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エッセイ303: 林泉忠「ナショナリズムのせめぎ合い:2011年中越紛争の特徴」

冷戦時代に協力と対立を繰り返した中国とベトナムでは、社会主義が退潮する中、それぞれのナショナリズムが急速に高まってきている。今年5月から続いている中越間の衝突の最大の特徴は、両国のナショナリズムが初めて正面からぶつかり合ったことにあり、軽視できない歴史的な意味をもつ。

今回の中越間の衝突は、5月26日と6月9日に中国が南シナ海で二度にわたってベトナム国営石油会社探査船の資源調査活動を妨害し、両国政府が互いを糾弾したことから始まった。ベトナムはその後同海域で実弾演習を行い、中国は最大級の巡視船「海巡31」を南シナ海に派遣した。その頃から、中越双方の民衆の間で相手への反感や怒りが高まり、一時は収拾がつかない状態であった。ハノイの中国大使館周辺では、ベトナムの若者が、6月5日から8週間連続してここ30年間で最大規模の反中抗議活動を行った。一方、中国側のネット上では「到底我慢できない」「懲罰すべきだ」といった「開戦」の声が急速に高まった。

今回の中越間の衝突に対する中国と国際社会のメディアは、アメリカ及び関係国の国益に絡んだ複雑な国際関係に焦点を当てているが、筆者は、今回の中越紛争の最も大きな特徴は両国のナショナリズムが初めて正面衝突したことであり、決して軽視できない歴史的な意義をもつと考えている。

21世紀中越衝突の特徴

摩擦も含む中国とベトナムの歴史関係は古い。近代以降、両国は、いずれも西洋列強に圧迫され、また共に民族解放のスローガンを掲げ、社会主義の道を歩んできた。中華人民共和国が成立し、東アジアの冷戦構造が急速に形成される中、中国とベトナムは互いを「兄弟」と呼び合うようになり、1950年代から60年代にかけてホーチミン時代の20年間は、「蜜月期」であった。しかし、1969年にホーチミンが逝去すると、中越間の対立は次第に表面化し、そして1979年にはついに戦争にまで発展した。

その時期の中越間の衝突の背景には、社会主義陣営内部の軋轢があった。中ソ関係が悪化する中、ポスト・ホーチミン期のベトナムは中国に追従しソ連と距離を置くのではなく、むしろソ連に接近する政策を採るようになった。1978年に軍事同盟並みの『ソ越友好協力条約』が締結され、ベトナムはソ連の海軍がカムラン湾に進駐することを認めた。と同時に、ベトナムはカンボジアから亡命してきたヘン・サムリン勢力を支持し、1978年にカンボジアに出兵した。この軍事行動によって、北京が支えていたポル・ポト政権が崩壊した。言い換えれば、この時期の中越間の軋轢は、中ソ間のイデオロギー対立による産物で、冷戦時代の「代理戦争」という特徴を持ち合わせており、ナショナリズムの色彩はそれほど濃厚ではなかった。

その後、中国は改革開放の道を歩み、ベトナムも1986年から「ドイモイ」と呼ばれる改革政策を推進するようになった。資本主義市場経済の導入に伴い、両国民衆の意識に変化が起った。たしかに、社会主義という看板こそ今日でも掲げているものの、社会主義というイデオロギーは、共産党による統治の合法性を維持する上ではその有効性はもはやなくなったといってよい。それに取って代わって登場したのが「愛国主義」である。

冷戦後の中越におけるナショナリズムの勃興

改革開放からすでに30年余り経過し、中国におけるナショナリズムの高揚に関しては多くの議論がなされてきた。ナショナリズムを維持するには、平和な時代にあっては、たとえ確実な敵が存在しなくても、民衆の国家に対する求心力を凝集させるために、仮想敵を作る必要があった。この30年、中国のナショナリズムの仮想敵は主に日本とアメリカであった。ベトナムが中国ナショナリズムの相手になることはなかった。

中国の民族主義者がベトナムを眼中に置かなかったのみならず、中国の「大国外交」という対外政策の特徴の影響もあり、中国社会全体がベトナムを含む東南アジアの諸国に対してあまり関心を払わなかった。したがって、今回のベトナムの反中抗議騒動が発生した後、とりわけ再三にわたって激怒した数百人のベトナムの若者が中国大使館の前に集まり、「中国はベトナムの主権を侵害するな!」と抗議した場面を見た瞬間、中国の若い「愛国者」たちが耐えられなくなっただけでなく、当時の「社会主義の兄弟国」との親密な関係を今も鮮明に記憶している一世代前の人々も驚かされた。

一方、中国周辺に位置している小さな国として、ベトナム人は古今を問わず、常に中国の存在を意識してきた。近代以降、ベトナムのナショナリズムはフランスの殖民地主義に反抗する解放闘争の中で現れ、アメリカという「張り子の虎」と戦う戦争の中で確立した。北ベトナムが1975年に南ベトナムを統一し、ベトナム社会主義共和国を打ち立てたが、統一後の社会主義建設の期間はそれほど長くなかった。1986年から始まった「ドイモイ」や、その後のソ連と東ヨーロッパにおける社会主義政権の崩壊などによって、社会主義はベトナムにおいても中国と同様にその生命力を失い、民族の尊厳や国家利益を強調する「愛国主義」が再び登場することになった。

以上のように、ベトナムのナショナリズムは反仏戦争と反米戦争の中で高揚した。しかし、遠く離れたフランスやアメリカを敵と見なさなくなった今日、払拭できない歴史的コンプレックスや、パラセル諸島(西沙諸島)の領土や資源など現実的な利益にかかわる競争関係によって、近隣の中国は一躍ベトナムのナショナリズム最大の仮想敵となった。

ナショナリズムも立場を代えて考える必要がある

今回の中越紛争は、ポスト冷戦期における両国のナショナリズムが社会主義イデオロギーに干渉されない状態の中で、初めて起きたものである。中国人にとって、今回の衝突は、ベトナムのナショナリズムの特徴を認識し、ベトナム人の中国観を知るための好機でもある。

中国のナショナリズムの一つの重要な特徴として、中国は被害者であって、強くないから長期にわたって強権からの侮辱や不平等な対応を受けてきた、と考える傾向が今もなお健在である。そのため、多くの中国人は自分の「愛国主義」イコール正義であって、それは疑う余地のない正当性を持っていると堅く信じてきた。しかし、この信念は中国にしか存在しないということではない。ベトナムのナショナリズムも思考上では同様な特徴を具えている。多くの中国人は、ずっと他者にしか使ってこなかった「覇権」「圧迫」「侵略」のような決まり文句が自分の身に使われる日が来るとは思いもよらなかったであろう。

近年、中国と日本の間ではたびたび「歴史問題」で衝突が生じている。中国人から見れば、日本人は過去の侵略戦争に対する反省が不十分で、心をこめて中国に謝罪する気もないという。それゆえ、日本は中国のナショナリズムの攻撃対象となってきた。しかしながら、ベトナム人にとっては、中国人も同じであろう。多くのベトナム人の目からすれば、中国は、歴代の王朝がベトナムに対する侵略と圧迫を繰り返してきたことに対して反省したこともないし、1979年にベトナムに侵入したことに対しても未だに謝罪しようとしていないということだろう。

確かに、日本の中国侵略と中越間の度々の摩擦や衝突とは、時空も環境も異なっているので、一律に論じることはできない。とはいえ、ナショナリズムの視点から見れば、「歴史問題」をめぐっては、中国人が思っている日本とベトナム人が思っている中国は、本質的に重なる部分があるだろう。

中越の歴史観のずれ

歴史は立場によって解釈も異なる。かつて宗主国と属国の関係にあった中国とベトナムは、現在、それぞれ主権をもつ独立国家となりまたそれぞれ歴史的関係の解釈権を握っている。両国の歴史関係に関連する記述と解釈はどの程度異なっているだろう。

二千年以上に及ぶ長い歴史の流れの中で、ベトナムはある時には中国王朝の直接支配する領土であり、ある時には独立または半独立の国であった。近代以前の東アジア地域では、中国の強い文化力と経済力を背景に、皇帝を中心とした「天下」が作り上げられた。それは「華夷秩序」と呼ばれていることである。ベトナムは「北属」の時期(北に位置する中国の属国とされた時期)には中国の皇帝の直轄下の「地方」で、自主の時期には中国皇帝が冊封した属国すなわち朝貢国であった。「華夷秩序」が存在していた時代には、多くの国は中国皇帝に朝貢していた。朝鮮は満州族が明朝を滅ぼすまで中国に対して恭しい態度をとり続けていた。一方、琉球は中国に対する二心のない忠誠さという点で属国の中で突出した存在であった。しかし、何度も中国王朝に反発するベトナムは異なっていた。したがって、中国歴代の士大夫も現代のエリートたちも、歴史の中でたびたび中国に「逆らう」ベトナムを「反逆児」と見なしてきた。このような歴史の中で蓄積されてきた「中心一邊陲」すなわち中心に位置する中国(皇帝)の威徳を受けた周囲の国々は中国にひれ伏して従うのが当然という歴史観は、代々の中国人がそれを有していた。「反覇権」というスローガンを高く掲げた社会主義の中国でさえ、1979年の中国・ベトナム戦争(中国では「自衛反撃戦」と称す)を論じる際に、中国の行動を臆することなくベトナムへの「懲罰」だと言い切れたのも、その歴史観を反映したと捉えられる。

では、近代の中国から「中華民族の傍系」と見なされてきたベトナム自身はどのような歴史観を持っているのであろうか。

いま、ベトナム駐中国大使館のホームページには、次のような「ベトナム歴史」に関する記述(中国語)が書かれている。

紀元前111年、甌雒國(西瓯(タイアウ)人と駱越(アウヴェト)人からなるベトナム最初の国名)は中国漢朝の侵略を受けた。それ以降、ベトナムは十数世紀以上にわたって中国の封建王朝に支配されてきた。北方の封建王朝の統治の下で、ベトナム人民は勇敢で気丈に戦い、支配者に反抗する武装蜂起を次から次へと起こした。紀元10世紀にベトナム人民はようやく独立国を打ち立て、その名を「大越国」とした。紀元1010年に昇龍(今のハノイ)に遷都して以来、大越国は長期にわたる独立の時代に入った。この期間にも、ベトナム人民は何度も外国の侵略を経験した。その中には中国宋朝、元朝、明朝と清朝が含まれる。(抜粋)

この歴史観には近代主権国家の思想やナショナリズムにおける民族と国家に対する思考様式の特徴が反映されている。この記述の中に当時の中越間の従属関係およびそれにかかわる「冊封」と「朝貢」などの史実がまったく触れられていないのは、こうした歴史の考え方によるものである。ほかにもう一例を挙げよう。ベトナムの人々は、今でも「徵氏姉妹」(または「二徵夫人」)が勇敢に漢の侵略に抵抗した物語を興味深げに語る。この歴史に関しては、中越間の論述も大きく異なっている。ベトナムの史料では、徵氏姉妹が中国の官吏の圧迫によって蜂起したことを強調しているが、中国の史書では、この二人は詩索(姉徵側の夫)が罪を犯し、死刑に処せられたことをきっかけに、その私憤をぶちまけるために反逆したと記されている。 

本稿では中国とベトナムのナショナリズムの歴史的文脈を検討し、ナショナリズムの構築における人為的な側面も指摘した。高揚している今日の中国とベトナムのナショナリズムの本質に対する理解を深めるきっかけになればと期待したい。

*本稿は『明報月刊』2011年7月号に掲載された記事「「侵略」與「懲罰」之間:中越衝突的民族主義特徵」を本人の承諾を得て日本語に訳しました。原文は中国語。李軍訳。

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<林 泉忠(リム・チュアンティオン)☆ John Chuan-Tiong Lim>
国際政治専攻。中国で初等教育、香港で中等教育、そして日本で高等教育を受け、2002年東京大学より博士号を取得(法学博士)。同年より琉球大学法文学部准教授。2008年より2年間ハーバード大学客員研究員、2010年夏台湾大学客員研究員。
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2011年8月19日配信