SGRAエッセイ

  • 2021.06.04

    エッセイ672:于寧「偶然から始まった日本語学習」

      日本に留学してから日本語を勉強し始めたきっかけについてよく聞かれた。まったく視野に入れていなかったのに日本語学科に入ったのは「運命」だとしか答えようがない。それは母の「山口百恵と三浦友和夫婦への愛」がもたらしたものなのだ。   大学出願票を記入した時には外国語を専攻する発想がなかったので、当然、日本語を候補にすることもなかった。中国の大学出願票には「希望する学部でなくても、その大学に入学する意思があるかどうか」という項目があり、「はい」とチェックを入れていた。そうしたら、第一志望校の南京大学に合格したものの、学部の希望は通らず、枠が余った日本語学科へ変更させられた。日本語を専門にすることはあまりにも予想外だったため、浪人することも考えた。その時、日本語学科への入学を強く後押ししてくれたのが母だった。「将来日本語が出来るようになったら、日本に連れて行ってもらいたい。山口百恵さんと三浦友和さんに会えるかもしれないから、通訳してもらうわ」と。   1980年代に青春時代を送った母は日本映画の大ファンだった。当時中国に輸入された日本映画は一世を風靡し、多くの中国人が日本の映画スターに魅了されていた。母もその一人で、とにかく山口百恵と三浦友和夫婦が好きで、私も子どもの頃から二人に関する話を何度も聞かされた。日本語を勉強して何をするかは全く分からなかったが、少なくとも「山口百恵と三浦友和夫婦に会いたい」という母の夢には役立てるかもしれないと思い、とりあえず日本語学科に入学した。   実際に日本語を勉強し始めたら、意外と早い段階で語学の楽しさを感じることができ、日本について知れば知るほど、日本の文化に魅力を感じるようになった。自分の選択ではなかったものの、日本語学科に入って良かったと思うようになった。大学3年生の時に、長野県小諸市日中友好協会のご招待を受け、ホームステイで1週間日本に滞在した。初めての訪日だったが、日本人の家に泊まり込み、市民祭りにも参加した。日常に溶け込み、肌で日本文化を感じる貴重な体験だった。教科書の限界を痛感し、日本をより知るために留学を決めた。   しかし、日本で何について研究するかには頭を悩ませた。日本に関心が芽生えてきたものの、アニメやアイドルが好きで日本語を専攻するようになった同級生と異なり、研究すべき分野をなかなか特定できなかった。当時は「草食系男子」が日本で話題になり、中国のメディアにも取り上げられていた。自分も「草食系男子」だと同級生に言われ、ジェンダー研究に関心を持つようになった。南京大学では毎年、日本語学科の共催で東京大学の先生たちによる集中講義が行われており、たまたまその年に現在の指導教官がジェンダーの視点で映画を分析する講義を行った。私は即座にその指導教官のもとで、ジェンダー理論と映画研究を専攻することを決めた。   その後、「草食系男子」をテーマにした卒業論文を書き下ろし、留学選考に無事に合格して、今日本で勉強ができるようになっている訳だ。日本留学のきっかけを聞かれる度に、自分が今に至ったのは一連の偶然の結果であったことを改めて認識させられる。偶然で始まったものが自分の人生の方向を左右するとは思わなかった。自分の選択ではなかったものの、正解に導かれている気はする。やはり、当時後押ししてくれた母に感謝なのだ。母を日本に連れて行き、映画で見た日本の風景を見させてあげたい。可能性はほぼないが、母が山口百恵と三浦友和夫婦に会えることになったら、通訳になり、きちんと「二人への愛」を伝えるように努める。     英語版はこちら     <于寧(う・ねい)YU Ning> 2020年度渥美国際交流財団奨学生、国際基督教大学ジェンダー研究センター研究員。中国出身。南京大学日本語学科学士。東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻博士前期課程修了。研究テーマ「中国インディペンデント・クィア映像文化」「中国本土におけるクィア運動の歴史」。     2021年6月4日配信
  • 2021.05.27

    エッセイ671:マリダン・ヌルマイマイティ「私の日本留学」

      私は日本から直線距離にしておよそ4,348㎞離れた遠い世界にある東トルキスタン(新疆ウイグル自治区)からやって来たウイグル族出身の留学生である。私が子どもの頃、周りの人が使っている家電製品や人気の車はほとんど日本製だったので「日本の知識、技術はすごい」という印象が芽生えた。小学生の頃から始まった日本の漫画やアニメに対する興味も好印象をもっと深めることになった。   1990年代後半、インターネットの広がりによって世界で海から最も遠いところにいる我々が世界をもっと知るチャンスが生まれた。医者になりたいという夢を持っていた私にとって、日本は知識や技術、発明生産能力や経済水準などだけでなく、医療水準も世界トップレベルであることが分かった。これが日本留学を決意した一番のきっかけだったと思う。そして大学に入る前から、本当の力を持つ立派な医者なるために、日本で世界トップの医学を学びたいという夢を持つようになり、2015年にやっと、その夢を実現することができた。   最初の日本語学校、そして大学院、ほとんどが学生生活だった。その間にしたいろいろなアルバイトでの「半社会人生活」も楽しかった。その中で、来日から私が感じてきた日本のイメージはほとんど変わらなかった。例えば、とてもきれいな、発展した国日本は確かに前に思っていた通り、別世界だった。今まで見てきた人々の中でも、とても礼儀正しい民族だった。負けず嫌いで、いつも非常にまじめな態度にすごく感動した。さすが、「大和民族」日本人だと。   それでも、やはり以前の印象と少しずれているところもあった。日本に来る前、日本人は本が大好きで、電車の中ではみんな本や新聞を読んでいるということをよく耳にした。来日して自分の目で見てみたら、日本人は書籍が大好きで電車の中で本や新聞を読んでいる人もまだいるものの、それほど多くはないし、ほとんどは年上の人だった。若い人は本の代わりにスマートフォンにはまっていた。   一番びっくりしたのは最近の日本人の結婚と人口の減少率だ。今の若い日本人は結婚ということがあまり気にならないようだ。人口はどんどん減少しており、あと50年で日本の人口はどうなるのか、こんな素晴らしい民族がだんだんいなくなるのかなとちょっと心配している。   初めての海外生活で日本に到着してから、ルールや生活の常識が違うため、何度も壁にぶつかった。しかし、留学を決めたのは私自身、苦しくても耐えるしかなかった。苦痛も孤独もやる気に変えて、一生懸命がんばった。これは、留学する人には避けられないことである。しかし、努力は自分を裏切らない。アルバイトで初めて日本人の友達ができ、奨学金に受かり、おかげでアルバイトもやめて、時間をサークル活動と勉強に回して楽しい学生生活を満喫し、大学院を無事に卒業することができた。   6年間の留学生活の中で一番の感想は「困難に遭ったとき、逃げずに、諦めずに、向き合って、努力を貫くことが大事だ」ということだ。いろいろな事が自分の思うように行かなくても、諦めないでください。今不足している部分を考えて、その欠点を埋め合せれば次はきっとできる。   最後に、留学を考えている方へ。最初は文化の違いや言語の壁、そして経済面の問題、様々な挑戦に向き合わなければならない。誰しも辛い目に遭ってしまうだろう。しかし、諦めてはいけない。苦難を乗り越える経験は、きっと人生の宝になる。人生の修行だと思いながら、初心を忘れずに頑張ってください。     英語版はこちら     <マリダン・ヌルマイマイティ Mardan Nurmuhammat> 2020年度渥美国際交流財団奨学生。ウイグル族出身。順天堂大学医学研究科神経学専攻。中国大連医科大学臨床医学学士。順天堂大学医学研究科神経学博士後期課程修了。研究テーマ「光遺伝学を用いたiPS細胞由来ドパミン神経細胞のα-シヌクレイン分泌調節」。     2021年5月27日配信
  • 2021.05.20

    エッセイ670:趙沼振「『全共闘』を研究するという意味」

      韓国で学部の時から現在まで一筋に「日本学」を専門として勉強してきた。中学2年生の時に初めてJ-POPを聞いたのがきっかけで、日本の文化に興味を持つようになった。音楽のメロディーから聞こえてくる日本語の歌詞はよく分からなかったけれど、韓国とは違う特有の雰囲気が良かったのかもしれない。そこから映画やドラマなども見るようになり、独学で日本語の勉強を始めた。そして高校生になり、趣味で終わらせたくなかったから、数多い外国語のなかで日本語の授業を選択した。おそらくあの時から、心のなかで決めていたのかもしれない。大学に行くなら専門は必ず「日本学」だと。私はJ-POPを聞く趣味を持つ中学生から、日本学専攻を選んだ大学生に成長した。   学部生活の間に東京へ交換留学したおかげで、頭のなかで想像していた「日本」の実際の姿に出会うことができた。ひたすら面白い日々を過ごしていた留学生活のなかで、韓国に戻って就職するより、大学院に進学してもっと「日本」を研究したいと思った。そこで、私の研究テーマである日本の学生運動史・社会運動史、「全共闘」に出会ってしまったのだ。   初めて全共闘という言葉を知ったのは、韓国で大学院のゼミを受けていた時だった。そもそもゼミのテーマが「1960年代の日本」で、私には見慣れない日本の歴史像であった。学部の時には、日本の近世・近現代史という科目があり、本格的に日本史を勉強した記憶はあった。だが、1960年代の「歴史」はなかなか扱われていなかった。1950年代までが「戦後日本史」という枠組みがはっきりと決まっていた。日本の1960年代は、「政治の季節」という表現で描かれながら、さまざまな事件の連続という印象が強かった。そのため、堅苦しく論述される「歴史」というよりは、熱く報道され続ける「過去」のニュースのようにみえる時期として感じてしまったのである。当時を生きていた学生たちは、大学の問題から発して社会と国家のことについてまで深く考え悩んでいた。そして、彼らの意見を表すために、闘争のかたちで異議を申し立てた。こういったところが非常に面白かった。1960年代後半に相次いで発生した各大学の全共闘運動に最も興味を惹かれたのである。   そのなかでも日大全共闘が最も面白いという印象を受けた。当時の日大全共闘は、左翼文化の系統を立ててきた東大全共闘とは異なっていた。集会が禁じられ、一般的な学生活動すらできなかった日大生は政治的にもナイーブであり、運動の戦略や戦術も分からない状態だったという。にもかかわらず、日大理事会の約20億円の使途不明金問題が引き金となり、セクト的対応から離れた日大全共闘ならではの運動スタイルが築かれたわけである。一連の日大闘争は予測不可能なマス(Mass)的存在が登場することによって、まさに想像がつかない「1968年」の同時代性を持つ「スチューデント・パワー」誕生の瞬間であった。そして、日大闘争は次第に大規模なスケールになり、「日大全共闘のバリケードは世界最強」だという評価を受けるようになった。彼らの姿から、今を生きている私にもその生々しい情熱がはっきり伝わったのだ。「これは面白い」。当時の日大全共闘の情熱に匹敵するものは、現在の日本においてはこれっぽっちもないだけに面白いと思った。   60年安保を皮切りに本格的に学生運動が活性化し、全共闘運動により「若者」または「学生」が民主主義を唱える自発的な役割に区切りをつけたといえる。その後、若者から大人に、学生から社会人になった彼らによって闘争体験の記憶を共有する世代層が固くつくられた。そのため、「1968年」という時代に対する記憶が一種のノスタルジーとして回顧され続けてきたともいえる。しかし、今日の若者は当時の記憶に対して常套的なイメージを描いているだけで、共感を覚えることはなかなかできない。そこからジェネレーション・ギャップが生じてしまったと考えられるのではないだろうか。さらに、メディアを通じて「団塊の世代」または「全共闘世代」とレッテルを貼られたことにより、世代間のコミュニケーションが断絶されたのかもしれない。   そのため、今の若者に「1968年」の時代背景と価値観をインプットすることより、同じ「若者」として同時代性を感じさせることが重要だと思う。今の若者は当時のことを振り返ってみて「記憶」することはできないけれど、想像して「理解」することはできるはずだ。そして「学ぶ」「若い」「学生」という枠組みから共感を覚え、徐々にパラダイムを転換させていく練習を積んでいく必要があると私は思っている。     英語版はこちら     <趙沼振(チョ・ソジン)CHO Sojin> 2020年度渥美国際交流財団奨学生。韓国出身。東京外国語大学大学院総合国際学研究科国際社会専攻。淑明女子大学日本学科学士、修士。東京外国語大学大学院博士前期課程修了。研究テーマは「日大全共闘」「日本の学生運動史・社会運動史」。     2021年5月20日配信
  • 2021.05.13

    エッセイ669:劉怡臻「『わたしの青春、台湾』から見る対話の困難さ」

      2020年は新型コロナウイルスの感染が広がり、非常に大きな変化があった一年だった。縁あって映画『私たちの青春、台湾』の字幕翻訳、映画監督傅(フー)・ユーの自述的著書『わたしの青春、台湾』の翻訳チームに参加する機会を得た。外出を控えなければならない不自由な生活の中、翻訳の確認作業のため、何度も映画を見直し書籍を繰り返して読んだ。母国語で書かれている内容でも、日本人の先生方に解説するために、歴史背景と用語についていろいろ調べた。傅監督と編集者が自分とほぼ同じくらいの年で、言及されている台湾近年の社会情勢とその変化について、実は私も体験してきた一人なんだと思いつつ、出身や置かれている環境の違いによって見方も変わることをあらためて実感した。   映画『私たちの青春、台湾』は傅監督の「ひまわり運動」(2014年)を回想するモノローグから始まるドキュメンタリーで、運動の中心人物陳為廷(チェン・ウェイティン)と中国出身で台湾留学中の蔡博藝(ツァイ・ボーイー)をめぐって、運動に参加した喜怒哀楽と葛藤が描かれている。最後に監督自身も被写体になり、陳と蔡の前で告白して、自分の矛盾や無力をさらけ出した。   日本で上映される際、ポスターやタイトルだけ見ると、台湾の社会運動の成功が描かれているものと思われるかもしれない。ところが、この作品はそのような期待を完璧に裏切るものである。運動を起こしたヒロインは偶像として作り上げられ、結局失意に沈んでいくことになってしまうありのままの様子が映し出されている。そして、監督も自分が最初にこの運動の主人公である二人にかけた期待が裏切られ、そういう状況に直面している「揺れ」を強く感じて、戸惑っている。その戸惑いまでもドキュメンタリーに呈している。   社会運動とは、英雄のような誰かに一方的に期待をかけることではなく、自分を投げ出し、行動しながら物事を理解していくことだということがドキュメンタリーを通してわかる。運動はただ起こせば良いものではない。その後にも続いていく反省と行動こそが本当の変化をもたらす。しかし、変化は簡単に起こるものではない。   今回お手伝いをさせていただいた機会に、映画だけではなく、監督の著書を読んでいろいろ考えさせられた。「もしわたしたちが前に向かって進みたいなら、まず自分が傷ついたことを意識することから始める必要がある。台湾では、わたしたちが経験してきた歴史と現在の政治状況によって、おそらく多くの人が、成長の過程の中でみな傷ついたり、排除されたり、自分で限界を線引きしてしまったり、コミュニケーションをとろうとしたときに生まれつきの立場の壁にぶつかったり、話したことが曲解されてしまうと感じたり、最も身近な人とさえ理解し合えなかったりしただろう」という監督のことばに何度も心を打たれた。   台湾は日本統治期、祖国光復、そして国民党一党支配の権威主義体制時代を経て、世界最長となる38年間の戒厳令を体験した。その中で、政府が反共産主義という理由で、時局を批判した人間を逮捕、処刑する白色テロが横行した。同時に、70年代からは外交的な孤立を体験してきた。台湾の民主化運動は最初、そのような反体制の社会運動から基盤を築いてきた。1986年になって初めて野党の結成が認められ、実質的な選挙が行われ、民主化への一歩を踏み出した。   それに伴い、労働運動や環境保護運動、女性運動などが高まっていった。ところが、選挙が行われるたびに、青陣営(国民党)と緑陣営(民進党)は支持を得るために台湾のイデオロギーをめぐる論議を繰り広げることになる。いわゆる台湾アイデンテイテイというものがしばしば取り上げられ、強調され、日常生活の家族や友人の間でも喧嘩のタネになっている。そのため、異なる出身の台湾人が感情的に傷ついたり、傷つけられたりすることを繰り返す。そのゆえ、対話の混乱と困難はますます増している。   イデオロギーをめぐって話しあう際に、先にラベルを貼り付けてしまうこと、あるいは先に貼り付けられることはよくある。しかし、これもまた台湾国内の話だけにとどまらず、外国で生活する際にもよく体験したことでもある。自分はなぜそう思うのか、なぜそういう風に思ってきたのか、その思いが生じる背景とは何か、いかなるファクターが作用しているのか、一歩進んで追求してみたら、絡まった情緒や見方の糸が解かれるチャンスになるのではないか。   翻訳作業の過程で、デジタル担当大臣オードリー・タンさんから推薦文をいただいた。翻訳チームを悩ませたものに「公共事務」という言葉があった。英語にすれば「Public affairs」にあたるが日本語には当てる概念が見つからない。民間の人や団体が政治に参加して行政に関与して活動するという意味だが、当てはまる概念が見つからないことはチーム内の日本人の先生に衝撃を与えた。それをめぐって、みんなで何度も意味の確認と訳語探しに腐心した。私たちはそれによって日本と台湾の社会システム構造上の違いを初めて認識するようになった。   人間同士、お互いの共通項を求める前に、まずお互いの違いに気づき、認めて、理解して伝えることはなかなか難しいことだと体得した。字幕を翻訳すること、監督の著書を読むこと、翻訳チームに参加する中で、この体験が自分への一番のプレゼントである。     英語版はこちら     <劉怡臻(リュウ・イチェン)LIU Yichen> 2020年度渥美奨学生、台湾出身。明治大学大学院教養デザイン研究科文化領域専攻。研究テーマは「植民地台湾における石川啄木文学の受容」。国立台湾大学日本語文学研究科学士、修士。思潮社編集部のアルバイト、2020台湾文学祭詩人楊牧/洛夫ドキュメンタリー映画(邦訳)監修協力などを経験。共著には『世界は啄木短歌をどう受容したか』(桜出版、2018)、『日本歴史名人:Nippon所蔵日語厳選講座』(台北EZ叢書館、2020)など。現在、東京語文学院に勤務、慶応義塾大学湘南藤沢高校第二外国語講師を担当。     2021年5月13日配信
  • 2021.04.22

    エッセイ668:謝志海「止まらぬアジア人へのヘイトクライム」

      現在米国ではアジア系住民に対する嫌がらせが後を絶たない。日本ではあまり重要視されてこなかったこの出来事だが、3月30日にバイデン米大統領がアジア系への差別と暴力に追加対策をとると発表。これを受けて加藤官房長官が3月31日に「日本政府としてはアメリカ政府の個々の政策についてコメントする立場ではないが、人種などによって差別が行われることは、いかなる社会においても許容されるものではないという立場だ。また現地大使館や総領事館を通じて状況についてよく注意し、在留邦人などの安全確保にしっかりと努めていく」と記者会見で述べた。   テレビニュースでもアジア人差別の現状が伝えられるようになった。私も偶然米国からのニュース映像を観た。ニューヨーク市マンハッタンの街角で、アジア人の女性が白人男性に蹴られ、うずくまった。その場に倒れている女性をお店の中から見た別の男性は、助けに外に出るどころか、助けを乞うなと言わんばかりにドアを閉めるという、情のかけらもないものだった。被害者は65歳のフィリピン人女性で「おまえはここにいるべきではない。」と言われながらの暴力だったそうだ。   昨年ミネソタ州で警官の暴行により圧死した黒人男性(ジョージ・フロイド氏)の悲しみが癒えぬ間に、米国ではアジア人が差別の対象になっていると知り、私はこれまで感じたことのないようなやるせない気持ちになった。米国にいる全てのアジア系住民は、家を一歩出れば、コロナウイルスだけでなく、差別にも気をつけながら、覚悟を決めて外出しているのではないだろうか?そう考えると、日本で暮らしている私は平和だなあと思う。自分たちと同じアジア人が日々の生活で、差別や暴力に怯えながら暮らしている現状を米国以外の国にいるアジア人全員がもっと把握しておくべきだと思った。   しかし、なにかが起きると行動が早いのも米国で、サンフランシスコ州立大学が人種などを勉強するいくつかの学部と合同で、「STOP AAPL* HATE」というサイトを一年ほど前には立ち上げていて、全米各地でアジア人が差別にあったケースを集計している。これによると2019年に比べて2020年はアジア人へのヘイトクライムは2.5倍に増えた。そして差別や暴力の被害に遭うのは、アジア系の老人、続いて女性に多いことが浮き彫りとなった。   確かに、先述のニューヨークでのヘイトクライムもシニアのアジア人女性だし、もうひとつ記憶に新しい出来事と言えば、その事件の少し前に起きたジョージア州アトランタでおきた若い白人男性による銃撃で、死亡した8人のうち6人がアジア系の女性だった。さらに、この事件の報告をした報道官の警部が犯人をかばう発言とアジア人女性を軽視するような含みを持っていたため、後味の悪いものとなった。この事件の翌日、バイデン大統領はハリス副大統領と共にアトランタまで出向き哀悼の意を伝えたという。この2つの事件は3月に起きたもので、バイデン大統領は月をまたがずに、アジア系アメリカ人を守ることを強化する決断を下したのである。   しかし少し調べてみると、在米日本国総領事館から「アジア系住民に対する嫌がらせ等に関する注意喚起」と題したEメールを、在留届を提出している日本人に配信したのも3月であり、日本の外務省は米国の現状をきちんと把握している。日本国内でももう少し深くアジア人への人種差別が深刻化している様を伝えるべきだと思う。我々こそがアジア人なのだから。   アジア系住民への差別の発端はトランプ前大統領がコロナウイルスのことを「チャイナウイルス」と繰り返し言ったことからだとされている。その尻拭いをバイデン新政権が行なっているだけと言えばそれまでだが、バイデン大統領はアジア人を後回しにしていない。同時にアジア系自身も黙って時が過ぎるのを待つだけではなく、ヘイトクライム撲滅のデモをしたり、ヘイトクライムに遭ったらレポートし共有する場を設けたりしている。アジア系市民が被害に遭った時の防犯カメラの映像を繰り返しテレビで流すだけでなく、差別に立ち向かう様まで伝えることも大切だと思う。そして私のような日本にいる中国人は、コロナウイルスを理由に日本でヘイトクライムは受けていないということを米国に伝えるべきかもしれない。   *AAPL=Asian American Pacific Islanders アジア・太平洋諸島系アメリカ人     英語版はこちら     <謝志海(しゃ・しかい)XIE Zhihai> 共愛学園前橋国際大学准教授。北京大学と早稲田大学のダブル・ディグリープログラムで2007年10月来日。2010年9月に早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士後期課程単位取得退学、2011年7月に北京大学の博士号(国際関係論)取得。日本国際交流基金研究フェロー、アジア開発銀行研究所リサーチ・アソシエイト、共愛学園前橋国際大学専任講師を経て、2017年4月より現職。ジャパンタイムズ、朝日新聞AJWフォーラムにも論説が掲載されている。     2021年4月22日配信
  • 2021.04.15

    エッセイ667:尹在彦「ミャンマー問題と韓国、そしてアジアの民主主義」

      韓国はこれまで、他国の民主主義の問題に深く関与してこなかった。1990年代以降においてようやく民主化したという認識より、国内事情が優先視された。他方で欧米、とりわけ米国による民主化支援への不信感も影響していた。韓国が権威主義体制に置かれていた時代、米国は冷戦体制を理由に韓国の民主化に後ろ向きだった。1970年代には朴正煕政権が自らの人権弾圧問題を覆い隠すため、米議会にお金をばらまく、いわゆる「コリア・ゲート」も発覚する。そのため、韓国では民主化が外部要因なしに「自生的」に成し遂げられたという認識が強い。   ただし、一つの例外があるとしたら、それはミャンマー問題だ。韓国は日本と共に難民問題に極めて消極的だ(2019年の難民認定率は両国ともに0.4%)と知られているが、毎年最も多く認定されているのはミャンマー国籍の人々だ。アウンサン・スーチー率いる国民民主連盟(NLD)の韓国支部も1997年に設立されている。同年に大統領に当選した金大中は、国際社会で軍事独裁政権に対抗したスーチーへの支持を呼び掛けていた。自伝で金大中はミャンマー問題への特別な関心を述べている。   このような背景から年初に勃発したミャンマー軍部のクーデターは、韓国政府にとって無視するわけにはいかない事案だった。デモ隊に対する軍人・警察の弾圧は、韓国のニュースにも盛んに取り上げられている。文在寅政権は3月以降、次々と行動に出ている。文在寅本人は3月6日「ミャンマー軍と警察の暴力的な鎮圧を糾弾し、アウンサン・スーチー国家顧問をはじめとした収監された人々の釈放を求める」とSNS上で訴えた。12日にはミャンマー軍部への軍事物資の禁輸措置を取り、政府開発援助(ODA)の見直しも示唆した。韓国政府のミャンマーに対するODA規模は約9000万ドル規模(2019年)で、これまでの抑制的対応から一転したとの評価も出ている。   韓国は中国の少数民族(ウイグル、チベット)や香港の問題に対しては発言を控えており、北朝鮮人権問題においても政権によって正反対の反応を示してきた。こういった事案は基本的な外交路線、即ち「国益」とも深く結びついており、単純に「人権・価値」だけで対処できる問題ではない。日本も米国との「安全保障協議委員会(2+2)」で中国を名指しで非難したものの、EUや米国の制裁には追随していない。中国の激しい反発や経済問題の影響もあると考えられる。   現地のミャンマーでは韓国政府の対応がそれなりに評価されているようだ。ツイッターやフェイスブック上で韓国政府や韓国人に支援を求めるコメントは少なくなく、ミャンマー人の韓国語の書き込みも多くみられる。   3月16日、日本のラジオ番組(「荻上チキSession」)に出演したミャンマー人留学生はあえて韓国に言及しながら、日本人の支援が必要だと切実に訴えた。しかし、残念ながら日本社会の反応は普段の反中感情と絡み合った中国問題に比べると生ぬるい。個人的に違和感を覚えたのは日本のニュースの伝え方だった。3月2日、NHKは「『申し訳ありません』在日ミャンマー人 コロナ禍のデモ」といったタイトルで「自粛中にも関わらずデモを行っていることへの申し訳なさ」を表現するミャンマー人の様子を伝えている。韓国でも在韓ミャンマー人のデモが展開されているが、同様のタイトルは見たことがない。日本ではコロナを理由にデモを禁じていない(韓国では人数制限がかかっている)。なのに、ラジオ番組に出演したミャンマー人留学生はネットニュースのコメント欄に数多くの非難(「デモをやるべきではない」など)が寄せられたことに衝撃を受けたという。   ヨーロッパのような国際人権機構はアジアに存在しない。さらに、アジアで民主主義国とされる国は少数にとどまっている。域内の人権問題に対し、アジアの民主主義国が一丸となり声を上げることは容易ではない。中国や北朝鮮の事例からも見られるように、安保や国益などが複雑に絡み合っている。よく知られている通り、天安門事件以降、中国への経済制裁を最初に解除した先進国は日本であり、経済や歴史問題への考慮があったと言われている。しかし、経済的側面を優先する民主化支援はそれほど効果的ではない。1990年代以降、日本が積極的に支援しているカンボジアでは、フン・セン首相が独裁政権を築いており、民主主義とは程遠い状況が続いている。ミャンマー問題においても「日本は軍部とのつながりがあり自制を求めている」などの報道は見かけるものの、実質的な措置はほとんどとられていない。   如何なる民主化支援もある程度は「内政干渉」を伴う。権威主義体制下ではコロナ禍を機に市民の動きを制限する動きも増えている。日本と韓国のような民主主義国家の役割は何だろうか、どんな役割を果たして協力できるか、非常に重要な課題だ。もちろん、現状では懐疑的にならざるを得ないが、アジアの悲惨な状況からするとそれなりに協力はできる分野だと思う。   英語版はこちら     <尹在彦(ユン・ジェオン)YUN Jaeun> 2020年度渥美国際交流財団奨学生、一橋大学特任講師。2010年、ソウルの延世大学社会学部を卒業後、毎日経済新聞(韓国)に入社。社会部(司法・事件・事故担当)、証券部(IT産業)記者を経て2015年、一橋大学公共政策大学院に入学(専門職修士)。専攻は日本の政治・外交・メディア。     2021年4月15日配信
  • 2021.04.08

    エッセイ666:尹在彦「ヴィクトリアピークの霧」

      1990年代までの韓国にとって、香港は文化の輸入が許された唯一のアジアの「先進地域」だった。韓国では長らく日本文化、特に映像コンテンツが禁止されていたため、香港を舞台にした様々な映画は憧れとして受け止められた。香港映画は旧正月やお盆の「引っ張りだこ」で、多くの韓国人を魅了した。イギリスの植民地ということもあってか、映画には多様な人種の人々が登場する。これもまた異国情緒を醸し出す要素だった。90年代を風靡した王家衛(監督)の映画は社会的なブームまで引き起こした。香港は民主化したばかりの韓国社会にとって「自由の象徴」でもあった。   韓国人の目線から見る現在の香港は複雑だ。香港は「帝国主義の被害地域」でありつつも、現在においては権威主義体制の激しい弾圧を受けている。韓国は歴史上、香港と同様の経験(植民地・独裁政権)をしており、そこから何とか抜け出した国である。そのため、私は香港に関して欧米系メディアの一方的な論調に比べれば中立的な話ができると思う。   香港は英国の帝国主義による植民地化で、中国では「百年国恥」の象徴として語られる(しかし、倉田徹・張イクマンによると香港が本土で注目され始めたのは90年代以降のことという(『香港』126頁)。宗主国(である)英国は、統治下の香港人に対しある程度の自由こそ与えたが、民主的な権利、即ち選挙権は80年代まで保障しようとしなかった。   1980年代に入り、英中間の返還交渉が進むにつれ、英国は急遽、新たな選挙制度を取り入れ始める。特に最後の総督、クリス・パッテンは返還日が近づく中で、無理をしてまで制度改革を推し進めた。やはりこれでは、英国の香港の民主主義に対する「本気度」が疑われても仕方ない。しかし、こういった側面は現状の香港問題を取り上げる中であまり注目されていない。特に欧米のメディアではそうである。返還交渉の結果、民主制度を50年間保障するとの取り決めに中国が合意したこと(一国両制)も重要であるが、英国に現状の問題への責任が全くないかといえばそうとは限らない。   1997年に香港が中国に返還されて以降、何度か大規模なデモが行われた。特に世界的に注目を浴びたのは2014年秋の雨傘運動だ。私は2013年と14年に取材のために香港を訪れた。13年には香港政治とは関係のない出張で、正直「暑い」という印象しかなかった。思っていたより英国色が薄いことも記憶には残った。   ところが、14年11月の出張では香港への見方も多少変わっていた。香港の若者問題をより詳しく知りたく、仕事とは直接的関係はなかったが若者の話を聞いてみた。気づかされたのは若者の経済的苦境だった。香港大学には現地人・本土人・留学生の3グループがあり、現地人学生の就職が最も厳しいという。広東語や英語だけではなかなか良い仕事にはありつけず、本土から来た優秀な学生たちが多国籍企業の本土進出の人材としてちやほやされているということだった。香港出身の若者たちにとって憧れの金融業への就職はまさに狭き門で、IT部門への就職は門戸が開かれているが、給料が非常に低かった。2010年代以降の若者を中心とした抵抗が、単純に政治問題でなく、経済問題が絡み合っていることを改めて実感した。   そういった若者たちの不満は解消されずむしろ膨らんでいった。それが2019年の法律改正の問題と相まって、中国政府に矛先が向かうようになったのだろう。これに対し中国政府は最初、トランプ(政権)との関係上、様子見の姿勢をとったが、コロナ禍の中で急速に規制を強めている。民主化運動の象徴とされた学生や起業家は次々と収監され、現在はほぼ芽が摘まれた状態だ。しかも、今年の全国人民代表大会(全人大)では「香港の代表者は愛国者に限る」といった法案が成立した。私は「国への愛し方」には様々なものがあり、人それぞれ違うと考える。そうした中で、香港では民主主義だけでなく、英統治下でもそれなりに守られていた自由が危うくなっている。世界的な支援の手が届かないコロナ時代は弾圧の格好の口実になっている。   韓国でも1980年代まで同様の理由で数多くの人(とりわけ大学生)が弾圧され、一部は国により殺害された。軍事政権は「内政干渉」を理由に、NGO等の介入を拒み続けていた。ただ、現在と構図が逆転している現象もあった。レーガン政権は全斗煥政権を認めていた。これに対し大学生らは米国大使館に対し「内政干渉(=独裁政権の認定)をやめろ」と叫ぶなど、反米運動を展開した。   香港に行くたびになぜか一度も欠かさずに登ったのが、夜景スポットのヴィクトリアピークだ。最後に訪れたのは2019年のことで、大規模デモの直前だった。しかし、霧があまりにもひどくて何も見えなかった。初めてのことで、まさに香港の未来を象徴するような光景だった。香港は中国だけでなく、アジアの民主主義の将来を占うカギを握っている。これからも香港をウォッチしなければならない。     英語版はこちら     <尹在彦(ユン・ジェオン)YUN Jaeun> 2020年度渥美国際交流財団奨学生、一橋大学特任講師。2010年、ソウルの延世大学社会学部を卒業後、毎日経済新聞(韓国)に入社。社会部(司法・事件・事故担当)、証券部(IT産業)記者を経て2015年、一橋大学公共政策大学院に入学(専門職修士)。専攻は日本の政治・外交・メディア。     2021年4月8日配信
  • 2021.04.01

    エッセイ665:フランコ・セレナ「私の『幸福の場』」

      日本に初めて足を踏み込んでから何年も経ったが、今でもその頃のことを忘れることができない。当時はホームステイしながら生活していた。出発前は楽しみで仕方なかったが、日本に住み着いてからすぐ様々な壁にぶつかって落ち込む日々が始まった。その気持ちの処理方法が分からなくて、ホームステイ先の寝室で眠りにつくと母国にいる夢を見ていたことを今でも鮮明に覚えている。長い年月が経過して、私は今も日本に住んでいる。初めて日本に来た私に会うことができれば、「慣れてくるものさ、なんとかなるよ」と励ましの言葉をかけてあげたい。それだけではない。何よりも一つの助言を与えたい。「これさえあればちょっと幸せだなと思える『幸福の場』を常に心の中に持っていたほうがいいよ」ということである。   日本文化と日本語に触れ始めたのは、小さい時から興味があったのではなく、単に家族に逆らうためだった。小学校の時から高校までは家族の期待に応えるためだけに勉学に励んでいて、学問に関してはこれを知りたいという好奇心がほとんどなく、学校の課題に漫然と取り組んでいた。反抗期というのは誰にでも訪れる。私の場合はそれが大学1年生の時だった。当時は家族の期待を押し切ってでも自分の意思を貫きたいという考えにとらわれていた。日本語と日本文化に関心がなかったにもかかわらず、家族の反対に耳を傾けることなく、大学で日本語と日本文化を勉強しようと決めた。しかし、ついに日本にやって来た時、日本のことを学ぶ動機が家族への反抗に過ぎず、日本の言葉と文化を学んできたのにその学習には心を込めたことがなかったことに気づいた。特に日本文化に対する理解を示そうとしても誤解されることがほとんどで、大学で学んできたことをむなしく感じていた。落胆して帰国することばかり考えていた。   その私を救ってくれたのは日本語の先生だった。先生は日本の伝統芸能の知識が豊富で、特に歌舞伎に精通していた。ある日、落ち込んでいる私を見て、歌舞伎を見てみないかと誘ってくれた。当時の私は何に対してもマイナス思考で、歌舞伎に対しては堅苦しい、分かりづらいという印象しかなく、わざわざ銀座まで歌舞伎を見に行くのは気が重かった。それでも断るのが得意でなかったので、不本位ながらその先生のお誘いを受けることになった。   歌舞伎座へ入った瞬間に、歌舞伎の世界は思っていたのとは別物だということに気づいた。公演の前に顧客が売店を見回ったり、演目の概要を読んだりしながらにぎやかにおしゃべりをしていた。なんか、楽しそうだなと薄々思い始めた。そして、公演が始まった。歌舞伎は動きが少なく、聞きなれていない日本語で延々と演技し続けるものかと思ったら、躍動感のある場面も多かった。動きは少なくてもそれぞれ美しく、少ないからこそ感情であふれている。気が付くと、歌舞伎役者の鍛錬された動きと美しい台詞に魅了されている私がいた。あっという間に5時間がたっていた。   公演が終わった時、ちょっとした幸福感に包まれていた。その時初めて、このように日常生活を忘れることができる「幸福の場」、歌舞伎がある日本をもっと理解したいと「心から」思った。私の日本の見方はがらりと変わった。多くの壁にぶつかって辛い思いをしても、自分だけの「幸福の場」があると何でも乗り越えられると思えるようになった。誤解されることがあっても、それをばねにしてどうやってこの誤解が解けるかに力を注ぐことにした。歌舞伎は私を救ったといっても過言ではない。   この経験から、昔の自分に会えばこんなことを言いたい。何かをやり始めるきっかけは様々な形で巡り合える。その中には、興味が湧いてきてつかんだきっかけもあれば、偶然に現れるきっかけもある。あるきかっけをつかめば人生の新たな道が開かれる。時には自分には合わない道を選ぶこともあるし、その道を必ず歩み続けなければいけないというわけでもない。それでも、「幸福の場」を見つけることができて、この道を歩み続けたいと思っているのであれば、間違った道ではないかもしれない。     英語版はこちら     <フランコ・セレナ Franco SERENA> 渥美国際交流財団2019年度奨学生。イタリア共和国ベネト州出身。2015年度慶應義塾大学大学院法学研究科修士課程(民事法学専攻)修了、2020年度慶應義塾大学院法学研究科後期博士課程(民事法学専攻)単位取得退学。2020年度より筑波大学社会・国際学群非常勤講師、2021年度より武蔵野学院大学国際コミュニケーション学部専任講師。     2021年4月1日配信
  • 2021.03.25

    エッセイ664:頼思妤「漂泊の狸」

      渥美国際交流財団のロゴの狸は、創始者の故渥美健夫鹿島建設会長が生前によく描いておられたものだそうです。   初めてこの狸のロゴを見た時、私は子供の頃に見たジブリ映画「平成狸合戦ぽんぽこ」をふと思い出しました。この映画は純粋さや素朴さがある一方不思議な現実味も帯びた作品で、物語の終盤では狸たちの一部が人間に化けて人として都会で生きていこうと努力する様子が描かれます。留学生として日本に来た時、私はちょうどフランスとアメリカへの訪問を終えたところでした。それぞれの国で非母語的な環境に身を置くと、だんだんと生活には慣れてはくるものの、なぜか時折そのままではいられないような気分になりがちです。映画はそんな自分に、「化ける」能力がある狸ですら異文化社会で苦労したのだから、普通の人間である私が短時間で次々と新しい環境に適応するには、頑張る以外に何もないのだという決意を思い出させてくれました。   台湾から日本に来た頃、私の台北の友人は「東京に行けるとは羨ましいよ。東京の人たちは謙虚で礼儀正しいからね」と言いました。それからパリに行く機会があった時、東京の友人は「パリに行けるとはいいね。ロマンチックで詩的なところだから」と言いました。そして、アメリカでは、知り合いの全員が「ボストンに行けるなんていいね。あそこの学生は明るくて自信がある上に、やる気がある」と言いました。皆、私が旅先で出会う新しい知り合いが本当にニュースやネット上で伝えられている通りなのか、興味津々なのです。もちろん彼らは単純にSNSなどで目にした記事を元に気楽に私に尋ねただけだったのかもしれません。   しかし、実際に私の日常生活で起こるのは報道やインターネットから伝わる様子とはまるで別のことばかりでした。友達との実際の会話は、政治などの大事件よりも身近な出来事、自分達の街での出来事、お互いの研究の内容が多く、ゆえにSNSのみを通じて外の世界を知ろうとしたり、知った気分になったりしてしまう現在の潮流に私はしばしば違和感を覚えました。インターネット上に現れる東京は私が知っている東京ではなく、パリやボストンもまた然り。とある地域について、とあるトピックだけに焦点をあてて議論していては、その土地に存在している他の多くの人々が抱える思いや考えをたやすく見逃してしまうのだと、最近特に強く感じます。   私たちは、それぞれがそれぞれの経験によって自我を形成し、その結果、多様な個人として生きています。人それぞれの経験の違いは、国や言語の違いよりも重要だと私は思っており、SNSから吸収した偏見を持っていては、外の世界で真の友情を育むことができないのです。何年にもわたる異国での旅と留学を、私はいくつもの「国」を見て来たというよりは、いくつもの国の「友」と心を通じ合わせてきたと表現したくなります。なぜなら、政策や経済の発展状況よりも、そこで暮らしている人々の思いやりと温もりこそが、最も深く私の記憶に刻まれていて、その数々が今の私を作り上げているからです。たくさんの土地を踏み、多様な文化を学び続けながら私が私でいられたのは、多くの人々に助けられ、恵まれていたからでした。   このような心境を経験したので、渥美財団の狸のロゴを見ると今は心に特別な親近感が湧いてきます。同期の渥美奨学生と交流し、事務局のみなさんが見守ってくださったおかげで、私は無事にこの一年間を自らの心を見つめながら、穏やかに過ごすことが出来ました。またこうした日々の中で、これまでに心に積もった数年分の研究上の知識や人生における知恵を整理することが出来ました。日本での留学を終えた今、いくつもの縁に導かれて東京に来たこと、私が最も落ち込んでいる時、私を信じてくれた人達、出会った全ての人に感謝しています。人生の全ての体験が、良くも悪くも私という小さな苗を成長させてくれました。与えられた栄養を頑張って吸収し、辛い経験は逆「増上縁」と化して、心を強く鍛えてくれました。   長かったり短かったりする別れを次々に経験していくのは留学生の常だと思います。昔はよく切ない気持ちになりましたが、今は、別れというものはその度に誰かが一歩前に進んだことを意味するのだから、喜んで祝福すべきだと思っています。現代社会において、頑張って生きている人(狸)達は、実は皆、自分の孤独な惑星を歩いているようなものです。没頭してひたすら歩いていると、ふとした瞬間に遠くにいる誰かが自分のことを思い出してくれていることに気がつくのです。その時、心に流れ込んでくる暖かさこそが、最も安堵に満ちた寂しさだと私は思います。     英語版はこちら     <頼思妤(ライ・スーユ)LAI Sihyu> 東京大学大学院文学博士。現職は台湾の中央研究院博士後研究員。日本学術振興会特別研究員(DC1)の経験あり。フランス高等研究実習院(EPHE)、ハーバード大学等での短期訪問研究の経験あり。朝日新聞、台北経済文化代表処等での勤務経験あり。     2021年3月25日配信
  • 2021.03.18

    エッセイ663:陳昭「2020年の不完全的羅列」

      このエッセイは去年(2020年)3月に書くべきものであった。 延滞したのは不測の事態が次々と起こり、その対応に追われ、書く余裕がなかったからだと、自分にはそう言い聞かせていた。しかし本当は「振り返るのが辛くて逃げていたから何も書けなかったのかもしれない」という気持ちも心のどこかにある。   目の前に起こっている予想外の現実には「臨機応変でいなければならない」と理性では分かっているつもりだった。しかし、そこにある現実があまりに予想外なゆえに、たとえ対処するために行動したとしても、リアリティとして受けとめるところまでは心が付いていけなかった。「嘘だろう」と思いつつも、拒絶不可能な実態に振り回されてばっかりだった。   こうした、現状への対応と現実の消化との間に乖離が生じてしまう1年であった。いまだに収束が見えない新コロナウイルス感染症の拡大において、こういう気持ちになるのは、決して私一人ではないだろう。   この1年の出来事を鳥瞰的通時的に記録できるなら、どんなに壮大なフィルムになるだろう。また、異なる国の政治体制と予防対策の関係、人種や社会慣習が持つ影響力など、このフィルムを見るフィルターも様々。しかし、コロナ禍の真ん中に生きる一人として、なにか書こうとすれば、やはり身を以て経験していた虫観的な世界になる。   2020年2月、中国は全面封鎖。予定していた中国への一時帰国の中止を余儀なくされた。3月には住んでいた寮の入居期間が切れ、残りの留学ビザは5月まで。もともとは帰国してしばらく中国で就活でもするつもりだったので、日本ではすぐに新しい住まいを構えなくてもいいと思っていた。そこから慌てて部屋探しを始めた。学校の近く、外国人可の物件に絞って探していたが、2ヶ月しかないビザが問題となった。更新予定と説明しても難色を示す大家さんが多い。   その中、今になっても思い出すと引っかかることがある。築40年も超えた物件だが、間取りはよくて広めだったのでさっそく申し込もうとした。申請して2日目になってから、仲介さんからの電話があって、大家さんは外国人がやはりだめだと断られてしまった。いろいろと聞いているうちに、大家さんはご高齢で、どうもコロナで中国人に貸すのは不安があるらしい。渡航歴がないとはいえ、付き合いも中国人が多いだろうから不安だそうだ。仕方がないと諦めたその夜、寮に帰ったら、事務室の方から武漢差別やコロナ差別について寮生を対象に調査依頼が都から来たと話を聞いた。幸い日本ではヨーロッパほど差別が深刻にならなかった。また、面白いことに「東大生はだめ」と電話で断わられた物件もあった。お爺さんぽい声だった。どうも駒場近辺の高齢の大家さんたちは「コロナ」と「東大生」が苦手だそうだ。   2020月3月、駆け足で引っ越しを終えた。疲労の重なりと季節の変わり目で体調を崩してしまった。風邪症状に半端ない倦怠感が伴った。手先が腫れているような、感覚が鈍くなる感じ。下痢と咳は症状発覚から3日目で出て、軽い症状が続いたが一週間以内には消えていた。38度超える熱は一晩だけで、ほとんど37.0度~37.3度の間であった。当時PCR検査は37.5度以上の熱で3日続くのが条件であったため、検査を受けることができず、自宅で外出を自粛していた。当初日本ではコロナ感染に対してまだ意識が低かったが、渥美財団の方々と相談の上、奨学金を受けた年度末に行われる研究報告会は資料提出のみとなった。発症から10日目ぐらいでほとんどの症状は消えた。倦怠感が繰り返し出てはいたけど、2週間目になるとそれも治った。   2020月4月、自分の体調はよくなったが、日本の感染状況は悪化する一方だ。さらに、浴室で転んでしまった。後頭部を床にぶつけないようにバランスを取ろうとして足を極度に伸ばした際、膝の軟骨を傷つけてしまった。受診したところまず静養だと言われたが、1ヶ月経っても回復せず、足を伸ばすこともできなくなった。外出どころか、トイレへ行くのにも苦労する日々だ。今まで味わったことのない無力感。家族がそばにいない孤独感。「どこにも行けない、ここに閉じ込められているのだ」と、トイレの回数を減らすために水すら飲むのを控えてしまうたびにそう思う。支えになってくれたのは近所に住む研究室の仲間や友人だ。食材の調達やごみ出し、体調不良の時は中国の家族から送ってきた漢方の薬を玄関の前に届けてくれるなど、お世話になってばかりだった。   予定していた就活が頓挫し、「悪年」とでも言いたくなる不運が続き、収入がないのにアルバイト再開の目途も立たないままの日々。引っ越しの出費、オ-バードクターの学費免除が困難、予想外の治療費など、諸々の事情で経済的に非常に困難な状況に陥っていた。その中、渥美財団から届いた新型コロナ緊急支援金の連絡は本当に「雪中送炭(雪中に炭を送る)」だった。生活基盤を整えるのに大変ありがたい支援金だった。そして、大変な時期に温かいメールや電話で見守ってくださった事務局の方々、本当にありがとうございます!   2020年5月、別の病院で膝を再び検査した。静養中は足をぜんぜん伸ばしていないので、筋肉が著しく弱ってしまっていた。MRI検査で膝軟骨の損傷は手術なしの治療方針が決められ、6月からはリハビリが開始。キーボードで「リハビリ」を打つだけで、当時の激痛の記憶が蘇り「痛い」と感じるほど、痛かった。痛くて出た涙は「滴」ではなく、滴が繋がる「線」でもない。「面」なのだ。中国語では「涙流満面(顔じゅう涙まみれ)」と「汗流満面(顔じゅう汗まみれ)」という言葉がそれぞれあるが、リハビリはその合体だ。涙か汗か分からない、顔中が万遍なく塩味のある液体で濡れているから。   夏になると、リハビリもだいぶ楽になり、ようやく研究にも少しずつ復帰できるようになった。2020年1月、フィリピンで開催された第5回アジア未来会議で発表した時に平山昇先生からいただいたコメントに触発され、投稿する論文のアイデアが生まれた。2020年の後半は延滞してきた仕事をこなしながら充実した日々を過ごせた。足も普段歩く分には問題ないまでに回復して、気分転換のためによく散歩をしている。電線や線路、それに坂と低い住宅地。すべてが日本の日常風景を象徴する要素だ。会えない日はもうすこし続くと思うが、せめて身近にあるささやかな美しさを楽しみたい。   最後に、もし去年の経験から何かを教わったかと聞かれれば、それは「泣くは恥だが役に立つ」ということ。今まではどこか強がって何ができるかに拘っていたのかもしれないと気づかされた1年であった。できない事やできない時は当然ある。その「リアリティ」を受けとめるのも大事だと思うようになった。それこそ「リアル」の人生だ。今まであたりまえのように分かっていたつもりだったこの道理は、あたりまえでない個々の経験があるからだと、少し分かるようになったかもしれない。   あっ、言い忘れたことがある。「泣くは恥だが役に立つ」は確かだが、そのときは、柔らかめのティッシュの方がいい。あと、ティッシュは甘いのは知っている?満面の涙を拭いた時にたまたま口に入ったことで知った。個人的な経験だと、保湿ローション入りのタイプが最も甘い。これを読んでティッシュを舐めたくなる方は、どうぞご遠慮なく。   <陳昭(ちん・しょう)CHEN Zhao> 渥美国際交流財団2019年度奨学生。東京大学大学院総合文化研究科文化人類学コース博士課程。2014年同コース修士卒業。都市環境デザイン、景観生成、テクノロジーと社会について研究中。     2021年3月18日配信