SGRAかわらばん

  • 2010.10.29

    エッセイ268:林 泉忠「中国は尖閣紛争の勝者になったか(その2 )」

    まず、今回の尖閣問題の解決で得たものと失ったものを検証してみよう。今回の紛争が世界的に注目される国際ニュースとなった結果、尖閣諸島はその領有権をめぐる係争地で、必ずしも日本政府が建前で主張するように「領有権問題は存在しない」とは限らないことを世界中の人々に知らせた。これが中国の得たものであろう。 しかし、これを除けば、尖閣領有権を主張する面において、今回の事件は中国側に明らかな利益をもたらしたわけではない。日本を交渉のテーブルに戻らせて尖閣の帰属問題を協議するように迫ったわけでもないし、「尖閣防衛」の活動家が尖閣諸島に上陸、あるいは近づけたわけでもない。逆に中国政府は海に出て尖閣領有権を主張しようとする国民の行動を阻止しているのである。一方、日本側は、日本の海域への中国漁船の「侵入」をきっかけに、尖閣付近の海防をより重視するようになった。また、日本社会において尖閣への駐兵や視察を要求する声が増えた。 差し当たり行政上尖閣を管轄している沖縄は、もともと中国人に非常に友好的で、日本のなかで最も「親中」の県であると見なされている。しかし、今回の漁船衝突事件が起こった後、沖縄県議会・沖縄県町村議会議長会・石垣市議会などは、それぞれ中国への抗議意見書を採決した。沖縄を含め日本側の一連の言動は、今後中国が尖閣領有権を主張する際に不利になる。よって、今回の漁船衝突事件およびそれが引き起こした日中の外交戦は、結果的に中国を尖閣に近づけたのではなく、むしろそこから遠のかせたと言える。 そして、世界的に注目された今回の日中外交戦によって、中国は、ますます強くなってきた経済力を借りて、将来の日中関係に対応する際の有効なカードとして使うことができることを確認した。しかし、今回の戦いを経て、「親中遠米」の路線をとった鳩山政権の時期に現われた一瞬だけの日中「蜜月期」は早くも終焉し、菅直人政権は日米同盟関係をより重視するようになった。その結果、日中間における軍事上の仮想敵国の関係を変えることができなかっただけでなく、長期にわたる両国の潜在的な緊張関係を解消することにもマイナスとなった。また、日中韓を主軸とする「東アジア共同体」の構想をも遅らせざるを得ない。 さらに、今回の尖閣衝突の過程と結果をより長い歴史的スパンでみると、日中双方の地位と関係への今回の事件の影響は、無視できないほど大きな歴史的意義を持っている。 近代以来、東アジアの盟主の地位をめぐって日中両国は争奪戦を繰り広げてきた。そもそも中国はかつて、匹敵できないほどの文化力をもって東アジアに君臨し、中国を中心とする「中華世界システム」や今日でも日本人に理解されている「儒教文化圏」・「漢字文化圏」を作りあげた。しかし、19世紀末になると、日中両国の国力に逆転が生じた。西洋と日本の圧力の下で、中国は属国の琉球、安南、朝鮮を次々と失っていっただけでなく、自身も半植民地に転落した。それに反して、日本はその強大な軍事力をもってタイ以外の東アジアおよび東南アジアほぼ全域を征服し、日本を中心とする「大東亜共栄圏」を建設しようとした。第二次世界大戦で日本は敗北したが、戦後その強い経済力をもって、アメリカも驚嘆するほどの経済成長神話を作り上げ、「アジアの盟主」としての地位を継続させている。 しかし、百年が経った現在、中国経済の発展にともない、日中両国の国力に再度変化が起きた。今回の尖閣紛争は日中の国内総生産が逆転した後に起こり、また、今回の外交戦において結果的に経済力を後ろ盾にした中国が経済カードを切って勝利を収めたことも、中国が再度名実ともにアジアの中心に戻ってきたことを示唆しているのである。 中国の「中心」化現象は、確かに、もとより百年前からの民族的屈辱を雪ぎ、中国人を晴れ晴れとする気持ちにさせることができたようだ。しかし、対外的に言えば、中国の再度の躍進が直面しなければならない最大の課題は、いかに「金持ちになって横柄に振舞う」というイメージを避け、隣国および国際社会からの信頼を得るか、ということであろう。 『読売新聞』が中国人船長釈放後に行った調査によると、84%の人が「中国は信頼できない国家だ」と答えたという。そのデータは1972年の国交正常化以来最も高い数字であり、「歴史問題」で両国関係がどん底に転落した2005年よりも深刻なものであった。 中国への日本社会の反感が相互の領土争奪よりもたらされたものだとすれば、今回の日中衝突に対する国際社会の理解はどのようなものだったであろうか。国際メディアの総体的反応を見渡すと、殆ど「金持ちになって横柄に振舞う」中国に更なる警戒感を示すようになった。欧米、オーストラリアのメディアはもちろん、日本と領土紛争を起こした(「竹島」。韓国と北朝鮮は「独島」と称する)韓国でさえ、どちらかというと中国への批判に傾斜していた。 この種の批判は、一方では、90年代以来中国の膨張傾向を目の前にして中国周辺および欧米各国の間に蔓延していった「中国脅威論」の延長線上にあり、他方では、尖閣紛争に対応する際の中国の「行き過ぎた高飛車な態度」への不満でもある。とりわけ、中国人の訪日観光取りやめへの呼びかけ、日本へのレアアースの輸出禁止などの噂が広がった時、国際世論は納得しなかったようだ。両国関係が悪化した場合、訪問日程の取り消しや一部の取引の凍結は何もおかしくはない。しかし、この二種の経済制裁は、ある団体またはある企業の利益にかかわる問題だけでなく、日本のある産業全体に大きな打撃を与えることになるので、両国関係が断交状態に近い事態に至らない限り、そのような経済制裁を加えることはしない。 確かに、今後中国の国際的地位はますます高くなり、国際社会において更なる影響力を発揮していくことになるだろう。しかし、いかに「経済カード」を利用するかは、中国が隣国および国際社会に肯定され尊敬される大国になれるかどうかという問題にかかわっている。これこそ中国が躍進した後に直面せざるを得ない新しい課題であろう。 林泉忠 2010年9月19日 金門島にて (本稿は『明報月刊』(香港)2010年11月号に掲載された記事「從釣魚台衝突看中國的得與失」を本人の承諾を得て日本語に訳しました。原文は中国語。朱琳訳) *林 泉忠「中国は尖閣紛争の勝者になったか(その1)」はここからご覧ください。 ---------------------------------- <林 泉忠(リム・チュアンティオン)☆ John Chuan-Tiong. Lim> 国際政治専攻。中国で初等教育、香港で中等教育、そして日本で高等教育を受け、2002年東京大学より博士号を取得(法学博士)。同年より琉球大学法文学部准教授。2008年より2年間ハーバード大学客員研究員、2010年夏台湾大学客員研究員。 ---------------------------------- 2010年10月29日配信
  • 2010.10.22

    エッセイ266:範 建亭「上海万博がもたらしたもの」

    この夏、上海はとても暑かった。気温35度を超える日が一ヶ月以上続き、そのうち数日は40度を記録した。だが、今年の上海において、天気よりも熱くなっているのは、大勢の見物客でにぎわう上海万博である。ちなみに、上海万博のテーマは未来志向の都市づくりである。 上海万博は5月1日に開幕したが、当初の数週間は入場者数が予想を大きく下回った。ところが、夏になると事情が一変した。6月下旬から連日のように大入りが続き、観客数はほぼ毎日40万人を超える大盛況となっている。入場者があまりも多いので、どこに行っても長い行列。世界各国のパビリオンの中で一番の人気は中国国家館であるが、予約制の上、一日最多人数5万人と制限されているから、並ぶ行列はそれほどではなかった。サウジアラビアと日本のパビリオンはその次に人気があり、いつも長蛇の列が出来て、通常5時間ぐらい待たされる。イギリスやドイツのパビリオンも2、3時間以上並ばなければ入れない。 僕はこれまで2回行ったが、平日なのに、人気のあるパビリオンはどこも長時間待ちの大行列ができていた。並ぶのは大嫌いだから、結局、日本館をはじめとする人気のあるところには一つも入れなかった。辛抱強く入館を待つ人たちには脱帽した。観客には地方からきた人が多く、長時間にわたって上海に辿り着いた彼らにとっては、万博が貴重な体験となるに違いない。 中国の13億の人口と上海に住む約2000万の人口から考えれば、万博の参観者が多くなっても不思議ではないと思われるが、別の事情もある。入場者数は開催の成功を証明する代表的な指標であり、上海万博は7000万人の来場を目指している。というのは、大阪万博の時、総入場者数は6400万人で万博史上最多を記録したので、それを超えることは上海万博の最大の目標だと言っても過言ではない。その目標を達成するために、チケットをばら撒くような対策も実施された。例えば、上海市政府が上海住民に一家庭に一枚のチケットを無料で配った。また、政府機関や学校、会社(主に国有企業)などではいろいろな形でチケットを配っていた。僕一人だけで、職場や関連機関からもらったチケットは7枚もあった。 中国の人口は世界最多であり、政府の動員力も世界一であるから、入場者数の史上最高を達成するのはそんなに難しいことではないだろう。それに、7000万人といっても、リピーターも含まれているので、心配は無用であろう。確かに最初は動員があったが、行ってみたら意外と面白かったという話がどんどん広がり、自発的に見たいと思う人、また何回も行く人が徐々に増えて入場者の人数がどんどん拡大している。 リピーターの中で一番凄い人は、毎日行っているという。しかもその人はなんと日本人女性だ。今年61歳の山田外美代さんは愛知万博が開催された際、1日も欠かさず毎日万博に足を運び、243回の入場回数を記録したが、上海万博でも184日間の「皆勤賞」を目指している。そのために、現地でマンションを借りるなどで、もうすでに1200万円ぐらいのお金を使ったようだ。彼女は地元でも「有名人」となり、「万博おばあちゃん」と呼ばれている。 さすがに毎日行くお客さんは彼女しかいないと思うが、開催中何十回も見に行く人は珍しくなく、また大半の参観者は何時間も平気で並んでいるのだから、上海万博はいったい何が面白いのかと思うが、それは、見る人によって答えがきっと違うのだろう。だが、面白さよりも重要なのは、万博が現地の社会にもたらしたものであろう。 一番直感できる大きな成果は恐らく上海市のインフラ整備である。開催決定から開幕までの8年の準備期間において、上海の街づくり、道路整備などが広域で進められていた。その過程で都市建設に対する考え方も革命的に変わり、環境にやさしいエコライフが重要であることを中国の人たちに浸透させていった。また、万博のような国際的超大型イベントの開催によって、高い運営能力が評価され、地元政府に相当な自信を与えた。そして、万博の開催は一般庶民のマナー向上にも貢献している。 実は、上海市政府は万博を開催するにあたって、市民のマナーを心配して様々なキャンペーンを展開してきた。例えば、2年前に「愛される上海人になろう」というスローガンを掲げ、具体的な指針などが書かれている『万博を迎える上海市民の読本』を無料で配布した。中には、食事のマナーや携帯電話のマナーなど一般的なこともあれば、並ぶ行列に割り込まない、タクシーの奪い合いをしない、パジャマを着たまま外出しないというような呼びかけもある。パジャマの問題は別に上海に限った現象ではないが、現地のマスコミでよく取り上げられ、話題となっている。政府が市民の服装まで決めるのはおかしいという反対の声もあるが、大半の市民は、パジャマの姿が大都会にとってみっともないと認識している。これを契機に、最近はそのような非常識な行動が目に見えて減っているようである。 マナー向上については、さらにびっくりしたことがある。我が家が職場に近いので、僕の毎日の交通手段は自転車で、普段は地下鉄にあまり乗らない。ところが、先日、市内で地下鉄に乗ったとき、エスカレーターで乗客が自覚的に右に一列に並んでいたことに驚いた。このマナーはまだ日本ほど一般的になっていないものの、万博の開催を契機にボランティアたちの呼びかけによって普及しつつある。面白いことに、大阪のエスカレーター並び方(右寄り)が東京と違うのも、大阪万博の開催の時に世界標準に合わせたからなのだそうである。 上海万博を訪ねた人は、全国各地からやってきた人が大半を占め、しかも小中学生をはじめとする若い世代が多い。そういう人たちにとって、世界各国の魅力と先端技術や上海の発展ぶりなどを知るうえで、上海万博はまたとないチャンスになったと思う。だが、その入場者数が仮に7000万以上で大阪万博を抜いたとしても、国民の中でその数が約20人に1人しかないということになる。万博を観られなかった残りの人たちには貧しい人が大勢含まれている。それらの大多数の国民に万博開催の意義などをいかに伝えていくのは、また一つの大きな課題であろう。 -------------------------- <範建亭(はん・けんてい)☆ Fan Jianting> 2003年一橋大学経済学研究科より博士号を取得。現在、上海財経大学国際工商管理学院准教授。 SGRA研究員。専門分野は産業経済、国際経済。2004年に「中国の産業発展と国際分業」を風行社から出版。 -------------------------- 2010年10月22日配信
  • 2010.10.15

    エッセイ265:マックス・マキト「マニラレポート2010年夏」

    今回は、以前マニラのセミナーで取り上げたことがある「田舎のねずみと都会のねずみ」という童話から始めたい。 「都会に住むねずみと田舎に住むねずみは、互いに友達どうし。ある日、田舎のねずみに招待された都会のねずみが、彼の家へ出かけていきます。都会のねずみは、まず田舎の家を見てびっくり、自分の都会の家のほうがずっといいよ、と言います。夕食のときも同様です。質素なメニューにあきれて、都会の食事のほうがずっといいよ、と言います。そして、田舎のねずみに、都会へおいで、と招きます。招きを受けて都会へ出てきたねずみは、にぎやかな街に驚いてしまいます。都会のねずみの大きな家にも行きます。そこで都会のねずみは、いろいろなごちそうを、田舎のねずみにふるまいます。」(つづく) Happy Talk☆いなかのねずみとまちのねずみ 今回のマニラ滞在中に、ほんの少しではあるが、マニラ首都圏やその周辺地方の貧困階層の人々を訪ねる機会があった。彼らはれっきとした人間たちだが、自分のモノをあまり持っていないので、彼らはねずみのような生活をしているという人もいるかもしれない。 SGRAのマニラ・プロジェクトの顧問になっていただいた東京大学の中西徹教授は、8月半ばに東大の学生たちを16人ほど連れて、僕が教えているテンプル大学ジャパンの先生と学生2人とその友達3人と合流して、スモーキー・マウンテンというマニラのゴミ集積所の周辺に住んでいる人々を訪問した。その殆どは、子供も含めて、いわゆるゴミのスカベンジャー(廃品回収業者)である。 発展途上国の都会に住んでいる貧困者は、その大部分が田舎から流れてきたという。スモーキー・マウンテンの人々もきっとそうである。先に都会に移民した友人・親戚・知り合いの都会生活を聞いて魅了されて、都会に旅立った。しかし、スモーキー・マウンテンに辿り着いた人々は、あの童話の田舎ねずみと同じような気持ちになったに違いない。 (童話のつづき) 「ところが、その時ねこが入ってきます。ねこが立ち去った後、再び食べようとすると、今度は人間に見つかりそうになって大あわて。都会の生活にこりごりした田舎のねずみは、やっぱり田舎がいい、と言って帰っていきます。」 しかしながら、中西先生の長年の研究からもわかるように、マニラの貧困者は、すでに罠に落ちてしまっていてそこからなかなか抜け出せない。(実はこのような話をスモーキー・マウンテンのお婆さんにも聞いた。) 滞在中に、田舎ねずみの世界を訪問した。行くのは便利ではないが、着いたらスモーキー・マウンテンと全く違う世界が目の前に広がった。スモーキー・マウンテンの不毛な黒い土地と違って、田舎の土地は緑に溢れていた。死を思い出させる腐敗臭ではなく、命を育む匂いが漂っていた。 僕は田舎のねずみかもしれない。だって、リゾートなどではない、あの田舎に行くとワクワクするのだから。 この興奮は家族にも分かち合うようにしている。日本の子供たちが夏休みにする自由研究からヒントを得て、甥や姪たちにそれを体験させた。フィリピンの「夏休み」は4月から5月までだが、およそ2日間でできる「夏休みの宿題」を子供たちに出した。2班に分けて田舎の訪問先の土と水の質を調べること。検査道具は僕がインターネットで注文したパック・テストのキットである。テレビで見かけたのだが、日本の子供たちが理科の授業で使っている簡単な検査キットである。土や水のサンプルに検査用のパックをつけて科学反応をさせて、その色の変わり方によってある成分の有無をその場で把握できる。どのような成分が足りないか、その成分は何のためであるか、子供たちと一緒に調べた。そして、フィリピン・マンゴに適した土地であることがわかった。 田舎のねずみちゃんの気持ち、十分わかる気がする。 7月に蓼科で開催したSGRAフォーラムでも、都市化について少し議論した。確かに、現代社会の重要な課題の一つである。今、世界の人口の半分が都会に住んでいるといわれている。人口が1000万人以上を「メガ・シティー」と呼ぶが、最近の調査によると、上位20は、人口の多い順に、東京、広州、ソウル、メキシコ、デリー、ムンバイ、ニューヨーク、サンパウロ、マニラ、上海、ロサンゼルス、大阪、カルカッタ、カラチ、ジャカルタ、カイロ、北京、ダッカ、ブエノスアイレスだという。 Th. Brinkhoff: The Principal Agglomerations of the World, 2010-01-23 規模の経済により、あらゆるものの生産コストを下げるためにも、メガ・シティー、つまり都市化が必要であろう。ただ、やりすぎると、公害、渋滞、スラム化などの問題を引き起こす。 その一つの対策として、田舎から都会への移民を減らすことがあると思う。そのために人々は田舎の生活についての考え方を改める必要があるという気がする。以前、友達に誘われて東大で開催されたメガ・シティーをテーマにした建築の国際学会に参加したことがある。欧州からの学者が「欧州にはメガ・シティーがあまりないですね。」とコメントした。その理由を聞かれたら、「ヨーロッパ人は田舎生活について抵抗感があまりないですから。」と答えた。あの童話の作者のイソップは欧州の人だが、数百年を経た今でもヨーロッパでは田舎に好意的な考え方は生きているようである。 日本に帰る前に、フィリピン大学のSchool of Labor and Industrial Relations (SOLAIR)で、中西先生と学生たちにもう一回会った。中西先生が学生たちをフィリピン大学に連れて行きたいということだったので、僕はSOLAIRのベンジ・テオドシオ教授に、彼女の研究テーマの農業協同組合について話していただくようにお願いしたところ、スライドなどを丁寧に準備してくださった。発表後の活発な議論の後、皆で近くの食べ放題の店に行った。 その場で、中西先生とテオドシオ先生を発表者として、12月にフィリピン大学で第13回SGRA共有型セミナーを開催することになった。テーマは暫定的に「地方と都会の貧困コミュニティー」にしている。皆さん、お時間があればぜひご参加ください。 ※この機会を借りて、2010年8月23日にマニラで発生したバスジャックの被害者のご冥福をお祈りします。香港の方々と同様、この悲劇について怒りや悲しみを感じます。 -------------------------- <マックス・マキト ☆ Max Maquito> SGRA日比共有型成長セミナー担当研究員。フィリピン大学機械工学部学士、Center for Research and Communication(CRC:現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、アジア太平洋大学にあるCRCの研究顧問。テンプル大学ジャパン講師。 -------------------------- 2010年10月15日配信
  • 2010.10.06

    エッセイ263:林 泉忠「尖閣衝突は日中の『蜜月期』の終焉を早めた」

    今回の尖閣諸島をめぐる紛争が予想外の展開を見せている。日本が初めて「法律に基づき」中国人船長を逮捕したのに対し、中国は日本に異例な圧力をかけ続けた。確かに、1970年代より、尖閣諸島をめぐる紛争が絶えず、日中関係の火種として認識されてきた。ところで、今回の紛争は、これまでにない特徴をもち、日中両国の政府は未曾有の試練に直面している。 新しい尖閣問題の特徴 まず日本サイドを見てみよう。この度の漁船衝突事故は、日本で昨年7月に施行された「領海外国船舶航行法」に基づき、「違法的」に領海に進入した中国船を拘留し船員を逮捕し、初めて事件を日本の司法の枠内に収めたのである。そして、この度の事件は日本で政権交代が実現した後、民主党が政権をとった時期に起こったものである。この一年あまり、民主党によるいわゆる「離米親中」政策は、国内の保守勢力に猛烈に批判されたばかりか、世論も国益を守るという点における民主党の言動に疑わしい視線を向けていた。このような情勢の中、国家を統治する能力と正当性をアピールするため、民主党は尖閣問題および東シナ海ガス田問題において強硬な姿勢を示さなければならなかったのである。 一方で、90年代以来、中国本土においてナショナリズムを絡んだ「釣魚島(尖閣諸島)防衛運動」が高まり、中国政府も民間からの圧力に直面しなければならなくなった。いままでは、日中関係に関わる事件によって火をつけられたナショナリズムに対処する際、政府は慎重な態度をとりながら、大体うまくやりこなしてきた。この度台北で行なわれた民間主催の「中華圏釣魚島(尖閣諸島)防衛フォーラム」への中国本土代表の出席を阻止したことを含め、中国は、いままで通りに民間の活動を厳しくコントロールしてきた。これは、民間の運動が極端に走ってしまうのを回避するためだけでなく、この問題を取り扱う際に政府がしっかりと主導権を握ろうとしたためでもある。しかし、今回の事件において、日本が中国人を逮捕したので事件が直ちに外交問題に発展したため、中国政府は深く介入せざるを得なくなった。そこで、中国政府は自らの立場を守るため、漁業監視船を尖閣領域に派遣し、六度にわたって駐中国日本大使を呼びだした。日本が船長の釈放を拒否するうちに、中国の抗議のレベルも次第にエスカレートした。 一瞬だけの日中<蜜月期> この度の尖閣事件が日中関係に与えた直接的影響は、久しぶりの日中の<蜜月期>の終焉を早めたことである。 1978年の日中平和友好条約以来、日中両国は二度の<蜜月期>を経験した。一度目は80年代であった。当時、中国は改革開放の初期にあったため、アジア一の経済大国日本は中国にとって協力を求める重要な対象であった。当時中国は「歴史問題」を熱く語らず、「日本の国民も軍国主義の被害者である」を唱えた。そして80年代の日中関係は<蜜月期>に入った。日本では、上野動物園のパンダが全国でブームになった。中国では、日本の映画『君よ憤怒の河を渉れ』が、その世代の人々にとって消せない良い思い出となった。 しかし、このような良い状況が長続きはしなかった。90年代に入ってから、「愛国主義」を謳歌する中、「右翼教科書」問題、日本政治の右傾化、そして小泉首相の靖国神社参拝などが中国ナショナリズムを刺激する重要な契機となった。昨年、民主党政権の登場によって日中関係がようやく二度目の春を迎えるようになった。鳩山首相が「離米親中」のスローガンを高く掲げ、歴史問題でこれまでの自民党政権のできなかった譲歩を率先して行ない、中国からの厚い信頼を得た。これは、今年7月に鳩山前首相が訪中の際に受けた破格の待遇から窺うことができる。 転換期の日中関係への事件の影響 しかしながら、普天間移転問題において鳩山首相がアメリカに疑念を抱かせたことや、オバマ大統領が今年に入ってから対中政策を調整し始めたことなどは、就任した後の菅直人首相に日中関係を改めて考え直させるようになった。菅首相がいろいろ思索している最中に、尖閣問題が再燃した。加えて、鳩山路線の継続を強調する小沢氏が党首選挙で敗北したことなどによって、二度目の日中<蜜月期>が早くも終わりを迎えることになった。 先月、中国の国内総生産が初めて日本を超えた事実は、日中の国力に歴史的な逆転が生じたことを象徴している。この度の事件における中国政府の高飛車な態度も、台頭した後の中国が国益にかかわる問題を取り扱う際に、新しい思考を模索していることを示唆している。と同時に、今回の「日本の主権を守る」ことへの日本側の執着も、台頭しつつある中国への警戒感を隠しきれないことの表れである。 中国が日本に代わって世界第二位の経済大国になった今、日本がどのように東アジアの新盟主となった中国と付き合っていくのか、そして、どういうふうにアジアのナンバーツーに転落した事実を受け止めるのか。同様に、中国がいかにして日本を含む周辺各国から信頼される盟主になるのかという問題に関して、この度の尖閣事件は、日中両国の政府および国民に日中の新しい関係を考え直す契機を与えたのである。 林泉忠 2010年9月15日 カナダのトロントにて (本稿は9月17日『明報』(香港)に掲載された記事「中日「蜜月期」提早終結」を本人の承諾を得て日本語に訳しました。原文は中国語。朱琳訳。同記事の抄訳はRecord Chinaのウェブサイトにも掲載されています。 ---------------------------------- <林 泉忠(リム・チュアンティオン)☆ John Chuan-Tiong. Lim> 国際政治専攻。中国で初等教育、香港で中等教育、そして日本で高等教育を受け、2002年東京大学より博士号を取得(法学博士)。同年より琉球大学法文学部准教授。2008年より2年間ハーバード大学客員研究員、2010年夏台湾大学客員研究員。 ---------------------------------- 2010年10月6日配信
  • 2010.09.29

    エッセイ262:オリガ ホメンコ「きれいな服が大好きな私」

    私は昔からきれいな服が大好きです。旅先では必ず新しい衣服を買ってきます。そして着るときに、「この上着はロンドンで買った」と、その旅のことを思い出し、暖かい気持ちに包まれるように感じます。 私の子供の頃はソ連時代だったので、きれいな服や靴を手に入れるのが困難でした。国産のものはほとんど皆同じでつまらないデザインのものばかりでした。そして外国のものは身近になかったので、たとえお金があっても、普通の店ではあまり良いものは買えませんでした。その当時でも、外貨の店にはいろいろな品物がありましたが、外国に行かない限りは外貨を持てなかったので買うすべがありませんでした。 一方、ブラックマーケットでも、高い値段で様々なものを売っていました。私にはかなり年上の姉がいます。彼女の友達に外国製の服を密かに売っている友達がいたので、私がジーンズを欲しいと頼むと、ある時のこと、持ってきてもらうことが出来ました。大喜びで試着しましたが、小さい時にぽっちゃりしていた私は、どんなに頑張っても、横になっても、そのジーンズのボタンを留められなかったのです。悲しくて辛くて大泣きしました。サイズが限られていたので、どうしようもありませんでした。ジーンズを手に入れる夢はまた数年先送りされました。そしてその数年間、自分は太っていると思い込んでいました。 高校の時に一人の友達ができました。その友達は小さい頃、家族でアメリカに亡命し、アメリカの学校や大学を出て、スイスの会社に就職してキエフの事務所に転勤になったのでした。彼を思い出す時、まず、初めて見たカウボーイブーツが頭に思い浮かびます。彼は背が低かったので、そのブーツのせいで少し可愛く見えました。シャルル・ペッロの昔話のブーツに入った猫のように見えたのかもしれません。しかし、1990年のキエフには同じような格好をしている人はまだ誰もいませんでした。ある日、彼の同僚がスイス人の奥さんを連れてキエフに遊びに来ました。彼女はとてもおしゃれな格好をしていました。きれいな靴におそろいのバッグ、そして首に素敵なスカーフを巻いていました。日曜日に一緒にオペラ座へ行ったとき、私は心の中でとても恥ずかしい思いをしました。どうしてもその人のファッションを自分のと較べてしまったからです。私の格好は、どちらかというと。。。流行のものではなく。。。しかし清潔感はありました(笑)。人生で最初のカルチャーショックでした。 キエフの中央デパートで買ったチェック柄の上着と自分で作ったミニスカート。つまり、商品は店にほとんどなかったので選択の余地がなかったのです。自分で作らなければなりませんでした。ものがなかったから、「ものより心が大事」と言われました。心や精神が大事と分かっていても、きれいなものが欲しいという十代の乙女の正直な気持ちを抑えることは出来ませんでした。 そのスイス人の女性と出会って、オペラ座から家に帰る途中にいろいろ考えました。その時私はキエフ大学の前の公園を歩いていました。星空を眺めながら、「私も頑張ってよく勉強して、仕事をしてお金を稼いで絶対にきれいな服を手に入れるよ」と心の中に誓いました。 その後もやはり、皆と同じものを着るのがいやで、しばらく頑張って自分で服を縫い続けました。大学の3年生の時にはコートまで縫い上げました。皆と同じ茶色や黒のものを着るのはいやでした。少しでも明るいコートが欲しかったのでピンク系のコートを縫いました。今考えてみると暗い色ばっかり着ている皆に反発していたのかもしれません。 あれから20年近くが過ぎました。勉強もして仕事もするようになりました。そして、もう長い間服を縫っていませんが、その代わりにいろいろな服を各地で買い集めました。服は相変わらず好きです。それはソ連の体制下で多感な子供時代を送った影響、あるいはその時に感じたコンプレックスだったかもしれません。時の流れと共にそれを乗り越えることができました。 しかしながら、今でもやはりストレスを強く感じている時に、ストレス解消のため服を縫うことがあります。おもちゃの服ですけど。 去年、モスクワに遊びに行った時、友達の16歳の娘さんと赤の広場を歩きながらそのような話題になりました。そしてその16歳の子は「店にジーンズがなかったの?それはどういうこと?」ととても驚いた表情で尋ねました。そのときすぐには説明できませんでした。彼女は私の話にとてもショックを受けたようでした。そして「ソ連が崩壊してよかった!」と。自由にものを買えるだけではなく、旅行もできるようになったからです。それはそうですよ。ものと心のバランスも、それから自然に協調できるようになったのかもしれません。。。 ------------------------------------ <オリガ・ホメンコ ☆ Olga Khomenko> 「戦後の広告と女性アイデンティティの関係について」の研究により、2005年東京大学総合文化研究科より博士号を取得。2006年11月から2008年12月まで学術振興会研究員として早稲田大学で研究。2005年11月に「現代ウクライナ短編集」を群像社から出版。現在キエフでフリーの日本語通訳や翻訳、NHKやBBCのフリーランス記者など、広い範囲で活躍している。 ------------------------------------ 2010年9月29日配信
  • 2010.09.22

    エッセイ261:シム チュン キャット「日本に『へえ~』その5:天気で騒ぎすぎ?」

    長年日本に住んでいるので、日本人が天気の話題が好きであることは重々承知しています。「今日も暑いですね~」「昨日はなんか寒かったね~」「これから雨が降るらしいよ~」「明日は雪みたいだね」などのたわいもない挨拶は留学生たちが日本語教室の初級コースで絶対に習う言葉ですし、手紙やはがきやメールを書くときも、ほとんどの場合は本文に入る前の冒頭にまず気候や季節を表す「時候の挨拶」が入ります。さらに、たとえば夏の暑さにまつわる表現ひとつとっても、猛暑、炎暑、熱暑、酷暑、大暑、極暑、激暑、厳暑、残暑などがずら~っとあって、まあ、それぞれの微妙な違いについて僕はよくわかりませんが、とにかくどれも「暑いよ!」ということなのでしょうね。僕の国シンガポールのある有名なお土産Tシャツに書かれている「Singapore has 3 seasons(シンガポールには三つの季節がある):Hot(暑い)、Hotter(より暑い)、Hottest(最も暑い)」というような、なんのひねりもない単純表現よりは日本語のほうが暑さを表すうえで断然に多暑、もとい多彩であることは間違いなしです。 しかしながら、ちょっと前まで、全国放送のNHKを含むテレビ局などが各々のニュース番組で「今日も暑いです!」「猛暑日が続いています!」というニュースを毎日のように報道していたのをみると、ちょっと騒ぎすぎだったのではないかという気がしないでもありません。毎日の暑さについてトップニュースとして報道するテレビ局も少なくありませんでした。確かに今年の日本の夏は記録的に暑かったです。熱中症で病院に運ばれた人も例年より多かったそうです。でも多くの諸外国のように、天気についてのことは天気予報の時間に注意なり警戒なり重点的に報道すればいいのではないでしょうか。ほかの大事な国際関連のニュースを差し置いてまで真っ先に「今日も猛暑日です!」という「ニュース」が流れることに疑問を感じていたのは僕だけでしょうか。「ニュース」の意味を辞書で調べると、「新しく一般にはまだ知られていないできごとや情報」とありました。百歩譲って今年の夏の猛暑が「一般にはまだ知られていないできごとや情報」だとしても、毎日のように頻繁に、しかもトップニュースとして報道する必要があるのでしょうか。天気予報の時間ではダメなのでしょうか。週間ニュースとして報道するのもダメでしょうか。 「天気」はつまり「天の気」であって天地間の大気の流れによる自然現象である以上、気まぐれなのはそれこそ自然の摂理です。遠くで爆発を起こしながら猛烈に燃え続ける太陽による影響も無きにしもあらずでしょう。その証拠に、去年の夏は今年とは打って変わって、長雨や日照不足の冷夏でした。去年のことなんかもう忘れているという人もいるかもしれませんが、思い起こせば去年の夏にも日本の各テレビ局が冷夏についての「ニュース」を毎日のように流していました。暑すぎてもニュース冷たすぎてもニュースでは、いったいどのような夏が人間にとって一番良くて「普通」なのかと聞きたくなります。数字やデータが大好きな日本人のことですから、きっと「夏の平均気温は33.58度がちょうどいいです」とかいう人がいるかもしれませんね(笑)。この「平均」という言葉も曲者です。考えてみれば、ニュースなどではよく今年の夏の気温は「平均以上です」もしくは「平均以下です」と言ったりはしますが、ぴしゃりと「今年の夏は平均です!」という報道を聞いたことがありません。そもそも自然界の中に「平均」という言葉が存在しないからなのでしょう。逆に「平均な夏」なんて話題性が乏しく、日本人は好まないかもしれません。でも一度でいいから、「今年の夏はなんと平均です!」というトップニュースを是非聞きたいものですね! ----------------------- <シム チュン キャット☆ Sim Choon Kiat☆ 沈 俊傑> シンガポール教育省・技術教育局の政策企画官などを経て、2008年東京大学教育学研究科博士課程修了、博士号(教育学)を取得。日本学術振興会の外国人特別研究員として研究に従事した後、現在は日本大学と日本女子大学の非常勤講師。SGRA研究員。著作に、「リーディングス・日本の教育と社会--第2巻・学歴社会と受験競争」(本田由紀・平沢和司編)『高校教育における日本とシンガポールのメリトクラシー』第18章(日本図書センター)2007年、「選抜度の低い学校が果たす教育的・社会的機能と役割」(東洋館出版社)2009年。 ----------------------- 2010年9月22日配信
  • 2010.09.15

    エッセイ260:宋 剛「坊さんとお粥―北京婦産医院に関する雑感(その2)」

    ロビーと廊下は「L」字或いはゴルフのクラブの形をしていて、目に入ったのは3列の人、三つの窓口に始まって、アイアンとシャフトを繋ぐところで直角に曲がり、薄暗い廊下の奥へと延々と伸びていく。曲がったところから列と列の間隔はなくなる。この人間でできたクラブは25メートル以上もの長さがある。日本では、ディズニーランドのアトラクションに匹敵する風景だ。しかし、歓声はない。いまだに眠気に囚われる人が多いからだろう。 辛うじて列の後ろに並び始めたところ、2人の40代に見える女性が微笑みながら声をかけてきた。「ここで並ぶと専門医は無理だわ」「さあ、さあ、前のほうにおいで、1番だから、一番いい先生に見てもらえるよ。」妻の顔をちらっと覗いた。平然とした顔だ。多少動揺した私にも力が付いて、「いいです」と断った。 妻が心配なのでロビーの椅子に座らせて自分一人で並ぶことにした。病院は8時からで、窓口は7時30分からだ。あと1時間すれば行列が縮む。それまでは膨らむ一方だ。「1時間あれば、ぐっすり眠れる、ゆっくり食べれる、ドラマなら1回見れる、小説なら30ページ読める、ジョギングなら10キロ走れる……」と、私は一時間の使い道を考えた。 「どうだ?前に来ないか、1番だよ。」女の声がまたした。相手は後ろの人だ。 「じゃあ、お願いします。」東北訛りの若い妊婦で、躊躇した声だ。 「おいで、おいで、今日は看板医師だから、200元ね。」女の二人組は更に笑った。 「は、はい」妊婦はお腹を抱えながらついていった。 「特別番号と同じ値段じゃないか。」「本当に。」隣の列の夫婦みたいな男女は河南訛りで会話をした。 8時過ぎに、やっと窓口までたどり着いた。普通の医師の26番だった。専門家ではないが、寝不足の甲斐があった。今度は診察室の外で待つことになった。前に5、6歳の女の子を連れた30代の女性がいた。暇つぶしで妻とその女性は世間話を交わし始めた。「飯に行ってくる」と、番号を手に入れて一安心した私は彼女たちを後にした。 病院の向い側の路地裏に「宏状元」というお粥専門の店があった。20種類以上のお粥のメニューを手にして、どれにするか迷った結果、自分へのご褒美として「状元極品粥」を注文した。22元だった。店にはほかに3、4人いた。みんな黙々と食べていた。店の外に、油条(棒状の揚げパン)を売っている屋台があった。何人かの男が横の道端にしゃがんでしゃべりながら1本1元の油条を噛んでいた。耳を澄ませば、また方言が聞こえてきた。 「地方の人がやたらに多いな。」かつて日本人学生と平等な扱いを求めて大学院の事務室にクレームをつけていた中国人留学生の私でも、北京人のプライドで、地方の人は一人でもいいから病院から消えてほしくなった。そうすればダフ屋たちも笑えなくなるだろう、こんなに朝早く来なくても専門家に見てもらえるだろうと思った。この思いとは別に、彼らとは、店の中と外という二つの世界に分かれていることに、小さな優越感を感じているのにも気づいた。 妻が診察を終えたのは午後2時だった。血液検査と結果待ちにも時間がかかった。 帰る途中、妻は診察室前で会話した女性の話をした。東北省の出身で、長女がいるが、旦那さんの親の要望に逆らえず政府に罰金を払う覚悟で男の子を生もうとしている。二年前に妊娠したとき、知り合い経由で地元病院の医師に頼んで超音波検査をし、胎児の性別を教えてもらった。女の子だと告げられて堕してみたら男の子だった。地元に病院が数ヶ所あるが、超音波器のある病院はそこしかない。しかも、1台しかない。今回は地元の病院を諦めて北京の親戚の家に泊まって婦産医院に通っている。最後に、「ここは患者が多いが安心してみてもらえるところだ」と妻に言ったらしい。 「患者に胎児の性別を教えないこと」という張り紙は病院の中で確かに見た。男尊女卑の思想を持つ親たちが実に腹立たしいが、機械があっても性別を正しく判断できなかったり、平気で堕胎手術を行ったりする病院と医師の存在に驚愕し、憎たらしく思った。そして、22元のお粥を吟味しながら外の人たちを眺めて得意になった自分がバカだったと思った。 中国語では、「僧多粥少」つまり、坊さんが多くてお粥が少ないという言葉がある。人が多くて、分け配るものが少ないことの喩だ。これはまさに現在の中国の患者と病院の現状にふさわしい言葉なのではないか。7月23日のニュースだが、北京市の流動人口は1000万人を突破した。そのうち、病院にかかる流動人口は200万人近くで、北京市全体の6割を占めているという(北京市公共衛生情報中心)。 このエッセイの冒頭で、冬休みに読書をしたと書いた。タイトルを忘れたが、東アジアにおける仏教の誕生と歴史に関するものだった。その中で玄奘のことについて記され、その業績を称えている。計75部、1335巻のインドの仏教経典を中国語に訳し、中国の『老子』を梵語に訳したという。その中の『般若心経』は日本にも伝わり、法相宗、天台宗、真言宗、禅宗などの宗派に強い影響を与えているようだ。インド周遊中の玄奘は、数十万の僧侶が参加した現地の仏教弁論大会で向かうところ敵なしで、大きな名声を博した。また帰国後、唐の玄宗皇帝にたいへん尊敬され、その教義も一世を風靡した。しかし、仏教僧侶や特権層に認められたそんな玄奘より、『西遊記』で描かれた三蔵法師のほうがずっと人々に知られ、人間らしく見える。どうも、今は、北京人独占の婦産医院より、すべての中国人を安心させる婦産医院のほうがよさそうだ。ただし、「今」という期間が短いことだけを願っている。 ちなみに、息子は昨日から咳を続けている。妻と相談した結果、明日は北京婦産医院よりも有名な北京児童医院に赴くことにした。たった今、「さっさと終わらして、目覚しを探しなさい」という妻の声がしたから、こんなところで筆を擱こう。 ☆エッセイ251:宋 剛「坊さんとお粥―北京婦産医院に関する雑感(その1)」は、ここからご覧ください。 ---------------------------------------- <宋 剛 (そーごー)☆ Song Gang> 中国北京聯合大学日本語科を卒業後、2002年に日本へ留学、桜美林大学環太平洋地域文化専攻修士、現在桜美林大学環太平洋地域文化専攻博士課程在学中。中国瀋陽師範大学日本研究所客員研究員。9月より北京外国語大学日本語学部非常勤講師。SGRA会員。 ---------------------------------------- 2010年9月15日配信
  • 2010.09.08

    エッセイ259:宋 剛「坊さんとお粥―北京婦産医院に関する雑感(その1)」

    冬休みはもう終わりに近い。というか、あと24時間。この一ヵ月半の休みを振り返ってみると、やったことは二件しかなかったことに気がつく。妻との通院と読書。 妻は病気ではなく、懐妊している。分娩予定日はあと三週間後の3月21日。ひ孫を待ちに待った祖母も安産を祈願すべく、観音様の像を買って家に仏壇を設けた。本来、実にめでたいことだが、我が家を受け継ぐ血脈の活性化を図る執念と、食べ物を粗末にしてはいけないという座右の銘によって買い置きはせずに、常に「あれを買って、これを買って」と、夫の私に主として肉とデザートを注文し、そしてその日に完食する。そのあげく、ある日の検査で、妊娠糖尿病にかかったことが判明した。 「仏は常に在せども 現ならぬぞあはれなる 人の音せぬ暁に ほのかに夢に見え給う」と『法華経』にいう。きっと、夜明け頃に現れた観音様が空っぽになった冷蔵庫を見て怒ったからだ、と筆者はひそかに思う。とにかく、一般の妊婦より多い、週2、3回ほどの通院検査を余儀なくされた。筆者はもちろんその付き添いだ。 通う病院は、北京で最も有名な公立産婦人科の専門病院、北京婦産医院である。ここは、おそらく、中国随一の産婦人科といっても差し支えない。67,484㎡の敷地面積、1,062名の専門医、660のベッド数、いずれも全国のトップクラスである。医術はもちろん、お医者さんの態度もよく、注意事項など、大切なことをいろいろと教えてくれる。公務員と医者のほとんどはにべもないと思っていた留学前の印象は、今回の経験でだいぶ薄らいだ。 ところが、丁寧なお医者さんにお会いするまでの道程があまりにも困難であった。 病院までの距離は遠いわけではない。車で30分くらいである。しかし、冬休みに入って付き添いの初日、妻に起こされたのは5時半だった。まさかこの世には妊娠時計認知症でもあるのかと変な顔をしたら、「いつものことだよ」と涼しい顔で説明された。平日にほとんど学校の寮に住み込む私には、妻の苦労を承知していなかった。 婦産医院はたいへん有名だが、前を通る道は案外細い。敷地内の駐車場に入ろうとする車はすでに行列を作っている。入り口に入ったところで、急に3、4人の男性に囲まれた。映画で見た少林拳のポーズをしようと思ったとたん、「専門医の番号、いる?」と声をかけられた。 中国の病院では、日本の銀行のように、まず受付で番号登録を済ませて番号札をもらうことが診察の第一歩。番号は専門医用と普通の医師用と二種類。科によって当直医師の人数が違うが、婦産医院の場合、産科が一番多く、毎日、専門医5人、普通医3人の規模である。ランクは問わず、医師一人当たりの受診可能患者数は40人。さらに、一つの科に、20の特別登録の枠が設けられている。要するに、産科では、一日の最大患者数は約340名である。当然、登録料金も普通、専門、特別の順で上がり、それぞれに7元(100円)、14元(200円)、200元(3000円)となっている。有名な病院、有名な科であればあるほど、番号札がなくなるのは速くなる。 「結構です、すみません」と、妻はあっさりと断りながら私を連れて道を急ぐ。 「専門医の番号って、いくら?」と、男の好奇心は鼠のようにうごめく。 「100元」 「100元!?」鼠はハンマーに遭う。そして、病院のダフ屋(!)を相手にしない妻がえらく見える。「でも、そんなに朝早く起きなくたって」と、やはり心のどこかでひそかに思う。 だが、病院1階のロビーに入った瞬間、その思いは吹飛ばされた。 (つづく) ---------------------------------------- <宋 剛 (そーごー)☆ Song Gang> 中国北京聯合大学日本語科を卒業後、2002年に日本へ留学、桜美林大学環太平洋地域文化専攻修士、現在桜美林大学環太平洋地域文化専攻博士課程在学中。中国瀋陽師範大学日本研究所客員研究員。9月より北京外国語大学日本語学部専任講師。SGRA会員。 ---------------------------------------- 2010年9月8日配信
  • 2010.08.25

    エッセイ258:朱 庭耀「私の父親」

    今までに私に一番影響を与えた人は父だ。 父の祖父は清朝末期の知識人だったが、父の父親は当時の政府と政治に失望して、また当時の「実業救国」思想の影響を受けて、経済活動を始めた。父は一人息子として、家業を継ぐため、海外に留学することを断念して、祖父に示された道を歩んだ。父の夢は叶えられなかったが、子供達を教育することに人生をかけた。 しかし、事のなりゆきは希望どおりにならなかった。1950年代初期、中国の民間企業はすべて国に「合弁」された。父は企業の持ち主から職員になった。家の経済状態がまったく変わって、子供に良い教育をさせるのも難しくなった。60年代中期、文化大革命が始まって、知識青年と呼ばれた学生達が農村、辺境へと下放された。その時、大学を卒業した私の一番上の姉も進学できず、江西省の南昌市に「分配」された。その後、「高考制度」が廃止されたが、高校を卒業した兄、姉達は大学へ進学することができなくなって、相次ぎ農村へ「再教育」に行かされた。家族がバラバラになったことは父に大きな打撃を与えた。でも父は倒れなかった。父は教育こそ国を強くさせる唯一の道と確信していて、いつか教育制度がまた変わるだろうと希望を持って、子供を教育することを諦めなかった。当時、「抄家」された家は本もほとんど焼却され、また新しい本を買うお金もないので、父は手書きで私に教科書を作ってくれた。父はよく私に経済的な貧乏はこわくない、知識を身につければ心が豊かになると教えてくれた。1976年、「四人組」打倒後、中国の大学教育制度が元に戻る形で再改革された。その時、まだ在学中だったのは私一人だけだった。重点中学校に合格した私に、父はさらに厳しくなった。 私が高校卒業の時、父は病気にかかって、半身不随になった。私は父の病気と家の経済状況が気になって、進学と就職のどちらの道を選ぶか迷っていた。当時大学卒業生の就職はまだ大学側で決められ、就職地や、職業などを自分で選ぶことができなかった。私は姉のように大学を卒業したら遠い地方に「分配」されることを心配していた。両親は年をとり、姉、兄達は皆遠い地方に行っていたので、私には両親の面倒を見る責任がある。人生の交差点で、私は迷い、なかなか自分の将来を決めることができなかった。 大学の願書の締切日の前夜、父は私を彼のベッドに呼んで、私にこう言った。「あなたは私の末っ子だ。私の最後の希望といえる。あなたの姉、兄達は勉強の機会がなかった。でもみんな夜間学校に通って、頑張ってやっている。あなたは進学に迷う必要はない。私の生きている時間はもうそんなに長くない。でもあなたたちは私の生命の延長だ。私の叶えられなかった夢を、あなたが実現してほしい。学ぶことは若い人にとって、何より大切なことだ。あなたは私のことや家のことなど、心配することはない。私の息子に対する希望は、あなたができる限り勉強すること、人に負けずに勉強すること、わかったかな。」父の話が私の一生を決めた。その後、私は両親と離れて、鎮江にある船舶大学へ行った。大学卒業前、私は上海交通大学大学院の修士課程を志望した。試験前の準備期間に、上海から電報が来た。父の病気が悪化して入院したという知らせだった。私が慌てて病院へ駆けつけたとき、父はもう話せなくなっていた。看護婦さんは父が私の来るのを待っていたと言った。泣いていた母は私に、「父の最後の言葉は『耀ちゃんの修士試験はいつか、彼に頑張ってと伝えてね』だった。」と話してくれた。私は涙をこぼして、父に「必ず大学院試験に合格する。」と誓った。父は私を見て、微笑みながら亡くなった。 昨年春、私は東京大学大学院の博士課程に合格した。母に電話でそれを話した。母は「お父さんが生きていれば、このことを聞いてどんなに喜んだろう。」と言った。父が亡くなってもう11年たった。でも父はずっと私の心の中に生きている。困った時、迷う時、弱くなった時、父は私の心の中で私を励ましてくれる。学問の道は終点がない。私は学ぶことの大切さを家で教わった。父の一生は平凡だったが、父に教育されて私は幸運だった。 (著者の了承を得て、渥美財団1996年度年報より転載) ---------------------------- 1997年3月に東京大学を卒業後、4月に財団法人日本海事協会に入会、技術研究所に所属。1997年、上席研究員。2006年、首席研究員。主に船舶及び海洋構造物に働く荷重に関する基礎研究並びに国際船級規則の研究開発に従事。2003年より、中国、江蘇科技大学客員教授、2005年より、ハルピン工程大学客員教授、2008年より天津大学客員教授。 ---------------------------- 2010年8月25日配信
  • 2010.08.18

    エッセイ257:方 美麗「今までに私に一番影響を与えた人に」

    その人は母という名の女性なのだ。 母は戦前に生まれ、小学校に進学するその年に戦争による厳しい時代が始まった。そのため、彼女は教育を受けることさえできなかった。 貧しい農家で育てられた彼女は、目上の人への絶対的な服従をしつけられ、考え方も昔風の保守的で且つ頑固なものであった。彼女にとって、女性は家庭に入って子育てをするのが天職であった。教育を受けなくても、字を知らなくても立派な母親になれると彼女は思っていた。そのため、彼女は教育熱心な母ではなかった。そればかりか、私たち子供にとって、彼女は優しいお母さんでもなかった。彼女には人に優しくする余裕がなかったのかもしれない。厳しい時代に立身出世に恵まれなかった夫を持ち、4人の子供を抱えながら毎日翌日の生活費を悩み、貧しい生活と借金に追われたストレスがその原因だろう。彼女はきつくて、厳しく、不平だらけだった。しかし、それでも、彼女は悪環境に負けず、戦っていたのだ。 彼女の娘として生まれた私は、苦い苦い幼年と青春を過ごした。男尊女卑という考え方の彼女に対して、至って不満であった。彼女の言動には私たちの気持ちに対する思いやりが欠けていた。それだけでなく、子供の教育にも、男は偉くなるために勉強するが、女は、所詮人妻になるから「小学校で、いいさ。字も知らない私だって、人生はここまで来られたのさ。」という。そのため、姉は小学校の最優秀卒業者であったにも関わらず、中学校へ進学することができなかった。私は運よく、義務教育が県から強制実行され、中学校を出ることができた。が、高校へ行くことは許されず、私は稼ぎに出ることにした。一年後、高校受験に挑戦し、自力で高校を卒業した。 その頃から、生活は少々よくなり、兄は農産物の事業を始めた。しかし、この事業は失敗に終わり、母の半生の貯金と、私の二年間の給料と、家の畑を全部売却するほどの大損害となった。彼女は、息子に対する期待が大きかっただけに、ショックも大きかった。私も、せっかくの貯金が借金返済のために使われ、大学へ行こうとする夢も泡のように消えてしまった。もうこの家から離れて、自分の人生を歩んでみたいと思った。そして、片道のチケットと、わずか300ドルを手にして日本にきた。もちろん反対されたが、彼女の人生を見てきた私は、そのような人生だけは送りたくないと、押し切った。日本語学校での2年間、援助のない異国での生活はつらくて、苦しかった。目指す国立大学(経済的だから)に入れなかったら帰るしかない。否、成功しなければ帰らないと誓った。 そして、受かった。父の友人の金持ちの息子が数百万円と2年間の努力をしても入れなかった大学ということから、母は喜んでくれた。神経、時間、金銭をかけた息子に託した夢を、皮肉にも無視してきた娘が果たした。そして、修士課程終了前に「頑張って、博士課程に進みなさい」と私に言うようになったのだ。母の考え方の変化が嬉しかった。今では、彼女は村の若い娘さんに「うちの娘のように頑張ってください。今の社会は、努力さえすれば女の子でも立派な人間になれるのよ。」という助言をしている。だが、いろんな壁を乗り越えてこれたのは、厳しい状態に置かれた時の母の頑張りを見ていたからこそであり、そのため今日の私がいるのに違いない。 (著者の了承を得て、渥美財団1996年度年報より転載) ---------------------------- <方 美麗(ホウ ビレイ)☆Fang Meili> 1992年横浜国立大学国語教育卒業。1994年同大学修士課程修了。1997年お茶の水女子大学科博士課程修了。東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所非常勤研究員、台湾輔仁大学日本語文学科助理教授、筑波大学外国人教師を勤めながら、東京外国語大学(中国語表現演習、台湾語)兼任。その後、ロンドン大学SOAS(台湾語)、ロンドン大学Imperial College (中国語)の 非常勤講師を経て、現在お茶の水女子大学外国人教師。専門分野は言語学・外国語教授法で、週に一回1.5時間で年間25回の学習で外国語が11分間流暢に話せる“表現教授法“を創った。 ---------------------------- 2010年8月18日配信