SGRAエッセイ

  • 2022.02.10

    エッセイ696:尹在彦「有効期限切れの『ゼロ・コロナ』政策」 

    コロナ禍の本格的な始まりから2年が経とうとしている。ちょうど2年前のこの時期、筆者は旧正月を迎え、タイと韓国で過ごしていた。タイで中国発のニュース(未確認の感染症が拡散中)に触れつつも、他人事にしか見られなかった。しかし、タイから韓国へ入国してからは潮目がやや変わっていた。武漢から入国した韓国人の感染者が次々と判明される一方で、政府は現地に輸送機を送り込んだ。「おそらくもうすぐ落ち着くだろう」と見て、筆者は同時期に仁川空港から日本へ発った。これが2年も続くとは夢にも思わなかった。   その間、世界は「コロナ前」には戻れずにいる。何年か先と考えられていた技術的かつ文化的な変化は早く訪れた。そこから見えてきた教訓も少なくない。特に国ごとに異なっているコロナ対策は、その国々の特徴を表していると同時に、これからの方向性も示してくれる。こういった状況を踏まえ、本稿ではオミクロン株の流行を受け、「ゼロ・コロナ政策はもはや有効ではない」ということを述べたい。   この2年間、全人類は世界各地で多岐にわたるコロナ対策を目の当たりにしてきた。ロックダウンという移動制限・隔離を中心とした国々もあれば、強制措置よりも市民の自発性に頼った国もある。制限を最小限にしつつもIT技術・個人情報を積極的に活用した国もあった。そうした中で、社会科学においてはコロナ対策をめぐり「民主主義VS権威主義」という図式が議論の対象になった。要するに、「感染症拡大を抑え込めるのは権威主義体制の方」という議論だ。実際に少なからぬ欧米諸国では移動制限という一種の人権侵害が相次ぎ、マスクやワクチンが過度に政治化している。一部では強制接種やマスク義務化のような措置さえ取られている。民主主義の後退ともとられる事象である。   「武漢封鎖」で世界に衝撃を与えた中国がそれ以降、地域的封鎖と大量検査のいわゆる「中国モデル(中国以外では不可能に近いためモデルにはなり得ていないが)」で「普通の生活」に戻ったことも大きい。米中関係の悪化の中であらわになった米国内のコロナ対応の問題点も影響した。米製薬会社(ファイザー社、モデルナ社)が新たな手法でワクチンを開発したとはいえ、国内的には依然として接種率が伸び悩んでいる(2回目が60%台、1月末現在)。米政府の途上国支援もなかなか進んでいない。感染者や死者の数からみると、明らかに欧米諸国は「敗者」に近いだろう。   しかし、こういった状況はオミクロン株の拡散により変わりつつある。これまでの「内向きの閉鎖的な政策」がもはや意味をなさなくなっているのだ。それは、オミクロン株の感染力が類例ないほど高いことと重症化率が低いことに起因している。そのため、オミクロン株の感染拡大を先んじて経験している欧米諸国では生活基盤を支える「エッセンシャルワーカー」に対し最小限の隔離を求め始めている。厳しい水際政策が批判されている日本ですら隔離機関が「7日間」に短縮された(ちなみに、日本ではなぜか感染拡大期なのに今でも入国者に対する施設隔離が続いている。これも日本特有の方向転換の遅さの一面だろう)。コロナを封じ込めることを既に諦めていた韓国でも2月以降、同様に短縮される予定だ。もはや「ゼロ・コロナではオミクロン株に太刀打ちできない」という世界的なコンセンサスが形成されつつある。   全般的に入院患者が増えたとはいえ以前のピーク時のレベルではないという事実も、慎重な中での方針転換の理由とされる。イギリス政府がその先頭に立っており、ワクチン2回接種者に対しては入国時検査を求めないことを始め、感染者・濃厚接触者に対する隔離措置も緩めていく方針だ。新しい変異の可能性も懸念されてはいるが、恐らく方向性としては大方の国がこのようにせざるを得ないだろう。   こうした中で、再び注目されるのが春節(旧正月)と冬季五輪を迎えた中国の対応だ。米有名調査会社、ユーラシア・グループ(Eurasia Group)は1月、「2022年の世界10大リスク(Top Risks 2022)」というタイトルのレポートを発表した。同レポートには興味深い内容が含まれている。中国の「ゼロ・コロナ政策」が持続可能でない点(「No Zero Corona」)が強調されているのだ。これがグローバル経済に対して最も大きなリスクとして挙げられている。   同社は多くの国でファイザーやモデルナの「mRNAワクチン」が普及しており、それがオミクロン株の危険性を引き下げていると指摘する。一方で、中国では同種のワクチンが使用されておらずゼロ・コロナ政策が続いてきたため、免疫力が低い可能性が高い(ただし、この点に関してはまだ科学的根拠は不十分のようにも考えられる)。   ところが、オミクロン株は、これまでの政策では封じ込めることがほぼ不可能に見える。その結果、同社は中国政府が政策転換を強いられるだろうと見込む。要するに、これまで信じられないほど成功を収めてきた中国だが、オミクロン株が政策の抜け穴をつき、逆説的にも中国現地人の低い免疫力が裏目に出るということだ。また、今後の政治日程を勘案すると、これまでの成功体験が政治指導者の方向転換を阻む足かせになり、ロックダウンの繰り返しにつながる可能性もあるとされる。   こういった状況下では、中国が一翼を担っているグローバル・サプライチェーンの乱れにより生じる悪影響も懸念される。その「前触れ」は実際に中国各地で既に目撃されている。西安では武漢以来最も長い33日間も封鎖が続き、食料品流通や医療体制にも問題が起きた。サムスン電子や米マイクロンの半導体工場も操業中止に追い込まれた。天津でも同様の措置でトヨタ工場が打撃を受けている。北京冬季五輪の開催地である北京市豊台区では感染者が次々と確認されている。オミクロン株を完全に抑え込んでいないにもかかわらず、春節(旧正月)を機に中国内では移動が活発になっている。一部の地方政府からは再び移動自粛が再び求められている状況だ。感染力がより高い「ステルス・オミクロン(PCR検査で他の変異と区別が困難な特徴を持つとされる)」も確認されており、ゼロ・コロナ政策は正念場を迎えている。   コロナ禍以降、様々な「政策モデル」の可能性が試されてきたが、次々と失敗(敗北)してきている。韓国しかり、日本しかり、オーストラリアしかり(ただしこの国々が他国に比べ死者が少ないのは事実である)で、次は中国がそれを経験する可能性が高まっている。結局は「どの形でコロナと共存するか」が課題であり、コロナそのものを封じ込めることは極めて困難になっている。これは人間が依然として自然を前にしては謙虚にならざるを得ないという、「当然の教訓」なのかもしれない。     英語版はこちら     <尹在彦(ユン・ジェオン)YUN Jae-un> 一橋大学法学研究科特任講師。2020年度渥美国際交流財団奨学生。2021年、同大学院博士後期課程修了(法学博士)。延世大学卒業後、新聞記者(韓国、毎日経済新聞社)を経て2015年以後、一橋大学院へ正規留学。専門は東アジアの政治外交及びメディア・ジャーナリズム。現在、韓国のファクトチェック専門メディア、NEWSTOFの客員ファクトチェッカーとして定期的に解説記事(主に日本について)を投稿中。     2022年2月10日配信  
  • 2022.02.03

    エッセイ695:謝志海「格差の連鎖を断ち切る」

    今、世界でまん延する格差。とにかくバラエティに富んだ格差がある。所得格差、教育格差、地域格差、そしてワクチン格差なるものまで。どの格差も一見して、今すぐその差を縮めるべきだ!と目を覆いたくなるが、さらに悪いことにこれらの格差は連鎖すると言われている。   特にひどい格差の連鎖は、所得と教育ではないだろうか。所得に格差があると塾などで教育を受ける機会が減少し、受験に不利な立場に追いやられ、レベルの高い大学へ進学できる可能性が低くなる。ひいては給料の高い安定した企業に就職できなかったり、社会人のスタートから正規雇用がかなわなかったりして、次の世代へも高度な教育機会を与えられないという負の連鎖のことだ。この負の連鎖が何世代も続いてしまったらと考えると恐ろしい。しかし、これは日本に限らず中国や韓国でも問題視されている。教育格差における日中韓の共通点は塾をはじめとする受験産業が盛んなことと、大学入学にあたっての入学試験を避けられないという2点だ。   ただし、大学入学試験の部分だけを切り取ると、日本の受験生のプレッシャーはまだマシな方で、中国では全員が「高考(ガオカオ)」というたった一つの試験を受け、その結果だけで進学先が決まってしまう。韓国はみんながトップ中のトップの名門大学に入りたがる。しかし、その数はたった数校。それら数校の卒業生しか給料の良い財閥系の企業には就職できないことをみんな知っているからだ。そう、誰もが格差の下の方には位置したくないのに競争は年々激化し、格差は広がるばかりである。   従って教育格差を受けている者、すなわち今の若い世代の格差疲れは察するに余りある。2021年に初めてNetflixで配信された韓国ドラマ「イカゲーム」はまさに格差社会がテーマで、韓国のみならず日本やアメリカでも大人気となっている。受験戦争がテーマではないが、まさに韓国の格差社会の底辺にいる人たちが主役で、賞金目当てに命がけで子どものゲームに挑戦し、そのゲームの脱落者は死を意味する。このドラマの人気の背景は過酷なゲームシーンだけでなく、ゲーム挑戦者である主要キャラクターそれぞれが抱える闇、階級の低い立場になってしまった過程をじっくり時間をかけて描写したことが視聴者の心をつかんだのだろうと言われている。   このような格差社会への共感に激しく問いかけるストーリー作りについて韓国は得意なようで、「イカゲーム」より前、まだ記憶に新しい映画「パラサイト半地下の家族」(2019)は裕福な家族と生活に困窮した家族のみで繰り広げられる物語で、中間層が一切出てこないことにより、ぞっとするぐらいストレートに韓国の格差社会を浮き彫りにした。この先も手法を変えつつ格差社会をテーマとした作品は生み出され、ヒットしてしまうのかもしれない。   話を中国に移そう。中国では、最近「寝そべり族」という言葉がはやっている。この流行語の背景にも激しい格差社会が横たわっている。競争に疲れた若者を中心に、どうせいくら頑張っても格差が縮まらず、上に行けないのなら、いっそ頑張らないことにする、というのが寝そべり族だ。政府は格差社会を根本からただすため「共同富裕」というスローガンを掲げ、過熱する受験産業にとうとうメスを入れた。   2021年7月に中国政府はなんと「学習塾禁止令」を発表、小中学生の学習負担を減らし、学習塾は営利企業としての営業を認めない政策を打ち出した。学習塾は一般家庭の家計を圧迫し、少子化の深刻化にもつながる問題だからだ。例えば北京や上海等の大都市では1カ月の塾代だけで日本円で10万円もかかるケースも少なくない。大げさではなく本当だ。塾に通えない学生は、当然名門大学に入れるチャンスは少ない。さらに北京大学等の名門大学に合格できる学生は、農村部出身の学生の割合が年々低くなっていることも問題であり、受験産業はやはり大きな都市で盛んなことが浮き彫りとなっている。また、農村部と都市部の地域格差はもとより、都市部内でも所得格差が広がっていることも深刻で、学習塾禁止令だけで教育格差が縮まるかどうかは分からない。   日中韓、どれを見ても所得と教育の格差の連鎖は断ち切ることだ。インフレも進む中、所得の格差はそう簡単に収まりそうにない。ならば教育の方から正していくしかない。まずは学校教育以外にも塾などに多大なお金を積まなければならない受験戦争の緩和と、どの大学に入っても社会の上を目指せる機会を作ることだと思う。特に中国と韓国は大学入試でその先の人生が決まってしまうようなシステムから変えていくべきだ。日本は大学の数が多いことと、大学それぞれが特徴ある学部やカリキュラム作りで個性を出し始めていて、ランキング(偏差値)に偏重し過ぎていないところは中国と韓国が見習う点だと思う。   では日本の格差の是正はどうすれば良いかというと、高校生に対しても民間奨学金の種類を増やし、また奨学金を得る情報を分かりやすくすることだろう。このエッセイ執筆中に偶然お店で見かけたポスターは、ある大手企業の財団の支給型奨学金制度だった。なんと中学生から奨学金を支給している。金額的にも塾の月謝はまかなえる額だ。「うちは奨学金なんて無理」と諦めずに探せば、何かしらのチャンスに出会えるかもしれない。また貧困率が高い傾向にあるひとり親家庭の補償を厚くすることは民間企業だけに頼らず、政府や市町村の助けがますます必要となってくる。これは生活困窮家庭にお金をたくさん配れと言いたいのではなく、街なかの空きスペースを市町村が借り上げ、自習室として無料開放するだけでも十分助けになると思う。全ての高校生に教育機会を増やし、受験機会を平等に近づけていくことが格差の底上げにつながると思うのだ。   英語版はこちら     <謝志海(しゃ・しかい)XIE Zhihai> 共愛学園前橋国際大学准教授。北京大学と早稲田大学のダブル・ディグリープログラムで2007年10月来日。2010年9月に早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士後期課程単位取得退学、2011年7月に北京大学の博士号(国際関係論)取得。日本国際交流基金研究フェロー、アジア開発銀行研究所リサーチ・アソシエイト、共愛学園前橋国際大学専任講師を経て、2017年4月より現職。ジャパンタイムズ、朝日新聞AJWフォーラムにも論説が掲載されている。     2022年2月3日配信    
  • 2022.01.23

    エッセイ694:李貞善「記憶の地、国連墓地が遺すもの」

    こんにちは、先生。 私は韓国放送公社(KBS)プロデューサーのMと申します。当放送局では国連記念公園建設70周年を迎え、国連記念公園の意味に光を当てて、朝鮮戦争に参戦した国連軍兵士を振り返る特集ドキュメンタリーを制作しています。最近、国連記念公園が世界遺産に登録される可能性についての先生の論文を拝見してご連絡いたしました。(中略) 可能であれば、国連記念公園の変遷と意味、評価についてインタビューをお願いできますでしょうか?国連記念公園のY局長のお話では、先生は論文の最終作業中とのこと。お忙しいところ誠に恐縮ですが、どうぞよろしくお願いいたします。   2021年夏、博士論文の執筆と将来の計画で頭がいっぱいになっていたある日、私に一通のEメールが届いた。得体の知れない力に引かれ、私はすんなりとメールの依頼を承諾した。これを以て、約4カ月にわたる短いながら運命的な道のりが始まった。私が学術顧問(監修)として参加したKBS釜山の特集ドキュメンタリー「記憶の地、国連墓地」との出会いだった。   後で分かったことだが、このドキュメンタリーは別のタイトルを持っていた。最初のタイトルは「忘れられた戦争、その後」。一見平凡に聞こえるこのドキュメンタリーの方向性を転じさせ、番組を貫く基本概念として「記憶」を提示したのは、私のささやかな貢献の一つである。執筆中の博論のタイトルが「記憶の場としての国連記念公園:戦争墓地の文化遺産化」であることを勘案すれば、タイトル間の密接な関連性がうかがえる。   学術顧問に委嘱された私は、8月から9月にかけてZOOMを用いて本格的なアドバイスを行った。担当のプロデューサーが国連記念公園に関する拙論を読んだ後、質問や気になる点をまとめて事前に送ってくる。ZOOMミーティングを通してそれに答えるとともに、必要に応じて補足資料となる歴史文書や写真を提供した。私が提供した1950年代の映像をKBSが原作者に問い合わせて使用許諾を得ただけでなく、著作権を購入したこともあった。   ドキュメンタリーは、朝鮮戦争が勃発して以来71年が経った今日も行われている戦没者遺骸の発掘と、韓国政府国防部遺骸鑑識団による個人識別の話から始まる。主人公の国連墓地に眠っている奉安者(国連軍兵士)のみならず、その奉安者を取り巻く多様な人物が登場して物語を紡いでいく。   戦争のさなかであった1951年、戦場に残された戦友(戦没者)たちの遺体を収集して国連墓地に埋葬した元国連軍兵士(James Grundy氏、90歳)、国際追悼式「ターン・トゥワード・プサン(釜山の方を向け)」の提案者であるカナダの元国連軍兵士(Vincent Courtenay氏、87歳)、英国の元国連軍兵士(Brian Hough氏、88歳)、20歳の若さで戦没したこの公園の奉安者(Michael Hockridge氏)、彼の生前の友達、朝鮮戦争での武功でヴィクトリア十字章(Victoria Cross、英国および英連邦の軍人に授与される最高の戦功章)を授与されたWilliam Speakman氏の遺族、等々。同時に、未だ名前を取り戻すことのできなかった無名勇士や数多い行方不明者など、戦争という巨大な暴力の装置に巻き込まれた名しらずの存在にも光を当てる。   ZOOMを通してアドバイスをしていた時、プロデューサーが私に「物語が(それを伝える)人を訪ねていくでしょう」と語ったことがあった。   この言葉が意味するのは、結局「必ず巡り合うものなら、この世の中で会える運命」ということなのだろう。博士課程を始める時に、博論テーマの探索でずいぶん頭を抱え込んでいた時期がふと頭をよぎった。「記憶の地、国連墓地」に宿っている数々の物語が、それを伝える語り部として自分を訪ねてきた今の状況と絶妙に重なるように思われた。その意味で、名前を取り戻して国連記念公園に眠っている奉安者たちや、まだ名前を取り戻すことのできなかった人たち、このドキュメンタリーのプロデューサー、そして渥美国際交流財団の奨学生たちは、もしかすると私がこの人生で会う運命であったかもしれない。   国連墓地が伝える話は、決して今・こことかけ離れた過去の戦争に限定されない。むしろ私たちは記憶の地であり、忘却の地でもある国連墓地という死者の居場所をめぐって、生と死、戦争と平和といった二項対立的な諸境界を行き来しつつ行われてきた戦没者及び存命の元兵士の身体と向き合う。これを以て、過去のイデオロギー対立がもたらした死の居所・戦争の痕跡は、21世紀地球社会を生きる私たちが目指すべき姿を提示してくれる。このような省察こそがドキュメンタリー「記憶の地、国連墓地」が生きた遺産として戦後世代に遺すレガシーなのではないか。   「記憶の地、国連墓地」(写真集)   YouTubeのリンク「記憶の地、国連墓地」(予告編)   英語版はこちら     <李貞善(イ・ジョンソン)LEE Chung-sun> 東京大学大学院人文社会系研究科博士課程に在学中。2021年度渥美奨学生。高麗大学卒業後、韓国電力公社在職中に労使協力増進優秀社員の社長賞1等級を受賞。2015年来日以来、2017年国際建築家連合等、様々な論文コンクールで受賞。大韓民国国防部・軍史編纂研究所が発刊する『軍史』を始め、UNESCO関連の国際学術会議で研究成果を発表。2018年日本の世界遺産検定で最高レベルであるマイスターを取得。     2022年1月27日配信
  • 2022.01.13

    エッセイ693:ボルジギン・フスレ「ウランバートル・レポート2021年秋」

    2021年8、9月、私は1年7ヶ月ぶりにモンゴル国に行ってきた。   新型コロナウイルス感染拡大の影響で、モンゴル国は2020年2月中旬より外国人の中国からの入国を禁止し、同月末にはモンゴルと日本、韓国などの国との便の運航が停止した。その後、モンゴル国外務省、保健省は外国人の入国に関する規定を何度も変えた。一方、日本のマスコミにも報道されたように、何度も延期された待望の新ウランバートル国際空港が2021年7月4日に開港し、成田国際空港・日本空港ビルデング・JALUX・三菱商事といった日本企業連合とモンゴル政府の「新ウランバートル国際空港合同会社」による運営が始まった。それにともなって、長さ32キロあまり、6車線(片側3車線)の新空港とウランバートル市内を結ぶ高速道路も開通した。日本――モンゴル間の便が昨年後半に再開されたが、新ウランバートル国際空港の開港により、両国間をつなぐ航空便が増えた。   私は、大韓航空の便で8月25日に成田空港を出発し、当日仁川空港で一泊して、翌26日に新ウランバートル国際空港に着いた。成田空港での審査は非常に厳しく、ワクチン接種証明書、PCR陰性証明書の提示を3回、モンゴルでの最初の7日間の宿泊予約証明書の提示を2回、求められた。また、何回も検温された。仁川空港での乗り継ぎは意外にも何の書類も求められず、何の質問もされずに、すぐ手続きを済ませた。ウランバートル空港に着いたら、「厳しい」というより、待つ時間が長かった。検温、入国手続き、健康に関する質問書の提出、PCR検査、荷物の受け取りという流れだったが、2時間近くかかった。   新空港を出て、高速道路は渋滞がなく(そもそも空港の便数が少なく、新空港――ウランバートル高速道路の利用者が少なかった)、30分でウランバートル市内に入った。しかし、そこからは交通渋滞で、ホテルに着くのに1時間以上もかかった。街では、多くの人がマスクを着けているだけで、それ以外は、2年前のウランバートルと何も変わっていない。   「どういう風にしてモンゴルに行ったのか教えていただきたい」とか、「モンゴルに行きたいと思っていますが、いろいろハードルが高そうで…」とか、私がウランバートルについたと知った日本の知人から、日本での出国、韓国での乗り継ぎ、モンゴル入国に関するさまざまな質問が相次いだ。それを答えるのに毎日深夜までメールのやり取りをして、それは1週間ほどもつづいた。   9月4日、昭和女子大学国際文化研究所と公益財団法人渥美国際交流財団関口グローバル研究会、モンゴル国立大学社会科学学部アジア研究学科の共同主催、渥美国際交流財団、昭和女子大学、モンゴルの歴史と文化研究会、「バルガの遺産」協会の後援で、第14回ウランバートル国際シンポジウム「日本・モンゴル関係の百年――歴史、現状と展望」がモンゴル国立大学2号館4階多目的室で対面とオンライン併用の形で開催された。90名ほどの研究者、学生等が参加した。   2021年は、モンゴル国建国110周年、モンゴル革命百周年、そしてモンゴル民主化40周年、さらに日本のモンゴルに対する政府援助資金協力再開40周年にあたる。百年の日モ交流の成果を振り返り、同時に東アジア各国の国際関係の現状や課題を総括するに当たって、日本・モンゴル関係を基軸に据えることは独自の意義がある。日本、モンゴル、中国等の代表的な研究者を招き、新たに発見された歴史記録や学界の最新の研究成果を踏まえて、歴史の恩讐を乗り越えた日本とモンゴルの友好関係の経験から得られる知見を発見し、その検討を行った。   開会式では、モンゴル国立大学社会科学学部アジア研究科Sh.エグシグ(Sh. Egshig)科長が開会の辞を述べ、渥美国際交流財団関口グローバル研究会今西淳子代表、モンゴル国立大学社会科学学部D. ザヤバータル(D. Zayabaatar)部長が祝辞を述べた。その後、前在モンゴル日本大使清水武則氏、モンゴル科学アカデミー会員・前在キューバモンゴル大使Ts.バトバヤル(Ts.Batbayar)氏、東京外国語大学二木博史名誉教授、ウランバートル大学D.ツェデブ(D.Tsedev)教授、大谷大学松川節教授、モンゴル国立大学J.オランゴア(J.Urangua)教授、日本・モンゴル友好協会窪田新一理事長、モンゴル科学アカデミー歴史と人類学研究所B.ポンサルドラム(B.Punsaldulam)首席研究員など、日本、モンゴル、中国の研究者16名(共同発表も含む)により報告がおこなわれた。オンラインではあるが、今西さんが久しぶりにウランバートル国際シンポジウムに参加されたことは、たいへん注目され、歓迎された。   同シンポジウムについては、モンゴルの『ソヨンボ』などの新聞で報道された。日本では、『日本モンゴル学会紀要』第52号などで同シンポジウムについて紹介される予定である。   シンポジウムを終えて、9月9日から20日にかけて、私は「“チンギス・ハーンの長城”に関する国際共同研究基盤の創成」という研究プロジェクトで、ドルノド県で「チンギス・ハーンの長城」に関する現地調査をおこなった。J.オランゴア教授、モンゴル国立大学社会科学学部考古学学科U.エルデネバト(U.Erdenebat)教授、Ch.アマルトゥブシン(Ch.Amartuvshin)教授、「バルガの遺産」協会Ts.トゥメン(Ts.Tumen)会長などが同調査に参加した。その調査では予想以上の大きな成果をおさめた。その詳細は、別稿にゆずりたい。   モンゴルでのPCR検査の情報の提供など、今回のモンゴル出張において、在モンゴル日本大使館伊藤頼子書記官にはたいへんお世話になった。ここで記して感謝申し上げたい。   シンポジウムと調査旅行の写真   英語版はこちら   <ボルジギン・フスレ BORJIGIN Husel> 昭和女子大学国際学部教授。北京大学哲学部卒。1998年来日。2006年東京外国語大学大学院地域文化研究科博士後期課程修了、博士(学術)。東京大学大学院総合文化研究科・日本学術振興会外国人特別研究員、ケンブリッジ大学モンゴル・内陸アジア研究所招聘研究者、昭和女子大学人間文化学部准教授、教授などをへて、現職。主な著書に『中国共産党・国民党の対内モンゴル政策(1945~49年)――民族主義運動と国家建設との相克』(風響社、2011年)、『モンゴル・ロシア・中国の新史料から読み解くハルハ河・ノモンハン戦争』(三元社、2020年)、編著『国際的視野のなかのハルハ河・ノモンハン戦争』(三元社、2016年)、『日本人のモンゴル抑留とその背景』(三元社、2017年)、『ユーラシア草原を生きるモンゴル英雄叙事詩』(三元社、2019年)、『国際的視野のなかの溥儀とその時代』(風響社、2021年)他。       2022年1月13日配信  
  • 2022.01.06

    エッセイ692:于寧「笹本さんと日中友好」

    先日、論文を書いている時に一本の電話がかかってきた。小諸市日中友好協会の笹本さんだった。最近は論文の執筆で忙しくて、しばらく連絡を取っていなかった。笹本さんはその日に映画のイベントがあって、中国映画史を専門にしている私のことを思い出したから、連絡してくれたようだ。   出会ったのはまだ大学生の時だった。小諸市日中友好協会は母校の南京大学との親交が深く、南京大学で「中国藤村文学賞」を主催するほか、日本文化に対する理解を深めるために南京大学の学生を対象にホームステイ招待活動も行ってきた。自分が初めて日本に来たのも小諸市でのホームステイで、笹本さんはホストファミリーのお父さんだった。   笹本さんご夫婦と一緒に過ごしたのは一週間にもならなかったが、私の人生に大きな影響を与えたものになった。家族の一員として受け入れてもらい、日本人の日常生活に溶け込んだ貴重な文化体験ができた。浴衣を着て市民祭りで踊ったり、山頂にある地元の有名な温泉や観光名所の懐古園などに案内してもらったり、お母さんが畑で栽培した野菜の収穫を手伝ったりして、小諸の豊かな自然と文化を肌で感じ、教科書だけでは伝わらない日本文化の魅力を感じ取った。この経験は後に自分の日本への留学という決断にもつながったのだ。   小諸に滞在する間にいろいろ新鮮な体験をしたが、一番印象に残ったのは何よりも笹本さんの日中友好に対する情熱だった。笹本家に着いた初日に、笹本さんは日中国交正常化の歴史に関する書籍を私に贈り、隣国同士として再び戦争を起こさないように仲良く付き合っていこうと熱く語り、日本語を専攻する自分に日中友好の架け橋になってほしいという期待を示した。その会話から、笹本さんがワイン醸造の会社に勤めていたが、退職後に日中友好事業に専念するようになったことが分かった。そのきっかけについて聞かなかったが、中学校まで中国の瀋陽市(当時は奉天)にいたと話してくれたから、幼少期を中国で過ごしたことと、日中戦争を経験したことに関連しているだろうと推測できた。笹本さんの一人の民間人として、民間での交流活動を通じて両国民の相互理解と友好関係を深めようとする姿に強く感銘を受け、帰国後に南京で行われた日中交流活動に積極的に参加するようになった。   帰国後は笹本さんと文通をしていたが、日本留学が決まったことに大変喜んでくれた。日本で受験勉強をしていた時には、小諸からリンゴを送ってくれて、受験を励ましてくれた。入学式には私の家族として、わざわざ小諸から出席してくれた。数年前までは瀋陽の中学時代の同級生たちが東京で同窓会を開催していたが、それに参加する度に私と会っていた。小諸に招待したり、東京で開催された「中国映画週間」に誘ったりして、コロナになる前はほぼ毎年会ってくれていた。その間も訪中団を引率して中国での交流活動を行ったり、中国の大学生を日本に招待したりして、日中友好事業も継続していた。笹本さんは私との親交だけでなく、日中友好のためにその努力する姿も私の留学生活の大きな励みになった。   2015年に、戦時中に国策で中国東北部に送り出された「満蒙開拓団」が敗戦後に置き去りにされたことで生まれた中国残留日本人孤児の問題を取り上げた映画『山本慈昭 望郷の鐘~満蒙開拓団の落日』(監督:山田火砂子、2015年)を見て、笹本さんが全身全霊で行ってきた日中友好事業に対する理解を深めることができた。映画の主人公である山本慈昭さんは笹本さんと同じく長野県出身で、敗戦の3か月前に開拓団を引率して中国東北部に送り込まれたという。映画を通じて最も多くの開拓民が送り出された長野県の当時の歴史を知ったことで、小諸でのホームステイや笹本さんとの親交の意義に対して異なる認識ができた。   また映画のエンディングロールに表示された後援に、全国の日中友好協会がリストされ、その数の多さに驚いた。日本各地、特に農業地域にこれほどの日中友好協会が存在していることは知らなかった。各地における多くの日中友好協会の設立は戦時中に行われた「満蒙開拓団」派遣という負の遺産に立ち向き合うことに関連しているだろう。笹本さんが瀋陽に渡った経緯や中国東北部からの引き揚げなど、彼個人の経験は映画で描かれたものと異なるかもしれないが、戦争の経験者として当時の歴史に向き合おうとする姿勢から日中友好事業に身を捧げる原動力が生まれたといえよう。   コロナになってから笹本さんと会うのが難しくなり、彼の日中交流活動にも大きな支障が出ている。今年は南京大学創立120周年記念で、ちょうど「中国藤村文学賞」の授賞式も予定されているが、中国に行けるかどうかは未知であるという心配を電話で明かしてくれた。それ以外もいろいろ困難がある。今年で91 歳になる笹本さんはまだ現役で頑張っているが、小諸市日中友好協会の会員に若い世代の人が少ないことを懸念しているようだ。   コロナの影響で今までの交流が難しくなったのは事実で、後継者も大きな問題になるだろうが、異なる領域で様々な形の日中交流は中断なく行われ続けている。例えば、渥美国際交流財団は「日本・中国・韓国における国史たちの対話」や「チャイナ・フォーラム」などの学術イベントを主催することを通じて、東アジアにおける相互理解を深めようとしてきた。このような学術交流は研究者を目指している自分に方向性を示してくれた。自分の研究に可能性を感じ取っており、これからは日中映画交流に関する研究や実践を通じて、日中両国民における相互理解を促進することを試みたい。笹本さんの期待に応えられるような形で。     英語版はこちら     <于寧(う・ねい)YU Ning> 2020年度渥美国際交流財団奨学生、国際基督教大学ジェンダー研究センター研究員。中国出身。南京大学日本語学科学士。東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻博士前期課程修了。研究テーマ「中国インディペンデント・クィア映像文化」「中国本土におけるクィア運動の歴史」。     2022年1月6日配信