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エッセイ086:ボルジギン・フスレ「日本語を通してみた日本文化(その2)」

日本に来る前、わたしは、日本語は、外来語が多くて、覚えやすいと思っていた。また、あるスピーチで、外来語の大量輸入、ローマ字まで容易に日本語に取り入れていることと、外来語でもない、新語(和語)の出現は、日本人の進取の精神と、現代社会における日本人の新しい生活感情、価値観をあらわしていると述べた。しかし、日本に来て、外来語は想像したより遥かに多いことにびっくりした。これほど増え続けている外来語、新語は、わたしのような愚かなものにとっては、覚えるのが追いつかないのだ。

 

日本に来た1998年には、「だっちゅーの」ということばが、日本中を席巻し、当該年度の流行語大賞に選ばれた。当時、わたしは同じゼミの日本人の大学院生に「だっちゅーの」の意味を聞いたのだが、みんな「わからない」と答えた。大学の教授に聞いても、答えは同じだった。辞書を調べてみると、この語についての説明は見当たらなかった。やっとバイト先で答える人があらわれた。20代のTさんは「“だっちゅーの”は、“そうですよ”の意味です」と説明してくれたが、50代のGさんは「違う、違う、“だっちゅーの”は“いいですよ”の意味だ」と異なる意見を言い出し、二人が言い争った。いずれもそれほど説得力がなかったが、聞いていて面白かった。そし
て、翌1999年に入ってまもなく、「だっちゅーの」ということばは、世のなかから、静かに消えてしまった。

 

流行語の意味もわからず、流行して、またすぐ世のなかから消えるのに、「流行語大賞」に選ばれるなんて、理解できなかった。そんなある日、バイト先で、みんなが仕事を終えようとしたとき、厳しい上司がやってきて、ある仕事に手がつけられていないことに気づいて、「なんでそれをまだやっていないのだ」とたいへん怒った。職場は一瞬静まり、緊張した雰囲気になった。その時、あるおばさんがひとしきりギャグを飛ばし、両腕で胸をはさんで、ポーズしながら、「だっちゅーの」と言ったので、みんな大笑いした。上司も笑って、やさしい声で「速くやろう」と言いながら、先頭にたって仕事を始めた。このことばがなかったら、上司に叱られるところだったが、
おばさんの「だっちゅーの」の一言が、心を和ませてくれ、みんな楽しく働いて、時間通りに仕事を終えることができた。人々が「だっちゅーの」ということばを忘れかけようとしていたところ、おばさんが上手にこのことばを使った。「馬鹿、馬鹿」などと汚いことばを連発する日本のテレビの司会者やタレントに欠けているのは、まさにこのような機知とユーモアだろう。

 

その後の、毎年の「流行語、新語大賞」に選ばれたことばは、それぞれ特徴があるのだが、わたしにとってもっとも印象に残ったのは、2005年の「想定外(内)」ということばだった。2006年には「美しい日本」ということばが、入賞だと思ったが、叶わなかった。ふさわしくないのか、恥ずかしいのか、あるいは別の原因なのかわからないが、わたしは伝統的な日本語の美しさを求めたいのだ。日本人はずっと季節感に敏感で、自然を愛することを誇ってきた。豊かな自然の姿を表現する季語がたくさんある。日本語の美しさはただ古典的な俳句や和歌、諺のなかにだけとどめておくべきではなく、新しい形式で、現代日本語にあらわれるべきだとわたしは思っている。

 

随意に流行語を忘れてしまうことと、柔軟に外来語を受け入れることは、日本人の「新しいものを好み、古いものを嫌う」という面を反映しているのかどうかはっきりは言えないが、「鋭意進取」と「古い考え方にこだわる」という特徴が同時に日本の社会に存在していることは事実だ。しかしながら、外来語や外国人を積極的に受け入れているとしても、国際化を一層進めていくためには、異なる価値観を受け入れる包容力のある社会をめざさなければいけないのではないかと思う。

 

最後にここで、わたしが日本に来たとき、大先輩のSさんのわたしへのアドバイスをとりあげたい。すでに日本に帰化しているSさんは当時まだ大学院生だった。彼女は、日本の政治家、活動家、投資家とも仲がよく、留学生のなかでの有名人だと言われていた。「日本でうまく、生き残りたいなら、ふたつの秘訣を覚えてください」と、当初、Sさんはわたしに意味深長に言った。「一番目は相手を誉めること。自分の友達であり、ライバルであっても、まず誉めなさい。人を誉めるのはお金がかからない。相手がどんなに小人であれ、馬鹿であれ、自分にとってどんなに敵であれ、嫌いであれ、気にせず、美しいことばを惜しまず、相手を誉めてください」。

 

この話を聞いて、わたしはびっくりした。「常に“嘘をつく”という意味ですか?」と聞いたら、「そんな露骨に言わないで。とにかく相手を誉めることは大事なんです」とSさんは笑いながら、続けてつぎのように2番目の秘訣を語った。

 

「第二に、日本に来て、頑張らなければならないけど、どんなことをしても、日本人と競争しないことを覚えてください。一位は日本人に任せて、自分はいくら頑張っても、せいぜい二位まで頑張ってください。二位だったら、あなたは魚が水を得たように、順風満帆になります。しかし、一旦、一位になると、きっと追い詰められ、集まって攻撃され、寸歩も進みがたく、窮地に陥ることになるでしょう」。
「しかし、日本は競争社会であって、頑張らないと淘汰されてしまいませんか」とわたしが聞くと、
「頑張らないということではなく、頑張るのはもちろん頑張るんですよ。でも、一位になったら、生き残ることができない。二位だったら、みんながあなたを助けてくれるでしょう。だから、すべての人を超えて、一位になることは絶対にさけなさい」とSさんはたいへんまじめに言った。

 

わたしの性格が短気で、何をしても腕を鳴らし、勝ち誇るという性格を知っているから、Sさんにそのように言われたのかもしれないと思ったが、とくに気にしなかった。しかし、日本で生活して10年経って、Sさんの苦言は道理のある優れたことばだということがわかった。

 

たしかに、日本では、心ならずも相手を誉めるのが普通のことだ。例えば、買い物する際、お客さんが商品にいくらうるさくても、店員がいつも微笑んで対応しなければならない。顔が笑っていても、心は笑っていない。知り合いや、近所の人々と会うと、なんだかかんだか、些細なことでも誉められる。また、「君、頭がいいね」と言われた際、誉められたというより、皮肉を言われたと感じることが多いように思う。

 

Sさんが言った2点目はことばと関係がなさそうだが、実際、日本では、「一番になりたい」と言う人が極めて少ない。一位になっても「自分は一番」と言ってはいけない。そう言ったら、高慢に見られるし、さらに嫌がられてしまうのだ。例えば、相撲で連勝した日本人の力士がアナウンサーにインタビューを受けて、「目の前に優勝も見えてきたが、優勝するという気持ちは?」と聞かれた際、「そんなことは考えたことがない」と謙遜して答えるのが普通である。しかし、それは大嘘であることは明らかだろう。力士として、誰でも優勝したいし、優勝を目指すのは当然なことではないか。優勝を目指さない者は優秀な力士にはなれない。しかし、日本では、謙遜して答えるのが、品格があるようにみえる。

 

「日本の文化を理解してくれ」と言う日本人は少なくない。確かに、日本の文化は学ぶところが多いが、わたしにとっては、「相手は小人であっても誉める」「心ならずも人を誉める」のは、どうしても受け入れがたいことである。

 

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<ボルジギン・フスレ☆BORJIGIN Husel>
博士(学術)、昭和女子大学非常勤講師。1989年北京大学哲学部哲学科卒業。内モンゴル芸術大学講師をへて、1998年来日。2006年東京外国語大学大学院地域文化研究科博士後期課程修了、博士号取得。「内モンゴル自治運動における内モンゴル人民革命青年同盟の役割(1945~48年)」など論文多数発表。
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