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2016.01.28
高級ブランドを扱う企業にとって、今日ほど消費者の行動が予測しにくい時代はないだろう。誰もがスマートフォンを持ち、日夜インターネットにアクセスしている今日、検索履歴や購入履歴から顧客の好みは容易に分析できそうなものだが、そう簡単にはいかないようだ。ロゴを見ただけでブランド名が誰にでもわかるような世界的老舗ブランド企業が、移り気な消費者行動に翻弄されているような気がしてならない。 これまでの高級ブランドと消費者の立場を考えると、ブランド企業側がロゴと共にインパクトの強い(悪く言えば露骨な)マーケティング手法で商品を打ち出し、消費者がそれに憧れる、という構図だった。そして裕福で社会的地位の高い者がそれを手にすることが出来た。高級ブランドを買う余裕の無い人は、それを持てる人にも憧れる。そしてブランドイメージは更に高い位置を得た。ところが、最近のソーシャルネットワーキングサービス(SNS)やユーチューブ(YouTube)を見ていると、人々は昔ほどブランドを崇拝していない気がする。彼らの興味はどこへいったのだろうか? ハーバード・ビジネス・レビュー(日本語版2015年11月号)で興味深いリサーチをみつけた。題して「『非顕示的消費』に対抗する高級ブランド」。最近の傾向として、消費者は自分が所持するブランド物が目立つことを嫌がるようになってきたという。この流れは欧米から強まってきたが、最近では中国でもブランドロゴの入った洋服や鞄の売り上げが落ちている。全世界で高級ブランドを避ける傾向があると指摘するこの消費者行動の調査は、おそらく3つの要因がこの変化を後押ししていると分析している。一つは、ファストファッションによる質の高い模倣品と、ブランドのディフュージョンライン(高級ブランドの普及版)(例:アルマーニ(Armani)のディフュージョンラインはアルマーニ・エクスチェンジ(Armani_Exchange))を通じて高級ブランドが中流層にまで行き渡ったため、ロゴがかつてのように裕福さの証ではなくなった。二つ目として、そもそも上流層の消費者が、あからさまなステータスシンボルに引きつけられなくなった。三つ目は、ソーシャルメディアのおかげでニッチブランドがブームに乗るようになった。例えば、ハンドバックのブランドで言えば、グッチよりは、(ブランドロゴ表示がない)ボッテガ・ヴェネタ。コーヒーだと、スターバックスよりはブルーボトルコーヒー。 このリサーチは、主に上流層のブランドロゴ離れについて分析しているが、重要な顧客層である中流層のブランド離れも先に挙げた3つの要因が深く関係している。まず、ファストファッションの台頭は避けて通れない。全ての人がおしゃれを楽しめる時代になった。そこへインターネット、スマートフォンが普及し、いつでもどこでも知りたい情報にアクセスできるどころか、自分も発信出来る立場となった。写真投稿SNS、インスタグラムに自撮り(セルフィー)を投稿して自分が身に着けているものを紹介することが全世界で流行っている。これを毎日のようにするとなると、高級ブランドの鞄を一つ持つよりも、ファストファッションでたくさんの服を買ってコーディネートする方がバリエーションも増える。現にインスタグラムで人気の「ファッショニスタ」は着こなし上手な人であって、高級ブランドをたくさん持っている人ではない。 前述の要因の三つ目、ソーシャルメディアによるニッチブランドのブームについては、このリサーチによると、社会経済的な階級を問わず、同好の士が「かすかなシグナル」を互いに送り合うことができるという。どういうことかというと、インターネット上では社会経済的な階級という壁がなく、誰でも自由にサイトからサイトを行き来出来る。そうすることで、同じ好み、目的を持った者が自然と集まる。沢山の目に留まることで流行が生まれる。例えば、日本に旅行に来る中国人が、これまでは化粧品を買って帰ると言えば、お約束の様にSKⅡ (エスケーツー: 高級化粧品)だったが、今では街のドラッグストアで、フェースパックなどを買っている。それらは、すでに日本へ旅行した人が買って、使ってみて良かったとブログなどに書いているお墨付きのものだ。企業が多額のお金をかけて広告を打ち出した情報よりも「日本へ旅行、買い物」という同じ目的を持った人たちからの情報を元に、消費者は買い物を楽しむ。 中国人の全てが高級ブランドを買わなくなった訳ではない。銀座に行けば今日もブランドショップに中国人観光客がたくさんいる。だが消費者の選択肢が増えたのは確かだろう。彼らは高級ブランド店にもドラッグストアにもドンキホーテにも行く。高級ブランドを持つことが皆にとってのステータスシンボルではなくなった。SNSの普及により高級品を持つことよりも、経験の方が、ステータスが上になってきているのではないか。なぜなら経験はSNSでシェアしやすい。買った高級品をひけらかすよりは「いいね」の共感を得やすい。 ソーシャルメディアの存在が、消費者の行動と嗜好をも変えてしまうことを、高級ブランドを扱う企業のマーケティング担当者は想定していただろうか。ハーバード・ビジネス・レビューのリサーチの結論として、ブランドロゴを顕示しないトレンドは、高級感は社会的というよりも個人的なものになるとしている。誰もがわかる、ロゴが目立つ鞄よりは、ブランドタグは内側だけについている、しかし洗練されたデザインの鞄を持っていることの方がステータスが高いということだ。そう、「個人的」がキーワードである。今ネット上ではフェイスブックやインスタグラムという、消費者が全てを自分で開設するページがある。この個人的な居場所から友人や趣味のページへと繋がっている。 SNSではないが、お気に入りの画像を保存するサイト、ピンタレスト(Pinterest)は個人的に「所有」して楽しむ事に特化している。ネット上にある気に入った画像やサイトを自分のボードにブックマーク(ピンする)、洋服、インテリアなどとカテゴリー別に画像を整理でき、興味のある人がそのボードを見に来ることももちろん可能なので、自分のセンスを顕示するチャンスでもある。お気に入りの画像を集めることによって、自分の世界観を構築するだけでなく、すでに所有しているかのような気持ちになれる。例えば、まだ持っていない憧れのブランド時計の画像を自分のボードにピンすることによって、その時計に少し近づけた気分を味わえる。これぞまさに持たずして楽しむネット上の居場所、これが中間層の「個人的」な嗜好の顕示と言えるのではないだろうか。 裕福な消費者はさりげない贅沢を楽しむようになり、その他の消費者は所有することにこだわらずして楽しむようになってしまった。このような二極化は今後どうなっていくのか予測しづらい。しかしロゴの露出を控えて顧客の変化に適宜対応できている企業もあるという。ブランドを扱う企業のマーケティングは今後も試練を強いられるであろう。 英語版はこちら <謝志海(しゃ・しかい)Xie Zhihai>共愛学園前橋国際大学専任講師。北京大学と早稲田大学のダブル・ディグリープログラムで2007年10月来日。2010年9月に早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士後期課程単位取得退学、2011年7月に北京大学の博士号(国際関係論)取得。日本国際交流基金研究フェロー、アジア開発銀行研究所リサーチ・アソシエイトを経て、2013年4月より現職。ジャパンタイムズ、朝日新聞AJWフォーラムにも論説が掲載されている。 2016年1月28日配信
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2016.01.07
歴史は勝者が作ると言う。でもそれは一国国内と、国家主義での出来事に限定される。一国で勝手に歴史を作ったとしても、隣国で別の歴史解釈が語られていれば、後世の人々はどちらかの歴史解釈のみを鵜呑みにはできない。また民主主義の下では様々な解釈が出る上に政権交代が起こるので、権力者の思惑通りにはなりにくい。 私は小学校の1~3年生の時、日本で学んだ。そこで豊臣秀吉の伝記を見たが、伝記があるから偉い人との認識でしかなかった。しかし台湾帰国後、歴史の教科書に彼は悪者として描かれていた。また私は日本統治時代を信奉する家庭で育った。親から聞く日本統治時代は「治安も建設も良かったが、国民党時代は何もかもがダメだった」であったが、学校教育では中国視点での解釈となり、日本に対する表現は良いものではなかった。また、日本統治時代を経験した人にも「厳しい弾圧を受けた」「差別があった」という人も大勢いることがわかった。同じ場所で同じ時代を経験したとしても、感じる事はさまざまなのだ。このような経験から、一部の人の経験だけで歴史を解釈するのは傲慢だと思うようになった。 科学は誰が解釈しても同じ結果だとすると、今の教育の歴史教科書は科学ではない。歴史教科書はどうあるべきか?以前、韓国と中国の歴史研究者と日本有識者でお酒を飲みながら話す機会があった。彼らは、日中韓の歴史研究者の間で研究会を立ち上げ、お互いに認められるような歴史教科書を作ろうと努力している。歴史のすり合わせの過程で1番の苦労は異国人同士のコミュニケーションなのだそうだ。翻訳の力量によって意味が違ってくるし、かといって英語を共通語として使えば、薄いコミュニケーションしかできなくなるとのこと。更に国内の大御所の多くは、英語が喋れないそうだ。 科学の世界では、誰が見ても一様になるよう安易な言葉で説明するのがいい。歴史も事象の表記に限定して、わかりやすい表現にすれば、簡単な英語でもコミュニケーションが取れるのではないかと私は言った。しかし歴史研究者が言うには、歴史表記には、因果関係の説明や細かいニュアンスを使った解釈等が必要なので、安易な言葉を使った歴史の表記は無理であるということだった。 歴史家は単純な事象をややこしくしているように思える。例えば日本の歴史表記においても、失敗したクーデターは「乱」、成功したクーデターは「変」としている。同じクーデターなのにややこしい。このような表現の複雑さを「日本語の奥ゆかしさ」とする人がいる。日本人の言う「奥ゆかしさ」とは私が台湾で接してきた中国人が言う中華的文化の「深奥、奥妙」と同一である。だからこれを言う人は多くの場合、他国文化への無理解があるように思える。このようなややこしい歴史表記も元を辿れば中国由来である。他の例を挙げると中国の歴史書では戦争について、戦、囲、入、滅、伐、侵、人を殺す事については殺、誅、弑、殲の表現がある。戦争について、戦、囲、入、滅、は文字通りで事象を表しているが、伐は悪者退治、侵は侵略で、主観的な表現となる。現在のシリア情勢を例にとってみれば、その複雑さから、立場によってどの関係国も伐にも侵にも表現されることがわかるのではないか。だからこそ歴史はできる限り安易な言葉で、且つ善悪感情を排除して記述すべきだと思う。 先の日中戦争を表現してみると、日本軍が中国に「出兵」したとなる。「侵略」や「征伐」などの主観的表現は不要である。また「出兵」と表記すれば、これまでの歴史の中の他国への出兵は「征伐」で、他国による自国への出兵が「侵略」となるような精神分裂状態から解放される。出兵の善悪については小学校一年生の時に先生から「先に手を出す人、武器を持込む人が悪い」と教わっているので、歴史学で改めて善悪を説く必要はない。解釈について多くの異見がある歴史事象については、双方の歴史学者が、証拠を検証して確証が得られる部分だけを記述し、異論ある部分は双方の意見を注釈して若い人に考えさせれば良い。 英語版はこちら <葉文昌(よう・ぶんしょう)Yeh_Wenchang>SGRA「環境とエネルギー」研究チーム研究員。2001年に東京工業大学を卒業後、台湾へ帰国。2001年、国立雲林科技大学助理教授、2002年、台湾科技大学助理教授、副教授。2010年4月より島根大学総合理工学研究科機械電気電子領域准教授。 2016年1月7日配信
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2015.12.24
初対面の人間に「お仕事は何ですか」と言われ、「研究をやっています」と苦しまぎれの返事をすると、「大学の先生ですか」と詰め寄られ、「いいえ、大学院生」とあまり明かしたくない事実の表明を余儀なくされる。そうしたら、これまで熱心に聞いてきた相手が、落胆して、「あぁ、学生さんですね」と声のトーンを急降下させるのだ。
日本は仕事をしていない人間にとって居心地の悪い国である。将来研究者として社会に還元しようと思っていても、さすがに30代半ばになって学生を名乗ると、周囲の冷めた視線は見えずとも感じられるのだ。長くて孤独な作業の博士論文執筆に嫌気がさしてしまいそうな毎日。その上に、周囲の評価がわかると寂しい思いをしてしまうことは、多くの大学院生が経験していることではないか。
「何の役に立つ?」と思われている、私のような人文社会科学系の研究をしている身としては、なおさらその冷ややかな視線を感じる。そして、その冷たい視線は一般人の間の共通認識に留まらない。数か月前に、文部科学省は、国立大学の人文科学系の学部の見直しを進めることを宣言している。卑屈になっている私からみれば、この動きは「コストばかりかかって、お金になる成果物を出せない学問はいらない」を意味している。それでは、人文科学、または社会科学系の学問は本当に役に立たないのか。私の友人Hさんの研究を例に挙げて考えてみたい。
Hさんは30歳ぐらいの女性研究者で、専門は文化人類学だ。これぞ、おそらく文科省がターゲットにしている研究分野だろうと思われる。Hさんの研究テーマは、南スーダンのヌエール族の預言者の語りである。「へー」と言いたくなるような研究分野。いったいこの研究は、誰の何のためにあるものだろうかと思われても仕方ない分野だ。本人も、いつも研究テーマについて聞かれると、顔をひきつったまま、「ヌエールの預言者」について調べていますと答え、聞き手を圧倒してしまう。彼女は10年もこのことについて調査し続けており、南スーダンの僻地と思われる街に2年ほど住み着いて、粘り強く一生懸命ヌエールの預言者について研究してきた。そのために、学術振興会の奨励費、あるいは、民間財団の研究助成金を獲得している。彼女は、研究の重要性を認識しつつも、やはり周囲の冷ややかな視線を感じて、あまり積極的に研究内容について発言しようとしてこなかった。だが、ある出来事をきっかけに、彼女の研究の重要性が認識されることになった。
それは、2013年末の南スーダン内戦のぼっ発である。南スーダンがスーダンから独立した2011年以降、日本の自衛隊が南スーダンの国連PKOミッション活動の一環として送り込まれ、道路補修などの業務を展開している。自衛隊員の安全は、当然ながら日本人の最大の関心事だと誰しも思うだろう。そして、隊員の安全を保障するためには、当然ながら、現地の情報をいかに正確に獲得するかが重要なポイントであろう。自衛隊の活動が始まってから2年たった2013年12月に、デンカ族出身のサルファ大統領派と、ヌエール族出身の元副大統領のマチャール派が、首都などで軍事衝突し、その後、瞬く間に暴力が南スーダン全土に広がっていった。Hさんが研究の対象としてきた「ヌエールの預言者」らの語りは、まさに、ヌエールの人々を戦争に先導する大きな役割を担ったという見方もある。今回は、日本の自衛隊の隊員には被害がなかったが、仮に、犠牲者が出た場合には、きっと国民は「何であんな危ないところに派遣したんだ」と政府を攻め立てただろう。
何が言いたいかというと、自衛隊の派遣をする前に、南スーダンの専門家に、政府がもっときちんと南スーダンの現状について聞き取り、かつ意見を求める必要があったにも関わらず、「ヌエールの預言者」についてのHさんの研究と紛争の可能性の関連性について、政府などは気付いていなかった。要するに、彼女のこの地味な研究が役に立たないのではなく、その研究を活用する工夫や努力が政府などになかったということだ。
10年間以上、地道に紛争と関連の強いヌエールの預言者について調べてきたHさんの研究成果は、まさに、この時でなければ活用される機会がなかったかもしれない。たまたま日本の自衛隊がスーダンに派遣されなければ、彼女の研究の意義を理解してくれる人はいなかったかもしれない。
つまり、ことが起きてから研究するのでは意味がない。若い研究者が様々な分野で研究を積み上げて、初めて、その研究が活用される可能性が出てくる。仮に、実用化されなかったとしても、その研究成果が全く無駄かといわれると、そうではない。いま役に立たなくても、今後10年、20年、あるいは、もっともっと後に、いつかその研究が何かのために重要な参考となるかもしれない。だからこそ、国は、目の前の利益ばかり追求するのではなく、どっしり構え、研究に太っ腹になるべきではないかと思う。
それとともに、人文社会科学などの分野の研究者側も努力する必要がある。自分の研究の内容、または重要性について、国民に分かりやすく発信していくことが急務となっている。
~日本政府へ~
経済協力開発機構(OECD)加盟30か国のうち、教育機関に対する公的支出比においては、日本は最下位周辺をうろうろしている。これで良いのでしょうか?様々な分野の若手研究者が、自身の研究に劣等感を感じることなく、堂々と研究できる環境を国が作っていくべきではないのでしょうか?
「無意味な研究には金を出せない」と決めつけているようでは、先進国としてあまりに寂し過ぎます。限られた資金が、幅広い研究分野に適切に配分されるよう、国と研究機関の間で、もっと建設的な議論がなされることを切に願うばかりです。
尚、本エッセイはすべて私の主観に基づいて考えを述べたもので、科学的調査に基づいていないことをご了承ください。
<アブディン モハメド オマル Mohamed Omer Abdin>
1978年、スーダン(ハルツーム)生まれ。2007年、東京外国語大学外国語学部日本課程を卒業。2009年に同大学院の平和構築紛争予防修士プログラムを終了。2014年9月に、同大学の大学院総合国際学研究科博士後期課程を終了し、博士号を取得。2014年10月1日より、東京外国語大学で特任助教を務める。特定非営利活動法人スーダン障碍者教育支援の会副代表。
*本エッセイは、渥美国際交流財団の奨学期間終了時のエッセイとしてご提出いただいたものですが、執筆者の了解を得てかわらばんで配信します。
2015年12月24日配信
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2015.12.17
品川駅で無断撮影の一部始終を目撃した。小学校の放課後の時間帯で、制服姿の私立小学校の男子生徒2人がホームで電車を待っていた。かわいいなあと思って、ホームを歩きながら、遠くから眺めていた。すると、子どもたちのそばを通りかかった2人の西洋人の女性が目に入った。彼女たちは子供の制服姿を珍しがって、スマホで男の子たちを真正面から撮ろうとしていた。子供たちはその行動に気づき、撮られないように後ろを向いたのだが、女性たちは目の前まで近づいて、バシバシと正面から写真を撮った。女性たちは嬉しそうに、お互いのスマホに収めた写真を見せ合いながら、はしゃいでエスカレーターに乗り、ホームを後にした。一方で、子供たちはどうしたらよいか分からない不安な表情で電車を待ち続けていた。
それを目の当たりにして、すぐにでも「やめなさい!」と叫んで止めたかったし、女性たちを追いかけて「写真を削除しなさい」と要求したかった。しかし、行動に移すことはできず、ただ素通りしてしまった。結局、何もできなかった。目撃者は少なくとも20人以上はいたと推測されるが、私も含めて、女性たちの行動を止める人は1人もいなかった。子供たちに「守れなくてごめんなさい」と言いたいくらい、罪悪感に襲われてしまった。
一瞬、自分自身が無断撮影された嫌な記憶もよみがえってきた。小学校を卒業した夏休み、北京の親戚を訪問した時、人生初の北京ダックを堪能することになった。大人2人と子供7、8人というやや変わったお上りさんのような組み合わせで、高級感のあるレストランに入った。値段があまりにも高く、北京ダックと僅かな料理しか注文できなかったが、私たち子供は素直に喜んでいた。やっと北京ダックが出され、一番盛り上がっている時に、どこからかフラッシュを感じ、外国の観光客に様々な角度から撮影をされていることに気づいた。外国人の目にどのように映ったのか、撮られた写真は外国のどこでどう見られ、何を言われるのだろうかと気になり、恥ずかしくて不快だった。しかし、誰一人やめてくださいと抗議する勇気がなく、気まずい雰囲気の中、気づいていないふりをするしかなかった。
20年以上も経った今も、子供の無断撮影がまだ続いているんだと感じた。人権が叫ばれて久しい今日において、子供の人権に対する意識がまだ高くないことを垣間見ることとなった。
近年、インターネットの発達で、SNSなどで無断撮影ないし盗撮した写真がアップされるようになってきた。地域や国も違えば、使用許可がなくてもばれない、問題にはならないだろうというのは、当事者の心理かもしれない。写真自体がいくら自慢できたとしても、無断撮影や盗撮という行為は許されるものではなく、人にどのような印象を与えてしまうのか要注意ではないだろうか。写真の悪用はないにしても、子供を尊重しようとしない態度と行動はやめてほしい。
単に無断撮影だけに過ぎないということで、看過されてしまうのはどうかと思う。また、外国人だからそこまでの語学力がないというのも言い訳にすぎない。無断撮影ではあるが、たまたま外国人が異国のことを珍しがって、記念に残したいという気持ちを理解できなくもない。それにしても、本当に写真を撮りたいのであれば、大人であれ子供であれ、簡単な言葉かボディランゲージで許可を取ってから撮るようにしたい。そうすることで、お互いに素敵な思い出になるし、相互尊重のできる社会づくりにも貢献できるだろう。
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<李てい(り・てい)Li_Ting>
早稲田大学大学院日本語教育研究科博士後期課程在籍。中国の曲阜師範大学で日本語教員として4年間教鞭をとり、2009年キャリアアップのため来日。
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2015年12月17日配信
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2015.12.10
ハロウィーンの夜、コスチュームなしの普通の格好で、今西さんを囲んで渥美財団一期生4人(Jin、Shi、Yaku、Max)が新宿の中華料理店に集まった。3人は悠久の歴史をもつ中国大陸から、1人は東アジアの若き島国のフィリピンから来て、20年前に渥美財団で出会った。今回は北京に住むJinさんが来日していることがわかって、今西さんが東京に住む同期生に呼びかけてくれた。
混雑する店内に4時間も居座り、健康や子どもの教育など話題は尽きなかった。集まりに行く前に僕の頭に浮かんだことは、言うまでもなく現在進行中の南シナ海の領土問題である。中国やベトナムやフィリピンなどが南沙諸島(SPRATLY_ISLANDS)の領有権を巡って争っている。実効支配を図るためにどの国も島々に建設を進めてきた。ただ、この数年間に中国は軍事基地としても利用できる埋め立て建設を急ピッチで進めており、地域外の先進国まで巻き込まれて、緊張感が高まっている。
ビールと紹興酒が少し進んだところで、この話題が取り上げられた。12.5%中国系である僕は今のフィリピン政府の強硬姿勢を批判し、中国がいかに好きかについて話した。中国人と結婚している親戚もいる。この夏、フェイスブック上でこの問題について熱い議論をしたことがあった。僕は一所懸命理性的な議論を促したが、フィリピン人の大半は、やはり凄く中国に脅威を感じ、アメリカや日本などの域外先進国の支援を大喜びしている。
実は、僕は、以前、米国などの軍事存在がなくても東アジア地域が繁栄できると信じていたときがあった。フィリピンの反共政策に影響を受けた中国脅威論の中でずっと育てられた僕にとっては、自分でも意外なことであった。
しかしながら、ハロウィーンの夜に中国の友達にも話したように、中国は最近、南沙諸島を両手で掴みとろうとしているが、その砂は指の間から溢れでてしまっている。昨年バリ島で開催した第2回アジア未来会議での基調講演に対して、僕は、「中国は可愛いパンダから凶暴な龍に変身した」とコメントした。つまり、東アジアの団結は僕も心から望んでいるが、それは互いに尊重する友好関係に基づかないと成り立たないと思うのだ。数学が好きなShiさんもこの中国の行動について疑問を述べていた。
20年前と一番変わっていないYakuさんが、SGRAの「良き地球市民の実現」に言及し、最近、地球市民の理念が弱くなってきているのではないかという心配を分かち合ってくれた。僕はすぐに反応して、こんな時代だからこそ、この理念をもっと大事にして発揮しなければならないと言った。通じたかどうか、わからないが、本当に僕はそう思っている。僕らに続く渥美奨学生たちが、このことをどのぐらい意識しているのか、ちょっと心配である。
来年の2月10日、SGRAフィリピンが、マニラのアテネオ大学で企画している第20回共有型成長セミナー(テーマ:Human_Ecology_and_Sustainable_Shared_Growth人間生態学と持続可能共有型成長)を開催すると今西さんが告知すると、お酒が一番強いJinさんが「行こう!行こう!」とみんなを誘ってくれた。その半分は10杯を超えるビールの勢いだったと思うが、とても嬉しく思っている。たとえ実現しなくてもこうやってみなさんと話せれば幸いである。
夜が更けてお別れの時間がきた。僕の頭によく残っている20年前からのイメージ変わらない、陽気で酔っ払いの同期の仲間のJinさんを、仮装した人々で溢れている東京の街で、その賑やかな人込みで迷わないように地下鉄に乗せるまで見送った。
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<マックス・マキト ☆ Max Maquito>
SGRA日比共有型成長セミナー担当研究員。SGRAフィリピン代表。フィリピン大学機械工学部学士、Center_for_Research_and_Communication(CRC:現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、アジア太平洋大学にあるCRCの研究顧問。テンプル大学ジャパン講師。
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2015年12月10日配信
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2015.12.07
「飯舘村の人々は原発被害に立ち向かって一所懸命闘っている。彼らは【までいの力】(「までい」とはこの地方の方言であり、漢字では「真手」と書く。両手を動かして頑張れば、いかなる困難も乗り越えられるとの意味)を発揮し、【までいの精神】でふるさとの再建に立ち向かっている。その精神に感銘を受けました。」これは、3年前(2012年10月19~21日)にSGRA(関口グローバル研究会)の第1回福島被災地ツアーのレポートに書いた感想文の一部である。SGRAはその後も毎年このツアーを催してきたが、私は都合がつかず、3年ぶりに再び被災地に入ることができた。今度のツアーは10月2~4日の3日間で、前回と同じように飯舘村に向かった。秋晴れの天候に恵まれ、有名な観光地へツアーする気分とさほど変わらない。違うのは、3年前に出会った菅野宗夫さんご家族と村人達、そして田尾さんたちの「ふくしま再生会」のメンバー達と再会できるという思いが、久しぶりに里帰りする気分にさせると同時に、被災地復興が進んでいるだろうとの期待感を抱きながら、福島駅からレンタカーに乗って飯舘村に向かった。ところが、被災地に近づき車窓から見えるのは、黒いビニール袋詰めの除染土が田んぼの真ん中に並べられ、また積み上げられた、ゴミの野原ばかりであった。「あのゴミ袋はどうするのですか?」と田尾さんに聞いたら、「分かりません。国が莫大なお金を投入して除染作業を進めていますが、除染土を何処に処分するかはまだ決まっていないようです」。震災と原発災害で日本全国の原発稼働を一時期停止したが、除染土やゴミ処理の方法が見つからないまま進めていた原発を、政府は再開するという不思議な暴挙。国民が怒っていても無視される日本の政治。除染土の処理方法が見つからないまま、やたらに莫大な規模(約3兆円規模だという)の国民の税金を使って、進めている除染作業。しかし、それは被災地の人々に復興の希望すらも与えない。被災地の人々の独自の復興事業には目も耳も貸さないで、ゾンビが野原をやたらに歩き回るような幻の「震災復興策」。日本国民の多数が納得しているのだろうか?里帰りの気分は吹っ飛ばされ、心の中から怒りが込み上げてくる。日本の政治、行政がここまで堕落していることを、改めて深く感じた。とはいえ、飯舘村に入り、菅野さんの家に着き、再生実験で栽培した黄金色の稲の田んぼと野菜栽培のビニールハウスを見たら、なんとか里帰りした気分になった。そして、被災地がわずかでありながら復興に向かっていることを確認できた。近くの田圃や畑には「ふくしま再生の会」の飯舘村再生モデル事業の「イネ栽培実験田」がある。実験用で栽培した稲が3年前は田圃に干され、それはただの実験用に提供されるものだったが、今度は、その稲刈り作業を皆さんと共同で行うこともできた。我々が刈った稲(米)は、検査を受けて安全が確認されれば、仲間内での食用になるという。
昨年収穫された米も、検査の結果は基準値以下で安全性が確認されている。今年も検査に合格して、12月になったら、われわれもこの米を食べられるかも知れない。
また、実験用ビニールハウスでイスラエルの技術である「点滴水耕栽培」で作られた菜っ葉類をご馳走になった。この「点滴栽培」による菜っ葉作りも見事に成功して、通常の基準値以下の放射線量をクリアーし、安全性が確認されているそうだ。
全国または外国では、未だに風評被害で福島産の農産物が敬遠されるなかで、我々は何の心配もなく、被災地この飯舘村で作った米と野菜を食べる日が、いつかくるだろう。多くの住民が避難し、他の地域に移住し、自分の故郷に戻って昔ながらの生活ができない情況のなかで、ここ飯舘村の菅野さんたちの努力と「ふくしま再生会」の応援で一筋の希望の光が見えてきた。「までいの精神」は生きているのだ。百聞は一見に如かず。私だって、ここに来なければ、5年経っても10年経っても、福島産の農産物を絶対に口にしないだろうと、想像してみた。今では福島産でも平気で買って食べることができるようになった。3年前と同じように、線量計を携帯し、ところどころで放射線量を測りながら回ってみた。原発事故の30キロ圏の近くの立ち入り禁止区域まで移動し、そこで測ったら放射線量は最高約25マイクロシーベルトで、3年前の最高31マイクロシーベルトに比べると若干下がっていた。雨や風などにより放射線量は土に染みこんだり、他の地域に飛んだりしていたということ。自分たちの方法で除染作業を行い、そこに農作物だけではなく、「桜の園」を作って、全国の支援者達にさくらの木を植えてもらい、毎年そこで花見ができるような事業を考えた金ちゃんの発想もユニークで魅力的だった。人間とは逆境に立たされたときにこそ、その精神力の強さが見えてくる。ここ飯舘村での「までいの精神」を再確認しながら、「里帰り」のツアーは終了した。来年もまた里帰りしてこの山の中で花見大会をしたいなと思いながら、「さようなら飯舘村!」。<李 鋼哲(り・こうてつ)Li Kotetsu>1985年中央民族学院(中国)哲学科卒業。91年来日、立教大学経済学部博士課程修了。東北アジア地域経済を専門に政策研究に従事し、東京財団、名古屋大学などで研究、総合研究開発機構(NIRA)主任研究員を経て、現在、北陸大学教授。日中韓3カ国を舞台に国際的な研究交流活動の架け橋の役割を果たしている。SGRA研究員。著書に『東アジア共同体に向けて――新しいアジア人意識の確立』(2005日本講演)、その他論文やコラム多数。★SGRAふくしまスタディツアー報告は下記リンクよりご覧いただけます。http://www.aisf.or.jp/sgra/active/news/2015/5388/
2015年12月3日配信
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2015.12.07
飯舘村に行き農業をして、人と触れ合って、私が抱いた感想は想像していたよりもシンプルでポジティブなものだった。未来は明るい。素直にそう感じたのだ。「あるいは自分が被災していた側かもしれない」湊かなえの『絶唱』という本を読み、“被災者”という言葉の持つ偶有性に気づかされた私は、飯舘村に向かう心持ち新たにした。“被災者”という必然的な事象は存在しない。“被災者”というラベルを見るのではなく、飯舘村の人、1人ひとりの持つ物語に想いを馳せようと決めた。そして、たくさんの人に出会った。帰村が実現した後の飯舘村再興のために、“ふくしま再生の会”による自主除染後の水田で水稲を育て、その有用性を検証している宗夫さん。古くからの農家の知恵も活かしながら、放射線性物質という現代の科学技術から生み出された負の産物に打ち勝ち、自主除染を成功させた。(しかも彼の作る米は安全というだけでなく、これがまたとても美味しいのだそうだ。)「次の世代に何を残すか」朗らかな笑顔で話しながらも彼の瞳には強い想いが宿っていた。ピンク色のコルチカムという花が咲き乱れるなかで、金一さんは語った。「水芭蕉、水仙、桜…四季を楽しめるハナゾノをいつか作る。」彼は、再生の会のマキバのハナゾノ計画の中心人物だ。飯舘村を美しい花溢れる村にすることで、村に帰ってきた人々や訪れた人々の心を豊かにする。ボランティアや支援者たちが桜に思い思いの名前を付けてハナゾノに植樹している。その苗木たちはまだ細かったが、飯舘村の豊かな復興への第一歩を象徴しているようにも見えた。「21世紀の地球におけるフィロソフィを作り上げよう」再生の会の目標をそう語った理事長の田尾さん。彼の目指すところは飯舘村の復興だけにとどまらない。科学者、物理学者としての視点から放射線汚染の問題に挑む彼の視界は世界に、未来に広がっていた。放射線による汚染問題、環境問題、農業、地域活性化…彼は飯舘村の復興を通して現代社会の様々な課題を解決の糸口を模索している。「財政や産業の復興だけでなく、豊かな文化の復興をしたい」稲刈りが終わった収穫祭の席で、村民やボランティアに向けて復興の展望を述べた東京大学院生の聡太さん。彼は将来飯舘村の村長になりたいという。夢に燃える彼を見守る周囲の目はとても温かく希望にあふれていた。ふくしまスタディツアーに参加して、学んだことは数多い。被災地の現状はもちろんだが、放射線による汚染問題や復興の方向性、今後の農業のあり方など、復興のその先を見据えた視界を一部分ではあるが共有することができた。また、同ツアーに参加した渥美国際交流財団の外国人研究者の方々と話す中で、日本人以外の人の意見や様々な学問分野の知見等を得ることもできた。実際に再生の会の方々と協働作業をすることも多く、稲刈りを始めとする農業の大変さや収穫の充実感も体験的に実感することができた。これから社会に出て働く私に多くの刺激と縁と、未来を担っていくものとしての責任感を与えてくれた本ツアーに感謝したい。飯舘村、そしてそこで出会った人々が感じさせてくれた未来と希望を必ず社会に還元していきたい。<宮野原勇斗(みやのはら・ゆうと)MIYANOHARA Yuto>大阪大学 人間科学部 人間科学科 臨床死生学・老年行動学講座学部4回生。伊藤謝恩育英財団奨学生。宮崎県出身。
★SGRAふくしまスタディツアー報告は下記リンクよりご覧いただけます。http://www.aisf.or.jp/sgra/active/news/2015/5388/
2015年12月3日配信
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2015.12.03
自国を離れて暮らすことは、文化も言葉も違うので容易ではない。しかし良い面もある。それは自分の国を客観的に見ることができるという点である。先日中国が一人っ子政策を中止した。日本の新聞、テレビでもトップニュースで取り上げていた。そして思い出した。中国人留学生としてはじめて海外(日本)で暮らし、日本人や様々な国籍の人と触れ合いはじめた頃のことを。中国がしている政府による人口のコントロールを、はじめて彼らと一緒に客観視することができたのだ。外国人にとってこの政策がどれほど異質に映るのかと気付くのに、正直少し時間がかかった。
私の場合、一人っ子政策がすでに履行されていた80年代前半に生まれたので、周りが一人っ子であることに違和感も疑問もなかった。実際のところ、自分の国、中国が世界で唯一、一人っ子政策をとっているという意識すらなかったのだ。中国以外の国では家族計画は個人の意思で決めることができる。こんな大きな違いを、さして気にもせずにいたとは。これは何というか、今思えば恥ずかしいような気分だ。留学生時代は時間があれば、日本語や英語で書かれた一人っ子政策に関しての書物や記事をたくさん読んだ。
驚くべきことに、英語の言説は、一人っ子政策にともなう中絶の増加や、男性が多く女性が少ないという性別のバランスを欠く結果となった中国社会を痛烈に批判し、一人っ子政策が失敗だったとまで言い切っている。特に妊娠中絶の強制を深刻な人権の侵害であるとし、すぐに止めるべきだとの声も多い。さらに驚いたことは、これらはヨーロッパやアメリカ在住の中国人によって書かれたものが多かったことである。私には、まだその頃、自分の国で起きていることを直視し、言葉に書き出す勇気がなかったので驚きもひとしおだった。しかも、それらの英語で書かれていることは誇張ではなく、農村まで出向き取材し、事実に基づいて書かれている。私が住んでいた農村でも予定外に二人目の子どもができてしまった人々の苦悩をよく耳にしたりした。二人目の子を持つ家庭に課せる罰金も決して安くない。本や論文で、中国の一人っ子政策を失敗だったと嘆く中華系学者たちは、中国国外へ出てこの異様な政策に感情を揺さぶられ、研究をはじめたのだろうか?
もちろん中国国内の人口学者も以前から、一人っ子政策を続けることによる労働人口の減少や高齢化を憂慮し、政策変更を訴えてはいた。経済学者たちの中でも、一人っ子政策が高齢化を引き起こし、国が豊かになる前に経済が減速するという見解は多かった。しかし地方都市や農村では、一人っ子政策違反の罰金が地方政府にとっての捨てがたい大きな収入となっていたり、学校などを増やすことの負担への懸念などで、対応は遅れていた。そうこうするうちに、都市部では一人の子に教育費等お金をかけて育てるスタイルが定着してしまった。2013年には、夫婦のどちらかが一人っ子なら、二人目を持つことを認められた。しかし、こちらは人口増加にさして変化が見られなかったようだ。たった2年で一人っ子を完全に廃止したことが答えだろう。
中国国内では一人っ子政策廃止のニュースを遅すぎたと冷ややかに受け止められている。我々80、90年代生まれは唯一の一人っ子世代となってしまった。これまで罰金を払った多くの人にとっても、今さらという感じだろう。ジャパンタイムズの2015年11月6日付、裴敏欣(Minxin Pei)氏の記事の最後の段落に「単純に、一人っ子政策が二人っ子政策になっただけ」とある。そう、あくまでも二人までという制限。一人っ子政策の廃止は国民に自由をもたらすものではないのだ。世界最大の人口国、中国の今後の動向を引き続き世界が固唾を呑んで見守るだろう。
<謝志海(しゃ・しかい)Xie Zhihai> 共愛学園前橋国際大学専任講師。北京大学と早稲田大学のダブル・ディグリープログラムで2007年10月来日。2010年9月に早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士後期課程単位取得退学、2011年7月に北京大学の博士号(国際関係論)取得。日本国際交流基金研究フェロー、アジア開発銀行研究所リサーチ・アソシエイトを経て、2013年4月より現職。ジャパンタイムズ、朝日新聞AJWフォーラムにも論説が掲載されている。
2015年11月26日配信
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2015.11.12
調査期間:2015年2月4日から3月26日
調査地:スーダン共和国ハルツーム
今回は、2015年4月に実施されたスーダン総選挙、大統領選挙に向けた各勢力の動員戦略に焦点を当てることが調査の大きな目的であった。特に、選挙キャンペーンの状況と各種政党のマニフェスト分析を調査対象の中心とした。選挙キャンペーンが始まる前、2月4日にスーダンへ渡航した。選挙キャンペーンが始まる2月中旬に向けて、毎日の新聞チェック、ラジオ、テレビのニュースや討論番組の視聴が欠かせなかった。さらに、政治家、研究者、ジャーナリストなどへのインタビューも重要な調査活動の一つであった。
しかし、私が調査地であるハルツームに到着すると、主要な野党の選挙ボイコットが確実となってしまっていた。調査する身として、何のために来たのかなと失望を覚えたが、念のためそのまま続けることにした。
まず、スーダン政治に詳しい研究者、ジャーナリスト、および若者への非公式なインタビューを通じて、今回の選挙の意義を問うことができた。しかし、5年前の2010年の選挙と比べて、インタビューの対象者は、匿名での取材を希望したり、慎重に発言したりしていると感じた。それは、政権が選挙キャンペーンに合わせて、締め付けをし始めたからである。
さらに、選挙キャンペーンの観察を通じて、与党の政治動員戦略に関する情報を手に入れることができ、それを分析して、現在論文にまとめる作業をしている。
さて、野党が不在ならば、はたして選挙キャンペーンの分析は意味のあることだろうか。最初はそう思ったが、野党の不在が、逆に現政権にとって思いがけぬ形で負の影を落としたといえる。
◇選挙の正当性
特定の候補者の支持者が車列を作ってクラクションを鳴らしながら、候補者の宣伝をする姿は、過去に実施された複数政党制選挙の特徴だったともいえるが、今回の選挙においては、このような華やかなパフォーマンスが確認できなかった。選挙キャンペーンも、街頭演説もほぼ確認できなかった。
さらに、私が20名程の有権者に対して「投票する?」と聴いたところ、投票に行くという有権者は1名にとどまった。
以上のことから、今回の選挙が正当性を得られなかった原因は二つあると考えられる。一つ目は、2010年4月の選挙に勝利して大統領に再選されたバシール大統領は、2015年の大統領選挙に立候補しないと国民に約束したにも関わらず、2014年10月に、「国民の声に応えるよう、再度立候補する」ことを発表した。そのことが、国民の間でバシールへの信頼性に大きなダメージを与えたと考えられる。
二つ目は、2011年7月の南スーダン独立以後に、石油収入の激減の結果、スーダンの人々の暮らしが逼迫して、政府に対する不満が、若者を選挙ボイコットへと導いたといえる
◇分裂の危機
今回の調査の間、発行される新聞の選挙報道を毎日チェックしていたが、そこで以下のようなことがわかった。
野党の完全ボイコットが、政権党である国民会議党(NCP)内の足並みがそろっていない現実を露呈した。党内の意見の衝突がもっとも明らかになったのが、NCPの州知事の任命を巡るグループ間の意見の不一致である。
そもそも、2005年に制定された暫定憲法において、州知事は直接選挙で州民によって選ばれることになっていたが、NCPの州支部が党本部に推薦する候補者は、必ずしも党本部が予定していた候補者とは一致していなかった。州支部の推薦を受け入れれば、その分地元志向の強い知事が誕生してしまう。党本部の支持に完全には従わないことが党本部にとって懸念材料の一つであった。一方では、党本部が、別の立候補者を公認してしまうと、選挙における州支部のサポートを得られず、NCPの候補者が落選する可能性が高まるので、党本部は厳しい選択肢を迫られていた。
実際に、2010年の選挙以降、NCPの党本部の支持に背く州知事が多くあらわれ、大統領が憲法に反する形で知事を更迭したり、州の再編を行ったりして、党本部の考えに近い人物を、更迭した知事の後に据えるケースが紅海州、ゲジラ州、および、ダルフールの三つの州で見られた。
2015年選挙に先立ち、NCPが大多数派を占める連邦議会が、これまでに選挙で選ばれた知事を大統領任命制に選挙法を変更したことが、NCPの本部と地方との不和を物語っている。
◇選挙の結果
私は3月中に調査を終えて日本に帰ってきたが、4月中旬に実施された選挙は案の定、バシール大統領の94%の支持率による再選と、NCPとともに与党を形成していた小政党の連合の圧勝に終わった。投票率は46%と選挙管理委員会が発表したが、この数字は多くの専門家によって疑問視されている。
◇終わりに
選挙の意義は、国民の真意を問うことであるが、近年アフリカ各地でも見られるように、現職による選挙プロセスの操作、不正、野党政治家への暴力が、選挙本来の意義に大きな疑問を投げかけている。スーダンの選挙キャンペーンを通じて、ここでも、同じ傾向がみられたことを報告する。民意を反映しない選挙は、税金の無駄遣いだけといっても過言ではないが、このような選挙の結果でも、結局、国際社会は容認している。そのことは、現職による選挙操作に拍車をかけている。もう一度、アフリカにおける選挙の意義を問い直す必要が出てきているように思う。今後とも、学術雑誌において、積極的に論文を発表していきたいと思う。
<アブディン モハメド オマル Mohamed Omer Abdin>
1978年、スーダン(ハルツーム)生まれ。2007年、東京外国語大学外国語学部日本課程を卒業。2009年に同大学院の平和構築紛争予防修士プログラムを終了。2014年9月に、同大学の大学院総合国際学研究科博士後期課程を終了し、博士号を取得。2014年10月1日より、東京外国語大学で特任助教を務める。特定非営利活動法人スーダン障碍者教育支援の会副代表。
*本エッセイは、渥美国際交流財団の海外学会参加等奨学金の報告書としてご提出いただいたものですが、執筆者の了解を得てかわらばんで配信します。
2015年11月12日配信
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2015.11.05
アメリカ連邦最高裁判所は2015年6月に同性間による結婚を認めた。すなわち同性婚は全米50州と首都ワシントンで合法となった。この判決は、アメリカだけでなく、世界中で大きな反響を呼び、ソーシャルネットワーク(SNS)上ではLGBT(性的少数者)の象徴である虹色を自身のプロフィール写真にスクリーンカラーとしてのせる人がたくさん現れた。ホワイトハウスが虹色にライトアップされた写真も同性婚容認のニュースと共に世界中に配信された。この写真を見て、私は米国民と政府の距離に親しみを感じた。法の改正をホワイトハウスそのもので表わす。国民にとってとても伝わりやすい。このような光景を日本や中国で見られる日はいつ来るだろう。アメリカの多様性の受け皿の大きさを痛感する。アメリカという国を少しうらやましく思う。そしてこの判決は単に同性婚が認められたという一つの事実以上にたくさんの事を教えてくれる。
まず始めに、この同性婚容認で一番感心したのは、アメリカ政府が世論の急速な変化に対応したというスピード感だ。2004年にマサチューセッツ州で初めて同性婚が認められたが、保守的な州では根強く同性婚禁止が制定されていて、後が続かなかったイメージだったのに。単にオバマ大統領が同性婚の支持を表明したからというだけではない。何かもっと大きな目に見えないものに動かされた判決のような気がする。先述の通り世論の変化だ。
アメリカではドラマの中でLGBT役の人物がよく登場する。大抵はそのドラマを面白くするキーパーソンとして、まるで自分の周りにもこういう友達がいればいいなと思わせるキャラクターが多い。主役でも悪者役でもなく、物語に自然に溶け込んでいる。ドラマの中ではLGBTが「普通」に存在している。日本や中国のドラマを観ていても遭遇しない登場人物達だ。また実生活でも俳優に限らず有名人がLGBTであることをカミングアウトしている。勇気ある行動だと思う。このようにアメリカでは法で認められるよりずっと前からLGBTの存在が大きくなってきている。政府がその「普通」な存在を見逃さなかったことは、LGBTの人に限らず、アメリカ国民にとって大きな意味があるのではないだろうか。
もちろんアメリカが同性婚容認に傾いたのはメディアや有名人のカミングアウトだけでない。アメリカの大企業が同性愛者をはじめ人種差別などの社会問題に関わりはじめたことが大きい。今年3月の最高裁に提出した意見書には379の企業・団体が名を連ね、国際的有名企業も含まれている。同性婚容認は、大手企業の(社会問題に関わろうという)姿勢の変化が政府にちゃんと届くのだ、ということを証明したとも言えるのではないだろうか。もちろん、企業はあらゆる層の顧客を獲得しなければならないし、政治家は票が欲しいから同性愛者を支持するまでだという見方もできる。一理はあるだろうが、企業が世の中の変化に対応して、社会問題を経営のテーマに取り込むことは、利益ばかり追うだけよりもずっとよいことではないだろうか。
経済学や政治学というサブジェクトにとどまらず、それらに同性愛者、人種差別、男女の賃金格差等の社会問題が含まれることは、広い視野で物事をとらえるチャンスであり、今の時代には必要なことだろう。日本版ニューズウィークの2015年7月14号によると、実際のところ、アップルやウォルマート(米国小売最大手)のような大企業はできるだけ多様な人材を雇い、消費者の変化に対応しようとしているそうだ。大手企業が始めると世の中のトレンドになってゆくので影響は大きい。従業員を雇う際、人種どころか同性愛者を差別していては優秀な人材を見逃すかもしれない。その優秀な人材がオープンな社風の他社に採用されてしまったら?世の中の変化に敏感になっておくことは経営のリスクを避けることができるのだ。同性婚支持の意見書に署名した企業の一つであるゼネラル・エレクトリック(GE)のCEOジェフ・イメルト氏は(LGBTについて)「ビジネスの観点で言えば、ダイバーシティは競争力であり、文化そのもの」と言う(日経ビジネス_2015年8月24日号より)。
もう一つ、アメリカらしいエピソードとして、政治家と国民の距離が近いと感じた瞬間を紹介したい。日本経済新聞2015年8月4日の記事「同性婚容認_米の変化」の中に、同性愛を公言する人が増えたことも世論に大きな影響を与えたとして、例を挙げている。同性婚禁止派のブッシュ政権時代のチェイニー元副大統領は、次女が12年に女性パートナーと結婚し、容認派に変わった。オバマ氏が同性婚支持を表明した理由も、娘からの抗議がきっかけ。娘の友人の両親が同性カップルで、「(同性婚禁止は)納得できない」と娘に言われたのだという。このような政治家、ましてや現職の大統領の私生活からのエピソードがアメリカ国民どころか、海を越えて日本の新聞にまで掲載されるとは。日本や中国の国民にとっては、首相や国家主席のプライベートな部分は知る由もないのだが。
世論の変化のスピードに国が追いつき、国を変える。日本や中国では国民の声が政治家に届くと国民が実感できるのはいつになるだろう。大国ゆえ解決すべき問題が山積みのアメリカ。同性婚が全州で合法にはなったものの、アメリカは州や裁判所の管轄区によって政令が違うので、LGBTに対する結婚以外の差別、例えば住居、雇用については完全に平等とはまだ言えない。引き続き、州や地方レベルで平等への戦いは続く。同性婚容認の流れに乗って、引き続き市民の声を吸い上げて欲しい。そしてそのムーブメントが今後アジアに影響を与えるようになるといい。
<謝 志海(しゃ・しかい)Xie Zhihai>
共愛学園前橋国際大学専任講師。北京大学と早稲田大学のダブル・ディグリープログラムで2007年10月来日。2010年9月に早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士後期課程単位取得退学、2011年7月に北京大学の博士号(国際関係論)取得。日本国際交流基金研究フェロー、アジア開発銀行研究所リサーチ・アソシエイトを経て、2013年4月より現職。ジャパンタイムズ、朝日新聞AJWフォーラムにも論説が掲載されている。
2015年11月5日配信