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エッセイ782:ロバート・クラフト「歴史(学)と<美>」
長い間一つの研究課題に取り組んでいると、もともとは知的興奮から選んだテーマでも、いつの間にか味気なくなってしまうという経験をしたことがある研究者は少なくないだろう。私も長年にわたって歴史研究に従事する過程で頭が疲れることがあり、その際に、失われつつあった「思考散歩」の楽しさを再び感じさせてくれたのは、一人の先輩との対話であった。そのなかでの話題に歴史(学)と「美」の関係があった。以下にそのときに湧いてきたとりとめのない考えを少しまとめてみたい。
まずは、歴史が美的判断の対象となり得るかどうかという問題である。そういった判定につながる観察の対象となり得る客観としての「歴史自体」のようなものはないであろう。歴史はむしろ人間の作ったストーリーであり、ストーリーテリングから切り離しては存在しない。確かに、単に過去のものとその変遷を「歴史」と定義すれば、人間がそれを物語ることを必要条件としない存在があるといえるかもしれない。しかし、それがひとたび「歴史」になると、その存在は消える。この一度消えた存在を復活させて現在共有できるのは、結局人間の物語る歴史である。歴史学もその一種に違いない。
では、ストーリーとしての歴史は美的判断の対象となり得るだろうか。私は、なり得ると思う。ただし、このストーリーとしての歴史の何を対象にするかにより、判断の性質が異なってくると考えられる。
例えば、(一)芸術としての歴史を対象とし、その「美」を判断する場合は純粋な美的判断に近いといえよう。歴史小説や詠史、歴史映画など、おそらくどのような歴史叙述でも、それなりに芸術的な観点から美的判断をくだすことが可能であろう。ただし、歴史学に関していえば、あくまで私見だが、多くの研究書は、客観性を高めようと努めているためか、言語用法がかなりテクニカルであり、そこに「美」を認めることは難しい。
他方、(二)歴史として語られるものを対象とする場合、美的判断が純粋ではなくなることがある。社会の激変に直面する人間が過去を美化する現象がその例として挙げられる。近代において産業化・資本主義化・都市化していく社会から失われてしまう過去の美風に憧れた人々にとっては、その客観、すなわち彼らの見た「歴史」は美しく見えたのであろう。デジタル化に伴ってまだ把握しきれない変化を受けている現代社会においても似たような傾向があるように思われる。しかし、この場合、憧れる過去の美風は単に「美しい」だけではなく、「善い」ものでもあり、理性を介し概念をつうじて理解されるようである。すなわち、それには社会・美風が何であるべきかというある目的の概念が含まれ、さらには「そういう美風のある社会に生きたい」「社会にそうあって欲しい」というような、ある種の関心が含まれているのである。
歴史学の文脈においてはどうか。歴史学者が過去の「美」を掘り出そうとすることもまれにあるかもしれないが、普段は研究対象とする人物や事象を批判的な目で見ている。私も自らの研究で過去の思想家が書いた文章を読んでいる際に、その美しい語句や一見して崇高な思想に対して美的感情を抱くことはあるが、その裏にあるさまざまな問題を分析していくにつれて、その美しさがだんだん?がれ落ちていく。その理由は、単に観察において対象を判定するのみならず、そこに何らかの道徳的観念が関与してくるからだと思う。歴史学の研究対象が人間と人間社会である以上、その対象をめぐる判断には、人間がどうあるべきかという目的の概念および人間にどうあって欲しいかという関心が含まれてくるのは当然である。美しいと判断しても、その場合の「美」は「善」と結びあっており、あえていえば「随伴的な美」である。歴史研究の一つの意義が過去から教訓を得ることにあるとすれば、この研究には現代社会をより善いもの、より美しいものにする可能性もあるのではないだろうか。
<ロバート・クラフト Robert KRAFT>
ドイツ出身。2010年から2018年までライプツィヒ大学(ドイツ)で日本学を専攻。学士課程と修士課程においてそれぞれ1年間千葉大学に短期留学。2019年に筑波大学の日本史学の博士課程に編入学。2024年に博士号(文学)を取得。
2025年2月13日配信