからです。しかも注意してもほとんど聞いてくれない!だが僕は我慢づよい。毎年、最初と二回目の講義の時、食事する人、遅刻する人に警告する。三回目には追い出すのだ---食事する人は、どうぞ外でごゆっくり!始業のベルが鳴ったらドアをロックしてしまう------これが講義中の飲食、遅刻を止めさせる僕の戦術だ。   台湾の柏楊氏が書いた有名な『醜い中国人』という本によれば、中国人が外国人に嫌われる悪いところは、「汚い、混乱、うるさい」という三点だそうだが、今の“80後”たちは更に上回ると思う。教室、食堂……学生のいるところはうるさくてたまらない。また想像してみてください。教室の中の数百人の学生や、食堂の中の数千人の学生が騒いでいる様子を!   次に、学問の習得について言わせてもらう。学生の本業は勉強だ。しかし“80後”たちの中には、勉強をさぼっている人が少なくないようだ。これは判断上の間違いかもしれない。というのは、前回すでに述べたように、中国の大学は1990年の後半から毎年募集する学生数を増やしているから、勉強しない人が大学でも増えるのは当然である。日本の言い方で“猫も杓子も大学生”という時代になってしまったのだ。勉強するということ自体は、それほど難しいことではないかもしれないが、誰でも好き、誰でも我慢できるというものでもない。さぼる人のほうが多くなると、本当の努力家が埋もれてしまうので、前に述べたような“判断ミス”が出てしまう恐れが大きい。(そうだったら努力家のみなさんには御免なさい)。   コンピューターが普及したためでもあるが、字もよく書けない人がいっぱいいる。半分以上の学生がローンをして勉強しに来ているのに、遊びが多すぎて必要な単位をとれなくて落第することも少なくない。もっとも、真面目に勉強しても卒業後の仕事が見つからないから、今現在の人生を楽しんだほうがマシだと思う人も少なくないようだ。1990年代の大学生と比べ、今は授業中にノートをとる学生が少ない。なぜノートをとらないのか聞いたら、「多分、教科書に全部あるだろう」と答えるのだ。「ないよ」と言ったら、「もう覚えたよ」と……。こんな馬鹿なことにはもう数え切れないほどぶつかっている。本当に冷たくて、何にも無関心、ぼうっとしているやつもけっこういる。   学生の質が落ちたもう一つの原因は、学生数が爆発的に増えているから、以前のように教師が一人一人学生の面倒をみることが今や不可能になってしまったことだ。さらに、今の教師の責任感は、一世代前の教師たちと比べると落ちている(すでに述べたように今は社会全体のモラルが滅びてしまった時代だ)。勿論、勤勉な学生だって多いのだが、こういう努力家は学問的には問題ないようだが性格が弱い。これは前に述べたように、両親と4人の祖父母からの溺愛の世界で育ってきたからで、例えば、人と付き合いにくい、団体行動がとれない……。   以上は人類社会が21世紀の間、たくさん苦労して歩んできた今の時代に、中国大陸でしか見られない現象だと思う。よその国の新人類も親の世代と合わないということは、もちろん沢山あるだろうけど、中国の“80後”ほどではないと僕は確信する。つい最近、11月末の中国広東省の地方紙(<南方日報>、<広州日報>等)には、指名手配の犯人が百名(本当に丁度この数字なのか?)があった!!!新聞に写真付きの“指名手配令”を載せるということは、僕にとっては初めて経験したことだ。しかも、ほとんどが“80後”だった!広東省(省というのは中国の一級行政地区で31個ある)という狭い範囲なのに、逃げている犯人がこれほどいるということだから、刑務所はどれほど犯人で一杯か想像できますか?   今の中国の大学生が全部、上述したような駄目なやつばかりというのは言い過ぎかもしれないけど、真面目な人が段々減っているのは事実だ。“大学(本科)の「名誉」(証書)、専科の「レベル」、専門学校の「能力」、中学校の「考え方」、小学校の「性格」”という言い方が一時はやっていたことを思い出すと、一体“80後”世代のどこが我々と我々以前の世代と共通なのか、僕はいつも迷ってしまうし、またこの世代がこの国をどのようにしていくのかひどく心配してしまう。だが、海外へ留学している若者たちの大半は本当に人間らしい正常な教育(人徳と知識)を受けて育てられていると僕は期待している。 (つづく)   --------------------------------------------------- <奇 錦峰(キ・キンホウ) ☆ Qi Jinfeng> 内モンゴル出身。2002年東京医科歯科大学より医学博士号を取得。専門は現代薬理学、現在は中国広州中医薬大学の薬理学教授。SGRA研究員。 ---------------------------------------------------
  • 2007.12.05

    エッセイ097:奇 錦峰「中国の大学の現状(その2:学生の質①)」

    前回、近年の中国の大学生数の爆発的な増加を紹介した。今回は、現在の1623万人の在校生を含めた近年の大学生及び卒業生の基本的な「質」について言わせてもらう。この世代は、1980年に中央政府が産児制限---つまり“ワンカップルが一人の子供を生む”という政策---いわゆる「一人っ子政策」を実行してから生まれた。そこで、中国では、この世代を“80後”(バーシーホウ)と通称している。人間を評価するには、どこでも、まずその人の基本的な「質」、つまり人柄と能力から始めるだろう。それでは、この非常に特殊な“80後”世代の人柄や学問習得能力はいかがだろうか。   “80後”たちは、生まれたその瞬間から、二人の両親と四人の祖父ちゃんと祖母ちゃんに注目され、愛されて育てられた貴重な“後人”である。赤ちゃんから、幼稚園、小学校、中学校、高校それから大学までず~っと愛ばかり---もしくは過剰な愛(溺愛)をいただきながら人生を渡ってきた人たちである。愛を余分にもらうのはその人の好運だろうけれど、こんな環境で育った“80後”が奇形に成長してしまうのは当たり前ではないだろうか。こういう連中は、親及び周りの人々から愛情溢れる世話をしてもらいながら大人になった為、世の中には“他人がいる” “他もある”という常識は全然知らないようなのだ!エゴイズム、我がまま、怠け物、冷たい、厭人癖、善悪知らず---言わば信用できない人が多い。これは現在の中国の大学の在校生を含む大半の“80後”たちの人柄で、一般の人々が抱く彼らに対するイメージ、想像を遥かに超えてしまっているはずだ。   第一の特徴は、自己中心、我がまま、エゴイズム。“80後”世代の価値観、誇りと恥の感覚は、我々の世帯とは大分違う。自分の価値、自己実現などを強調する彼らの意識の中に“自分”以外誰もいない---他人は勿論、親のことも同じだ!ここで、たくさんの苦しい親たちのことを言わせてもらおう。中国の大学生は一つの特殊かつ重要な市場になっていると市場の分析者たちが言う。調査によると、この世代はIT等新技術の電子電化製品、化粧品、ファッション、特にブランド製品を買うのが癖になってしまっているそうで、間違いなくこの癖がこの連中たちの将来の消費習慣にも強く影響を与える。特に大学三年生や四年生になると化粧品及び服装品の消費が“噴水みたいに急に上がってくる”そうだ。この市場が2010年には3000万元になると推測されている。(2006年6月の<Asian Times>及び<Global Times>の調査による)。   中国のどの大学のまわりにも、いろんな店がずらっと並んでいて、1623万人の大学生が恐らく50万人の自営業者を養っているのではないだろうかと上述の分析者たちが言う。だがこのお金は自分で稼いだものではない。労働力が余っているから、中国の大学生はアルバイトをするチャンスはあまりない。つまりこのお金は親からもらうのだ。経済が遅れている地域の学生も、親が失業した(この国では「仕事場のポジションから降りてきた」と言う)家庭の子どもも、もちろん豊かな家庭の子どもも、できるだけ高級な消費財を使っている。パソコン、携帯電話、MP3 (或いはMP4)この三つが今の大学生の“日常必需品”になってしまったが、ごく“普通”のこれらの商品を買うのにも、一般の家庭収入の二ヶ月分は必要だ(これらを持っていない学生がいるかな?)。   ではこれらのものを何に活用していると思いますか?調査で分かったのは、パソコンは基本的にインターネット、MP3 、MP4 は音楽、映画、携帯電話は同じ建物の違う部屋からか、隣の建物からの連絡及びお喋り、恋人同士の終わらない愛……。忘れないで!中国大陸全土の大学はほとんど全寮制だよ!特に広州大学城の場合、各宿舎の各部屋(4人~6人で共有)には内線電話が付いているのに!信じられますか?---遠い町或いは田舎で自分の為に苦しく辛い生活を送っている親には、電話をかけて挨拶をする人が少ない。電話をするとしても、お金が欲しいときだ!なんて酷いことだ。親の苦労(お金を稼ぐため)、悩み(子供の勉強のための借金)、ひいては健康状態(彼らの親たちは1960年ぐらいの生まれの人が多い---もう中壮年で健康に問題がでてくる)を気にする人は何人いるのか。子供のときから贅沢な生活を送ってきたから、物を大事にする、節約するということをまず知らない、日常用品は頻繁に新品に交換し、浪費は驚くほどだ。学生の話によると日常用品をちょっと長く使うと周りの人にあざ笑われるそうだ。何でも使い捨てぐらいにすればその人はクールだ!   第二の特徴は、礼儀正しく行動しないこと。全社会のモラルが滅びつつある現在、大学生の中でもルールを守ることを大事にしない人がだんだん増えている。いつも好きなように行動する人は少数ではない。例えば、遅刻することを全然気にしない、授業中はものを食べたり、勝手に出入りしたりして、大学の教室なのにまるでレストランに出入りしているように自由自在だ。試験中のカンニング、それから性開放(時間単位の部屋---日本のラブホテルにあたる)ひいては同性愛もあるそうだ。“ネット時代”及び“グローバル化”の現在、中国の伝統文化に合わないエログロ、セックス(中国のYAHOOに「大学生、コンドーム」を入力して検索してごらん!)、株、商売など、昔の大学生の中では聞いたこともないことが、今の“80後”世代ではしょっちゅう見られることらしい。数年前から官庁の衛生部門が大学生たちにコンドームを無料で配っていること、コンドームの自動販売機をキャンパスのどこかに設置していることなどから、今の学生がどうなっているのか想像できるのではないだろうか。   もう一つ困った例を言わせてもらおう。広州の大学城は中国ではもちろん、恐らく世界でもナンバーワンの大学都市だと思う。珠江という川の中にある“小谷囲”という43.3平方キロの島に、大学10校、約40万人の大学生が勉強、研究および生活をしており、この10校の大学の教職員たちが市内の元のキャンパスにある職員寮からバス、地下鉄あるいは自家用車で通っている。大学城の中の道路は、20キロ離れている広州市の中心部と比べられないほど空いているけれど、2年前にオープンしてから交通事故が何回も発生し、車に轢かれた学生も数人あった。なぜだろう?“80後”たちが交通ルールを守らないからだ!大学城での交通事故は、100パーセント学生の責任。信号が赤なのに平気で歩くからだ。広州の大学城は楕円形の島で、全10校すべて、真ん中が生活エリアで、教室、研究室および実験室等はすべて周辺に位置している。授業が終わって、宿舎、食堂に行くのには必ず島の中の二本ある環状道路を横断するのだが、横断歩道橋と隋道(トンネル)があってもそれを利用する人は、ほ~んとうに一人もいない!!!   想像してください!前回、授業の終了後の階段の様子を書いたけど、今度は万単位の大学生がワーと道路を横切る“景色”!警察も困って、学生たちの集団信号無視行動にギブアップして、最近ラッシュアワーには車両を外環の道路(これが島の一番端にあり、三本目の大通りだ)を利用するよう交通制限を始めた。交通ルールを守らないのは中国でごく普通に見えることだが、21世紀の大学生なのに親の時代と同様に交通信号を無視するというのは、自分の身分に合わない“時代遅れ”の行動なのではないだろうか? (つづく) --------------------------------------------------- <奇 錦峰(キ・キンホウ) ☆ Qi Jinfeng> 内モンゴル出身。2002年東京医科歯科大学より医学博士号を取得。専門は現代薬理学、現在は中国広州中医薬大学の薬理学教授。SGRA研究員。 ---------------------------------------------------
  • 2007.11.30

    エッセイ096:奇 錦峰「中国の大学の現状(その1:学生数)」

    1990年代から毎年、中国の経済は奇蹟の成長率を記録し、さまざまな分野で急速な発展を遂げたことは世界中に知られている。然し、経済の発展とは対照的に、人口が増えた“繁栄”の辛さも徐々に解ってきた。どこへ行っても人で溢れていて、静かなところが見つけられない。中国に住んでいる中国人でさえも40歳以上のかたは、学校で仕事をしていなければ、膨張している学校の現状を恐らくご存知ないだろうが、外国人はもちろん、海外へいっている中国人にも全く想像できないと思う。    どのレベルにおいても、中国の“学校”というところへ行ってみれば、“溢れる”という言葉の意味を真に理解できる!この30年間、学校(特に大学及び専門学校)の数はあまり増えなかったが、既存の学校で募集する学生の人数は大幅に増えた。1980年以前と比べると、全国平均で二桁の倍数に達しているという中国教育部の統計がある。私の勤めている広州中医薬大学を例にしてみょう。     私の大学では、10年ぐらい前までは在校生が1500人ぐらいで、年に200人ぐらいの卒業生があったといわれている。だが、2006年の卒業生は970名、2007年の今年は1456名、更に近い将来の卒業生数の予測は、2008年に2400人、2009年には3200人であると、少し前の大学公報で公開された。今現在の在校生は3万人以上で、昔の20倍!(うちは単科大学なんですよ!欧米の言い方でいうとCollege!)。毎年これほどの卒業生が出るということは、4~6年前からこの数の新入生が入ってきていると理解して間違いないだろう。教育を担当している我々はたいへんだよ!例えば私の学部では、10年前と比べると学生数が約20倍増えたが、スタッフは僅か1.2倍ぐらい増えただけだと先輩たちがいう。昔40人だったクラスが、今は多い場合には200人まで膨張し、学科も1種類から5種類まで増加した。私は卒業してからずっと大学で教えているが、前の大学ではせいぜい週3回、6~8時間の講義をしていた。しかし、今は毎日講義のために走りまわっていて、週20時間ぐらい講義をしている。現在の中国の大学の教員は小中高校の教師みたいに、授業に追い回されている人が大勢いると言われている。    なぜ大学生がこんなに多くなったのか?高、中、小学生が多くなったからだ!もちろん政府が十数年前に大学教育を“エリート教育から大衆教育”に変えたのも原因の一つだろう。中国教育部の報告によれば、2007年に全国の大学受験生は初めて1000万人を超え、1010万人になった。入学率は56%で、567万人の新入生が入学する。現在、在校生数は1623万人に達し、全世界で1.1億の大学生の約15%を占めているといわれている。ちなみに小、中、高校の現状も少し言わせてもらうと、学校の数はもちろん大学と比べられないほど多くなっているけど、それでも在校生の数は驚くほどだ-----例えば昔1クラス40人の教室は、今や最低60人、ひどい場合は80人もいると聞いたことがある。同じ学年のクラス数が3~4倍まで増えているのは“普通”だ。学校が終わった後の教室棟の階段の様子を想像できますか?遊びたくてわくわくした顔でぎっしり!数年前、満杯の学生がいた階段が潰れるという事故が発生し、生徒が踏まれて死亡した。この悲惨な事故報道は何回も繰り返されていたから、教育者たちの頭の中にはまだ残っているだろう。    次に大学を卒業して社会に入る進路-----就職状況をみてみよう。近年、毎年800万人以上の大学卒業生が社会に入っているが、就職率は80%未満だそうだ。公式に発表された情報によれば、全国で毎年2000万人の雇用が準備されると予測されている。しかし、これから急増する大卒業者が含まれる“就労大軍”ははるかにこの数を超える。現在、既に約10%の大卒者が、辛い選抜試験を経て修士課程に進学しているが、その中の半数は、就職が難しいから仕方なく選んでいるそうだ。今年の受験生の56%は大学の卒業生だが、残りは“社会人”(主に大学を出てまだ就職できていない人、日本のフリーターにあたる?)らしい。勿論、修士のほうが学士より就職しやすいという事実も、大学院の受験生が増えた原因の一つである。    大学生の募集数が年々増えているが、大学院生(中国では研究生という)の募集数は近年あまり増えていないそうだ。その主な原因として、大学の修士、博士の教育資源に制限があり、大衆教育までは到底無理だからといわれている。それに去年から修士課程の“免試”制度(優秀な大学卒業生が学校の推薦で選抜試験に参加せず修士課程に直接入学する制度)ができたから、今や大学の受験より大学院の受験のほうの競争がもっと激しくなっている。中国教育部の発表によれば、2007年に全国大学院の受験生数は前年の2006年よりやや多い(7000人増)128.2万人で、進学率は約30%だそうだ。過去数年間の全国大学院受験生の数字を見ると、2001年は46万人だが、2005年は117万人となり、5年間で倍増している。年平均増加率は22%である。    ところで、過去10年間の世界の大学生数であるが、“グローバル大学改革ウェブ”というところの報告によると6860万人から1.1億人になっているらしい。60%の増加である。この中、発展途上国が2930万人から5830万人とほぼ100%増加しており、先進国は3080万人から4030万人と30%の増加となっている。1960年に全世界の大学生の数はたったの1300万人だったのだが、今はその8.5倍である。     中国の1623万人の大学生の質はどうかということに興味のあるかたは多いと思う。それは次回のお楽しみに。   --------------------------------------------------- <奇 錦峰(キ・キンホウ) ☆ Qi Jinfeng> 内モンゴル出身。2002年東京医科歯科大学より医学博士号を取得。専門は現代薬理学、現在は中国広州中医薬大学の薬理学教授。SGRA研究員。 ---------------------------------------------------
  • 2007.11.20

    エッセイ095:孫 軍悦「一期一会」

    江戸時代から関東と越後を結ぶ三国街道、現在の国道17号沿いに湯宿温泉という、開湯1200年の温泉地がある。現在八軒の温泉宿と四軒の共同浴場、それから100メートルあるかないかの散歩道が整備されている。そのなか、若山牧水などの文人墨客も多く泊まっていたのは、1867年に開業した金田屋旅館である。細心の注意を払わないとつい通りすぎてしまうほどの、文字通りの国道沿いの温泉宿である。     この温泉宿に二度ほど訪れたことがあり、二度とも不思議な出会いがあった。   一回目に宿に到着すると、ちょうど玄関の上の部屋に通された。コタツが真ん中にすえてある8畳の明るい部屋だった。内側に面した窓からロビーで火鉢を囲みながらくつろいでいる温泉客や、てきぱき夕餉の準備をしている宿のご主人の姿を見下ろすことができる。「古き陶器の如し」と牧水が喩えた冬の三国路は、夜が更けるのが早い。山の幸がふんだんに使われた夕食を済ませ、温泉に浸かって身体を暖めた宿泊客も各々の部屋へ戻っていった。おかみさんが湯上りのお客さんのために用意した冷水筒に最後の氷水を足し、電気を消していった。外は相変わらず車の往来で騒々しいが、宿のなかは早くも静まり返った。窓際でコタツに足を突っ込みながらそれを見届けた私は百般無聊のなか、ふと階段の曲がり角に小さな書箱があることを思い出した。せっかく温泉宿に来ているのだから、温泉についての本でも読もうと思って選んだ一冊は、『つげ義春の温泉』だった。   本には昭和40、50年代の温泉地の写真やイラストと、つげ義春の漫画とエッセイが収録されている。まず驚いたのは、写真にみすぼらしい殺風景な温泉地ばかりが写されていることだ。まるで大地震でも起きたかのように、屋根の歪んでいる隙間だらけのバラ屋が軒を連ねている。後で分かったことだが、それはつげ義春の好みらしい。現に彼はそう書いている。「私の温泉離れも、みすぼらしい景観が少なくなったのが原因といえるかもしれない」。かといって、つげ義春も、常識はずれの物好きではなさそうだ。「黒湯・泥湯」というエッセイのなかで、彼はこう書いている。「湯ノ神温泉は温泉案内書でもめったに紹介されることはないので、俗化していない掘り出し物かもしれぬ期待もあったが、田園の中に三棟の宿舎がかたまってあるだけの、景色は平坦で平凡でまったくつまらぬ所だった。昔の木造の校舎のような湯治部屋を覗いてみると、何かの収容所のように、足の踏み場もないほど布団が敷かれ、お婆さんばかりがゴロ寝をしていた。姥捨ての光景を見るようで、とても泊まる気になれない」。やはり人の趣味は、自分が思うほど自分によって決められるものではなく、時代と境遇のほうにはるかに影響されているようだ。   漫画も驚いたものだ。白魚のようにするりと湯船に滑り込む少女や、あけすけに股を開いて髪の毛を洗う婦人や、魂の抜けた幽霊のような爺さんが描かれている。一度見たら忘れられないが、どんな物語だったかさっぱり忘れてしまう漫画だった。それもあとで分かったことだが、エロチシズムも、筋らしい筋がないのも、つげ漫画の特徴である。ただ一つ、覚えているどころか気になってしょうがないストーリーがある。『蒸発旅日記』というもう一冊の随想集に収録されたエッセイである。蒸発したい主人公が、面識もなく、ただ自分の漫画のファンである看護婦のいる九州へ向かう話だ。残念なのは、最後まで読むことができなくて、結末が分からずじまいだった。家に戻っても気になってしょうがなかった。それで仕方なくもう一度金田屋旅館へ行くことにした。   二回目に通されたのは、廊下の奥にある薄暗く湿っぽい六畳間だった。いくらつげ義春目当てであっても少しはがっかりした。とりあえず、書箱においてあるつげ義春の本を確保して、温泉に入ってからゆっくり読もうと思った。温泉は源泉かけ流しの小さな内湯である。湯船に浸かりながらぼおっとしていると、隣の60代ぐらいの女性が話しかけてきた。彼女は群馬県内で宿舎を営んでいる。主に某大学の学生たちに部屋を貸しているが、そのマナーの悪さにずいぶん頭を悩ましたそうだ。このごろ新聞でも、「マンションに外国人が引っ越してきてからごみの分別ができていない」と、当たり前のように書くのだから、彼女の話を私はむしろ一種の快さを感じながら聞いていた。長年学生宿舎に住んでいた経験からもごみの分別は決して「外国人」だけの問題ではないことがよくわかっているが、「日本人だって」という反論は、私にとって決して口に出してはいけない言葉である。どんな状況でもやはり「それを言っちゃおしまいよ」という言葉がある。それが彼女(正確に言えば、日本人の彼女)の口から批判が出てきたのは、正直に言ってやはりスカッとした気分であった。   それから、彼女は私にどこから来たのかと聞いた。その質問に私はいつも戸惑いを感じる。というのは、一体相手が、私の日本語から外国人だと察して私の国籍を聞いているのか、それとも、普通の日本人と同様に私の出身地を聞いているのか、あるいはただ旅人同士の会話らしく、単に常住地を聞いているのか、なかなか判断がつかないからだ。仕方なく、私は、自分が東京からやってきた中国人留学生だと答えた。すると、彼女は突然相談事を持ちかけた。話によると、このごろ40歳の長男が中国人の彼女と同棲していて、その彼女は服装が派手で、この頃高級車に乗っているようで、どうも信用できないという話だ。テレビなどでもよく外国人妻の犯罪を報じているのだから、息子には、通帳や現金をちゃんと保管して用心しなさいと注意したが、息子は彼女のことが好きで、国籍は関係ないと言っている。信用はできないが、40歳を超えてようやくできた彼女だから、分かれさせたらいつ結婚できるか分からない。中国は遠いから、こっそりとたずねて相手の家柄を調査するすべもない。でも、このまま同棲するのも相手の親には申し訳ない気持ちがある。家族に話したら余計なお世話だと取り合ってくれない。お隣さんには絶対話してはならない。ついこの間、近所のおじさんが、フィリピン人の嫁の妹が家の金を盗んだと漏らして、町の笑われ者になったのだ。ひとりで悶々としているが、どうしたらいいかわからない。そこで、行きずりの中国人の私にどう思うかと聞いたわけだ。     どうも彼女は私にいい印象を持っているようだ。留学生だから、きっと大金持ちのお嬢さんだと勘違いしているらしい。もしかしたら、温泉に入ってもめがねをはずさない私のこっけいな顔が彼女には逆に上品そうに見えたかもしれない。しかし、中国人だからといってすべての中国人の素性や性格が分かるわけはない。そもそも、彼女の質問は、言い換えれば、自分自身の中国人への偏見を中国人にどう思うかと聞いているようなものだ。     その「信頼に満ちた偏見」に私は実に困った。「息子さんはもう大人だから、信じてあげたら」とか、「話を聞くと、実に立派な息子さんだからきっと正しく判断できると思う」とか、結局陳腐な人生相談にありがちなことしか言えなかった。かれこれ一時間ほど話を聞いて、彼女も多少気が済んだようだ。それで互いに一通りの挨拶を交わして各自の部屋に戻った。その後、私はずっと彼女との会話を考えていた。もうつげ義春どころではなくなった。     私たちは「偏見」に出会ったとき、案外洗練された対応ができないものだ。「偏見はいけない」といった正論を並べることも、どこが偏見なのか諄々と教導することもなかなかできないようだ。それは一面に偏見そのものの衝撃によるが、他方、偏見の複雑さにもよるだろう。たとえば、彼女の「偏見」は、単なる「中国人」に対する偏見ではないことは明らかだ。「中国人」という要素は、服装の派手さ、高級車を乗り回すいかがわしさ、そして40歳を超えた息子に対する愛情への不信感といった様々な要素のなかのたった一つの要素にすぎない。また、彼女の「偏見」は単なる「日本人」の偏見でもない。「日本人」という要素も、彼女の息子を思う親心、村八分を恐れる地域社会に特有の閉塞感、そしてその世代の道徳的観念といった要素のなかの一つにすぎない。もっとも、この私も彼女の目には決してただ単に一人の「中国人」ではないはずだ。なによりも、こうした一期一会ができたのは、私たちはともに女の旅人であったからだ。     思えば、一体私たちは、ただ単に一人の「中国人」として、ただ単に一人の「日本人」と出会うことがありうるのだろうか。国籍はただわれわれの人間と人間との触れ合いに少しだけ加味し、ちょっぴり変形させるだけだ。厄介なのは、私たちは、その「少し」の度合いをどうしても正確に捉えることができず、つい想像のなかですべてを覆い隠してしまうほど膨らましてしまうのではないだろうか。     結局、二度目もつげ義春を読み損ねた。どうやらもう一度金田屋旅館へ行かなければならないようだ。   -------------------- <孫 軍悦 (そん・ぐんえつ) ☆ Sun Junyue> 2007年東京大学総合文化研究科博士課程単位取得退学。現在、明治大学政治経済学部非常勤講師。SGRA研究員。専門分野は日本近現代文学、翻訳論。 --------------------     2007年11月20日