SGRAエッセイ

  • 2022.01.23

    エッセイ694:李貞善「記憶の地、国連墓地が遺すもの」

    こんにちは、先生。 私は韓国放送公社(KBS)プロデューサーのMと申します。当放送局では国連記念公園建設70周年を迎え、国連記念公園の意味に光を当てて、朝鮮戦争に参戦した国連軍兵士を振り返る特集ドキュメンタリーを制作しています。最近、国連記念公園が世界遺産に登録される可能性についての先生の論文を拝見してご連絡いたしました。(中略) 可能であれば、国連記念公園の変遷と意味、評価についてインタビューをお願いできますでしょうか?国連記念公園のY局長のお話では、先生は論文の最終作業中とのこと。お忙しいところ誠に恐縮ですが、どうぞよろしくお願いいたします。   2021年夏、博士論文の執筆と将来の計画で頭がいっぱいになっていたある日、私に一通のEメールが届いた。得体の知れない力に引かれ、私はすんなりとメールの依頼を承諾した。これを以て、約4カ月にわたる短いながら運命的な道のりが始まった。私が学術顧問(監修)として参加したKBS釜山の特集ドキュメンタリー「記憶の地、国連墓地」との出会いだった。   後で分かったことだが、このドキュメンタリーは別のタイトルを持っていた。最初のタイトルは「忘れられた戦争、その後」。一見平凡に聞こえるこのドキュメンタリーの方向性を転じさせ、番組を貫く基本概念として「記憶」を提示したのは、私のささやかな貢献の一つである。執筆中の博論のタイトルが「記憶の場としての国連記念公園:戦争墓地の文化遺産化」であることを勘案すれば、タイトル間の密接な関連性がうかがえる。   学術顧問に委嘱された私は、8月から9月にかけてZOOMを用いて本格的なアドバイスを行った。担当のプロデューサーが国連記念公園に関する拙論を読んだ後、質問や気になる点をまとめて事前に送ってくる。ZOOMミーティングを通してそれに答えるとともに、必要に応じて補足資料となる歴史文書や写真を提供した。私が提供した1950年代の映像をKBSが原作者に問い合わせて使用許諾を得ただけでなく、著作権を購入したこともあった。   ドキュメンタリーは、朝鮮戦争が勃発して以来71年が経った今日も行われている戦没者遺骸の発掘と、韓国政府国防部遺骸鑑識団による個人識別の話から始まる。主人公の国連墓地に眠っている奉安者(国連軍兵士)のみならず、その奉安者を取り巻く多様な人物が登場して物語を紡いでいく。   戦争のさなかであった1951年、戦場に残された戦友(戦没者)たちの遺体を収集して国連墓地に埋葬した元国連軍兵士(James Grundy氏、90歳)、国際追悼式「ターン・トゥワード・プサン(釜山の方を向け)」の提案者であるカナダの元国連軍兵士(Vincent Courtenay氏、87歳)、英国の元国連軍兵士(Brian Hough氏、88歳)、20歳の若さで戦没したこの公園の奉安者(Michael Hockridge氏)、彼の生前の友達、朝鮮戦争での武功でヴィクトリア十字章(Victoria Cross、英国および英連邦の軍人に授与される最高の戦功章)を授与されたWilliam Speakman氏の遺族、等々。同時に、未だ名前を取り戻すことのできなかった無名勇士や数多い行方不明者など、戦争という巨大な暴力の装置に巻き込まれた名しらずの存在にも光を当てる。   ZOOMを通してアドバイスをしていた時、プロデューサーが私に「物語が(それを伝える)人を訪ねていくでしょう」と語ったことがあった。   この言葉が意味するのは、結局「必ず巡り合うものなら、この世の中で会える運命」ということなのだろう。博士課程を始める時に、博論テーマの探索でずいぶん頭を抱え込んでいた時期がふと頭をよぎった。「記憶の地、国連墓地」に宿っている数々の物語が、それを伝える語り部として自分を訪ねてきた今の状況と絶妙に重なるように思われた。その意味で、名前を取り戻して国連記念公園に眠っている奉安者たちや、まだ名前を取り戻すことのできなかった人たち、このドキュメンタリーのプロデューサー、そして渥美国際交流財団の奨学生たちは、もしかすると私がこの人生で会う運命であったかもしれない。   国連墓地が伝える話は、決して今・こことかけ離れた過去の戦争に限定されない。むしろ私たちは記憶の地であり、忘却の地でもある国連墓地という死者の居場所をめぐって、生と死、戦争と平和といった二項対立的な諸境界を行き来しつつ行われてきた戦没者及び存命の元兵士の身体と向き合う。これを以て、過去のイデオロギー対立がもたらした死の居所・戦争の痕跡は、21世紀地球社会を生きる私たちが目指すべき姿を提示してくれる。このような省察こそがドキュメンタリー「記憶の地、国連墓地」が生きた遺産として戦後世代に遺すレガシーなのではないか。   「記憶の地、国連墓地」(写真集)   YouTubeのリンク「記憶の地、国連墓地」(予告編)   英語版はこちら     <李貞善(イ・ジョンソン)LEE Chung-sun> 東京大学大学院人文社会系研究科博士課程に在学中。2021年度渥美奨学生。高麗大学卒業後、韓国電力公社在職中に労使協力増進優秀社員の社長賞1等級を受賞。2015年来日以来、2017年国際建築家連合等、様々な論文コンクールで受賞。大韓民国国防部・軍史編纂研究所が発刊する『軍史』を始め、UNESCO関連の国際学術会議で研究成果を発表。2018年日本の世界遺産検定で最高レベルであるマイスターを取得。     2022年1月27日配信
  • 2022.01.13

    エッセイ693:ボルジギン・フスレ「ウランバートル・レポート2021年秋」

    2021年8、9月、私は1年7ヶ月ぶりにモンゴル国に行ってきた。   新型コロナウイルス感染拡大の影響で、モンゴル国は2020年2月中旬より外国人の中国からの入国を禁止し、同月末にはモンゴルと日本、韓国などの国との便の運航が停止した。その後、モンゴル国外務省、保健省は外国人の入国に関する規定を何度も変えた。一方、日本のマスコミにも報道されたように、何度も延期された待望の新ウランバートル国際空港が2021年7月4日に開港し、成田国際空港・日本空港ビルデング・JALUX・三菱商事といった日本企業連合とモンゴル政府の「新ウランバートル国際空港合同会社」による運営が始まった。それにともなって、長さ32キロあまり、6車線(片側3車線)の新空港とウランバートル市内を結ぶ高速道路も開通した。日本――モンゴル間の便が昨年後半に再開されたが、新ウランバートル国際空港の開港により、両国間をつなぐ航空便が増えた。   私は、大韓航空の便で8月25日に成田空港を出発し、当日仁川空港で一泊して、翌26日に新ウランバートル国際空港に着いた。成田空港での審査は非常に厳しく、ワクチン接種証明書、PCR陰性証明書の提示を3回、モンゴルでの最初の7日間の宿泊予約証明書の提示を2回、求められた。また、何回も検温された。仁川空港での乗り継ぎは意外にも何の書類も求められず、何の質問もされずに、すぐ手続きを済ませた。ウランバートル空港に着いたら、「厳しい」というより、待つ時間が長かった。検温、入国手続き、健康に関する質問書の提出、PCR検査、荷物の受け取りという流れだったが、2時間近くかかった。   新空港を出て、高速道路は渋滞がなく(そもそも空港の便数が少なく、新空港――ウランバートル高速道路の利用者が少なかった)、30分でウランバートル市内に入った。しかし、そこからは交通渋滞で、ホテルに着くのに1時間以上もかかった。街では、多くの人がマスクを着けているだけで、それ以外は、2年前のウランバートルと何も変わっていない。   「どういう風にしてモンゴルに行ったのか教えていただきたい」とか、「モンゴルに行きたいと思っていますが、いろいろハードルが高そうで…」とか、私がウランバートルについたと知った日本の知人から、日本での出国、韓国での乗り継ぎ、モンゴル入国に関するさまざまな質問が相次いだ。それを答えるのに毎日深夜までメールのやり取りをして、それは1週間ほどもつづいた。   9月4日、昭和女子大学国際文化研究所と公益財団法人渥美国際交流財団関口グローバル研究会、モンゴル国立大学社会科学学部アジア研究学科の共同主催、渥美国際交流財団、昭和女子大学、モンゴルの歴史と文化研究会、「バルガの遺産」協会の後援で、第14回ウランバートル国際シンポジウム「日本・モンゴル関係の百年――歴史、現状と展望」がモンゴル国立大学2号館4階多目的室で対面とオンライン併用の形で開催された。90名ほどの研究者、学生等が参加した。   2021年は、モンゴル国建国110周年、モンゴル革命百周年、そしてモンゴル民主化40周年、さらに日本のモンゴルに対する政府援助資金協力再開40周年にあたる。百年の日モ交流の成果を振り返り、同時に東アジア各国の国際関係の現状や課題を総括するに当たって、日本・モンゴル関係を基軸に据えることは独自の意義がある。日本、モンゴル、中国等の代表的な研究者を招き、新たに発見された歴史記録や学界の最新の研究成果を踏まえて、歴史の恩讐を乗り越えた日本とモンゴルの友好関係の経験から得られる知見を発見し、その検討を行った。   開会式では、モンゴル国立大学社会科学学部アジア研究科Sh.エグシグ(Sh. Egshig)科長が開会の辞を述べ、渥美国際交流財団関口グローバル研究会今西淳子代表、モンゴル国立大学社会科学学部D. ザヤバータル(D. Zayabaatar)部長が祝辞を述べた。その後、前在モンゴル日本大使清水武則氏、モンゴル科学アカデミー会員・前在キューバモンゴル大使Ts.バトバヤル(Ts.Batbayar)氏、東京外国語大学二木博史名誉教授、ウランバートル大学D.ツェデブ(D.Tsedev)教授、大谷大学松川節教授、モンゴル国立大学J.オランゴア(J.Urangua)教授、日本・モンゴル友好協会窪田新一理事長、モンゴル科学アカデミー歴史と人類学研究所B.ポンサルドラム(B.Punsaldulam)首席研究員など、日本、モンゴル、中国の研究者16名(共同発表も含む)により報告がおこなわれた。オンラインではあるが、今西さんが久しぶりにウランバートル国際シンポジウムに参加されたことは、たいへん注目され、歓迎された。   同シンポジウムについては、モンゴルの『ソヨンボ』などの新聞で報道された。日本では、『日本モンゴル学会紀要』第52号などで同シンポジウムについて紹介される予定である。   シンポジウムを終えて、9月9日から20日にかけて、私は「“チンギス・ハーンの長城”に関する国際共同研究基盤の創成」という研究プロジェクトで、ドルノド県で「チンギス・ハーンの長城」に関する現地調査をおこなった。J.オランゴア教授、モンゴル国立大学社会科学学部考古学学科U.エルデネバト(U.Erdenebat)教授、Ch.アマルトゥブシン(Ch.Amartuvshin)教授、「バルガの遺産」協会Ts.トゥメン(Ts.Tumen)会長などが同調査に参加した。その調査では予想以上の大きな成果をおさめた。その詳細は、別稿にゆずりたい。   モンゴルでのPCR検査の情報の提供など、今回のモンゴル出張において、在モンゴル日本大使館伊藤頼子書記官にはたいへんお世話になった。ここで記して感謝申し上げたい。   シンポジウムと調査旅行の写真   英語版はこちら   <ボルジギン・フスレ BORJIGIN Husel> 昭和女子大学国際学部教授。北京大学哲学部卒。1998年来日。2006年東京外国語大学大学院地域文化研究科博士後期課程修了、博士(学術)。東京大学大学院総合文化研究科・日本学術振興会外国人特別研究員、ケンブリッジ大学モンゴル・内陸アジア研究所招聘研究者、昭和女子大学人間文化学部准教授、教授などをへて、現職。主な著書に『中国共産党・国民党の対内モンゴル政策(1945~49年)――民族主義運動と国家建設との相克』(風響社、2011年)、『モンゴル・ロシア・中国の新史料から読み解くハルハ河・ノモンハン戦争』(三元社、2020年)、編著『国際的視野のなかのハルハ河・ノモンハン戦争』(三元社、2016年)、『日本人のモンゴル抑留とその背景』(三元社、2017年)、『ユーラシア草原を生きるモンゴル英雄叙事詩』(三元社、2019年)、『国際的視野のなかの溥儀とその時代』(風響社、2021年)他。       2022年1月13日配信  
  • 2022.01.06

    エッセイ692:于寧「笹本さんと日中友好」

    先日、論文を書いている時に一本の電話がかかってきた。小諸市日中友好協会の笹本さんだった。最近は論文の執筆で忙しくて、しばらく連絡を取っていなかった。笹本さんはその日に映画のイベントがあって、中国映画史を専門にしている私のことを思い出したから、連絡してくれたようだ。   出会ったのはまだ大学生の時だった。小諸市日中友好協会は母校の南京大学との親交が深く、南京大学で「中国藤村文学賞」を主催するほか、日本文化に対する理解を深めるために南京大学の学生を対象にホームステイ招待活動も行ってきた。自分が初めて日本に来たのも小諸市でのホームステイで、笹本さんはホストファミリーのお父さんだった。   笹本さんご夫婦と一緒に過ごしたのは一週間にもならなかったが、私の人生に大きな影響を与えたものになった。家族の一員として受け入れてもらい、日本人の日常生活に溶け込んだ貴重な文化体験ができた。浴衣を着て市民祭りで踊ったり、山頂にある地元の有名な温泉や観光名所の懐古園などに案内してもらったり、お母さんが畑で栽培した野菜の収穫を手伝ったりして、小諸の豊かな自然と文化を肌で感じ、教科書だけでは伝わらない日本文化の魅力を感じ取った。この経験は後に自分の日本への留学という決断にもつながったのだ。   小諸に滞在する間にいろいろ新鮮な体験をしたが、一番印象に残ったのは何よりも笹本さんの日中友好に対する情熱だった。笹本家に着いた初日に、笹本さんは日中国交正常化の歴史に関する書籍を私に贈り、隣国同士として再び戦争を起こさないように仲良く付き合っていこうと熱く語り、日本語を専攻する自分に日中友好の架け橋になってほしいという期待を示した。その会話から、笹本さんがワイン醸造の会社に勤めていたが、退職後に日中友好事業に専念するようになったことが分かった。そのきっかけについて聞かなかったが、中学校まで中国の瀋陽市(当時は奉天)にいたと話してくれたから、幼少期を中国で過ごしたことと、日中戦争を経験したことに関連しているだろうと推測できた。笹本さんの一人の民間人として、民間での交流活動を通じて両国民の相互理解と友好関係を深めようとする姿に強く感銘を受け、帰国後に南京で行われた日中交流活動に積極的に参加するようになった。   帰国後は笹本さんと文通をしていたが、日本留学が決まったことに大変喜んでくれた。日本で受験勉強をしていた時には、小諸からリンゴを送ってくれて、受験を励ましてくれた。入学式には私の家族として、わざわざ小諸から出席してくれた。数年前までは瀋陽の中学時代の同級生たちが東京で同窓会を開催していたが、それに参加する度に私と会っていた。小諸に招待したり、東京で開催された「中国映画週間」に誘ったりして、コロナになる前はほぼ毎年会ってくれていた。その間も訪中団を引率して中国での交流活動を行ったり、中国の大学生を日本に招待したりして、日中友好事業も継続していた。笹本さんは私との親交だけでなく、日中友好のためにその努力する姿も私の留学生活の大きな励みになった。   2015年に、戦時中に国策で中国東北部に送り出された「満蒙開拓団」が敗戦後に置き去りにされたことで生まれた中国残留日本人孤児の問題を取り上げた映画『山本慈昭 望郷の鐘~満蒙開拓団の落日』(監督:山田火砂子、2015年)を見て、笹本さんが全身全霊で行ってきた日中友好事業に対する理解を深めることができた。映画の主人公である山本慈昭さんは笹本さんと同じく長野県出身で、敗戦の3か月前に開拓団を引率して中国東北部に送り込まれたという。映画を通じて最も多くの開拓民が送り出された長野県の当時の歴史を知ったことで、小諸でのホームステイや笹本さんとの親交の意義に対して異なる認識ができた。   また映画のエンディングロールに表示された後援に、全国の日中友好協会がリストされ、その数の多さに驚いた。日本各地、特に農業地域にこれほどの日中友好協会が存在していることは知らなかった。各地における多くの日中友好協会の設立は戦時中に行われた「満蒙開拓団」派遣という負の遺産に立ち向き合うことに関連しているだろう。笹本さんが瀋陽に渡った経緯や中国東北部からの引き揚げなど、彼個人の経験は映画で描かれたものと異なるかもしれないが、戦争の経験者として当時の歴史に向き合おうとする姿勢から日中友好事業に身を捧げる原動力が生まれたといえよう。   コロナになってから笹本さんと会うのが難しくなり、彼の日中交流活動にも大きな支障が出ている。今年は南京大学創立120周年記念で、ちょうど「中国藤村文学賞」の授賞式も予定されているが、中国に行けるかどうかは未知であるという心配を電話で明かしてくれた。それ以外もいろいろ困難がある。今年で91 歳になる笹本さんはまだ現役で頑張っているが、小諸市日中友好協会の会員に若い世代の人が少ないことを懸念しているようだ。   コロナの影響で今までの交流が難しくなったのは事実で、後継者も大きな問題になるだろうが、異なる領域で様々な形の日中交流は中断なく行われ続けている。例えば、渥美国際交流財団は「日本・中国・韓国における国史たちの対話」や「チャイナ・フォーラム」などの学術イベントを主催することを通じて、東アジアにおける相互理解を深めようとしてきた。このような学術交流は研究者を目指している自分に方向性を示してくれた。自分の研究に可能性を感じ取っており、これからは日中映画交流に関する研究や実践を通じて、日中両国民における相互理解を促進することを試みたい。笹本さんの期待に応えられるような形で。     英語版はこちら     <于寧(う・ねい)YU Ning> 2020年度渥美国際交流財団奨学生、国際基督教大学ジェンダー研究センター研究員。中国出身。南京大学日本語学科学士。東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻博士前期課程修了。研究テーマ「中国インディペンデント・クィア映像文化」「中国本土におけるクィア運動の歴史」。     2022年1月6日配信  
  • 2021.12.23

    エッセイ691:エマヌエーレ・ダヴィデ・ジッリォ「私の宗教と信仰:「~でもある」という在り方について」

    自分のこれまでの人生の中で、大きく分けて言えば2つの大きな宗教と出会い、細かく言えば4つの信仰を受け入れる機会をいただきました。このエッセイでは、4つの信仰を受け入れている自分の今の「在り方」に至った経緯と、現時点での私の結論について述べたいと思います。   13年間も日本で日本の仏教文学を研究しているイタリア出身の私ですが、「宗教は何ですか」「信仰は何ですか」と聞かれることがよくあります。ずっと同じ文化と同じ世界の中だけで動いている人間ではありませんし、違う国(日本)の精神文化にも興味を持ち、違う宗教と信仰(仏教)にも触れて理解しようとし、受け入れた人間です。ですので、答えはそれほどシンプルではありません。   家族の信仰はカトリックで、私は生まれた時からいわゆる「ボーン・クリスチャン」(幼児洗礼を受けた者)です。私の今の人生のパートナーは非常にオープンな人でありながらも仏教徒ではないのですが、日本で最初にお付き合いした方は仏教徒でした。もう私と一緒にいない方で、彼女の個人情報をこちらで一方的に持ち出すというのはよろしくないので、この場では彼女の仏教に「新しい教団」と「伝統的な教団」の両方がある、という説明だけにとどめておきたいと思います。   彼女の家族は「新しい仏教教団」の信者でした。私は、自分の家族と所属教会のお許しを得て、彼女の信仰も受け入れ、イタリアから彼女の宗教団体にも入会しました。所属教会の「お許し」というのは、「カトリック教会を出ないでキリスト教を否定さえしなければ大丈夫だよ」「もしいつか子供ができて洗礼も受けさせるように努力してくれれば、違う宗教(例えば仏教)の方と付き合い、その信仰も受け入れて良いよ」という内容のお許しです。彼女とは「もしいつか子供が生まれた場合、すぐには宗教団体に入れないで、キリスト教と仏教の両方を子供に伝えてあげて、大きくなったら自由に選ばせてあげよう」という話も何度かしました。   私のような外国人にとって、キリスト教とは違う精神性に興味を持ち、キリスト教とは違う宗教の方と関わることは全く当たり前のようにできることではありません。違う文化と精神性を持っている相手の信仰も自分のものにしようと、それ関係の研究をするために10年以上家族から離れるということも―私は一人っ子ですからなおさらです。イタリア人の仏教関係者は人口の0.5%ですが、ほとんどカトリック教会にも所属していて、キリスト教を否定までする方はそれほど多くありません。そのほうがイタリア国内でカトリック教会と問題にならないからです。   この話はイタリアのみならず、キリスト教文化圏の地域でキリスト教以外の精神性を何らかの理由で受け入れた方々に聞けば、すぐに確認できます。「洗礼は受けたのか」「「初聖体拝領」と「堅信式」までやったのか」「カトリック教会以外の宗教団体にも入ったとき、洗礼などの秘蹟(サクラメント)を取り消していただきたいという手紙を地元の司教区にちゃんと送ったのか(でなければ、まだ教会にも所属しているまま)」「それとも、家庭事情などで違う宗教団体にも入って一つ以上の信仰を持っていて良いかという話をちゃんと司祭としてみたのか(司祭は理解してくれて許してくれると思います)」と。他にカトリック教会には無断で違う宗教団体に個人として入会した方も多いのですが、これはあまりよろしくないパターンで、イタリア国内とキリスト教文化圏の他の地域で問題になる可能性はゼロではありません。   もう20年前の話になります。私は5歳から20歳まで、空手とその繋がりで瞑想的なこともやっていたので、幼いころから日本の精神文化に強い興味がありました。イタリアでキリスト教以外の精神性にも関心を持った方と共通している理由として次の3つがあります。1)西洋世界が思想的に行き詰まっているという危機感を抱き、外から違うものもどんどん取り入れたほうが西洋世界の再生に繋がるのではないかという感覚があった。2)西洋世界が忘れつつある重要な価値観(心と身体との密接な繋がりを説く教え、人間と自然環境との密接な繋がりを説く教えなど)が、東洋の精神性にはまだ残っていて、今でもちゃんと生きているという感覚があった。3)歴史的な宗教の権威主義的なところ(聖職者中心の構造や人間のあるべき姿をアプリオリに規定しようとするところなど)には不満を抱いていた、この3つです。   2008年に来日した時、私は日本の文科省認定の研究生として入国していたので、文科省との契約によって宗教活動も含めて、研究以外のアクティビティーは最近まですべて制限されていました。お付き合いしていた方の信仰とそのお勤めも、彼女と一緒に行い大事にするということは、家の中だけの話にしなければならない状況でした。しかし、私は同時に大学でも研究の形で仏教の歴史を理解しようとし、その精神性の様々な展開を必死で吸収しようとしていました。   その時、私を学生と若手研究者として大事に育ててくださり、やることをたくさん与えてくださったのは、残念ながら私が最初に一番期待していたグループ(当時お付き合いしていた方の「新しい仏教教団」)関係の方々ではなく、「伝統的な仏教教団」の方々だけでした。この場ではイニシャルしか記載しないことにしますが、要するに大学時代の指導教官で我が恩師であるM.K.先生と、その「伝統的な仏教教団」関係の大学と大きなお寺さんの方々のみでした。   「新しい仏教教団」の方々には、私はどうやら次のようなことを思われていたらしいです。「我々の仲間だと思われたくなくて大学と他のところで自分の所属を隠したり否定もしたりしているのではないか」とか、「我々の仲間でいたいかいたくないか、どちらなのだろうか」と。この方々とのコミュニケーションと関係は10年ほど前に博士課程に入った時点で既にうまく行かなくなっていて、私が若手研究者として彼らと関わろうとすることに関して自分の家族と当時お付き合いしていた方にまで心配をかけました。   私の最初のコミュニケーション不足もあったかと思います。また、個人的なことを誰にでも詳しく聞いたり打ち明けたりすることは日本人同士でもなかなかやらないし、日本の宗教者の世界では多くの場合に生まれつきの「所属」によって人の基本的な立場が最初から決まっているため、そのような話を何度もする必要もないという文化的な側面も関係していると思います。さらに、日本人は、日本人がやってきた行動だけを前提にして、外国人の事情まで解釈することもあるようですが、これは適切でないと思います。   幸いに、「新しい仏教教団」と「伝統的な仏教教団」の間には歴史的に仲が悪かった時期も沢山あったにも関わらず、そして最初から私のことをご存じだったにも関わらず(大学に入った時に、所属の研究室の先生方に自分のことを詳しくお伝えしましたから)M.K.先生とその「伝統的な仏教教団」関係の方々は私をよく理解し、受け入れて、今でも研究生活を支えてくださっています。私は、家族の信仰であるキリスト教とは違うものも受け入れることができた人間として、M.K.先生などの「伝統的な仏教教団」の方々の信仰と価値観をも理解し、受け入れています。   では、「宗教は何ですか」「信仰は何ですか」という、私にもよくある質問なのですが、答えはシンプルなものでは有りえません。私は自分のことをクリスチャンであり、仏教者でもあると思っています。私には信仰が1つ以上あって、自分の人生では4つも受け入れている、とういう答え方になります。1)家族の信仰(カトリック)、2)日本で最初にお付き合いした方の「新しい仏教教団」の信仰、3)M.K.先生などの「伝統的な仏教教団」の信仰、4)今のパートナーの信仰と価値観を私はすべて理解し、受け入れておりますので、すべてが今の私の精神性の大切な一部になっている、ということです。   例えば、私にとってカトリックの朝晩のロザリオか、私がお付き合いした仏教者たちの朝晩のお勤めか、どちらでもかまいません。同じように元気になれることを何度も経験しています。どのコミュニティーとお付き合いしても、同じような「元気」を何度も再発見することが可能だと経験しております。同時に、混ぜるつもりも全くありません。イタリア語で喋る時はイタリア語で喋り、日本語で喋る時は日本語で喋り、イタリアの文化で考える時はイタリアの文化で考え、日本の文化で考える時は日本の文化で考えています。   同じようにクリスチャンの方と喋る時はキリスト教の「言語」で考え、喋り、仏教者の方と喋る時は仏教の「言語」で考え、喋ることができます。クリスチャンの方をキリスト教の「言語」で元気づけることも可能ですし、仏教者の方を仏教の「言語」で元気づけることも可能です。クリスチャンたちには仏教の視点を伝え、仏教者たちにはキリスト教の視点をお伝えすることもあり、両側の共通点と類似性について述べることもあります。これは、違う宗教の方と結婚した人、その子供たちのアイデンティティ論、ハーフの方(=ダブルの方、要するに一つ以上の母国語、一つ以上の文化、場合によっては一つ以上の精神性の方)と同じです。   さらに、「違う信仰も受け入れた時点で『自分の宗教と信仰は特にあれではなくこれだけだ』というような次元からは、私は最初から飛び出てしまっている」という答え方もできます。私のような人間に対して「宗教は何ですか」「信仰は何ですか」という問いかけは実は、私のような人への適切な理解を導かない可能性もある、と言わざるを得ません。   私はこの2番目の答え方のほうを好んでいます。私の出身の教会(カトリック)と日本で最初にお付き合いした方の「新しい仏教教団」、M.K.先生などの「伝統的な仏教教団」のそれぞれのカテゴリーで言えば、私はカトリック出身で、M.K.先生などの「伝統的な仏教教団」の関係者であり、昔お付き合いした方の「新しい仏教教団」の理解者でもある、という言い方になりますが、これらのカテゴリーは私のような人にいつでも完璧にフィットするとは限らない、とも言わざるをえません。   ここで、違う文化と価値観とのふれ合いが少なかったという事情もあって、たった一つの世界の中だけでしか動けなかった人たちが登場します。そして、彼らの、とある「こうあるべき論」と「立場主義」とよくぶつかったりもします。例えば、「今の話はあくまでも「~教団」の一員として言っているよね?」とか「どっちだ!?」とか「考えすぎだ」「気にしすぎだ」などと。ハーフの方などもよく受ける扱いです。申し訳ありませんが、「今の話はあくまでも…」というような次元からは、私は最初から飛び出てしまっています。「どっちだ?!」という設定からも、私は最初から飛び出てしまっています。本当に申し訳ありません。   「どっちの仲間だ!?」というような設定を押し付けられてしまうとすれば、私は所属と信仰を問わずオープンな方と仲間でいたいとは思いますが、次のような選択を迫られることになると思います。1)違う宗教との関わりを最初に許してくださったカトリック教会だけにするか、2)再び自分の家族とカトリック側のお許しを得た上で、日本で私を一番理解し、学生と研究者として大事に育て、やることと役割をたくさん与えてくださったM.K.先生などの「伝統的な仏教教団」を選ぶか、どちらかにせざるを得ないという話になります。日本でどちらのほうが私をオープンに活かし、そして私が最終的にどちらのほうによりお世話になったのかという倫理の問題になります。2番目の選択肢の場合、カトリック側は「お仕事のためなら」ということで、また20年前と同じような「お許し」を下さるそうです。   どちらにしても、私は架け橋のように造られた人間であるということに変わりありません。一つ以上の世界の両側に付くのが架け橋です。もしこれをどうしても理解できないという方がおられるならば、どうかご自身の不理解や、外国人の様々な事情に対する知識不足のようなものを、私のような人間の問題や罪に捉えないでください。架け橋を壊さないでください。   どなたについても言えることなのですが、人がそのように造られ、生まれてきたことには必ず意味と使命があるのです。世の中の一部の方々はこれからも理解しないかもしれません。多くは、たった一つの世界の中だけでしか動いてこられなかったのかもしれません。しかし、そういった方々にも「飛び出る」方法は全く無いわけではないでしょう。例えば、それぞれの価値観と精神性の歴史をよくよく学んでいけばいいです。そうすれば、どなたでも受け継いだ大事な精神的な遺産の現状を相対化し、その影響に対して創造的になり、どなたでも自分を自分たらしめる全ての要素をより深く味わうこともできるであろうと思います。     英語版はこちら     <エマヌエーレ・ダヴィデ・ジッリォ|Emanuele_Davide_Giglio> 渥美国際交流財団2015年度奨学生。2007年にトリノ大学外国語学部・東洋言語学科を首席卒業。外国語学部の最優秀卒業生として産業同盟賞を受賞。2008年4月から2015年3月まで日本文科省の奨学生として東京大学大学院・インド哲学仏教学研究室に在籍。2012年3月に修士号を取得。2014年に日蓮宗外国人留学生奨学金を受給。仏教伝道協会2016年度奨学生。2019年6月に東京大学大学院・インド哲学仏教学研究室の博士課程を修了し、哲学の博士号を取得。現在、日本学術振興会外国人特別研究員。身延山大学・国際日蓮学研究所研究員。     2021年12月23日配信
  • 2021.12.09

    エッセイ690:尹在彦「『格差社会』としての韓国と日本メディアの『フレーム』、そして『オマカセブーム』」

    メディアが外国を素材として伝える場合、国内の事案より「フレーム(frame)」もしくは「固定観念」が頻繁に働く。理由は二つと考えられる。第1に、当該国のことについて読者や視聴者が常に意識しているわけではないので、詳細な説明を省いた方が「楽だから」だ。特に普段は話題にならない国に対してこういった傾向が強いだろう。第2に、その国に読者や視聴者がほとんどおらず、抗議を心配することがない点だ。私は国際部(日本では主に外信部と呼ばれているようだが)の先輩から「いくら米国を批判する記事を書いたってオバマが文句を言ってくることはない」と言われたことがある。近年ではいわゆる「パブリック・ディプロマシー(public_diplomacy)」の観点から在外公館等が積極的に対応することもあるが、それでも報じる側が相手を恐れず(訴えられることなく)書けることも事実だ。   ただし、日本メディアの韓国報道は上記の説明から多少ずれている事例かもしれない。「レガシーメディア(ハードニュース、硬派の新聞・テレビニュース等)」だけでなく「ソフトニュース(週刊誌、ワイドショー等)」にも頻繁に取り上げられる一方で、日本語が分かる読者・視聴者層が少なからず存在しているからだ。韓国政府も日本メディアには比較的機敏に反応する。それに加え、日本には良くも悪くも、幅広い読者・視聴者がたくさんいる、いわゆる「数字がとれる」素材が韓国だ。日本メディアの韓国報道のフレームが多様化したとはいえ、未だに断片的と言わざるを得ない。関係悪化の影響もあるだろうが、「見たいところを見せる感」は否めない。   例えば、「格差」というフレームである。韓国の文化や社会現象・問題は大概、格差というキーワードで簡単にくくられてしまう。ネットフリックスで上位を占めている「イカゲーム」に対しては「韓国の格差社会を映し世界的ヒットでも…ドラマ『イカゲーム』を楽しめない地元の人がいる理由」(「東京新聞」、2021年10月18日)、「イカゲームが風刺する韓国社会『愚かな競争』に突き進む人間のさが」(『朝日新聞』2021年11月19日)という具合の記事はきりがない。これはコロナ前にアカデミー作品賞を受賞した映画「パラサイト」に対しても同様だった。NHKはこの映画について「パラサイト 韓国映画にみる格差社会」というタイトルの下、その意味を解説している(2020年2月14日)。「格差」は韓国を表現する「マジックワード」になっている。   強調したいのは「韓国に全く格差なんて存在しない」という荒唐無稽な反論ではない。韓国の高い自殺率(とりわけ高齢層や若年層は日本と大差ない)、少子高齢化は確かに深刻だ。所得や資産の格差も良い状況ではない。しかし、問題は横並びに同じフレームですべてを説明しようとする「日本メディアの異様さ」だ。格差問題が深刻な国は世界に多く存在しているのに「なぜ韓国の作品が世界的な注目を浴びているのか」についての分析は乏しい。単純に「韓国の格差が深刻だから世界で人気だ」というのは論理的な思考回路なのだろうか。   要するに「格差の存在⇒(?)⇒良い作品」の過程で(?)のところに対する解答がなかなか見当たらない。その結果、普段より韓国のことを否定的に捉えている読者・視聴者(嫌韓ビジネスの消費者層)はメディアの影響ですぐに「格差のせいでああいう作品が出ている」と納得するかもしれない。それでフレームは固定化もしくは増幅していく。この問題に関して韓国専門家、福島みのり氏の指摘は妥当だと言わざるを得ない。   「最近よく目にするのが、韓国の格差や生きづらさを過剰に強調した本です。『この国は地獄か』とか『行き過ぎた資本主義』とかの文言が、帯やタイトルに付いているのが特徴です。(『日本から出て行け』と言うような)一般的なヘイトスピーチだけではなく、ここにもヘイト的な要素があると思います。若者たちもこうした本を見ると『韓国って本当に大変なんだね。日本に生まれてよかった』などと言います」(『毎日新聞』2021年11月6日)。私は韓国の格差を強調するメディアが「ヘイト」を助長するとは必ずしも考えていないが、それでもやはりその「報道の怠惰さ」は批判されても仕方ない。「他の要因を探せ」と言いたいのだ。   私は最近「韓国でのオマカセブーム」という社会現象に注目している。どういう現象かというと、外食文化で高級すし店を皮切りに、様々な高級飲食店で日本語をそのまま使った「オマカセメニュー」が増えている。2010年代前半より、ソウルの江南(カンナム)地域を中心に高級すし店が一軒ずつ増えていった。ランチは1万円(10万ウォン)以上、ディナーは2万円(20万ウォン)以上もするにも関わらず、人気店は3か月後まで予約が埋まっている。一部の「超人気店」は予約を受け付ける時間まで決まっている。渡日前(2014年)に一軒訪問したことがあり本場に劣らない味だったが、それにしても「そこまで行きたいのか」と問いたい気持ちもある。   現在はこの「オマカセ文化」がもはやブームになっている。焼鳥のような和食レストランだけでなく、「韓牛(和牛の韓国版)オマカセ」すら登場している。オマカセがつくメニューは他と比べ格段に高くなるのだが、やはりそれでも買ってくれる人はひっきりなしに予約を入れている。「この人たちは一体どこから来ているんだ」という疑問もあるが、これも「格差」というコインの表裏をなす現象だろう。しかし、日本メディアの焦点は専ら「下層」にばかり当てられている。   私の研究の契機で、今ではモチベーションの一つが「日本政府・社会の動きに対し何でも『右傾化のせい』にする韓国メディア」への抵抗感だった。私は相変わらず「右傾化」のフレームだけで日本を捉えると、実態が見えてこないと考えている。それは恐らく、韓国を「格差社会」とだけ見ることと通底しているのではないか。両国関係が悪化した時期だからこそ、より冷静な報道が求められる。   <尹在彦(ユン・ジェオン)YUN_Jae-un> 一橋大学法学研究科特任講師。2020年度渥美国際交流財団奨学生。2021年、同大学院博士後期課程修了(法学)。延世大学卒業後、新聞記者(韓国、毎日経済新聞社)を経て2015年に渡日。専門は日韓を含めた東アジアの政治外交及びメディア・ジャーナリズム。現在、韓国のファクトチェック専門メディア、NEWSTOFの客員ファクトチェッカーとして定期的に解説記事(主に日本について)を投稿中。     2021年12月9日配信
  • 2021.12.02

    エッセイ689:尹在彦「『カブール陥落』、一つの時代の終焉」

    8月15日、タリバン勢力によるアフガニスタンの首都、カブール陥落はある種の「時代の終焉」を見せつけているような気がした。20年前には「CNN」に代表される欧米系のメディアでしか見られなかった現地の様子は、アフガンの個々人のSNSアカウントから時々刻々と発信された。これは20年という時代の変化とともに何らかの不変さを感じさせた。変化とは技術的な意味で、不変はアフガン政治体制のもろさのことである。昨年以降、タリバンが勢いづいて勢力を急拡大していた事実は日本や米国の報道から知っていたが、体制崩壊はあまりにも早かった。米軍がそう簡単に撤退するとも思えなかった。しかし、いつの間にかカブールは我々の脳裏から消えていき、タリバンはアフガンの「正当な」統治勢力と化している。   私は2003年に大学へ入学した。当時はいわゆる「テロの時代」だった。「9・11テロ」(2001年)の衝撃と米国の対応(報復)、即ちアフガン・イラク戦争の影響は韓国にも及んでいた。9・11テロを生中継で目撃した数多くの一人として、想像を絶する「非日常の風景」に衝撃も受けた。米国のアフガン攻撃は当然視され、世界的にも米軍支持が次々となされた。当時はあの北朝鮮ですらテログループを非難し犠牲者を追悼する声明を出すほどだった。戦場と化したアフガンの聞きなれない地名で米軍は勝利を収め続けた。タリバンはあっけなくアフガンから駆逐されたように見えた。戦争の名目はタリバンがテロの首謀者、オサマ・ビンラディンをかくまったということだったが、戦争の最後まで目的を達成することはなかった(彼は隣国のパキスタンで捕まる)。   米国は気勢を上げ「大量破壊兵器(WMD)」疑惑を理由にイラクへ侵攻する。これがちょうど2003年だった。韓国の大学では当時いわゆる「学生運動勢力」がそれなりに力を有していた。キャンパス内ではイラク戦争への反対を訴える垂れ幕も散見された。それまで米国の軍事活動を概ね支持してきた韓国世論も、イラク戦争に対しては賛否両論が激しく対立していた。アフガン戦争とは違って、どうしても戦争の正当性が見当たらなかったからだ。2003年5月にブッシュ米大統領の「終戦宣言」で終わったように見えたイラク戦争は泥沼化していく。私は最初からイラク戦争には反対だったが、今、振り返ってみると戦争を多少変わった観点から見た時期もあった。2005年からの2年3か月の軍人時代(兵役、空軍)だ。   韓国政府は米国の支援要請を受け、軍事派遣を進めるか否かで相当迷っていた。派兵を反対するデモも繰り返し行われた。韓国内の対米感情は悪化の一途を辿り、ブッシュに対しても多くの批判がなされた。単純に進歩系市民団体だけでなく、米国の「一方主義」に拒否感を覚えた人々が多かった。陸軍部隊等の大規模派遣が決定された後には「それでもどこが安全か」という議論に移った(余談であるが、日本でも似たような論争は存在していた。しかし議論自体は韓国より比較的落ち着いた中で進められる。その背景には北朝鮮による拉致問題があったが、詳細については割愛する)。   私の「日常史」がイラク戦争に「出くわす」のは、ちょうど戦争の泥沼化が始まったこの時期だった。「イラク派遣の兵士を募集する」という内容の通達文が全軍に伝播された。基本的には陸軍兵士が中心だったが、クウェートに空軍部隊の展開も予定されていた。兵士の間では「今の何十倍ものお金がもらえる」ということで話題にもなった。当時の給料は平均月1万円前後だったからだ(現在は賃上げの影響で増額)。それがイラクに行くだけで、約2000ドル(約20万円)になるということだった。軍内部のインターネット(イントラネット)のメールマガジン(ニュースレター)には「平和的に現地住民と過ごす兵士の写真」が数回にわたり掲載される。応募することはなかったが、それにしても戦争がそれなりに身近にあった。それ以降、北朝鮮の初の核実験(2006年10月)も軍隊で経験したため、当時の「安保情勢」はある意味、「自分の問題」でもあった。そのせいか、今でもこの前後の時代に対し学問的な関心を持っている。   全世界が目撃しているように、アフガン・イラクの安定化は失敗に終わろうとしている。イラクでは「イスラム国」をはじめ、とても安定とは言えない情勢である。アフガンのカブール陥落と空港での大惨事はその象徴だった。米国はイラクとアフガンの再建や民主化を名目に莫大な金銭的かつ技術的な援助及び軍事支援を進めてきたが、現在、自国内でもアフガン戦争を評価する声は高くないようだ。   個人的にカブール陥落後、米国内の動きで特に印象深かったのは、アフガン戦争の開戦を最後まで反対した米民主党の下院議員(バーバラ・リー)の演説だった。リー議員は、9・11テロ直後の議会で大統領にテロ対応のための絶大な権限を付与する決議に対し「軍事行動によってさらなるテロを防ぐことはできない」「どんなに困難な採決でも、だれかが抑制を訴えなければならない」と主張した。しかし、むなしくも採決の結果、上院では98対0、下院では420対1で議決は可決された(『朝日新聞』2021年8月12日)。にもかかわらず、ちょうど20年が経った今、この反対意見はこれからの世界の「教訓もしくは反面教師」として残った。   ただし、「20年」は変化をもたらすための時間としては極めて短い気もする。民族的構成が比較的単純な韓国や台湾でも、冷戦期の独裁体制から抜け出し民主化を定着させるまで40年以上の年月を要した。そのため、おそらく変化したことがあるとすれば、それは米国がもはや時間の経過を耐える「忍耐力」が低下した事実かもしれない。これこそ、「一つの時代の終焉」を意味するのだろう。   <尹在彦(ユン・ジェオン)YUN_Jae-un> 一橋大学法学研究科特任講師。2020年度渥美国際交流財団奨学生。2021年、同大学院博士後期課程修了(法学)。延世大学卒業後、新聞記者(韓国、毎日経済新聞社)を経て2015年に渡日。専門は日韓を含めた東アジアの政治外交及びメディア・ジャーナリズム。現在、韓国のファクトチェック専門メディア、NEWSTOFの客員ファクトチェッカーとして定期的に解説記事(主に日本について)を投稿中。     2021年12月2日配信
  • 2021.11.25

    エッセイ688:元笑予「日本と中国のいじめ問題―これからの研究課題」

    近年、日本では子どもの間のいじめでパソコンや携帯電話等が使われることは珍しくない。「ネット上のいじめ」とは、携帯電話やパソコンを通じてインターネット上のウェブサイトの掲示版などに特定の子どもの悪口や誹謗・中傷を書き込んだり、メールを送ったりするなどの方法により、いじめを行うものを意味する。一方、いじめを受けた子どもがツイッターやLINE上でつぶやいたSOSが「放置」され、自殺という最悪の事態に至ってしまうこともあった。   さらに、子どものいじめや自殺などの相談にSNSのLINEを使ったところ、電話よりも相談件数が増えることが分かった。「SNSは若者にとっていちばん身近なので、相談に活用できるよう対応することが必要だ」と言う意見も強い。いじめの防止につなげようと、千葉市の市立中学校は2016年度から子どもたちが毎日持ち歩く生徒手帳に、いじめに遭ったり目撃したりしたときの対応やネット上の相談窓口を記載する取り組みを始めたという。ネットいじめを低減する重要な要因、解消のために必要な要因は何であると考えられるのだろうか。教育者にとって、この点を明らかにすることが喫緊の研究課題である。   中国では2017年に国家教育部が初めて「いじめ」の定義を明確に示したが、その後の対策はまだはっきりとしていない。中国でいじめ問題に人々が関心を寄せるようになったのは、ごく最近のことにすぎない。長い間、多くの中国人は子どもの間のいじめは免れられないことであると考えていた。一学年に250名くらいの児童・生徒が在籍しているとの報告があり、生徒数が多いことが影響していると考えられる。   いじめが起こる場面では傍観者が最も多い。傍観者の多くは、いじめをする人が悪いと思い、いじめられている人はかわいそうな人であると思っているが、どうしたら良いか分からないという状態にある。中国では、多くの児童・生徒は学校側からいじめについて認識を尋ねられた場合に、知りうるすべての真実を学校側に伝えると答えている。いじめを傍観している児童・生徒は、いじめを解決する上で鍵となる人物といえる。いじめが先進国ほど表面化していない中国においては、学級づくりでは多くの傍観者を取り込んで、良い雰囲気を構築することが極めて重要なことであり、いじめを減らす有効な方法になると考えられている。   良い雰囲気の学級を作ることはいじめの予防教育につながる。日本でも、いじめの早期発見と早期対応を促す教師のあり方として、教師が子どもに信頼されることと共に、教師の意識を変えることが必要であると指摘されている。いじめがないことを前提に児童・生徒たちに接するのではなく、いじめが存在する可能性を前提として子供に接することで、早期に的確な対応を取ることが可能となる。これからの研究課題は、教師がいじめをどのように把握するか、教室全体がいじめ防止・抑止に結び付く雰囲気をどのようにつくり出すかという点になるといえる。     英語版はこちら     <元笑予(げん・しょうよ)YUAN Xiaoyu> 2008年来日、中国南開大学の日本語学科を卒業して、埼玉大学教育学部の研究生、修士を経て、東京学芸大学大学院で2020年9月に教育学博士号を取得。専門は教育心理学。現在、玉川大学教育学部非常勤講師として勤務しながら、東京学芸大学個人研究員として研究を進めている。     2021年11月25日配信
  • 2021.11.18

    エッセイ687:カバ・メレキ「日本語教育学部3年生と『羅生門』の下人の行方」

    私は今、トルコ西部に位置するチャナッカ市のチャナッカレ大学の日本語教育学部で教えています。この街にまつわる伝説は「トロイの木馬」です。   ここの学生は1年目に日本語予備クラスから始め、4年間の学部教育を経て、受かれば日本語教育の分野で修士課程に入学できます。私が担当している授業は学部3年生の「日本文学」です。   3年生の「日本文学」は、日本語教師として卒業が見込まれる学生にとっては「どうでもいい」授業だったようです。トルコでは日本文学の専門家は5本の指で数えたら、ちょうどの数になります。6人目は誰になるか待ち遠しいと言える状態がいつまで続くか分かりません。そのような環境ですから、3年生の「日本文学」は作家と作品の羅列で行われてきたようです。   チャナッカレ大学に転任して授業開始の週に3年生と初めて顔を合わせた日は忘れがたい思い出になりました。一昨年の秋でした。静かな教室、「はい、こんにちは!日本文学担当です」大きく目を開けた21歳前後の33人。「教育実習が忙しいから先生の話なんかどうでもいい」とは言わないが、言わなくてもそう言いたい顔です。しかし、こちらも負けるつもりはありません。   最初の授業から完全に日本語を使用。学生は驚く。後から聞いた話では「いつまで日本語で話すのかな」と、授業が終わったら「メレキ先生」のうわさ話をたっぷりしたようです。実際、1年目の日本語予備クラスが終わってからは日本語を使うことは少なくなり、3年生になると日本語教師になるための教育関係の授業が多く、日本語は勉強しなくなってきて、そのうち、日本語は一部の理論的な授業でしか使わない「死んだ言語」として認識されるようになっていたようです。それはクラスの雰囲気でも分かりました。   しかしながら、21歳の33人が「面白いこともなき世を面白く」生きるために日本文学は丁度良かったです。   一般的な日本文学の授業は一切行いませんでした。作家論だとか、自然主義の代表作家とか、平安朝の女流作家の名前を並べることもなかったです。芭蕉がいつ生まれたかも覚えさせませんでした。   『吾輩は猫である』は漫画バージョンを配り、「くしゃみ先生」の真似をしました。日本語で聞いた授業内容に笑う学生。それこそが「日本文学」という授業のゴールでした。漱石の話は主人公の「猫」で盛り上がりました。「猫の視線で教室を見て、それを日本語で表現しなさい」と言うと、学生は少し動きました。「猫になって見る日本文学の授業」のことを夜宿舎で話し合ったり、おかしくて笑ったりしたようです。   その後、『蜘蛛の糸』を読むときは女子大生のアイチャさんに「自分がカンダタだったら」の文の続きを考えてくださいと指示すると、「もしかしたら、自分も他の人を蹴って地獄の底に落として、自分だけ助かりたいと思ったかも」と発言します。芥川ファンが増えました。『鼻』を読む時は、「仲間の欠点に喜ぶ、見下すことで喜びを得た経験がありますか」と議論を始めたら、いつの間にか盛り上がります。騒動まで行かないですが、緊張感たっぷりの議論が続きます。   『羅生門』の下に来てびしょ濡れになった「下人」は善と悪の行動のどちらに走るかはかなり迷います。死体の髪の毛を抜くという場面設定。グロテスクで生臭い人間の内面を話し合いました。あなたは飢え死にするか、死体の髪の毛を抜いて鬘(かつら)を作るために売るか。このような質問をしたら、人間の気持ちと心の底の話が、「日本語でできるんだ」という実感が湧いてきました。登場人物の「下人」の心の闇が21歳の中東の若者にとって、なぜか身近な気持ちを抱かせたのかもしれません。海外とか、遠いどこかを夢見ていることもよく授業中に学生から持ち出される話題です。トルコの若者たちにとって、「下人」と彼がずっと気にするニキビのニュアンスも面白かったです。「ニキビ」は生物学的なものではなかった、テキスト分析をする時に、「主人公の体の動きも意味を持つ」と教えたら、「人生のこれからに対して抱く不安を芥川は「下人」のニキビを媒介に描いている」という結論に至りました。   驚くことに学生はそのうち「大宰派」と「芥川派」に分かれてしまいました。内気で恥ずかしがり屋グループは「太宰」でした。『人間失格』はトルコ語訳と日本語漫画バージョンを共に読む課題を出しました。「芥川」は比較的に話好きな学生のアイドルでした。現在、その時の3年生と芥川龍之介の短編集をトルコ語に訳しています。   3年生の「日本文学」の授業は人間の心の底に、日本語で話せるようになった科目でした。羅生門から出た下人の行方は分かりませんが、3年生は日本文学を通して日本語で人間を眺めることは少しできるようになったかもしれません。     英語版はこちら     <カバ・メレキ KABA Melek> 2009年度渥美奨学生。トルコ共和国チャナッカレ・オンセキズ・マルト大学日本語教育学部助教授。2011年11月筑波大学人文社会研究科文芸言語専攻の博士号(文学)取得。白百合女子大学、獨協大学、文京学院大学、早稲田大学非常勤講師、トルコ大使館文化部/ユヌス・エムレ・インスティトゥート講師、トルコ共和国ネヴシェル・ハジュ・ベクタシュ・ヴェリ大学東洋言語東洋文学部助教授を経て2018年10月より現職。     2021年11月18日配信
  • 2021.11.11

    エッセイ686:謝志海「脱炭素社会を先導する民間企業あれこれ」

    前回のSGRAかわらばんで、レジ袋をもらわないことによってエコになるかどうか、個人に環境問題を問うたが、日々の生活で痛感するのは地球の温暖化をくい止めるのは個人だけでは難しいということだ。   日本政府は今年4月の「気候変動サミット」で、2030年までの二酸化炭素排出量削減目標を2013年度比46%減とする新目標を発表した。これは日本政府がパリ協定後に国連に提出した削減目標の2013年比26%減から大幅な引き上げだ。同サミットでの米国の目標は2030年までに2005年比で50—52%削減。中国は2030年までにGDPあたりの二酸化炭素排出量を2005年比65%以上削減することや、2060年のカーボンニュートラル実現を掲げている(ジェトロ調査レポートより)。   日本がこの数値を達成するには、我々は今の暮らしをどのように、そしてどのくらい変えなければならないのか正直わからない。政府の掲げたこの大きな目標と、同じく政府が打ち出したプラスチック使い捨て品の有料化が国民にうまくリンクしていない。あくまでも私の推測だが、学校教育ではしっかりSDGsという大きな枠組みを教え、学校生活を通じ学内でリサイクル品の分別など行うことで、環境問題に真剣に取り組んでいると思う。しかしすでに成人し、社会で働いている人々は日々の忙しさにかまけて、環境問題なんて二の次のような人も多いのではないか。   その理由としては2つあると思う。まず社会人の新聞、テレビ離れの激しいこと。誰もが自分の欲しい情報しか取りにいかないので、環境問題に興味の無い人にはエコな情報など皆無であろう。もう一つは捨てられた家庭ごみの山からもわかるが、今でも生ゴミの日にダンボールやペットボトルを出す人があとをたたない。(住んでいるエリアによってごみ分別の意識が違うことは重々承知している。都会に住む人は人の目が多いからか、ごみ分別はしっかり行っているように感じる)環境問題を真摯に受け止め、行動する市民がどれだけ頑張っても、2030年に二酸化炭素排出量が今より数十パーセントも減るとは推測しにくい。   しかし、「日本はすごい!」と思うのは、政府と市民の間にどれだけ大きな隔たりがあっても、民間企業はいつだって頑張っているし、民間企業がそれぞれ独自の環境問題への取り組みを行っているところだ。私は日本が目標に近いレベルまで到達できるのも夢ではないかもしれないと期待している。挙げるときりがないが、私が感動したいくつかの企業の環境問題への取り組みを紹介したい。   まず、プラスチック(PETボトル)の循環利用事業を構築した三菱商事。なにがすごいのかと言うと、リサイクルするのがキャップラベルを外され、ボトルの中がきれいなものだけでなく、ラベルやキャップはそのまま、ボトルには飲み残しが入ったままという質の悪いものをもリサイクルできる手法(ケミカルリサイクル技術)をスイスの企業から取り入れ、三菱商事と付き合いの古い台湾の企業と協業し、タイで再生PET樹脂の製造に取り組むことができるまでにしたこと。商社の強みを活かして環境問題を解決に向けた好例だと思う。さらに全く同じ手法を用いた事業を日本でも立ち上げたそうで、期待が高まる。   ここで気になるのが、工場が稼働に必要とするエネルギーではないだろうか。エコなことをして電力を使い、CO2を排出しているようでは元も子もない。三菱商事は2020年に欧州で総合エネルギー事業を展開する会社を中部電力と共に買収し、低炭素社会へ向け次世代の電力事業モデルを構築しようとしている。欧州では遠浅の地形を活かし、洋上風力発電が日本より進んでいるし、消費地の近くで小規模な発電を行う分散型太陽光発電の新規事業に取り組んでいる。エネルギーの地産地消モデルなどを日本に持って来ることができれば、日本国内でCO2の排出が抑えられるだろう。   商社だけが多角的に環境問題に取り組んでいるかというと、そうではない金融サービス業で知られるオリックスは再生可能エネルギー事業にも注力している。オリックスのすごいところは、グループ全体を通してのモニタリング力である。オリックスグループとして2020年3月末時点で、国内において約130万トンのCO2を排出していた。一方、同社がグローバル展開する再生可能エネルギー事業を通じ、約300万トンのCO2排出量の削減を可能にした。この再生可能エネルギー源の内訳としては、風力、地熱、太陽光発電がメインで、太陽光発電においては大規模な太陽光発電所やメガソーラーを日本国内でも100カ所ほど設置し、風力発電や地熱発電は欧州、北米、アジアの企業に出資している。   もちろんこの2社だけでなく、数多くの会社が脱炭素社会を意識した経営をしていて、どれも自社の事業とうまく組み合わせており、感心するばかりだ。何より素晴らしいと思うのは、天然資源の少ない日本だからと諦めずに、海外で先行する再生エネルギー会社を開拓し、パートナーシップを結び協業していること。その知見から、例えば、日本の深い海では不向きの洋上風力発電を、海面に浮かべた状態で風車を設置するという開発を行っている。日本の地形を嘆くだけで終わらせないところがすごい。   このように企業の取り組みを一つずつ見ていくのはとても興味深い。今我々にできることも浮き彫りになってくる。とりあえず私はペットボトルを空にしたら、ラベルを剥がしゴミ箱へ、キャップとボトルはそれぞれのリサイクルボックスへ分別しようとここに誓う。   この論考を書くにあたり、下記の情報を参照しました。   三菱商事 電力ソリューショングループ   オリックス株式会社 サステナビリティレポート   <謝志海(しゃ・しかい)XIE Zhihai> 共愛学園前橋国際大学准教授。北京大学と早稲田大学のダブル・ディグリープログラムで2007年10月来日。2010年9月に早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士後期課程単位取得退学、2011年7月に北京大学の博士号(国際関係論)取得。日本国際交流基金研究フェロー、アジア開発銀行研究所リサーチ・アソシエイト、共愛学園前橋国際大学専任講師を経て、2017年4月より現職。ジャパンタイムズ、朝日新聞AJWフォーラムにも論説が掲載されている。     2021年11月11日配信  
  • 2021.11.05

    エッセイ685:林泉忠「『三四五中国包囲網』はこうして作られた」

    (原文は『明報』筆陣(2021年9月20日)に掲載。平井新訳)   米国、英国、オーストラリアは9月15日、「AUKUS」という名の3ヵ国軍事同盟を発足させると発表した。この同盟の現時点での目標は、中国をけん制することを目的としたオーストラリアの原子力潜水艦隊の建造、整備に重点を置いている。これはバイデンが大統領に就任して以降、米国が強化してきた「自由で開かれたインド太平洋戦略」や、民主主義国家が連帯して中国に対抗するための一連の行動の中で最新の展開である。そしてAUKUSは、「日米豪印戦略対話」(Quad)および英米カナダ豪ニュージーランドの「ファイブ・アイズ」(Five_Eyes,_FVEY)とともに、筆者が呼ぶところの「三四五中国包囲網」を構成しているのである。   ○中国を狙う「AUKUS三カ国同盟」   新しく発足したAUKUSや既存のQuad、Five_Eyesがそれぞれ有している機能や果たす役割は、全く同じというわけではない。Five_Eyesの重点は国際情報の共有にはっきりと置かれているが、Quadが関わる範囲はより広い。現時点でQuadは共同軍事演習を行ってはいるものの、その重点はインフラの整備、チップやレアアースの供給を確保するための半導体産業網のほか、ワクチン産業網、気候変動への対応、先端科学技術、そして宇宙領域などの非軍事的な協力にある。これに対してAUKUSは軍備の強化やサイバーセキュリティ、AI技術の応用、さらには海底防御能力の強化などの面における協力に重きが置かれている。   オーストラリア政府のホームページに掲載された資料によれば、AUKUSの目標のなかで最も注目すべき点は米英との協力によってオーストラリアに少なくとも8隻の原子力潜水艦を配備するという重大計画である。さらに注目に値するのは、こうした計画の歴史的意義は軽視できないということだろう。計画がひとたび予定通り実行され、新しい原子力潜水艦が予定通りに進水されることになれば、オーストラリアの原子力潜水艦は正式な艦隊を成す軍となり、10年後のインド太平洋地域は世界の原子力潜水艦の競争の中心となることを意味する。   世界に戦略があいまいな軍事同盟など存在しない。まして「米中新冷戦」が叫ばれている昨今においては言うまでもない。バイデン大統領は英国のボリス・ジョンソン首相、オーストラリアのスコット・モリソン首相との3者で開催したオンライン記者会見において、「3者はみなインド太平洋地域の長期的な平和と安定を確保することの必要性を意識している」との認識のみを示し、中国に直接言及することはなかった。しかし、この新しい協力枠組みの最も直接的な目的が「日増しに増大する中国の軍事的脅威」に対するものだということは、誰の目にも明らかである。   ○AUKUSとQuadの戦略上の分担   AUKUS計画における最新鋭の原子力潜水艦の主な特徴は、遠距離航行に適しているため、途中給油などの諸々の懸念が大幅に減少したことによって、水面に浮上した際にレーダーで探知されるリスクが減少したことである。さらに重要なのは、この新しい原子力潜水艦の航続距離である。南シナ海全域を航続できるだけでなく、台湾海峡にもたどり着くことができる。そのため、この計画が中国の南シナ海での行動や、台湾海峡の安全保障の態勢に対していかなる圧力と挑戦をもたらすのかは言わずもがなである。   「AUKUS三カ国同盟」の成立が現時点でもたらす即時的な影響は主に2点ある。 まず、AUKUSはバイデンが大統領に就任して以降取り組んできた「権威主義的な中国の拡大に対抗する」ため民主国家同盟を形成するというこれまでの戦略が、すでに対中国の新たな軍事同盟を直接構築するという域に達したことを意味する。   バイデンは大統領に就任して以降、対中国の「インド太平洋戦略」を強化するために、一方では中国封じ込めの戦線を欧州、特に北大西洋条約機構(NATO)にまで広げようと積極的に試みてきたが、東アジアから遠く離れた欧州の国家全てが、対中国のインド太平洋問題に関与することを望んでいるわけではないことも理解している。そのため、バイデンはやはり同盟形成の重点をインド太平洋地域の範囲内に戻すほかなかった。このような戦略の方向性のもと、既存のQuadを重視することがバイデンの唯一の選択肢となった。   日本、オーストラリア、インドは地政学上完璧な戦略的ポジションにあるため、もしこれらの3ヵ国が手を組むことができれば、中国の裏庭である南シナ海を取り囲む包囲網が構築されることは間違いないだろう。しかし、中国の東西両側に位置する日本とインドは、過去の戦争の陰影や現在進行形の領土問題を抱えているため、たとえ内心では中国を信頼していなくても、直接的に中国に対する多国間の軍事態勢を強化するなどといったやり方で、中国に対抗する旗幟を鮮明にすることは躊躇している。このような日本とインドの考えを見抜いたバイデンは、米国主導の合同軍事演習を継続して推進するだけでなく、Quadにおける非軍事領域の協力にも重点を置いているのである。 「インド太平洋戦略」を直接的に共同構築する新たな軍事同盟としての「AUKUS三カ国同盟」は、まさにこのような背景の下で生まれた。   ○AUKUSは「新冷戦」を深化させる   AUKUSに対して悲観的な一部の評論家は、AUKUSの新たな原子力潜水艦が世に出回るまでにあと10年は必要であるため、中国にとってすぐには脅威とならないことや、その時にはすでに中国は米国に取って代わる世界最大の経済大国に躍進しているであろうこと、またこの同盟は3ヵ国のみであり、その影響力は限定的であることなどを指摘している。さらにAUKUSは、その実力がまだ発揮されていない内に、すでに「裏切られた」フランスの恨みを買ってしまっており、フランスと米国、英国、オーストラリアの間のわだかまりを生じさせてしまったという指摘さえある。   次に、フランスと米国、英国、オーストラリアの関係がどうなるかを心配するよりもさらに注目すべきなのは以下の点だろう。すなわちAUKUSが、近年新疆や香港の問題で中国との関係を極度に悪化させているオーストラリアと英国を、米国が結成した新たな反中軍事同盟に直接引き込んだことで、オーストラリアと英国の2カ国と中国との関係は再び正常な軌道に戻ることができなくなったばかりでなく、米国と中国の関係を改善させる余地さえさらに縮小してしまったということである。   AUKUSの成立によって、「インド太平洋戦略」をめぐる米中の対立は軍拡競争のレベルにまで一気に拡大した。もし米中が軍事的対立の方向にさらに進んでいけば、予見できる未来として、インド太平洋地域にAUKUSを基盤としたアジア版NATOが出現することは、もはやおとぎ話ではなくなるだろう。米国の進出と「三四五中国包囲網」の急速な形成という新たな事態の出現に対して強力な同盟能力を持たない中国は、どのような対抗策を持っているのだろうか。   <林泉忠(りん・せんちゅう)LIM John Chuan-Tiong> 国際政治学専攻。2002年東京大学より博士号を取得(法学博士)。同年より琉球大学法文学部准教授。2008年よりハーバード大学フルブライト客員研究員、2012年より台湾中央研究院近代史研究所副研究員、国立台湾大学兼任副教授、2018年より台湾日本総合研究所研究員、香港アジア太平洋研究センター研究員、中国武漢大学日本研究センター長、香港「明報」(筆陣)主筆、を歴任。 著書に『「辺境東アジア」のアイデンティティ・ポリティクス:沖縄・台湾・香港』(明石書店、2005年)、『日中国力消長と東アジア秩序の再構築』(台湾五南図書、2020年)など。     2021年11月5日配信