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エッセイ704:オリガ・ホメンコ「戦争の予感・家を出ること・様々な壁」

オーストリアの田舎を走る電車に乗っている。窓の外の景色は春の花で着飾っていて、美しさのあまりにどきどきする。オーストリアに避難できた私の家族に初めて会いに行く。私自身は戦争が始まる2週間前から仕事でヨーロッパに来ていた。母と姉の家族は空爆が始まった2月24日に学校の地下室にある寒いシェルターで一晩を過ごし、皆でキーウを離れることを決めた。町を出るのは決して安全ではなかったので、どの道を走るか迷った。西ウクライナの友達に相談し、キーウとリビフをつなぐ幹線の高速道路はやめて、村の中を走る迂回路にした。普通は高速道路で6~7時間の旅が、村道も渋滞していて28時間もかかった。それでも途中でガソリンを入れられ、空爆に会わないで出られて幸せ。

 

教え子のポリーナさん家族の場合はそれほど運が良くなかった。同じ25日にジトーミル方向に走ると、まず渋滞に巻き込まれて動けない。さらにホストーメリ空港がひどく空爆されている音を聞いて結局キーウに戻った。ドライブは諦めて翌日キーウ駅に行ったが、あまりの混雑で電車に乗れなかった。ストレスで吃音し始め、白髪も出た。幸い2週間後にポーランドに出稼ぎに出ている父親の所に行くことができた。

 

私の家族がキエフの家を出るまでに40分しかなかった。キーウの人たちは1月から避難用のかばんを準備し始めていた。そこに必要な書類(身分証明書や運転免許証)、下着、靴下、携帯食品、飲料水、電池、携帯ラジオ、携帯電話の充電器などなどを入れる。そこで2014年に東部で戦争が始まった時に配布された「もしも空爆の場合は」というマニュアルを初めて読んで、家の中でお風呂場が一番安全な場所と知った。構造柱があって窓がないので爆撃を受けても命を守ることができる可能性が高いと書いてある。振り返ってみると必ずしもそうではなかったようだが。

 

この避難かばんは、地震に備える非常持出袋と同じ。ただ地震の代わりに戦争が入っていた。まさかそれを経験すると思わなかった。そして私の母は最後まで避難かばんを作らなかった。無視していた。それで家を出る時に物を集めるのに結構慌てた。自分のものだけではなく、ワンちゃんの餌や薬なども必要だった。結局、一番古いかばんに入れて出発。後になって「あなたがたくさんかばんを買ってくれたのに、どうして一番汚いのに詰めたんだろう」と悲しんでいた。母が避難かばんを作らなかったのは不注意というより、子どもの頃にもうすでに戦争を経験している80歳の人が、まさか同じような経験をしなければならないとは思わなかったのだろう。1月末からヨーロッパの母の友達から「遊びに来ませんか」と誘われていたが強く断っていた。

 

同じような感じは年寄りだけではなかった。若い人もそうだった。状況を甘く見ていた。1月7日の正教のクリスマスで帰ってきた友達が「アメリカやヨーロッパのメディアは結構騒いでいるのに、キーウの人はお祭り気分で現実を忘れているのが不思議」と言っていた。キーウの家族には「あなたは想像力が豊かすぎる。戦争なんか起こらないよ」と言われていた。今思い出すと笑えない。

 

1月後半のキーウは表面には出なかったが、既に見えないところでは緊張感が走っていた。外国の大使館が撤退し始めた。日本の商社マンが家族を日本に帰国させた。その後も外国人が少しずつ近くのヨーロッパの国々に移動し始めた。友達が皆去っていき取り残された気分になった。1月25日に日本政府が渡航危険レベル4に上げた翌日の朝5時、その日にコンサルティングを予定していた会社から急にメールがきた。「お元気ですか」の挨拶もなく「全ての業務をやめます」としか書いてなかった。なるほどと思った。その日から皆が一気にいなくなった。お世話になっている人に「これは普通ですよ。イラクとアフガニスタンの時と同じこと。大変なことにならない前に皆を帰らせたがっているでしょう。後になって避難させるために政府のチャーター機を飛ばすのは大変なお金がかかるから」と冷静に言われてびっくりした。まさかイラクとアフガニスタンと同じではないじゃないかと思った。しかし、私の見方も甘かった。

 

1月末の外国メディアには「キーウの人は勇気があって町を出ない」という報道が多かった。勇気だったのか、それとも、ただ顔に出さない不安を言葉にできなかったのか。ふり返ってみると、周りには、緊張感が和らがずに結構不安になっていた人が多かったと思う。万が一の場合はどうするか考えていた。ただ口に出さなかった。ウクライナの人はぎりぎりまで我慢する特徴があるからだ。日本人と似たところがあって、人の前で面子を失うのを避け、最後まで無理して我慢するところがある。いくら緊張しても人の前で言わない。

 

1月末に著書の出版記念講演会の後、車の中で教え子とそんな話をした覚えがある。知り合いがSNSに書いたこともあった。面白い書き方で「皆さん、私は空気を読めない人間で最後まで気づかないタイプで、今回の状況で何か大事な情報を見流すのが怖いので、いざとなったら誰か教えてください。背中を押してください。頭も叩いてくださいよ」と。その人はチェルニヒフ出身で今ベルリンにいる。誰かが知らせたのでしょう。

 

私は多くの国際プロジェクトに参加しているので外国に出張へ行く段取りはできている。パスポート、保険、クレジットカード、現金、パソコンや携帯電話や充電器、そして必要な連絡先情報さえあれば他は全部買える。だが旅慣れてない人にとって家を出るのは簡単な話ではない。しかも避難者になるのだ。たくさんの壁があったに違いない。

 

一番大きな不安を及ぼす壁は金銭的なものでしょう。ウクライナはソ連崩壊から今に至るまで銀行に信用がないので、タンス預金も多い。そのため空巣や泥棒が入ることも多い。もちろん、みんなに貯金がたくさんあったわけではない。特に若い人には、お金を借りるシステムが導入されてからそれで困った人がたくさんいる。コロナが進んでから失業率が上がり、緊急金貸しもたくさん増えた。日本では大きい金額とも思われない5万~10万円くらいを、自分の家や車を担保にして借りる。だが年寄りは違う。今まで色々な時代を経験しているから、万が一のためのお金と葬儀代は必ず用意している。2014年には通貨の下落のせいで5分の1になったが、外貨に変えておく年寄りは少ない。

 

唯一の財産である自分の家を置いていく壁。それから外国語の壁。だが今回ヨーロッパに避難してきたウクライナの人々を見ると、言葉を話せなくても遠くに来た人がたくさんいる。身に危険を感じたらとにかくサバイバル力で動く。3月中旬、そのような人たちにウィーンの中央駅で出会った。スーミ市に住んでいて、2月24日に家から100メートルの所に爆弾が落ちたので、慌てて荷造りして子供2人を抱えて電車を乗り継いでスペインにいる姉の家族の所に行くことにした。不安と緊張感を移動の原動力にした人たちだった。

 

だが、苦労して大事に買った唯一の財産でもある家を去ることが考えられない人たちもいる。それ以外に財産がない人。外国語が分からなくて言葉の壁にぶつかる人もいる。また「外国では誰も我々を待っていない。行っても困る」という思い込みの壁にぶつかる人たち。そして他にも色々な誰にも言えない壁とトラウマが体の中に染み込んでいる人達。空爆されても自分の家に残るという考え方も分からないわけではない。特に自分の家で死にたいというお年寄りの気持ちは世界共通でしょう。

 

家を出たままもう2ヶ月が過ぎている。2月中旬の出張には当然、必要最低限の物しか持ってこなかった。季節が変わり春夏の服を買いました。しかし今回分かったのは、家なんてどうでもいいです。元気さえあればいくらでも新しい家を作れる。命が取られたら終わりですから。

 

<オリガ・ホメンコ Olga_Khomenko>

キーウ・モヒーラビジネススクールジャパン・プログラムディレクター、助教授。キーウ生まれ。キーウ国立大学文学部卒業。東京大学大学院の地域文化研究科で博士号取得。2004

年度渥美奨学生。歴史研究者・作家・コディネーターやコンサルタントとして活動中。

著書:藤井悦子と共訳『現代ウクライナ短編集』(2005)、単著『ウクライナから愛をこめて』(2014)、『国境を超えたウクライナ人』(2022)を群像社から刊行

 

※留学生の活動を知っていただくためSGRAエッセイは通常、転載自由としていますが、オリガさんは日本で文筆活動を目指しておりますので、今回は転載をご遠慮ください。