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エッセイ031:オリガ・ホメンコ 「おばあちゃんたち:目に見えない優しさ」

先日、新しい日本映画を見た。戦後おばあちゃん一人で孫を育てた話だった。戦後の生活は大変で、食べるものもあまりなかったが、おばあちゃんはがんばって漬物とご飯で毎日お弁当を作ってくれた。ある日、それを見た学校の先生が、「おなかが痛いから、漬物がほしい」と言って、自分のお弁当と交換してくれた。男の子は海老が入っている豪華なお弁当を今までに食べたことがなかったので、すごく喜んだ。先生は本当におなかが痛いから、お弁当を交換してくれたと思っていた。この時、おばあちゃんは一番の優しさを与えていたのに、孫は気づかなかった。おばあちゃんの優しさや愛情は、時間がたってから分かる。大きくなるにつれて。

 

私も自分のおばあちゃんたちを思い出した。パパの方のマリアおばあちゃんは一緒に暮らしていたけど、昔話は読んでくれなかった。それはママの仕事だったから。でも、マリアおばあちゃんは私の遊び相手だった。一緒におばあちゃんの友達のところに行って、散歩したり遊んだりした。おかげで、小さい頃、私もちょっとおばあちゃんぽかった。彼女は日本人女性のように小柄で、155センチしかなかった。優しい目をしていて、生活にとても馴染んでいて、何でもできる人だった。

 

おじいさんはテイラーだったので、小柄な彼女にきれいなドレスやジャケットを作ってくれた。そこまで愛されている奥さんは、私の回りには他にいなかったと思う。だが戦争が始まった。おじいさんは軍隊の制服を作る仕事も始めたので戦争に行かなくても良かったのだが、亡国への「愛」をその形では表明できないと考えた。彼は入隊を決めた。戦争は1941年6月に始まったが、おじいさんは、7月にキエフの近くの小さい町の近辺の戦いで殺された。当然ながら、彼ははさみ以外のものを手にしたことは殆どなかったのだから、戦争が始まって一ヶ月間では、銃を撃つ訓練を受ける時間もなかったかもしれない。その時のおじいさんより年上になってしまった私だが、今でもおじいさんのことを考えると涙が出る。彼は無名兵士の墓に眠っている。

 

数ヶ月前、今までに見たことがなかった彼らの家族の写真を見つけた。その写真の日付がその時代を語る。1941年5月20日。戦争が始まるまで、たった一ヶ月しか残されていない。そしておばあちゃんには、幸せで良く笑う小柄な奥さんから、しっかり二人の子供を育てなければならない未亡人になるまで、二ヶ月しか残されていない。7歳のパパの視線は深くて寂しいものである。まさか、二ヵ月後に7歳のパパは家族で唯一の「男」になるとは思っていなかったでしょう。年を重ねてもパパの視線は変わらなかった。私の日本の先生が彼の写真を初めて見た時に「いろんなことを考えた人みたいですね」とおっしゃった。その通りです。生まれつきか、それとも時代や状況でそうするしかなかったか分からない。でも色々考える人でした。ちなみに私もそう。家族の特徴かもしれない(笑)。

 

もう一人の、ママの方のパーシャおばあちゃんは、田舎の小さな村に住んでいた。ズボンを一度もはいたことがない人で、背が高くて、茶色の目で、長い黒髪の美人だった。でもやっぱり戦争によって家族が破壊された。頑固だけど優しいおばあちゃん。町から遊びに来る私の姿を、おばあちゃんの友達が見て「あら、パーシャさん!あなたの孫はこんなに細くて、顔が真っ白で、病気みたいじゃないか。都会に住む子供たちは、外で遊ばないし、おいしいものを食べないから、皆病気に見えるんだ」と大きな声で叫んでいた。当時、子供だった私たちは、別にやせようと思ってやせていたわけではない。ただおっしゃるとおりで、田舎の子と比べたら外で遊ぶ時間が少なかったかもしれない。田舎の子は皆ぽっちゃりしていた。

 

パーシャおばあちゃんは私を友達の厳しい意見から守って、「この子は、普通の子供ですよ。他の子供と同じ。いじめないでください。大きくなったらきれいになるから、その時には言い返されるよ!」と反論してくれた。そして、一所懸命、しぼりたての牛乳を私に飲ませた。だがパッケージされた牛乳に慣れた都会っ子のおなかは、その牛乳を飲んで革命を起こした。変な音を出したり、痛かったり、反発していた。「パッケージの牛乳の方がいいよ」と言いたかったわけです。

 

パーシャおばあちゃんはシンプルなものが好きだった。その生き方は、今なら「simple and slow life」と呼ばれるでしょう。手の込んだ料理を試した時、「食材を無駄にして!材料を別々に食べても結構美味しいのに」と言った。ウクライナで起きた1933年の飢餓や戦争の苦しさを経験した人だから、食べ物の価値がよく分かっていた。1933年、ウクライナの全ての収穫をソ連の違うところに持っていかれて、何百万人のウクライナ人が飢えて死んでしまった時、おばあちゃんが住んでいた田舎でも、おかしくなって自分の子供を食べてしまった人もいた。当時のウクライナでは、それはごく普通の話だった。それが記憶から消えない。だから、食べ物の「存在」と「価値」がよく分かる。

 

パーシャおばあちゃんは珊瑚のネックレスをしていて、「生活がいくら大変でも、それに贅沢の一品があると違います。どんなに暗くても心が温かくなる。それは何でもいいの。たとえば、花、ネックレス、きれいなドレスなど。あなただけの心を喜ばすものでなければいけないけど・・・」と幼い私に言った。私は、それをずっと忘れない。そして、20年後に、知り合いの日本人の80歳のおばあちゃんから、全く同じ話を聞いた時にびっくりした。「おばあちゃんたちは、どこでも一緒なんだ」と、その瞬間に思った。長生きして、いろんなことを見て、人生の価値、意味、味が良く分かる。

 

私が小さい時には、「おばあちゃんは何て頑固で厳しいんだ」とよく思った。当時は、色々分からなかったので、おばあちゃんは気まぐれだと思ったこともある。だが、大人になって分かったのだが、おばあちゃんは戦争のために、23歳で子供二人を連れた未亡人になった。おじいさんは村長で、村のコルホーズ(ソ連の集団農場)の人たちを助けようとしたので、ドイツ軍が村に入ってきた時に逃げられなかった。それで牢屋に入れられて殺された。おばあちゃんは実家に子供二人を連れて戻った。おじいさんが助けようとしたコルホーズで働きながら子供を育てた。大家からの厳しい意見も我慢した。大変苦労して二人とも大学教育まで受けさせた。それは、その村では珍しかったかもしれない。おばあちゃんの頑固な性格は、厳しい生活条件の中で形成されたものだったと思う。もともと優しい人だった。パーシャおばあちゃんは、私が1998年5月に日本に留学に来たときに亡くなった。お葬式にも行けず悲しかった。

 

マリアおばあちゃんは、私が小学校一年生のときに亡くなった。今でも学校で泣きながら同級生にミントのアメを配っている自分の姿を覚えている。ウクライナでは人が亡くなったら、周りの人に食べ物を配る。食べながら亡くなった人を思い出すために。そして、私は、しばらくミントのアメを食べられなかった。食べると涙が出るから。おばあちゃんのことを思い出して。

 

どうしておばあちゃんたちのことを書いてみたかったかというと、気づかない優しさが一番の優しさであると思うからです。そして、当時、何も分からなかった私をここまで成長させてくれて、おばあちゃんたちにどれだけ感謝しているか、どれだけ好きだったか伝えたくて書きました。ありがとう、大好き、マリアおばあちゃんとパーシャおばあちゃん!

 

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オリガ・ホメンコ(Olga Khomenko)
「戦後の広告と女性アイデンテティの関係について」の研究により、2005年東京大学総合文化研究科より博士号を取得。キエフ国立大学地理学部で広告理論と実習の授業を担当。また、フリーの日本語通訳や翻訳、BBCのフリーランス記者など、広い範囲で活躍していたが、2006年11月より学術振興会研究員として早稲田大学で研究中。2005年11月に「現代ウクライナ短編集」を群像社から出版。
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