SGRAかわらばん

  • 2016.09.08

    エッセイ504:蒋建偉「真夏の夜のバーベキュー」

      「盃盤狼藉」という言葉がある。中国古代の歴史書『史記』の言葉である。場所は田舎の酒宴、男女が入り交じって座り、飲み、酩酊し、遊戯をし――とうとう一面に杯や皿が散らかってしまったさまを言う。今でも大学の近所の居酒屋の座敷などでいくらでも繰り広げられる光景だ。今も昔も人は変わらない。こうして古代の人達も互いに語らい、ストレスを解消したのだろうか。   中国の古代にはもっと風雅な宴もあった。例えば「曲水の宴」――これは、流れる水に盃を流し、目の前を流れる前に詩歌を作らなければならないという遊戯である。詩歌ができなければ、罰としてその盃を飲み干す(なかには酒を飲むために初めから作らない不届者もいたかもしれない)。これは日本にも伝わり、広く行われたらしい。   雅にせよ俗にせよ、古来より人々の集まりに美食と美酒は欠かせない。いや人だけではない。日本の八百万の神も、美食や美酒に集まる。新嘗祭などはいい例だ。新しい収穫を人と神とが分け合い、ともに祝う。宴は神と人、陰と陽、雅と俗――そういったものが交錯し、混じり合い、溶け合う場でもある。   さて、去る7月22日の晩、私は渥美財団ホールの中庭にいた。バーベキューパーティーに参加するためである。集まってきたのは様々なる国籍の友人達――「朋遠方より来たる有り、亦た楽しからずや」なんて言葉もあるけれど、本当に遠方の人が多い。きっと孔子も遠方から来た友人を饗応したに違いない。「酒に量の制限は設けず、乱れない程度に飲んだ」という記録まで残っているけど、遠くから来た友人と一緒に酌み交わす光景を見た弟子がこっそり書き残したのだろう。   蓼科の合宿ですっかり仲良くなったみんなと挨拶を交わしながら、内心「うわぁ、やってしまった」と思った。自分で作った料理やお菓子を持ってきた人もいるのに、手ぶらで来てしまったからだ。「お国自慢料理」を募集していたのをすっかり忘れていたのだ。これは残念至極だった。   みんなの作ってきてくれた料理はどれもおいしかった。韓国の南さんのサラダはそれこそバーベキューの焼き肉にぴったりだったし、アメリカのリンジーさんのラタトゥイユはフランスパンとよくあった。ビカスさんのカレーを食べていると、ネパールを旅したくなった。料理を通じて人と通じ合うこと――そのことは、私に新鮮な驚きを与えてくれた。   私はとにかく好き嫌いが多い。まず肉が苦手、野菜も大人になるまであまり食べられず、子供の頃は海鮮や果物ばかり食べていた。   転機となったのは円覚寺で坐禅を経験した時のことだ。煩悩まみれで訪れた、寒風吹きすさぶ古刹で、ひたすら朝から晩まで坐り続け、心身共に疲れ果てた時、私の頭の中では好きな食べ物が回転寿司のように回り続けた。山を下りてただちに中華料理屋に駆け込んだことは言うまでもない。中国では古来より「民は食をもって天となす」という言葉が伝わっているけれども、私も血は争えなかったらしい。それ以来、食に興味を持った。とはいっても、相変わらず牛肉は食べられないし、口はやっぱり保守的だ。   しかし、遠い国から来た友人たちの心のこもった手料理を食べながら、世界の何処に行っても、きっと大丈夫だという希望が湧いてくる。そうだ、食は天下の人が共に楽しむものなのだ。友がいれば、世界のどこにでも食があるだろうし、食があれば世界のどこの人であれ、友を見つけられるに違いない。   さあ、主役のバーベキューだ。トウモロコシが美味しい。焼きたての貝を取ったら、となりの人は親切に美味しい食べ方を教えてくれた。火の上に並ぶ、多種多様な具材がみんなを結びつけてくれる。美食と美酒、居心地がよい空間――古来より人々を結びつけた宴は、いまでも私たちを結びつけてくれる。そして、未来においても、私たちや人々を結びつけてくれるに違いない。そんなことを思ったバーベキューパーティーであった。   「正月にはきっと、餃子を作ろう」 ―― そう誓いながら帰途に就いた。帰省したときに餃子の皮の作り方を習おう。そして皆に食べてもらいながら、また語り合いたい。   <蒋建偉(ショウ・ケンイ)Jiang_Jianwei> 2016年度渥美奨学生。2013年4月に早稲田大学文学研究科東洋哲学コースに入学、現在は博士論文を執筆中。専門は日本近世思想史、特に水戸学を研究の中心としている。     2016年9月8日配信  
  • 2016.08.25

    エッセイ503:グロリア・ユー・ヤン「ノマドの二都物語」

    (『私の日本留学』シリーズ#4)   ◆グロリア・ユー・ヤン「ノマドの二都物語」   「どこから来たどのような人が日曜日朝5時にJRに乗るか。そして何をしにどこに行くのだろう」。 私は本を読むふりをしながら新宿行きの電車を観察していた。手元の本は、井上章一の新書「京都ぎらい」。   これは実に妙な本だ。今まで読んできた京都関連の本は、主に季節、源氏物語、伝統、「和のこころ」をテーマにして、 抹茶、祇園、寺、町屋という「古都コンビニセット」を売り尽くすほかに、「番茶はいかが」や「一見さんお断り」など「イケズ」のネタを「京特産」に作り上げている。そして、「イケズ」について、ほとんどは「分析」や「批判」と名乗り、実際にはただ礼賛し、また神秘化させるだけだ。その流れの中に、淡々と自分の痛みを取り上げ、鋭く「イケズ」と思われる社会の構造と本質を真剣に深く追求するこの作は、実に異色である。そして、堂々と京都への憧れと大衆メディアの売り上げとの利害関係を明らかにするという勇気も素晴らしい。   「へえ・・・」ある京都人は、微笑みながらさりげなく質問を投げた。「(井上さん)嵯峨に生まれ、宇治に住んでいて、そして桂で働いているに?」嵐山(嵯峨)や桂離宮(桂)など京都の名勝として聞き慣れている人にとって、この質問の意図はさっぱりわからないかもしれないが、京都に住んだことある人は、これはすでに討伐の旗を揚げたことだという。井上さんは本の冒頭に嵯峨の昔話を始め、「洛中洛外」の意味、「洛中」の優越意識と「洛外」への差別などわかりやすく詳しく述べている。ここでは省略するが、一言でいうと、「京都人じゃないくせに、京のことなんか話にならん」ということだ。   去年まで京都で2年間暮らしていた。その前に日本に何度か来て、横浜にも住んだことがあったから、日本に慣れていると自信を持っていた。が、京都では、かなりショックを受けた。食べ物、言葉遣い、風俗習慣、人間関係、すべてが違う。ここは日本じゃない。ここは新しい世界だ。いや、むしろ本に載ってない昔のままかもしれない。京町屋のおとなしい出格子から、細く暗く奥深い裏にイケズのビッグボスが待っている恐怖がうすうす透けて光っている。   おもてなしとイケズのズレは、京都の特産ではない。商品として造られた見せ場としての観光空間が地元の社会関係の現場である生活空間と一致しないことは、世界中で繁栄している観光地の共通点である。表と裏の二重構造も、あらゆる事物の中に存在する。例えば、中世に、日本寺院建築は細長の部材でも大きな屋根を支えられるようになった。その秘密は、屋根の裏に桔木を入れ、それで屋根の重量を分散する野小屋という構造だ。目に見えないが、屋根の尾垂木の裏側に釘痕があることから、裏に桔木が繋がっていることがわかる。同じように、いかに錯綜しても表と裏は必ずどこかでつながっている。表から裏への通り庭を見通すのは、研究者の訓練と楽しみだ。   自分の研究と同じ熱情で、先行研究の通読(イケズ文学と京大怠け者たち)、事例の聞き取り(噂の紅白歌合戦)、そしてイケズの路上観察など様々な試みを行ない、京都の社会と文化の暗号を解読しようと日々努力した。結論から言うと、私は京都を知り尽くしたのではなく、歴史学者を目指している私は、京都からいくつか重要なインスピレーションをもらった。一つだけ例をあげる。京都の街(観光地区以外)に個人の八百屋や定食屋はコンビニやチェーン店に完勝するぐらい点在している。お店の営業は儲けるよりただ永遠に続くことを目標としている。通っている常連客は店主と会話を弾ませながら料理やコーヒーを味わい、一緒に「時間」を過ごすのを目的としている。このようにして何十年間かが経ち、付き合いが成り立つ。世の流行に抵抗してでも個人のこだわりとお付き合いを優先する町だ。現在の自分を常に歴史の流れに置いていくという歴史学の感覚は、京都において日常生活のセンスだ。   だんだん見えてきて日々も楽しくなった。歴史的な考え方、素朴な生き方、地味なファッション、安くて美味しい食べ物。鴨川。下鴨神社の納涼祭。賀茂神社。雨の貴船。山紫水明。朝茶のお稽古。霧が大文字山に降りてきた出町柳橋の朝。やっと「住めば都」と感じてきて、「古都風月」の連載が取れるぐらいネタを持った時、「東下り」することになった。   井上さんの嵯峨話が示すように、京都人は土地に対して強い粘着力・執着心を持っている。高い建物がないからか、それとも何百年の家族が多いからかは明白でないが、京都には目に見えない地霊があると思えるぐらい人々がその生まれた土地に縛られている。そのおかげで地元の町内会は元気満々だが、地元以外のところを排斥する傾向も強い。京都対東京、そして洛中対洛外だけではなく、洛中の中にも西陣が中京と対戦している。強い郷土意識の中で育ってきた人は、地元の味が口に合うし、付き合いも優しいし、最も暮らしやすいと感じ、それを世々代々守り続ける。その故、土地柄は人を判断する「型」になる。逆に土地の「型」に嵌られない「よそさん」は、浮草のように受け入れられない。京都で最初に聞かれた質問は、「どこにお住まいですか」。二番目は、「どちらから来ましたか」。これは単なる雑談ではなく、この人の「型」を探り出す投げ石だ。   だから京都を去ることにした。私の郷土意識は極めて薄いからだ。小さい頃から中国の南北を転々として暮らし、大学で上京し卒業してからアメリカに留学、そこで日本語を習い、また日本にきた。海外留学の十年間、ちょうど中国の社会文化や国際環境が激変した。その結果、時代のエスカレーターに乗れなかった私は、「ふるさと」に戻っても、懐かしいよりむしろ未来の既視感がある。「昭和感覚」の持ち主と思われ「よそさん」扱いされるのも当然だ。   十年間無意識のうちに、中国人というアイデンティティの年輪には、様々な言語、料理のレシピ、風景や異文化の断片が刻まれてきた。そして、過去・現在・未来、生涯にわたって「On_the_Road」になるかもしれない。どこでも「よそさん」でありながら「地元人」でもある。一見すると自由の光を浴びているが、裏に孤独の影も濃い。様々な社会や文化の間に転々とする私が、京都に来てから初めてわかったのは、自分は「ノマド」であることだ。どこでも郷土ではないが、どこでも生き生きできる「ノマド」だ。京都のあらゆる風景と食べ物は懐かしいと思うが、東京に来たことは正解だ。いかに京都を愛しても、「型」で認識が固まっている土地で生きられないからだ。   井上さんは、京都の裏構造を社会学的なアプローチで理解しようとしている。ただの経験談や裏話ではなく、国家の教育系統や地域風土の相違など社会と歴史的な原因を探り、古都の「型」を明らかにする。「京都人じゃない」からこそ、より一層京都のことが見えるというスタンスは素晴らしい。どの社会においても、土地、職業、性別、民族などによって様々な「型」が存在する。社会に対する認識は、「型」の奥深さを追求する縦軸があれば、観察と分析によって「型」と「型」の関連性を引き出す横軸もある。さらに、「型破れ」と「型」以外の存在を理解し受け入れることによって多様性のある社会が成り立つ。多文化を越境する「ノマド」の存在は、このような共生を前提にしている。グローバル化時代にノマドが増え続け、いつか「ノマドの型」も定着するだろう。   日曜日の朝5時にJR電車には、仕事終わりのすっぴんキャバ嬢、目覚めてない部活の高校生、終電を逃した飲み友、カラフルな登山者、わけがわからない人などが乗っている。その人たちを見る度に感動する。どのような人もありのままで電車に乗ってお互いに気にしないことは、実に幸せだ。東京の漠然は自由と寛容を与える。美しくなくてもよい。謎だから楽しい。ここで関西弁や「古都なまり」を持ちながらまた伸び伸び成長できるように頑張ってみたい。それができると思わせるきっかけは、渥美財団とのお付き合いだ。様々なイベンドと活動で、多文化の共生する可能性を示し、ノマド同士の国際コミュニティを作り上げ、そして、広い世界に導いてくださる渥美財団に深く感謝を申し上げる。お陰様で、東京が、心のふるさとのように感じてきた。色々大変お世話になり、ホンマにありがとう!   <グロリア・ユー・ヤン(Gloria_Yu_Yang)楊昱> 2015年度渥美奨学生。2006年北京大学卒業。2008年からコロンビア大学大学院美術史博士課程に在籍。近現代日本建築史を専攻。2013年から2015年まで京都工芸繊維大学工芸資料館で客員研究員、2015年から東京大学大学院建築学伊藤研究室に特別研究生として、植民地満洲の建築と都市空間について博士論文を執筆。2017年5月卒業予定。     2016年8月25日配信
  • 2016.08.18

    エッセイ502:文景楠「修了に際して」

    (『私の日本留学』シリーズ#3)   長らく籍をおいていた大学院を、この3月にいよいよ修了することになった。   季節は例年の春爛漫を段々と取り戻しているが、三十路をとっくに過ぎての門出を迎えて目の前をちらつくのは、「どきどき」や「わくわく」ではなく、「遅きに失する」とか「つぶしはもう利かない」といった明るい窓の外の景色とはいささか対照的な言葉だ。   大学を卒業してから博士号を取得するまで十年もの歳月を費やした。このこと自体は、途中従軍による2年間のブランクがあったり、アメリカで研究滞在をする機会があったりしたことを考えれば、さほど遅いほうではない。また、ありがたいことに大学に入学してから大学院を終えるまで複数の奨学財団のお世話になることができたので、同年代の幾人かの友人と比べてはるかに恵まれた学園生活を送ることもできた。修了に際しては期限付きながら常勤の職を得ることもでき、外国人として生活する多くの人々にとって最も大きな在留資格の問題もとりあえずは先送りできたことになる。なによりも、大体において面倒くさがり屋の自分が、真剣に取り組んでみたいと初めて思った「研究」から近いところに、なんとかまだしがみついているのである。   それでも肌寒い気持ちを拭い切れないのは、これから自分を待ち受けている日々が厳しいものであることにうすうす気づいているからだろう。国際競争と少子化の板挟みが、これから大学産業に飛び込もうとする新米研究者にとって所与の現実だからだ。自らの研究領域において高い水準を維持するだけで――それ「だけ」でも大変すぎるぐらいだが――己の存在価値が保証される人は、もうほんの一握りしかいない。   こういったいわゆる「業界の現状」に関しては、解決策を提示したりそれを吟味熟慮したりと、すでに様々な言説が飛び交っている。それらの多くは実際に傾聴に値するものであるし、目に入ってきたときには時間を割いて自ら読むようにもしている。にもかかわらず、ではこういった主題に対して何か自分なりの見方のようなものができてきたかといわれると、残念なぐらいその気配はない。今まで拾い集めてきた様々な意見を(学者らしく)綺麗に分類し整理することならできるかというと、その自信もない。かといって、問題を楽観視しているわけでは決してない。現代という時代や、その最中にいる大学が歴史的に稀に見る悲劇に見舞われているとは思わないが、他の時代と同じぐらい深刻な問題を抱えているという点は、さすがに認めざるを得ないだろう。だとしたら、これはちょっとした自己欺瞞ということになるのだろうか。   こうした状態から脱し、なんとか前に進もうとする自分の足を毎回からめとってしまうのは、現段階で問題を整理してしまいたいとする焦燥にどうしても抗いたくなるぼんやりとした気持ちだ。問題をさばこうとせず、そわそわしながらその前に立ちすくむというのは、場合によっては(はっきりした理由もなく単に)不安を不安がるのと同じぐらい不毛に映る。それを知りながらも一歩を踏み出せずにいるのは、自分が無理をして吐き出してはすぐにもみ消してしまう言葉が、いまひとつ自分の「実感」といえるものを捉えていないということに気づいているからなのだと思う。   こういった語り得ないものにこだわるのは、はっきりいって生産的ではない。それでも、博士論文を書くという、実感をすくい取るといったことから最も遠く離れた理詰めの作業を終えて社会に出て行くことになった今、自分はテキストの外にあるもの、記号で埋めつくされた議論に入ってこられないものに敢えてこだわりたいと望んでいる。綺麗な筋道を提示したり、論敵を打ち負かしたりするための議論は、当然それ自体として価値あるものだし、今後自分が書いていく文章の多くはそのようなものになっていくだろう。しかし、形式的な議論に終始してしまう性分だからこそ、そして、それがある意味で強く奨励される環境にいるからこそ、「問題と解決」といった図式の周りをうごめいている何かの存在を絶えず視野に収めることの重要性をここで自分に喚起しておきたい。   いうまでもなく、ここで記したことは大学やアジアの未来といったことに関して何らかの示唆を与えるものではない。そもそも、目新しい主張など何も含まれてはいない。しかし、ありふれた言葉を他でもないこの瞬間にこの場所でとある人物が発することに特別の意味があるのなら、この舌足らずのつぶやきは、これから自分が住まう社会ときちんと関わっていくという約束を己に課すことにはなると思う。それが実際有意味なものであったことを示すのは、まさにこれからの仕事となるだろうが。(2016年3月記)   <文景楠(ムン・キョンナミ)MOON Kyungnam> 2015年度渥美奨学生。2016年3月に東京大学で博士号を取得し、現在は同大学助教。専門は古代ギリシア哲学。     2016年8月18日配信
  • 2016.08.11

    エッセイ501:謝志海「選択の重み」

    実を言うと、私はつい最近まで物事を選択するという事について深く考えることは無かった。何か選択しなければならない時、単純にベストと思える物を選んできた。何も考えずにその時の気分で選んだことも多々ある。しかしながら、今の私があるのは、そうした選択の結果であろう。そう思うと、選択することの重みをひしひしと感じる。   なぜこうも「選択」という事について考えさせられたのか?答えは簡単、先日の英国の国民投票によるEU離脱の是非を問う政治イベントだ。離脱51.9%残留48.1%の僅差で、離脱派が勝利を収めた。この国民投票については前々から知ってはいたが、実際の投票日が来るのは思いの外、早かった。投票日の前日になっても、正直なところ「イギリスは本当にこの大事な事項を国民投票で決めるのか」と実感がわかなかった。まあ私に投票権があるわけでもない。結局のところは「残留」なのだろうなとも思っていた。ところが、蓋を開けて見れば「離脱」だった。   以来、イギリスとEUだけでなく世界がざわついている。この結果に一番動揺しているのは投票した張本人たち、イギリス国民に違いない。離脱に投票した人からも、国民投票をやり直したいという意見までも多数あったそうだ。離脱か残留か、黒か白かのシンプルな問い。投票前の離脱を掲げる街のムードに押され離脱に投票してしまい、後悔している人も多かったとか。重大なことに対してこそ往々にして冷静さを失う。なんだか私も経験がありそうだ。   ではどうすれば選択上手になれるのか?コロンビア大学ビジネススクールのシーナ・アイエンガー教授が教える「選択の科学」に答えがあるかもしれない。日本でもNHKで「コロンビア白熱教室」と題し、教授の講義が放送されたので、記憶に新しい方もいらっしゃるだろう。この講義では直接的に「賢い選択をするには」ということは問題提起されてはいないが、こういった、「選択すること」について集中して考えることこそが、冷静に選択し、選んだものに後悔しないことにつながると思う。本来は選択できるということはいいことなのだ。選択の余地なく物事に従うよりずっといい。   しかし、選択肢の多い民主主義社会ではこの有り難みが薄れてきているのだろうか、などと今回の英国国民投票を見ていると感じてしまう。アイエンガー教授は講義の中で「選択日記」をつけることを薦めていた。確かに、今日私は◯◯個の中からAを選んだなどと小さなことまで記載してみれば、自分を客観的に見ることができるかもしれない。もしイギリス国民が、投票日よりも前からこの選択日記をつけていたら、結果は変わっていたかもしれないなどと想像してしまう。   日本では、先日参議院選挙があり、初めて18歳に選挙権が与えられた。18-19歳の投票率は45.45%で全体の投票率の54.70%よりも下回る結果となった。投票という初めての経験をした45.45%に該当する人たちの選択を支持したい。わざわざ投票所まで足を運んだのだから。そしてこの数字が今後も伸び続けることに期待する。   さて、今年はもう一つ、有権者でない人までもが注目する選挙が残っている。アメリカ大統領選だ。大統領となる人によって世界の歴史が変わりかねないことなので、関心の高さもひとしおだ。もっとも、投票する権利を持っているアメリカ国民は、自分が選ぶ1票で世界の歴史が変わってしまうと考えるよりは、自分の国、暮らしにふさわしいと思う人に投票するのだろうが。しかし、大統領を国民投票で選ぶといった4年に一度の政治イベントに悔いのない1票を投じるためには、やはり日々の選択を意識することだろう。   私には選挙に投票に行くという機会が無いが、今回のエッセイは「選択」することについて、「選挙の投票」を例に挙げて書いてみた。選挙権のある人たちは投票したら終わりではなく、投票後も引き続き日々の自分が選んだ事を意識して暮らして欲しい。私も実は、世界を揺るがした英国国民投票の結果を機に、何かを選ぶときに、選ぶ事をより一層意識するようになった。選んだ後も、それが正しかったのか振り返る事にしている。そして、後悔なく少しでも精進できる日々を送れるように心がけている。   <謝志海(しゃ・しかい)Xie Zhihai> 共愛学園前橋国際大学専任講師。北京大学と早稲田大学のダブル・ディグリープログラムで2007年10月来日。2010年9月に早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士後期課程単位取得退学、2011年7月に北京大学の博士号(国際関係論)取得。日本国際交流基金研究フェロー、アジア開発銀行研究所リサーチ・アソシエイトを経て、2013年4月より現職。ジャパンタイムズ、朝日新聞AJWフォーラムにも論説が掲載されている。     2016年8月11日配信
  • 2016.08.04

    エッセイ500:マックス・マキト「マニラ・レポート2016年夏:平和の宿る日比谷公園」

    最近、私にとって日比谷公園が特別な場所になりつつある。「日比谷」の由来は日比(日本・フィリピン)の両国に関係があるかどうか調べたくなったほどだ。残念ながら日比谷という地名は日本とフィリピンの2ヵ国とは関係ないことがわかった。でも、実際、日比谷公園は日比関係と深い縁がある。   日比谷公園には、日本と縁があった2人のフィリピンの偉人の石碑が置かれている。フィリピンの歴史では、2人とも平和に大きく貢献した人物である。   1人はフィリピンの国民的英雄ホセ・リザール(1861年ー1896年)である。スペイン統治時代末期に生きた才能溢れるエリートで、スペイン帝国の支配から母国を解放するために出版や弁論を通じて国民に呼びかけ、フィリピンの独立をめざした。暴力の道ではなく平和的な手段による解決を、独立運動の同志に訴えた。   リザールはフィリピン独立を働きかけるためにスペインへ旅立った。旅の途中で、横浜に立ち寄って、1888年2月28日から4月13日まで1ヶ月半滞在した。リザールは日本の風景の美しさや日本人の勤勉さや清潔感などに魅了された。そして、武士の娘と恋に落ちて、日本に住むことを真剣に考えたそうである。苦悩の末、母国での独立運動を選び、日本には二度と来ることはなかった。スペインから帰国後、スペイン当局の軍事裁判で反乱者として裁かれ、マニラ湾の沿岸で処刑された。そのあと、暴力的な反乱が起きて、反乱側が多大な犠牲者を出してフィリピン国として独立を果たしたと思ったら、スペインと米国の2カ国間の交渉で、フィリピンは無念にもまた植民地になってしまった。今度は米国の植民地になったのである。   最近、日比谷公園にもう1人のフィリピンの偉人の石碑が建立された。元フィリピン大統領のエルピディオ・キリノ(1890~1956)である。太平洋戦争末期、マニラ市は熾烈な戦場と化して、東南アジアのベルリン市又はスターリングラード市とも例えられるほどの甚大な被害を被った。その狂気の戦闘の中で、キリノ上院議員は、夫人と子供3人が日本兵により殺害されるという深い傷い、日本を決して許さないと心に誓った。戦後、大統領になった時、マニラ市で収監された100人以上の日本人戦犯の運命が彼の手に任されることになった。当時はまだ、フィリピン人の傷が深く残り反日感情が強く、次の大統領選挙に再選を期する時期でもあったのだが、キリノ大統領は意外な決断を下した。日本人戦犯の釈放である。この決定のため、キリノは次の大統領選で敗れたが、憎しみの連鎖からフィリピン国民が立ち直るように訴えた。   リザールの石碑は「日本人有志などの尽力により、1961年6月19日に設置されたもの」である。日本国外務省によると、キリノの「顕彰碑は,1953年7月にキリノ大統領(当時)に感謝する「国民感謝大会」が開催された日比谷公会堂の近くに,在京フィリピン大使館が建立」したものである。   リザールとキリノの平和の訴えはフィリピンが外国の圧倒的な力により植民地化されている中から生まれたのである。平和的な道は弱いものだけが選ぶのであろうか。暴力で事態を抑えようとする、寛大さに欠ける強者がいるかぎり、紛争は永遠に続くだろう。   残念ながら、今、東アジアでは、領土を巡る争いの風が再び吹き始めている。憎い敵を許すキリノと非暴力的な道を選んだリザール、平和を導く彼らの訴えは、今も価値を失うことはない。日比谷公園から吹いてくる風がささやいている。そのささやきが聞こえる人がいるだろうか。1人でもいれば、話し合いたい。そのささやきを叫びにするために。   <マックス・マキト ☆ Max Maquito> SGRA日比共有型成長セミナー担当研究員。SGRAフィリピン代表。フィリピン大学機械工学部学士、Center for Research and Communication (CRC:現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、アジア太平洋大学にあるCRCの研究顧問。テンプル大学ジャパン講師。  
  • 2016.07.28

    エッセイ499:エマヌエーレ・ダヴィデ・ジッリォ「他者との出会いの神秘性、他者そのものの神聖性」

      偶然性の様々な力に振り回され、 「不可知なるもの」にやむを得ず 身を委ねばならなくなったその瞬間、 「異文明」という他者への旅は突然 己の中に秘したる「絶対的な他者」への旅に 繋がってゆく。 死の危険と新生の希望のはざまで。。。   筆者の雑感より (フランシスコ・ザビエル筆『日が昇る地より―東洋からの手紙』読書日記、Torino_2007年9月)   この10年は、イタリアとキリスト教文化から、自分の人類論的なあり様を乗り越えようとして、日本と仏教学という「他者」への旅に明け暮れた。その中、逆に自分の「西洋性」と「キリスト教性」と強くぶつかったこともあった。また、本来の自分とは根源的に異なった様々な「人類」の友に出会うこともできた。お陰で辿り着いた考察の一つはタイトルの通り、「他者との出会いの神秘性」と「他者そのものの神聖性」である。その体験は、自分の中で具体的にどのような形をとってきているのか、これから手短に説明したい。   「人類」はたった一つだというわけではない。様々な「人類」があり、そしてそれらが皆、その人類論的なあり様および心理構造(ラ:forma_mentis)が異なっている。   まず「理性」という要素に焦点を当てたい。   「理性」とは、「普遍的な妥当性」を持とうとして、原始的な混同と不安から抜け出すための、様々な「決まり」によって建てられた「心理的な設備」「防衛装置」のような仕組みである。   「理性」はその伝統的な定義の通り、なるべく多くの人々が分かち合えるように、「無矛盾律」と「同一原理」(AはAでないものではない)によってものごとの「意味」(使用法)を厳格に限定しコントロールしようとする仕組みである。「理性」が混同と不安の次元から抜け出すための、様々な「決まり」によって建てられた「心理的な設備」のような仕組みであるならば、たった一つの「人類」や文明の専有物ではなく、世界には特定の文明―例えば西洋文明―によって規定されたたった一つの「理性」しか存在しないわけでもあるまい。どの「人類」や文明にもそれぞれの「理性」の設備が存在している。要するに、「理性」は「普遍的」というよりも、「多様的」である。   となれば、「理性」という背景をどの「人類」や文明にも広げたことで、大変開放的な世界観が開かれたとも言えるが、同時に「恐るべき」背景も開かれていく。   特定の文明の中でしか通用しないはずの、己の文化環境から受け継いだ数々の「決まり」のような「心理的な設備」としての「理性」は、「異文明」や「異文化」すなわち広義でいう「他者」を相手にすると、完全に機能しなくなったりもする。「異文明」や「異文化」という「他者」の前では、自分のどの「カテゴリー」や「解釈」の試みや「理解」も皆当てはまらず、自分が「人」という存在と「コミュニケーション」という手段について知っていたことのすべてが、必然的に滑落してしまう。それによって「異文明」と「異文化」という「他者」は大変「非理性的」で「自己同一性」にも欠けた「矛盾」だらけの存在に見えてくるし、その出会いは自分の持っていた「あらゆる基準の喪失」をも意味するであろう。その上、「前理性的な次元」(「理性」という心の部分より深い部分)の混沌と不安へと再び繋がり得るとも言える。   「前理性的な次元」とは、心理学では我々人間の最も奥深いところに潜んでいる「狂気」や、我々の心の最も奥深いところを住まいとしている「自己でない他者」、古代ギリシアでは「善」「悪」「正義」「不正義」などをすべて混同した形で含む「神々の世界」、唯一神教(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教など)では「善」と「悪」などを超越する「神様の世界」、仏教ではあらゆる「分別」が絶せられていく「仏の世界」、文化人類学と宗教史では「人間世界」(「理性」)から離れていたはずの「神聖性の次元」などと、様々な名前で呼ばれる。   それは、同じコミュニティーに共通している「理性」という装置を超越しているにもかかわらず、人々を活かし、そしてその個別性をも生み出し続けている命の最も根源的な活動とも呼ぶこともできるだろう。   では、己の「理性」を構成するあらゆる要素と基準を大きく揺れさせることで、「異文明」と「異文化」という「他者」との出会いは、我々を「原始的」で「前理性的」な混沌と不安の次元という原点へと再び立ち帰らせ、我々の心の最も奥深いところに潜んでいる「神聖性の次元」(狂気)というものにも繋げていく。それによって、「他者」との出会いは常に、「人」と解していたあり様の完全なる破壊や「死」を意味するが、同時に「再生」の面に逆転することもできるのではないかと思う。   表面的なレベルでは、自分が「異文明」と「異文化」という「他者」に対して抱いている数々の疑問・不理解・勘違いなどをすべて、相手の「罪」として捉えてしまい、破壊と「死」の段階に留まるが、深いレベルでは、「再生」のプロセスにも繋がるであろう。   しかし、この「再生」は具体的に何によって起動されるのであろうか。「他者」に対する、自分のどの「カテゴリー」と「解釈」と「理解」とが必然的に滑落し失敗する運命にあるならば、「他者」に対するどの把握=コントロールの試みを諦める必要があると、謙虚に自覚しなければならない。この意味で、「再生」のプロセスは、己のすべてが失敗し滑落し脱構築されてしまったところで初めて始まり得るものである。   これが、私の言う「他者との出会いの神秘性」であり、「他者そのものの神聖性」である。   この考察が、我々人間がこれまで経験し、 そしてこれからも経験していくであろう 「異文明」と「異文化」との出会い・ぶつかり合いに際して、 お役に立てればと思いつつ。   <エマヌエーレ・ダヴィデ・ジッリォ Giglio,_Emanuele_Davide> 渥美国際交流財団2015年度奨学生。トリノ大学外国語学部・東洋言語学科を経て、2008年4月から東京大学大学院インド哲学仏教学研究室に在籍。2012年3月に修士号を取得。現在は博士後期課程に在籍中。身延山大学・東洋文化研究所研究員。     2016年7月28日配信    
  • 2016.07.21

    エッセイ498:グリブ ディーナ「日本留学という選択肢」

    (『私の日本留学』シリーズ#2)     「へえ、本当?2年間も留学するつもりなの?いい歳して、何のため?」と、日本へ来る前に知り合いに聞かれたことを7年後の今でも覚えております。当時は、日本語を勉強しているから、日本への留学を望むことが当然だと考えており、質問の意図さえよく解りませんでした。正直なところ、留学を望まない人のことを視野が狭いと内心でせめていました。しかし、今は留学を望まない人の気持ちが解らなかった私の方こそが視野が狭かったのだと思っています。それに気がつくまでには、だいぶ時間がかかりましたが、気づかせてくれたのは小さな出来事でした。     修士のとき、日本の大学に在学中の留学生が受けている英語クラスを履修しました。そのクラスで「日本語の勉強をすべきかすべきでないか」というテーマで議論したことがあります。議論のテーマを聞いたとき、「それは全員の意見が一致し、議論にならないでしょ。だって、全員が日本の大学で勉強しているから日本語を習いたいに決まっている。」と思いました。しかし、私の予想は外れ、日本語の勉強が必要だと考える留学生が少数派になりました。日本語を勉強しなくても日本での生活・勉強ができるため、語学の勉強をする時間が惜しいという意見が多数派で、私には刺激的でした。言われてみれば、留学するからにはその国の言語の学習が必須、ということでもないでしょう。さらに外国語を勉強しなくても、留学しなくても幸せに暮らす人が大勢いて、その方がむしろ一般的で、まともな生き方なのかもしれません。     そこで、日本語の勉強に全力を当てた自分の選んだ道、それまで当然の選択肢だった日本留学も疑問に思えてきました。留学生の友達は皆将来に対する不安があるそうで、どことなく躊躇しているようにみえます。2年間の留学のつもりで来日してから、既に7年も経ったのに留学がまだ終わらない今になっても、その疑問が残っています。こんなにも長く留学する意味を人にどう教えればいいか、どうすれば理解・納得していただけるのでしょうか。     留学の利点としてよく挙げられるのは、語学力向上、異文化体験、新しい友達などです。それは全て尤もだと思います。留学経験によって独立性が高まり、異文化との接触によって視野や許容範囲が広がるのも本当のことだと思います。しかし、それらの利点は短期の留学経験によってもクリアでき、長期留学の決定要因になるのでしょうか。     もともと、日本史の研究を深めることと日本語力を磨くことが留学の目的でした。しかし、胸に手を当てると、非日常的な経験を求めていたところもあります。留学前のロシアでの生活も仕事も楽しかったけれど、少しマンネリを感じていました。そこで、留学がきっと刺激になると思い、日常から逃げようと考えた訳です。その願望は、留学の初めの頃は達成できていました。確かに一年目は思いきって日本国内を旅行したり、お祭りや博物館の見学に行ったりしました。勉強の傍ら、旅行・お祭り・見学・交流会等で大変充実していました。富士山やお花見はもちろんのこと、一般参賀や靖国神社の奉納相撲の見学まで行きました。     しかし、少しずつ留学に対する意識が変わっていき、留学が遊びではなく、私の新しい「日常」になりました。見物や見学よりは自分の研究の方が大事になってきて、図書館に閉じこもる日が増えました。博士課程に進んでからは、見学に行く時間が惜しくて、旅行といっても殆ど学会か勉強合宿です。人から見れば、つまらない日々になってきたのかもしれませんが、私にとってはとても楽しくて、それはそれで充実していると感じております。     時々、留学せずにロシアで生活していたら、今どうなっていただろうかと考えることがあります。もっと落ち着いて、将来のことを心配せずに生きていたでしょうけど、どれだけ多くの出会いを見逃し、どれだけ貴重な経験や知識を得損ねたでしょうか。     結局、普遍的に留学をすべきかすべきでないか、外国語を勉強すべきかすべきでないかという質問にどう答えれば良いかはさっぱり解りません。おそらく、人にも場合にもよると思います。ただ、私の場合は、7年前に戻れたとしても、迷わずに再び日本留学を選びます。この選択を人に説明するために必要な説得力はありませんが、全ての不安や悩みをひっくるめて、日本留学が私にとって一番の選択肢だったと確信しております。     <グリブ ディーナ GRIB Dina> 2015年度渥美奨学生。ロシア出身。2007年ロシア、ウラジオストク市にある極東連邦大学を卒業。2012年明治大学大学院文学研究科にて修士号(史学)取得。現在首都大学東京大学院人文科学研究科の博士後期課程に在籍中。専門は日本語教育、研究分野は非漢字圏日本語学習者を対象とする日本漢文・漢文訓読の教育。     2016年7月21日    
  • 2016.07.14

    エッセイ497:朴源花「いくつかの問い」

    (『私の日本留学』シリーズ#1)   両親の事情により幼い頃から韓国と日本を行き来する機会があった。年数自体はあまり長くなかったのだが、当時両国の関係は領土問題や教科書問題をめぐって劣悪な状況にあったため、子どもなりに思うところがたくさんあった。   当時私は小学生だったのだが、いかに両国のマスメディアの情報が現実をゆがめているかをうすうすと感じていた。将来専門的な知識をもって、韓国と日本の友好関係に貢献したいという願いを漠然と抱くことになった。   それから十数年、大学院に進みアカデミズムの世界を少し体験する立場になってから痛感したのは、研究者であれ完璧な代案を提示することは到底できないということであった。時には研究者が現実をゆがめることに加担したり、事実としては正しいことを言っているのだけれども、その主張が不本意なかたちで利用されてしまったりする。   私の研究テーマである「マイノリティの社会統合」の問題においても、そのような危険性に気付かされることがたびたびある。   まずは研究内容以前の問題として、現場の状況に対する研究者の配慮が十分でなく、フィールドを研究の「手段」とみなしてしまうケースである。実際私がフィールドワークを行なっている際、今まで出会ってきた研究者たちがいかに「自己中心的であったか」を訴える現場の人々は少なくなかった。インタビューを行なった後、結局その回答がどう扱われたのか事後報告もないということは良く聞く話である。もちろん、ほとんどの研究者は「現場を知りたい」「問題を改善したい」という問題意識から現場に出ているに違いないのだが、時間の制約だったり、研究者自身の性格だったりが原因で、現場との意思疎通が必ずしもうまくいかないことがある。   次に、研究者としては全くそのようなつもりがないにも関わらず、自らの研究がかえって新たな問題を発生させるということがある。   マイノリティ研究において良くありがちな失敗は、研究者のマイノリティ集団に対するグルーピングがかえって彼らを周縁化してしまうケースである。例えば、あるマイノリティ集団に対して、彼らが「いかに長年の差別と困窮に喘ぎ、社会から排除されてきたか」を叙述したとする。彼らがいかにかわいそうで支援されるべき存在かという側面が強調されすぎると、そのマイノリティ集団がもつ主体性、能動性が看過され、「マジョリティ側が与えるべき存在」という従属的な構図が出来上がりやすい。   だからといって、マイノリティ集団の主体性にのみ焦点を当てるとどうなるか。「現実の困難はあまり彼らにとっても障害となり得ず、彼らは彼らなりの方法で幸せに暮らしている」と肯定的な側面に注目した場合、それは今までマイノリティ集団に行なわれてきた社会的抑圧や差別構造を赦免する結果を招きかねない。   つまり問われるはバランスであり、研究者自身の姿勢なのであろう。ここでの「バランス」とは、全ての事象を相対的に扱うという意味ではなく、結局自分がこの研究を通して、「誰」に「何」を伝えたいのかという「価値判断」と研究における「学術性」の均衡を指す。   研究におけるこれらの難しさに加え、日本という地域性の中で研究をどう位置づけていくかということも、私にとっての重要な問いである。 グローバル化が進み、多くの共通する社会問題を抱える韓国と日本はこれからより多くの場面で協力を必要としていくだろう。両国が諸問題を共に解決していく中で、より相互の「対話」の機会が開けていくことを信じている。   幼い頃に経験した日本、そして留学のため再び訪れた日本において、これからも日々の問いを大事にしていきたい。時間をかけてゆっくり向き合いながら私なりの応答を試みていければと思っている。   <朴源花(パク・ウォンファ)Park_ Wonhwa> 2015年度渥美奨学生。韓国出身。2010年早稲田大学卒業。2012年東京大学総合文化研究科にて修士号取得。現在同大学院博士課程に在籍中。関心テーマは韓国の「多文化主義」および日本の「多文化共生」をめぐる言説、マイノリティに対する排外主義、メディアなど。     2016年7月14日配信
  • 2016.07.07

    エッセイ496:謝志海「観光立国なるか、日本」

    私が初めて日本に来た2006年と比べ、変わったなあと思うことは訪日観光客の増加である。特に中国人旅行者はどこにでもいる。銀座に行けば母国に帰ったような錯覚を起こすほどだ。また、中国語に混ざって聞こえてくる言語も、英語に限らず実に様々である。「アベノミクス」政策の一つ「明日の日本を支える観光ビジョン」として日本政府はさらに訪日客を増やすそうで、2020年には2倍、 2030年には3倍を目指しているとのこと。2020年のオリンピック終了後の2030年までも、観光客を増やし続けるというビジョンは素晴らしい。この先日本がどう変わっていくのか楽しみにしている。   しかし、気になる事がある。海外からの観光客は増えたが、彼らは依然として同じ所にばかり訪れる。秋葉原、浅草、築地。そしてこれら3箇所のどれか、もしくは全部行った後に立ち寄るのが銀座、新宿、渋谷といったところだろうか。もちろんこれはいささか言い過ぎで、東京に全く立ち寄らず日本の旅行を完結させる人もいるし、日本中至るところにある温泉地には外国人旅行者が必ずと言っていい程いる。私が言いたいのは、日本はもっともっと魅力的で訪れるべき場所が多いし、公共交通手段を使えば、どこへでも行けるということ。気候も偏っていないし、観光地そのものをもっと増やせる気がする。   2020年はもう目前、今の2倍の、来日客4千万人を達成するまでに残された時間は短い。訪日ビザの緩和や免税品の買い求めやすさなど、すでに色々改革されてはいるが、何かが足りない。それは日本に観光客を引きつける力、ブランディングではないだろうか。   「日本」ブランディングに関しては、政府も民間企業もまだまだ頑張る余地がある。とっても厳しい言い方をすると、今の日本は「おもてなし」という言葉に酔いしれていて、外国人が日本に訪れる際に求めている本質に近づけていない気がする。最近は、地方創生とも相まって、都心から遠い観光地にも外国人を呼び込むべく、現地スタッフなどが、その地の文化・歴史を説明できるようにしようといった試みが行われていると聞く。外国語の表示をもっと多言語にすべきと議論もされている。どれも素晴らしい事だが、今時の旅行客は、スマートフォン持参で来る。自分で調べられる時代だ。ガイドブック片手に観光している外国人はあまり見かけなくなった。日本がおもてなし活動に奔走する間に、世界は目まぐるしく変化し、新しい建物、施設が開発され、観光スポットが増えている。   観光地開発の観点で言えば、東京は遅れをとっている気がしている。例えば、2015年の「世界の都市総合力ランキング」で4位の東京に対し、2位の座を勝ち取ったニューヨーク。マンハッタンやその周辺には高層ビルがひしめき合い、一見もうこれ以上改善の余地は見られないかのようだが、ホイットニー美術館が移転し、その周辺が新たな人の集まるエリアに生まれ変わった。有名建築家がデザインする、個性的なアパートも続々と建設されている。そう、ホテルではなく住居用の建物なのだ。だが、格好良い建物がマンハッタンの景色をアップデートさせているのは間違いないし、独創的なデザインをする建築家の建物は話題性を呼ぶ。そういった常にチャレンジする所に人は集まる。ニューヨークの魅力はそこにあると思うのである。ニューヨークが変われるのなら、東京も変われるし、さらには日本中にも、まだまだ観光地を増やせると思う。   では、何故私が、日本は観光地そのものを増やせると思うのか。それは四季があり、島国だから。気づいてないと思うが、日本は恵まれている。ヨーロッパ、北京、ソウル、ニューヨークの冬は日本の諸都市より寒い。夏でも東南アジア程は暑くない。日本の太平洋側は真冬でも観光が可能で、夏はリゾート地になれる。言わば、太平洋沿岸にヤシの木を植えれば、日本は日本人の大好きなハワイにだってなれる。日本の海岸を安全に整えれば、リゾート地ができあがる。   リゾート地といえば、シンガポールが好い例ではないだろうか。オープン当初に大いに話題となった「マリーナ・ベイ・サンズ ホテル」。高層のホテルの屋上がプールのあるラクジュアリーリゾートとなっている。このような大胆な発想の建物、リゾート施設は日本にはまだない。また、このホテルのアピールポイントは、説明がいらない居心地の良さということ。観光ガイドに説明させる必要もない。マリーナ・ベイ・サンズ に泊まれば、ホテルに隣接したカジノ、ショッピングモールや美術館を見て回り、そして屋上の宿泊者専用のインフィニティプールで泳ぐ。シンガポールで快適な時間を過ごせるというブランディングにまでつながる。   パリもまたブランディングに成功した説明のいらない観光地と言えるだろう。街並みはプライドの高いパリ市民のように、いつの時代も景観が整っている。一方で、パリ市民は観光客に優しくないなど言われているし、下を見れば石畳。地下鉄に乗るにもエスカレーターなどのインフラが整備されている訳でもない。しかしフランスは外国人観光客数1位に君臨している。多少不便でも、人々は何故かパリに惹きつけられてしまう。   日本が今より魅力的な国になれないはずがない。交通・アクセスや宿泊施設の少なさなどの課題は多いが、これらの問題解決と並行して、地方の観光地のイメージアップやブランディングに力を注ぐべきだ。きっと今日も世界のどこかで新しいコンセプトの建設計画や地域開発計画について話し合われているだろう。日本も待ったなしだ。   <謝志海(しゃ・しかい)Xie Zhihai> 共愛学園前橋国際大学専任講師。北京大学と早稲田大学のダブル・ディグリープログラムで2007年10月来日。2010年9月に早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士後期課程単位取得退学、2011年7月に北京大学の博士号(国際関係論)取得。日本国際交流基金研究フェロー、アジア開発銀行研究所リサーチ・アソシエイトを経て、2013年4月より現職。ジャパンタイムズ、朝日新聞AJWフォーラムにも論説が掲載されている。     2016年7月7日配信
  • 2016.06.30

    エッセイ495:李龢書「台湾の日本に対する歴史認識」

      歴史認識とは、簡単にいえば人間が歴史をどう理解し、現状と将来をどう捉えるかということである。一方、歴史は人間によって作られたものであるために、歴史認識も常に変化している。台湾のような住民構成が極めて複雑な地域では、それぞれの民族や世代によって日本に対する歴史認識も異なる。本稿のタイトルには「台湾」と書いてあるが、内容はあくまで筆者の家族及び筆者自身の見聞を中心に語るものに過ぎない。   まず、台湾近代の歴史を簡潔に紹介しておきたい。17世紀から19世紀までの二百年間、中国の東南沿海部の福建と広東両省の漢民族が大量に台湾に移住してきた。しかしそれ以前より、台湾には様々な民族が既に居住しており、現在これらの住民は「先住民」または「原住民」と呼ばれる。そして、日清戦争で日本に負けた清国は1895年に下関で日本と日清講和条約を締結し、台湾などの領土を日本に割譲した。それから第二次世界大戦が終わった1945年までの五十年間、台湾は当時の大日本帝国の初めての植民地として、日本帝国政府の統治を受けていた。   戦後、1945年から4年間にわたって、中国大陸では国民党と共産党による全面的な内戦が起こった。この間、1947年2月28日、のちの台湾史に多大な影響を与えることになる歴史的事件、いわゆる2・28事件が起こった。この事件に巻き込まれた犠牲者の数は二万人近くに上り、その中には数多くの台湾エリートや学生も含まれた。1949年末、国民党政府は内戦に敗北し、百万余りの軍民を率いて、当時総人口がまだ六百万人未満だった台湾に撤退する。同年5月、これに先立ち、共産党との内戦状態が続く中、国民党政府は戒厳令を布告した。以来1987年7月に解除されるまで、ほぼ40年間にわたり、台湾は戒厳状態、即ち国民党の一党独裁の状態に陥ってしまった。   次に、筆者の家族を例にして、世代間で日本に対する歴史認識の相違について話したい。筆者の祖父は1922年、ちょうど日本統治中期に台南で生まれた。祖母は祖父より一歳下であり、筆者の覚えている限り、祖父母は家族と喋るときは大体台湾語を操るが、二人きりのときは日本語しか話さない。収賄などの不祥事を暴かれた国民党政府を、しばしば日本統治時代を比較対象にして非難していた。祖父母が日本に好感を抱いていることは明らかであろう。   しかし、同世代の台湾人が必ずしもこのようなわけではない。筆者は2014年2月に帰国した際、日本に対する歴史認識について、高校時代の恩師、呉淑娥先生に訊ねた。先生は自分の祖父の話を教えてくれた。文盲であった先生の祖父は、日本統治初期に政治犯として警察に反乱の疑いで逮捕され、1945年に国民党政府が来るまで冤罪によって収監されていた。それゆえ、彼は刑務所から出た後、日本への憎しみが噴出し、家族全員に日本人との婚姻を絶対許さないと伝えたそうである。日本統治時代に生まれ育った筆者の祖父母のように、日本に親近感を持つ台湾人は恐らく多数派だが、呉先生の祖父のようなケースにも注目すべきだろう。   親日派の祖父母に対して、戦後に生まれ、戒厳状況下でかつ国民党の歴史教育を受けて育った父になると、日本に対する態度が一変する。父の書斎には大量の古典漢籍が並んでおり、本には朱墨で書き込んだり折ったりした痕跡が随所にある。祖父母に反して、父は日本が行った近代以降の領土拡張や、植民地における幾度の武力鎮圧や残酷な手段による資源の搾取などの行為を強く批判していた。だが、中国と同じように欧米列強に開国させられ、明治維新で近代化に成功した点では絶えず賞賛する。一方、母の頭の中に浮かび上がる日本人のイメージは凶暴な警察しかなさそうであるが、母が日常生活によく使っている家電製品は大体日本製であり、また常に友達にも日本製品を勧める。父に比べ、母は日本に対して肯定的な態度をとっているというより、むしろ歴史認識を欠いているように思われる。   筆者は、なぜ自分の家族の中で日本に対する歴史認識がこんなに違うのかを常に自分に問いかけている。筆者は歴史学科出身のため、この課題に臨むとき台湾と日本を近代史の流れの中で捉えている。そうしてみると、現在の台湾における対日の歴史認識は、中国を外在する他者として対抗的に捉え、一方で日本というイメージのなかに自己を投影することによって自己の主体性を主張する過程で成立したものではないかと考えられる。   九州とほぼ同じ面積の台湾では、16世紀から現在にわたり、オランダ、清王朝、大日本帝国、国民党政府などの統治者が次々と入れ替わり、この土地の住民に様々な影響を与えてきた。それゆえ、このような小さい土地でありながら、人々は自分なりの歴史認識や歴史課題を抱えている。これは台湾の歴史に収まらず、近代のヨーロッパから発生したグローバル化という動き、また東アジア諸国がこの動きにそれぞれどう向き合ってきたかなど、様々な複雑な課題に深く関わるので、筆者の知識や学力ではまだ完全に掌握することができていない。冒頭で述べたように、これは一つの例として、ただ筆者の家庭および周囲の人たちとの交流を通して考えてみた台湾の日本に対する歴史認識を述べたに過ぎない。しかし、これを端緒として台湾の歴史の複雑さを改めて考え直せるのではないかと思う。   <李龢書(り・わしょ)Li, He-Shu> 2015年度渥美奨学生。2011年10月に東京大学大学院人文社会系研究科外国人研究生として来日。2012年4月に同研究科博士課程に入学。2016年3月に単位取得退学。現在、東京大学大学院人文社会系研究科助教。専門は中国中世思想史、道教史。     2016年6月30日配信