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2025.03.28
2023年末、ナポレオンの生涯を描いた映画が公開された。メガホンを取ったのは、古代ローマの剣闘士を描いた<グラディエーター>など、数々の名作を持つリドリー・スコット監督である。フランス革命史を専攻する私は、渥美国際交流財団の忘年会でこの映画についての好意的な感想を聞き、早速期待を寄せながら映画を観た。率直な感想としては、壮観な光景に圧倒されながらも、いくつかの点でどうしても違和感が拭えなかった。ナポレオンはマリ=アントワネットの処刑に立ち会っていない、ギザのピラミッドに向けて大砲を放っていないなど、歴史家たちは史実に反する点を多々批判しているが、私が最も気になったのは主演ホアキン・フェニックスの年齢である。
ナポレオンは1769年に生まれ、35歳の若さで皇帝になり51歳で死んだが、フェニックスは映画公開時点で49歳だった。映画冒頭のマリ=アントワネットの処刑やトゥロンの戦い(1793年)のシーンでは、まったく若作りせずに演じていたが、当時ナポレオンは20代前半の青年だったはずで、とても奇妙に感じられた。また、ナポレオンより6歳年上の妻ジョゼフィーヌ役はフェニックスより14歳年下のヴァネッサ・カービーが演じ、ナポレオンの上官に相当する14歳年上のポール・バラスもフェニックスより7歳年下のタアール・ライムが演じている。中年の男性と若い妻、年下の上官と初老の部下のように見えて、どうしても違和感が拭えない。しかも当初、ジョゼフィーヌ役はもっと若い女優、1993年3月生まれの30歳のジョディ・カマーが演じる予定だったが、パンデミックの影響で撮影延期となり都合がつかなくなったという経緯があるそうだ。本来であれば、もっと年齢差を感じる配役となっていたかもしれない。
英『タイムズ』紙のインタビューを受けたスコットは、史実との整合性について次のように答えている。「ナポレオンが死んで10年が経ち、誰かが本を書く。そしてある者がその本を手に取り、新しい本を書く。こうして400年(*原文ママ)が経ち、[歴史書には]多くの想像が含まれている。歴史家たちと揉めるとき、私は次のように問う。『すみません、あなたはそこにいたのですか?ノーですって?おやおや、それなら黙っとけ』と」。もちろん、映画監督と歴史家の仕事は違うし、観客を魅了させるための創作・演出は許されて然るべきだが、スコットは歴史家の仕事を分かっていない。二次資料(研究文献)にのみ依拠した研究はアカデミックな歴史学研究とは認められない。私たちは常に一次資料(原典史料)にまで降り立って調べるのだ。ちなみに、ナポレオンとジョゼフィーヌとの年齢差についても、スコットは「重要ではない」と一蹴しているが、せめて若作りさせてほしかった。
だが、スコットの「言い訳」はある意味で正しい。あまりに多くのことが語られたために、ナポレオンのイメージは想像に満ちている。ナポレオンに関する言説の信憑性を考察したリチャード・ホエートリーは、「語られたことすべてを信じようとすれば、一人ではなく、二、三人のボナパルトが存在したと考えなくてはならない。もし十分に裏づけのとれたものだけを認めるならば、一人も存在しないのではないかと疑わざるを得ないだろう」と述べている。唯一キャスティングの点でスコットを擁護できるとすれば、フェニックスの顔は、いくつかのナポレオンの肖像にどことなく似ている気がする。
だが、絵画も政治的意図を持って脚色されたものばかりで、あまり信用すべきではない。おそらく、多くの日本人が思い浮かべるナポレオンのイメージは、画家ダヴィドが描いたアルプスの山を白馬で颯爽とかけ登る姿だろうが、実際には、半世紀後にポール・ドラロシュが描いたようにラバで苦労したとされる。ダヴィドの弟子にあたるグロやジェラールら新古典主義の画家たちも、戦争を指揮する勇姿や現人神のごとく着飾った皇帝の姿を描いているが、等身大のナポレオンを描いたとは考え難い。ナポレオン自身が印象操作に心血を注いでいたからである。
私はナポレオン没後200周年であった2021年に、ナポレオンの人生と遺産を振り返りつつ、人々がナポレオンを映画、小説などで取り上げてやまないことこそ、彼が遺した最大の遺産だという趣旨のエッセイを執筆したことがある(『人文会ニュース』第137号)。シャトブリアンは、「ナポレオンは、生きているときには、世界を獲得し損ねた。死んでから世界を手にした」と述べたが、ナポレオンの最大の功績は、数々の戦勝でも民法典でもなく、彼の人生が映画などで取り上げられ、人々を惹きつけてやまない点にあるのではないだろうか。
<楠田悠貴(くすだ・ゆうき)KUSUDA Yuki>
大阪公立大学都市文化研究センター研究員、および立正大学・岡山大学非常勤講師。2015年に東京大学大学院博士課程に進学した後、フランス社会科学高等研究院修士課程、パリ第一大学(パンテオン=ソルボンヌ)大学院博士課程に留学し、現在博士論文を執筆中。専門はフランス革命期・ナポレオン統治期の政治史、政治文化史。主な論文に「ルイ16世裁判再考」(山﨑耕一・松浦義弘編『東アジアから見たフランス革命』風間書房、2021年所収)、単訳書にマイク・ラポート『ナポレオン戦争』(白水社、2020年)がある。
2025年3月27日配信
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2025.03.20
3月も啓蟄を過ぎ、暖かくなる日が増えてきました。春の到来を感じさせる晴れの日にこれまでの研究生活をのんびりと振り返りながら、この原稿を書いています。
嘘である。今日は朝から寒いうえに雨が降っている。学会発表や報告書作成、査読依頼の対応に残りの実験と標本の整理、研究室の片付けなどにかまけているうちに締め切りも残り3日を切ってしまった。良い文章を書くには適度に追い込まれることが必要だと聞いたことがあるが、私の場合、悲しいことに追い込まれる状況にあっても一向に筆は進まず、心身が疲弊していくばかりである。このくらいの文字数なら2時間もあれば余裕で書けると嘯(うそぶ)いた2時間前の自分に悪態をつきながら未だ机に向かっている。
博士課程での研究は、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の感染拡大の影響をもろに受ける形で始まった。2020年の4月2日に資料を受け取りに大学に行った後、6月末まで研究室に入れなかったことをよく覚えている。その後も研究室での滞在時間の短縮や、演習林での野外調査の延期などの制限を受け、当初の研究計画も一部変更を余儀なくされることになった。
このように、目に見えないものに振り回された4年間であったが、その一方で様々なご縁にも恵まれた。特に、2023年度は渥美国際交流財団の奨学生として貴重な経験をさせていただいた。財団ならびに元奨学生(ラクーン)の皆様が企画してくださった交流会では、人文・社会科学のほか、自然科学でも工学や医学など、普段自分が接する機会のない研究領域(と私も思われていたのは想像に難くない)を扱う同期の方々と交流することができた。各々のバックボーンや研究分野、研究アプローチが大きく異なることから、最初は不安もあった。しかし、韮崎でのワークショップをはじめ、研究報告会や新年会での餃子作りなどを通して相互にやり取りを重ねる中で、それらが違えども、苦労する点は意外と似ていたりすることなどを知るとともに、日々研究に取り組む同世代の人がこんなにたくさんいるのだと嬉しくなった。「龍吟じ虎嘯く」とはこのような時に使うのだろうか。
「相互のやり取り」という語に関連して、自分の研究についても少し触れたい。私は、マツ科やブナ科などの樹木、それらと地下部で共生関係を結ぶ外生菌根菌と呼ばれる真菌、根のまわりに生息する根圏細菌の三者を主な対象として、それらの相互作用に関する研究を行っている。これらの共生微生物は、宿主樹木から光合成産物の供給を受ける代わりに、宿主の成長促進や、植物病原菌に対する抵抗性の向上などに寄与することが明らかになっている。一般的に微生物といえば、カビやバイ菌などといったネガティブな印象を持たれがちだが、これらのように、植物の生育に不可欠なものも数多く存在することを知ってもらえると幸いである。
こうした森林生態系における微生物に関する研究を志したきっかけは定かではないが、研究を続けると決心した一端には、『蟲師』という漫画の影響があったような気がする。この作品では、「蟲」と呼ばれる、生命の根源に近いとされる架空の存在が引き起こす現象と人間とのやり取りが描かれている。研究を始めた当初、私は周囲と比べて研究対象の生物に対する偏愛が欠けているのではないかと後ろめたさのようなものを勝手に感じていた。しかし、医師や研究者を兼ねる主人公の、蟲に対して「奇妙な隣人である」と明確に線引きをしたうえで関わっていくスタンスに、それぐらいの距離感で向き合う研究者がいても良いのだと思い直した覚えがある(当該の描写は『春と嘯く』というエピソードで確認することができる)。なんだか話が上手くまとまり過ぎている気がするので、都合の良い記憶の後付けかもしれない。いずれにせよ、今後も地面の下(しばしば地表)にいる奇妙で興味深い隣人たちの研究を続けていければと考えている。
多くの方々の助けを借りて博士号を取得するところまで来ることができた。この場を借りて厚く御礼を申し上げる。来年度からは、相変わらず先行きが見えない研究生活が続くが、新たな環境や研究テーマにワクワクもしている。「どうにかなるさ」、と嘯いていきたいものである。
<白川誠(しらかわ・まこと) Makoto SHIRAKAWA>
埼玉県出身。2023年度渥美国際交流財団奨学生。東京大学大学院農学生命科学研究科附属アジア生物資源環境研究センター特任研究員。2018年に東京農業大学で修士号(林学)、2024年に東京大学で博士号(農学)を取得。森林圏に生息する微生物の分類と保全、利用に関する研究を行っている。2025年4月より千葉県内の私立大学に助教として着任予定。
編注:このエッセイは2024年春に書いていただいたものです。
2025年3月20日配信
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2025.02.27
2016年4月、私は東京大学大学院法学政治学研究科修士課程に入学し、労働法を専攻することになりました。それまで台湾の大学で法学を学んできましたが、日本の大学院で学ぶことは私にとって大きなチャレンジでした。
東京大学の労働法の指導教員や先輩たちは、私を暖かく迎え入れてくれました。ゼミでは活発な議論が行われ、教授からは丁寧な指導を受けることができました。当時労働法専攻の大学院生は私1人だけで、寂しさを感じることもありました。日本語での議論についていくのは容易ではなく、日本の社会や文化になじむのにも時間がかかりました。
そんな中、私は渥美国際交流財団に出会いました。財団の奨学金を受け、イベントに参加したりする中で、同じように日本で学ぶ留学生たちと交流を深めることができました。来日6年目にして、初めて日本で帰属意識を感じる場所が見つかりました。母国を離れ、異国の地で学ぶ私たちにとって、渥美財団は心の支えとなりました。財団を通して出会った友人たちは、今でも大切な存在です。
振り返ってみると、「留学」を通じて初めて比較法の重要性と価値を理解することができました。どの国でも、市場の背景や社会状況は異なりますが、共通の問題点が存在することに気づきました。この共通認識を踏まえた上で、各国の市場背景の違いなどに基づいて法政策を分析することが可能になるのです。
例えば、学部時代に台湾大学法学部で日本の労働法に関する論文を読む機会がありました。東亜ペイント事件の判決で示された転勤命令について、業務上の必要性がない場合や不当な動機・目的がある場合や、労働者に「通常甘受すべき程度を著しく超える不利益を負わせる場合」等、特段の事情がない限り権利の濫用に当たらないとされた点が当時は理解できませんでした。日本の判例法理はなぜ使用者の配転命令をそこまで認めるのだろうと疑問に思っていました(東大法学政治学研究科への入学にあたり、この問題意識とワークライフバランスをテーマに研究計画書を提出しました)。
その後、東大で本格的に労働法を学ぶ中で、日本の労働市場が長期雇用慣行・終身雇用制を採用し、厳しい解雇規制によってこの制度が支えられていることを理解しました。特に能力不足の労働者に対する解雇制限が極めて厳しい状況で、使用者に広範な配転命令権を認めることで、不適任の労働者を他の部門に配置換えできるようにし、長期雇用慣行と厳しい解雇規制を成り立たせていることが初めて分かりました。
逆に、台湾の労働市場は雇用の流動性が高く、能力不足の労働者に対する解雇に関する規制が相対的に緩やかであり、これが台湾及び日本の法政策の違いを浮き彫りにしています。日本へ留学しなかったら、他者の目となって自国や他国の法制度を分析する機会は得られず、比較法という学問の真髄を体験することは難しかったかもしれません。
大学院での研究は決して楽なものではありませんでしたが、指導教員や先輩、そして渥美財団の支援があったからこそ、乗り越えることができました。日本での経験は、私の人生を大きく変えてくれました。日本の社会や文化に触れ、多様な価値観に出会ったことで、視野が広がりました。
渥美財団で出会った仲間たちとは今でも交流を続けており、互いに刺激し合いながらそれぞれの道を歩んでいます。日本留学は、私にとってかけがえのない経験となりました。東京大学の恩師や先輩方、渥美財団の皆様には心から感謝しています。これからも日本と台湾の架け橋となるべく、研究と教育に励んでいきたいと思います。
<黄若翔 HUANG_Jo-Hsiang>
台湾の新竹県で生まれ育つ。中学校卒業後台北に進学し、国立台湾大学法学部を卒業(2016)。同年、思鴻教育財団の奨学金を得て、日本の東京大学大学院法学政治学研究科へ留学し、修士号(2019)および博士号(2024)を取得。在学期間中、東京大学先端ビジネスロー国際卓越大学院奨学生、渥美財団奨学生および日本学術振興会特別研究員(DC2)に選出される。博士号取得後、日本独立行政法人労働政策研究・研修機構(JILPT)にて研究助手を務めた。現在は台湾の国立清華大学科技法律研究所に助理教授として勤めている。
2025年2月27日配信
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2025.02.20
2024年9月に博士号を取得する際、アカデミア研究者としてのキャリアを追求するか、あるいは企業の世界へ移行するか、という選択を迫られました。日本での留学経験を振り返ると、すべては9年前に名古屋大学の学部プログラムに入学したときから始まります。この経験が学問的に豊かになるだけでなく、個人的な成長や文化への没頭の貴重な機会を与えてくれたからです。
学部時代に私が参加したグローバル30というプログラムは、様々な国や背景からの学生を受け入れていました。多様なバックグラウンドを持つクラスメートとの交流は新しい文化や視点を学ぶ機会となり、ハイキングやジャズ音楽など多くの新しい興味を見出すこともできました。その後は東京大学大学院に進学し、修士課程を修了、博士課程に進みました。博士課程は私の人生において最も挑戦的で、かつ充実した経験の一つでした。
まず、博士課程は非常に時間とエネルギーを要するものであることを強く実感しました。研究や論文執筆に集中するためには、日々の時間管理と自己犠牲が欠かせませんが、このプロセスを通じて、自己管理能力や粘り強さを向上させることができました。また、数々の試練や挫折に直面しながらも、それらを乗り越える戦略を身につけることができました。「擬似天然チオペプチド創薬プラットフォームの開発」という研究テーマが異なる学問領域や専門知識の統合を必要とする複雑な問題に関連するため、様々な学際的なアプローチが求められました。さらに、博士課程は独自の研究を行い、その過程で自己表現と創造性を発揮する場でもあります。自分自身のアイデアや仮説を探求し、それらを実証するための研究を進めることは非常に豊かな体験でした。新しい知識や発見を生み出す喜びは、私の努力への報酬であり、研究への情熱をさらに燃やしました。
これらの9年間を通じて自分の強みや弱みを理解し、克服する方法を見つけたことは、私のキャリアと人生の中で非常に重要なスキルになると感じています。多様な学術的追求に参加し、最先端の研究に没頭し、同僚や指導者と意義深いつながりを築いてきたことで、学生として、そして学術研究者としての生活は充実していました。時折疲れることもありましたが、そのような困難にも関わらず、興味を追求し、情熱を存分に追求する自由を大切にしてきました。
いざ卒業、となった時に根本的な問いに直面しました。基礎研究や教育を通じて知識とイノベーションを推進するために学術の道を進むべきか、それとも企業や産業の環境で専門知識を活かすべきか。産業界でのキャリアはより快適で安定した生活を約束するかもしれませんが、個人的な興味に没頭する自由を手放すことが心に重くのしかかります。
自分の旅を振り返ると、私は常に社会に意味のある貢献をし、影響力のある発見をすることを志してきました。この志が学術的努力を通じて研究の機会を追求し、直面する課題に立ち向かうよう私を導き、実験室、教室、文化的浸透のいずれの経験でも私の視野を広げる原動力となっています。
私は幸運に恵まれ、博士課程で行った研究を続けることができるスタートアップに参加することになりました。ここで世界に意味のある貢献をし、イノベーションを起こし、積極的な変化をもたらすという強い使命感に駆られています。
<チャン・ジュンシ CHANG Jun-shi>
クアラルンプール出身。2015-2019:名古屋大学理学部化学科学士(阿部研究室)、2019-2021:東京大学大学院理学系研究科化学専攻修士課程 (菅研究室)、2021-2024:同博士課程。現在はDayra Therapeutics社勤務。
2025年2月20日配信
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2025.02.14
長い間一つの研究課題に取り組んでいると、もともとは知的興奮から選んだテーマでも、いつの間にか味気なくなってしまうという経験をしたことがある研究者は少なくないだろう。私も長年にわたって歴史研究に従事する過程で頭が疲れることがあり、その際に、失われつつあった「思考散歩」の楽しさを再び感じさせてくれたのは、一人の先輩との対話であった。そのなかでの話題に歴史(学)と「美」の関係があった。以下にそのときに湧いてきたとりとめのない考えを少しまとめてみたい。
まずは、歴史が美的判断の対象となり得るかどうかという問題である。そういった判定につながる観察の対象となり得る客観としての「歴史自体」のようなものはないであろう。歴史はむしろ人間の作ったストーリーであり、ストーリーテリングから切り離しては存在しない。確かに、単に過去のものとその変遷を「歴史」と定義すれば、人間がそれを物語ることを必要条件としない存在があるといえるかもしれない。しかし、それがひとたび「歴史」になると、その存在は消える。この一度消えた存在を復活させて現在共有できるのは、結局人間の物語る歴史である。歴史学もその一種に違いない。
では、ストーリーとしての歴史は美的判断の対象となり得るだろうか。私は、なり得ると思う。ただし、このストーリーとしての歴史の何を対象にするかにより、判断の性質が異なってくると考えられる。
例えば、(一)芸術としての歴史を対象とし、その「美」を判断する場合は純粋な美的判断に近いといえよう。歴史小説や詠史、歴史映画など、おそらくどのような歴史叙述でも、それなりに芸術的な観点から美的判断をくだすことが可能であろう。ただし、歴史学に関していえば、あくまで私見だが、多くの研究書は、客観性を高めようと努めているためか、言語用法がかなりテクニカルであり、そこに「美」を認めることは難しい。
他方、(二)歴史として語られるものを対象とする場合、美的判断が純粋ではなくなることがある。社会の激変に直面する人間が過去を美化する現象がその例として挙げられる。近代において産業化・資本主義化・都市化していく社会から失われてしまう過去の美風に憧れた人々にとっては、その客観、すなわち彼らの見た「歴史」は美しく見えたのであろう。デジタル化に伴ってまだ把握しきれない変化を受けている現代社会においても似たような傾向があるように思われる。しかし、この場合、憧れる過去の美風は単に「美しい」だけではなく、「善い」ものでもあり、理性を介し概念をつうじて理解されるようである。すなわち、それには社会・美風が何であるべきかというある目的の概念が含まれ、さらには「そういう美風のある社会に生きたい」「社会にそうあって欲しい」というような、ある種の関心が含まれているのである。
歴史学の文脈においてはどうか。歴史学者が過去の「美」を掘り出そうとすることもまれにあるかもしれないが、普段は研究対象とする人物や事象を批判的な目で見ている。私も自らの研究で過去の思想家が書いた文章を読んでいる際に、その美しい語句や一見して崇高な思想に対して美的感情を抱くことはあるが、その裏にあるさまざまな問題を分析していくにつれて、その美しさがだんだん?がれ落ちていく。その理由は、単に観察において対象を判定するのみならず、そこに何らかの道徳的観念が関与してくるからだと思う。歴史学の研究対象が人間と人間社会である以上、その対象をめぐる判断には、人間がどうあるべきかという目的の概念および人間にどうあって欲しいかという関心が含まれてくるのは当然である。美しいと判断しても、その場合の「美」は「善」と結びあっており、あえていえば「随伴的な美」である。歴史研究の一つの意義が過去から教訓を得ることにあるとすれば、この研究には現代社会をより善いもの、より美しいものにする可能性もあるのではないだろうか。
<ロバート・クラフト Robert KRAFT>
ドイツ出身。2010年から2018年までライプツィヒ大学(ドイツ)で日本学を専攻。学士課程と修士課程においてそれぞれ1年間千葉大学に短期留学。2019年に筑波大学の日本史学の博士課程に編入学。2024年に博士号(文学)を取得。
2025年2月13日配信
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2025.01.30
「刮痧」(監督:鄭暁龍、2001年上映)という中国映画がある。「刮痧」とは専用の板で背中をこすって皮膚を充血させ、様々な症状を改善する伝統的な中医療法である。映画では、米国で暮らす中国人3世代家族の子育てを取り巻く異文化間の葛藤を描写している。主人公は人前でも息子を厳しくしつけるべきだという文化信念を持ち実践していた。そして、主人公の父親は、ある日熱が出ている5歳の孫に「刮痧」の治療法を行った。後に息子の背中にある大面積の傷を医者に発見され、深刻な虐待の証拠として警察に通告される。さらに日常的な体罰を行っていたことも米国人の知人に指摘され、一家は強制的に親子分離を要求されることになった。中国文化に根差した親子観念、育児様式と西洋の人権観念、社会制度との間の矛盾は、その後親権をめぐる主人公と児童福祉施設との裁判で露呈する。
そうした葛藤が日本社会でも現実になるのはおかしなことではない。私は7年間、日本と中国の児童虐待について研究している。儒家文化に根差した親子観念は類似していたが、社会制度の変化とともに、現在の日本と中国では「児童虐待」の扱いが異なってきている。中国では親による子どもへの体罰が一般的な事象であり、極端な暴行を加えない限り、「良い家庭教育の方法」として認められると言っても過言ではない。日本では2000年に『児童虐待防止法』が制定されて以来、児童虐待の範囲がどんどん拡大されており、身体的・心理的な暴力やネグレクトを含めた不適切な養育が虐待として非難されている。また、虐待の疑いがあることに気づいたら、保育士や教師、小児科医など子どもに身近に関わる人だけでなく全国民が通告する義務を課せられた。
一方、日本では家族形態が多文化・多民族化の様相を呈している。法務省によると2023年6月時点で日本に中長期滞在している中国人は82万人を超え、国別1位。中国にルーツを持つ未成年の子どもも最多だ。中国の伝統文化に触れながら育てられている子どもが非常に多いということである。しかし「児童虐待」への扱いや認識の差異は、家庭という閉鎖的空間において育児を通して具現化される。中国人親にとっては育児の壁となり、また、日本社会での児童虐待防止に支障をきたす。
知り合いの中国人母親による出来事がきっかけで、異文化の児童虐待防止の課題を垣間見ることができた。この母親は子どもをしつけようと思い、つい2歳の子どもに体罰的な行動を行った。隣人が泣き声を聞いたのか、保育園の先生が体の傷に気づいたのか、自宅で児童相談所と警察から事情調査を受けることになった。母親はとてもショックを受け、混乱して「自分の子どもを虐待するわけがないのに」と大泣きしながら訴えたという。
こうした事例は珍しくない。生活経験を投稿できる「小紅書」(RED)という中国の人気ソーシャルメディアのアプリがある。そこでは類似した経験を訴えた日本在住の中国人母親による投稿が多数見られる。「親として自分の子どもを厳しくしつけるのはダメですか?」「育児は他人と関係ないのに通告されるのはなぜ?」など、日本の「児童虐待」への扱いや制度に対して困惑を感じているようだ。彼女たちを責めるつもりはない。日本語を知らない者もおり、日本語を知っていても日本の児童虐待に関する情報を知ることは難しい。ただ「これまでの文化信念=ちゃんとしつけようと思ったのに」vs.「現代日本の法制度=虐待者として疑われ、調査された」の苦境に立っており、「どうしつけすれば良いのか?」に関する的確な援助を必要とする。この苦境が親の育児ストレスに繋がり、より深刻な虐待に至る可能性があるからだ。
日本の児童虐待の早期予防に関する主な取組みは、日本人の虐待リスクを基準に成り立ったものであり、虐待のリスクを踏まえながら、母子保健や啓発活動などを通して親を支援することが基本である。しかし子育て中の親の持つ文化背景がどんどん多様化する中、虐待の早期予防に向かうリスクアセスメントに画一的な判定を使用しているのは適切ではないと考える。不思議に思うのは、「児童虐待」という子どもの権利に関する緊急性の高い課題を抱えているのに、これだけたくさん日本で暮らしている中国人や外国人の親たちが、日本の福祉制度の情報を入手しにくいため援助を受けられないことや、文化背景を配慮した育児に関する的確な援助がめったに提供されていないことである。私は児童虐待予防の視点から在日中国人親の子育てを支援していけたらと考えている。
<何星雨(か・せいう)HE Xingyu>
中国・浙江省杭州市出身、2015年7月に来日。2023年度渥美財団奨学生。2024年3月に東京学芸大学大学院連合学校教育学研究科を修了し、博士号を取得。日中両国の児童虐待予防に関心を持っている。現在は子どもの権利と保育に関する研究を続けながら東京家政大学、文教大学、女子栄養大学の非常勤講師として務めている。
2025年1月30日配信
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2024.12.19
今年3月に都内で開かれた「渥美国際交流財団創立30周年感謝の集い」で、「内なる国際化」という言葉を聞いた。国際と聞くと、日本では国外へ出て、さらに知見を深めることを意味することが多いが、「内なる国際化」は、日本国内での国際的な交わりに重きを置いた考え方だそうだ。
国内の大学院に進学してからというもの、英語論文の執筆や国際学会への参加が問われる時代にあることを、常日頃、意識させられてきた。それは、領域を問わず共有するところであろう。他方、国内へ目を向けてみると、多くの留学生や古今東西、さまざまな国籍の人々がいる。しかし、実際に、こうした交わりにおいて、特別「国際」という言葉があてられることは少ない。たしかに、あえて「内なる国際化」と語られなければならない状況が今の日本にあることは、その通りだと思った。
さて、私が志してきた社会学には「社会を物のように見る」という考え方がある。それは、まず社会学的な手法を確立するためのものもあり、他方で、文系にあるその科学性を問い返すときに使われてきた考え方である。
渥美国際交流財団(以下、渥美財団)には、いわゆる理系の院生がとても多い。私自身、渥美財団を通して理系の学生と交流する前は、「物を対象にした研究者」だと単純に思ってきた。しかし、出会った同期は、「ある作業ができるようになったロボットに、まるで意思がある」かのように話し、「友人を紹介するようにキノコの胞子について説明する」ような人たちだった。それは物を人のように扱う、もしくは人と物を相対化し、それぞれの問いを解き明かそうとする姿に思えた。
渥美財団での活動を通して、毎度さまざまな領域で、最終的には同じ方向にある課題を抱える研究者に声を掛けていただいた。留学生で、現在は静岡の大学で障がい者への特別支援教育について考え続けている方、数十年も前から、経済学の知見から福祉国家論を展開してきたという渥美財団卒業生、建築の視点から福祉の「場」づくりについて研究を進める方もいた。たった1年の出会いのなかでも、領域を横断したいくつものシンポジウムを立ち上げられそうな方々と交わり、まさに博士論文の執筆過程においてもその「射程」を大きくしてくれた。
日本ではまだまだ、国籍や言語の違いだけをとって「国際」と語りがちであるが、本当の「国際」の姿は、そんな大げさなことではなく、今の環境に身を置いたまま、個々の異なりに対して、“ちゃんと交わる”ことを通しても、さまざまな学びを得ることが可能であることを体得した。
思えば、私が約10年に渡り焦点を当ててきた、知的障がい者の家族の生活世界や、知的障がいのある方々の生き様も、長きにわたって既存の研究で描かれてきた「施設を出る」や「社会に出る」といった特別な営みではなく、今ある暮らしに埋め込まれたものであったように思う。博士課程を修了し、新天地での生活が始まるが、これまで通り懸命に、しかし、これからは肩の力を抜いて、ゆっくりと進んでいきたい。
<染谷莉奈子(そめや・りなこ)SOMEYA Rinako>
法政大学社会学部、日本学術振興会特別研究員PD。東京医療保健大学、慶應義塾大学の非常勤講師。知的障害者家族の“離れ難さ”をテーマに論文を執筆し2024年3月中央大学文学研究科社会学専攻博士号取得。研究を進める傍らスウェーデンへ留学、また知的障害を対象とした福祉職員としてグループホーム等にて勤務してきた。
2024年12月19日配信
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2024.12.12
私の趣味は大学の提示板を見ることです。それは学部生時代からの習慣になっていました。「看板に頼る」習慣がいつか実を結ぶと信じていたからです。
学部2年生の時、モンゴル国立大学日本語学科の廊下にある看板を頻繁にチェックしていたところ、日本モンゴル開発センターで日本語スピーチコンテストが開かれると書いてありました。ぜひとも参加したいと思い、準備に入り、最終的にはステージでスピーチすることになった6人のうちの1人になりました。結果は第2位でした。第1位になれば、1週間日本へ交換生として招待されることになっていました。第2位は記念品です。少し残念に思いましたが、1カ月後に日本学科の先生から連絡があり、日本語能力試験の結果と成績などで評価し、教員たちの話し合いの結果、「奨学金付きで日本への1年間留学に推薦するので応募してみないか」という素敵なお誘いをいただきました。そして国際教養大学に1年間、交換留学生として留学しました。心の中では「第2位になって良かった」と思いました。
それから長い年月が経ち、2017年から東京外国語大学の研究生となり、その後は修士課程、博士課程に進みました。
1年半前の夏のある日、東京外国語大学の掲示版をチェックしたい気分になり、向かった結果、渥美国際交流財団の奨学生募集のポスターを見つけました。全部読み終わって「必ず合格する」と決意しました。書類の準備やスピーチの練習、きれいな日本語のスピーチを何時間も聞く練習など、よりよい自分づくりに時間をかけました。自分でできる準備は少し整えられたと思った後、たまたま日本の有名な武将である徳川家康が敬仰したという箱根神社の歴史を知り、次は自分のメンタル(精神面)を強くするためお参りに行きました。とても美しい自然に囲まれた夢のような場所です。日本の神様は外国人の願いを聞いてくださるのかなと少し不安でしたが、日本語でお願いすれば問題ないだろうと思いました。最終的に12月に合格通知を目にして、とてもうれしく、「やったー!」と言いたかったのですが、息子が寝ていたので、心の中で「よかった、やったー!」と叫びました。
4月になり奨学生リストを拝見して、自分の名前が名簿の2番目に記載されており、私には「2」という数字が合うんだなと実感するようになりました。言語学では複数とは「2つ」以上を指すと言われています。私の研究も複数であり、私の名前「オノン(Onon)」も複数である数字の名で、仏教の36桁の数字をOnonと言います。
息子との6年半に渡る日本での留学期間は人生の黄金時代だと思っています。私は勉強と研究に励み、息子は色々なことにチャレンジし様々なことを学び、小学校で「漢字博士賞」を頂いて、漢字を愛する、日本国を尊敬する少年になりました。
今後の課題としてはモンゴルの教育機関で活躍するとともに、日々の研究を基に学会発表などを通して海外の研究者と交流を深めていく予定です。モンゴルにおける言語学研究、日本語教育、高等教育学という3つの大きなカテゴリーを中心に活躍し、また深く続けて学んでいきたいと思っております。日本で得た知識や研究仲間、ネットワークを大切にして、次の20年、30年を有意義な時間にし、次世代の若手教員、研究員の育成にもいつか携わる側になると信じ、日々努力して参ります。渥美国際交流財団のメンバーになれたことも心から嬉しく思っており、優秀な研究者たちとネットワークを作る機会を与えてくださったことは感謝してもしきれないです。この絆を大切に思い、今後も全力で進んで参りたいと思います。
<エンフアムガラン・オノン Enkh-Amgalan_ONON>
2009年モンゴル国立大学言語文化学部日本学科を卒業、2020年東京外国語大学修士課程卒業、2020年東京外国語大学博士課程入学、2024年4月からモンゴル国立大学アジア学科非常勤講師を務める。
2024年12月12日配信
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2024.12.05
中国で医学部を卒業し産婦人科医として働いていた時、臨床で解決できない症例に直面して、私たちができることはこれほど少ないのかという疑問を抱いた。最も印象的だったのは大学在学中に卵巣がんにかかってしまった20代の患者だった。従来の医療手段では彼女を救うことはできない。命を延ばすことができても生殖能力を失ってしまう。妊娠中に乳がんが検出された症例もあった。治療を受けると流産せざるをえない上に、治療を終えてもその後の妊娠は難しくなる。しかし、すぐに治療を受けなければ命に関わる可能性がある。中国社会では、子供は両親の絆の象徴と言われる。子供が生まれなければ夫婦関係を持続できないと考える人もいる。臨床医としての経験を積むにつれてこうした症例に多く直面し、ジレンマに陥った。そして、研究の力を借りれば問題を解決できるかもしれないと考えるようになった。人生において、そのような研究にチャレンジしないことはあり得ないと思い、日本にやってきた。
東京大学大学院医学系研究科生殖・発達・加齢医学専攻に入学し、研究生活を始めた。テーマは抗がん剤による卵巣毒性における細胞老化の役割である。抗がん剤治療を受けることで生殖機能に与える影響や、その解決策を探す。例えば、まだ子供を持っていない30歳の女性が乳がんを発症した場合、抗がん剤治療は生殖機能に壊滅的な影響を与え、母親になることが難しくなる可能性がある。同時に彼女は同世代の人よりも早く更年期を迎え、骨粗鬆症や脂質代謝異常などの健康問題にもより早く直面する。私たちの研究は、このような患者に薬を投与し、抗がん剤治療を受けながらも生殖細胞への影響をできる限り減少させ、生殖機能を保存することを目指している。
既存の論文によると、抗がん剤治療を受けた乳がん患者の約70%が5年以内に早発卵巣機能不全(早めの更年期)を経験している。私たちが研究を進めている治療法では、少なくとも10年から15年後までは、更年期を迎える時期を迎える可能性は高まらないことが期待される。動物実験で効果が証明されており、臨床試験に進んで、より広範囲に適用されることが望まれる。もう1つの例を挙げたい。血液がんを患った5歳の女児の場合は治癒の見込みがあり、少なくとも70歳まで生存する可能性があるが、現在の治療法では早発卵巣機能不全になる可能性が高い。将来的に子供を持つためには彼女に選択肢を残す必要がある。現在の治療法には卵巣冷凍保存があるが、何度も手術を受ける必要があり、身体的および経済的な負担がかかる。私たちの研究で使用した薬は経口摂取可能であり、現在の治療法より負担の軽減が期待される。一日も早く研究の成果を実用化し、人々の健康と幸福に貢献したい。
東京大学での4年間の経験を通じて科学的な研究における思考力が鍛えられ、問題を客観的に分析し、解決策を考え出す能力が身についたので、今後の研究活動において有益な役割を果たすことができると確信している。私の指導教官は、研究は大学院でのみ行うものではなく、一生を通じて続けるべきだとよく述べていた。この言葉は、私の将来の研究生活をより意義深いものにしていくだろう。
現在は日本の医師免許取得に向けて努力しており、日本でも産婦人科医として活躍したいと考えている。将来的には日本と中国で産婦人科医として働き、両国の医療技術を習得し、患者に有益な治療法を提供できるようになりたい。同時に研究活動も続けて成果を臨床現場に活かすことで、医療の進歩に貢献し、日本と中国の医療の架け橋となることを目指している。
<徐 子焮(じょ・こしん) XU_Zixin>
淄博市出身。東京大学附属病院女性診療科特任研究員。渥美国際交流財団2023年度奨学生。2018年に臨床医学産婦人科専攻修士号取得。2020年に東京大学医学系研究科生殖専攻博士課程に進学し、女性妊孕能の温存について研究し始める。2024年3月に博士号取得。
2024年12月5日配信
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2024.11.21
2023年度渥美財団奨学生に採択された春のこと、前年度の奨学生による春季研究報告会に参加した際に感じた大きなショックは今でも忘れられない。文京区関口にある財団ホールでは、世界中から集まった優秀な研究者たちが日本語を共通言語とし、博士論文の成果を報告していた。
指導教授たちが次々と祝福の言葉を述べ、それに続いて国連事務次長を務められていた明石康先生など財団関係者からも次々と祝辞と研究への質問が繰り返された。90歳を超える明石先生が、大学院生たちの研究発表をノートに取りながら傾聴され、明晰なコメントをされる姿には感銘を超えて畏怖の念を抱いた。
新しい博士たちの誕生を祝福するたいへんおめでたい空間にいながら、大きなショックを受けた原因は、文系理系を問わず当たり前のように日本語が研究の共通言語としてその空間を支配していたためだ。私は当時、4年間留学していた米国から帰国して程なくだった。米国の大学では、そもそも日本語を理解する人がほとんどいないので英語を共通言語とするのは当たり前だし、それが「国際的」な研究をするための大前提であった。私もこのような研究者としての姿勢を内面化していたため、アジアを中心に世界各地から日本に留学生が集まり、高度でアカデミックな議論を展開している光景に、まるでパラレル・ワールドに迷い込んだかのような気持ちを引き起こされたのだ。
小説家の水村美苗が自らの経験をもとに書いた『私小説』に出てくる主人公はイエール大学仏文科博士課程に在籍する東洋人女性なのだが、米国の大学院でうじうじと悩みながらプライドも捨てられず悪態を吐きつつ日本を恋しがる姿があまりに愛おしく、私は米国で住んでいた小さなアパートで、夜ベッドに入る前にページをめぐりながらしくしく泣いたことがある。26歳のときに留学生として米国に渡った私は、幼少期から移り住んだ主人公とは若干異なる境遇ではあるのだが、私は米国の大学院で努力することが「世界」とつながるための扉だと信じていたため、渥美財団に今までに見たことがない小さくても別の「世界」が存在していたことに大きなカルチャーショックを受けた。
それからの渥美財団での交流は韮崎での宿泊ワークショップが助けとなったこともあり、奨学生同期とはすぐに仲を深めることができた。知的障がい者とその家族の生活支援を改善し浸透させるための研究、児童虐待をなくすことを目的とした中国と日本の比較研究、乳がんの抗がん剤治療を受けながらも生殖機能を保存する医療の開発を目指す研究など、同期の研究は誰もがその重要性を認めるであろう社会的に喫緊の課題を取り扱っていて、それぞれが立派な研究者になり、これからますます活躍することを願わずにはいられない。
このような出会いに恵まれたことにとても感謝している。一方で、「美術史」のなかで「日本写真史」を扱う私の研究は、一見その喫緊性が低いように思われたり、道楽的だと受け取られてしまうこともある。渥美財団で普段の自分の研究領域を超えた異分野の人たちと出会ったことによって、自身の研究の意義をより広い聴衆に理解してもらう必要性を考えるようになった。「歴史」を記す者として、あるいは「知識の生産者」としての責任と誇りをもった仕事が続けられるよう、これからの研究者人生を歩まなくてはならないという自覚を持つようになった。
米国での生活が水村美苗の『私小説』の世界を生きる日々であったとするなら、帰国してからの経験、特に渥美財団での時間は姜尚美が書いた『京都の中華』の世界を生きる経験だった。京都の中華は、花街の習慣も手伝い、独自の発展を遂げてきた。それは確かに本場中国の現状とは乖離があり、中国人が食べれば下手をすれば日本料理として認識されるようなダシのきいた薄味が特徴だ。著者は京中華を取材していくなかで、「本場や本物を追求するのは、素晴らしいこと。でも、それを追い求めると、「正解」がたったひとつになってしまう」と書き記している。人が移動する。人が移動すると文化や技術が越境する。それは食文化に限らず、私が研究を続けている写真表現やそれに伴う知識と思想にも言えることだ。人が移動し、モノが越境するとき、ためらいや、揺らぎ、時には衝突が起こりながらも、折り合いをつけ新しい何かが生まれていく。
渥美財団はまさに国を移動し専門領域を越境することで新しい知識が生まれる場所だ。このような空間に1年間身をおけたことに感謝するとともに、これからもささやかながら関わり続けられれば幸いである。
<久後香純(くご・かすみ)KUGO_Kasumi>
京都府出身。2010年早稲田大学文化構想学部入学、2014年早稲田大学文学研究科表象・メディア論コース修士課程入学。国立近代美術館写真部門や東京都写真美術館でインターン、委託職員を勤めながら写真史の研究を始める。2018年からアメリカのニューヨーク州立ビンガムトン大学美術史コース博士課程に留学し、1960年代から70年代の日本写真史についての研究に取り組んだ。2024年度博士号取得予定。2025年度からは、日本学術振興会PD特別研究員として京都大学にて研究を続ける予定。
2024年11月21日配信