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エッセイ085:ボルジギン・フスレ「日本語を通してみた日本文化(その1)」

このテーマを書いて、自分も笑った。テーマが大きいだけではなく、わたしの専攻は言語学ではないので、日本語もそれほどうまくない。「釈迦に説法」と知っていながら、わたしはあえてこれをテーマにする。素人だから、笑われてもかまわない。

 

日本に来る前、専門家たちによって書かれた日本の文化についての本を読んだとき、「日本人は曖昧な民族で、日本文化は曖昧な文化だ」ということばをよく目にした。しかし、どこが曖昧なのかがよくわからなかった。日本に来て、本格的に日本人と付き合い始めてから、だんだん「日本文化の曖昧な」ところがわかるようになった。それは、最初、日本人とコミュニケーションをとるときに使う言葉自体を通して、強く感じたのである。

 

来日当初、わたしは池袋のある会社でアルバイトをした。会社は職員に朝食を無料で提供することがわかっていたので、わたしは一日目、何も食べずに出勤した。食堂で、みんなに挨拶した際、「フスレさん、朝食はどうですか」とわたしのパートナー、60代のYさんに聞かれた。「はい。いいです」とわたしは答えた。着替えてから食堂にもどって、朝食を食べようとテーブルの前に座ったら、Yさんはテーブルの上のパンや玉子などをすべて片付けてしまっていた。おかしいな、パンを食べたいのに、どうして片付けてしまったのだろうか、もしかして自分は着替えで時間かかりすぎたのかと不思議に思った。しかし、時計をみると、働く時間までまだ15分ぐらいの余裕があった。結局、朝食をとらず、空腹のままで働いて、昼休みまで我慢した。それ以降、わたしは、いつも家で食事をしてから出勤するようになった。

 

のちに、わたしはここでの「いいです」は「否定」の意味だということに気づいた。日本に来る前、わたしは「いいです」ということばを習ったことがあるのだが、「先に食べてもいいですか」「いいです。どうぞ」のような使い方だった。すなわち、「認め、許可、よい」として理解していた。「いいです」は「否定」「いらない」という意味もあるとは思いもよらなかった。日本人は、子供のときから慣用として固定してしまった言い方だから、「不思議」と思わないが、はじめて日本に来たわたしには、曖昧で、理解しがたかった。簡単なことばだが、使う場面により、意味がまったく異なる。

 

同じような例は、日本語の挨拶のなかにも存在する。家の近くに住んでいるおばあさんとあう時、彼女はいつも常套句の「ごめんください」という挨拶から、話が始まるのである。しかし、話し終えて別れる際、彼女もいつも「ごめんください」と言う。これは矛盾じゃないかと思って、辞書を調べてみたら、「ごめんください」は、訪問、辞去、断り、あやまるときなどの表現だ。

 

日本語を使えば使うほど、その奥深さがわかる。だから、「日本語は曖昧ではなく、あまりにも明晰すぎる」と主張する人もいるのだ。実は、よく考えると、どこの国の文化にも矛盾の面がある。日本の文化を理解するには、日本語が上達する必要があるのだ。日本での生活に慣れるにしたがって、日本人は話をするとき、言葉遣いには慎重で、婉曲な表現を使うのが好きであり、ことばには含蓄があるということがわかった。これは、日本人からすれば、美徳とも言えるのだが、外国人には、それは曖昧で、複雑すぎると思われる。

 

冒頭のバイトの話に戻ろう。その会社で働き始めたら、さらにさまざまなトラブルがおきた。はじめて、ある機械を操作した際、Yさんが、わたしに「グリーンしてください」という指示をだした。「グリーン」ということばを聴いて、ちょっと戸惑ったが、すぐ「グリーン」は緑色を指しているとわかった。しかし、機械のスイッチを見たら、赤、青、白色のスイッチしかなかった。「緑色のスイッチはどこにあるんですか?」とわたしが尋ねると、「真中、真中のスイッチが見えないの?」とYさんは声を荒らげた。「真中のスイッチは青色だよ」と、色盲ではないわたしは確信して言った。「そう、それだよ。それを押して」とYさんがやってきて、自らその青色のスイッチを押した。青色なのに、なぜ「ブルー」ではなく、「グリーン」というのかが、わからなかった。逆に、日常生活で、緑色の信号なのに、日本人はみんな「グリーン信号」と言わず、「青信号」と言う。わけがわからない。

 

色に関する表現と言うと、たくさんの事を思い出す。約7年前、わたしが別の会社で働いていた時、その会社は内モンゴル製のカシミヤ製品を日本に輸入することをきめた。サンプルを取り寄せたとき、社員たちが教えてくれた色の中には、オフホワイト、シアン、ラベンダーのほか、水色、狐色、ネズミ色などもあった。水色は「薄い青色」なのか、「薄い緑色」なのか、あるいは「白でもない、青でもない、透明な色」なのかがわからなかったため、ある社員に聞いた。その社員は「空を想像すれば、わかる」と答えた。知恵に満ちた答えだが、日本では「澄み切った青空」とよく言うので、その色はやはり水の色と違うのではないかと思ったわたしは、さらにネズミ色はどんな色なのかとその社員に聞いた。彼の説明によると、ネズミ色はどうやら「灰色っぽい色」だった。「しかし、うちの故郷のネズミは灰色のものもいれば、淡い褐色や普通の褐色のものも少なくない」とわたしが言うと、「君のふるさとのネズミは特別だ。国際的には、ネズミの色は灰色だ」と教えてくれた。

 

「なるほど、よく勉強になった」とわたしは「納得」しながら、「日本ではゴキブリが多いから、“ゴキブリ色”はないですか」と聞いた。その社員が「“ゴキブリ色”って、気持ち悪いじゃない。そんな日本語はないよ」と答えた。しかし、わたしが「ネズミ色」ということばを聞いても、「気持ちが悪い」と感じるのだ。

 

とは言え、仕事は仕事だ。わたしは一生懸命、辞書やインターネットなどを利用して、何とか彼らが作成した文書を翻訳した。ところが、内モンゴルのカシミヤ会社の担当は、わたしが送った文書の中の色についての説明をみて、なかなかわからなかった。幸い、相手はすぐ、カシミヤで作った、実物の色見本を送ってきた。そこには、百数十種類の色見本があって、それぞれ番号がついていて、発注するのに極めて便利だった。

 

のちに、仕事になれるにつれて、わたしは日本語では、色に関する表現は非常に微妙であり、可能な限り、自然のものの色で、色を表示する習慣があるのがわかった。例のネズミ色には、実際、「梅鼠(うめねずみ)色」「茶鼠(ちゃねずみ)色」「藍鼠(あいねずみ)色」「錆鼠(さびねずみ)色」「利休鼠(りきゅうねずみ)色」などがあって、それぞれの色の微妙な差を区別している。「ネズミ色」より、「梅鼠色」などのほうが、わかりやすいのだ。色をここまで細かく分類しているけれど、今の人々は、どれほどそれぞれを区別できるのか、わたしは疑っている。

 

ここで述べたことは皮相なものにすぎないとわかるのだが、ある意味では、皮相なものこそ本質をあらわしているのではないかとわたしは思っている。(つづく)

 

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<ボルジギン・フスレ(BORJIGIN Husel)>
博士(学術)、昭和女子大学非常勤講師。1989年北京大学哲学部哲学科卒業。内モンゴル芸術大学講師をへて、1998年来日。2006年東京外国語大学大学院地域文化研究科博士後期課程修了、博士号取得。「内モンゴル自治運動における内モンゴル人民革命青年同盟の役割(1945~48年)」など論文多数発表。
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