SGRAエッセイ

  • 2007.01.23

    エッセイ032:金 香海 「日中韓三国の旅」

    2006年11月2日から15日まで、私は国際シンポジュウムに参加するため、中日韓三国を回るハードなスケジュールに挑戦した。まずは延吉から瀋陽に出て空港付近で一晩泊まってから、翌日10時に瀋陽空港を飛び発って2時間後に仁川空港に到着した。そこでしばらく休んで大阪に入ったのは夜の10時であった。一日で三国を回れるのであるから、三国は本当に近いと実感した。   大阪産業大学アジア共同体研究センターが主催した会議では、「北東アジアの経済連携強化の道を探る」というテーマで、日本を始め、中国、韓国及びロシアから来た学者たちが熱い議論を交わし、「北東アジアにおける国際協力は可能である」という結論を出した。上記のテーマは文部科学省の平成17年度私立大学学術研究高度化推進事業の「オープンリサーチセンター整備事業」に選定されたもので、今後5年間行われる計画である。私は「中国の対北朝鮮援助開発の現状と課題」について報告した。   5日の朝には「第6回日韓アジア未来フォーラム:親日*反日*克日」に参加するため、久しぶりに新幹線に乗って横浜に向かった。懐かしさと快適さで胸一杯であった。会議の会場であった鹿島建設葉山研修センターに着くと、今西常務理事を始めとする会議の関係者達が熱く出迎えてくださり、昼食の後には歴史を踏まえた日韓関係について議論した。宴会の後には酒を飲みながら面白い話、歌を交えながら葉山の美しい夜をすごした。先輩の李鋼哲さんが場を取り仕切って、故郷の「三鞭酒」を振舞い、飲み会は最高潮に盛り上がった。私はいつもお酒に自信を持っていたが、ここ葉山にきてはじめで自分の酒量が未熟であることを知った。   葉山で楽しい夜をすごして6日の朝、恩師に会うため上京した。東京は本当に懐かしかった。それはそうだ。ここで8年間、博士号を取るために家族と一緒に奮闘した。振り返って見れば、ここが私に名譽、地位、豊かさ、及び力を与えてくれたのである。東京では靖国神社と神保町の内山書店の二箇所を回った。靖国神社に行ったのはもちろん参拝のためではなく、今私が関わっている「北東アジアにおける歴史共通認識」プロジェクトの一環としての現地調査だった。就遊館を見学しながら、私は、歴史認識において日中はこんなに大きなギャップがあることを改めて確認し、これを克服するのはどんなに難しいだろうかと感じた。留学生時代にはお金がなくて、よく神保町にいって古本を買っていたが、今回は違う。私の博士論文がやっと本になったので、中国の大文豪魯迅と深い関わりがあり、中国図書専門販売店である内山書店に頼んで販売してもらうためであった。やっと8年間の努力の結実が日本の書店の本棚に並ぶことになって本当に嬉しかった。   東京の旅は余りにも短く、昔のいろいろな思い出を味わう暇もなく、羽田空港を発って韓国の金浦空港に向かった。先輩の南基正さんの招請により、済州島で開催された韓国国民大学主催の「外交文書公開による日韓会談の再照明」のシンポジュウムに討論者として参加させてもらった。ここでもやはり歴史問題がテーマであったが、私はこの分野における専門家ではないので、この会議に参加できたのは南さんの手厚い配慮であった。会議が終わったのは夜9時、葉山と同じ「爆弾酒」の爆撃を浴びながら、豪華なリゾートホテルのバルコニーにおいて、岸辺の岩にぶつかる波の音を聞きながら、日中韓のことについて議論した。   朝鮮半島は北の長白山(韓国名は白頭山)から済州島まで三千里江山といわれ、寒帯から熱帯の気候に恵まれている。だが、故国のこんな綺麗な南国風景を初めて目にして、私はすっかり感心し、「旅愁」に胸が痛かった。済州島には女、石、風が多いと言われ、有名な蜜柑の産地でもある。昔から粛清された官吏達がここに追放され、思想の蓄積も厚く、今になってもソウルの植民地だと言われるほど本土への抵抗と疎外意識が強い。仁川空港から延吉に向かう飛行機の窓から北東アジアの海と大陸を見下ろしながら、私はどうやってこの地域において「共生空間」を作れるかということを、ずーと考えた。・・・もしかしたら歴史を乗り越えた上で、お酒と疎外地域のイニシアチブで作れるかも知れない。心の壁をなくし、尊重し合うことが共同体構築の土台になるだろう。   ------------------------------------------- 金香海 (きん・こうかい ☆ Jin Xianghai)   中国東北師範大学学部、大学院を卒業後、延辺大学政治学部専任講師に赴任、1995年来日。上智大学国際問題研究所の研究員を経て、1996年に中央大学大学院法学研究科に入学、2002年に政治学博士号を取得。現在は延辺大学人文社会学院政治学専攻助教授、同東北亜国際政治研究所所長。2005.9-06.8ソウル大学国際問題研究所客員研究員。専攻は国際政治学。北東アジア共同体―平和手段よる紛争の転換について研究中。
  • 2007.01.22

    エッセイ031:オリガ・ホメンコ 「おばあちゃんたち:目に見えない優しさ」

    先日、新しい日本映画を見た。戦後おばあちゃん一人で孫を育てた話だった。戦後の生活は大変で、食べるものもあまりなかったが、おばあちゃんはがんばって漬物とご飯で毎日お弁当を作ってくれた。ある日、それを見た学校の先生が、「おなかが痛いから、漬物がほしい」と言って、自分のお弁当と交換してくれた。男の子は海老が入っている豪華なお弁当を今までに食べたことがなかったので、すごく喜んだ。先生は本当におなかが痛いから、お弁当を交換してくれたと思っていた。この時、おばあちゃんは一番の優しさを与えていたのに、孫は気づかなかった。おばあちゃんの優しさや愛情は、時間がたってから分かる。大きくなるにつれて。   私も自分のおばあちゃんたちを思い出した。パパの方のマリアおばあちゃんは一緒に暮らしていたけど、昔話は読んでくれなかった。それはママの仕事だったから。でも、マリアおばあちゃんは私の遊び相手だった。一緒におばあちゃんの友達のところに行って、散歩したり遊んだりした。おかげで、小さい頃、私もちょっとおばあちゃんぽかった。彼女は日本人女性のように小柄で、155センチしかなかった。優しい目をしていて、生活にとても馴染んでいて、何でもできる人だった。   おじいさんはテイラーだったので、小柄な彼女にきれいなドレスやジャケットを作ってくれた。そこまで愛されている奥さんは、私の回りには他にいなかったと思う。だが戦争が始まった。おじいさんは軍隊の制服を作る仕事も始めたので戦争に行かなくても良かったのだが、亡国への「愛」をその形では表明できないと考えた。彼は入隊を決めた。戦争は1941年6月に始まったが、おじいさんは、7月にキエフの近くの小さい町の近辺の戦いで殺された。当然ながら、彼ははさみ以外のものを手にしたことは殆どなかったのだから、戦争が始まって一ヶ月間では、銃を撃つ訓練を受ける時間もなかったかもしれない。その時のおじいさんより年上になってしまった私だが、今でもおじいさんのことを考えると涙が出る。彼は無名兵士の墓に眠っている。   数ヶ月前、今までに見たことがなかった彼らの家族の写真を見つけた。その写真の日付がその時代を語る。1941年5月20日。戦争が始まるまで、たった一ヶ月しか残されていない。そしておばあちゃんには、幸せで良く笑う小柄な奥さんから、しっかり二人の子供を育てなければならない未亡人になるまで、二ヶ月しか残されていない。7歳のパパの視線は深くて寂しいものである。まさか、二ヵ月後に7歳のパパは家族で唯一の「男」になるとは思っていなかったでしょう。年を重ねてもパパの視線は変わらなかった。私の日本の先生が彼の写真を初めて見た時に「いろんなことを考えた人みたいですね」とおっしゃった。その通りです。生まれつきか、それとも時代や状況でそうするしかなかったか分からない。でも色々考える人でした。ちなみに私もそう。家族の特徴かもしれない(笑)。   もう一人の、ママの方のパーシャおばあちゃんは、田舎の小さな村に住んでいた。ズボンを一度もはいたことがない人で、背が高くて、茶色の目で、長い黒髪の美人だった。でもやっぱり戦争によって家族が破壊された。頑固だけど優しいおばあちゃん。町から遊びに来る私の姿を、おばあちゃんの友達が見て「あら、パーシャさん!あなたの孫はこんなに細くて、顔が真っ白で、病気みたいじゃないか。都会に住む子供たちは、外で遊ばないし、おいしいものを食べないから、皆病気に見えるんだ」と大きな声で叫んでいた。当時、子供だった私たちは、別にやせようと思ってやせていたわけではない。ただおっしゃるとおりで、田舎の子と比べたら外で遊ぶ時間が少なかったかもしれない。田舎の子は皆ぽっちゃりしていた。   パーシャおばあちゃんは私を友達の厳しい意見から守って、「この子は、普通の子供ですよ。他の子供と同じ。いじめないでください。大きくなったらきれいになるから、その時には言い返されるよ!」と反論してくれた。そして、一所懸命、しぼりたての牛乳を私に飲ませた。だがパッケージされた牛乳に慣れた都会っ子のおなかは、その牛乳を飲んで革命を起こした。変な音を出したり、痛かったり、反発していた。「パッケージの牛乳の方がいいよ」と言いたかったわけです。   パーシャおばあちゃんはシンプルなものが好きだった。その生き方は、今なら「simple and slow life」と呼ばれるでしょう。手の込んだ料理を試した時、「食材を無駄にして!材料を別々に食べても結構美味しいのに」と言った。ウクライナで起きた1933年の飢餓や戦争の苦しさを経験した人だから、食べ物の価値がよく分かっていた。1933年、ウクライナの全ての収穫をソ連の違うところに持っていかれて、何百万人のウクライナ人が飢えて死んでしまった時、おばあちゃんが住んでいた田舎でも、おかしくなって自分の子供を食べてしまった人もいた。当時のウクライナでは、それはごく普通の話だった。それが記憶から消えない。だから、食べ物の「存在」と「価値」がよく分かる。   パーシャおばあちゃんは珊瑚のネックレスをしていて、「生活がいくら大変でも、それに贅沢の一品があると違います。どんなに暗くても心が温かくなる。それは何でもいいの。たとえば、花、ネックレス、きれいなドレスなど。あなただけの心を喜ばすものでなければいけないけど・・・」と幼い私に言った。私は、それをずっと忘れない。そして、20年後に、知り合いの日本人の80歳のおばあちゃんから、全く同じ話を聞いた時にびっくりした。「おばあちゃんたちは、どこでも一緒なんだ」と、その瞬間に思った。長生きして、いろんなことを見て、人生の価値、意味、味が良く分かる。   私が小さい時には、「おばあちゃんは何て頑固で厳しいんだ」とよく思った。当時は、色々分からなかったので、おばあちゃんは気まぐれだと思ったこともある。だが、大人になって分かったのだが、おばあちゃんは戦争のために、23歳で子供二人を連れた未亡人になった。おじいさんは村長で、村のコルホーズ(ソ連の集団農場)の人たちを助けようとしたので、ドイツ軍が村に入ってきた時に逃げられなかった。それで牢屋に入れられて殺された。おばあちゃんは実家に子供二人を連れて戻った。おじいさんが助けようとしたコルホーズで働きながら子供を育てた。大家からの厳しい意見も我慢した。大変苦労して二人とも大学教育まで受けさせた。それは、その村では珍しかったかもしれない。おばあちゃんの頑固な性格は、厳しい生活条件の中で形成されたものだったと思う。もともと優しい人だった。パーシャおばあちゃんは、私が1998年5月に日本に留学に来たときに亡くなった。お葬式にも行けず悲しかった。   マリアおばあちゃんは、私が小学校一年生のときに亡くなった。今でも学校で泣きながら同級生にミントのアメを配っている自分の姿を覚えている。ウクライナでは人が亡くなったら、周りの人に食べ物を配る。食べながら亡くなった人を思い出すために。そして、私は、しばらくミントのアメを食べられなかった。食べると涙が出るから。おばあちゃんのことを思い出して。   どうしておばあちゃんたちのことを書いてみたかったかというと、気づかない優しさが一番の優しさであると思うからです。そして、当時、何も分からなかった私をここまで成長させてくれて、おばあちゃんたちにどれだけ感謝しているか、どれだけ好きだったか伝えたくて書きました。ありがとう、大好き、マリアおばあちゃんとパーシャおばあちゃん!   --------------------------------- オリガ・ホメンコ(Olga Khomenko) 「戦後の広告と女性アイデンテティの関係について」の研究により、2005年東京大学総合文化研究科より博士号を取得。キエフ国立大学地理学部で広告理論と実習の授業を担当。また、フリーの日本語通訳や翻訳、BBCのフリーランス記者など、広い範囲で活躍していたが、2006年11月より学術振興会研究員として早稲田大学で研究中。2005年11月に「現代ウクライナ短編集」を群像社から出版。 ---------------------------------  
  • 2007.01.10

    エッセイ030:ボルジギン・フスレ 「カシミヤとパシュミナ」

    来日当初、故郷の内モンゴル製のカシミヤセーターを日本の友人に送った時、友人はとても喜んでくれた。柔軟で、保温性に富むカシミヤは、季節風が吹き、空気が湿っぽい島国の日本人の衣料に最適だと思っていたが、カシミヤを着る日本人はとても少ないことに気がついていた。冬になると、おしゃれな日本の女性が、化学繊維のセーターを着ているのをよく目にするが、寒そうで、とてもかわいそうだと思っていた。日本にはカシミヤヤギがほとんどいないので、市場にカシミヤ製品が少ないことも道理であるかもしれない。   その後、わたしは偶然ある営業企画・イベント会社でアルバイトをしていた。社長はモンゴルに興味を持っている人で、内モンゴル製のカシミヤ製品を日本に輸入し、普及させる企画を試みた。わたしはただちに故郷のいくつかのカシミヤ会社と連絡をとり、内モンゴルからカシミヤのセーター・キャミソール・ストール・マフラー・手袋などのサンプルを取りよせた。   社長がさっそく、内モンゴル製のカシミヤ製品販売の促進を目的とする「大モンゴルパシュミナ&カシミヤフェアー」の企画書をつくり、あるグループに所属する数十のスーパーやデパートに、自信満々でこの仕事を売り込もうとした。ところが、意外なことが続いて起きた。まず、カシミヤの知識について、バイト先の日本人とわたしの理解が多少異なっていた。この企画のタイトルは「大モンゴル パシュミナ&カシミヤ フェアー」であり、わたしはカシミヤを知っているが、パシュミナとは何であるかを知らなかった。   「“パシュミナ”って何ですか」と聞くと、社長の奥さんは「カシミヤは普通の羊の毛でつくったもので、パシュミナはカシミヤの中で最も良いものであり、ヤギのひげでつくったものです。ヤギのひげはもっとも柔軟で、保温性も良く、だから値段も高いですよ。」と教えてくれたが、わたしはとてもびっくりした。わたしが知っている限りでは、羊の毛はカシミヤにならず、カシミヤはカシミヤヤギからしか取れない物である。さらに理解できなかったのは、ヤギのひげも保温効果があるという説明であった。それに、ヤギのひげでセーターをつくるとしたら、1枚のセーターを何匹のヤギのひげでつくるのだろうか。   「そうじゃないですよ、パシュミナは動物ですよ、パシュミナはパシュミナという動物の毛でつくったものです」と、会社でバイトをしているおしゃれな女子大生が異なった意見を出した。 「動物?」わたしはさらに驚愕した。「ヤギですか?」と聞いてみた。 「ヤギじゃないよ、日本にはいないけど。」 高級カシミヤをつくれる、ヤギ以外の動物が存在していることを、日本に来てはじめて知り、非常に不思議だと思った。自分のカシミヤについての知識や日本語のレベルが、まだ日本人の知恵とユーモアを理解できるほどまでに至っていないかもしれないと思った。   いったい、パシュミナとは何であろうか。わたしは大学の図書館に行って、さまざまな資料を調べ、『国語辞典』から、『広辞苑』、『大辞林』、『日本語大辞典』……『日本大百科辞書』まで開いたが、パシュミナという言葉は出てこなかった。最後に、カシミヤを経営するある日本のカシミヤ商社のホームページで、やっとパシュミナについての情報を見つけた。   「カシミヤは、インドの北境カシミールを原産地とし、モンゴル、中国の奥地など、中央アジア高原地域で飼育されているカシミヤヤギの毛であり、カシミヤの繊維は極めて細く、美しい光沢を備えており、柔軟な独特の感触を持ち、軽くて保温性に優れているために、最高級の繊維と珍重されている」。   このカシミヤについての紹介は、わたしが見た日本のさまざまな辞書の説明と同じである。この次に、パシュミナという言葉が出てきた!「カシミヤの上にいく製品が欲しい人のために、“パシュミナ”と呼ばれる、超スゴ物が登場した。カシミヤヤギの胸の部分の柔らかい毛は、更に薄くて柔らかく、原糸が白くて発色も抜群である」。   なるほど、パシュミナとは、最高級のカシミヤのことであった。   カシミヤとパシュミナの関係について分かったが、カシミヤサンプルと企画書を持って、各スーパーをまわった社長が予想外の情報を持ち帰った。それらスーパーを統轄するグループはすでに内モンゴルの別のカシミヤ会社からカシミヤセーターを予約購入し、9月末に各所属スーパーで販売ことになっていた。うちの会社の企画は変えざるを得なくなった。   新しく考えられたイベント中心とした企画は、各店舗の採択をまだ得ておらず、内モンゴルとの交渉は暗礁に乗り上げた。交渉中、専門用語の翻訳や注文の条件、契約書、関税の問題などで、双方にさまざまな誤解が生じ、危うく企画を取り消す寸前にまで到った。幸い、この企画はかろうじて生き残った。   内モンゴルで出会った酸乳をヒントに「カルピス」を発売、更にカルピス会社をつくったカルピス創業者三島海雲氏の実績を社長に言った。カルピスの場合とはちがうが、日本人に合う内モンゴル製のカシミヤ製品を日本で広めることは可能であろう。   残暑の日々、社長は各スーパーやデパートで自分の企画をうりこみ、採択させようとしていた。内モンゴルとの交渉も進めていた。「なせばなる」と当初、わたしは言ったが、真剣に実行すると、さまざまな困難に遭うことは避けられなかった。例えば、例のパシュミナ製品は、内モンゴルの商社で、2種類に分けられていた。一種類は、本当の上級カシミヤでつくられたパシュミナ製品で、値段は舌をすすらせるほど高い。もう一種類は、手触り感は上級カシミヤのようだが、実際、「糸光毛」というウールの原材料を加工して、つくられた「パシュミナ」であり、値段もはるかに安い。これは日本のある商社の技術で「発明」したものであり、日本でもけっこう売られていたそうである。社長は、迷わず上級カシミヤを原材料としたパシュミナ製品と 普通のカシミヤマフラー、ストールを仕入れた。   10月末に入ると、最初の販売は成功したが、おもに普通のカシミヤマフラー、ストールなどが売れていた。しかし、うちが輸入した上級カシミヤでつくられたパシュミナ製品は、他社の「糸光毛」を原材料とした「パシュミナ」に負けて、ほとんど売れなかった。幸いなことは、うちのほかのカシミヤ製品がよく売れたため、内モンゴルからの注文を追加し、結果的には、会社は儲けた。   その後、博士課程に進学したわたしは、研究に専念するため、バイトをやめた。   ------------------------------- ボルジギン・フスレ(BORJIGIN Husel) 博士(学術)、昭和女子大学非常勤講師。1989年北京大学哲学部哲学科卒業。内モンゴル芸術大学講師をへて、1998年来日。2006年東京外国語大学大学院地域文化研究科博士後期課程修了、博士号取得。「内モンゴル自治運動における内モンゴル人民革命青年同盟の役割(1945~48年)」など論文多数発表。 来日当初、故郷の内モンゴル製のカシミヤセーターを日本の友人に送った時、友人はとても喜んでくれた。柔軟で、保温性に富むカシミヤは、季節風が吹き、空気が湿っぽい島国の日本人の衣料に最適だと思っていたが、カシミヤを着る日本人はとても少ないことに気がついていた。冬になると、おしゃれな日本の女性が、化学繊維のセーターを着ているのをよく目にするが、寒そうで、とてもかわいそうだと思っていた。日本にはカシミヤヤギがほとんどいないので、市場にカシミヤ製品が少ないことも道理であるかもしれない。   その後、わたしは偶然ある営業企画・イベント会社でアルバイトをしていた。社長はモンゴルに興味を持っている人で、内モンゴル製のカシミヤ製品を日本に輸入し、普及させる企画を試みた。わたしはただちに故郷のいくつかのカシミヤ会社と連絡をとり、内モンゴルからカシミヤのセーター・キャミソール・ストール・マフラー・手袋などのサンプルを取りよせた。   社長がさっそく、内モンゴル製のカシミヤ製品販売の促進を目的とする「大モンゴルパシュミナ&カシミヤフェアー」の企画書をつくり、あるグループに所属する数十のスーパーやデパートに、自信満々でこの仕事を売り込もうとした。ところが、意外なことが続いて起きた。まず、カシミヤの知識について、バイト先の日本人とわたしの理解が多少異なっていた。この企画のタイトルは「大モンゴル パシュミナ&カシミヤ フェアー」であり、わたしはカシミヤを知っているが、パシュミナとは何であるかを知らなかった。   「“パシュミナ”って何ですか」と聞くと、社長の奥さんは「カシミヤは普通の羊の毛でつくったもので、パシュミナはカシミヤの中で最も良いものであり、ヤギのひげでつくったものです。ヤギのひげはもっとも柔軟で、保温性も良く、だから値段も高いですよ。」と教えてくれたが、わたしはとてもびっくりした。わたしが知っている限りでは、羊の毛はカシミヤにならず、カシミヤはカシミヤヤギからしか取れない物である。さらに理解できなかったのは、ヤギのひげも保温効果があるという説明であった。それに、ヤギのひげでセーターをつくるとしたら、1枚のセーターを何匹のヤギのひげでつくるのだろうか。   「そうじゃないですよ、パシュミナは動物ですよ、パシュミナはパシュミナという動物の毛でつくったものです」と、会社でバイトをしているおしゃれな女子大生が異なった意見を出した。 「動物?」わたしはさらに驚愕した。「ヤギですか?」と聞いてみた。 「ヤギじゃないよ、日本にはいないけど。」 高級カシミヤをつくれる、ヤギ以外の動物が存在していることを、日本に来てはじめて知り、非常に不思議だと思った。自分のカシミヤについての知識や日本語のレベルが、まだ日本人の知恵とユーモアを理解できるほどまでに至っていないかもしれないと思った。   いったい、パシュミナとは何であろうか。わたしは大学の図書館に行って、さまざまな資料を調べ、『国語辞典』から、『広辞苑』、『大辞林』、『日本語大辞典』……『日本大百科辞書』まで開いたが、パシュミナという言葉は出てこなかった。最後に、カシミヤを経営するある日本のカシミヤ商社のホームページで、やっとパシュミナについての情報を見つけた。   「カシミヤは、インドの北境カシミールを原産地とし、モンゴル、中国の奥地など、中央アジア高原地域で飼育されているカシミヤヤギの毛であり、カシミヤの繊維は極めて細く、美しい光沢を備えており、柔軟な独特の感触を持ち、軽くて保温性に優れているために、最高級の繊維と珍重されている」。   このカシミヤについての紹介は、わたしが見た日本のさまざまな辞書の説明と同じである。この次に、パシュミナという言葉が出てきた!「カシミヤの上にいく製品が欲しい人のために、“パシュミナ”と呼ばれる、超スゴ物が登場した。カシミヤヤギの胸の部分の柔らかい毛は、更に薄くて柔らかく、原糸が白くて発色も抜群である」。   なるほど、パシュミナとは、最高級のカシミヤのことであった。   カシミヤとパシュミナの関係について分かったが、カシミヤサンプルと企画書を持って、各スーパーをまわった社長が予想外の情報を持ち帰った。それらスーパーを統轄するグループはすでに内モンゴルの別のカシミヤ会社からカシミヤセーターを予約購入し、9月末に各所属スーパーで販売ことになっていた。うちの会社の企画は変えざるを得なくなった。   新しく考えられたイベント中心とした企画は、各店舗の採択をまだ得ておらず、内モンゴルとの交渉は暗礁に乗り上げた。交渉中、専門用語の翻訳や注文の条件、契約書、関税の問題などで、双方にさまざまな誤解が生じ、危うく企画を取り消す寸前にまで到った。幸い、この企画はかろうじて生き残った。   内モンゴルで出会った酸乳をヒントに「カルピス」を発売、更にカルピス会社をつくったカルピス創業者三島海雲氏の実績を社長に言った。カルピスの場合とはちがうが、日本人に合う内モンゴル製のカシミヤ製品を日本で広めることは可能であろう。   残暑の日々、社長は各スーパーやデパートで自分の企画をうりこみ、採択させようとしていた。内モンゴルとの交渉も進めていた。「なせばなる」と当初、わたしは言ったが、真剣に実行すると、さまざまな困難に遭うことは避けられなかった。例えば、例のパシュミナ製品は、内モンゴルの商社で、2種類に分けられていた。一種類は、本当の上級カシミヤでつくられたパシュミナ製品で、値段は舌をすすらせるほど高い。もう一種類は、手触り感は上級カシミヤのようだが、実際、「糸光毛」というウールの原材料を加工して、つくられた「パシュミナ」であり、値段もはるかに安い。これは日本のある商社の技術で「発明」したものであり、日本でもけっこう売られていたそうである。社長は、迷わず上級カシミヤを原材料としたパシュミナ製品と 普通のカシミヤマフラー、ストールを仕入れた。   10月末に入ると、最初の販売は成功したが、おもに普通のカシミヤマフラー、ストールなどが売れていた。しかし、うちが輸入した上級カシミヤでつくられたパシュミナ製品は、他社の「糸光毛」を原材料とした「パシュミナ」に負けて、ほとんど売れなかった。幸いなことは、うちのほかのカシミヤ製品がよく売れたため、内モンゴルからの注文を追加し、結果的には、会社は儲けた。   その後、博士課程に進学したわたしは、研究に専念するため、バイトをやめた。   ------------------------------- ボルジギン・フスレ(BORJIGIN Husel) 博士(学術)、昭和女子大学非常勤講師。1989年北京大学哲学部哲学科卒業。内モンゴル芸術大学講師をへて、1998年来日。2006年東京外国語大学大学院地域文化研究科博士後期課程修了、博士号取得。「内モンゴル自治運動における内モンゴル人民革命青年同盟の役割(1945~48年)」など論文多数発表。 -------------------------------