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エッセイ087:五十嵐立青 「アメリカ滞在記(その1)」

2007年1月29日から2月10日の2週間の日程で、財団法人日本国際交流センター、国際交流基金、米国青年政治指導者会議(American Council of Young Political Leaders:ACYPL)共催による「日米青年政治指導者交流プログラム」の第20回訪米団の一員として渡米する機会に恵まれた。ここでは、プログラム中に出会った「アメリカ」と「アメリカ人」を描写してみたい。

 

①ホワイトハウス前の反戦老女と民主主義

 

ホワイトハウス前には、30年近く住み込んで反戦を訴えている老齢の女性がいた。日本の新聞を片手に彼女の活動が日本でも紹介されたことを訪米団に訴えていた。ロシア系アメリカ人の観光ガイドは「ここは民主主義の国アメリカだから、彼女は何十年間もホワイトハウス前の一等地で反戦の主張をすることが許される」と誇らしげに語る。米国の民主主義を説明する観光スポットとして利用されているとも捉えられる彼女は確かにアメリカ国民であるが、アメリカの積極主義に明確に反対をしていることは疑いないだろう。

 

②職域の流動性

 

その老女が抗議を続ける眼前にそびえる白塗り建築物の内側では、米国の様々な政策決定が政治家と政策スタッフによって行われている。大統領が変わることで大統領府の主要スタッフが事務部分を除いて全て入れ替わる。ホワイトハウスの人事担当者は、共和党政権でレーガンとブッシュ(第41代)に仕え、民主党のクリントンが就任した際にホワイトハウスを離れ、ブッシュ(第43代)の就任と共に呼び戻されたと話していた。徹底したリサーチを行うことで有能な人材を確保する。ホワイトハウスの政策スタッフの背景はみな違っていたが、多くは民間会社での経験、あるいは自らビジネスを起こし成功を収めているし、人事担当官はNPOなどのより広いキャリアからも人材を求めていることを主張していた。国家の中枢をなす組織において、このような人材の流動性が示されることは、米国社会に職域への固定観念が存在しないことの象徴であり、公と私を含めた移動も容易に行われることを意味する。

 

③デューク大学の公と私

 

公と私の垣根の低さは、大学にも見て取れる。デューク大学は、研究補助金以外は政府から一切補助金を受け取らない私立大学である。その私立大学の学是は、「ノースカロライナに優秀な人材を輩出し地域に貢献すること」であった。米国の医療従事者の育成システムは日本と違い、メディカルスクールに入るためには通常の学部卒の資格が条件となる。医学部長によれば、18、9歳の少年少女は、自分が医師になりたいかどうかなど本質においては分からないというのである。ロースクールにおいても同じ制度が採用されている。このことは逆の見方をすれば、社会的責任のある立場につく人間であるほど、未来を自らの意思と選択によって獲得する必要があり、それを社会に還元することを求められているとも言える。社会的責任とは既に公共との接点であるが、その責任を果たすためには自己を確立していることが絶対条件となるのであろう。

 

④移民としてのキシモト=ヨリコ市長のアイデンティティ

 

それでは、自分を確立するとはどういうことであろうか。日本で生まれて、幼少の頃米国に移住したパロ・アルト市のキシモト市長は、初の「日本で生まれた」米国自治体の市長である。パロ・アルト市では市議の互選で市長が選ばれるが、市議選の投票のうち7割近くの得票を得たキシモト氏が市長になるのは必然であった。選挙戦略としてキシモト市長の周囲からは「米国名を持つ夫の苗字を使うべき」と言われたが、本人は自分の日本人の名前を使い続けることにこだわったとのことだった。日本人が決して多くない街で、それは有利になることではなかったのであろうか。日本名を通じて有権者に伝わったものはその意思であったのか、あるいは有権者は名前よりも政策によって投票したのか、それを知る由はないが、一つ確実なのは、有権者はキシモト=ヨリコという一人の「アメリカ人」の存在を受け入れたことである。キシモト市長と話をしている間、自分が誰を代表しているのか、自分は誰なのか、というアイデンティティは、常に明確なメッセージとして伝わり続けた。

 

⑤ACYPL卒業生の使命と帰属意識

 

アイデンティティという意味では、滞在中各地でプログラムの日程調整を行ってくれたACYPLのコーディネータの経歴は様々であったが、自分が何者であるか、という点を明確に主張することは同様であった。現在の仕事への使命感は持っていても、それが所属する組織への忠誠心とは直結するものではなく、組織は自分を守ってくれる存在ともならない。どのような積み重ねを行ってきて今の自分があるか、について謙虚さを示しながらも話をすることにためらいを持たない。とりわけ、自分のキャリアで特化してきた部分、あるいは自分の専門分野については、通常の会話においても強調されることが多かった。専門性とは、人種的バックグラウンドと同様程度までに、あるいはそれ以上にアイデンティティを形成しているように感じられた。

 

⑥個人の専門性と組織としての効率

 

専門性は、行政の現場においても大きな意味を持っていた。サンフランシスコ市では、日本を良く知る市長室国際貿易・通商担当ディレクターが対応し、米国の行政制度が日本といかに違うかという視点から説明してくれた。米国ではシティ・マネジャー制度を採る市、市長・議会制を採る市など多様である。その中で共通しているのは、行政官の持つ専門性である。彼自身が国際貿易を担当し続けて市長室のディレクターとして4代の市長に仕えているとこのことであったが、米国では日本のように定期的な部署の異動はない、と強調していた。都市計画関係の企業で働いていた人間が市役所で働くことになって財政部にまわることはない。工学を学んで来た学生が採用されて、法務部に行くこともない。2年、3年で部署が異動することは米国の感覚で言えば極めて非効率的・非合理的なことである。このような仕組みに、専門性を持つ人間が一人前の市民としての評価を受け、上昇していく社会構造の一部が見て取れる。

 

⑦市民となり得ない個人

 

その一方で、個人主義・自己責任の枠から漏れた人々にとっては、厳しい社会であることも事実である。ノースカロラナイでのコミュニティクリニックに関する説明で話されたように「DVの彼(夫ではない)を持つ薬物中毒でエイズのシングルマザーの子ども」が病気にかかっても、母親にとってその子の治療の優先順位は極めて低く、社会から断絶された状況が続く。そのような境遇に置かれている個人にとっては、スタートラインに立つことも困難である。

 

結果として競争のチャンスも与えられず、社会から阻害されている人々や、移民として米国に来ながらも適応できない人々がどのような困窮の立場にあるか、と言う話は各州・各自治体で聞いた。日本で格差社会と言えば、労働者の賃金格差から来る家計の圧迫の議論が中心であり、明日の生活のあてがないホームレスや生活保護世帯が中心とはならない。米国には、比較にならない格差が存在している。訪米団として接したメンバーは、その上流にいたことは間違いなく、いわゆる市民社会を形成している側であった。「市民」の言葉に包摂された階層が都市部の合理的な判断可能な裕福層であった19世紀半ばのヨーロッパにおけるように、その「市民」(定義の仕方によっては、現在の米国のほうがより狭い定義になる可能性もある)の枠から外れれば、やはり境遇は当時のヨーロッパと相違ないかもしれない。

 

 
⑧市民となり得ない個人を救う市民

 

そのような人々を救う活動もある。デューク大学の医学部においては、貧困層の初期治療をボランティアで積極的に行っている。当然弱者を守るという理念があるが、安易な理想論のみが存在しているのではない。現実に、早い段階で地域クリニックにおいて医療サービスを適切に提供することで、救急患者を拒否できず忙殺される大学病院に時間を生み出し、本来果たすべき高度医療を維持する。そのような役割分担を目指した活動が行われている。弱者を守るという医療従事者としての心構えがあり、それが同時に大学病院にも地域にも貢献することになる仕組みがある。
(つづく)
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<五十嵐 立青(いがらし たつお)☆ Tatsuo Igarashi>
つくば市議会議員。1978年生まれ。筑波大学国際総合学類を卒業後、University College Londonで公共政策修士号取得。2004年より筑波大学に戻り、国際政治経済学博士号取得。アカデミアの理念と現場のリアリティをつなぐ活動を展開中。
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