SGRAエッセイ

  • 2007.11.16

    エッセイ094:張 紹敏「生理的な恐怖から社会的な恐怖へ」

    最近、私は、生物にみられる基礎的なプロセスが、私たち人間の生活や社会の中にもたくさん含まれていることに興味を持っています。私たちひとりひとりの生活様式や行動は、社会全体に大きな影響を与えていると思えます。今日は、「恐怖」を例にして、このような生物学上の原則と社会事象の関連性を考えてみたいと思います。現在のような文明社会でも、「恐怖」がひきおこす暴力や戦争という社会現象は屢々見られます。自殺も、人間ひとりの行動ではなく社会的な行為となります。   動物が抱く恐怖という感情は、生命を守るため、生き残るための基本的なメカニズムです。この感情がなければ動物は生き延びてこられなかったでしょう。本来、恐怖は切迫した危険に対する心配と、それへの感情的な応答が結合した生物的な表現であり、通常特定の否定的な刺激に応じて起こります。行動学の理論家によって、「喜び」や「怒り」のようないくつかの他の基本的な感情と共に、恐怖も高い作用の有機体に生来備わっている特性であるということが指摘されています。   人間が抱く恐怖には、穏やかな注意からの極度な恐怖症および妄想障害まで、さまざまな程度があります。また、心配、不安、身震い、戦慄、パニック、迫害感や、その複合体を含むいくつかの感情の状態と関連しています。恐怖の表情には、瞳が広がる、唇が水平に伸びる、上部唇が上がる、額があがるなどの特徴があります。ほとんどの動物の恐怖に対する行動には、このような感情の段階が観察されます。人間は恐怖感に極度に脅かされることがあり、致命的となることさえあります。それはアドレナリンの上昇によって引き起こされる本能的な反作用によるもので、意識して行う周到な決定ではありません。   恐怖に対する生理学的な反応は、「戦う」か「逃げる」かのどちらかです。「逃げる」方の典型的な例は、身体の通常機能を維持しながら穏やかに草を食べるシマウマでしょう。もしライオンにみつかれば逃げ出します。犬に攻撃されている猫は、心拍数が加速し、毛が逆立ち、瞳が広がります。ある種類の魚は、威嚇者の目をごまかすために体の色を素早く変更することができます。いずれも別の動物からの脅威から逃げるためで、すぐに戦いが起ることは比較的に少ないのです。ある動物が対峙する動物からのシグナルを解読して意識を高めていくには、それなりの時間がかかります。その間に、それ以外の交渉を起こすこともあるし、逃げだすこともあるし、戦うこともあるし、遊ぶこともあるかもしれないし、全然何も起きないかもしれません。   人類は既に、他の動物に対する恐怖を制御する術を習得しました。現在、人間が恐怖を感じるのは人間自身に他なりません。しかし、生理的な本能は、ほとんどすべての人間社会のしくみの中にも取り込まれているのです。私たちは恐怖に対して「逃げる」か「戦う」かの応答をいまだに続けているのです。脅威を感じたときには、逃げるときもあるし、戦うときもあります。戦いになれば積極的で、好戦的な行動をします。自殺等、社会から「逃げる」ための極端な現象もおこります。    この生理的な本能は、現代社会のイデオロギーや経済利益活動の中にも見られます。私たちの属性は決定しています。自分自身が生まれた国、遺伝的な民族性、家族または地域的な宗教観を、私たちは守っていかなくてはいけません。すると、恐怖は、一人の個人だけのものではなく、自分が属する国、民族、または宗教のものとなるのです。国と国、民族と民族、宗教と宗教などが、お互いに社会的恐怖となっていきます。   人間の生物として長い歴史に比べれば、人間の社会の歴史はかなり短いものです。他の動物に対する恐怖は減りましたが、人間自身、そして人間社会に対する恐怖が、私たちの文明社会のあちこちに見られます。国家間の戦争、民族間の論争、宗教間の不信感など、今、いたるところに溢れています。社会性をもった恐怖は、国、民族、宗教から与えられた私たちの役割を受け入れることを容易にさせてしまいます。地球市民の理想は人類の共同目標であり、一人一人の人間としては話し合うことはできるかもしれません。しかし、社会的な人たちの社会的な恐怖をお互いに理解していくためには、もっと時間がかかりそうだと感じています。   ------------------------------------------------- <張 紹敏(ちょう・しょうみん)☆ Zhang Shaomin> 中国の河南医学院卒業後、小児科と病理学科の医師として働き、1990年来日。3年間生物医学関連会社の研究員を経て、1998年に東京大学より医学博士号を取得。米国エール大学医学部眼科研究員を経て、ペンシルベニア州立大学医学部神経と行動学科の助理教授に異動。脳と目の網膜の発生や病気について研究中。失明や痴呆を無くすために多忙な日々を送っている。学会や親友との再会を目的に日本を訪れるのは2年1回程度。 -------------------------------------------------  
  • 2007.11.13

    エッセイ093:範 建亭「上海の日本人コミュニティー」

    中国の最大都市である上海は、今やアジア有数の国際都市でもある。経済の発展とともに、上海に住む外国人は爆発的に増加している。上海の統計データを見ると、12万人ぐらいの外国人が長期滞在しており、中でも日本人は約3万人で一番多くなっている。また、外務省の「平成16年の海外在留邦人数調査統計」によると、上海の長期滞在邦人数は3万4千人で、世界の都市ではニューヨーク、ロサンゼルスに次いで第3位となっている。   しかしながら、実際に上海に住む日本人の数は統計データを遥かに超えている。出張や旅行といった流動人口を含めると、常時10万人程度の日本人が上海にいると言われている。上海は常住人口1800万人の大都会であることを考えると、日本人が10万人と言ってもたいした存在ではない。だが、上海在住の日本人は群れて住んでいるから、結構目立っている存在であり、中国最大の日本人コミュニティーを形成しつつある。   在上海の日本人は主に三つのエリアに住んでいる。最も集中しているのは市内西部の虹橋エリアと古北エリアである。虹橋エリアには日本領事館があり、日系企業も沢山集まっている。古北エリアは虹橋エリアのすぐそばであるが、そこは主に日本人が生活する場所であるから、日本人向けの賃貸マンション、スーパーやレストランなどが非常に多い。日本人学校もこのエリアにある。   もう一つは浦東エリアである。浦東は市中心部より黄浦江を隔てている地域であるが、この十数年間で急速な発展を遂げ、中国を代表する金融街や開発区が形成されている。そのため、近年、浦東に住む日本人も急速に増えている。上海にある二番目の日本人学校は浦東エリアにあり、2006年に開校されたばかり。ちなみに、二つの上海日本人学校の児童・生徒数は2500名を超えており、世界一の日本人学校となっている。それは、上海の生活条件の向上に伴い、家族帯同の在留邦人が急増しているということを反映している。   日本人が集中的に住んでいるエリアは、異国を感じさせない「ミニ日本」のようにみえる。日本料理店なら寿司、焼肉、カレー、とんかつ、うなぎ等々、何でも揃っているうえに味も結構いける。また、日本の食材を売るスーパー、日本人向けのパン屋、美容院、マッサージ屋などがあちこちにある。飲み屋、クラブなども少なくない。上海生まれ育ちの私も古北エリアにいくと、これは本当に同じ上海の光景なのかと目を疑うほどである。   日本人は群れて住んでいるから、それらのエリアには日本人入居率がほぼ100%を占める賃貸マンションが沢山ある。私はたまにそのエリアの日本料理店で食事するが、日本人が住んでいるマンションには入ったことがない。だが、私の妻はいま家庭教師として日本人(主に現地駐在員の奥様)を相手に中国語を教えているから、彼女からいろいろな話を聞いて、その住宅地の様子が大体分かるようになった。   日本人向けの賃貸マンションはほとんど高級住宅地に立地され、日本料理店やコンビニ、幼稚園などが併設されているものも珍しくない。入り口の受付や警備員といったスタッフは全員中国人だが、みんな日本語ができ、挨拶も非常に丁寧である。夕方になると、たくさんの日本人の子供たちがロビーで走ったり、遊んだりしている。そこに入ったら、いつも「まるで日本だ」と思うと妻は言う。   日本人向けの施設や環境が整っているため、上海に長期滞在しても日本に居るのとあまり変わらない生活を送ることができる。あまりの便利さと住み心地のよさで、逆に日本に戻りたがらないという話もよく聞く。   私の留学生仲間の一人は、3年前会社の派遣で日本から上海に駐在するとき、一番の悩みは日本人の妻と娘3人が一緒についてきてくれないことであった。やっと駐在の2年目に上海で一家の団欒を実現したが、3年の任期を終える段階でそろそろ本社に戻る時期がやってきた時、今度の悩みはなんと妻と娘たちがあまり戻りたくないことである。原因は上海での生活は、日本以上に住みやすく、生活水準も高いからだという。   整備されつつある上海の生活環境は、日本人の海外生活での不安を和らげるができ、とてもいいことだ。しかしその一方で、異国のことを常に意識して、地元の人との交流も深めるべきではないだろうかと思う。   -------------------------- <範建亭(はん・けんてい ☆ Fan Jianting)> 2003年一橋大学経済学研究科より博士号を取得。現在、上海財経大学国際工商管理学院助教授。 SGRA研究員。専門分野は産業経済、国際経済。2004年に「中国の産業発展と国際分業」を風行社から出版。 --------------------------  
  • 2007.11.09

    エッセイ092:陳 姿菁「台湾の教育(その2)」

    こんなとき、あなたならどうしますか?   エジプト文明が大好きなあなた、待ちに待った門外不出のエジプト展のため、胸を高鳴らせて博物館に足を運びました。   博物館に入った瞬間、溢れんばかりの人込みに外へ追い出されそうになりました。辛うじて展示ガラスの前までに近づきましたが、長い列のためなかなか前に進みません。やっと列の真ん中まで進んだところ、ふいにある子ども連れの親があなたの傍にやってきて、「すみません」といいながら子どもたちをあなたの前に押し付けてきました。   あなたらなどうします?列に割り込ませますか、割り込ませませんか。   これは数ヶ月前に実際に台湾の博物館で起きたことです。「子どもを優先する」という教育を受けてきたわたしたちは果たしてどう受け取るのでしょうか。   いくつかのパターンが考えられるでしょう。 1) 疑いもなく喜んで優先させる。 2) 心の中でよろしくないと思いながらも、仕方なく優先させる。 3) 無視する   1)や2)は、形の上で「子どもを優先する」という結果になります。   その時点ではたいしたことではないかもしれませんが、このようなことが積み重なると、「子どもは優先されるべき」という固定観念が定着し、「子ども」に譲ることは当たり前のように思えてきます。   この「当たり前」は大人としての思いやりをこめているはずですが、結果としては、列を並ぶときに、子どもが「自分は子どもだから列に割り込んでも大目に見てくれるでしょう」というふうに受け取るかもしれません。一旦そう習慣化していくと、わきまえのある行動、礼儀正しく振舞ったり、ルールを守ったりすることが身につきにくくなるのではないでしょうか。   実は、その日、子どもたちが展示物の説明を読むわけではないのに説明パネルの前に立ち止まったり、体が小さいからといって、大人の足と足の間を潜って展示ガラス前に進んでいったりする光景は絶えませんでした。他の観客の視線を遮ったとしても気にもしないようです。周りの人のことを考えず、わがままに振舞っている子どもを見ても、子どもの親は制止しませんでした。   その光景を目にした周りの大人から「嫌だな」という声は確かに聞こえました。しかし、ほとんどの大人は難色を見せず、子ども達をやりたい放題にさせていました。待ちに待った展覧会だったのに、周りの無秩序のせいで、せっかくの気分も台無ししになりました。    少子化のため、子どもを甘やかす傾向があると批判されていますが、この日の展覧会での経験から、現状を垣間見ることができます。躾のなさを嘆く前に、それを子供たちにさせてしまう大人としての反省が必要だと思います。もちろん、ここで言う大人は、その子ども達の親だけではなく、疑いもなく列を譲ってしまった大人にも責任の一部があるといえるのでしょう。もし、周りの大人が「ちゃんと並んでください」と一言その親に言えば、少しは状況が変わったかもしれません。しかし、仮にその親に指摘したとしても、周りから「子どもだからいいのではないか」と逆に批判されてしまうのが台湾の現状です。     精神科医学博士の斉藤茂太氏は、『躾が9割―“伸びる子”を育む魔法の習慣』という本の中で、「子どもが自己主張をはじめたら、親は子どもをただ保護して育てる対象として出なく、まだ幼くても1人の人間として向き合う心構えを持つときなのだ」と指摘しています。いくら子どもが目に入れても痛くないほど可愛くても、自我が芽生えてきてからは、きちんと躾をする必要があると思います。   子どもを大事に扱うのは重要です。と同時に躾も大事です。責任の取れる大人、礼儀正しい大人に育てるためには、長い目で両者のバランスを考えたほうが良いのではないでしょうか。   今まで「子どもを優先すべき」だと疑ったこともない私でしたが、この出来事から考え直さずにはいられませんでした。子どもだからといって何でも譲ることは本当にいい教育になるのでしょうか。躾のなさ、思いやりのなさは実はこのような年から植えつけられ、習慣化され、そのまま今のいわゆる「礼儀知らず」な大人に成長していくのではないでしょうか。   --------------------------------------------------- <陳姿菁(ちん・しせい) ☆ Chen Tzuching> 台湾出身。お茶ノ水女子大学より博士号を取得。専門は談話分析、日本語教育。現在は開南大学の専任と台湾大学の兼任として勤めている。SGRA研究員。 ---------------------------------------------------  
  • 2007.11.03

    エッセイ090:林 少陽 「夏の帰国の感想(その2)」

    (2)北京の住宅事情   清華大学のワークショップが終わり北京の友人と久しぶりに会った。短時間ではあるが、SGRA会員の朴貞姫さん(北京言語大学)と孫建軍さん(北京大学)にも会うことができた。北京において、すべての友人との集まりに必ず出てきたのは、不動産の話であった。中国は経済が過熱しており、昨年一年間で不動産の値段が倍以上に上がった。理由はいろいろあるようだ。よく言われているのは、オリンピック前の建設ラッシュや、都市に住む人々の処分可能な現金が余っていることや、海外のホットマネーが流入したことなどである。日本のゼロ金利政策の影響で、日本でも中国株に投資している人が多いと聞いている。現金が株マーケットに大量に流入したことで、株の値段が上昇した。そして投資の収益が不動産マーケットに流入した。社会保障制度がまだ確立途上の中国では、お金を儲けることで将来への不安を解消するために投資意欲が強いという説もある。この加熱ぶりは、色々な要素の相互作用といえるだろう。    現政権は格差を縮小するために「和諧社会」という政策を出した。2年前には農民の税金ゼロという政策も出された。近年、都市部が農村部を犠牲にした代価で市場化をしてきたという批判をしばしば耳にする。このようなことに対する反省でいろいろな対策が出されているが、過去一年のバブルは、むしろ格差を拡大しているようだ。出稼ぎで都会に出ている農民に与えるバブルの影響がいろいろと予測されるが、リストラされた都会の人々に対する影響も必至であろう。   中央政府はいろいろな政策で不動産の価格を抑えようとしている。しかし、不動産価格の上昇は地方政府の税金収入に関係するだけでなく、地方政府長官個人に対する業績評価にもつながる以上、価格の抑制は簡単ではないだろう。環境保護政策も似たようなジレンマである。発展主義をとっている以上、中央政府の環境政策の意図が、地方のレベルになると無視されてしまうことが多い。ただし、最近、ようやく環境保護のデーターが地方長官の業績評価に導入されるようになったそうである。遅ればせながらも、とても重要な政策であり、実行して欲しいと願うばかりである。    今回の不動産価格の上昇で、直接影響を受けているのは海外にいる留学生のようにも思う。いままでの中国は、大学のような教育機関や国営会社などを含むすべての国の機構、組織の従業員に対する福利政策として、ほとんど無料に近い価格で部屋を分配するという政策を取ってきた。いわゆる「分房」政策である。いまではそのような福利政策がほとんどなくなったが、市場価格の一部を分けてもらえる政策がいまだにある。現金として一部「もらっている」人はそのお金で自分が住むための部屋を買う。または学校を含む組織・機構が立てた住宅をマーケットよりだいぶ安い値段で買うというシステムも多い。他方、むかし部屋を「分配された」人は、貯金を不動産に投資するのが普通である。特に過去20年間以上の高度成長の成果を享受できた人は、複数の部屋を持っている人が多い。住宅補助として部屋の「一部」をもらった人も、その「一部」の価値がマーケットの変化によってずいぶん変るものである。もし雇用者の組織・機構がマーケットの変化に即してこの「一部」の額を上げれば、予算がオーバーしてしまうことになる。そもそもそのようなやり方はマーケットが激変しているなかで難しい。結局、国関係の組織、機構に勤めている人々もただちに「有(複数な不動)産階層」を含む「有(不動)産階層」、と「無(不動)産階層」とに分化してしまうのである。勿論、プライベート・セクターに勤める人々は、さらに競争型による格差体制に晒されている。海外にいる留学生は、帰国後このような厳しい変化に直面しなければならない。    北京の普通の100平米の部屋(中国の都市部では標準的な広さ)は2年前だと約70万元前後(日本円で目安で約1200万円前後)で買えたそうだが、この夏では1.5倍ぐらいの百175万元(約2700万円前後)となっている。夫婦共稼ぎの中国でもとても負担できるような金額ではない。他方、前に部屋をもらった人や一部「もらった」人、とりわけ複数の部屋を持っている人は逆にこの上昇によって個人財産が大幅に増えた。これは新しい格差を生む契機となる。政府は真剣に、低収入の人々のための住宅システムの確立を考え始めたと聞いている。いわば住宅供給を二元化する、弱者保護の政策である。歓迎すべきではあるが、遅れた政策といわざるをえない。    (3)広東・香港   この夏の終わりの時間は故郷の広東省の珠江デルタ地区と香港とを行き来した。9年ぶりに母国で4週間も過ごす長い滞在となった。経済の重鎮である広東省では北京でみた加熱がなおさら強く感じられた。香港に隣接する深せん市では中心区の不動産相場が1平米2万元(約30万円前後)、高級な新築マンションはこの倍に近い。この値段は香港の中心部の6割前後だが、香港の北部より高い。香港返還の10周年前後に深せんと香港の間のチェックポイント(深せんと香港の間に出入りするための手続きをする施設)が新たに二つ増え、とても快適で便利になった。10数年前に毎週金曜日と月曜日に長く列を並んで出入国の手続きをしていた時代が遠い過去となったような気がした。この10年の深せんと香港の一体化は予想以上に速かった。    ちょうどアメリカでサブプライム住宅ローンシステムが崩れる騒ぎが起き、香港もこのようなニュースで溢れ、マーケットに多少混乱が出たようである。大陸の新聞もこのようなニュースが大きく報道されている。サブプライムの問題がさらにホットマネー流入を促し、大陸の経済過熱化を加速する可能性があるという香港の新聞の分析も見た。もちろんオリンピック後の経済衰退説も流れている。専門外の私はどれを信じればいいか分からなくなった。    しかし、確実にいえるのは、「社会主義」の母国が世界資本主義マーケットとますます一体化しているということである。また、最近の変化は、少なくとも短期間のうちにおいては留学生の帰国後の生活にマイナスな影響を与えるものだとも思った。短期間と言っているのは政府が留学生のために何らかの措置をしてくれればという楽観的な仮定においてである。   --------------------------------------- <林 少陽(りん しょうよう)☆ Lin Shaoyang> 1963年10月中国広東省生まれ。1979年9月に廈門(アモイ)大学外文系入学。1988年6月吉林大学大学院修士課程修了。1999年春留学で来日、東京大学博士課程、東大助手を経て東大教養学部特任助教授。著書に『「文」与日本的現代性』(北京:中央編訳出版社、2004年7月)及び他の日本・中国の文学・思想史関係の論文がある。 ---------------------------------------  
  • 2007.10.31

    エッセイ090:林 少陽 「夏の帰国の感想(その2)」

    (2)北京の住宅事情   清華大学のワークショップが終わり北京の友人と久しぶりに会った。短時間ではあるが、SGRA会員の朴貞姫さん(北京言語大学)と孫建軍さん(北京大学)にも会うことができた。北京において、すべての友人との集まりに必ず出てきたのは、不動産の話であった。中国は経済が過熱しており、昨年一年間で不動産の値段が倍以上に上がった。理由はいろいろあるようだ。よく言われているのは、オリンピック前の建設ラッシュや、都市に住む人々の処分可能な現金が余っていることや、海外のホットマネーが流入したことなどである。日本のゼロ金利政策の影響で、日本でも中国株に投資している人が多いと聞いている。現金が株マーケットに大量に流入したことで、株の値段が上昇した。そして投資の収益が不動産マーケットに流入した。社会保障制度がまだ確立途上の中国では、お金を儲けることで将来への不安を解消するために投資意欲が強いという説もある。この加熱ぶりは、色々な要素の相互作用といえるだろう。    現政権は格差を縮小するために「和諧社会」という政策を出した。2年前には農民の税金ゼロという政策も出された。近年、都市部が農村部を犠牲にした代価で市場化をしてきたという批判をしばしば耳にする。このようなことに対する反省でいろいろな対策が出されているが、過去一年のバブルは、むしろ格差を拡大しているようだ。出稼ぎで都会に出ている農民に与えるバブルの影響がいろいろと予測されるが、リストラされた都会の人々に対する影響も必至であろう。   中央政府はいろいろな政策で不動産の価格を抑えようとしている。しかし、不動産価格の上昇は地方政府の税金収入に関係するだけでなく、地方政府長官個人に対する業績評価にもつながる以上、価格の抑制は簡単ではないだろう。環境保護政策も似たようなジレンマである。発展主義をとっている以上、中央政府の環境政策の意図が、地方のレベルになると無視されてしまうことが多い。ただし、最近、ようやく環境保護のデーターが地方長官の業績評価に導入されるようになったそうである。遅ればせながらも、とても重要な政策であり、実行して欲しいと願うばかりである。    今回の不動産価格の上昇で、直接影響を受けているのは海外にいる留学生のようにも思う。いままでの中国は、大学のような教育機関や国営会社などを含むすべての国の機構、組織の従業員に対する福利政策として、ほとんど無料に近い価格で部屋を分配するという政策を取ってきた。いわゆる「分房」政策である。いまではそのような福利政策がほとんどなくなったが、市場価格の一部を分けてもらえる政策がいまだにある。現金として一部「もらっている」人はそのお金で自分が住むための部屋を買う。または学校を含む組織・機構が立てた住宅をマーケットよりだいぶ安い値段で買うというシステムも多い。他方、むかし部屋を「分配された」人は、貯金を不動産に投資するのが普通である。特に過去20年間以上の高度成長の成果を享受できた人は、複数の部屋を持っている人が多い。住宅補助として部屋の「一部」をもらった人も、その「一部」の価値がマーケットの変化によってずいぶん変るものである。もし雇用者の組織・機構がマーケットの変化に即してこの「一部」の額を上げれば、予算がオーバーしてしまうことになる。そもそもそのようなやり方はマーケットが激変しているなかで難しい。結局、国関係の組織、機構に勤めている人々もただちに「有(複数な不動)産階層」を含む「有(不動)産階層」、と「無(不動)産階層」とに分化してしまうのである。勿論、プライベート・セクターに勤める人々は、さらに競争型による格差体制に晒されている。海外にいる留学生は、帰国後このような厳しい変化に直面しなければならない。    北京の普通の100平米の部屋(中国の都市部では標準的な広さ)は2年前だと約70万元前後(日本円で目安で約1200万円前後)で買えたそうだが、この夏では1.5倍ぐらいの百175万元(約2700万円前後)となっている。夫婦共稼ぎの中国でもとても負担できるような金額ではない。他方、前に部屋をもらった人や一部「もらった」人、とりわけ複数の部屋を持っている人は逆にこの上昇によって個人財産が大幅に増えた。これは新しい格差を生む契機となる。政府は真剣に、低収入の人々のための住宅システムの確立を考え始めたと聞いている。いわば住宅供給を二元化する、弱者保護の政策である。歓迎すべきではあるが、遅れた政策といわざるをえない。    (3)広東・香港   この夏の終わりの時間は故郷の広東省の珠江デルタ地区と香港とを行き来した。9年ぶりに母国で4週間も過ごす長い滞在となった。経済の重鎮である広東省では北京でみた加熱がなおさら強く感じられた。香港に隣接する深せん市では中心区の不動産相場が1平米2万元(約30万円前後)、高級な新築マンションはこの倍に近い。この値段は香港の中心部の6割前後だが、香港の北部より高い。香港返還の10周年前後に深せんと香港の間のチェックポイント(深せんと香港の間に出入りするための手続きをする施設)が新たに二つ増え、とても快適で便利になった。10数年前に毎週金曜日と月曜日に長く列を並んで出入国の手続きをしていた時代が遠い過去となったような気がした。この10年の深せんと香港の一体化は予想以上に速かった。    ちょうどアメリカでサブプライム住宅ローンシステムが崩れる騒ぎが起き、香港もこのようなニュースで溢れ、マーケットに多少混乱が出たようである。大陸の新聞もこのようなニュースが大きく報道されている。サブプライムの問題がさらにホットマネー流入を促し、大陸の経済過熱化を加速する可能性があるという香港の新聞の分析も見た。もちろんオリンピック後の経済衰退説も流れている。専門外の私はどれを信じればいいか分からなくなった。    しかし、確実にいえるのは、「社会主義」の母国が世界資本主義マーケットとますます一体化しているということである。また、最近の変化は、少なくとも短期間のうちにおいては留学生の帰国後の生活にマイナスな影響を与えるものだとも思った。短期間と言っているのは政府が留学生のために何らかの措置をしてくれればという楽観的な仮定においてである。   --------------------------------------- <林 少陽(りん しょうよう)☆ Lin Shaoyang> 1963年10月中国広東省生まれ。1979年9月に廈門(アモイ)大学外文系入学。1988年6月吉林大学大学院修士課程修了。1999年春留学で来日、東京大学博士課程、東大助手を経て東大教養学部特任助教授。著書に『「文」与日本的現代性』(北京:中央編訳出版社、2004年7月)及び他の日本・中国の文学・思想史関係の論文がある。 ---------------------------------------  
  • 2007.10.29

    エッセイ089:林 少陽 「夏の帰国の感想(その1)」

    (1)12年ぶりの長春   8月のある日の夕方、私を乗せた飛行機は長春空港に着陸した。学生時代の思い出が一瞬蘇った。80年代の後半、中国の南の地方の出身である私は、長春にある吉林大学で修士課程の三年間を過ごした。しかし、目の前の空港は、素晴らしく立派なもので、昔の私の記憶にあるあの空港の気配は全くなかった。迎えに来てくれた東北師範大学の友人が、昔の空港とは全く別の場所にあると教えてくれた。   高速道路を通ってだんだん長春に近づいていったが、昔の面影は微塵もなかった。近代的な夕方の都市を車が通っていった。近代化は、昔は素朴であったこの町をずいぶん変えたようだ。ここに来たのは12年ぶりのことであった。   夏休みを利用して東北師範大学歴史学院の国際会議に参加するため、ひさしぶりに長春に来たのである。二日間の会議はとても充実したものであった。事前に会議の参加者リストをもらっていなかったので、韓国から来たSGRA会員の高煕卓さん他、意外な友人との出会いもあった。東北師範大学は古くから日本研究に力を入れている大学である。普通の大学では外国語学院に日本関係の専門が設けられているが、ここでは外国語学院はもちろん、歴史学院、文学院にも日本研究があるだけでなく、日本研究所という研究機構もある。今度の会議で改めて東北師範大学の日本研究の伝統と意欲を実感した。   私がかつて学んだ吉林大学は、数年前の国の政策によって、長春にある十ぐらいの大学を合併し、いまや中国で一番学生数の多い大学となっている。しかし、合併によって大学の伝統が崩れ、学生の質も必然的にある程度落ちたため、内部では批判の声が止まらないようである。近年、中国の大学は古い管理体制から脱皮するために、いろいろな改革策を出した。合併も一つであるが、業績主義の管理体制も確立した。両方に対する批判が教員内部では大きいようである。業績は数字によって説明されるものではないという点は、特に批判側の大きな理由である。たしかその通りである。だが、個人的には業績主義を導入したことはいいことだと思う。競争力をつけることは必須であるから、誰がどのように業績を測るのかという問題を議論すべきであろう。   中国の大学では、1930~40年代にあった教授会による管理体制がなくなり、いまや学内の行政官僚体制による管理のシステムが採用されている。教員がこのシステムに入らなければ、学校の運営には全く関わることはなくなる。教員が学校運営の行政雑務をせずに済み、研究の時間が増える。しかしながら、上述のように、粗雑に業績を測定してしまうような問題も出てくるし、教員の声が学校運営に伝わりにくい。官本位社会の学校管理における反映であるが、恐らくこれも今後の改革の大きな課題の一つとなるであろう。   国際会議の後、師範大学の招待で、長春からバスで長白山に行った。バスは広くて緑の多い長春市内の通りを出て郊外の高速道路に入った。冬は零下25度になる長春であるが、夏はほんとうに快適できれいだ。空気も中国の都会の中ではいいほうだと思う。長春を出て、一回の休みを挟み、約6時間のバス旅行であった。私は眠らずに興味深く両側の風景や町の様子を見ていた。表面的とはいえ、改めて改革開放が農村にもたらした市場化や、生活の向上を私なりに確かめた。   中国と北朝鮮の境となっている長白山に到着するまで、バスの中で師範大学の学生諸君との交流ができたことも嬉しかった。中では修士に入ろうとする学生が案外多い。近年中国では修士号がなければ就職力が弱いと言われているが、甘やかされたと言われている一人子世代もとうとうこのような競争社会に直面したのである。中国では大学入試制度が回復してちょうど30年経った。当時の入学率は2パーセント足らずであったのに、今や、すでに22パーセントになった。もはや当時のエリート教育のイメージとは違う時代である。それでも、師範大学の学生はちゃんと夢を持ちながら勉強に大変熱心である、というイメージであった。   数日後長春と別れ、「D動車」という高速電車で北京に向かった。「D動車」とは、日本の新幹線に近いものと言えるのだろうが、6時間ぐらいで北京に着いた。二十数年前の学生時代には、たしか17時間かかったとうすうす覚えているが、「時間」が経つのが速いことを実感した。「D動車」は飛行機と比べて経済的であるし便利であるため、大変人気があり予約が必要であった。飛行機会社と鉄道会社はいずれも国営企業であるとはいえ、国家主導の市場化体制においては競争関係にある。 (つづく)   --------------------------------------- <林 少陽(りん しょうよう)☆ Lin Shaoyang> 1963年10月中国広東省生まれ。1979年9月に廈門(アモイ)大学外文系入学。1988年6月吉林大学大学院修士課程修了。1999年春留学で来日、東京大学博士課程、東大助手を経て東大教養学部特任助教授。著書に『「文」与日本的現代性』(北京:中央編訳出版社、2004年7月)及び他の日本・中国の文学・思想史関係の論文がある。 ---------------------------------------  
  • 2007.10.19

    エッセイ088:五十嵐 立青 「アメリカ滞在記(その2)」

    個人の主張を明確にすることが絶対的価値とされているようなアメリカ社会一般への言及は、イラク戦争に関して言えば必ずしも妥当しないものと思われた。世論調査によって差はあるが、イラク戦争への支持は現在でも30~40%程度ある。しかし、プログラム中に会った人物の中で、明確にイラク戦へのサポートを示した人はいなかった。もちろん、こちらの政治的立場がわからない中で慎重になっていた部分はあると思うが、イラク戦争を正義とする雰囲気は消えていた。滞在中いちばん聞かれたことは「イラク戦についてどう思うか」という質問と、「イラク戦争について日本人はどう思っているか」の2点であった。   前者の質問は、イラク戦をサポートする側が様子を見ながら聞いてくることが多かった。「テロ対策の重要性は疑っていないが、対テロ戦とイラク戦争との断絶性が問題であり、対テロ戦の名の下の無制限な拡大には賛成できない」と答えるようにしていたが、その点についてはイラク戦支持者にとっても大きなジレンマとして存在している感があった。その後、逆にこちらから質問をすることになるのだが、ほぼ共通した答えは、アメリカは疲れてきているとの所感であった。   興味深いのは、話す機会があった共和党関係者のうち、ローラバッカ下院議員を除いてほぼ全員が、共和党の予備選は最終的にマケイン上院議員が勝つだろうと話していたことであった。日本での報道やウェブサイトでの海外ニュースを見る限り、イラク戦を明確に支持しているマケインが残るという可能性は低いのではないか、日本ではむしろジュリアーニの人気が高い、との指摘に対しては「なるほどな」といった程度の反応であった。共和党関係者においては、イラク戦への強硬な立場が大統領選でネガティブな要素にはならないと判断されているのだろうか。このことは共和党本部で選挙対策ディレクターの話を聞いたときの感覚と一致する。選挙対策ディレクターは有権者からの電話等を受ける中で、中間選挙での共和党の敗因はイラク戦へのコミットではなく、移民政策への対応のまずさにある、と話していた。ブリーフィングには極力判断を加えないように意識していたが、これについては共和党が現場レベルにおいても大きな流れを見失っていたかのように思える。いわゆる国民の体温と呼べる部分である。   これに対して、民主党関係者に話をしていると、イラク戦について込み入った話にはならなかった。「ブッシュは論外だ」ということが議論の入り口になってしまうので、それ以上深められることがなかった。   さらに、ブッシュ大統領の演説を真似たものがラジオで流れているのを聞いたので、しばらくそのフレーズを使って相手の反応を見てみた。そのフレーズとは “We made a mistake in Iraq, We learnt quite a lot, so We’ll do better in Iran.” というものであるが、これへの態度は明確に二分された。ためらいなく笑うものは反ブッシュであり、イラク戦支持者は、困ったような苦笑いをする(さすがに怒るものはいなかったが)。   イラク戦についてのみ言及すれば、アメリカは確実にその自信を失っているように思えた。戸惑っていると表現されるべきかもしれないが、通常、理念部分においては絶対的に主張してくる彼らが、イラク戦争については言葉を選びながら話す姿は、強く印象に残っている。   米国は良くも悪くも、全世界に対して影響力を保持している。ワシントンにおける決定が世界に与える影響は極めて大きい。そのワシントンにおける決定とは、統治構造から考えれば、アメリカの持つDNAの積み重ねとも捉えることができるであろう。自立した個人としての行動によって、自分で世界を切り拓く必要性のある個人の集合体が「アメリカ」かもしれない。滞在中、民間企業・政治関係者に関わらず、自らのミッションを繰り返し表明していた。その表明には「自分がやっていることが正しいと信じているから、たとえひとりでも自分の道を歩み続ける」という確信に満ちたものがあった。このような新しいことを生み出すエネルギーが確かにアメリカ中に渦巻いていることを感じたことは、得られた人的ネットワークにも増して、訪米の最大の収穫であった。   最後に、ワシントンDC、カリフォルニアと同様に多大な刺激を受けながら本論で余り触れる機会がなかったノースカロラナイナでの訪問地の一つに触れて、この報告のまとめとしたい。近年情報産業においては、情報を独占せずに、プログラムを開かれたものにするために広く社会の力を利用する仕組みを採用する「オープンソース」による開発手法が注目されている。オープンソース推進企業として急成長を遂げているRed Hat社は、マイクロソフト等の大手による独占を明確に批判し、現在はそれら大手から脅威とされて包囲網を受けている。それでも、Red Hat社におけるブリーフィングにおいて、後退する気配は見られなかった。「社会の幸せのために自分たちは正しいことをやっている」との主張はどこまでも自信に満ち溢れたものであり、エネルギーに満ちたものであった。そのRed Hat本社の入り口に掲げられていた、滞在中最もアメリカらしさが感じられた言葉は、アメリカ国籍を持たぬインド人の言葉であった。   First, they ignore you. Then they laugh at you. Then they fight you. Then you win. ― Mohandas Gandhi ―    非暴力不服従運動のために用いられたガンディーの言葉には、力に屈することや目前の困難に敗北することを受け容れない意思が込められている。信ずる価値観に基づいて、苦難があろうとも新しい局面を開いていく覚悟こそが、アメリカ各地に溢れるダイナミズムの根源であるかもしれない。   ---------------------------------------- <五十嵐 立青(いがらし たつお)☆ Tatsuo Igarashi> つくば市議会議員。1978年生まれ。筑波大学国際総合学類を卒業後、University College Londonで公共政策修士号取得。2004年より筑波大学に戻り、国際政治経済学博士号取得。アカデミアの理念と現場のリアリティをつなぐ活動を展開中。 ----------------------------------------
  • 2007.10.16

    エッセイ087:五十嵐立青 「アメリカ滞在記(その1)」

    2007年1月29日から2月10日の2週間の日程で、財団法人日本国際交流センター、国際交流基金、米国青年政治指導者会議(American Council of Young Political Leaders:ACYPL)共催による「日米青年政治指導者交流プログラム」の第20回訪米団の一員として渡米する機会に恵まれた。ここでは、プログラム中に出会った「アメリカ」と「アメリカ人」を描写してみたい。   ①ホワイトハウス前の反戦老女と民主主義   ホワイトハウス前には、30年近く住み込んで反戦を訴えている老齢の女性がいた。日本の新聞を片手に彼女の活動が日本でも紹介されたことを訪米団に訴えていた。ロシア系アメリカ人の観光ガイドは「ここは民主主義の国アメリカだから、彼女は何十年間もホワイトハウス前の一等地で反戦の主張をすることが許される」と誇らしげに語る。米国の民主主義を説明する観光スポットとして利用されているとも捉えられる彼女は確かにアメリカ国民であるが、アメリカの積極主義に明確に反対をしていることは疑いないだろう。   ②職域の流動性   その老女が抗議を続ける眼前にそびえる白塗り建築物の内側では、米国の様々な政策決定が政治家と政策スタッフによって行われている。大統領が変わることで大統領府の主要スタッフが事務部分を除いて全て入れ替わる。ホワイトハウスの人事担当者は、共和党政権でレーガンとブッシュ(第41代)に仕え、民主党のクリントンが就任した際にホワイトハウスを離れ、ブッシュ(第43代)の就任と共に呼び戻されたと話していた。徹底したリサーチを行うことで有能な人材を確保する。ホワイトハウスの政策スタッフの背景はみな違っていたが、多くは民間会社での経験、あるいは自らビジネスを起こし成功を収めているし、人事担当官はNPOなどのより広いキャリアからも人材を求めていることを主張していた。国家の中枢をなす組織において、このような人材の流動性が示されることは、米国社会に職域への固定観念が存在しないことの象徴であり、公と私を含めた移動も容易に行われることを意味する。   ③デューク大学の公と私   公と私の垣根の低さは、大学にも見て取れる。デューク大学は、研究補助金以外は政府から一切補助金を受け取らない私立大学である。その私立大学の学是は、「ノースカロライナに優秀な人材を輩出し地域に貢献すること」であった。米国の医療従事者の育成システムは日本と違い、メディカルスクールに入るためには通常の学部卒の資格が条件となる。医学部長によれば、18、9歳の少年少女は、自分が医師になりたいかどうかなど本質においては分からないというのである。ロースクールにおいても同じ制度が採用されている。このことは逆の見方をすれば、社会的責任のある立場につく人間であるほど、未来を自らの意思と選択によって獲得する必要があり、それを社会に還元することを求められているとも言える。社会的責任とは既に公共との接点であるが、その責任を果たすためには自己を確立していることが絶対条件となるのであろう。   ④移民としてのキシモト=ヨリコ市長のアイデンティティ   それでは、自分を確立するとはどういうことであろうか。日本で生まれて、幼少の頃米国に移住したパロ・アルト市のキシモト市長は、初の「日本で生まれた」米国自治体の市長である。パロ・アルト市では市議の互選で市長が選ばれるが、市議選の投票のうち7割近くの得票を得たキシモト氏が市長になるのは必然であった。選挙戦略としてキシモト市長の周囲からは「米国名を持つ夫の苗字を使うべき」と言われたが、本人は自分の日本人の名前を使い続けることにこだわったとのことだった。日本人が決して多くない街で、それは有利になることではなかったのであろうか。日本名を通じて有権者に伝わったものはその意思であったのか、あるいは有権者は名前よりも政策によって投票したのか、それを知る由はないが、一つ確実なのは、有権者はキシモト=ヨリコという一人の「アメリカ人」の存在を受け入れたことである。キシモト市長と話をしている間、自分が誰を代表しているのか、自分は誰なのか、というアイデンティティは、常に明確なメッセージとして伝わり続けた。   ⑤ACYPL卒業生の使命と帰属意識   アイデンティティという意味では、滞在中各地でプログラムの日程調整を行ってくれたACYPLのコーディネータの経歴は様々であったが、自分が何者であるか、という点を明確に主張することは同様であった。現在の仕事への使命感は持っていても、それが所属する組織への忠誠心とは直結するものではなく、組織は自分を守ってくれる存在ともならない。どのような積み重ねを行ってきて今の自分があるか、について謙虚さを示しながらも話をすることにためらいを持たない。とりわけ、自分のキャリアで特化してきた部分、あるいは自分の専門分野については、通常の会話においても強調されることが多かった。専門性とは、人種的バックグラウンドと同様程度までに、あるいはそれ以上にアイデンティティを形成しているように感じられた。   ⑥個人の専門性と組織としての効率   専門性は、行政の現場においても大きな意味を持っていた。サンフランシスコ市では、日本を良く知る市長室国際貿易・通商担当ディレクターが対応し、米国の行政制度が日本といかに違うかという視点から説明してくれた。米国ではシティ・マネジャー制度を採る市、市長・議会制を採る市など多様である。その中で共通しているのは、行政官の持つ専門性である。彼自身が国際貿易を担当し続けて市長室のディレクターとして4代の市長に仕えているとこのことであったが、米国では日本のように定期的な部署の異動はない、と強調していた。都市計画関係の企業で働いていた人間が市役所で働くことになって財政部にまわることはない。工学を学んで来た学生が採用されて、法務部に行くこともない。2年、3年で部署が異動することは米国の感覚で言えば極めて非効率的・非合理的なことである。このような仕組みに、専門性を持つ人間が一人前の市民としての評価を受け、上昇していく社会構造の一部が見て取れる。   ⑦市民となり得ない個人   その一方で、個人主義・自己責任の枠から漏れた人々にとっては、厳しい社会であることも事実である。ノースカロラナイでのコミュニティクリニックに関する説明で話されたように「DVの彼(夫ではない)を持つ薬物中毒でエイズのシングルマザーの子ども」が病気にかかっても、母親にとってその子の治療の優先順位は極めて低く、社会から断絶された状況が続く。そのような境遇に置かれている個人にとっては、スタートラインに立つことも困難である。   結果として競争のチャンスも与えられず、社会から阻害されている人々や、移民として米国に来ながらも適応できない人々がどのような困窮の立場にあるか、と言う話は各州・各自治体で聞いた。日本で格差社会と言えば、労働者の賃金格差から来る家計の圧迫の議論が中心であり、明日の生活のあてがないホームレスや生活保護世帯が中心とはならない。米国には、比較にならない格差が存在している。訪米団として接したメンバーは、その上流にいたことは間違いなく、いわゆる市民社会を形成している側であった。「市民」の言葉に包摂された階層が都市部の合理的な判断可能な裕福層であった19世紀半ばのヨーロッパにおけるように、その「市民」(定義の仕方によっては、現在の米国のほうがより狭い定義になる可能性もある)の枠から外れれば、やはり境遇は当時のヨーロッパと相違ないかもしれない。    ⑧市民となり得ない個人を救う市民   そのような人々を救う活動もある。デューク大学の医学部においては、貧困層の初期治療をボランティアで積極的に行っている。当然弱者を守るという理念があるが、安易な理想論のみが存在しているのではない。現実に、早い段階で地域クリニックにおいて医療サービスを適切に提供することで、救急患者を拒否できず忙殺される大学病院に時間を生み出し、本来果たすべき高度医療を維持する。そのような役割分担を目指した活動が行われている。弱者を守るという医療従事者としての心構えがあり、それが同時に大学病院にも地域にも貢献することになる仕組みがある。 (つづく) -------------------------------------------------------------------- <五十嵐 立青(いがらし たつお)☆ Tatsuo Igarashi> つくば市議会議員。1978年生まれ。筑波大学国際総合学類を卒業後、University College Londonで公共政策修士号取得。2004年より筑波大学に戻り、国際政治経済学博士号取得。アカデミアの理念と現場のリアリティをつなぐ活動を展開中。 --------------------------------------------------------------------
  • 2007.10.12

    エッセイ086:ボルジギン・フスレ「日本語を通してみた日本文化(その2)」

    日本に来る前、わたしは、日本語は、外来語が多くて、覚えやすいと思っていた。また、あるスピーチで、外来語の大量輸入、ローマ字まで容易に日本語に取り入れていることと、外来語でもない、新語(和語)の出現は、日本人の進取の精神と、現代社会における日本人の新しい生活感情、価値観をあらわしていると述べた。しかし、日本に来て、外来語は想像したより遥かに多いことにびっくりした。これほど増え続けている外来語、新語は、わたしのような愚かなものにとっては、覚えるのが追いつかないのだ。   日本に来た1998年には、「だっちゅーの」ということばが、日本中を席巻し、当該年度の流行語大賞に選ばれた。当時、わたしは同じゼミの日本人の大学院生に「だっちゅーの」の意味を聞いたのだが、みんな「わからない」と答えた。大学の教授に聞いても、答えは同じだった。辞書を調べてみると、この語についての説明は見当たらなかった。やっとバイト先で答える人があらわれた。20代のTさんは「“だっちゅーの”は、“そうですよ”の意味です」と説明してくれたが、50代のGさんは「違う、違う、“だっちゅーの”は“いいですよ”の意味だ」と異なる意見を言い出し、二人が言い争った。いずれもそれほど説得力がなかったが、聞いていて面白かった。そし て、翌1999年に入ってまもなく、「だっちゅーの」ということばは、世のなかから、静かに消えてしまった。   流行語の意味もわからず、流行して、またすぐ世のなかから消えるのに、「流行語大賞」に選ばれるなんて、理解できなかった。そんなある日、バイト先で、みんなが仕事を終えようとしたとき、厳しい上司がやってきて、ある仕事に手がつけられていないことに気づいて、「なんでそれをまだやっていないのだ」とたいへん怒った。職場は一瞬静まり、緊張した雰囲気になった。その時、あるおばさんがひとしきりギャグを飛ばし、両腕で胸をはさんで、ポーズしながら、「だっちゅーの」と言ったので、みんな大笑いした。上司も笑って、やさしい声で「速くやろう」と言いながら、先頭にたって仕事を始めた。このことばがなかったら、上司に叱られるところだったが、 おばさんの「だっちゅーの」の一言が、心を和ませてくれ、みんな楽しく働いて、時間通りに仕事を終えることができた。人々が「だっちゅーの」ということばを忘れかけようとしていたところ、おばさんが上手にこのことばを使った。「馬鹿、馬鹿」などと汚いことばを連発する日本のテレビの司会者やタレントに欠けているのは、まさにこのような機知とユーモアだろう。   その後の、毎年の「流行語、新語大賞」に選ばれたことばは、それぞれ特徴があるのだが、わたしにとってもっとも印象に残ったのは、2005年の「想定外(内)」ということばだった。2006年には「美しい日本」ということばが、入賞だと思ったが、叶わなかった。ふさわしくないのか、恥ずかしいのか、あるいは別の原因なのかわからないが、わたしは伝統的な日本語の美しさを求めたいのだ。日本人はずっと季節感に敏感で、自然を愛することを誇ってきた。豊かな自然の姿を表現する季語がたくさんある。日本語の美しさはただ古典的な俳句や和歌、諺のなかにだけとどめておくべきではなく、新しい形式で、現代日本語にあらわれるべきだとわたしは思っている。   随意に流行語を忘れてしまうことと、柔軟に外来語を受け入れることは、日本人の「新しいものを好み、古いものを嫌う」という面を反映しているのかどうかはっきりは言えないが、「鋭意進取」と「古い考え方にこだわる」という特徴が同時に日本の社会に存在していることは事実だ。しかしながら、外来語や外国人を積極的に受け入れているとしても、国際化を一層進めていくためには、異なる価値観を受け入れる包容力のある社会をめざさなければいけないのではないかと思う。   最後にここで、わたしが日本に来たとき、大先輩のSさんのわたしへのアドバイスをとりあげたい。すでに日本に帰化しているSさんは当時まだ大学院生だった。彼女は、日本の政治家、活動家、投資家とも仲がよく、留学生のなかでの有名人だと言われていた。「日本でうまく、生き残りたいなら、ふたつの秘訣を覚えてください」と、当初、Sさんはわたしに意味深長に言った。「一番目は相手を誉めること。自分の友達であり、ライバルであっても、まず誉めなさい。人を誉めるのはお金がかからない。相手がどんなに小人であれ、馬鹿であれ、自分にとってどんなに敵であれ、嫌いであれ、気にせず、美しいことばを惜しまず、相手を誉めてください」。   この話を聞いて、わたしはびっくりした。「常に“嘘をつく”という意味ですか?」と聞いたら、「そんな露骨に言わないで。とにかく相手を誉めることは大事なんです」とSさんは笑いながら、続けてつぎのように2番目の秘訣を語った。   「第二に、日本に来て、頑張らなければならないけど、どんなことをしても、日本人と競争しないことを覚えてください。一位は日本人に任せて、自分はいくら頑張っても、せいぜい二位まで頑張ってください。二位だったら、あなたは魚が水を得たように、順風満帆になります。しかし、一旦、一位になると、きっと追い詰められ、集まって攻撃され、寸歩も進みがたく、窮地に陥ることになるでしょう」。 「しかし、日本は競争社会であって、頑張らないと淘汰されてしまいませんか」とわたしが聞くと、 「頑張らないということではなく、頑張るのはもちろん頑張るんですよ。でも、一位になったら、生き残ることができない。二位だったら、みんながあなたを助けてくれるでしょう。だから、すべての人を超えて、一位になることは絶対にさけなさい」とSさんはたいへんまじめに言った。   わたしの性格が短気で、何をしても腕を鳴らし、勝ち誇るという性格を知っているから、Sさんにそのように言われたのかもしれないと思ったが、とくに気にしなかった。しかし、日本で生活して10年経って、Sさんの苦言は道理のある優れたことばだということがわかった。   たしかに、日本では、心ならずも相手を誉めるのが普通のことだ。例えば、買い物する際、お客さんが商品にいくらうるさくても、店員がいつも微笑んで対応しなければならない。顔が笑っていても、心は笑っていない。知り合いや、近所の人々と会うと、なんだかかんだか、些細なことでも誉められる。また、「君、頭がいいね」と言われた際、誉められたというより、皮肉を言われたと感じることが多いように思う。   Sさんが言った2点目はことばと関係がなさそうだが、実際、日本では、「一番になりたい」と言う人が極めて少ない。一位になっても「自分は一番」と言ってはいけない。そう言ったら、高慢に見られるし、さらに嫌がられてしまうのだ。例えば、相撲で連勝した日本人の力士がアナウンサーにインタビューを受けて、「目の前に優勝も見えてきたが、優勝するという気持ちは?」と聞かれた際、「そんなことは考えたことがない」と謙遜して答えるのが普通である。しかし、それは大嘘であることは明らかだろう。力士として、誰でも優勝したいし、優勝を目指すのは当然なことではないか。優勝を目指さない者は優秀な力士にはなれない。しかし、日本では、謙遜して答えるのが、品格があるようにみえる。   「日本の文化を理解してくれ」と言う日本人は少なくない。確かに、日本の文化は学ぶところが多いが、わたしにとっては、「相手は小人であっても誉める」「心ならずも人を誉める」のは、どうしても受け入れがたいことである。   ------------------------------- <ボルジギン・フスレ☆BORJIGIN Husel> 博士(学術)、昭和女子大学非常勤講師。1989年北京大学哲学部哲学科卒業。内モンゴル芸術大学講師をへて、1998年来日。2006年東京外国語大学大学院地域文化研究科博士後期課程修了、博士号取得。「内モンゴル自治運動における内モンゴル人民革命青年同盟の役割(1945~48年)」など論文多数発表。 -------------------------------  
  • 2007.10.10

    エッセイ085:ボルジギン・フスレ「日本語を通してみた日本文化(その1)」

    このテーマを書いて、自分も笑った。テーマが大きいだけではなく、わたしの専攻は言語学ではないので、日本語もそれほどうまくない。「釈迦に説法」と知っていながら、わたしはあえてこれをテーマにする。素人だから、笑われてもかまわない。   日本に来る前、専門家たちによって書かれた日本の文化についての本を読んだとき、「日本人は曖昧な民族で、日本文化は曖昧な文化だ」ということばをよく目にした。しかし、どこが曖昧なのかがよくわからなかった。日本に来て、本格的に日本人と付き合い始めてから、だんだん「日本文化の曖昧な」ところがわかるようになった。それは、最初、日本人とコミュニケーションをとるときに使う言葉自体を通して、強く感じたのである。   来日当初、わたしは池袋のある会社でアルバイトをした。会社は職員に朝食を無料で提供することがわかっていたので、わたしは一日目、何も食べずに出勤した。食堂で、みんなに挨拶した際、「フスレさん、朝食はどうですか」とわたしのパートナー、60代のYさんに聞かれた。「はい。いいです」とわたしは答えた。着替えてから食堂にもどって、朝食を食べようとテーブルの前に座ったら、Yさんはテーブルの上のパンや玉子などをすべて片付けてしまっていた。おかしいな、パンを食べたいのに、どうして片付けてしまったのだろうか、もしかして自分は着替えで時間かかりすぎたのかと不思議に思った。しかし、時計をみると、働く時間までまだ15分ぐらいの余裕があった。結局、朝食をとらず、空腹のままで働いて、昼休みまで我慢した。それ以降、わたしは、いつも家で食事をしてから出勤するようになった。   のちに、わたしはここでの「いいです」は「否定」の意味だということに気づいた。日本に来る前、わたしは「いいです」ということばを習ったことがあるのだが、「先に食べてもいいですか」「いいです。どうぞ」のような使い方だった。すなわち、「認め、許可、よい」として理解していた。「いいです」は「否定」「いらない」という意味もあるとは思いもよらなかった。日本人は、子供のときから慣用として固定してしまった言い方だから、「不思議」と思わないが、はじめて日本に来たわたしには、曖昧で、理解しがたかった。簡単なことばだが、使う場面により、意味がまったく異なる。   同じような例は、日本語の挨拶のなかにも存在する。家の近くに住んでいるおばあさんとあう時、彼女はいつも常套句の「ごめんください」という挨拶から、話が始まるのである。しかし、話し終えて別れる際、彼女もいつも「ごめんください」と言う。これは矛盾じゃないかと思って、辞書を調べてみたら、「ごめんください」は、訪問、辞去、断り、あやまるときなどの表現だ。   日本語を使えば使うほど、その奥深さがわかる。だから、「日本語は曖昧ではなく、あまりにも明晰すぎる」と主張する人もいるのだ。実は、よく考えると、どこの国の文化にも矛盾の面がある。日本の文化を理解するには、日本語が上達する必要があるのだ。日本での生活に慣れるにしたがって、日本人は話をするとき、言葉遣いには慎重で、婉曲な表現を使うのが好きであり、ことばには含蓄があるということがわかった。これは、日本人からすれば、美徳とも言えるのだが、外国人には、それは曖昧で、複雑すぎると思われる。   冒頭のバイトの話に戻ろう。その会社で働き始めたら、さらにさまざまなトラブルがおきた。はじめて、ある機械を操作した際、Yさんが、わたしに「グリーンしてください」という指示をだした。「グリーン」ということばを聴いて、ちょっと戸惑ったが、すぐ「グリーン」は緑色を指しているとわかった。しかし、機械のスイッチを見たら、赤、青、白色のスイッチしかなかった。「緑色のスイッチはどこにあるんですか?」とわたしが尋ねると、「真中、真中のスイッチが見えないの?」とYさんは声を荒らげた。「真中のスイッチは青色だよ」と、色盲ではないわたしは確信して言った。「そう、それだよ。それを押して」とYさんがやってきて、自らその青色のスイッチを押した。青色なのに、なぜ「ブルー」ではなく、「グリーン」というのかが、わからなかった。逆に、日常生活で、緑色の信号なのに、日本人はみんな「グリーン信号」と言わず、「青信号」と言う。わけがわからない。   色に関する表現と言うと、たくさんの事を思い出す。約7年前、わたしが別の会社で働いていた時、その会社は内モンゴル製のカシミヤ製品を日本に輸入することをきめた。サンプルを取り寄せたとき、社員たちが教えてくれた色の中には、オフホワイト、シアン、ラベンダーのほか、水色、狐色、ネズミ色などもあった。水色は「薄い青色」なのか、「薄い緑色」なのか、あるいは「白でもない、青でもない、透明な色」なのかがわからなかったため、ある社員に聞いた。その社員は「空を想像すれば、わかる」と答えた。知恵に満ちた答えだが、日本では「澄み切った青空」とよく言うので、その色はやはり水の色と違うのではないかと思ったわたしは、さらにネズミ色はどんな色なのかとその社員に聞いた。彼の説明によると、ネズミ色はどうやら「灰色っぽい色」だった。「しかし、うちの故郷のネズミは灰色のものもいれば、淡い褐色や普通の褐色のものも少なくない」とわたしが言うと、「君のふるさとのネズミは特別だ。国際的には、ネズミの色は灰色だ」と教えてくれた。   「なるほど、よく勉強になった」とわたしは「納得」しながら、「日本ではゴキブリが多いから、“ゴキブリ色”はないですか」と聞いた。その社員が「“ゴキブリ色”って、気持ち悪いじゃない。そんな日本語はないよ」と答えた。しかし、わたしが「ネズミ色」ということばを聞いても、「気持ちが悪い」と感じるのだ。   とは言え、仕事は仕事だ。わたしは一生懸命、辞書やインターネットなどを利用して、何とか彼らが作成した文書を翻訳した。ところが、内モンゴルのカシミヤ会社の担当は、わたしが送った文書の中の色についての説明をみて、なかなかわからなかった。幸い、相手はすぐ、カシミヤで作った、実物の色見本を送ってきた。そこには、百数十種類の色見本があって、それぞれ番号がついていて、発注するのに極めて便利だった。   のちに、仕事になれるにつれて、わたしは日本語では、色に関する表現は非常に微妙であり、可能な限り、自然のものの色で、色を表示する習慣があるのがわかった。例のネズミ色には、実際、「梅鼠(うめねずみ)色」「茶鼠(ちゃねずみ)色」「藍鼠(あいねずみ)色」「錆鼠(さびねずみ)色」「利休鼠(りきゅうねずみ)色」などがあって、それぞれの色の微妙な差を区別している。「ネズミ色」より、「梅鼠色」などのほうが、わかりやすいのだ。色をここまで細かく分類しているけれど、今の人々は、どれほどそれぞれを区別できるのか、わたしは疑っている。   ここで述べたことは皮相なものにすぎないとわかるのだが、ある意味では、皮相なものこそ本質をあらわしているのではないかとわたしは思っている。(つづく)   ------------------------------- <ボルジギン・フスレ(BORJIGIN Husel)> 博士(学術)、昭和女子大学非常勤講師。1989年北京大学哲学部哲学科卒業。内モンゴル芸術大学講師をへて、1998年来日。2006年東京外国語大学大学院地域文化研究科博士後期課程修了、博士号取得。「内モンゴル自治運動における内モンゴル人民革命青年同盟の役割(1945~48年)」など論文多数発表。 -------------------------------