SGRAかわらばん

  • 2017.02.02

    エッセイ520:謝志海「新年の抱負との付き合い方」

    新年早々、日本人から面白い質問をされた。「中国には新年の抱負ってあるの?(もしあれば)それは新年、それとも春節どちらに目標を立てるの?」とても日本人らしい質問だと思った。というのは中国では新年の抱負というものが一般的ではないからだ。誰も全くしないとは言わないが、年明けや春節に挨拶代わりのように「今年の抱負は?」と聞き合うことはない。   日本では正月を迎える前から「来年の抱負は?」という質問が飛び交っている。テレビを観ていても、芸能人だけでなく、政治家までもがこの質問をされている。また聞かれた側も普通に回答している。新年を新たな区切り、スタート地点として捉え目標設定することはとても良いことだと思い、とても興味深い。   では年の瀬、どのくらいの人が年初にたてた目標を達成できているのだろう。私に質問をしてきた日本人に「年末には今年の抱負をどのくらい達成できたか聞きあったりするの?」と聞いてみた。相手は「うーん、ないかなあ」と言葉に詰まってしまった。「その時期は師走でそれどころじゃないんじゃない。」というのが答えだった。そうか、日本では掲げた目標の達成度をレビューする機会があまりないのかもしれない。年末年始には抱負は?抱負は?とどこでも話題になるのに抱負を振り返るチャンスはシェアされていない。これもまた興味深いことである。   調べてみると、「新年の抱負に掲げるのは何か」というランキングは出てきたが、結果や、達成度についてのデータは出てこなかった。代わりにアメリカでの調査結果があった。アメリカのスクラントン大学の「新年の抱負」についての調査によると、2016年に立てた新年の抱負を達成出来たと感じられた人はたったの9.2%。日本で調査しても、案外似たようなものかもしれない。マクロミル社が2016年1月に日本で行った調査によると、過去に新年の抱負を立てたことがある人に挫折したことがあるかと聞いたところ、「挫折したことがある」と答えた人が87.6%と9割近い数になっている。目標を掲げることは簡単でもそれを実行するのは難しいということか。   日本の書店に行くとビジネス書のセクションには目標の実行の仕方、夢の叶え方等の自己啓発本がたくさん並んでいる。ということは日本人はやはり目標を掲げ、達成する為に日々奔走しているのではないだろうか。しかも海外からの自己啓発たぐいの本も日本語に翻訳され同じくビジネス書のコーナーにたくさん並んでいる。海外のメソッドまで取り入れようとしているのか、と感心する。   例えば、米国スタンフォード大学の心理学者、ケリー・マクゴニガル教授の著書「スタンフォードの自分を変える教室」では実践的で誰もがすぐに取り入れやすいように、目標達成へのステップを指南している。この教授の専門は健康心理学で、目標を叶えるプロなどではないのだが、彼女がよく提案するのは、大雑把に言うと自己分析や自分を振り返る時間が大切だということ。ということは目標を立てるだけではダメで随所に振り返りの作業を取り込むべきなのだろう。自己分析、すなわち自分を客観的に見ることは、難しいけれど目標を叶えるためには不可避なのだろうと感じさせられる。   日本には新年に抱負を掲げるチャンスがあり、それを実行する為の指南書も溢れている。日本に住んでいる私はこれらを活用しなくてはと思い始めた。新年の抱負としてではないが、私が立てた目標は実は数年前からずっと同じだ。ということは大多数の、新年の抱負を達成できていない人、挫折した人と同じになっている。年内に必ず自身の目標に対して振り返る機会を作ろうと思う。自己分析が上手になれば目標達成への近道となるはず。まずはそれが私の今年の抱負だ。   <謝志海(しゃ・しかい)Xie_Zhihai> 共愛学園前橋国際大学専任講師。北京大学と早稲田大学のダブル・ディグリープログラムで2007年10月来日。2010年9月に早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士後期課程単位取得退学、2011年7月に北京大学の博士号(国際関係論)取得。日本国際交流基金研究フェロー、アジア開発銀行研究所リサーチ・アソシエイトを経て、2013年4月より現職。ジャパンタイムズ、朝日新聞AJWフォーラムにも論説が掲載されている。     2017年2月2日配信
  • 2017.01.26

    エッセイ519:カバ・メレキ「13年ぶりのトルコ―人の死に慣れる自分―」

    明るく話すのが好きで、明るいトピックを好む私も、世の最も悲しいことの1つである若い人の死のただ傍観者になってしまうことについて書く日がやって来たようである。   2003年からの13年間の日本滞在を経てトルコに帰国したばかり。長い日本滞在の影響もあってバイカルチュラルになったことに帰国してから気がついた。それぞれの文化に異なることは多いが、身体が死ぬのは世界の文化を問わない。身体の呼吸は止まりどんどんと冷たくなっていく。死はどの国でも冷たい。日本で私が意識する人の死は駅の人身事故の放送だけだったかもしれない。しかし今は人の死が日本とトルコでは同じではないと思っている。   帰国してから私を出迎えたのは2016年7月15日の軍人の中に身を隠していたフェト(フェトフッラー派テロ組織(FETÖ))のメンバーによるクーデター未遂事件に、分離主義テロ組織クルド労働者党(PKK)などが行うテロ。さらにトルコ語の音に難民のアラビア語の言葉が混じる街、急激な経済成長が豊かにした人々の暮らしぶり。このような変化はメディアからも読み取れる。   しかし以前と異なるもう1つのことは人々の考え方に起きた変化である。都市化による個人主義と自由主義が普及し、経済力においてもブルジョワ的な要素をもたらした結果、人々は明らかに以前よりかなり楽な生活を送っている。デジタル化の進歩も目まぐるしいし、iPhone、PC、インターネット利用は年配の人にまで驚くほど普及し、すでに日常化している。体よりも頭を使う仕事の数が増えている。そのような日常生活の変化によって、型にはまった考え方の多くは柔軟な考え方に取って代わっている。心身ともに「豊か」になっているトルコである。しかし、皮肉的に言えば13年前よりも豊かになって、13年前よりも沢山の人が死んでいる。このジレンマは中東の地政学的な特徴から自由ではないと思う。   トルコの今日のニュースはフェト、PKK、シリア戦争、様々なテロ組織、トルコ軍のシリアでの活動を中心軸にしている。それにアレッポの悲惨も加わってしまった。ここ数日は街頭にアレッポに送るための物質を集めるテントが目立つようになった。アレッポは今住んでいるカッパドキアの540キロ先にあって、朝出発すれば昼までに到着できる場所にある。我々は死の近くに住んでいて、死とともに生きている。先週、私の職場のコピー担当の若い女性が真っ赤な目をして、私のために梶井基次郎の短編である「檸檬」をコピーしてくれた。アレッポの子供たちのニュースを聞いて涙していた。「檸檬」の主人公はレモンを丸善の店に置き、それが爆弾であると考え、そしてそのレモンの爆発によって愉快な気持ちになる。多分中東の我々の心の中にも「檸檬」の主人公に罹った「得体の知れない不吉な塊」が宿っているのかも知れない。なぜなら、子供や若者の殺害を許すような社会になっているからである。   毎日数人の警察官、軍人、一般人がテロの犠牲になるニュースを「当然のように」聞く。何気なく「山手線は人身事故の影響で運転を見合わせております」と聴きながらポカリスエットをごくごく飲んでのんびりと駅構内を歩く時の記憶に似たところがある。それでも日本にいた時、死は「竹取物語」のおじいさんが行く山の後ろとか、どこか遠くにあったような気がしていた。しかし、一度に沢山の人の葬式を行い、彼らの身体を土の中に埋葬する葬式をテレビのこちら側から文字通り毎日観ている。それでもこうして毎日トルコのおいしいパンを食べ、大学の自分の部屋の窓から松の木が雪に覆われた緑と白の風景を見ながら一文ずつ丹念に読んで、「檸檬」をトルコ語に翻訳している。   テロが起こるイスタンブールやシリア国境に近い地域以外の場所に住んでいる我々は、市場で果物を何キロも買って、週末は出かけて、周りの子供たちと一緒に野良猫に餌をあげて、信じられないほど静かに暮らしている。問題は同じ国と隣国で1秒ごとに死ぬ人々の死に慣れて自分の生活を続けていることである。毎日続く人の死に慣れてきた自分がいる。しかしこのような自分にはどうしても慣れない毎日である。どうにかしてテロや戦争を終わらせたいという気持ちを持つが魔法の杖は当然ないわけである。だから中東の子供たちに平和と命の尊さを教えたい。それが我々の責任であると思う。   <カバ・メレキKABA Melek> 渥美国際交流財団2009年度奨学生。トルコ共和国ネヴシェル・ハジュ・ベクタシュ・ヴェリ大学東洋言語東洋文学部助教授。2011年11月筑波大学人文社会研究科文芸言語専攻の博士号(文学)取得。白百合女子大学、獨協大学、文京学院大学、早稲田大学非常勤講師、トルコ大使館文化部/ユヌス・エムレ・インスティトゥート講師を経て2016年10月より現職。     2017年1月26日配信
  • 2017.01.19

    エッセイ518:李鋼哲「トランプ・ショックからトランプ・チャンスへ発想転換を」

      昨年11月9日に米国大統領選挙の結果が発表されると、世界に大きな衝撃が広がっていった。「トランプ・ショック」で、これからの米国と世界の行方を心配する声が世界中の世論を沸かす。民主党が強い米国の主要都市では大きなデモが発生した。当選した大統領に対する反対デモは、米国だけでなく世界でも例を見ない。新年早々の米国内世論調査でも、トランプ次期大統領の支持率は50%にとどまり、歴代大統領就任直前の支持率では最も低く、国民の分断によって今後の政権運営が難しくなることが予想される。   2016年は国際社会において波乱万丈の年、世界の流れが大きく転換した年であった。かつての「大英帝国」イギリスは7月に国民投票でEU離脱(Brexit)を決定、移民やテロを問題視するEU諸国でも波紋が広がり、極右保守政党が台頭しつつある。そして、今度は「アメリカ帝国」の大統領選挙で、もう一度世界に衝撃を与えたのは偶然の連続ではなく、「行き過ぎた」グローバリズムに対する反動であろう。世論ではEUや米国の先行きについて懐疑と心配の声が圧倒的に多いように見受けられる。これは一つの時代の終わりと新しい時代(多極化または無極化)の始まりを告げる鐘声ではなかろうか。   さらに世界の近代史において、19~20世紀にかけて欧米を中心に創られた世界秩序が、冷戦やポスト冷戦期のグローバル化資本主義を経て、21世紀に入り行き詰まってしまったことに対して、新しい秩序への変化を求める重要なシグナルだと見ることもできるだろう。もちろん、1世紀以上にわたって創られた1つの秩序から次の新しい秩序が成立するまで、世界は波乱と混沌が続く可能性が増すだろう。しかし、他方では、イマニュエル・ウォーラーステイン(アメリカの社会学者)が分析した、中心(先進国)と周辺(途上国)という構図が根底から変わり、先進国と新興諸国が平等な土台に立って、新しい世界秩序を模索・構築していく序曲になるかも知れない。   目を転じてアジアの未来を考えると、日本やアジアにとって「トランプ・ショック」はリスクの要因が大きいかも知れないが、発想を転換すれば、これまでの米国との関係を再構築する重要なチャンスとしてとらえることができるだろう。かつて、鳩山由紀夫元首相は「対米関係の見直し、沖縄米軍基地の国外移転、東アジア共同体を目指す」という対外関係の方針を打ち出して米国の反発を買い失脚したが、今こそ、そのような方向性は再検討すべき重要な課題のひとつになるのではなかろうか。安倍政権では日米同盟を強固なもの、半永久なものと強調しているが、日本の50年後や100年後のビジョンを考えた場合、いつまで非対称的な同盟(対米従属)関係を続けるのであろうか。   トランプ新大統領は就任後に、選挙公約で掲げた政策を修正しながらも実施しようとするだろう。米国がTPPを批准しないことになると、日本政府が熱心に進めてきたTPPは無意味になる。日本は、米軍駐留経費の負担増要求(トランプ氏は「海外駐留米軍の撤退」をも言及している)など多くの難題を突き付けられるだろう。日本は思い切って発想転換をすべき時なのかも知れない。米国の政策を逆手に取って、東アジア地域の経済連携を強化するチャンスかもしれない。沖縄問題をはじめとする駐留米軍の基地問題を根本的に解決するチャンスかもしれない。   もちろん日米同盟を一気にぶっ飛ばすということではない。しかし、世界の勢力図が大きく変わりつつある今日、その時代にふさわしい方向を模索していくことは不可欠であろう。1つの選択肢として、日米同盟に代わる安全保障メカニズムを「六者協議」を土台として、朝鮮半島南北+日米中ロが共同で「東北アジア安保協議体」を構築するという構想も改めて検討する価値があるだろう。それにASEANやインドなどアジア諸国を加えると幅広い「東アジア安保協議体」になる可能性も生まれてくるだろう。   多くの日本人は「同盟」を自国の安定を守ってくれるシステムと考えているようだが、日本も同盟国アメリカを守る義務を負うのが本当の意味での平等な同盟であることは言うまでもない。また、「同盟」は自国を守るという側面もあるが、他方では必ず敵(または仮想敵)を作るという両刃の剣のリスクを持ち合わせていることを忘れてはならない。何故かというと、「同盟」は敵が存在しないと意味がないからである。近年日本では「中国脅威論」、「北朝鮮脅威論」(確かに脅威的な側面がないわけではないが)が増えている裏には、為政者たちが意図的にマスコミを通じて脅威論を煽り、国民に恐怖心を植え付け、自分たちの集団利益を図っているというところが本音であろう。日本の国防費がここ4年間増えているという実態がそれを物語っている。東北アジアで軍備競争の機運がにわかに高まっていることは警戒しなければならない。   現在、日本にとって最大の貿易相手と輸出市場は東アジア地域で、日本の対外貿易の55%(2015年)以上を占めている。そのうち半分近くは中国(香港、台湾を含む)である。したがって、日本はあまり国益にならないTPPに固執するよりは、RCEPを推進したほうが、現在も未来も日本経済に大きな利益をもたらすことは明らかである。RCEPに関する交渉は2012年から始まって16年に締結を目指していたが、日本が対米関係を重視しTPP加盟を優先課題として力を入れていたため、交渉が前進していない。今こそ、日本と東アジアがRCEPを進め、「東アジア経済共同体」を目指す絶好の機会であるかも知れない。   トランプ・リスクをチャンスに変えるためには、日本や東アジア諸国は発想の転換が必要であろう。日本では批判と心配の声が多いフィリピンのドゥテルテ大統領は、対米・対中外交方針を大きく転換し、もしかすると日本や東アジア諸国が対米関係を根本から見直す先駆けになるかもしれない。   注記:このエッセイは選挙翌日の昨年11月10日に書き、最近修正した。トランプ大統領当選に対する世間の評価が変わりつつあるが、当時の世論ではほぼ「トランプ・ショック」一辺倒だった。   <李鋼哲(り・こうてつ)Li Kotetsu> 1985年中央民族学院(中国)哲学科卒業。91年来日、立教大学大学院経済学研究科博士課程中退。東北アジア地域協力を専門に政策研究に従事し、2001年より東京財団研究員、名古屋大学研究員、総合研究開発機構(NIRA)主任研究員を経て、06年現在、北陸大学教授。日中韓3カ国を中心に国際舞台で精力的に研究・交流活動に尽力している。SGRA研究員および「構想アジア」チーム代表。近著に『アジア共同体の創成プロセス』(編著、2015年4月、日本僑報社)、その他論文やコラム多数。   ☆SGRAエッセイは執筆者個人の見解でありSGRAを代表するものではありません☆   2017年1月19日配信
  • 2017.01.12

    エッセイ517:林泉忠「『トランプ・蔡電話会談』米中角逐の新たな幕開け」

    12月2日午後11時、台北の総統府蔡英文総統からアメリカ大統領当選者トランプ氏への一本の電話が、北京の神経を尖らせ、また国際社会をも震撼させた。この日「TAIWAN(台湾)」が人目を引き、アメリカなどの国際メディアのトップニュースとなり現れた。驚きの表情を隠しきれない中国外相の王毅氏と中国国務院台湾事務弁公室スポークスマンが、メディアからの質問に答えた際に、「痛くも痒くもない」の一言だけを返した。「これは台湾側が行った小細工に過ぎず、1つの中国の構造を変えることは不可能である」と。   しかしながら、突然起こった12分間の「トランプ・蔡電話会談」が、いったいどれだけ中国指導部を驚愕させたかは、容易に想像がつく。連日中国共産党政府は、全ての国家安全機関とシンクタンクを動員し、今回の「電話事件」発生のいきさつを明らかにしようとしているが、調べれば調べるほど中南海をがっかりさせる結果となっている。   まず、常識にとらわれないカードを出すトランプ次期大統領の性格からすると、もし「トランプ・蔡電話会談」がふとひらめいた行動だったら、大して驚くことではない。ところが、アメリカ大統領選に勝利した直後、トランプ氏のチームはすでに各国首脳と電話会談を行う名簿を作成しており、消息筋によると、早い段階から「蔡英文総統」はその名簿の中に入っていたそうだ。通話のスケジュールが確定した後、関係者はトランプ次期大統領に説明を行っており、トランプ氏はもちろんネガティブな反応が出る可能性を十分に理解していた。言い換えるなら、今回の「トランプ・蔡電話会談」は偶然に起こった軽率な出来事ではなく、関係者たちによる周到な計画があって成しえた事で、決して台湾側の一方的な「小細工」として説明できるほど簡単なことではない。   ◇周到にアレンジされた「トランプ・蔡電話会談」   次に、中国の最大の心配事は結局のところ、「電話茶番」が、1970年代に構築された「キッシンジャー体制」以来アメリカが堅持している「1つの中国」政策の変更をトランプ氏が意図しているかどうかである。現在トランプ次期大統領の政権人事はまだ完全には固められておらず、また厳格に言うと、就任前の言動も、これからの米国政府の政策とは同じではないにもかかわらず、中国を懸念させる情報が1つまた1つと出てくるたびに、中南海はもうすでにトランプ氏の中国政策に対して引き続き「慎重で楽観的」でいられなくなっている。   ひとしきりの驚愕と震撼が過ぎ去った後、「トランプ・蔡電話会談」を主導していた一大勢力が浮上してきた。それは、アメリカ「ヘリテージ財団」である。イデオロギー的にアメリカの保守勢力の重鎮と見なされているこの財団は、1973年に創立され、創立者のフュルナー(Edwin_Feulner)氏の40年あまりの運営を経て、現在のような年度予算8000万ドルを超えるまでに発展し、ワシントンD.C.に対する影響力が最も大きなシンクタンクの1つとして見なされるようになった。共和党出身の歴任高官の多くはこのシンクタンクから政界入りしており、トランプ次期大統領に運輸長官に任命されたイレーン・チャオ氏もまたその中の一人である。選挙期間中、ヘリテージ財団はトランプ氏の為に政策白書を作成しただけでなく、財団の多くのメンバーも応援団として参加している。注目すべきは、ヘリテージ財団は数十年にわたって台湾との関係が密接であり、ワシントンD.C.の親台本営と見なされており、また台湾は長きにわたりロビー活動や交流を行ってきた対象でもある。   ◇影響力絶大の「ヘリテージ財団」   「トランプ・蔡電話会談」をもっとも直接的に推し進めたのは他でもない、まさに長期にわたりヘリテージ財団の総裁を務めてきたフュルナー氏である。フュルナー氏と台湾の政界はもともと深い関係にあり、台湾への訪問はすでに20回を超え、台湾歴代総統の就任式典にも数多く参加しており、李登輝、陳水扁、馬英九、蔡英文などの歴代の総統との面会も17回にも及ぶ。蔡英文総統と同じロンドン・スクール・オブ・エコノミクスを卒業したフュルナー氏は今年8月にトランプ応援団に参加し、上級顧問として国家安全保障外交政策を務めるトランプ次期大統領の最重要ブレインの一人である。フュルナー氏は10月に財団訪問団を引き連れて台北を訪問し、13日には総統府において蔡英文総統と面会した。   ヘリテージ財団の米台関係における重要な地位にあり影響力があるもう一人の人物は、財団研究員のスティーブン・イェーツ(Stephen_Yates)氏で、彼は現在アイダホ州共和党主席を務めており、またトランプ氏側の顧問も兼任している。イェーツ氏は、ディック・チェイニー(Dick_Cheney)副大統領の国家安全保障問題担当副補佐官を務めた人物で、今年に入り「台湾関係法」と「6つの保障」(Six_Assurances)を共和党の綱領に入れた起草者でもある。その内の「6つの保障」はまさに、北京を怒らせてやまない「中国の台湾に対する主権を承認しない」である。イェーツ氏はもともと台湾と深い関係にあり、1987年から89年にかけて、高雄でモルモン教の宣教師をしていた事があり、流暢で且つ台湾なまりの北京語を話し、台湾の政界及び社会各界に幅広い人脈を持っており、財団の同世代の中で彼の右に出るものはいない。「トランプ・蔡電話会談」の4日後、イェーツ氏はトランプ氏の意思を携え台北を訪れ、更に蔡英文総統を表敬訪問した。   「トランプ・蔡電話会談」のアメリカ政界における反応は、ほぼ二極化して現れており、在任中のオバマ政府は、やはり「1つの中国」政策を重ねて表明したので、この電話が長年における米国の対中政策に衝撃を与え、世界の2大経済大国間の協力関係に影響を及ぼしたくないことがはっきりと窺える。しかしながら、民主党の人々及びアメリカメディアによる「1つの中国政策」に対し、トランプ氏本人がツイッターやフェイスブックに続けて投稿し強く反撃しただけでなく、主にトランプ側の要員や共和党内にいる有力政治家もまた、次々と「トランプ・蔡電話会談」への評価を表明し、ホワイトハウスの長く続く硬直した思考を問いただした。トランプサイドの顧問を務めているある元国務院の役人は、実際は「トランプ・蔡電話会談」に関わった人物は皆、長年にわたりアメリカがとってきた「1つの中国政策」を非常に理解しているが、「過去に共和党や民主党の大統領が行ってきた事を、トランプ氏が同じように行うとは限らない。彼にとっては典型的なワシントンのルールが必ずしもいつも最も良いものではない」と言及した。   ◇「台湾」をカードとする米中の新たな角逐   中国にとってトランプ時代の対中政策の不安材料は「トランプ・蔡電話会談」にとどまらない。トランプ次期大統領が蔡総統からの電話を受けたまさにその日に、米下院は圧倒的多数で「国防権限法」を可決し、新法案は20年余りに渡る米台間の軍事交流上の多くの制限を解除し、米台関係の未来を「無限の可能性に満ち溢れ」させた。実際、台湾側はすでにその法案が米の上、下院で通った後の検討・協議を開始しており、台湾の国防相が正々堂々とペンタゴンに足を踏み入れることを待望し、また台湾をアメリカ主導の環太平洋合同軍事演習に参加させ、台、米、日、3者による軍事上の協力を実現するという望みがある。   確かに、習近平体制下の北京からすると、「台湾問題」は決して容易に妥協できない「核心的問題」である。「トランプ・蔡電話会談」は危機であると同時に転機でもあり、少なくともすでに中国はトランプ時代に対する「慎重で楽観的」な認識からは転換しただろう。北京はトランプが就任するまでの残された時間を座視することなく、トランプの弱点と人脈について研究し、同時にトランプ次期大統領の対中政策に影響を与えうる全ての人物に近づくことに大幅に力を注ぎ、40年間に渡ってアメリカが既定してきた「1つの中国政策」が完全に歪められないように確保するだろう。   「台湾」をカードとするトランプ時代における米中の角逐は、新たな幕開けを迎えている。   (原文は『明報』(2016年12月9日付)に掲載。比屋根亮太訳)   英訳版はこちら   <林泉忠(リン・センチュウ)☆John_Chuan-Tiong_Lim> 国際政治専攻。2002年東京大学より博士号を取得(法学博士)。同年より琉球大学法文学部准教授。2008年より2年間ハーバード大学客員研究員、2010年夏台湾大学客員研究員。2012年より台湾中央研究院近代史研究所副研究員、2014年より国立台湾大学兼任副教授。     2017年1月12日配信
  • 2016.12.29

    エッセイ516:高偉俊「アジア未来会議に思うこと」

    (第3回アジア未来会議「環境と共生」報告#9)   第3回アジア未来会議が、20ヵ国から397名の登録参加者を得て、北九州市で開催されてからもう2カ月が過ぎました。元渥美財団の奨学生として第1回アジア未来会議の企画当初から係わり、また、私の所属する北九州市立大学が第3回アジア未来会議を共催することになり、現地連絡責任者として大会運営に携わった者として、いろいろな思い出が湧いてきます。   2009年ごろだったと思いますが、私を含めた数人のSGRA会員が渥美財団の今西さんとおしゃべりしているうちにだんだん話が盛り上がってきました。それは、元渥美奨学生(ラクーン)はすでに世界中に広がり、大学の教授になって学生や若手研究者の指導をしたり、研究所や企業等で研究活動を続けている。そのような元奨学生(渥美財団のこどもたち)や彼らが指導する学生や若手研究者(渥美財団の孫たち)が集まる国際会議を立ち上げ、渥美奨学生やSGRA会員の交流の輪を拡げ深めたいという話でした。   翌年、事務局長(当時)の嶋津さんも交えて話す機会があり、そのような国際会議をやりましょう、そして第1回会議は経済大国として台頭する中国の上海で開催しましょう、ということになりました。それから徐々に、会議の名前は「アジア未来会議」とすること、ネットワークを広げるために、SGRA会員だけでなく日本に留学し現在世界各地の大学等で教鞭をとっている方々や、その学生の皆さんにも交流・発表の場を提供すること、限定された専門家ではなく広く社会全般を対象に、幅広い研究領域を包括した国際的かつ学際的な活動を狙いとすることなどが決まっていきました。   2011年4月、第1回アジア未来会議の企画案が出来上がりました。テーマは「世界のなかの東アジア:地域協力の可能性」とし、参加者150人以上の規模をめざし、2012年8月上旬に上海で開催としましたが、その後、諸般の事情により、2013年3月に500人の規模で開催する計画に変更されました。2011年7月18日から21日まで、今西さんと一緒に上海を訪問し、メイン会場として3000人収容できる上海同済大学会場を視察、上海市僑務弁公室副主任蔡建国氏および複旦大学日本センター主任の徐静波先生に協力をお願いし、SGRA会員の上海財経大学の範建亭教授と打ち合わせを行いました。   2012年に入ってから、2回の現地訪問を重ね、着実に会議の準備を進めていましたが、2012年8月に尖閣諸島(中国では「釣魚島」)の「国有化」問題のために中国の反日運動が激しくなりました。国際政治に翻弄され、良き地球市民の実現を目指す渥美財団としては非常に残念ではありましたが、2012年10月に上海での開催を断念し、会場を上海からタイのバンコク市に移すことになりました。開催まであと4カ月しか準備期間がありませんから、慌ててバンコクを視察し、タマサート大学と北九州市立大学に共催を打診し快諾をいただきました。また当初イベント会社に依頼して企画してもらう計画も水の泡になりましたが、そのおかげで、その後の会議はSGRAネットワークを利用して、渥美財団が自ら企画運営する原型になりました。   SGRA会員の積極的な参加、多くの企業等の後援により、第1回アジア未来会議は20か国から332名の参加者を得ました。建築家隈研吾氏の公開基調講演には1200人が参加して成功へ導きました。フェアウェルパーティーにて第3回アジア未来会議の開催地の話が出て、当会議に参加した北九州市立大学の近藤学長から「ぜひ北九州で行いましょう」というお話があり、その場で決まってしまい、北九州市立大学の教授として私は重い責任を感じました。その後、2014年8月にインドネシアのバリ島で、第2回アジア未来会議「多様性と調和」が、17か国から約400名の参加者を得て開催されました。私としても北九州の開催に向けて益々緊張が高まりました。環境首都の旗を掲げた北九州での開催ですから、メインテーマを決めるのはそれほど時間がかかりませんでした。日本語の「環境と共生」の英訳には当初の「Environment and Symbiosis」より広い意味の「共生」を意味する「Environment and Coexistence」としました。   日本で初めての開催、また地方都市の北九州市での開催ですから、参加者が集まるか心配でした。しかし、論文の発表要旨の締め切りをした時点で700編を超える応募があり、改めてSGRAネットワークの強さを感じました。また会議開催に当たっては、投稿論文の査読やセッション座長から受付や会場案内まで、多くのSGRA会員がボランティアで手伝ってくださり、会議の成功に向けて奮闘してくださいました。最も感動したのは、渥美伊都子理事長がご高齢にもかかわらず会議に参加してくださり、大きな励みになったことでした。   北九州市立大学としても、第3回アジア未来会議を創立70周年記念の大行事と位置づけ、学長のリーダシップのもとに、副学長漆原先生を部会長としてアジア未来会議部会を立ち上げ、10回ほどの会合を開いて会議の開催に尽力しました。会議期間中に、職員の応援延べ86人、学生ボランティア延べ134人を動員し、休憩時のピアノの演奏や茶道のお点前など多くのイベントを準備しました。特に感動したのは漆原先生が食堂に立ち、自らマイクをもって、茶道のインベトの宣伝をする姿でした。このような大きな行事の開催によって、我大学としても大きなものを得たことを付け加えたいと思います。   以上のように、第3回アジア未来会議はみなさんのおかげで無事に成功裡に終了しました。渥美財団の元奨学生として、また今回の会議の運営組織の一員として振り返ってみると、アジア未来会議の開催は我々SGRA会員の交流を深めるばかりではなく、社会へSGRAの主張を広げることにより、良き地球市民の実現を目指すSGRAの目標に近づくことにもなったと思います。これからもより多くの方々にアジア未来会議に参加していただき、国境を越えたアジア未来を語っていきたいと思います。   <高偉俊(ガオ・ウェイジュン)Gao_Weijun> 北九州市立大学国際環境工学部建築デザイン学科教授。中国西安交通大学、四川大学、浙江大学等客員教授。SGRA研究員     2016年12月29日配信
  • 2016.12.22

    エッセイ515:林茜茜「天災は頑固に、保守的に執念深くやって来る」

    ◆林茜茜「天災は頑固に、保守的に執念深くやって来る」   天災は忘れた頃に来る。これは物理学者・寺田寅彦の言葉である。初めてこれを見た時、はっと我に返り鳥肌が立ったのをいまだに覚えている。   2016年11月22日の早朝、東北地方で再び大きな地震が発生した。津波警報と同時に、福島第二原発三号機の使用済み燃料プールの冷却装置が停止したというニュースも報道された。幸いなことに、2、3時間後、冷却装置は無事に再起動したものの、その時、日本列島に再び衝撃が走り、人々は5年前のあの悪夢を思い出してしまった。   2011年の東日本大震災からすでに5年も経ったが、原発の問題はいまだに解決されておらず、原発に恐怖を覚えながら、日々を暮らさなければいけない状況もまったく改善されていない。いったい福島で何が起きていたのか、根本的な問題は何であるのだろうか。今回の地震が起きるおよそ3週間前に、東京大学名誉教授の畑村洋太郎先生は、渥美国際交流財団ホールでの「渥美奨学生の集い」で「福島原発事故に学ぶ」という講演を行い、その答えを教示してくださった。   畑村先生は、福島原発の放射能漏れの原因は水素爆発にあったという一般的な認識を否定し、津波による配電盤の水没で長時間全電源が落ちていたため、燃料プールの冷却が不能だったことを指摘した。つまり根本的な原因は、津波がもたらしうる影響を充分に想定できなかったことにあるという。もちろん、事故が起きた原因を究明することも大事であるが、一番重要なのは、この事故から学んだことを今後に生かすことである。先生は、人間は「見たくないものは見えない、見たいものだけが見える」という心理が働くため、想定不足や準備不足による事故に陥りやすいと指摘した。それを踏まえたうえで、このような事故を防ぐには、危険に直面しても議論できる文化の醸成が必要で、自分の目で見て自分の頭で考えて判断・行動できる個人を作り、真のリーダーを育てなければならないと訴えた。   講演後、参加者から多くの質問が出た。例えば、経済効率の点から考えると、原発を推奨する必要性があるのか、中国や韓国における原子力発電の現状はどうなっているのか―このような多くの質問のなかで、私にとって一番印象深かったのは、畑村先生と名古屋大学名誉教授の平川均先生が交わした会話の内容である。先生方は、現在日本の社会は「気」に動かされており、特にリーマンショック以降、他人と異なる意見が言えなくなる状況が深刻化し、ますます村八分的なことが横行する社会になっていると指摘した。   確かに日本で生活してみて、不思議に思うところが多くあった。ここで取り上げられた「気」はまさにそのうちの一つである。「出る杭は打たれる」という表現があるが、日本では度が過ぎていて、個性や他人との差異はあまり認められないようである。それは現在日本でイジメが絶えない原因の一つになっていると考えられる。集団意識、協調性はすばらしいが、同一性を求めすぎると、窮屈になり、社会の活性化はますます難しくなってしまう。   イジメといえば、最近福島第一原発事故で福島県から横浜市に自主避難した中学1年の男子生徒がいじめを受けて不登校になったことが大変注目を浴びている。名前に「菌」と付けて呼ばれたり、「放射能」と言われたりするのみならず、「原発事故の賠償金をもらっているだろう」と言われ、同級生らと遊びに行く時に、遊興費や飲食代など合せて約150万円もの大金を負担させられたという。そのニュースを見た時、本当にあきれてしまった。優しい、思いやりがあると自負している国の子供なのに、なぜこのような残酷なことができるのだろうか。もちろん原因はいろいろあるだろうが、賠償金の事情や避難生活をしている人々に対する社会全体の関心の低さが、その一因と考えられる。今後、原発事故に関連するほかの問題も出てくるかもしれないが、原発事故だけでなく、避難生活を余儀なくされている人々にも、スポットライトをあてる必要があると思う。このように、畑村先生の講演は福島原発事故の問題のみならず、日本の今日の在り方を見詰め直す貴重な機会も提供してくれた。   今回の地震の時、テレビのアナウンサーが繰返し口にした次の言葉が、大変興味深かった。「津波警報が出ています。至急高い所に非難してください。皆さん、5年前の津波を思い出してください。実際に津波で命を失った方がたくさんいました。至急非難してください。」この言葉からは、過去の教訓を生かして、悲劇の再発を防ぐために努力している人々の前向きな姿勢が感じられ、少しはほっとしているが、しかし道のりはまだまだ長い。寺田寅彦は随筆「津浪と人間」で「地震や津浪は新思想の流行などには委細かまわず、頑固に、保守的に執念深くやって来るのである」と述べ、災害を防ぐ唯一の方法は「人間がもう少し過去の記録を忘れないように努力するより外はないであろう」と熱弁している。寅彦が言うように、私たちにできることは、人智が及ばぬ天災が起こりうる現実を直視し、過去の教訓に学んで、絶えずその危機に直面したときのことを考え、警鐘を鳴らし続けるよりほかはないと思う。   <林茜茜(リン・センセン)Lin Qianqian> 渥美国際交流財団2016年度奨学生。2013年4月に早稲田大学教育学研究科国語教育専攻に入学。現在は博士論文を執筆中。日本近代文学、中日比較文学を中心に研究している。     2016年12月22日配信  
  • 2016.12.15

    エッセイ514:グロリア・ユー・ヤン「トランプのアメリカ:鶏足を持ち込んだ華人」

    12月1日、朝5時。眠れなかった。書かなきゃと思った。 「鶏足とトランプ」 どこから始めようか。「アジア人はアメリカに入国する場合、MSP(ミネアポリス・セントポール)空港を避けてください。人種差別を経験してみたいと云うなら別ですが」にしよう。   アメリカ入国審査は、決して愉快な経験ではないけど、ものすごく悪いわけでもない。審査官はコンピューター上に記録を引っ張り出し、それに目を通し、データにタイプし、旅行の目的など短い質問をする。もし審査官の機嫌が悪い時には、殆んど無言で待てば良い。普通は「米国へようこそ」で終わる。この10年間、一貫して学生ビザだったので、質問も段々減ってきた。10月にニューヨークに戻った時もそうだった。   今回のMSPは全く違った。乗客が少ないのに手続きが遅かった。白人の審査官が、ビザ免除の日本人にも大きな、かつ乱暴な口調と手振りで質問していた。彼らは、アメリカ人であろうと無かろうと白人は直ぐに通した。アジア人ばかりが残った。   この中年で禿げ始まった白人の審査官は、私が今まで受けた事の無い、意味不明な質問をした。私の答えを遮ったり、他の質問に飛んだり、又、同じ質問に戻ったりした。終わりが無く、脈絡も無く、かつ乱暴な口調での質問に私は我慢しながら、目的は何だろう、もしかして、「審査室」に連れ行きたいのかと考え始めた。   たくさんの質問の後、彼はやっと口を閉じ、今度は私のパスポートを見始めた。世界各国のスタンプをパラパラとめぐりながら「何でこんなに多くのアメリカビザがあるんだ?」と聞いた。 「最近まで、アメリカは中国人に毎年ビザを更新する様に要求していたから。」(その都度、200 ドル、取られました。) 私は非常に慎重だった。仕方がない。彼は随意に私の入国を拒否出来る。彼自身もその権力をよく知っている。   彼はボールペンを取り出し、入国スタンプに、ひとつずつ線を引きはじめた。何でずっと残しておいたのかと文句を言いながら。 アメリカ入国スタンプで一杯のパスポートを2冊持っていた。いままでの入国審査官は誰も何も言わなかった。私は、彼が私の唯一のリーガル・ドキュメントに線を引くのを見ていたが、現在有効なビザにも線を引こうとしたので、声を出し止めさせた。 他の審査官が3人か4人を通過させた時、彼は質問を聞き尽し、これ以上は諦めた、と思ったのは私の思い違い、これからがスタートだった。   「ところで、どこの国から来たの?中国?」(最初から私のパスポートを見ていたはずです) 「はい。」 「荷物はいくつ?」(この質問は国籍の質問の前に聞かれたばかり) 「ひとつです。」 「ひとつ…食べ物は持っている?」(これは普通、税関での質問ですが) 「いいえ。」 「持ってない?」 「持っていません。時間がなかったので。」 彼は目を細めた。「月餅も持っていない?」 月餅。 中秋でもないのに月餅。私が中国人だから?このくだらない会話の行方が段々分かってきた。 「月餅? なぜですか。持っていません。」 「本当に?」 「持っていません。今回は日本から来たので。」 「持ってない?月餅も鶏足も持ってない?」   鶏足。 鶏足。 中国人だったら、必ずこの異国情緒たっぷりで未開地の気持ち悪い食べ物を食べる。そして、この偉大なアメリカにこっそり持ち込む。 ただし、私は彼の間違った知識と非道徳性を正す権利を持っていない。彼は権力者であり、私は外人として、鶏足に答えなければならない。 「私は鶏足を持ち込んでいません。」 「本当かい?鶏足のようなものも持ち込んでいない?」 「ここに10年近く住んでいますが…」 彼は私の言葉を遮って「10年だろうがそれ以上だろうが、<彼ら>は鶏足を持ち込んでいる。」 「私はしません。」 「私は嘘を言ってないよ。」彼は呟いて、「<彼ら>はここに持ち込んでいる。我々はそれを見たんだ。<彼ら>は持ち込んでいるんだ。」   「彼ら」という言葉が私の体と頭の中に響いた。彼のつぶやきも聞こえなくなった。   ある不法移民のメキシコ人がいる故に、どのメキシコ人も不法移民かどうか疑う。なぜかというと、「彼ら」は不法移民だから。 ある犯罪者の黒人がいる故に、どの黒人も犯罪者かどうか疑う。なぜかというと、「彼ら」は犯罪者だから。   今回の選挙で、なぜアメリカの人々がトランプを選んだのか、やっとわかり始めた。 「私ではない。 」もうそのまま引き揚げようかと考え始めた。 「…オーケー。書類と荷物を持ってあそこに行って検査を受けて。」 いつもの「米国へようこそ」の挨拶は、プロトコールなのか優しさなのかわからないが、もうどうでもいい。 彼がテーブルに投げて寄こしたファイルを持って税関に向かった。   税関の官吏に「食べ物は?」「ありません。」「無い?野菜は?」「無い。」「リンゴは?」「無い。」「肉は?」「無い。」「生魚?」「無い。」「XXXXは?」「無い」 「オーケー、青い線のところでバッグの検査を受けて。農産物のXXX」 私の言葉が信じられないのなら、何故聞くの?   バラバラにされた荷物の現場。一人の若い女性が日本語の説明がついている使い捨てカイロについて怒っているような検査官に必死に説明していた。その後彼女はリパックし、「ありがとうございます。」という挨拶をしに来た。検査官はそれに応えず、こちらに向かって「あんたは感謝するべきだ。」と独り言を呟いた。そして私の書類をとり「バッグを載せて、黄色の線に沿って行きなさい」と。バッグを通し、食べ物がなかったことでちょっとびっくりした検査官は私に書類を渡した。「良い一日を。」 次の国際到着便は白人が多く、誰もが大きなバッグを持っていたが、X線検査に向かうことなくパスしていた。   もう限界を超えた。信じられない。ただの官僚的な無礼では済まない。そうではないからだ。私には反論する選択肢さえ与えられなかった。お互いに平等でない限り、グッド・ハートなど有りえない。 これを過剰反応とは思わない。一人のアメリカ人が日本人か中国人の入国審査官から、「カウボーイハットを持っているか?冷凍の七面鳥は?臭いチーズは?」と聞かれ、アメリカ人がなんと答えるか想像してみよう。そしてアメリカ人は「いいえ」と答える時を。「本当に?全てのアメリカ人は常に気味の悪い、胸の悪くなる様な食べ物を持っている。常にですから、あなたもね。」 もし私がまだ20代だったら、入国審査官に言い返しただろう。「今、鶏足やあひる足、また七面鳥の足でもニューヨークのスーパーで買えるよ。いろんな味で、オーガニックも、全てアメリカ製」と。 しかし、今回の選挙でわかったことは、皮肉は人種差別との戦いに勝てない。   20代で初めてアメリカに来た時、こんな質問には会わなかった。人々は強い偏見を持っていたかも知れないが、素直に会話を交わし、そして、考え方を変え、お互いの違いを受け入れた時期だった。過去10年、私は外国でも中国でも、人種、性別、そして、国籍に対する様々な差別と一生懸命闘ってきた。どこでも、アジアの文化、社会、政治について話すことによって、文化の多様性と社会の寛容性の尊さを知ってもらうために努力してきた。 20代に聞かれなかった鶏足の質問。2016年に来た。   アメリカ人は様々だ、その通り。良い人も沢山いる、本当に。しかし、本当の多様性というのは一方的なものではない。中国人、日本人、そして他の民族もアメリカ人と同じように、様々であるということを認めなければならない。そうでなければ、アメリカの多様性とは、1930年代に「五族協和」を宣伝した日本の植民地「満州国」と同じように偽善的なものではないだろうか。一言でいうと、アメリカは、白人をトップとし、中国人は中華街のキッチンに、メキシコ人はデリバリーの自転車にと、階級社会を前提とした複数の人種が共存する社会なのだ。   セキュリティゾーンを出る前に、もう一度振りかえってみた。彼らは正義の味方のように行動していた。お国の為だから。彼らの人種差別的な行動は愛国主義の名のもとに正当化される。それに私はぞっとする。今回の選挙結果は、外国人には乱暴な言葉や行為を振る舞えることを正当化した。新しい「偉大な」大統領と同じく、外国人を違法移民か、アメリカの「偉さ」を奪う盗人として見ても良いという結果になった。 「偉大な」アメリカは心底嫌いだ。   ニューヨークへの乗り換え便の中で、私は沈黙していた。隣の席に座った男性が荷物をキャビネットに入れ、軽く挨拶した。「こんにちは。」 その瞬間、ずっと我慢していた涙が落ちた。 2006年、私が初めてアメリカに来たとき、ピッツバーグ行きの乗り換え便で、まさしく同じ言葉を投げかけられた。今でも覚えている。その後、父にこう言った。「アメリカ人は優しいね」と。   選挙の後、何日も泣いた。英語、中国語、日本語で書かれた記事を読んで、悩んで考えた結論は、私はアメリカの大学で東アジア美術史を教える。たとえ、そこが中西部であろうと田舎であろうと。誰かが闘わなければならないからだ。しかも一生懸命に。教育に恵まれてきた私は、教育の力で偏見や差別を消すことができると信じていた。 が、今日は完敗だ。もう、これ以上無理だ。   アジア人のみなさん、アメリカへの入国にあたってはミネアポリス・セントポール空港を使ってはいけません。私達は戦いに敗れたのです。   追伸。2日後 つらかった。あれ以来2日間、私は米国国土安全保障省税関・国境取締局、MSP空港に事実抗議書を出し 、大学の学長と国際センターに手紙を送った。何もならないとわかっても、やるべきだと思った。 しかし、これでも私の気持ちは晴れなかった。逆に、怒り、落胆した後、深く落ち込んだ。   フェイスブックやメッセンジャーのコメントに返事をする気にもならなかった。 「白人である私にとっても国境を越える時の対応は悪かったよ。」 「鶏足はただあなたの国の代表的な食べ物の例としての質問ですよ。」 「なんなのこの悪い男!」 「アメリカ人の偽善さが今更わかったのかい、大げさだね。」 また、これがきっかけとなり、選挙後、アメリカ国境でアジア人に対する様々なひどい話を聞いても言葉が出なかった。   人々がなぜ、またどうやって自分の見方や経験から偏見や認識を抱くのか、私は良くわかっている。これは偶然ではない。アメリカ国境管理官の労働組合「国境巡回委員会」は公にトランプを支持していた。そして、私は、今まで差別に遭った瞬間に、自分自身に「これは私の感情的な過剰反応ではないか。」と毎回チェックしている。そして、今回を含む事件の答えはノーだった。   ニューヨークへの乗り換え便に乗った時、目の前のたくさんの白人たちが一瞬、全てトランプ支持の人種差別主義者に見えた。非合理だが強い感情に動揺し、背筋に悪寒が走った。このような負の感情に押しつぶされ、絶望的な不信感によって心にブラックホールができた。感情は実に重要なものだ。そもそも、今回の選挙では、知恵の欠如ではなく、恐怖と不安の気持ちに巻き込まれ、判断力を失った多くのアメリカ人がトランプに投票した。   1週間後、私は国際センターのディレクターとこの事件について話した。MSP国境管理官に問合せてくれることになった。そのあと、彼は聞いた。 「今から、あなたのことについてちょっと話しましょう。あれからどうですか。気分は。」 聞かれた瞬間、私は鬱になった理由がわかった。戦うことは、傷を癒すこととは別だから。 事件が解決に至るかどうか別として、私は傷ついた。その傷は深い。「私たちはあなたが癒されることを願っています。」 不思議に、その時からだんだん「私は大丈夫だ」と感じるようになった。傷は痛くてもきっといつかは治る。一週間の間に色々な人からもらった励ましも聞こえるようになった。   「選挙後の現実に、どう対応すればよいか。」戦う。そして自分を癒す。極めて難しい、そして苦しいことだ。ただ、そうしなければ、今後の厳しい現実を乗り越えられないだろう。   原文(英語)   <Gloria Yu Yang(グロリア・ユー・ヤン)楊昱> 2015年度渥美奨学生。2006年北京大学卒業。2008年からコロンビア大学大学院美術史博士課程に在籍。近現代日本建築史を専攻。2013年から2015年まで京都工芸繊維大学工芸資料館で客員研究員、2015年から東京大学大学院建築学伊藤研究室に特別研究生として、植民地満洲の建築と都市空間について博士論文を執筆。2017年5月卒業予定。   2016年12月15日配信   ------------------------------------------------------ ◆SGRAエッセイ「鶏足とトランプ」をめぐって   前回のSGRAエッセイ「鶏足とトランプ」に対してSGRA会員の葉文昌さんからコメントをいただき、さらに著者のグロリアさんから回答がありました。読者の皆さんにも考えていただきたい内容なので、お二人の許可を得てご紹介します。グロリアさんからの「急いで書いたので考慮が足りない部分がありますが、一緒に考えてください」というメッセージをお伝えします。   〇葉⇒ヤン   アメリカでのひどい経験、お気の毒でした。 でも他国へ行ったことがあれば、このようなことはどこかで経験しているかと思います。このような偏見は、どの国でも起こり得る事です。起きるたびに、自分がスティクホルダーである国ではどうなのかと自問し、それを解消できるよう自分なりの努力をするのが良いと思います。他国の事を変えるのは、その国のスティクホルダーしかないのです。   ヤンさんは不幸にもひどい仕打ちを受けましたが、でも実際にはアメリカには非差別主義者も多くいる訳で(差別主義者よりも多いかもしれない)、今回の経験からアメリカは変わったと嘆くのはまさに差別主義者の思う壺で、世界を分断の方向に向かわせることに加担することになるのです。   更にヤンさんは「この中年で禿げ始めた白人」と書きましたが、「中年」「禿げ」「白人」は不要な情報で、これこそヤンさんを差別した差別主義者と同じことをしているように思います。   ひどい仕打ちを受けたのは本当に気の毒でした。次は、アメリカの優しい一面に出会えることを願っております。   ヤン⇒葉   ご拝読とご意見いただき、まことにありがとうございます。 葉様のコメント、非常に興味深いと思っております。   まず、冒頭に私が述べたように、今回の事件はアメリカの国境管理の中での異常です。   また、葉様は「でも他国へ行ったことがあれば、このようなことはどこかで経験しているかと思います。」とおしゃいますが、「人種差別が必ずどこかで起こっているから、今回の事件も普通」という推論こそが問題です。どこの国の国境管理においても、このような人種差別の行為は間違ったことであり、それを「普通にあることだ」とか「現実なのだ」などと語り、その行為を正常化することは、逆に人種差別を助長しているのです。どこであろうとも戦うべきなのです。 また、過去10 年の間に、アメリカで様々な人種差別の経験をした私から見ても、今回の人種差別はひどく、憂慮すべきです。その背景は複雑ですが、最近『ニューヨーカー』とか『ニューヨークタイムズ』などで沢山の分析が成されているので、是非お読みください。   次に、私は落ち込んだ理由は、事件そのものではありません。この事件をアメリカの最近の政治文脈の中においた時、浮き彫りにされるのはアメリカ社会の二重構造、「非差別主義者」の「無責任」や「偽善」など、様々な社会・政治・文化の憂うべき側面なのです。選挙の頃、私はちょうどニューヨークにいたので、その場で痛感しました。選挙によってリベラルな考えの人がみんな落ち込んでしまっている時期に、のんきな楽観主義は「毒」とも言えるでしょう。アメリカはただの多民族融合やただの民主国家ではありません。アメリカは、黒人、女性そしてアジア人に対する差別と戦ってきた歴史があります。最近注目された、警察官による黒人の射殺、同性愛者の結婚の合法化、環境への悪影響のために原住民が反対するダコタ・アクセス・パイプライン、ロシア・ラングが撮った強制収容所に移送される日系アメリカ人の写真、そして選挙の翌日から起きたたくさんのイスラム教徒へのヘイトクライムなどが証明しているのは、アメリカは度々白人至上主義にやられてきた、またそれと戦ってきたという事実であり現実なのです。   もし葉様が今アメリカにいらっしゃったら、アメリカの「変わった」環境を体験することもできると思いますが、このエッセイに書いたように、今だからこそ、「分断されたアメリカ」、また、世界が「分断されて行く傾向」を直視しなければならないのです。   このような差別と戦う経験の中で深く認識が変わったのは、私だけではないのです。さらに、彼らの多くはーダコタの原住民や収容所に送られた12万人の日系アメリカ人は、認識だけではなく、運命が変わったのです。もちろん私は一人で戦うのではなく、たくさんの非差別主義者と一緒に戦います。ただ「そうじゃない人やそうじゃない場所」に目をそらすことは、本質を見逃すことであり、問題の解決にはならないのです。   私はミネアポリス空港の抗議書(そこに事実でないことを書いたら罰になります)にも「中年middle-aged」「禿げ bald」「白人 white」を書きました。何故なら、入国審査官の名札を見ておらず、制服も一緒なので外見の特徴で人を特定するための情報として書いたのです。この3つの言葉は、英語の形容詞です。私は女性female、メガネglass、黒い髪 black hair、アジア人asianだと描写することができます。文学性がなくても、見た目の枠で人を書き出すとこうなるのです。   このエッセイは、単に個人的な事実や感情を記述しようとしたものではありません。この事件についての「考え」がポイントなのです。それは、鶏足ではなく、(1)トランプのアメリカにおける人種差別の高まり、(2)この時期だからこその「人種差別と戦うべきスタンス」と「人種差別より受けた傷を治す方法」の2つです。   ご質問にお答えできたどうかわかりませんが、ご指摘ありがとうございました。   〇葉⇒ヤン   返信ありがとうございます。 「中年で禿げ始めた白人」は差別ではないことは理解しました。   同じことを申し上げますが、アメリカがどの様な国になろうとも、それはアメリカ国民が決めることなので、よそ者ができる事は限られています。己が頑張れる事は、住んでいる国または出身国に対して意見を言う事だと思います。そして身内に意見を言う事は、よそ者に対して意見を言うよりも、勇気が必要です。しかしそれは社会の進歩に必要なのです。ちなみに私は身内に関しては見て見ぬふりはしていないつもりですよ。グロリアさんは身内の中国または日本について、何か意見を言ったことありますか?私は差別に関しては、台湾はアメリカよりも遅れていると考えています。だからアメリカに対して意見を言えたものではないと思っています。   ヤン⇒葉   ご返信とご理解ありがとうございます。   もちろんどの国でもよそ者として出来ることは限られます。しかし、よそ者だからこそできることもあります。例えば、よそ者によって、身内では普通だと思われている価値に潜在する差別を明らかにすることが出来ます。   多分、根本的な考え違いは、葉様の以下のご意見です。   「アメリカがどの様な国になろうとも、それはアメリカ国民が決めたことなので…己が頑張れる事は、住んでいる国また出身国に対して意見を言う事だと思います。」 また 「私は差別に関しては、台湾はアメリカよりも遅れていると考えています。だからアメリカに対して意見を言えたものではないと思っています。」   この2点については、申し訳ありませんが、 知識人として、決して同意できません。しかしながら、お互いの考え方のベース(時代背景や世代差の経歴など)を尊重するため、反対の理由は省略させていただきます。   最後の質問に対して、もうすでに書いていたように、私は過去10年間、どこでも意見を言って、差別と戦おうと努めてきました。しかしながら、目をそらしたこともありました。だからこそ、今は、どこででも、言うべきことは言う必要があると思っているのです。 社会はただ進歩するものではなく、人の行動で進歩させるものです。   〇葉⇒ヤン   ご意見ありがとうございました。またお会いした時に色々お話できればと思います。     2016年12月22日配信
  • 2016.12.08

    エッセイ513:ジッリォ エマヌエーレ・ダヴィデ「イタリアと日本との『良き合成体』を目指して:日本に来て8年目に思いついた、ちょっとした雑感」  

      小さい時から日本に憧れていた。日本に初めて来るとき、「日本文化こそ人類文明の最高頂点であり、私も人間として進化するためにぜひ日本の文化を吸収したい」という心構えでやってきた。今年で東京にきて8年目になる。この8年間にはもちろん、「日本文化の『闇』の部分」と思われるところにも直面した。しかし、それで「もう日本なんて嫌いだ」とか、「もう帰りたい」とかは、少しも思わない。今思っているのは、「日本は非常に民度が高い;非常に民度が高いからこそ、その分「『悪』の部分がより特定し辛く、しかも鋭い」ということだ。そこで、私がずっと目指しているあり方はだいたい次のようなものである。   まずイタリア人として、イタリア人にしかできない観点から、イタリア文化の悪いところに気づき、乗り越え、いいところだけを残す。そして、日本の文化を少しずつ吸収することで、今度は日本人に限りなく近いあり方にもなり、日本人と同じような観点から、日本文化の「悪い」と思われるところを理解し、乗り越え、いいところだけを身につけていく、というような、イタリア人と日本人との「良き合成体」と呼ぶべきあり方だ。   なぜ「日本人に限りなく近いあり方にもなり、日本人と同じような観点から」と言うか。「そこまでする必要があるのかな」と考える人もいるかもしれないが、私の場合は「西洋人だから日本なんて簡単に吸収し、超えられるんだ」と最初から思っていたからではない。日本のことを「下手に」馬鹿にしている外国人とか、もしくは―8年前の私にはそういうところもあったかもしれないが―日本に「下手に」憧れているような外国人もまだいるだろうが、「いや、私はできれば、そうなりたくはない」と心から願っているからなのだ。   「でも私はあくまでも『なになに人』だよ」とか「私はまず『なになに人』だよ」と言う人がいる。例えば『イタリア人』『フランス人』『アメリカ人』『韓国人』『日本人』とか。それでもいいと思う。ただ、私個人は、実験的に「私はまず人間だよ」という立場に立ってみたい。この実験は、今この世界に存在している色々なアイデンティティを危険にさらしてしまうかもしれない。しかし、「でも私はあくまでもイタリア人だよ」とか、「私はまずイタリア人だよ」というあり方は、私個人には、本質であるはずの部分(=人間)と、属性であるはずの部分(=『なになに人』)とを逆転させてしまう危うさを持っているとしか思えない。   よく考えれば、属性を本質と間違えてしまうというのも、危ないのではないか。ならば、どちらにしろ危ないのなら、私は自分の一番好きなあり方を選んでみたい。つまり、心さえ広げれば、誰だってどの文化も理解し、いつだって何人にでもなれるではないかという、良き地球市民のようなあり方だ。決して楽な道ではないと思う。しかし、異文化をどれだけ受け入れ吸収できるのか、というようなことを日々問われるという、「考え方のグローバル化」がこれから始まろうとしていると考えると、なおさら今言ったようなあり方を選択してみたい。   <エマヌエーレ・ダヴィデ・ジッリォ☆Giglio,_Emanuele_Davide> 渥美国際交流財団2015年度奨学生。トリノ大学外国語学部・東洋言語学科を経て、2008年4月から東京大学大学院インド哲学仏教学研究室に在籍。2012年3月に修士号を取得。現在は博士後期課程に在籍中。身延山大学・東洋文化研究所研究員。     2016年12月8日配信
  • 2016.12.02

    エッセイ512:謝志海「インターネットと若者の◯◯離れ」

    最近よく耳にするフレーズ「若者の◯◯離れ」。◯◯の中には酒、車、タバコなどが入るそうだが、私がこの事についてかわらばんに書こうと決めた後にも、若者が離れていったというものに続々と出会う。テレビ離れ、本と本屋離れになんとガム離れまで。   先日の週末は映画館に新作のハリウッド映画を観に行った。この映画はシリーズ作の第4弾。8月には俳優陣もプロモーションで来日していて、私は期待して観に行った。内容は、現代の世相が反映されていて最初から最後まで退屈なシーンなどなかった。高揚した気分のまま映画が終わり、劇場内にライトがついた。観客がゾロゾロ出口に向かう。そこで私は驚愕した。「若者がいない」。探したが、大学生らしき人はいなかった。中高生は無論いない。来館者の全てが40~50代もしくはシニア層。若者の◯◯離れを肌で体感した瞬間だった。しかし冷静に考えれば、私が通うこの映画館ではこれまでどの曜日、時間帯に行っても若者が少なかった。大学生が一番映画館に足を運ぶ時間があると思い込んでいたが、現実は大きく違うようだ。   では色々な物から離れた若者はどこにいるのだろうか。酒造、自動車、出版、製菓メーカー等、若者に去ってゆかれた業界は彼等をもう一度振り返らせることに必死だろう。そして、若者はスマートフォンを通じインターネット上にいるのだろうと薄々察しがつく。   ヤフージャパンのニュース記事によると、若者のガム離れの原因もスマートフォンの普及だそうで、電車に乗っている退屈な時間に噛まれていたガムがスマートフォンのおかげで売れなくなったそうだ。本屋離れにしたって、スマートフォンで説明がついてしまう。インターネット上にあふれる無数の情報や読み物。わざわざ本を購入しなくとも、単純に読むもの(情報)は簡単に手に入る。どうしても本として読みたければ、オンラインショッピングでポチっとすれば、家に届く。本の中でも特に雑誌が売れないとテレビニュースが取り上げていたが、確かに電車の中で雑誌を読んでいる人は本当に少ないというか、久しく見かけていない。今はアプリをダウンロードして、月に数百円の定期購読代を払えば、そのアプリ上の様々なジャンルの雑誌がいつでも読み放題の時代。広告だらけの重い雑誌を持ち歩かずにすむ。   「若者の◯◯離れ」の大方はスマートフォンの普及ということで説明がついてしまうのではないか。スマートフォンの製造メーカー、アプリ、ソーシャルネットワーク、通信メーカーといったインターネットで商売する業界は、集まって来る若者を逃すまいとこちらも必死だろう。日々様々なアプリが誕生し、ソーシャルゲームは次々と更新され、ソーシャルネットワークには色んな機能が追加される。私には到底ついていけないのだが、若者はこういった新情報にも敏感である。   所変わって、中国の事情。特に若者が離れていくという現象は見られないものの、日本で起きている状況とおおむね代わりはない。中国はもう世代を問わずスマートフォンに夢中という感じだ。中国本土では未だにYouTube、Facebook、Gmailはアクセス出来ないが、そんなことどこ吹く風。スマートフォンの用途は日本より多岐に渡っていると言っても過言ではない。代表的なのはモバイル決済。最近よく耳にするフィンテック(Fintech)。例えば、中国ではアリババのアリペイ(Alipay)等のモバイルオンライン決済。これに関しては、日本はアメリカや中国に大きく遅れを取っている。そしてこのモバイル決済が発達しているがゆえに日本よりも早く普及しているビジネスが配車サービスである。代表的なメーカー、ウーバー(Uber)はタクシーの捕まりにくい北京や上海ではすでに人気のサービスである。中国の若者にとってもスマートフォンは生活に欠かせない存在となっている。   すでに若者離れを痛感している企業にとっては、自社の製品とインターネットをどう融合させるかがキーポイントとなるだろう。すでに様々なメーカーがテレビコマーシャルだけでなく、動画配信サイト上にもコマーシャルを流している。また、製品専用のアプリを作り、消費者同士がそのアプリ上で交流出来る仕組みを作ったり、ポイントを貯めて使えるシステムを構築したり、企業のウェブサイトやアプリ上で消費者が何かとお得に感じられるように企業側も必死だ。こうしてインターネットの世界は無限に広がっていく。   <謝志海(しゃ・しかい)Xie_Zhihai> 共愛学園前橋国際大学専任講師。北京大学と早稲田大学のダブル・ディグリープログラムで2007年10月来日。2010年9月に早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士後期課程単位取得退学、2011年7月に北京大学の博士号(国際関係論)取得。日本国際交流基金研究フェロー、アジア開発銀行研究所リサーチ・アソシエイトを経て、2013年4月より現職。ジャパンタイムズ、朝日新聞AJWフォーラムにも論説が掲載されている     2016年12月2日配信
  • 2016.11.10

    エッセイ511:沼田貞昭「アジア未来会議-新しい息吹き」

    (第3回アジア未来会議「環境と共生」報告#6)   筆者は、北九州市で9月30日−10月1日に開催された公益財団法人渥美国際交流財団主催第3回アジア未来会議に参加した。2013年3月にバンコックで開かれた第1回会議、2014年8月バリ島で開かれた第2回会議にも参加した。400名の参加者が熱心に議論を交わし合う姿を目の当たりにして、渥美奨学金により日本で博士号を取得した人々を中核とするアジアおよび他の地域の知的ネットワークが、今やインドネシアなどの若い学生・研究者の新しい息吹もあって着実に拡大していることを心強く思った。以下、筆者の参加したセッションについての感想を記す。   ◇9月30日午前 AFC_Forum_#2「東南アジアの変わりつつある社会環境に対する宗教の反応」   (1)筆者は、1976−78年スハルト「新秩序」の軍の二重機能の下で政治勢力としてのイスラームの影響力は限られていたインドネシアに在勤し、2000年−2002年には駐パキスタン大使として、近代的穏健イスラーム国家を標榜しながらも急進イスラームの勢力伸張に伴う深刻な不安定要因を抱えた9.11事件前後のパキスタンの姿に接していた。このような経験に鑑み、「1998年後のインドネシアにおける民主主義のデイレンマ:一層の自由は宗教間の対立が深まることを意味するのか、対話が進むことを意味するのか?」とのガジャマダ大学ムンジッド・アハマッド氏の発表は極めて興味深いものだった。   今日のインドネシアは、スハルト・ファミリー及び軍部の強権的支配の崩壊後、政治の民主化、地方分権化が進みつつあること、また、経済成長が進み「イスラーム大国」に変貌しつつあること、民主主義の進展と自由の拡大が異宗教間の対話を進める契機となり得ることなど、筆者にとって学ぶことは多かった。なかんずく、アハマッド氏他インドネシアからの参加者が、自国の抱える問題を闊達に議論していたことが印象的だった。と同時に、インドネシアと比較すると、ムシャラフ政権の崩壊により軍部支配は一応終わったとは言っても、民主化の進展にはまだまだ障壁が残り、多種多様な人種・地域からなる国家を統一するシンボルとしてのイスラームのあり方が急進派と穏健派の間で激しい対立抗争を呼んでいるパキスタンは、何時イスラーム国家として安定するのだろうかとの疑問を禁じ得なかった。   (2)続いて「フィリピンにおける気候変動とカトリックの反応」(アテネオ・デ・マニラ大学ジャイール・セラノ・コルネリオ氏発表)をめぐる討論で、気候変動のもたらす環境破壊、災害の被害者である貧者に対するカトリック教会の取り組みに見られる社会的宗教的正義の問題が取り上げられた。タイの教育関係NGO代表ヴィチャク・パニク氏は、「人道に反する仏教:愛とか親切心ではないもの」と題する発表で、仏教がナショナリズムの一部ないしは支配階級の政治的道具として使われる場合には、人命をも脅かす強圧的なものになりうる危険を指摘した。フランスの現代東南アジア研究所カリヌ・ジャケ氏は、「宗教と救援活動:ミャンマーにおける宗教関係団体と社会的貢献の役割」と題する発表において、ミャンマーの辺境地域などの自然災害被害者に対する仏教団体、キリスト教団体の救援活動を通じて、国家が十分に果たし得ない救援などの社会貢献活動ネットワークが広がって行く可能性を指摘した。   (3)セッションを総括したエリック・クリストファー・シッケタンツ氏(東京大学)は、宗教が民族ないし国家のアイデンティティを誇示する手段として使われる時に政治的対立がしばしば生じるが、宗教が政治的対立に巻き込まれないようにして行くにはどうしたら良いか、また、地域ないし国家のアイデンティティを超えて宗教が果たし得る役割にはどのようなものがあるかを考える必要があると指摘した。   (4)以上の討論を聞いていて、筆者は、アジア各国における多様な宗教状況についてこのような議論を聞く機会は日本国内では極めて少なく、インドネシアにおけるイスラーム、フィリピンにおけるカトリック、タイ及びミャンマーにおける仏教がそれぞれ果たしている役割及び抱えている問題についての日本の一般国民の理解は皮相なものにとどまっており、この日の討論のような内容を日本国内で広めていくことが必要であると感じた。   ◇10月1日午前「平和」分科会(2)   筆者がミラ・ゾンターク立教大学教授とともに共同議長を務めた本分科会では、多民族・多文化社会であるインドネシアと平和国家を目指す日本の直面する問題に関してそれぞれ2つの発表が行われた。   (1)インドネシア   〇「宗教的シンボルの無い教会」(バンジャルマシン宗教・社会研究所シリ・タラウィヤ氏) 南カリマンタン州首都バンジャルマシンのイスラーム社会の中に存在する少数のキリスト教ベテル派信者と周辺住民との間に、信者の集まりに伴うゴスペル等の騒音、駐車問題等を巡り摩擦が生じ、ベテル派追放の動きもあったが、イスラーム系住民の中にも共存しようと努める向きもある。他方、地方政府当局の硬直的介入がかえって事態を混乱させている。   〇「モルッカ諸島におけるサニリ(伝統的合議体)を通じる紛争解決及び環境保存」(ジョグジャカルタ大学スハルノ講師) 中央政府がインドネシア全土にわたって「村」という同一の行政単位を広めようとして来たのに対し、モルッカ諸島では、伝統的な合議体であるサニリが例えば漁業資源の有効利用、保存といった問題について調整機能を発揮している。1999年のアンボンにおけるイスラーム系住民とクリスチャンの流血の対立への政府・公的機関の無為な対応ぶりは、サニリという「土地の知恵(local_wisdom)」への住民の志向を高めた。   〇この2つの発表は、インドネシアのような多文化社会では、異宗教・異民族間の様々な問題が地域レベルで生じるところ、これに対する中央ないし地方政府の画一的な対応には限界があることを指摘する点で共通していた。 (2)日本   〇「至上の法としての憲法遵守:憲法9条と日本の平和主義」(デリー大学准教授ランジャナ・ムコパディヤーヤ博士) 1947年5月5日に日本の仏教、キリスト教等宗教関係者からなる全日本宗教平和会議は、先の戦争を阻止できなかったことについての「懺悔の表明」を行った。仏教界は「聖戦」の名の下に戦争と植民地拡大を支持したことを反省し、憲法9条の戦争放棄条項を仏教の非暴力の教えを具現するものと考えた。キリスト教徒も同条項を「汝殺すなかれ」の教えを反映するものと捉えた。このようにして、日本の宗教界は憲法9条改正に反対する平和運動の主要な勢力となって来た。   〇「地球温暖化、戦争、原子力の三角関係」(木村建一早稲田大学名誉教授) 地球温暖化防止のための炭酸ガス排出制限を定めた京都議定書の下でも軍事目的のためのエネルギー使用についての抜け道がある。米国、中国等の武器生産・使用等の軍事支出のうちかなりの部分が炭酸ガス排出につながるという意味で、地球温暖化は戦争にも関連している。原子力発電は温暖化防止に役立つとして推進されてきたが、日本においては2011年の福島の原発事故以来多くの原発が閉鎖を余儀なくされている。また、原発に蓄積されるプルトニウムは、核兵器生産に使用され得るものとして、非核3原則との関連で深刻な問題を提起している。地球温暖化、エネルギーの問題を考えるにあたりこのような相関関係を考慮する必要がある。   〇この2つの発表は、憲法改正、原子力発電という現下の懸案を考えるに当たり興味深い視点を提供するものだった。   ◇10月1日午後「教育」分科会(3)   筆者が傍聴したこの分科会では、いずれもインドネシアからの4人の学生・若手研究者が、英語教育に関わる発音訓練、YouTubeの利用、グローバル言語とローカル言語、外国人とのコミュニケーション成立過程についてそれぞれ発表を行った。筆者がジャカルタに在勤していた30年前に比べて、インドネシアの学生とか若手研究者の英語習熟度及び発表意欲が著しく高まったことに印象付けられた。   「環境と共生」という今回会議のテーマのうち筆者が参加したセッションは、平和と宗教、多文化社会の問題、環境等に関するものだったが、これらの問題を世界レベル、国家レベル、地域社会レベルで複眼的に把握する必要があること、さらにそれぞれのレベルでのガバナンスの問題に取り組む必要があること、また、インドネシアのような多民族・多文化国家は、日本国内には見られないような様々な課題を抱えていることを明らかにするものだった。また、筆者は英語で行われたセッションに参加したので特に感じたのかもしれないが、今回会議に国外から78名と最も多く参加していたインドネシアの若手研究者とか学生の強い意欲と熱気に感銘を受けた。   <沼田 貞昭(ぬまた さだあき)☆NUMATA Sadaaki> 東京大学法学部卒業。オックスフォード大学修士(哲学・政治・経済)。 1966年外務省入省。1978-82年在米大使館。1984-85年北米局安全保障課長。1994−1998年、在英国日本大使館特命全権公使。1998−2000年外務報道官。2000−2002年パキスタン大使。2005−2007年カナダ大使。2007−2009年国際交流基金日米センター所長。鹿島建設株式会社顧問。日本英語交流連盟会長。     2011年11月10日配信