SGRAエッセイ

  • 2006.12.30

    エッセイ029:金 外淑 「ボストンの生活:私にとってアメリカも日本も韓国も外国?」

    幸運にも、現在所属している兵庫県立大学から8ヶ月間(2006年8月~2007年3月まで)ボストン大学の心理学部の心理臨床教育機関であるCenter for Anxiety and Related DisordersセンターのClinical Psychology Programに参加することになった。不安障害に対する認知行動療法という心理療法の理論と実践を学ぶ機会を得て、ボストンでの生活も5ヶ月目を迎えるところである。   在外研究が決まり渡米する直前までは人には言えない苦労もたくさんあった。やっとボストンへ出発日が決まり、留守期間中の大学や病院の仕事の手配や渡米準備などで、出発まで目の回るほど忙しい日々を過ごして、予定より5日間遅れてボストンに着いた。   私にとって、日本も外国生活であるが、さらにアメリカのボストンで研究や生活を経験できることをとても楽しみにしていた。しかし、着いた次の日、朝8時のmeetingに緊張の中で参加し、その後、挨拶、手続きなどで、どのように一日を過ごしたかがわからないぐらい本当にたいへんな1週間が過ぎた。このセンターは不安障害(パニック障害、強迫性障害、社会不安障害、全般性不安障害など)の専門治療機関で、アメリカでも名門として知られていることもあり、子供から成人まで患者の年齢は幅広い。研究室での生活は月曜日から木曜日までのハードなスケジュール(それぞれの専門の先生のsupervisionに参加する)は、日本での大学院生の時のことを思い出すぐ らいたいへんだった。朝は早く、集団治療がある日は夜も遅い。患者のほとんどは仕事を終えて病院へ来るので、集団治療は午後6時から始まり、8時に終わることが多い。金曜日から日曜日まで、自由に時間を作ることができるのが唯一の楽しみである。   私は日本の異文化にも適応し、長期間日本で生活をしていることから、きっと言葉や文化の違いに慣れているはずだと思っていった。日本にいる時は、自分から積極的に人に挨拶をしたり、気軽に声をかけたりする私をみて、友人には時々「日本人ではないから、知らない人にも自然に挨拶ができるね」と言われた。しかし、自然体に「Hi」と挨拶できるまでは随分時間がかかった。もちろん、個人差はあると思うが、その状況に慣れないだけで、滞在国やその文化とはあまり関係ないと思った。実際にアメリカで生活してみると、ささいな文化の違いに接したときの反応(Culture Shock)は、同じ外国生活でも、状況が変わると感じることも異なってくることがわかる。今でも慣れないのはチップの計算やカードで支払うときのチップ代を書き合計 金額を記入するときである。もともと計算が苦手な私はいつも悩んでしまう。特に小切手で払うときに、その便利さをまだ感じていないのは、きっとこちらの生活に慣れていないことが原因だろう。   次に、こちらに来て気づいたのは、自分の専門分野(臨床心理学)以外は日本のことや自分の国(韓国)についてよく知らないということである。「日本に住んでいるから韓国のことはわからない」「日本人ではないのでわかりません」と言ってすまされることではない。私にとって、アメリカも日本も韓国も外国?---これからもう少し自分の専門分野以外のところにも目を向け、関心を持つべきだとつくづく思っているところである。   この頃、やっとボストンでの暮らしも慣れはじめ、日本にいると毎日時間に追われてできなかったこと、以前から訪れてみたいと思っていたところへの旅心が沸いてきた。週末には気軽に出かけられる日帰り旅行から2~3泊程度でニューヨークなどの近い都市へバスや電車を使っていける余裕が出できた。ボストン美術館をはじめ、ハーバード大学内にある9つの美術館と博物館、MIT美術館と博物館などはアパートから歩いて5~10分ぐらいなので時間があれば何度も訪ねた。さらにバスでゆれ、5時間かけてニューヨークのメトロポリタン美術館などを訪ねてみた。また、11月にシカゴで開催されたアメリカの認知行動療法学会に参加したり、南アフリカのケープタウンの国際学会に参加したりして、短い期間でも世界はひろ~いことをあらためて実 感することができた5ヶ月間だった。アメリカの生活はまだまだ始まったばかりである。残り3ヶ月は普段しないような新しいことにチャレンジしたい。来年2月末には、「うつ病の認知療法」の治療で世界でも名前が知られているPhiladelphia大学のBeck Institute for Cognitive Therapy Training Programに参加することにしている。どのような出会いが待っているだろう。今までとは違う自分を見出すかもしれないと思いながら、この経験が次の仕事へのモチベーションになることを期待している。 -  --------------------- 金 外淑(キム・ウェスク ☆Kim WoeSook) 兵庫県立大学看護学部心理学系助教授。1998年度早稲田大学大学院で学位を所得し、大学教員、病院の臨床現場で心理士として活動中。 ----------------------  
  • 2006.12.29

    エッセイ028:範 建亭 「中国の大学教育の現場から」

    いよいよ新しい年を迎える時節となった。中国では、旧正月で新年を迎える習慣であるが、企業などはやはり新暦に従うのが一般的なので、年末はいろいろと忙しくなる。大学は企業とは違って、いつも各学期の始まりと終わり頃が忙しくなる。だが、私が勤めている大学は、最近急に余計な仕事が増えている。それは授業でもなければ、論文指導でもない。主に以前行った試験と卒論指導に関する資料の整理と手入れなど事務的な仕事である。   きっかけは二週間前に行われた学内の大規模な「点検」であり、その目的は学部の教育レベルなどを評価することである。他の大学からきた7名の専門家で組織されている調査団は、三日間ほど大学内に駐在し、教育施設、専門科目のカリキュラム、授業の方法、論文の指導、教員の構成など、細かいところまで調べた。   中国の大学では、政府や上級管理部門からの検査、調査は日常茶飯事となっているが、今回の様子は違う。これは、中国教育委員会(文部省相当)が各大学の学部教育レベルを総合的に評価するものであり、5年に一回実施される。その結果は大学の経費、専門学科の増減、学生募集の規模などに大きく影響するので、どこの大学もこれを無視するわけにはいかない。正式な検査は来年の5月のことであるが、今回はそのための予備テストであった。   3日間しかない点検作業は、結局資料のチェック、ヒアリングが中心となり、教育システムを深く考察することができないが、それにしてもたくさんの問題が発見された。その結果を深刻に受け止めた大学の主管部門は各学部に圧力をかけ、細かい指示に従って整頓するように求めた。すぐに直せない問題も結構あるが、とりあえず年内に過去何年分の関連資料を整えるように各教員に要求した。その殆どはくだらない仕事であり、例えば、試験用紙の点数の付け方を統一された方法で修正することなどである。これについて、当然、貴重な時間が無駄に使われると不満を感じる教員が多く、また、このような「インチキくさい」ことに反対する声も高い。   だが、冷静に考えてみれば、中国の現在の教育体制で、このような上級管理部門による検査はやむをえない側面もあると思う。全国には四年制大学だけで700校ぐらいあり、そのほとんどが国公立である。これらの国の予算に大きく依存する大学を差別化するには、やはり納得できるような基準が必要であろう。公表される大学の教育レベルに関する評価結果は、このような基準のひとつであり、またそれが大学の重点化政策にも繋がっている。   中国の大学は重点大学と普通大学に分別され、前者には政府から莫大な援助資金と研究資源が集中的に投下されている。大学の重点化政策のひとつである「211工程(プロジェクト)」は、21世紀へ向けて100校程度の重点大学と重点学科をつくることを目指しているものであり、1995年から進められている。さらに、1999年に実行された「985工程」は世界一流大学の育成を目的で、重点大学からさらに重点を選ぶようなものであり、現在38校の大学が選ばれている。   こうした重点大学は、当然、学部教育レベルは「優」でなければならない。本学も「211工程」の大学に選ばれた大学として、5年前に「優」の評価をもらったため、今回も同じ結果をとれないことは考えられない。大学当局のこのような焦る気持ちは理解できるが、その取り組み方には改善の余地が多くあると思われる。さらに、大学の真価は教育の内容にあり、決して上級管理部門からの評価ではないことを忘れてはいけないだろう。   -------------------------- 範建亭(はん・けんてい☆Fan Jianting) 2003年一橋大学経済学研究科より博士号を取得。現在、上海財経大学国際工商管理学院助教授。 SGRA研究員。専門分野は産業経済、国際経済。2004年に「中国の産業発展と国際分業」を風行社から出版。 --------------------------  
  • 2006.12.22

    エッセイ024:武 玉萍 「東北紀行」

    今年の夏、3年ぶりに子供たちをつれて、故郷のチチハル(斉斉哈爾)に帰った。チチハル市は黒竜江省の中で第二の大都市であり、現在では黒竜江省西部の政治、経済、文化の中心である。市名は満族語で「天然の牧場」という意味で、市域には十数種の鶴が生息する有名な湿地ジャロン自然保護区があり、鶴城とも呼ばれている。せっかくのチャンスなので家族全員そろって、ジャロンに行ってきた。タンチョウは紅色の頭、前顔・喉・首・すらりと長い足、そしてスケーターのスカートのようにふわっとお尻を被う羽が黒で、残り全部が純白である。長い足で一直線にゆっくり歩む姿を、是非見てほしい。首・足を伸ばし飛ぶ姿は、白と黒のコントラストだ。澄んだ青空にツルの白は真に美しい。日本人の観光客も少なくない。地球全体の気候変動による降雨量の減少や、湿地周辺の開発によって水資源のバランスが崩れたことなどにより、ツルの生息地が減少していく傾向もあるという。自然の推移ともいえるが、人の手がこれを加速していることが問題なのだ。毎年秋になると、「焼荒」(来年いい土壌になるよう枯れ草を燃やすこと)という行事がある。よくコントロールしないと、火事になって湿地の面積が減っていく原因となり、ジャロンに渡ってくる鶴も減っているという。   ちょうど真夏だったので、昼間は33度前後の暑さだったが、夕方になると涼しくなった。夕食後人々が広場(運動器具や子供の遊具もそろっている)にダンスの練習やペットの散歩、将棋をするために集まって来る。ゆったり充実している生活の一面が窺える。実家のマンションの近くに自由市場がある。毎日の朝市場に行くのが楽しみだった。回りの県から新鮮な野菜、果物をトラックなどで運んで来る。(馬車を使う人もいて、子供たちが馬を見て大喜びだった。)買う人も近くに住んでいる住民たちで「もう少し安くしてくれないか?」という値段のやりとりも結構面白かった。けれども、8時までに片づけないと、出勤のラッシュアワーが来るので、朝早く起きて市内へ売りに来る人たちにとって、かなり慌ただしい毎日だ。ここからも城市と農村部の人々の生活パターンと収入の違いを窺うことができる。   親戚のおばさんは3年前に3LDKで一人暮らししていた。今回会いに行ったら、二つあまり使わない部屋を近くにあるチチハル大学の学生に貸し出して、大家さんになっていた。周りに空き部屋を持っている人はこうしてお金を儲けているそうだ。学生たちと話をして分かったのは家賃を実家からの仕送りではなく、自分でアルバイトして支払っている。十年前の私の大学生活を思い出すと、アルバイトをしたくてもその環境がなかったし、大学の寮があるから、一人で高い家賃を払って住むことなど考えもしなかった。人々の経済についての考え方や生活スタイルがこんなに早く変わったのだ。   行きと帰りはともに大連での乗換えだった。中国の他の地域とは違い、東北三省の住民は遼寧、吉林、黒龍江の各省の住民としてよりも「東北人」としての意識が高い。この原因は、この地区の独特な歴史、風俗習慣及び言語の一致、そして、河北省や山東省からの移民が関係している。総人口は約1億1千万人,中国の総人口の8%である。1990年代以降の中国の開放政策により上海など経済特区の経済成長が著しく、東北は古いインフラ設備により、経済的には立ち遅れた地域となっている。東北振興はこれからの中国の課題であり、難関でもある。経済体制の遅れ、市場経済観念・形態の発育不良、国営企業(多)と民営企業(少)の巨大な格差を克服しなければならない。今までこの地方を支えてきた重工業を捨てずに、大量の設備、技術、人材を十分利用して、新興産業や軽工業やサービス産業に変換していく方策こそ、三省のリーダーたちが一番頭を悩ませていることだろう。大連にいる友達によると、産業変換の中で大連はすでに中国最大の造船基地になっている。外資を利用する割合も東北三省中の半分を占めている。大連の市街を見ると、高層ビルが多く立っており、建設中のものもたくさんあった。大連は発展の先頭にたっているのだが、遼寧省は失業人数が全国でトップとなっている。本当に一喜一憂の体制改革である。お金はどこから?人はどこへ?体制をどう変える?模索しながらの真剣勝負だ。一人の東北人として、東北がこの勝負に勝ってほしい。   追伸:中国でも日本でも「鶴は千年」という言い方がある。鶴は瑞鳥といわれ、おめでたい鳥とされている。鶴の端麗な姿を見ると「千年」に納得がいく。鶴の吉祥を借りて、2007年が皆さんにとって良い年でありますように! -  ------------------------------ 武 玉萍 (う・いぴん☆ Wu Yuping) 医学博士。中国のハルビン医科大学を卒業。2001年3月千葉大学医学部より博士学位を取得。専門分野は分子生物学・発生学。現在理化学研究所(発生・再生科学総合研究センター)で研究を継続中。 -------------------------------  
  • 2006.12.20

    エッセイ023:臧 俐 「初訪日の研修団の通訳をして感じたこと」

    2006年10月、私は神戸国際貿易促進会の依頼を受け、中国国家外専局より派遣された中国西安市農業研修団の通訳をすることになった。私が担当した東京方面の研修は6日間であった。短い日々ではあったが、団員の方々と行動を共にし、また様々な会話を交わす中から、団員の方々が日本に対して抱く思いについて、いくつか興味深いことを感じた。そして、それは今後日中友好の促進に多くの示唆を与えるものであるとも感じた。   西安市農業研修団一行26名は、中国西部の陜西省西安市及び周辺の郷鎮にある農業部門の責任者たちである。平均年齢は45歳で、うち1名が20年前に日本の農家を訪れた経験がある以外、全員が日本は初めてであった。経済の高度成長の中にある現在の中国は、外国へ自由に旅行できる富裕な人々もいるが、大多数の普通の中国人、特に経済発展が比較的に遅れている西部の農業地域の方々は外国旅行するチャンスはめったにない。そこで、研修団の方々は今回の訪日を喜ぶはずであった。だが、昨年の「反日デモ」の影響で日本に対してさほどいい印象を持っていなかった団員の方々はこの訪日に複雑な心境であったと、打ち明けてくれる人もいた。   初日の研修は農林水産省においてであった。10月も半ばではあったが、背広姿ではまだ暑い日であった。きちんとネクタイを締めている背広姿のみなさんは、電車で農林水産省に着いた時にはもう汗だくであった。農林水産省の中も冷房がなかった。ハンカチで汗を拭きながら、「こんなに暑いのに、農林水産省のような大機構でなぜ冷房をつけないのか」と不思議に思ったようだった。だが、係りの人からの「環境配慮のため、10月1日以降官庁が率先して冷房を使わないようにしている」という説明にみんなは感心して言葉がなかった。そして、帰りの電車では「日本は経済で豊かな国なのに贅沢していない。公務員は本当の公僕だ。中国では我々程度の公務員でも出勤等でよく公用車を利用するが、よくないね。」と反省する人がいた。この思わぬ反省の言葉に私は良識を感じて少し安心した。   2日目の国会議事堂の見学の時であった。順番待ちの長い行列に地方から来たお年寄グループや小学生グループがいた。「国会議事堂を無料で誰にでも開放するやり方はいいなあ」とつぶやく団員がいた。そして、私に「日本では官庁も国民に開放されているのか」と聞いた。私は「ちゃんとした用件があり、何らかの身分証明書さえ提示すれば、大丈夫だ」と答え、一例として、私自身が博士論文用の資料を収集するために、文部科学省、都道府県教育委員会などを訪れて、係りの方に質問したり、説明をしてもらったり、資料をいただいたりした経験を紹介した。すると、「えっ、外国人、学生にも対応してくれるのか?」と信じ難そうな顔をしていた。「中国の官庁もいつかそうなってくれるといいなあ」と、日本のこのような状況に感心したようだった。   3日目の朝、通勤ラッシュにぶつかった。非常に混雑していた地下鉄のホームで、自然にできた電車待ちの列と、電車が着いた時に降りるお客さんが終わるのを辛抱強く待ち、その後で整然と乗り込む通勤ラッシュの風景を見て、ある人は「これは私の故郷では絶対に不可能なことだ。こんなに整然とルールを守る修養の高い国民がいるからこそ、日本は発展したのだ。」と深く感銘を受けたようであった。その日は経済産業省における研修だった。研修修了後に、日本人の係りの人が整然と机、椅子を片付け、お茶の缶などのゴミの後始末をしているのを見て、また、ゴミ箱にきちんと分別してあるゴミを見て、みんなは再び感心した。再び帰りの電車でその1日の感想を教育と関連して語ってくれた人がいた。即ち、「日本国民が高い修養を持つのは教育の成果だ。修養がある国民がいなければ国がよくなるはずはない。中国はもっと教育を重視し、特に子どもの社会規範意識のような教育を重視すべきだ。」という感想であった。   団員の方々は私と同年代で話しやすかったのかもしれない。東京方面研修の最終日の箱根旅行中に、研修団で一番若い30代の方が思わず次のように話してくれた。「実は、日本に来る前に日本のことがあまり好きではなかった…、しかし、この研修、この一週間に日本で見たこと、体験したことが私の日本への印象を大きく変えた。戦後の廃墟から日本がなぜこんなに速く復帰でき経済大国になれたかが、私の全身を通して分かったような気がする。」これはこの人の本心からの感想のように思えた。   初めて日本の土を踏んだ訪日団の方々の通訳をした際のわずかな出来事をここに挙げたが、この通訳の日々を通していろいろと考えさせられた。この訪日団員の方々には日本を愛する教育を特に誰も施していないし、日本がいかにいい国であるかということも誰も一言も教えていないと思われる。だが、このわずか6日間の研修での日本滞在中に、自分の目で見たことや自分の体で感じたことが、それまで抱いていた日本に対する考え方にかなりの変化を与えたのは事実である。このような体験は、もし同じようなチャンスが与えられたならば、多くの一般の中国人の人々に当てはまる変化であろうと言っても過言ではないと思われる。このことから、日中友好を促進するには、首脳間の相互訪問や世論のムードづくりが大切であるのは言うまでもないが、一般国民の行き来による一般の人々の目と体の体験を通じての草の根の真の相互理解の拡大が、より効果的で重要であると感じた。   ------------------------------ 臧 俐(ぞう・り☆Zang Li)博士(教育学)。専門分野は教師教育・教育政策。中国四川外国語学院(大学)を卒業。四川外国語学院日本語学部で11年間専任講師を経て来日。千葉大学で修士(教育学)を経て、2006年に東京学芸大学より博士号を取得。 ------------------------------  
  • 2006.12.16

    エッセイ022:羅 仁淑「日本の生存権保障と外国人労働者の租税負担を考える」

    地方税の滞納により給料日に銀行口座が差し押さえられた。たまたまお米も交通費もない状態だったのに、口座には75円しか残っていなかった。ショックだった。区役所に電話をした。恥を忍んで現状を説明し執行停止を求めた。『国税徴収法』に預貯金を差し押さえる場合の下限はない、生活のことはご自分のことですからご自分で考えなさい、本国から送ってもらったらどうですか、という答えしか返ってこなかった。   翌日、仕事にも行けず、区役所の生活福祉課に生活保護を申請した。「一時的」な滞在資格者は対象外だと言われた。これから一ヶ月間のことを考えると目の前が真っ暗だった。   寂しさにふける余裕はなかった。そのような状況に追い討ちをかけるかのように、残りの未納が完済されるまで差し押さえ続けると言われた。分割を申し出た。分割の場合でも職場に聞いて給料額を調べなければならないと最も恐ろしいことを言われた。急遽、知人に工面して残りを払った。返さなければならない負担はあるものの、これで悪夢は終わった。   ようやく国による生存権侵害について冷静に考えてみる余裕が持てた。日本国憲法第25条には「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と条件のない純粋な生存権が保障されている。もはや国民の生存権より財政の確保を優先しなければならなくなったのか。昔の救貧法時代に遡りつつある現実の主人公になってしまった自分が嘆かわしい!   話を少し変えて、国民負担と歳出について考えてみたい。財務省が公表したデータによると2005年度の対国民所得の国民負担率は37.8%(同年度潜在的国民負担率45.1%)であり、所得の多くの部分を国に納めていることが分かる。一時的滞在資格で働いている外国人労働者にもまったく同じ負担が課される。そのため、一部の高所得階層を除けば、内国人外国人を問わず、窮屈な生活を強いられている。幸い内国人にはいざという時、生活保護制度なり、低所得者を対象とした貸付制度があるが、外国人には絵に描かれた餅である。   国民の生活を圧迫しながら集めたお金はどこに使われているのか。2005年度の歳出項目(括弧のなかは歳出総額に占める比率)は、社会保障関係費(24.1)、国債費(21.9)、地方交付税交付金(18.6)、公共事業関係費(9.8)、文教および科学振興費(6.7)、防衛関係費(5.7)、地方特例交付金(1.8)、改革推進公共投資事業償還時補助金など(1.3)、恩給関係費(1.2)、経済協力費(0.9)、食料安定供給関係費(0.8)、エネルギー対策費(0.6)、中小企業対策費(0.3)、産業投資特別会計へ繰入(0.1)、その他(6.2)などであり、負担されたお金は直接・間接的にほとんど国民に還元されることが分かる。   それでは、職がなくなると容疑なく本国に戻らざるを得ない外国人労働者にはどれほど還元されるであろうか。上記歳出項目から道路使用や治安など間接的な還元を別にすれば、彼らに直接関連するのは「社会保障関係費」のみである。社会保障関係費の内訳(括弧のなかは社会保障関係費に占める比率)は社会保険費(78.0)、生活保護費(9.6)、社会福祉費(8.1)、保健衛生対策費(2.5)、失業対策費(1.9)であるが、社会保険(年金・医療・介護・雇用・労災)とくに年金・医療・労災以外は一時的外国人労働者との関連は薄い。しかし、年金制度は最低25年以上加入しないと受給資格が得られないため給付を受けることは非常に難しく、医療保険の場合でも仕事ができないほどの病気すなわち本当に医療費がかかる病気にかかると滞在許可が得られない。このように歳出項目から一時的外国人労働者に該当しない項目を消去法で消していくと労災保険だけが残る。要するに還元できないと分かっていながら一時的外国人労働者に内国人と同じ負担を強要していることになる。   今度の差し押さえ騒ぎは底辺の生存権保障問題と一時的滞在資格者の負担問題を考えてみる機会となった。  ------------------------------ 羅 仁淑(ら・いんすく)博士(経済学)。SGRA研究員。 専門分野は社会保障・社会政策・社会福祉。 ------------------------------ 
  • 2006.12.13

    エッセイ021:マックス・マキト 「醜いアヒルの子」

    今年のノーベル平和賞はバングラデシュの経済学者ユヌス・モハメッド氏と、彼が設立したグラミン銀行が選ばれた。グラミン銀行の中心業務は、発展途上国の貧しい人々への融資である。健全な投資プロジェクトを持っているのに、貧乏だからという理由だけで融資を受けられずプロジェクトを実現できない。(金融)市場から見捨てられていたこのような人々に、いかに融資へのアクセスを与えるかということが、グラミン銀行が知恵を絞りながら見事に克服した課題だった。このような試みは真に美しいものでござる。   実は僕が担当するSGRA「グローバル化と日本の独自性」チームの最初のフォーラムでグラミン銀行を取り上げた。このフォーラムで僕が発表したのは、「日本のODAの効率性をいかに向上させるか」という問題だった。欧米と異なって、日本のODAは円借款に偏る傾向が強い。これは贈与を重視しがちの他の先進国と正反対のやりかたである。日本側は返済義務を課すことによって披援助国に「自助努力」が生まれると説明している。たしかに「自助努力を側面から支援する」というのが日本ODAの理念である。もっと広い観点からいえばこの自助努力理念は日本独自の「共有型成長」という開発経験の原動力ともいえよう。自助努力と共有型成長を狙うグラミン銀行の融資と全く同じという意味で、日本のODAはノーベル賞をもらえるはずである。   でもこの数年間の日本の動きを見ていると、さすがの僕も疑いはじめている。なぜなら、日本は「アヒル」であると思い込んでいる影響力のある経済学者が多すぎる。彼らは世界の一流教育機関の出身で、専門知識はノーベル並みに優れていることは間違いない。ただ、彼らの専門は「アヒル」であり、当然のように日本をアヒルとみなしている。いや、より正確に言えば、彼らが受けた専門教育において馴染んでいた「アヒル」とどこか違うので、日本は「醜いアヒル」である。ある日、この「アヒル」が風邪をひいて元気がなくなったので診察してもらったら、この専門家は「体重が普通のアヒルと比べて重すぎるので厳しいダイエットすればきっと元気になる」と診断した。読者の皆さんは、この喩えの主人公がどのような鳥かお分かりと思うので、以上のような診断が逆効果しか生まないことは明らかであろう。実は日本経済の長引く低迷にも繋がったといっても過言ではないであろう。   悲劇がそこだけで終わればよかったのだが、このような誤った診断は日本システムのあらゆるところで行われた。診断書には「首が長すぎ」て「羽が白すぎる」などと書いてある。日本の場合に言い換えれば、「目立ちすぎ」て「時代遅れ」なので「抜本的な改革が必要」という。   昔、佐藤栄作元総理大臣の時、日本の「非核三原則」が認められてノーベル平和賞を受賞したことがあった。背景には広島と長崎の被爆経験と、その結果ともいえる日本の平和憲法がある。非核三原則や平和憲法も実に美しいものでござる。ところが、今の日本のリーダーたちにとっては、あの戦争の経験者の存在が薄くなっているせいか、これもだんだん見えざるものになりつつある。   経済学者にとって「美しいノーベル賞」といえば、ゲーム論でノーベル経済学賞を受賞したJ.ナッシュ教授のことを思い出す。彼の人生を参考にした「A Beautiful Mind」という映画までできた。天才であることはBeautiful Mindそのものであるかもしれない。「Mind」というのは「心」と訳してもいいと思う。あの映画から教えてもらったのだが、ナッシュ氏は、SCHIZOPRENIAという精神的な難病を抱えていたが、それを克服した。実在しないものを妄想するような心から、美しいものが生まれるわけがない。やはり、人間は心に正直になってはじめて美しくなるのであろう。   日本では「醜いアヒル」の年ばかりだ。早く「美しいハクチョウ」の年が来てほしい。   ※以上、渥美理事長、今西代表、渥美財団やSGRAの関係者や支援者のみなさんへの私の年末のご挨拶とさせていただきます。来年も宜しくお願いします。   -------------------------- マックス・マキト(Max Maquito) SGRA運営委員、SGRA「グローバル化と日本の独自性」研究チームチーフ。フィリピン大学機械工学部学士、Center for Research and Communication(現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、テンプル大学ジャパン講師。 --------------------------  
  • 2006.12.08

    エッセイ020:葉 文昌 「台湾の通勤電車でガムと飲食が禁止されたことについて」

    昔、あるアメリカ人から「シンガポールは最も嫌いな国だ」と聞かされたことがある。「なぜなら、ガムを噛んだだけでお尻を鞭打ちされるからだ」と。なるほど、ガムを吐き捨てる行為は他人に影響を及ぼすからいけないが、噛むことは誰にも迷惑をかけないから禁止するのはあまりにも自由がない。僕は「シンガポールは街が綺麗な国」という良いイメージを持っていただけに、この外国人の言うことが新鮮な意見に映り、「さすがは自由なアメリカ人だ」と思った。   時も場所も変わって2001年、僕は自由な日本から台湾に戻ってきた。悲しいことに台北のMRT(Mass Rapid Transport 通勤電車)ではガムはおろか、飲食もいけない(「飲」からして水も含まれる)。でもここまでは一企業の規定だからいいとしよう。しかし2004年、国会で「MRTではガムと飲食をしてはならない。勧告に応じないものは1500-7500元の罰金(約5000-25000円)」と言う法律が可決されてしまった。これで電車の中でガムを噛んだり水を飲んだりすることが法律で禁止されたことになる。自由が奪われた気分だ。   可決後の2004年4月28日の新聞記事の一部を紹介しよう。「台湾MRTでは先進国を見習ってMRT内と駅での飲食、ガム、タバコ等を厳格に禁じてきた。しかし現在の法令では『吐き捨て』についてのみ罰せられるので、取締りができなかった。今回の法改正により、以上の行為をした者に対して、勧告に応じない場合罰せられるようになった」。   庶民の反応はどうだろう。同僚との議論では、全員規制に賛成だった。ネット上の意見を見てみると・・・「この規制はいい。少し我慢すればいいことだからね」、「華人の公衆道徳を顧みて、強烈賛成」、「この改革に賛成。さもなければMRTは滅茶苦茶になる」、「シンガポールのように全面禁止すればいい。処罰は同じく鞭打ち。そうすれば誰も食べなくなるだろう」。圧倒的大勢は賛成のようだ。   日本ではこのような規制についてどう思われるだろうか。おそらく僕が考えたように「そんな窮屈な!」と思うだろう。しかしよく考えてみれば冒頭の「誰にも迷惑をかけなければいい」の論理に一貫性をもたせるならば、自衛目的の銃の所持も、ポルノも、麻薬もいいことになる。これらは何れも日本では規制されている。アメリカ人から見れば、日本は窮屈な国と映るだろう。しかしアメリカもオランダ人から見れば一部窮屈だ。そしてアメリカ人も銃規制されたオランダ人を窮屈に思うだろう。こうしてしまいに揚げ足取り論議になる。世界を見渡せば、おそらく全部自由な国はない。どの国でも現状として「誰にも迷惑をかけないからいい」は通用しておらず、どこかしら規制は存在している。だから他国の規制されたものを見て「あなたの国は自由ではない」と言うのは五十歩百歩である。   規制はその社会にとって、最良であればいい。例えば、北欧諸国でポルノを解禁したところ、性犯罪の件数が顕著に減少したという事実がある。慣習や従来の価値観に頼るのではなく、それぞれの社会のその時代の発展に見合って、規制したり、開放したりすればいい。そしてたとえある国の社会で規制の度が過ぎて発展を阻むようなことがあったとしても、それは国際競争で取り残されるだけで、他国に云々言われるものではない。自国の規制に関してはあたりまえ、他国の規制に関しては「自由がない」。これでは自国の価値観の押し付けになってしまう。   こう考えれば、MRTのガムと飲食の禁止は、台湾の社会での最良の選択であって、やむを得ないが受け入れるしかない気がした。数年後の秩序ある社会の創出のため、これからはガムと水をMRT内で意図的に噛んだり飲んだりするのはやめることにしよう。   --------------------------- 葉 文昌(よう・ぶんしょう ☆ Yeh Wenchuang) SGRA「環境とエネルギー」研究チーム研究員 2000年に東京工業大学工学より博士号を取得。現在は国立台湾科技大学電子工学科の助理教授で、薄膜半導体デバイスについて研究をしている。研究や国際学会発表は自分に納得しているが、正論文の著作は怠っており、気にはしてはいないが昇進が遅れている。 -  --------------------------
  • 2006.12.05

    エッセイ019:張 紹敏 「バー・ハーバー:リラックスできる町」

    <北東アメリカから(その2)>   8月初め、共同研究のために、メーン州のバー・ハーバーにあるジャクソン実験室を5年ぶりに訪ねた。ちょうど夏休みだったので、娘と二人で行くことにした。私が住むニュー・ヘブンからは、北へ車で8時間かかる。前回3歳だった娘はほとんど寝ていたから、今回は毛布とクッションも車にいれた。しかし、道中、娘は合唱団で覚えた歌をずっと歌っていて、退屈する暇もなくメーン州に入った。日曜日だったが、ジャクソン実験室の研究員である友人のボウさんに電話したところ、バー・ハーバーの手前の港町ラックランドで釣りをしているという。日本に行って間もないころ、よく釣りにいったことがあるのだが、この十数年はほとんどしていない。久しぶりに、夕暮れ時まで一緒に釣りを楽しんだ。娘も生まれて初めてスズキを釣った。   バー・ハーバーは、アカディア国立公園に含まれるマウント・デザート島の中の、最も大きな町である。夏場のバー・ハーバーは実に魅力的だ。大きなロブスターの看板のかかったレストラン、さまざまな工芸品の店、ショッピングを楽しむ歓光客、白い帆船やクルーザーが停泊する港の前の芝生の広場には、のんびり休日を楽しむカップル達。ギャラリーもレストランも地元の素朴さがいっぱいだ。バー・ハーバーから海岸沿いに遊歩道があり、国立公園の素晴らしい景色を満喫しながら探索することができる。良く整備されたキャデラック山の上に足を伸ばせば、澄んだ湖、青い原生林、岩の海岸、そして際限なく広がる大西洋が見渡せる。   冬は長くて寒いので、夏場の季節だけここに暮らす人もいる。5年前にジャクソン実験室の研究会に出席した時には、この港の近くのアパートを2週間借りた。オーナーは国際線のスチュワーデスで、冬になると南の地方にある家に住みながらアジアへ行くフライトで勤務しているが、夏になるとバー・ハーバーに戻ってきて、楽しみながらギャラリーを経営しているということだった。   バー・ハーバーはアメリカ本土で最も東に位置するので、日が昇るのは早い。私の仕事も早めに始めた。ジャクソン実験室は、マウスの遺伝子解析やヒト疾患の動物モデルの研究で、世界的に有数の高レベルの研究所である。日本も含む世界各地から研究者がここに集まり、研究成果である疾患モデルを世界各地へ発送している。数年前、ジャクソン実験室の動物舎が火事になったことがあったが、世界中から支援を受けて再建された。静岡県にいる私の親友も寄付したと言っていた。このすばらしい自然環境の中で一流の研究が生まれるのだ。リラックスできることが、良い研究を生むための基本かもしれない。研究データ捏造は、最近に限らず、日本、韓国、中国、アメリカなど世界各地で発覚している。科学研究の本筋から外れてしまったのだ。研究者が研究を職業として生きているのが現実としても、競争原理の導入は科学研究に相応しくないのではないか。   2日間はあっという間にすぎた。この間はボウさんの奥さんにベビーシッターをしてもらい、娘も近所の6歳の女の子と友達になった。この島で働く中国人は、5年前には4―5人だったが、今や30-40人のコミュニティーになっている。娘とその女の子を一緒に抱きしめて、「さよなら、来年また来るよ」と言った。大変忙しい2日間で、一度もバー・ハーバーの町に行けなかったので、帰り道にちょっと寄ってみた。5年前に住んでいたアパートの隣のギャラリーに入ったら、オーナーの彼女が居て、「あなたは5年前ここに来た女の子ですか?」「お母さん元気ですか?」と、5年前に母親も一緒に来たことをまだ覚えていた。今は季節による生活をやめ、家族と一緒にバー・ハーバーで通年暮らしているということだった。   ------------------------------------------------- 張 紹敏(チャン・シャオミン Zhang Shaomin) 中国の河南医学院卒業後、小児科と病理学科の医師として働き、1990年来日。3年間生物医学関連会社の研究員を経て、1998年に東京大学より医学博士号を取得。現在は米国エール大学医学部眼科研究員。間もなくペンシルベニア州立大学医学部神経と行動学科の助理教授に異動。脳と目の網膜の発生や病気について研究中。失明や痴呆を無くすために多忙な日々を送っている。学会や親友との再会を目的に日本を訪れるのは2年に1回程度。 -------------------------------------------------  
  • 2006.12.01

    エッセイ018:ボルジギン・フスレ 「ウランバートルの宴会」

    8月にウランバートルで行われた国際モンゴル学会(IAMS)主催の第9回国際モンゴル学者シンポジウムの開会式に出席したモンゴル国のナンバリン・エンフバヤル(Nambaryn Enkhbayar)大統領は、自分の別荘で盛大な歓迎宴会を開いて、参加者全員を招待した。宴会は3時間以上つづき、大統領は、参加者の要求に応じて、一人ずつ握手し記念写真をとらせた。これまで、数回、国際シンポジウムに参加したことがあるが、一国の最高指導者が開会式に出席し、歓迎宴会を開き、そして一緒に記念写真をとるのを許したのは、私にとっては、初めてのことだった。これは、モンゴル国がこのシンポジウムを、どれほど重視しているのかを示していると同時に、大統領の親切さも切実に感じられた。   大会2日目の夜は、アメリカ在モンゴル大使館とアメリカモンゴル研究センターが、シンポジウムの参加者全員を歓迎する宴会を共催した。宴会の前、一部の研究者はわざわざホテルにもどって、よそゆきの服に着替えた。宴会場に行くバスの中で隣に座った中国のエリート大学のC教授が、スーツを着てネクタイもちゃんとしめているので、「暑くありませんか?」と聞いてみた。彼は、「アメリカ大使館の招待なので、きちんとしないと」と真面目に答えた。私はTシャツを着ていたので、自分の服装は失礼なのではと少し心配した。   宴会場に着いて30分ほど待った後、やっと会場に案内された。立食の宴会が始まった。私は、まず飲み物をもらう列に並んだ。自分の前に並んだ人は10数人しかいなかったにもかかわらず、たくさんの人が割り込んできたため、結局、ビールを手にしたのは30分後のことだった。ビールをもって、料理のテーブルへ行ってみたら、そこには食べ残しのお皿しか残っていなかった。「テーブルの前に立って待てば、料理はちゃんと来るよ」と隣の人が教えてくれた。話している間に、ピザやフライドチキンなどの料理が運ばれてきた。しかし、紙皿も全部使用済みだったので、私は他の人を真似て、手元のフォークでチキンを刺して、少し空いているところに行って食べようと思った。そこへ、日本人のO教授が来て、「フスレ君、まだ帰らないのか?」と聞いてきた。彼はちょうど帰るところだった。「えー、まだ“始まったばかり”ではないですか」と私は答えたが、「日本人の研究者はもういないよ」と彼は教えてくれた。会場を見渡してみたら、来場した日本人の研究者のほとんどは、すでに姿を消していた。   ちょうどその時、内モンゴル大学のオラスガル教授が招待してくれたので、O教授の案内で、わたしたち3人は、スフバートル広場のそばにある日本人経営の居酒屋に行った。小さな居酒屋だったが、小泉首相(当時)のモンゴル訪問を報道する日本人の記者がたくさんいたので満員だった。店長はなんとかして、私たち3人も入れてくれた。料理は確かに本当の日本料理なので結構人気があるようだった。店内も日本の雰囲気だったが、入り口の左側にはレーニン像、右側にはスターリン像が並べられており、わたしたちの席のとなりの本棚には毛沢東の像が置かれていた。食事をしながら、さきほどの宴会が話題になった。私は「よそゆきじゃなくて、Tシャツのままで、あのアメリカ的なユーモアを経験したのは幸いだった」と言った。   3日目の晩餐は、主催者(IAMS)側の招待だった。宴会場で、ヘルシンキ大学のA氏が、「今日は、日本大使館が日本の研究者を招待することになっているではないですか」と不思議そうに言った。確かに当日まで、日本大使館の人が来て、招待状を配っていた。招待されたのは、日本人の出席者のみだった。アメリカ人のやりかたと比べて、日本人のやりかたははるかに賢い。20数ヵ国400人以上の出席者を招待するより、数十人の日本人の研究者のみを招待する方がだいぶ節約できる。 「知っているけど、招待されたのは日本人の研究者だけだよ」と私は答えた。 「あなたは日本の研究者ではないのか」と彼はまた聞いた。 「内モンゴルから日本に行った者なので、日本人の研究者とはやはり違う」。 「でも、あなたは日本の大学で働いているのではないか」と彼はとことん尋ねてきた。 「まあ、内モンゴル人なので、日本国籍ではないし、日本の大学で働いているとはいえ、私個人は非常勤なので、招待されるわけはないよ」。 わたしの答を聞いても、彼は首を振ってなかなか納得できなかったようだった。   その時、2年前の夏に中国で行われたある国際シンポジウムのことを思い出した。私を含めた数人の日本から来た内モンゴル出身の研究者は、受付で、200ドルの参加費を請求されたのだ。中国国内の研究者ならこの金額の約3分の1だった。私たちは、主催側の責任者の一人に「なぜ私たちを外国研究者として扱うのですか」と聞いてみた。 「あなたたちは、日本から来たのだから、200ドルを払うのは当然だ」と彼は言った。 「私たちは中国から日本に行った者で、国籍も中国なのに」と言ったら、相手は、 「でも、あなたたちは、現在日本で生活し、日本の大学で働き、給料をもらい、日本の大学を代表しているではないか」と答えた。日本大学の非常勤講師B氏が大変怒って、 「私たちは日本でのシンポジウムに参加するとき、いつも外国人として扱われている。自分の国に戻ってきても、外国人として扱われる。私たちはいったいどこの国の者なんだ」と言った。口論は続いたが、結局、私たちは、日本の研究者として、200ドルの会議費を支払わざるを得なかった。   ウランバートルの宴会の話に戻ろう。閉会の日、シンポジウムに出席した研究者のリストがくばられた。シンポジウムに参加した内モンゴル出身で、日本の大学で働いている人の名前は、すべて中国の研究者リストに並んでいた。数年前、内モンゴルからイギリスに行き、ケンブリッジ大学で博士号を取得し、現在アメリカのニューヨーク市立大学ハンター・カレッジ準教授のE.B氏の名前も中国研究者のリストに入っていた。実は、アメリカ国籍になっている彼は、現在、中国のビザを申請するのも困難だという。彼は日本にも数回来たことがあり、日本では、内モンゴル出身のアメリカ人研究者として知られている。閉会式後の宴会は、モンゴル国の女優と結婚したドイツ人の企業家がつくったホテルでおこなわれた。私はE.B氏に、「あなたは、まだ中国の研究者になっていますよ」と、そのリストについて話した。 「そうか、祖国はまだ私を忘れていないのか」と、彼は大いに笑った。   ------------------------ ボルジギン・フスレ(BORJIGIN Husel) 博士(学術)、昭和女子大学非常勤講師。1989年北京大学哲学部哲学科卒業。内モンゴル芸術大学講師をへて、1998年来日。2006年東京外国語大学大学院地域文化研究科博士後期課程修了、博士号取得。「内モンゴル自治運動における内モンゴル人民革命青年同盟の役割(1945~48年)」など論文多数発表。  ------------------------
  • 2006.11.29

    エッセイ017:今西淳子 「続・バシコルトスタン共和国訪問記」

    「民族友好パレス」の建設現場を見学しました。リシャットさんは、この地域のランドスケープ・デザインのコンペで優勝し、その中に含まれている民族友好パレスの施工がさっそく始まっているわけです。工事が急ピッチで進んでいるのは、2007年の秋、ロシア中の共和国の首脳が集まる大会議がここで行われる予定だからです。プーチン大統領も来るのだそうです。   現場について最初にびっくりしたのは、建設現場管理方法の違いでした。日本の建設現場は、まわりが塀で囲まれ、入り口には数人の警備の人が立っていて、人や車の出入りを管理しています。勿論、リシャットさんと一緒だったので、誰にもとがめられることなくどんどん現場にはいれましたが、もしかしたら誰でも入れてしまうかも・・・・既に巨大な建物のコンクリートの床と壁はできていました。友好パレスのエントランスからショッピング街になる部分の屋根の上に行きましたが、とにかく広い。高台の建設現場から川岸までの広大な斜面にあった広葉樹は全て伐採され、一部は針葉樹を、一部は芝生を植えていました。おそらく、ランドスケープの工事は、短い夏の間に全部しなければならないのでしょう。現場のすぐ横に、労働者用の簡易宿 舎がありました。リシャットさんが、「この人たちは、北朝鮮から来ているんですよ」と説明してくれました。   その後、リシャットさんが設計した競馬場の工事現場を見に行きました。こちらはもうほぼ出来上がっていました。リシャットさんの設計事務所では、空港のターミナルも設計中だそうです。これだけのプロジェクトをしているのですから、リシャットさんは、今や「時の人」で、雑誌(?)に特集されていたりしていました。   奥様のさえこさんと生後7ヶ月のけんちゃんと一緒にランチをしました。奥様は東京で編集のお仕事をしていますが、現在産休中なので当地に来ています。なにしろコンペに当たってから全てが想定外になっており、今後のことは未定のようでした。ウファに来ても、リシャットさんは忙しすぎるから、義理のご両親と一緒にサナトリウム(保養地)に行ってきたそうです。山やステップ地方の澄んだ空気と、多様な効能成分と特質を有する鉱泉や治療用泥土はバシコルトスタンをロシアでも指折りの保養地にしているそうです。「けんちゃんは、何語で育てるんですか」と聞くと、お二人とも迷わず、お母さんは「日本語」、お父さんは「バシキール語」。その時になって、はじめて、バシコルトスタン共和国では、標識などはロシア語とバシキール語の ふたつの言語で併記されていることを知りました。どちらも英語のアルファベットではないので、私には区別さえつかないわけです。けんちゃんは、日本語とバシキール語とロシア語と多分英語の最低4ヶ国語はマスターしなければならないということでしょう。リシャットさんの中に、不思議にもバランスよく共存している、バシキール人とロシア人のアイデンティティーは、けんちゃんにはどう伝わっていくのでしょうか。   午後7時をすぎてからウファの町を観光しました。とても高い塔のあるモスクに行きました。バシコルトスタンは、イスラーム教の国で、モスクがいくつかありますが、毎日のお祈りに集まるという習慣があるのはごく一部の(お年よりの?)人たちだけのようです。昨晩、一緒に田舎に行った旅行会社社長のグリニサさんが、乾杯しながら「私たちはモスリムですけど、何でも食べるし、お酒も飲むの」と、ちょっと恥ずかしそうに教えてくれました。スカーフをかぶっている女性も殆ど見かけません。宗教の戒律が非常にゆるやかに守られているわけです。最後に、川をわたって、反対側からウファの町を眺めました。ウファは3方を川に囲まれた高台の上にある町で、そ の北側の3分の1くらいは、巨大な石油関係の工場関連施設であることが一望できました。ウィキペディア(インターネット上の百科事典)によると、バシコルトスタン共和国の経済はもっぱら石油工業に依存しており、産業の大部分は私有化され、大統領の親族に支配されているということですから、今後、ウクライナをはじめ旧ソ連から分かれたいくつかの国々が経験した民主革命のようなことが起こりうるのでしょうか。   バシキール語で「ありがとう」は「ラフマット」と言うと聞きた時、思わず「ウィグルと同じじゃない」と叫んでしまいました。今年の5月に、中国新疆ウィグル自治区のウルムチに、SGRA会員のアブリズさんを訪ねて行った時、恥ずかしながら唯一覚えたウィグル語だったのです。両者ともトルコからの影響を受けているわけですが、私から見ると、リシャットさんとアブリズさんは対照的です。今まで、むしろ大国の中で主流の民族と文化に抵抗している少数民族の方々に接することの方が多かったので、リシャットさんの中にバシキール人としての誇りと、ロシア人としての誇りが同時に存在していることや、バシコルトスタン共和国がロシア連邦と上手く関係を保っていることの方が、むしろ変わっていることのように感じられます。同じロシアでも、チェチェン共和国のように、ロシア連邦からの独立派が弾圧され、さらにテロリストが入り込んで、めちゃくちゃになってしまっているところもあるのです。中央アジアの政治的、宗教的、民族的な複雑さを垣間見た気がしました。   もし可能であれば、リシャットさんの「民族友好パレス」が完成したら、またウファに行ってみたいと思います。でも、今度はモスクワ経由ではなく、ウズベキスタンのタシケント経由で行こうかと思っています。勿論そうしたところで、空港で8時間つぶさなくてもいいという保証はありませんが。   ★バシコルトスタン旅行中の写真は、下記URLからご欄いただけます。 http://www.aisf.or.jp/photos/index.php?spgmGal=Russia%20August%202006   ★ウルムチを含む私の「ゴールデンウィークの中国旅行記」は、下記URLからご覧いただけます。 http://www.aisf.or.jp/aisf_private/aisfnews-j.htm   --------------------------- 今西淳子(いまにし・じゅんこ) 学習院大学文学部卒。コロンビア大学大学院美術史考古学学科修士。1994年に家族で設立した(財)渥美国際交流奨学財団に設立時から関わり、現在常務理事。留学生の経済的支援だけでなく、知日派外国人研究者のネットワークの構築を目指す。2000年に「関口グローバル研究会(SGRA:セグラ)」を設立。また、1997年より異文化理解と平和教育を促進する青少年交流事業を行うグローバル組織、CISV(国際こども村)の運営に参加し、日本国内だけでなくアジア太平洋地域や国際でも活動中。 -----------------------