SGRAエッセイ

  • 2023.11.30

    エッセイ752:尹在彦「被害者救済という難題」

    国内外の紛争や環境問題、政策等により多くの被害者が発生することがある。ただし、その被害者に対する救済はなかなか容易ではない。救済が進んでいない状況では被害及び加害の当事者に加え、支援者や政府、政治(政党・政治家)が絡み合い「解決」をより困難にする。後から「被害者」を名乗る人々が新たに出てくることもよくある。そのため、「いつまで、そしてどこまで救済すべきか」というのは被害者救済の最重要課題になる。救済の手法に対しても論争は起こり得る。金銭的な補償と加害者もしくは政府の反省的態度は救済のカギになる。   場合によっては国内問題にとどまらず国際問題に発展することもあり、それこそが両国関係を規定し得る。日韓関係や日中関係、日朝関係にはその被害・加害の問題が深く根付いており、それ抜きには語れない。人々のアイデンティティーがその問題に結びついている場合はなおさらだ。   今年9月27日、注目すべき判決が大阪地裁で下された。水俣病被害を受けたと訴える原告128人が国や熊本県、加害企業チッソを相手に起こした訴訟で全面勝訴した。まだ一審判決で、被告側が控訴したため、最終的な結果は見通し難いが、少なくとも同判決で「水俣病の被害ってもう歴史の話じゃない?」と驚いた人も少なくないはずだ。   1956年、熊本県水俣市で同病が初めて公式確認されて以降、被害者やその支援者、チッソ、政府、政治は対立と妥協を何度も繰り返してきた。1970年を前後として公害問題が拡散する中で、水俣病被害者への金銭的補償(主にチッソによる)や環境庁(後に環境省の前身)を中心とした制度的枠組み(行政認定制度)は確立したが、被害を訴える数多くの人々は取り残されたままだった。水俣病被害者として公式認定される基準は複雑で、それを満たさない人々への救済策はなかった。そこで始まったのが日本全国各地の裁判闘争だったが、国の法的責任が最終的に認められたのはなんと2004年の最高裁判決だ。何十年もの時間を要したのだ。   1990年代に入り政治改革が叫ばれ、政府は初めて水俣病被害者との政治決着を試みる。村山政権期の「政治解決」がそれで、約1万人が新たに救済された。当時の村山富市首相は談話を発表する。水俣病を「公害の原点」に位置づけ「当事者の間で合意が成立し、その解決を見ること」ができたと評価した。「率直に反省しなければならない」とも述べた。ただし、法的責任は回避された。これが大阪で起こされた国家賠償請求訴訟が続く背景となり、2004年に国が全面敗訴する。このように水俣病被害者は比較的症状の重い「認定患者」と相対的に軽症の「政治的に救済された水俣病被害者」に分類される奇妙な「二重構造」が出来上ったのだ。   最高裁の確定判決は2000年代に入っても水俣病被害が決して「解決されていない」ことをあらわにした。1995年に救済されなかった約3000人の被害者は新たに訴訟を起こす。「第1次ノーモアミナマタ訴訟」だ。政府は確定判決にも関わらず新たな救済の枠組みは設けなかったため、また新しい裁判闘争が始まる。   被害者救済への議論が進み始めたのは政治の変化があってからのことだ。政権交代を目前にして与野党が2009年7月に「水俣病特措法」(「水俣病被害者の救済及び水俣病問題の解決に関する特別措置法」)に合意する。水俣病被害者を救済するための戦後初めての立法措置だった。「2012年7月」という期限が設定された点は救済措置が一時的であることを示していた。同法の前文にはこうある。「地域における紛争を終結させ、水俣病問題の最終解決を図り、環境を守り、安心して暮らしていける社会を実現すべく、この法律を制定する」。つまり、この法律の制定こそが「最終解決」になるとの思惑が反映されていた。約5万人もの被害者が特措法により新たに救済される。2010年5月、鳩山由紀夫首相は政府の代表として戦後初めて水俣市の慰霊式に出席し「被害拡大を防止できなかった責任を認め、衷心よりおわびする」と謝罪した。   ところが、特措法による救済措置の終了後、またもや新しい訴訟が提起された。それが冒頭で紹介した裁判、「第2次ノーモアミナマタ訴訟」だ。「終わった」とされた水俣病問題が裁判での勝訴判決から再度注目されている。半世紀以上にわたる水俣病とその被害者の歴史は、救済や問題解決がどれほど困難かを物語る。金銭的補償や政府代表の謝罪・反省が行われたにも関わらず、被害者救済に関する議論は70年を経た現在も続いている。少なくとも問題の解決策(=救済策)を一時的な措置に留まらせないことが大事だ。     英語版はこちら     <尹在彦(ユン・ジェオン)YUN Jae-un> 立教大学平和・コミュニティ研究機構特別任用研究員、東洋大学非常勤講師。2020年度渥美奨学生。新聞記者(韓国)を経て、2021年一橋大学法学研究科で博士号(法学)を取得。国際関係論及びメディア・ジャーナリズム研究を専門とし、最近は韓国のファクトチェック報道(NEWSTOF)にも携わっている。     2023年11月30日配信
  • 2023.11.23

    エッセイ751:趙炳郁「ワクワクは大事かも」

    この春、博士課程の卒業で大学と大学院の9年間の学生生活が終わり、教員としての生活が始まった。留学生活を終えてそれほど時間がたっていないが、教員として感じたことを書いてみようと思う。   子供の頃、ロボットが登場する漫画を見ると男の子はワクワクする感情に包まれ、部屋で大騒ぎするものだ。私も同じで10歳の頃に「ガンダム」という漫画を初めて見て、似たような感情を持った。10年くらいたって高校生になった時も精神的に成長できておらず、ロボットを見るとワクワクしたが、子供の頃とは少し違って、勉強を頑張って良い大学に行けば、いつかあんなロボットを作れるだろうという期待感でそのような気持ちになったと思う。   1年間浪人して、2012年にやっと希望する大学の希望する学科に入学することになったが、実際に大学に行ってみると考えていた学問と適性が少し違っていたようで、実習や実験の時間は、もっと知りたいという思いより、面倒くさいと思うことの方が多かった。学部時代は新しいことをすることに対して、ワクワクすることより義務感でやることが多く、大学院への進学は決まったものの将来への確信がなかったので、まず軍隊に行ってくることにした。   軍隊は大学よりもさらに退屈な義務感しかない生活だった。毎年決まった行事があり、マニュアルがあり、新しいことをするよりも現状を維持することが重要な集団なので、私のように思い通りに動きたい人には満足できない場所だったが、学ぶことは多かった。   無事に兵役を終え、2018年から大学院生活を始めた。不思議なことに学部4年生の時にも研究したことがあるのに、今回は自分が主体的に研究をすることになったからか、高校や子供の頃に感じたワクワクする感情を8年ぶりに感じた。私の研究分野は細胞に関するもので、予測される結果が分かりにくいからかもしれないが、結果的に興味を持つようになり、そのまま博士課程に進学した。博士課程では思ったより楽しく研究を行うことができた。もちろん帰宅はいつも深夜で、審査を準備する最後の半年は言葉で表現できないほど大変だったが、いつも私の意見を尊重して指導してくれた指導教員のおかげで無事に卒業することができた。   今は同じ研究室で助教として学生の研究指導をしており、学生の頃とは比べ物にならないほど義務と責任が増え、ワクワクする機会が少なくなった。しかし、皮肉なことに研究室のボスは「研究は常にワクワクする気持ちでやるものだ」という持論をお持ちで、今はどうやって人をワクワクさせるかを常に考えながら日々を過ごしている。最近、初めてオムニバス式の大学院の授業を行う機会を得た。理論の説明1時間と簡単な実験30分程度の授業だったが、やはり過去の学者が見つけた真理を面白く伝えるのは難しい。それでも実験では「これワクワクするね!」と言ってくれた学生がいて、少し嬉しくなった。これが最近のワクワクのポイントであり、しばらくは現状を楽しみたい。     英語版はこちら     <趙炳郁(ジョウ・ビョンウク)JO Byeongwook> 2022年度渥美奨学生。2023年3月東京大学大学院情報理工学系研究科にて博士号取得。博士(情報理工学)。2023年4月より東京大学大学院情報理工学系研究科助教。専門は機械工学、組織工学、バイオエンジニアリング、マイクロ流体工学。     2023年11月23日配信  
  • 2023.11.03

    エッセイ750:武内今日子「『研究者』を続けること」

    先日、母校の高校で大学の研究生活について講演する機会があった。学生たちは私の話に対して「研究者をやってきて良かったことはあるのですか?」と尋ねた。学生たちが研究者にマイナスのイメージを持っているということではない。私があまりにも過労、ハラスメント、経済的な課題など、研究職に関した多岐にわたるネガティブな側面に焦点を当てすぎてしまったということである。   考えてみれば、私は何かになりたいと思ったことがほとんどなく、研究者になりたいとも研究職に就きたいとも思ってこなかった。私の研究関心はジェンダー・マイノリティ-の経験に関するものなので、日常における性をめぐる規範と深く関わり合っており、研究と生活を切り離すことが難しい。そしてジェンダーやセクシュアリティを巡る社会の状況に許せないことがとても多いので、どれほど日本の研究者の環境が良くなくても、やむにやまれず研究しなければならない、という気持ちが強くあった。   研究以外の仕事があまりにも多いと言われる日本を脱出して英語圏の大学に行ったり、国外の大学に就職したりする知人もたくさんいる。国際的な場に研究を展開していくこと自体は重要だし、私も日本で生活しながらも英語を日々勉強し、国際学会やシンポジウムなど可能な限り国際的な交流や発表の場面に関わるようにしてきた。他方で、多少の違和感も覚えてきた。一つには英語至上主義がある。翻訳ソフトが発達してきている現在においても、非英語圏を対象とする調査研究をしている人でさえ、英語圏の情報や研究だけに依拠して議論を進めることがある。   もう一つには、コミュニティーへの貢献がある。調査研究をしているからかもしれないが、調査を終えて成果を発表すると日本から離れ、協力者との関係も途絶えてしまうというふるまいは問題含みだと感じる。少なくとも大学や研究機関だけでなく、日本にいる対象者が理解できるかたちで成果を報告する必要があるだろう。また個人的には研究環境が良くないからこそ、自分が大学の環境を変えていったり、非常勤などを含む授業で研究成果を学生に伝えたりできたら良いと思うし、将来的には性的マイノリティーのことを研究する人たち、国外からの多様なバックグラウンドを持つ人たちが所属しやすい研究室の候補を増やすことに貢献したい。   そう考えると、あまり明確に意識できるほど強いものではないが、研究者をやって良かったと思える未来を遠くに見据えていると言えるかもしれない。その道中ではしんどくなることも多かった気がするが、知らなかったことに気付いたり既存の知識を更新したりする楽しさやもどかしさ、授業で得られる手ごたえ、研究で得られる新たな可能性と出会い、それを日々の燃料とする側面もある。いずれにせよ、研究者であることを今のところ続けてみるという選択肢を可能にしてくれた渥美国際交流財団に感謝したいし、これからもラクーン(渥美奨学生)たちとの交流を続けて縁を活かすことができれば良いと思う。     英語版はこちら     <武内今日子(たけうちきょうこ)TAKEUCHI Kyoko> 2022年度渥美奨学生。2023年東京大学大学院人文社会系研究科博士号(社会学)取得。現在、東京大学大学院情報学環特任助教。社会学・ジェンダー論の視座から、トランスジェンダー/ノンバイナリー史を研究。       2023年11月3日配信  
  • 2023.10.19

    エッセイ749:加藤健太「『国際交流への関心』再考」

    2022年度渥美奨学金に応募する際に自己紹介文として「国際交流への関心」について書くように言われ、私は以下のようなことを述べた。少し長くなるが、部分的に抜粋し、引用しよう。   国際交流は、私にとって、青年期からの憧れであると同時に、それが故に批判の対象でもありました。[…] 留学を二度経験し異文化交流の楽しさを享受してきた一方で、国際的な環境の内部に存在する力関係を感じ取るようになりました。特に大学院に進学し学問と真剣に向き合うようになってから、学術的な言説空間における英語中心主義を実感しています。[…] 英語を身につけ、映画学の文献を英語の原書で読み、海外の学会において英語で発表することに奮闘していた修士課程時代の私は、すぐにアカデミアに存在する不均等な関係性に気付かされることとなります。国際的に活躍できる学者になりたいと夢見ていたものの、まさにその「国際」という言葉を疑問視することがなかったがために、自分もアメリカを中心とした知の秩序を無批判に受け入れていたのです。[…] 国際的な学術活動に積極的に参加することで、常にその「国際性」を疑問視できるような研究者になりたいと考えています。   1年以上前の文章ではあるが、今読むとなんて生意気なことを応募書類に書いたのだろうかと思う。ただ当時の気持ちとしては「国際交流は他国の社会・文化の理解促進につながりとても有意義である」というお行儀のよい薄っぺらな文章は書きたくなかったのだ。仮にこれで奨学金をもらえなくても自分の意見をしっかりと表明したい、という妙な意地もあったかもしれない。いずれにせよ、こんな生意気な自分を快く迎え入れてくれた渥美財団の懐の広さには今でも驚いている。   渥美財団で1年間過ごして、私の「国際交流への関心」に何か変化はあっただろうか。奨学生としての期間を終えた今、簡単に振り返ってみたい。   正直に言えば、そこまでの変化はなかったように思う。2022年度は16人が奨学生として採用され、内11人が留学生、5人が日本人である。十分に「国際的」と言える環境ではあるが、他の奨学生と接する際は、留学生ではなく、同じく研究者を志す学生として、研究や大学の話をしていた印象が強い。また、2022年度は初めて日本人を奨学生として迎えた年でもあり、何かある度に「初めての日本人奨学生として…」というフレーズが頻繁に使われていた。しかし、これも一種の枕詞と化しており、留学生が多くいることで逆に自分が日本人であることを認識させられるような体験とは異なるものであった。もちろん、「国際性」を意識せずに済んだのは、自分が日本人であり、使われている言語も日本語であったからで、留学生は違う体験をしたかもしれない。それでも、最初の集いの自己紹介テーマが「あなたは犬派?猫派?それとも何派?」であったように、あまり国際交流という側面は強調されていないように感じた(このテーマは今でも強く印象に残っている)。   しかし、現在の社会では国内利益のための「国際化」がより強くなっているように感じられる。外国人技能実習生の過酷な労働環境や、外国人が日本の素晴らしさを褒めちぎるテレビ番組の氾濫などは、その最たる例であろう。また、「反日・親日」といった、特定の個人・国家を「日本のことが好きか嫌いか」という単一な尺度で判断する国家主義的な言説も多くみられるようになった。もちろん、「国際化」(inter-nationalization)という言葉の通り、それは国家間の交流であり、そこでは国の存在が前提として置かれている。したがって、「国際化」が「日本」という想像された共同体を構築することは自明のことである。しかし、「国際化」が相互理解ではなく、自国の利益のために促進される傾向が顕著になっているのではないか。   この1年で、自己紹介文に書いたような、「国際」という言葉の実践からその「国際性」を疑っていきたい、という気持ちは更に深まったように感じる。しかし、渥美財団の集いでは驚くほどにそういったことを考えなかったのも事実である。基本的に悲観的な性格ではあるが、奨学生として1年間過ごしたことで、一時的にでも楽観的にさせてもらえたかもしれない。   英語版はこちら   <加藤健太(かとう・けんた)KATO Kenta> 2022年度渥美国際交流財団奨学生。2023年9月早稲田大学国際コミュニケーション研究科博士後期課程修了。博士(国際コミュニケーション学)。2023年4月より早稲田大学国際教養学部助手。専門は映画研究で、主に日本映画をクィア理論、男性学の観点から分析している。     2023年10月19日配信  
  • 2023.10.12

    エッセイ748:廣田千恵子「宇宙の一部としての私―これまでの研究と財団での経験を振り返りつつ―」

    先日、ご縁があってインド占星術というものを体験した。日本では日常的にテレビや雑誌で「占い」を目にするが、あれらはいわゆるライターによって書かれていると聞いてから、私は占いを「人生に対する上手なアドバイス」程度に捉えていた。そんな私がどうしてわざわざ自分を見てもらおうと思ったのか。それには2つの理由がある。   ひとつは、インド占星術そのものに関心を抱いたからだ。インド占星術とは、日本で一般的な西洋占星術よりも遥か以前に誕生していた星を読む方法である。インド占星術師は見る相手の生まれた時間の分数と場所を正確に知ることによって、その人が誕生したときにその人を中心とした空にあった星を調べ、この宇宙におけるその人の位置や人生の巡り方を示してくれる。それはまるで、私という人間がこの世に誕生した瞬間を覗くことのように思えた。   そして、もうひとつの理由は、ここ十数年程で目まぐるしく変化した私の人生が、自分の意思というよりはまるで何かに導かれているように感じていたことによる。   私の研究テーマは、モンゴル国にて少数民族として暮らすカザフ人の装飾・手芸文化の動態の解明である。具体的には、カザフ人が天幕型住居の内部を主な装飾の対象としている点に着目し、人々がなぜ住居内部を熱心に飾ろうとするのか、どのように装飾技法を継承してきたか、あるいはどのように変化してきたのかといったことを明らかにしてきた。   しかし、私は元々モンゴル好きだったから大学でモンゴル語専攻を選択したわけでもないし、ましてやモンゴルに行くまでカザフという人々の存在を全く知らなかった。とくに手芸に詳しかったわけでも、長けているわけでもない。つまり、この研究テーマを選んだのは、言ってしまえば不思議な偶然が重なった結果である。それでも、偶然の出会いは、今の私の人生を大きく動かしている。   振り返ってみると、私はある時期を境に、何かに導かれていると感じることが多々あった。今の研究テーマに出会うまでは、自分が研究者を志すとは夢にも思っていなかった。そうして調査や研究を進めていく中で、うまくいくときもあれば、困難に直面することもあった。しかし、その都度ぼんやりと、それぞれの出来事には何か理由があるように感じていた。   たとえば、渥美国際交流財団に採用されたことも、そう感じる出来事の一つだった。修業年限を超過していた私ははなから奨学金を受給することは無理だと思っていた。しかし、友人から渥美国際交流財団の募集要項を紹介され、まるで導かれるように面接を受けた。そして、この財団の奨学生として採用されたとき、「神様」が私に今が博士論文を終わらせる時期であることを教えてくれたように感じた。   神様からのメッセージは財団で出逢った人たちとのかかわりの中にも隠れていた。渥美財団で出逢った人たちは、所属も研究テーマもバラバラで、何一つ共通点はないようにみえる。でも「何かを深く探求する」という点において、私たちは皆同じだ。だからこそ、渥美財団で同期や他の奨学生に会って、それぞれの話を聞く時間は私にとっては楽しく、刺激的で、多くの学びを得た。良い同期に恵まれたことは偶然であり、しかし必然だったのかもしれない。   こうした中、博士論文の執筆が落ち着いて次の進路を意識し始めた頃から、公私共に明確に新しい変化が起こりだした。まるで何か大きな目にみえないものの動きの中で自分が流されているような感覚を覚えた。これがいわゆる「転機」というものなのだろう。そんな中で出逢ったのが、インド占星術だった。   占星術師から渡されたのは、私が生まれた時間に生まれた場所の空にあった星の位置を記号で示した紙数枚と、私が生まれてから120歳を迎えるまでの年月日が星の巡りごとに細かく分けられ示されたカレンダーだった。そして、その年月日の羅列こそが、私を最も驚かせた。カレンダーで示された私が生まれた時からの星の巡りの中で、「転換期」として示されていた時期は、いずれも私が初めて調査地を訪れた年、博士課程に進学した年、そして博士論文を提出した時期と一致していたのだ。私は人よりも時間をかけて得た博士号だったけれど、もしかしたらこれが私の星の巡りに合った時間の使い方だったのではと思うと、ふと笑いがこぼれた。私という人間の人生も、実は大きな宇宙の動きの一部に位置づけられているかもしれないと思えたからだ。   インド占星術ではその後の自分の行動に対して何か具体的な指針が示されることはない。けれども、私には十分すぎる体験だった。博士論文の執筆を終えた今、私は遂に一人の「研究者」としての道を歩いていくことになる。それは決して楽な道ではないかもしれない。しかし、自分の存在にこの宇宙の中で何かの使命が存在しているとするならば、私はただ恐れることなく、自分ができることにひたすら邁進して歩み続けるしかないのだ。   英語版はこちら   <廣田千恵子(ひろた・ちえこ)HIROTA Chieko> 2022年度渥美国際交流財団奨学生。2023年3月千葉大学博士後期課程修了。博士(学術)。2023年4月より日本学術振興会特別研究員PD(北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター)。専門は文化人類学、民族学、地域研究。主な調査対象は中央ユーラシアにおけるカザフの装飾文化動態および牧畜研究。     2023 年10月12日配信    
  • 2023.10.05

    エッセイ747:ノーラ・ワイネク「グリム童話とアーキタイプ」

    グリム童話はヨーロッパの文化的遺産であり、世界中で愛されている童話の一つでもある。グリム兄弟が編集した童話には、豊かな人間の内面に対する洞察が含まれている。しかし、昔の人の単なる物語ではなく、無意識に常識を共有し、感情やトラウマを昇華する重要なツールでもあった。   グリム童話は人間の共通の心の構造であるアーキタイプ(心理的原型)を体現する物語を多く含んでいる。アーキタイプは人間に生まれ持ってそなわる集合的無意識で働く「人類に共通する心の動き方のパターン」である。ユング心理学の中核的な概念で人間の共通の心の構造でもあり、無意識に作用する力を持つ。人間の不可解な部分を理解し、何を望んでいるか、そして何を恐れているかを理解するための重要な要素だ。   名作『シンデレラ』を分析してみよう。アーキタイプを象徴する要素がたくさん含まれている。主人公は母親を失った孤独な少女であり、悪意ある義母と義姉たちに虐待されている。家庭の状況に対して自分自身を犠牲にしているように見えるが、彼女の真の力は内面にある。彼女は偽りのない心、博愛、そして自己犠牲精神を象徴するアーキタイプを体現している。   シンデレラは魔法使いである「フェアリーゴッドマザー」というアーキタイプともつながっている。フェアリーゴッドマザーは無限の可能性を象徴し、新しい始まりと成長をもたらす力を代表する。シンデレラに魔法をかけ、魔法のカボチャの馬車と美しい衣装を与える。これらのシンボルは新しい可能性と、自己変革を象徴する。また、シンデレラに「真実を言いなさい」という言葉を残すが、これは自分自身を認識し、自分自身を表現するための重要性を強調するアドバイスでもある。   そして王子との出会いを通じて、シンデレラは愛のアーキタイプを体現する。王子はシンデレラの魂の深い部分を理解し、彼女を愛することができる。この愛の関係は自己認識と成長を促し、シンデレラを真の幸福へ導く。ユング心理学的な観点から見ると、私たちが内面に持つアーキタイプを通じて、潜在意識の深い部分を認識することが可能となる。   『白雪姫』は美と嫉妬というアーキタイプを体現する物語である。白雪姫の美しさは彼女を破滅に追いやり、王妃の嫉妬心を引き起こす。王妃は魔法の鏡に自分の美しさを問い、鏡が白雪姫を美しいと答えたことで、白雪姫を殺すために彼女を追い詰める。この物語は美と嫉妬のアーキタイプが、人間の深層心理にどのように作用するかを示している。   『ラプンツェル』は自由、成長、そして愛のアーキタイプを体現する。主人公は塔に閉じ込められ自由を奪われている。しかし、自分自身を表現する方法を見つけ、自分自身を解放する。王子との出会いを通じて愛を見つけ、自分自身の成長につながる新しい始まりを迎える。この物語は人間が自由を手に入れ、自己表現を追求するプロセスが、成長と愛につながることを示している。   このように、グリム童話は人間の深層心理に影響を与えるアーキタイプを体現する物語を多く含んでいる。ユング心理学的な分析を通じて隠された意味を理解することができ、私たちは自分自身をより深く理解し、自己受容と成長を促すことができる。グリム童話は人間の心の深い部分を探求するための貴重な資源であり、人生の新しい始まりを迎えるためのヒントを提供している。私たちの人生において何か障壁に直面した時、グリム童話を読むことをお勧めする。きっと様々な問題に対して、より深い理解を与え、何らかの解決策もしくはヒントを提示してくれるだろう。     英語版はこちら     <ノーラ・ワイネク Nora Beryll WEINEK> オーストリアのウィーン出身。2011年日本文化研修留学生として琉球大学に1年留学。2013年オーストリアのウィーン大学日本学学部卒業。2017年一橋大学大学院社会学研究科の修士課程卒業し、博士課程に進学。     2023年10月5日配信
  • 2023.09.21

    エッセイ746:銭海英「新たな人生の船出」

    桜が舞う時期に、新たな人生へ船出する決意をした。でも、そもそも「新たな人生」とは一体何を指すのか、これまで生きてきた自分自身と一体何が違うのか、このエッセイを通じて発信したい。   2022年度の渥美国際交流財団の奨学生として、本来であれば、3月末に博士学位を取得するはずだった。同期の奨学生たちの多くが4月から新しい進路でそれぞれの道を頑張っていく。ポストドクターに進んでいく方もいるし、助教職、常任教員職を得た方もいる。しかし、私は引き続き博論の完成に向けて頑張っていくのであり、何も変わらないようにみえる。「新たな人生の船出」とはよく使われる新年度のフレーズでしかないと思われるかもしれない。   普段の私は、勉強以外では運動が好きで、常に体力をつけることを意識している。コロナ禍ではクロスバイクを買い、サイクリングを始め、今では電車を使うこともほとんどなくなった。体力をつけることを意識するようになった理由は、研究者にとって最後の踏ん張り時には体力が大事だと教わったからである。しかし、昨年2月のある日突然、アウトドア派の私にとって、予想外の病気が発覚した。   東京医科大学病院で乳がんのステージ2Bと診断された。乳腺科の主治医から「やっぱりがん(悪性)です」と腫瘍の病理診断(良性悪性を識別)を伝えられた際に、私は非常に冷静、そして理性的だった。冷静に主治医と治療方針について検討していくことができたのは、病理検査結果を待っている2週間に乳がんに関する医学知識を増やしたからだ。東京医科大学病院乳腺科の先生たちが書いた医療記事や論文を確認したのはもちろん、国立がん研究センター、北京大学腫瘍医院、アメリカがん研究センターにもアクセスして乳がんの最新治療および臨床データも確認した。確認すればするほど、乳がんに対する恐怖も次第に減少した。「恐れとは無知からくるのだ」と、改めて確認できたことは意外な収穫だったかもしれない。   とはいえ、腫瘍の病理診断を待っている間が心理的に最も辛かった。乳がんについて調べれば調べるほど、「私は、ほぼ間違いなくがんなのだ」と確信を深めるのは苦痛でしかなかった。しかし同時に「乳房の腫瘍は実は9割以上が良性だよ」という、気休めの声が自分に語りかけてくるのである。人生で最も長く感じた2週間は、「やっぱりがんです」という診断結果で終わりを告げた。悪性ではない可能性が現実に覆された時、目が醒めた。がんに直面して、これからは主治医が提案する治療方針に納得した上で取り組むほかない。そうしてこそ、患者として合格に値する。   乳がんと診断されて以降の1年間で、私は「未受精卵の凍結」、「抗がん剤治療」、「手術」、「放射線治療」といった一連の標準治療を受けてきた。その間一度も主治医に「私はあと何年ぐらい生きることができますか」と質問しなかった。なぜなら個人差があることを知っていたからだ。そのかわり、「先生、私のステージ及びサブタイプ分類から見れば、現在の臨床データから10年生存率はどのぐらいですか」と確認した。「90%ですよ」と告げられた際、嬉しかった。この90%は、あくまでも平均値で、自分は絶対にこの平均値以上だと思っている。   確かに、がんは厳密に言えば、治癒できない病気である。だから、医学では治癒に近い「寛解」を持ち出した。例えば、5年生存率、もしくは10年生存率。10年生存率とは10年しか生きられないという意味ではなく、10年以内にがんで死亡しなかったことを意味する。また、10年間で再発していないことも意味する。がんが10年たっても再発しない場合、その後再発する可能性は極めて低いということであり、ほぼ治癒に近いと理解してもいい。   がんの説明ばかりになってしまったが、知識を皆さんに伝えたかったのではない。30代前半で自分の死を意識した衝撃は本当に大きかった。「新たな人生の船出」とは、文字通り私にとってこれまでの人生とは違う人生を始めることだ。時間をより大切に使うようになり、そして、何を一番やりたいのかがより明確になった。怖がらず、侮らず、乳がんとともに生きる。これからは、さらに大望を抱いて残りの人生を積極的に生き、自分のために尽力したい。     英語版はこちら     <銭海英(せん・かいえい)QIAN Haiying> 2022年度渥美奨学生。中国江蘇省出身。明治大学大学院教養デザイン研究科博士後期課程に在学中。近代中国政治思想史・教育思想史を専攻。現在、成城大学非常勤講師、有間学堂東洋史学専属講師。     2023年9月21日配信
  • 2023.09.07

    エッセイ745:マリア・プロホロワ「母国を見る目」

    私はロシアで生まれ育ち、大学もモスクワで卒業した。日本語教育専攻で、大学生のうちから2回日本(秋田と福岡)に留学することができたし、卒業してからは勉強の続きとして本格的に日本に住むようになった(横浜と東京)。日本での留学期間は8年以上になる。この8年で私には様々な変化が起きた。何が一番大きく変わったかというと、「母国を見る目」だと思う。   高校生や大学生の頃、自分の生まれ育った国にはそれほど興味がなかった。高校生の頃、あるいはもう少し前から日本に夢中になっていた。常に日本のドラマを見たり、日本の曲を聞いたりして、頭の中が日本で出来ているような状態だった。高校の卒業式では着物を着た(着付けは問題ありだったが…)。大学入ると日本に興味を持ち、日本語を学ぶ仲間が増えて、さらに日本に集中することになった。自分の関心を共有してくれる人たち、それをさらに伸ばしてくれる環境があるのは幸せだ。その幸せを糧にして、今も役立っているスキルを取得していったし、人生で一番温かい思い出かもしれない。でも、今思うと、とても未熟で視野が狭かったようにも感じる。   日本に来てから、ロシアのことを色々と聞かれるようになった。ロシアにも「方言があるのか」、「食文化はどうなのか」、などなど。自分がロシア人であることを初めて認識したのはその時だったのかもしれない。成人するまでロシアで暮らしていても、ロシアのことをほぼ何も知らなかったこと、ロシアは思っていたより謎が多く、言ってみれば「知りにくい」ということに気づいた。どの国にも何か不思議な特性があるが、ロシアの場合、地理的な大きさが重要である。例えばモスクワに住んでいると、6千キロ以上離れているウラジオストクのことはよく分からない。自分から行ったり調べたり、そこの人たちと交流したりしないとずっと分からないままだ。   国内からロシアのことを考えると、実際には「内」として、すなわち「自分の中のロシア」として考えているのは、ロシアのごく一部に過ぎない。自分の周りの環境と、親戚や親友の暮らす環境くらいである。外から見たロシアは、もっともっと大きくて、複雑で、面白い。ロシア語を専門とする日本の学生たちの話を聞いて彼らの質問に答えていると、私の中のロシアはモスクワ近郊などに限らない、より立体的な存在になっていった。一時帰国のとき、国内旅行や街の探索に出かけることも多くなった。母国のことは、最初から自動的に知っているのではなく、自分から知る努力をして関係を深めていくものだということに気づいた。   最近は特に、「母国」という概念が疑問視されることが多くなってきた。「母国」への感情、いわゆる「愛国心」などは非常に悪用されやすいので、私もこの言葉を聞くたびに少し警戒する。しかし、「私には母国はない」と主張する友人たちにも賛成できない。母国が複数だったり、「義母国」や「父国」と言った方が正確だったり、国というよりも地域だったりして、形がそれぞれ異なるだけだと思う。「愛国心」も、国家にとって都合の良い発想だから頻繁に取り上げられるだけで、「母国」の定義では決してない。   自分の育った家族に対して皆それぞれ異なる気持ちを抱いているように、「母国」に対する見方や考え方、感じ方は無限にある。愛せないと感じていても、その行動や性格に反感を覚えていても全く問題ない。でも、どこで生まれて、どこで育ったのか――それは大切な縁だ。自分のルーツをたどってみることで案外心が満たされることがあるし、人間関係と同じように自分と「母国」の間の関係性を認識することで、ここまでの背景を考慮した自分だけの道が見えてくる。自分とロシアの関係に目をつむった方が断然楽である今の状況でも、母国に本格的な関心を持ったこと、そして自分にとっての大切な存在として「受け入れた」ことを全く後悔していない。どこで生まれるかは選べないし、それで人を評価する意味も評価される意味もない。しかし、「母国を見る目」は自分で選べる。見ないという選択より、見るという選択をして、ピンと来る見方を模索してみようと本気で思えば、きっと何かしらかけがえのない発見に恵まれる。   日本に一途な青春を過ごした私は、今では、日本とロシアの現代文学をめぐる比較研究に取り組んでいる。また、2023年度からは東京外国語大学で教鞭をとり、日本の大学生たちにロシア語を教えている。私と同じように遠いところにばかり目を輝かせている学生がたくさんいるのではないか。彼らに伝えたいことがいっぱいある。たとえば、こう伝えたい。「遠いところへの憧れを存分にかみしめながらも、自分の住んでいる国、自分の生まれた国もよく見ておこう」。     英語版はこちら     <マリア・プロホロワ Maria PROKHOROVA> 2022年度渥美奨学生。モスクワ市立教育大学の日本語学科を卒業した後、東京外国語大学で修士号(文学)ならびに博士号(学術)を取得し、現在は同じ東京外国語大学で特定外国語教員としてロシア語を教えている。主な研究対象は日本とロシアの現代文学における動物表象だが、ほかにも、翻訳論やロシア語圏のお笑い文化など、言語・文化に関連するテーマを幅広く扱っている。文芸翻訳家としても活躍中で、川上弘美、多和田葉子やまどみちおの作品をロシア語に翻訳した実績がある。     2023年9月7日配信
  • 2023.08.03

    エッセイ744:李鋼哲「キャリアと天職」

    大学のゼミに「キャリア・デザイン」という科目が設置された。その意味すら分からなかったので、担当することになった時に『大学生のためのキャリア・デザイン入門』を購入し、勉強した。「働き方、社会活動と生き方に繋がりをつけ、自分の人生の中でどう働き、どう社会活動をしていくかを考え、計画し実行するのがキャリア・デザイン」とある。職業人生に焦点を当てているので、学生たちに「将来就きたい仕事について」レポートを書かせた。以前、「人生100歳時代をどう生きるか」のテーマを出し、各自パワーポイントを作って発表させたこともある。今回も学生たちはいろいろな資料を調べて、それについて自分の考え方を発表した。   しかし、私は日本の学校教育において何か欠けているのではないか、といつも考えている。日本の小中高校教育に携わったことがないので、どのように教育を受けたのかは個人面談などを通じて推測するしかない。何が欠けているだろう?30数年間日本に住み観察しているが、日本の教育は「サラリーマン」を育てるのが主な役割のようだ。もちろん、社会が成り立つためには大勢のサラリーマンが必要であろう。それを進めているのが「キャリア・デザイン」かな、と思う。しかし、それでは物足りないのではないか。   その答えを韓国人の友人のエッセイに見つけた。昨年12月、「世界平和フォーラム」からフィリピンに招待された時、私の講演の姿をイラストに描いて私に見せてくれたので一緒に写真を撮り、その後も日本と韓国で2回お会いした方である。建設現場で日雇いの仕事をしていると聞いてびっくりした。現場で働く労働者を直に観察しながら、人間や社会の深層を探求し、イラストで表現して社会に訴えている。それ自体が素晴らしい生き方だと私は感心するばかり。   友人が送ってくれた韓国の新聞に掲載されたというエッセイを読んでひらめいた。人間の職は3種類あるという。1つ目はジョブ(Job)で、生存するための仕事。2つ目はキャリアで、会社や社会で自分の才能や技能を十分に発揮できる仕事。そして、3つ目のコーリング(Calling)が「天職」である。日本に来てから「学校の教師は職業なのか、それとも天職なのか」という議論を聞いたことがあったが、「天職」についてそれ以上のことは知らなかった。ましてや「コーリング」とは何か、辞書で調べた。「呼ぶこと、叫び、点呼、召集、天職、(神の)お召し、職業、強い衝動、欲求、性向」。   さらに、チャットGPTに「天職またはコーリングについてどう解釈しますか?」と聞くと、「天職またはコーリングは、個人が自身の生き方や仕事において本質的な目的や使命感を感じることを指します。それは単なる職業や仕事以上のものであり、個人の価値観や情熱と深く結びついています・・・」。この答えに大変満足した。中国の聖人孔子の言葉「五十にして天命を知る」に通じる。私も50歳で「天命」を知ることになったと考えている。   先週、大学の講義の前に、学生たちに「3つの職業」について話した。まず「キャリアとは何ですか」と質問を投げかけて学生の答えを聞いた後に、説明した。学生たちは目を丸くしていたので、全員の学生が初めて聞く話であることが分かった。   世間でよく言われる「日本の教育は学生に夢を抱くように教えない」、「日本の教育には哲学がない」、などの議論を考えると、学生には「職業」や「キャリア」だけではなく、「天職」についても教えるべきではないか。崇高な理想や夢をもって「Job」をこなし、「キャリア」を磨くような教育が必要ではないか?   自分の人生を振り返ると、小学生の時には「全世界に共産主義を実現し」、「世界の無産階級(プロレタリアート)の解放のために」勉強し、人生を頑張るという教育を受けていた。幼いころは、まじめにそれを受け止めていた。もちろん、今考えるとそれは「共産主義のイデオロギー教育」となって否定的に捉えることが多い。しかし、全人類の幸せのために頑張る人生観を身に着けるという意味では、今の「持続可能な開発目標(SDGs)」と通ずるところがあるのではないか。昨年、渥美財団関口グローバル研究会(SGRA)のフォーラムでも取り上げたように「誰一人残さない」というスローガンと、「良き地球市民」とは一致するのではないか?渥美財団との出会いは、私にとってはもう一つの「コーリング」に目覚めた機会だったと思っている。   その目標を、共産主義を通じて実現するのか、資本主義を通じて実現するのか、あるいは「第三の道」で実現するのかについて人々はそれぞれの考え方を持ってはいるだろうが、「誰一人残さない」というスローガンは立派なものであり、それをもって自分の人生観を育んでいたら、人類社会はどんなに素晴らしい社会になるだろう。   学校での教えで立派な夢を見て育ったが、いざ社会人になった私は、貧しい農村で如何に生存するかが重要な課題になってしまい、その貧しさから脱却するために4年間も農業労働をしながら受験し、「死ぬほど」勉強して、8億中国人民が憧れる首都北京の大学生になり、人生が180度転換した。大学では共産主義の教育を受け、率先して共産党員になり「全世界で共産主義を実現するために終生奮闘する」と党旗の前で宣誓した。   その後、北京で大学院に入り大学の先生になった。1989年の天安門広場での学生デモに参加して、政治改革を呼びかける学生を声援したが、それが武力により無慈悲に鎮圧されるのを見て、共産党や共産主義の理想に幻滅し、職を放棄し、資本主義で自由な国日本への留学を決意した。   目標や夢のないまま、そしてお金もなく裸一貫で日本に来て、10年間も「就学生」や「留学生」という在留資格を持ってアルバイトで生計を立てながら放浪していた。大学院まで卒業し大学の先生にまでなっていた私は、日本で学ぶ目標もなかった。何かのきっかけを見つけたかったかも知れないが、そんなに簡単には行かないのが現実だった。   日本語学校を経て、ビザを延期するためには日本の大学院に行かざるを得ない。大学院では国際経済学を学んだが、たまたま「図們江地域の国際開発構想」(「とまんこう」と呼ぶが、朝鮮半島では「豆満江」:どぅまんかんと呼ぶ)という研究テーマ(国連UNDPが関わる開発プロジェクトで、中国、北朝鮮とロシア参加国国境地帯を共同で開発する構想)に出会った。この地域の中国側は私の故郷であり、私はたまたま中国語と韓国語(朝鮮語)をマスターし、中国の大学院ではロシア語を独学していたので「この研究はライフワーク」と確信した。その時、天職(calling)という言葉は知らなかった。   東京の大学などでこの研究をする人はほとんどおらず、修士の指導先生からは「李君、そのようなテーマを研究しても日本では飯を食えないよ」と言われた。それでも私は諦めず、この研究に突き進んでいた。その後、素晴らしい出会いがあり、人生の転機を迎え、東京財団で「東北アジア開発銀行設立構想」について研究する研究プロジェクトの一員になり、当時の小泉純一郎首相へ政策提言した。「キャリア」としての人生が始まった。内閣府の国策シンクタンク総合研究開発機構(NIRA)の研究員にもなり、「東北アジアの未来を構想する」様々なプロジェクトに携わった。そして、大学の教員として「東北アジア経済」などを教えることになる。   3年前に一般社団法人・東北アジア未来構想研究所(INAF)を有志たちと設立し、将来はシンクタンクとして、この地域に平和と繁栄が実現することを目指して、生涯をかけて頑張ろうと決意している。結局、この研究と活動が私の「天職」なのかもしれない。     英語版はこちら     <李鋼哲(り・こうてつ)LI Kotetsu> 1985年北京の中央民族大学業後、大学院を経て北京の大学で教鞭を執る。91年来日、立教大学大学院経済学研究科博士課程単位修得済み中退後、2001年より東京財団、名古屋大学国際経済動態研究所、内閣府傘下総合研究開発機構(NIRA)を経て、06年11月より北陸大学で教鞭を執る。2020年10月1日に一般社団法人・東北亜未来構想研究所(INAF)を有志たちと共に創設し所長を務め、日中韓+朝露蒙など多言語能力を生かして、東北アジア地域に関する研究・交流活動に情熱を燃やしている。SGRA研究員および「構想アジア」チームの代表。近著に『アジア共同体の創成プロセス』、その他書籍・論文や新聞コラム・エッセイ多数。     2023年8月3日配信
  • 2023.07.27

    エッセイ743:葉文昌「日本酒と紹興酒について」

    2018年ごろだろうか、渥美財団関口グローバル研究会からこれまで台湾でやっていた日台フォーラムを島根でやってくれないかという打診が来た。自分の分野ならフォーラムをやっても良いかと思ったが、文系メンバーが圧倒的に多い関口グローバル研究会(SGRA)である。「文系にも分かるテーマで」という難題を突き付けられた。「文理融合」「文理相互理解」の印籠だ。でも思うのだが、理系人間は教養という名のもとに文系の言葉を理解することが求められるのに対して、多くの文系人間は理系の言葉を理解しようとしないし、しなくても許されているのはおかしくないか?   愚痴っても仕方がないので、どういうテーマなら私も参加者も楽しめるかを考えた。キーワードは「島根」と「台湾」、そしてSGRAからの注文として「文理融合」、さらに私も楽しめるテーマということで「ものづくり」とした。古代からのものづくりで島根県が誇るものとして「たたら製鉄」と「日本酒」がある。着任早々に地元のものづくりに敬意を表して司馬遼太郎の「砂鉄の道」を読んだことがあった。「日本酒」も親身に理解しようとしていた。この中で「酒」ならそれだけで文理融合できそうというわけで「酒」にした。では「台湾」の要素はどうするか?実は日本酒の近年の風潮に古酒がある。本来は鮮度が特徴の日本酒を数年間熟成させるのである。飲んでみたら紹興酒に似た要素があった。紹興酒を調べたら、紹興酒ももち米を主原料としていることがわかった。これでテーマを「日本酒と台湾紹興酒」とした。   かつて中国の文豪である李白や杜甫も、酒によって知的創造が盛んになったらしい。そして松江も江戸時代から漢詩創作が盛んだった。酒を多次元に捉えるため、さらに皆様の知的創造が盛んになることも願って、江戸時代から明治時代にかけての松江での漢詩創作についてお話できる講師もお招きした。   酒の成分はアルコールである。アルコールを作り出すには糖分を酵母で発酵させる必要がある。ワインの場合は、葡萄の糖分が酵母によってアルコールに変換される。一方で米は澱粉であって糖分は含まないので、酵母でアルコールを作り出すことはできない。そこで澱粉を糖分に変える方法が必要になる。唾液の酵素で糖化するのが昔から世界各地にあった口噛み酒である。もう一つの方法として麹菌で糖化する方式である。この方式が今の日本酒や紹興酒で使われている。澱粉と麹と酵母を混ぜて、糖化と発酵を平行に進行させるので、平行複発酵という。なぜ「複発酵」なのか?糖化も微生物の力を借りているので広義の発酵だからであろう。要するに日本酒も紹興酒も、米を平行複発酵で酒にしているのである。   日本酒の酒蔵はいくつか見学したことがあった。酒蔵のかなめは麹室である。それは檜部屋だった。なぜステンレスではなく木造なのか?木に生える常在菌をうまく生かして麹を作るそうだ。台湾の滷肉飯や日本の鰻屋の秘伝のたれと同じ思想だ。100年間洗ったことがない鍋。私は30歳までに「百年洗わない鍋はすごい、きっと美味しい」から目覚めた。一流のシェフが、神のサイコロに味をゆだねて良いはずがない。最先端の半導体工場でも、神が宿っているからと成膜室を洗わずに使い続けて良い半導体が作れるものか。これを酒飲みに披露すると大抵非難される。私は檜部屋や秘伝のたれを批判している訳ではない。伝統は大事だし、それで美味しいものを採算合って作れていれば変える必要はない。でもものづくりなら、神のサイコロにゆだねずに、1+2=3という風に、この菌とこの菌を混ぜてこう作ればこういう味になる、と神に頼らないで作ることを目指すのがロマンだろう。実は日本酒も、何人かの伝説的な先人によって、江戸時代の「きもと」から明治時代の「速醸」へ、それと戦後から泡なし酵母など幾度の革新があり、まさに合理化効率化の道を辿っていたのである。   一方で紹興酒はどうだろうか?フォーラム準備にあたって、台湾紹興酒を作っている台湾煙酒公司(元台湾煙酒公売局)の埔里酒廠で打ち合わせと見学をしてきた。日本酒の工程と非常に似ていた。同じ平行複発酵だから無理もない。しかし現代工場の麹室も檜部屋だったのは意外だった。「きもと」「酒母」「もろみ」、使う言葉は違うかもしれないが、説明すれば通じるものは多くあった。では日本酒と紹興酒の違いは何か?そして台湾紹興酒と中国紹興酒の違いは何か?特に台湾紹興酒は日本統治時代の日本酒を作っていた酒蔵を、戦後に中国から渡ってきた紹興酒職人によって紹興酒酒蔵に転換されたが、中国紹興酒との違いは何か?ここでは種明かしはせず、ぜひ会場に足を運んでいただき、味の違いを五感で感じながら、講師のお話を聞いて解き明かしていただきたい。     英語版はこちら     <葉文昌(よう・ぶんしょう)YEH Wenchang> SGRA「環境とエネルギー」研究チーム研究員。2001年に東京工業大学を卒業後、台湾へ帰国。2001年、国立雲林科技大学助理教授、2002年、台湾科技大学助理教授、2008年同副教授。2010年4月より島根大学総合理工学研究科物理工学科准教授、2022年より教授。     2023年7月27日配信