SGRAかわらばん

  • 2011.05.04

    エッセイ292:包 聯群「東日本大震災体験記」

    “3.11”のマグニチュード9.0の地震・津波・福島原発事故から50日が過ぎました。世間もやっと落ち着きを取り戻してきたようです。被災者への救済も着実に進んでいて、災害に関する海外の報道も徐々に減ってきています。しかし、大震災が起きた時には、日本に居た外国人にもいろいろな動きがありました。過去を振り返る余裕ができた今、当時、在日外国人(特に留学生たち)が何を考え、どういう行動をとったかを知り、彼らに対してどのような支援が必要だったのかを考えてみるべきでしょう。地震や津波や原発事故だけではなく、情報の錯乱も多くの外国人にさらなる恐怖をもたらした教訓から、私たちは何を学べるでしょうか。 1.地震による交通マヒを体験 地震が起きた時、私は友達に会うために、五反田のある大企業の建物の中にいました。話をしている途中で地震が起き、建物が左右に大きく揺れました。人々は困惑しながらも、屋内で揺れが収まるのを待っていました。間もなくビルの管理者からの指示があり、外に出て見るとすでに人があふれていました。みんな家族や友達に電話をかけていますが、まったく通じない状態でした。そして、携帯でニュースをみて、震源地が東北であることを知りました。 電車が止まっていたため、私がいたビルの管理者から「屋内に戻ってしばらくお待ちください」というアナウンスがありました。しかし、しばらく待っても電車の運行が回復しそうもなかったので、私たちはバスで渋谷まで行くことにしました。しかし、バスを待つ人がいっぱいだったので、結局、友達と一緒に渋谷まで歩くことにしました。JR線に沿って歩いている人がたくさんいましたが、みんな秩序よく行列になってお互い譲りながら狭い道を双方向で利用していました。一時間半以上をかけて渋谷に到着すると、これまで見たことのない「人の海」でした。渋谷駅から各方面に行くバスを待っている人と電車を待つ人が、その広場を埋め尽くしていました。 私の家まで行くバスがなかったため、友達の家へ行くことにしました。長い行列で、冷たい風を耐えて3時間、やっと成城学園前行きのバスに乗れました。しかしながら、目的地まで6時間かかると告げられました。そして、バスがなかなか前へ進まないため、バスから降りて歩いて行く人が徐々に増えてきました。3時間以上経っても三軒茶屋あたりまでしか進んでいなかったため、私たちも結局バスを降りて歩くことにしました。歩いているうちに、1時間、2時間以上前に出発したバスを次ぎ次ぎに追い越しました。長い道のりを歩き、結局、友達の家に着いたのは午前4時をすぎていました。  五反田から渋谷までのJR山手線沿いの狭い道でも、渋谷駅の周辺でも、人があふれているにも関わらず、人々は混乱せずに行列を作り、バスを待っていました。日本の秩序を改めて実感することができました。私だけではなく、各メディアおよび海外メディアもこれについて賞賛しています。 そして、バスを降りて歩いているうちに、多くの商店やレストランの前で様々なサービスを受けられるという看板が出ているのをみて、災害がおきた時、日本人は柔軟に対応し、また他人のため何ができるかを判断し、行動に移していることに感銘を受けました。 2.多言語によるFM放送の実施 2009年の統計によると、在日外国人はすでに218万人にも達しています。大震災直後、在日外国人のため、多言語によるウェブサイトやラジオ放送がたくさん立ち上がりました。渥美財団や大学、知り合いの先生方が多言語による震災情報サイトの情報を流してくれました。多くの外国人が日本人の温かい心を感じたひと時と思います。 大震災直後のある日、ある先生が「テレビ東京のInterFMで多言語による翻訳や放送にボランティア募集中」というメールを送ってくださいました。それをみて、私は「もし人手が足りない場合は私に連絡を」という主旨のメールを送ったところ返事をもらい、お手伝いをすることになりました。多言語による生放送は18日から始まり、10日以上続けられましたが、録音した多言語による放送はその後もしばらく放送されていました。私は中国語の翻訳や放送を担当しました。 放送内容は地震、放射線(福島原子炉の動向、注水作業など)、土壌や食品汚染情報などに関する緊急速報、被災地の中国人の集合場所、連絡先電話番号、中国大使館との連絡方法、放射能に関する予防知識、計画停電速報、被災地死亡・行方不明者数、みずほ銀行ATM故障および銀行の対応、菅首相の動向、道路交通情報、外国人向けの多言語対応機関の紹介、東京都と品川区の被災者支援募金および物資の寄付情報などでした。このような情報を次々と翻訳して放送しているうちに、自分の気持ちもそれに従って暗くなり、事態の重さを生で体験することになりました。 放送する内容の決定の仕方については、ラジオ局のスタッフが、契約に基づきインターネット上の共同通信のニュースを利用できることを教えてくれました。つまり、共同通信のニュースから、新しく入ったニュースを探し出し翻訳を行い、許可を得てから放送していました。緊急ニュースの場合は、その場ですぐ翻訳して放送したこともありました。また中国大使館のウェブページからも中国人向けに発信している内容を選択し、繰り返し何回も放送をしたこともありました。 ニュースが多い時には、1日に10時間以上も放送局に居て、翻訳や放送を続けました。最初の日は、中国語、韓国語、英語、スペイン語の生放送がありましたが、翌日には英語と中国語のみになり(ボランティアが少ないため)、その後は英語や中国語以外の他の言語のボランティアはたまに来る感じでした。英語を除けば、生放送を一番長く続けられたのが中国語でした。私以外に慶応大学の学生もいたので交代できたからです。 多言語によるサービスを実施したのは、テレビ東京のInterFMのみではありません。NHKや他の民間放送局や多くの政府機関、団体なども多言語による放送やサービスを実行していました。 災害が起きた際、日本は外国人に対して日ごろから行っている多言語によるサービスを活かし、迅速な対応や行動を取り、外国人に正しい情報を伝えることができたと評価することができます。ことばを知らないため、世の中に何が起きているのか、放射線がどの程度であるのか、などの情報を手に入れることができず不安な日々を過ごしていた外国人にとって、多言語によるサービスがいかに大事であったかは言うまでもないことでしょう。 緊迫していく毎日を過ごしていた政府や関係者が、いつもと同じようにすべての外国人に行き届くサービスを実施することは事実上不可能です。前例のない大きな災害が起きた時でさえ、外国人に多言語による情報伝達の努力をしたことについて評価すべきと考えています。 3.中国人の動向 東日本大震災発生後、特に福島原発事故による放射能の漏洩によって、在日各国大使館は自国の人々に避難勧告を出しました。被災した地域には留学生を含む3万人以上の中国人が居住していたので、中国大使館は留学生を含む中国人の安全確認や自主的な避難を呼びかけ、大使館ウェブサイトに震災情報を掲載したり、24時間対応の緊急連絡電話を設置するなどの対応を取ってきました。中国大使館の協力のもと、地震発生後10日以内に7600人が被災地域から他の場所に避難し、9300人が帰国しました。15日の夜に中国大使館が被災地の自国民に避難する通告を出すと、東京、茨城、千葉などの地域の人々も避難しはじめました。中国だけでなく各国の留学生が帰国したり、福島から遠い地域へ避難したり、安全な場所へ移動する動きがありました。 最後に留学生の動向を紹介することによって、当時人々が何を考え、どういう行動を取ったかを振り返ってみたいと思います。私はこれらの外国人留学生たちと緊密な情報交換を行い、また彼らに震災に関する情報を伝えていました。 Aさんは仙台の大学の大学院生で、地震が起きてから連絡つかず、3日目になって、やっと安否を確認できました。そして、かつて私が仕事をしていたビルが立ち入り禁止となっていることを教えてくれました。Aさんの周りの留学生たちは皆新潟へ移動しましたが、なぜか彼女はどこにも行きたくない、指導教官がこちらにいるから大丈夫と言います。先生にも他のところに行ってもいいよと言われたそうです。親や兄弟から帰国するよう毎日電話でしつこく言われ、やむを得ず「私は他の安全の場所に避難します」とウソをついたそうです。その後しばらく友達と一緒に3人で日本人の知り合いの家に避難しましたが、日本人の優しい心に感動し、「日本人はすごいね。お互いに助け合う精神に感銘を受けました」と言っています。 仙台の大学で非常勤の仕事をしているBさんは、大学院を卒業したばかりです。家が被災して住むことができなくなったので、しばらく家族と共に避難所で過ごしていました。中国大使館の呼びかけで、奥さんと幼い子供をまず新潟へ避難させ、その後帰国させましたが、彼自身は一人で仙台に残りました。 留学生のCさんは日本滞在がそれほど長くないため、日本語を完璧に理解することができませんでした。そのため大震災が起きた時から、いつも私に電話をかけてきて、その時々の事情を確認していました。3月末のある日、彼女から電話が来て、「これから日本で9.0以上の地震がまた起きるよ、国に帰りたい」と言います。「ええ、そんなことないよ。どこから聞いたの?」と私が尋ねると、彼女は、「今、国際ラジオニュースで言っています」と言いながら、携帯で私にそれを聞かせてくれました。ほんとうだ。しかも、日本のある専門家の分析によるということでした。私は、しばらく聞いてから「それを信じるかどうかは、自分で決めるしかないですね。たくさんの人の意見を聞いてから行動したほうがいいですよ」と彼女に言いました。彼女は日本に残りました。 専門学校の留学生のDさんは来日3年目。大震災以後、怖くて、友達がいる岡山に避難しました。岡山から私に電話がきて、「今、友人のところに避難しているので、とても安全。こちらは地盤がよくて、地震は起きない」と言います。しかも茨城の友達も家族で来ていたので、8人も一緒に暮らしているそうです。それから、たまに電話がきて情報を確認していました。3月末のある日、すでに東京に戻ってきたという電話がきました。しかし「今は大変。東京のお水は飲めないから、ミネラルウォータを毎日飲んでいたせいでもともと調子がよくない胃が痛くて、食事もあまりできない状態です。そしてちょっと怖い」というSOSの電話でした。「そうですか、東京のお水はもう大丈夫ですよ。私の家に来てちょっとリラックスしたら」と誘いました。彼女はその後すぐ私の家に来て、いろいろな話をし、一緒に東京の水道水を飲んで、2日間よく食べて、顔色もよくなりました。そして「胃」を直して帰りました。本来ならば、彼女のビザは4月27日までで、半年間延長する予定でしたが、4月7日のチケットを購入して、「早く帰りたい」と言い残し、帰国の途に着きました。 東京の大学院生のEさんは、2月には博士論文の審査を終え、3月末には卒業証書をもらう予定でした。しかし、大震災後、一時関西へ避難していたものの、最後には帰国したということです。社会人のFさんの家では茨城から避難してきた故郷からの留学生を受け入れ、10日間ぐらい共に暮らしました。 日本に暮らす外国人はお互いに様々なネットワークによって結ばれています。同じ国・故郷からの出身者が大体繋がりをもっていて社会ネットワークを築いています。また、今回、多くの外国人が語学のボランティアに携わり、それぞれの多言語能力を一つの「財産」として活かすことができました。日本の行政機関や非営利団体などが外国人のこのようなネットワークと日ごろから接触し、それを社会活動に活かすことができれば、非常事態が起きた時にお互いに連絡し合って様々な情報をスムーズに伝えることができるというだけでなく、日本に多言語社会・共生地域社会を築くために役に立つのではないかと考えています。 ------------------------------------ <包聯群(ボウ・レンチュン)☆ Bao Lian Qun> 中国黒龍江省で生まれ、内モンゴル大学を卒業。東京大学から博士号取得。東北大学東北アジア研究センターの客員研究員/教育研究支援者を経て、現在東京大学総合文化研究科学術研究員、中国言語戦略研究センター(南京大学)客員研究員、首都大学東京非常勤講師。言語接触や言語変異、言語政策などの研究に携わっている。SGRA会員。 ------------------------------------ 2011年5月4日配信 【読者の声】 外岡 豊「包さんのエッセイを拝読して」 包聯群さんが留学生や中国語生活者の地震後対応にその語学力を活かされ放送、報道に大いに活躍されたことは非常によかったと感じました。多くの人にも貢献できたし個人的にも良い経験にもなった、留学生を含め外国人居住者も日本社会の一員ですから、これを機会により深く社会とのつながりを持てたことは結果として充実した毎日だっただろうと思います。それは日本人が緊急時に助け合ったことと繋がっていて、その裏には留学生諸氏とのそのような人と人の前向きなつながりを支援してきた渥美財団の長年の蓄積が目に見えないかたちで後押ししていたのではと思います。東北の津波の被災地でもいわゆるコミュニティーと言われる地域の人々のつながりが強くあって東京の日常とは違う田舎や地方の良さがあらためて認識されたように、健全な社会を支えているのは人と人のつながり、それは言うまでもないことです。渥美財団の活動を脇から眺めていつも思うことは留学生とのそのような親密な人間関係強化に強い意志と温かい心を持って取り組んできた、その継続がかけがえのない無形の財産になっていること、そのすばらしさです。いつも留学生諸氏のSGRAエッセイを読ませていただいて触発されて、こちらも何か書きたくなるのですが、地震後たまっていた思いもあり、包 聯群エッセイを拝読しての応答を書かせていただくことにしました。  *  *  * 地震(大きな余震が来る可能性)と原発(大量に放射性物質が排出され広域汚染される可能性)の不安を総合すると避難や帰国を促した各国大使館の対応は過剰ではない。不正確な海外向け(外国語)情報で必要以上に外国人の不安をあおった面はあったが、東京近辺の日本人も食料や水を我先に買いに走ったので不安感には大差がない。今回の場合は水や食料確保に走った市民の行動を私は非難するつもりはない。幸いそれが必要な緊急事態が今日まで起きないで来たが、何かが起きていたらそれで社会的混乱を予防的に回避できた可能性も高い。これからそれが役立つ事態が起きないとも限らない(起きないことを祈るのみ)。 私はつくばで国際会議中に地震にあったが、初めて地震を体験した外国人も多かったようだが幸い全員無事だった。余震の危険と長い停電のおかげで、何をすることもできず、はからずも外国人研究者と時間をかけて研究交流できた。電源不足でパソコンが使えずパワーポイントを見せ合うことはできなかったが、ゆっくり話す機会になった。 一晩親切な避難所の世話になって次の日横浜に住む中国人若手研究者夫妻とともに東京に戻った。研究水準は高いが日本語力がやや弱いポスドク級研究員だったので、私と行動を共にすることで、彼らが不安なく帰宅できたことに多少の御役に立てたのは幸いだった。 私の周りにいる留学生諸氏に対し3月中旬には帰国を勧めたが安い航空券が手に入らずすぐには帰れない人も多かった。宇都宮大の中国人学生は松山空港経由で上海行きに乗って帰国したが、そのような国際便があることを初めて知った。 4月になり新学期が始まると多くの中国人留学生も日本に戻って来た。大学院生に対しては、あわてて日本に戻らなくてもよい、故郷で落ち着いて勉強しているのもよいと言って帰国させたが、4月中旬には自主的に日本に戻って来た学生も多かった。地震後は、まだ、大学院生諸氏と研究らしい研究をしていないが、幸い余震も原発も小康状態、連休になって東京近辺の社会情勢もやや落ち着きを取り戻して、緊急時から平常な日常生活にもどりつつあるように見受けられる。 地震、津波、原発で日本のことばかりに気が集中していると世界的な状況への認識が薄れると思っていたが、リビアのカダフィー問題が長引いているうちに、こんどはビンラディン殺害、英国の王子結婚の祝い気分もつかの間、物騒な話題がまた出てきてしまった。先月、日経新聞でブッシュ元大統領(43代George Walker Bush)の『私の履歴書』を読んで21世紀初頭のテロの10年間を回顧する機会があったが、こうすぐに報復テロへの不安が再起される日が来るとは思わなかった。一部EU諸国の国家債務問題も、USA経済の立て直し問題も、地震以前からの日本政府の巨大債務問題も残っていて、地震復興や原発安定化が進んでもそれらの問題が片付くわけではない。アメリカ大陸では大きな竜巻被害があったが、天災と経済と政治と民族紛争と貧困と世界中が混乱と困難に巻き込まれそうな不安はまだまだ続く。21世紀初頭はそのような時代と覚悟して臨むべしと若い学生諸君に常々気構えを喚起するように努めて来たが、意外な形で緊急事態が早く現実に来てしまった感がある。 こういう時はどうすべきか。 ただただ日常生活を全うする普通の生活を着実に行う他ない。学生は基礎を学ぶ、古典を読む、歴史の本でも読むとよい。節電のためテレビを見ない、テレビゲームをしない、それは当然の対応と思うが、落ち着いて読書する良い機会、とくに大学院生の学生諸氏はじっくり本や論文を読んでしっかりノートを取る、電気がいらない学習法に立ち帰る絶好の機会と思う。 私の専門はエネルギーと環境、建築学科出身者として都市計画や社会の計画にも関わりを持っているが、当面の節電問題も専門領域、これからの気候変動対策、低炭素社会構築をどう進めるのかという長期対策も研究対象である。この夏の停電回避は原発が止まっても火力発電で乗り切ることはできるが、長期的なCO2排出削減、2050年にはゼロエミッションを達成しようという長期目標と、原発、化石燃料や再生可能エネルギーの問題に本気で取り組まないとこの先の社会生活像を描くことができない。 とにかく全員でいっしょにこの問題を含めてこれからの社会について真剣に考え直しませんか。日本人だけで考える時代ではない、アジアの将来を世界人類の将来を多国籍の多世代の方々と考えたいと思っています。(2011.5.04) <外岡 豊(とのおか・ゆたか)> 埼玉大学で留学生(とくに多いのは中国人)指導。日本と中国の気候変動対策、大気汚染防止、建物のエネルギー消費と省エネルギーなどについて研究中。SGRA環境とエネルギー研究チーム顧問。 ---------------------------- 2011年5月25日配信
  • 2011.04.27

    エッセイ291:李 彦銘「原発危機への対処をどう見るか:二つの「異質論」への危惧」

    3月11日の大震災から一か月、余震がまだまだ続くなか、放射能が引き起こした不安は必ずしも減少していないが、長期化するに伴いそれほどパニックになることでもないようになってきた。もちろんこれは、東京に住む私の体験に基づいた話であり、各地で状況は異なるであろう。 しかし、一か月前は違っていた。フランスをはじめ、アメリカやイギリス、シンガポールなど、多くの国の政府は日本政府が発表した半径20キロよりはるかに広範な範囲を設定し、自国民に避難や退避の勧告を出していた。さらに、大使館や新聞社などが主要機関を関西に移転させたり人員を帰国させたりする動きも顕在化し、あたかも東京は危ない、パニックはすでに起こっているという印象を与えた。三連休の間に東京在住の人々も西へと避難し、大規模なパニックが起こるのではないかと私は心配した。しかし実際にはそれ以上の事態は発生せず、「日本人はパニックにならなかった」ように見えた。外国人から見れば不思議であった。 なぜパニックは起こらなかったのだろうか。やはり日本人が特別に冷静だからか?ではなぜ外国人の中だけでパニックが起こったのか。やはり外国人は日本人と違うからか? このような単純すぎる答えに疑問を感じながら、私は21日に北京に向かった。前から予定していた資料調査のためだったが、友人や知人みんなに「避難」だと揶揄され、おいしい食事をいただきながら、「放射線を持ってきていないよね?」と冗談を言われた。この言葉は以前誰かにも言われたことがある気がして、なんだか妙に懐かしい気持ちになった。 よく考えてみたら、それは2003年の夏、SARSが中国で流行した時期のことだった。人の移動がウィルスの蔓延を手伝うので、対策として北京はゴールデンウィークに入ってから実質上隔離された(記憶ははっきりしていないが、鉄道での移動は難しかったが、自動車や長距離バスは走っていたような気がする)。私も大学の呼びかけに応じ、大学の宿舎に留まり外出を控え、実家には帰らなかった。6月24日に世界保健機関(WHO)が北京に対する旅行延期勧告を解除し、流行地域指定リストからも外した。その後夏休みになってようやく実家に帰れた。その時に暖かく迎えてくれた友人たちは、同じように「SARSを持ってきていないよね?」と冗談を言ってくれた(このジョークのセンスに戸惑いを覚える人がいるかもしれないが)。 この2つの危機を比較するのは、妥当ではないところも多いだろうが、個人体験としては歴史の重複のような感じが強かった。 まずは危機に関する報道の国内外の格差である。SARSの際は、北京市政府・中国政府の最初の情報公開が悪かったために、3月の時点で却ってパニックを引き起こし、人々がデマや噂で動いた。しかし4月20日に衛生部長と北京市長がSARS対応と情報公開の遅れに責任を持ち事実上解任されてからは、対応体制が急激に好転した。にもかかわらず、海外ではすでに「中国政府=情報隠ぺい」のイメージが広がり、「北京封鎖」、「北京ゴーストタウン」とまで報道された。海外メディアの中国政府に対する信頼度が極端に低かったのである。 これは今回の東京の状況にも共通すると言える。海外メディアは東電の情報隠ぺいや日本政府の危機管理能力を一旦問題視すると、日本政府の対策すべてに不信の目を向けた。危機の中における海外メディアの報道は、基本的にはこのような図式で動いた。ここには、行政システムや国内政治の細かい変化を観察し、それを簡潔に一般市民に伝えるのが非常に大事なことであるのに、それはおそらくメディアに求められる役割ではないという落とし穴あるいは矛盾が存在している。 次に共通するのは、外国人の脱出である。東京での外国人の脱出ぶりは前述の通りだが、残るか残るまいか、大好きなあるいは長く生活してきた日本と運命をともにするかどうかと、相当深刻に悩んだ外国人が多くいた。北京SARSの場合は、外国人を取り上げるニュースがあまりなかったのでその心理状況を確認できないが、留学生や駐在員の帰国ラッシュは確かに起こり、日本を含めて各国政府も帰国勧告を出していた。各大学の留学生もほとんど帰国した。政府の立場から国民を守るために勧告するのは当然なことであるが、個人にとってはなかなか難しい心理的な判断である。ただ、より安全なところに避難したほうがいいというのは人間の一般的な判断なので、脱出したからといって残った人と「異質」とはいえない。 最後に、危機の中に長く生活した人々、残った人々の反応である。日本人が特別に冷静であることや日本人の死生観や文化に対する解釈として、日本が島国であるためだとか、常に危険な自然環境にさらされていて特殊な部分があるためだ、などがよく挙げられる。文化的な要素を否定するつもりはないが、こうした見方は日本人の特殊性を過大視しているのではないかと私は考えている。SARSの際の北京においても、4月にあれほどパニックになってマスク・白酢などいろんな物資を買い占めた人々が、事態が長期化するにつれて驚くほどに冷静になり普通の生活に戻っていった。逃げ場がないからしょうがないと考えた人もいただろうし、逃げても結局は北京に戻らないといけないと考えた人もいた。その理由はさまざまだが、逃げないと決めた以上、ここで普通に暮らしていくと腹を据えたほうが心の負担が小さくなる。この意味では、いまの東京とあのときの北京では同じことが起こっていて、日本人は大変特殊でもなければ「異質」でもないだろう。 なぜわざわざこのような比較をするのか。今、日本人は、地震や災難の中でも「冷静」で「資質が高い」と世界中から高い評価を受けている。しかし、こうした評価の土台は相変わらず「特殊論」であり、それは80年代の「日本異質論」と共通する部分を持っている。かつて「日本的経営」や日本文化が善につながったり悪につながったりして、日本に対する評価が当時の国際背景に翻弄された。原発問題の長期化や今後の対処によってこれから世界が下す評価はまた変わるかもしれない。だから異質論を土台にした議論には単純に同意できない。世界各国が今日のようなグローバルな危機に対処していくには、日本との協力が必要で、今回の危機をめぐる日本政府の行動様式、日本社会の行動様式に対する正しい理解がなおさら必要とされる。 また言うまでもないが、外国人が「異質」である論調にも危惧すべきである。ますます世界を必要としている日本にとって、閉鎖感につながる価値判断は慎重にしなければならない。また、日本の考え方を分かりやすく世界に対し説明することも求められる。この役割は日本の有識者に期待したい。 p.s. 日本政府がどこまで情報を隠ぺいできるかについて、私は深い疑いを持っている。この問題は政治体制そのものにかかわる問題である。民主主義体制では情報隠ぺいがありえないとは言わないが、昨年学界および政界を賑わせた「日米密約」問題を想起すると、有識者委員会が当時の公文書を綿密に検証し、結論として「広義の密約があった」と報告したことには大きな意義があった。つまり、日本の安全保障と同盟関係という最も機密度が高い分野においても、国民がきちんとチェックするルートがあるということを証明した。このような体制の下で、原発問題についてたとえ隠ぺいが行われても、事後に明らかにされる可能性が高い。その時に問われる責任を考えると、隠ぺいのコストの方がよほど高いだろう。 ---------------------------- <李 彦銘(リ・イェンミン)☆ Yanming LI> 国際政治専攻。中国北京大学国際関係学院卒業、慶應義塾大学にて修士号取得した後、現在は同大学後期博士課程在籍中。研究分野は日中関係、現在は日本の経済界の日中関係に対する態度と影響について博士論文を執筆中。 ---------------------------- 2011年4月27日配信
  • 2011.04.13

    エッセイ290:カバ 加藤 メレキ「中東の民主化とトルコ」

    最近のトルコのメディアが注目していることは大きく三つ挙げられる。まずは国内政治、次には中東の複雑になってきた政治状況、そして日本の大震災である。その中でも地理的、歴史的そして宗教的な諸関係からすると、中東で起きている民主化の動きが極めて重要である。 ここでは、トルコの政治家のレベルよりも、一般人の認識の中で、中東の最近の動きはどのように位置づけられているかを考えたい。 まず、エジプトやリビアを始め、アラブ諸国とトルコの関係を知る必要がある。先ず地理的に見ると、トルコは南にシリアとイラク、東にイランと国境を接している。エジプトやリビアは、地中海を挟んで、トルコの南に位置している。陸続きにアラブ諸国と繋がっているトルコにとって、中東における様々な動きは他人事ではない。 そして歴史的な観点からすると、トルコの過去にオスマン帝国の存在は大きいものであるが、その国境は地中海を囲んでいた時期がある。例えばリビアやエジプトは16世紀にオスマン帝国に併合された歴史がある。そのような歴史的な背景から現在のトルコ語は、アラビア語から入ってきた言葉が極めて多い。例えばムバラック元大統領の名前の「ムバラック」はトルコ語で今でも「おめでとう」という意味で日常的に使われている言葉である。 さらに、トルコでは、同じイスラム教徒という考えから、アラブ諸国の人々に対して、「兄弟」という認識もある。こうした地理的、歴史的、宗教的そして文化的な背景から、アラブ諸国はトルコにとって単なる隣国以上の様々なつながりを持っている相手である。とはいえ、トルコとアラブ諸国の関係は20世紀の第一次世界大戦前後から途切れてしまったのだが、それは最近また回復している。例えば、シリアとトルコを繋ぐ鉄道が最近動き出だしたし、この両国の間ではビザなしの移動も可能になった。 トルコのステレオタイプ的なアラブ人イメージをまずここで確認したい。現在30代から40代のトルコ人にとって、それは、白いヴェールを被った、石油王者の男性である。(なぜか、アラブ人女性のイメージは薄い存在となっている。)そうした男性はトルコ映画の中の「アラブ人」であって、金銭的に恵まれているが、単純な人間というイメージである。トルコの東にもアラブ人が住んでいるのだが、それにしても、トルコ国外からのアラブ人は、トルコの町の風景の中では極めて少ない存在である。 最近のエジプトとそれに続く中東の民主化の動きの中でも、現在国際社会を動かしているリビア情勢に関しては、トルコ国内でも緊張感が高まっている。トルコの世論では、中東で問題となっている国々の民主化は一日も早く実現すべきと見なされている。言い換えれば、中東諸国の民主化は、極めて遅れているという見方である。 例えばエジプトのムバラック元大統領は、現在30歳前後のトルコ人にとって、幼い時から「当然」エジプトにいる存在であった。それを疑問視できないほど、ムバラックの存在は、エジプトの風景の一つであった。ムバラックという権威がなくなったことは、トルコ人にとっても、当然だと思われてきた物事を改めて「当然なのか」どうかと考えるきっかけとなった。 問題となったのは、2万5千人のリビア在住のトルコ人の引き上げであった。この問題からも窺えるように、現在多くのトルコ人がアラブ諸国に留学や仕事のために滞在している。トルコ人の避難のために、数回に渡って運搬車両をリビアに送り、そこにいるトルコ人が帰国できるようにサポートした。彼らの帰国後の生活支援もトルコの一つの課題である。 しかし、トルコの一般の人々が、現在問題となっている中東の国々に関して持っている一般常識のレベルはそれほど高いものではない。あるお笑い番組のアナウンサーが、町の貧困層を対象に行ったルポルタージュがネット上で公開されている。この動画は頻繁に好評されている。その内容は、街路を歩く人々に訪ねた「カダフィは誰ですか?」という質問に対する返事である。人々は「宗教学者じゃないかな?」、「アラブ人だろう」、「昔の仙人の名前かもしれない」、「リビアの王様の息子の名前だと思います」、「さあ、よく知りません」などである。この番組は2011年3月中旬のものであるが、それ以降の報道などによって一般人のリビアに関する知識がより増えているかも知れない。 大学生レベルのインターネットの掲示板などを見ると、一方では、中東の民主化が遅れていることを極めて熱心に議論する傾向がある。彼らにとって、「ムバラック」「カダフィ」などの名前は「恐竜」であるとされている。この「恐竜」という言い方には、既に時代遅れになっているという意味合いが加えられている。さらに特に「カダフィ」のセクションをみると、彼の国民に対する独裁者的な姿勢を、トルコの若者たちは激しく非難している。 一方では、中東におけるアメリカの政治的な存在をますます懸念するトルコ人もいる。彼らにとって、こうした中東の現状は、世界の強い国々が石油を獲得するための「八百長問題」である。その意味は、中東が混乱していれば、支配して石油などを手に入れることが容易になるから、西洋の国々が中東の紛争を後ろでサポートしているという見方である。 国際社会がリビアの市民の安全を懸念して動き出した現在、トルコ政府もこの動きに加担する考えを発表している。トルコ市民やビジネスマンから、特にリビア市民に対して物質的な支援をする動きが始まっている。トルコ人にとって、中東に平和が来るのが待ち遠しい。しかし、それが簡単には実現しない理想であるという現実にトルコ人は心を痛めているのである。 ------------------------ <カバ 加藤 メレキ ☆ Melek Kaba Kato> 比較文学・文化専攻。筑波大学大学院生。現在19世紀の西洋人の日本イメージを中心に研究活動。 ------------------------ 2011年4月13日配信
  • 2011.04.08

    エッセイ289:林 泉忠「放射能パニックとメディアの責任」

    M9.0の大地震によって引き起こされた福島第一原発の放射能漏れ問題がもう二週間以上続いている。その間、香港を含む多くの国や地域は居留民を相次いで日本から退避させ、東京の空港は一時大混雑に陥った。航空券も地震前の4倍の20数万円に跳ね上がった。日本は香港の観光客にとって最も人気のある国の一つであった。毎年3月下旬から4月の桜開花の季節になると日本ツアーがピークを迎える。しかし、今年は香港の幾つもの大手旅行社がまだ出発していない日本ツアーをすべてキャンセルしただけでなく、被災地から遠く離れた沖縄や北海道のツアーを含む4月末までのすべての日本ツアーの受付けを中止した。東京で行われる予定の多くの国際的なビジネス活動も中止か延期となっている。筆者が3月21日に搭乗したワシントン発東京行きのボーイング777の機内には、乗客が半数しかなく、そのうちの大部分は日本人であった。福島原発事故がもたらした「パニック」の中には、一時的に巷の噂になった塩買いだめ騒動もあった。 ◇「パニック」は日本人の身に起らなかった。 しかしながら、これらの「日本由来のパニック」が日本人の身に起らなかったという不思議な現象が生じている。これはいったいなぜであろうか。 「日本人はとても冷静である」という解釈が可能であろう。確かに、大地震が発生した後、被災地の人々が冷静に災難と向き合う姿がさまざまなメディアを通じて全世界で報道されており、一時中国、香港、台湾だけでなく全世界に美談として伝えられていた。しかし、もし地震による放射能漏れ問題が確実に人間の健康ないし命に深刻な影響を及ぼすとなれば、いかに冷静な日本人でも極めて危険な環境にとどまって生活を続けようとは思わないだろう。今回の外国人の身に起きた「日本の放射能パニック」は海外メディアの放射能問題に関する大げさな報道と直接かつ密接な関係があるのではないか。 実際、「日本の放射能危機」をめぐる報道を見てみると、多くの海外メディアは日本のメディアと際立った対照を呈していることが分かる。新聞を例にとってみよう。日本の各紙においても放射能漏れ問題をトップニュースとして取り上げているが、見出しにせよ内容にせよいずれも把握している状況に基づき、客観的かつ冷静に報道している。しかし、香港の主要新聞では、例えば3月16日付けの各紙のヘッドラインのタイトルは、それぞれ「末日災禍」(『星島日報』)、「50死士が末日に未来を救う」(『東方日報』)、「放射能大拡散」(『蘋果日報』)、「放射能拡散、東京脱出」(『明報』)であった。これらの記事の内容は必ずしも嘘とはいえないが、一般の読者はその内容をじっくり読むとは限らない。多くの人々は新聞売り場を通り過ぎて、ちらっと各紙のトップニュースを見るだけかもしれない。しかし、人々をはらはらさせる、これらの極めて誇張され人目を引く見出しは、多くの市民をパニックに巻き込む方向に導いただろう。塩の買いだめ騒動はまさにこの人為的なパニックの中の一つのエピソードではないか。もし日本の主要な新聞がこのように報道したら、おそらく多くの日本人もじっとしているわけにはいかないであろう。 ◇日本の各紙には誇張的で煽動的な言葉がない 東京電力の福島原発事故への対応には多くの問題点が存在しており、事態に対する説明も言葉足らずで実態が掴めないことは否めない。これも多くの疑惑が生じた要因であろう。これらの問題に対して、日本のメディアが別に寛大であるわけではない。連日、『朝日』『読売』『毎日』『産経』はそれぞれの社説の中で東京電力と菅政権の対応を厳しく批判している。ただ、これらの主要な新聞は決して「大拡散」「大災害」「末日」「殺到」などといったような誇張的ないし煽動的な言葉を使わない。それは、各紙が、被災時におけるメディアの最も重要な役割は確実な情報を提供することであるということをよく分かっているからである。その情報に基づき、問題を解決する最良の方法を社会が見出し、市民の不安を最小限に止めることができるだろう。 ビジネス社会に置かれている新聞などのマスメディアは、現代社会の情報を発信する重要な媒体となっている。各自の位置づけに基づき読者を満足させるような報道を作り出すことは非難すべきではないかもしれない。風もなければ波も立たないような平常時には、誇張した報道が「全体の差し障りにならない」かもしれない。しかし、災難に遭遇した時期には、メディアは報道そのものによって不必要な社会パニックをもたらすことを避ける責任がある。 ◇災難に遭遇した時に、メディアはどのような役割を果たすべきか? かつて香港もSARSのような大きな社会不安を引き起こす出来事を経験したことがある。当時、情報があまり透明ではなかったし、政府も意図的に問題を矮小化しようとしていた。メディアは真相を暴き出すような積極的な役割を果たしていた。ただ、幾つかの主要なメディアは誇張した言葉を用いて、憶測に基づいた情報を大々的に報道していた。ひとたびパニックになると、市民はエレベーターのボタンを押すのも怖くなったし、地下鉄やバスの中で誰かが咳をしたらすぐに避けてしまう。香港行きの飛行機やレストランなど、一時誰も足を運ばなくなったし、多くの国際的なビジネス活動が中止となってしまった。事後、世界保健機関(WHO)のデータによれば、SARSが直接に病気を引き起こし命を脅かす度合いは、せいぜい毎年世界で発生している多くの伝染病の一つ程度にすぎない。しかし、人為的なパニックによってもたらされた多大な経済損失は想像以上のものであった。これは疾病そのものの影響の度合いとは正比例しない。 SARSが与えた教訓は、今回の香港および他の地域のメディアの福島放射能漏れ問題に対する報道方式に反映されていないようである。災難に遭遇した時、如何に人為的なパニックを避けるか。メディアがどのような役割を果たすべきかを深く考えなければならないであろう。 *本稿は『明報』(香港)2011年3月31日に掲載された記事「日核恐慌與媒體責任」を本人の承諾を得て日本語に訳しました。原文は中国語。李軍訳。原文は下記よりお読みいただけます。 ---------------------------------- <林 泉忠(リム・チュアンティオン)☆ John Chuan-Tiong Lim> 国際政治専攻。中国で初等教育、香港で中等教育、そして日本で高等教育を受け、2002年東京大学より博士号を取得(法学博士)。同年より琉球大学法文学部准教授。2008年より2年間ハーバード大学客員研究員、2010年夏台湾大学客員研究員。 ---------------------------------- 2011年4月8日配信
  • 2011.04.06

    エッセイ288:洪ユン伸「ある外国人研究者の『知識人としての自己責任論』―東日本大震災に思う」

    私は、沖縄に思いを寄せてきた「外国人」研究者である。沖縄戦の経験を韓国に伝えたく、10年近く沖縄の研究や現地調査に力を入れてきた。戦時教育を受けた愛国人や、目に迫ってくる違う人種(米軍)への脅威が、いかに「目に見えない恐怖」となり、「人間が人間でなくなる」状況を作り出したのかを、朝鮮人や沖縄人の体験を中心に研究してきた。震災の経験後、私は、自分がこれまで語ってきた「目に見えない恐怖」というものが、いかに抽象的であったのか、言い換えればいかに学者ぶっていたのかを、身をもって経験している。「恐怖」というものは余りにも具体的で、日々の食卓こそが問われているのだから。 そして、その具体的な日常生活に、私がこの社会で何かを教えている教育者であることより、時には「外国人」であるということが最も重要な判断基準になり、そのことが非常時に直ちに「恐怖」となりうることを経験した。外国人である私と、知識人である私は分類できないが、前者の場合「日本から逃げる」という選択肢が、後者の場合は「日本に残る」という選択肢が用意されている気がしてならなかった。理性的にどういう情報が正しいのか判断する暇もなく「どうしても日本に残る理由のある人でなければ帰国を」と自国の大使館から勧告された時点で、外国人の一人一人は「もはや自分の身は自分で守らなければならない」という選択を強いられた。日本に残ることへの責任は全て「個人」が背負わなければならない立場に置かれたともいえるだろう。 真ん中の選択は存在しない不思議な状況で何を選択するにしろそれは個人の「自由」であったが、その「自由」とは、帰国する「外国人」の群れが報じられた時点で、テレビ画面に映る「責任なき社会の一員」に他ならなかった。私は日本に残ることを選択したが、「日本社会は日本人の手によって復興するしかない」といったコメントや報道よりも、「逃げるのは外国人のみ。東京は安全」という言葉に安心する人が大勢いることに、果てしもない孤独感を感じていた。たとえ東京に残っても、私はしょせん外国人であるという孤独感は、それでも残る必要があるのか悩ませた。韓国の母は、4万人を超える人が帰国するなかで娘が帰国しない現状を受け止められず、毎日のように電話をかけ、「あんたは日本人でもないのに」と泣き崩れる。風向きまでをも知らせる母親の情報力に驚いた。もはや日本の天気予報は、海外でも敏感に反応するほどになっていたのであり、私を愛する家族の緊張感はピークに達していた。職場は春休み中の大学で、最も責任や義務のない「非常勤講師」。批判する人なんて一人もいない。私の理性はいつのまにか「東京に残る理由がない」という結論をひそかに下していた。しかし、私は日本に留まった。休み中だから国に帰ると自分で言い聞かせれば何の道徳的「罪悪感」を感じることもないかもしれないのだが、そういう風に自分に言い聞かせることは到底できなかった。何もできない「知識人」、何もできない「外国人」、何もできない人間であることが情けなかったが、それでも何をするのかという問いかけをした際、荷造りをして国に帰るという選択はできなかった。それは何故なのか。自分の書いた論文が「平和」や痛みに対する「共感」といったものであるから?残念ながらそういう奇麗な説明は出来ない。いかなる奇麗な言葉も今回は廃棄せざるを得ない。ただただ私は、情けなかったのである。 雨に溶かされ降ってくるかもしれない放射能の恐怖から、多くの人がひそかに動いた。被災地周辺の人々は東京へ、東京の人々は関西、関西の人々は沖縄や北海道へ。そして余裕のある人は海外へ。そして空間をシフト出来たら「避けられる」、あくまで「平和」のような日常が待っているということが私を苦しめる。 多くの外国人研究者が休みである故に国へ戻ったが、災害の際、日本人の研究者の海外行きが急増している事実を私は知ってしまった。そうした情報が次々と耳に入ってきたのは、私が外国人研究者であり、緊張感なしに海外に行くことを告げられる相手であったためであり、私の「偏見」だと何処かで信じたい。が、一部であるにしろ私の周りにそういった動きがあったことは事実だ。北海道、韓国、ヨーロッパ、アメリカ、現地調査や休暇を目的に出かけた人々が、震災中、一人東京に残された私の安否を懸念して電話をかけてきた。沖縄の友人が「あんたはしょっちゅう沖縄に来るのに、今こないでどうするの」と電話をかけてくる。沖縄の国際通りは日本人の観光客でにぎわっていると言われ、研究者のグループも多いことを知らされた。名の知られた有名大学の先生が家族連れで中国に向かったと聞く。日本には戻らないつもりで中国へ旅立ったという。放射能への危機感が高まりつつあった時期であった。日本人の研究者である。自らの旅日程を知らせ、「あなたは国へ戻らないのか」という言葉がいつのまにか決まり文句のようになった。怒りさえ感じてしまう。一体、何だろうか。 こういう状況のなか、私の感情はあるラジオ番組でエスカレートしていった。朝5時まで被災地の人々を少しでも勇気づけようとスタートした番組であった。ドラえもん、古い演歌、ポップなどが、被災地に送る多くのエールと共に日の出の時刻まで流れ続けた。そして、ある高校生がエールを送ってきた。 「僕は、受験生です。こんな時に受験勉強などしている自分がとても情けないと思います。僕はこのままでよいのでしょうか。本当にごめんなさい」 こういう内容だった。思わず泣いてしまった。彼に向って「良いのです。一生懸命勉強して、この世にきっと役に立つ人間になってください」と答える被災地の人からのメッセージも読み上げられ、多くの音楽が流れていった。しかし、いったん流れ始めた涙は、なかなか抑えることが出来なかった。受験勉強を恥じる彼らが大学に入った時、私、私たちは、一体、何を教えられるのだろうか。涙が止まらなかった。私は「情けなさ」のため、日本に留まったとしか、自分の選択を説明することが出来ないのである。 外国人の同僚たちは、私に言う。「第二次世界大戦中、日本人だけが勝っていると信じていた」と。第二次世界大戦を研究テーマとしている私はそのことを誰より批判的に捉えてきた。しかし、私はそういう見方で今回の災害の際の「日本社会」を分析することを取りやめた。震災中、原子力という科学の危うさ、日本の政治の無気力と民主主義の限界、貧困地域層と企業倫理のなさ、情報民主主義などいろいろな側面で今回の問題を考えてきた。しかし、今、私は、はるかに放射能の高い現場で取材し続けたメディアの人間を批判することを保留した。放射能が高いことを知りつつもその地域に留まることを願う住民や、貧困地域の生計を支える「原子力発電所」の維持を掲げ再び選挙に出る政治家を、こういう状況を目にしても安全性を言い続ける科学者や、まともな知識に基づくコメントすらできない企業の無責任な言葉も、今の私は、「日本社会論」とするあらゆる理論的な批判を先延ばししたい。「逃げるか」か「残るか」という選択肢しか残らなかったかのように見えた外国人の立場で考えると、日本における学者には、「残りながらも沈黙する」という真ん中の選択肢が存在したように見えたからであり、その情けない労働現場が、私が信じる「学問」や言葉の現場である以上、私は外国人であれ、「知識人の責任論」を先に批判的に捉えざるを得ない。 作業中に被爆者3人が出てからいつのまにか現場で働く「下請け会社」という語に代わり「協力会社」という語が誕生している。メディアで流れるこれらの言葉を容認してしまう耐えがたい社会の「沈黙」に満ちた雰囲気がある。日々の生活を支えてきた光が貧しい地域の犠牲に成り立っていた事実を、「仕方ないものである」と受け止めていた私たちは、今度は、自衛隊員、消防士、いわゆる「協力会社」の人々が被爆する状況をテレビで見つめながらも、「そういうことでもしなければ助からない」と、何処かで希望を託しているのであろう。「自分の身を守るための小さな過剰反応が、結局、被災地を苦しめているのよ」と震災中日々を共にした「日本人の母」は言う。その言葉が胸に響く。その通りである。そういう希望が「共感」の輪を広げ、私たちを沈黙させているからだ。しかし、逃げる学者の姿を見届けた私は、マスクや傘を持って逃げられない人々がもっとも人間的に見えて仕方ない。学者は身の安全や居場所を確保してから、迫ってくる状況への判断を言葉にするのだろうか。現場を離れた学者の言葉は、人々の胸にひそかに訪れる希望が、他者を苦しめているという事実を訴えられるのだろうか。それであなたはどうするのか。それしか「問う」ことができない、そういう「恐怖」が作り出した、ある人の犠牲にしか見出すことのない「希望」。その「希望」から私たちは意識的に「逃げること」ができるのだろうか。犠牲がでても希望を託したいこれらの「沈黙」に向かって何の役にも立たないだろう。ならば私は、「知識人としての責任論」をむしろ廃棄し、ごく普通の人々が感じる恐怖のなかに身を寄せ、戯れのように恐怖にさらされながらも、自分の居場所を守り、逃げ場のない日常のなかで行動するごく普通の人々側に立って、この状況をこの日本で自分の身に迫る恐怖と共に考えようと決めた。それが、東京に留まった「情けない」理由である。 あなたは何処にいたのかという単純な「知識人批判」から、私は、今のところ自由である。しかし、日本に留まったにしろ、私は「残りながらも沈黙する」という真ん中の選択をした多くの学者のグループにいる。問題となるのは、あなたは何処にいたのかではなく、それであなたは何をしたのか、ということであろう。いつか私は日本を離れるかもしれない。しかし、今、この時点で、私は日本の社会におり、その場で言葉を発表してきた。いつ終わるかもわからない研究も日本にある。今私の「居場所」は日本社会であり、それであなたは何処にいたのかではなく、それであなたは何をしたのかに、少なくとも言葉として応える義務がある。そして、それであなたは何をしたのかという問いに、少なくとも私の教え子たちに向かって、恥じることのないよう「知識人の自己批判論」を書き残そう。 4月から私は、一体、何を教えられるのだろうか。私は学生たちに「逃げるか」「残るか」という選択肢を取り出し、「日本人として頑張ってほしい」と言いたくない。私は、そういう選択肢がいかに暴力的であるかを知っている外国人であるからだ。私は、科学的に放射能の危険度を説明するつもりもない。目に見えない恐怖にとらわれ、天気予報までをもチェックする誠実さと、風と共に雨と共に降ってくる放射能を防ぐ能力は私にはない。だからと言って、この問題が世界と共に考えるべきものだという抽象的な「平和論」を教えるつもりもない。自然の力やグローバルな貿易システムという現代社会においては、世界規模で被害にあうのだとしても、重軽があるからだ。ただ、学生たちとこの現在進行形の「目に見えない恐怖」を共に経験した一人の研究者として、風のようにまたは雨のようにこの恐怖のなかに潜む偏見や差別が、いかに被災地の人々に、または、この社会を生きる一人一人の人間から「逃げる」自由を奪ってきたのかを教えることはできるかもしれない。そして学生たちに言いたい。あなたは何をしたのかと問われる時に、「命こそ宝」という語を忘れないこと。私自身が、沖縄から学んだこの言葉を、「見知らぬ他者と共に逃げるための言葉」として議論してみたい。他者を配慮する言葉を最後まであきらめない「学問」、その人間のための「知」を口にしてきた私、私たち学者にとって、震災後の世界は、背景なき自画像は存在しないと示しているような気がしてならない。 ---------------------- <洪ユン伸(ホン・ユンシン)☆ Hong Yun Shin> 韓国ソウル生まれ。韓国の中央大学学士、早稲田大学修士卒業後、早稲田大学アジア太平洋研究科博士課程在学中。学士から博士課程までの専攻は、一貫して「政治学・国際関係学」。関心分野は、政治思想。哲学。安全保障学。フェミニズム批評理論など。現在、「占領とナショナリズムの相互関係―沖縄戦における朝鮮人と住民の関係性を中心に」をテーマに博士論文を執筆中。編著に『戦場の宮古島と「慰安所」-12のことばが刻む「女たちへ」』SGRA会員。 ---------------------- 2011年4月6日配信
  • 2011.04.01

    エッセイ287:趙 長祥「情報社会のDouble Edge Sword:日本の放射能漏洩から中国の塩買い占めパニックへ」

    3月11日の東日本大地震と大津波による死者や行方不明数は増え続け、今や27000人に昇っている。さらに、福島原子力発電所からの放射能漏洩も加わり、歴史上前例のない巨大且つ複雑な災難は既に半月以上経つにもかかわらず一向に治まる気配もなく被害はますます拡大している。中国のテレビやネットでも、大地震と津波と福島原発は毎日トップニュースとして流れている。一刻も早く被害をくい止め国民生活を正常な軌道に乗せることが、日本政府の課題であり、国民全員の願いである。異国にいる私には何も出来ないが、日本にいる先生や友達の安否を確認し無事をお祈りする毎日である。しかし、悲観的なことばかり考えていても仕かたがない。今まで蓄積してきた地震対策の経験を活かし、国民の一人一人が気持ちを明るくして一生懸命に生きていく世界には、必ず明るい将来が訪れ、早期に回復できると信じている。 通信やIT技術の進歩により、我々は情報社会に生きている。今や、情報不足ではなく情報氾濫の世界に変わった。テレビやインターネットで流された情報を瞬時に受けて事情を把握できることからみると、かつては遠かった所が小さな世界となって近くなり、ビジネスや生活や交流などが便利になった。しかしながら、同時に、偏見や過剰報道や虚偽情報も流れるようになった。確認さえしない、或いは自分の知識範囲で情報の正確さを確認できない人々は、そのまま嘘の情報を次から次へと流すので、瞬時に世界中に広がり、社会不安やパニックに至る事例がしばしば起こる。いわゆる情報社会のDouble Edge Sword(諸刃の剣)現象である。哲学の視角からみても、ものごとはメリットがある一方、必ずデメリットを持っている。情報社会では、人間は大量の情報からの便宜を享受していると同時に、氾濫する情報の中でいかに正しい情報を識別判断できるかという大問題を抱えている。 情報社会のDouble Edge Sword現象の事例の中でも、つい最近中国各地で起こった塩の買い占め事件は典型的であった。その事件のプロセスは以下の通りである。 3月11日 東日本大地震津波発生 3月12日 福島原子力発電所で放射能漏洩発生 3月13日 放射能予防のため、日本でPotassium iodide(ヨウ素)を含んだ豆腐或いは錠剤の買い占め 3月15日 放射能予防のため、アメリカでPotassium iodideの買い占め 3月16日 中国のネット(SOUHU)上でアメリカのPotassium iodide買い占めブームの記事が掲載された。その後、「福島放射能漏洩によって海水が汚染されるので、海水による塩が不足する」という噂が携帯のSMやネット上の書き込みで中国全土へ広がった。 3月17日 沿海部の上海、浙江省からはじまり、中国全土40以上の都市部のスーパーで塩を買い占めるための長い列ができ、普段500グラム約2人民元の塩が瞬時に10元まで上昇、最高100元を超える値段となった。それにもかかわらず、多くのスーパーで塩が売り切れ状態。甘粛省蘭州市にいる郭氏は約6500キログロム(4人家族で500年でも食べきれない量)の塩を買い占めたという。 3月18日 中国中央政府をはじめ各地方政府は様々な手段で緊急に対応し、専門家による科学的な放射能予防の知識を宣伝し、放射能予防に塩は役に立たないこと、たとえ海水が汚染されても中国では60%以上の食塩が内陸部の塩鉱からのものであり、青海省にある多くの塩湖のなかの察卡塩湖一つだけでも中国全土の国民が400年かけても食べきれない量であること、塩不足の情報は完全に嘘であるということが、各メディアで一斉に報道された。 3月20日 塩の買い占めパニックが終了 3月21-22日 各地のスーパーには再び長い列。今度は買い占めた塩を返品するという。 以上の塩買い占め事件のプロセスをみると、少しでも科学的な常識を持つ方であれば、大きな笑い話と考えられるだろう。しかし、これは冗談ではなく、中国で発生した事実であった。笑えるどころか、悲しいことでもあり、なんともいえぬ重い気分となる。買い占め事件後の調査報告から分かったが、最初は確かに放射能漏洩による海水汚染で塩が不足するという噂が流された。ところが途中でビジネスになり、金儲けをしたい人々がさらに嘘を付け加え、どんどん塩が買い占められて塩不足のパニックに陥った。実際には、多くの人は塩が足りているはずだと思っても、また高い値段の塩を買いたくなくても、他の人が買っているので自分も買わなければいけないという盲目的な追随が実情だった。 中国では、このように情報の信憑性を確認しないで盲目的な買い占めになった事件が過去にも多く発生した。2003 年には、SARS型肺炎の予防に役立つといわれた板藍根(Indigowoad Root)やお酢の買い占めがあった。その後、コメの買い占めや2009年にはインフルエンザ予防のため大蒜の買い占め、2010年の緑豆、苹果などの跳ね上がり、そして、塩の買い占めの後、つい最近には、リビア戦争によるオイル価格上昇のためシャンプーや洗剤など石油化学製品の生活用品の値上がり説が流布した後、3月26日からスーパーでこういった商品の買い占めが発生した。今後も…… 商品や情報が豊富で買い手市場となった今になって、皮肉にも、それが不足していた時代よりも買い占めが多く発生していることは、我々の社会へ多くの示唆を与えている。そもそもなぜこのような非常識なことがしばしば発生し、社会パニックにまで至るのかということを我々一人一人が深く反省しなければいけないという現実に至っているのだ。経済条件がよくなった現在、我々の社会風習、我々の考え方の伝統的なロジック、生活習慣、感性と理性、正しい情報の識別と意思決定、公共経営(Public Management System)など様々な面を、手直しする必要に迫られている。 情報社会のDouble Edge Sword現象をなくすための根本的な解決策のひとつは、一般大衆へ科学的な常識を普及することである。小学校から大学までのカリキュラムで、ユビキタス時代と情報社会に対応するための新しいコースを設ける必要性を考えなくてはいけない。すなわち、氾濫した情報の中から正しく且つ社会に適切な情報を判読できる力を養い、社会倫理、心理学、経済学、管理工学などを包括する新しい学問――“情報判読学”(仮)を創りだす必要があるのではないかと思っている。 --------------------- <趙 長祥 ☆ Zhao Changxiang> 2006年一橋大学大学院商学研究科より商学博士号を取得。現在、中国海洋大学法政学院で準教授。専門分野はInnovation, Entrepreneurship, Cooperate Strategic。SGRA研究員。 --------------------- 2011年4月1日配信
  • 2011.03.30

    エッセイ286:マックス・マキト「僕たち大丈夫だよ」

    家族のみんなへ マニラやトロントやアルバータから電話やメールをありがとう。 大地震が起こったのは、フィリピン大学のベンジ先生とボニ先生を案内して、名古屋駅の周辺を観光しているときでした。驚いた先生たちを安心させるために、ビルの出口に立たせて、「この程度の揺れならば日本は大丈夫だよ」と二人を落ち着かせました。地震が去ったあともそのまま観光を続けたけど、先生たちは前の日から結構歩いて疲れていたので、暗くなる前にホテルに戻ることにしました。地下鉄に乗る前に、SGRAの平川先生から携帯に連絡がきて無事を確認し合いました。「大変なようだ」という先生の言葉にもあまり動じませんでした。でも、ホテルに戻ってテレビをつけたら、事態の深刻さがわかりました。すぐに携帯メールでフィリピンにいる僕と先生たちの家族に無事であることを伝えました。家族から、友達から、フィリピン大学の先生たちから、「フィリピンも列島国ですから同じような災害が起こるかもしれません。フィリピンにいる人たちは、日本とフィリピンのために跪いて祈っています。」というようなメールが殺到しました。 大地震の翌日、予定通り、名古屋大学で「アジアにおける製造業の持続可能な共有型成長に向けて」というテーマのワークショップを開催しました。最初に平川先生の誘導で黙祷をしました。発表者全員が日本のことを心配しながら、力を入れて発表しました。そのときに、福島原子力発電所一号機の爆発のニュースがはいってきたので、フィリピンでは数年前に市民の大反対を受けて原子力発電所の建設が途中で中止されたという話もでました。翌日、フィリピン大学の先生たちを中部国際空港へ見送りに行ったけど、思ったより空港は落ち着いていました。その後、すぐに復旧した東海道新幹線のなかで翌週の授業をどうすればいいか悩みながら東京に戻りました。 家に帰ってニュースをよく見ると、日本の大変な悲劇は始まったばかりで、この数日間に震度7の余震が70%の確率でやってくる、計画停電も実施されることがわかりました。月曜日の朝、春学期中の大学のインターネット掲示板を確認したけど授業中止の通知は見当たらなかったので、学生たちに僕の授業のために大学に来なくてもいいというメールを送りました。その数時間後、大学は授業を全面的に中止し、教員や学生たちの避難のために香港行きの飛行機や関西行きのバスを手配したことがわかりました。その後も授業の再開を何回も延期して、今のところ暫定的に4月4日からと決められています。   家族のみんなからは、日本を避難するように言われたけど、僕は東京に残ることにしました。それから毎日、みなさんの心配を少しでも減らすために、一番早く事態を整理して報道したフジテレビなどで情報を拾って英訳し携帯から送信しています。 巨獣がついに目を覚ましたのです。半世紀以上も力を蓄えていた深い眠りから。3000キロも離れた島国フィリピンまで聞こえた唸り声を東北沖の海底から轟かせ、広大な地域に住む人々を無差別に何回も襲いました。住民たちも勇敢に立ち向かいました。サイレンを鳴らしながら、「襲来だ!皆さん早く逃げてください!」という警告は、巨獣が着岸するまで続きました。巨獣を退治するため、町を守るための砦に配置された役人や消防士と共に、その警告を続けた若者の命も奪われました。警告を聞いて高台に避難できた住民たちは固唾を呑みながら見ていました。巨獣が町の砦で押さえられたのを見て「大丈夫!大丈夫!」と言っていたのに、それが間もなく「越えた!越えた!」という悲鳴に変わりました。町を壊滅して巨獣は去りました。しかし、その唸り声は今でもたまに遠くから聞こえてきます。巨獣の毒がこの島国に残り、今でもさらなる被害を起こしています。毒を吸い取るためにこの島国に住む人々皆が手を繋いで必死に戦っています。 当分の間は大変でしょう。でも、繰り返しますが、この程度の被害なら日本は大丈夫だよ。必ず復旧する。今、日本をどのような国に復旧させるかを検討するきっかけが与えられていると僕は思っています。僕をガッカリさせた失われた数十年間の日本に戻るのか、僕が愛する戦後復興期の日本に戻るのか。第二次世界大戦が終わった時、日本の製造業の能力の約90%は破壊され、物資不足は深刻な問題でした。原子爆弾の投下により25万人が亡くなりました。しかしながら、その後「東アジア奇跡」と呼ばれるほど、日本は著しい復興を実現しました。しかも戦争の焼け野原から登場したのは、僕を含む大勢の地球市民を魅了した数多くのヴィジョンだったのです。平和憲法、非核3原則、そして僕の研究テーマである(持続可能な)共有型成長などです。 今回、日本本土に襲来したのは、外国の軍隊ではなく、日本の古くからの敵であるあの巨獣でした。その戦いの爪跡から、新しい平和憲法、新しい非核3原則、新しい持続可能な共有型成長など、新しいヴィションを誕生させてほしいと僕は願っています。自衛隊や民間の防災機能を強化することによって、日本やアジア諸国のように地震や津波に弱い地域の住民の生命や財産を守る新しい平和憲法。原子力発電エネルギーを根底から見直す新しい非核3原則。そして、この地震で示されたのは分散を図る分業が必要だということだと思うので、東アジアの国際分業と安心で安全な環境を促進する新しい持続可能な共有型成長です。このような新しい日本を想像するだけで僕の胸はドキドキします。復興へどの道が選ばれるのか今はまだわからないけれど、僕はこの悲劇を無駄しない日本の人々の強い決意や智恵に賭けたいのです。 これからも東京とマニラを行き来しながら日本を研究する僕を支えてください。 この文章の英語版は下記URLからご覧いただけます。 English Version: "We Can Take It -------------------------- <マックス・マキト ☆ Max Maquito> SGRA日比共有型成長セミナー担当研究員。フィリピン大学機械工学部学士、Center for Research and Communication(CRC:現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、アジア太平洋大学にあるCRCの研究顧問。 -------------------------- 2011年3月30日配信
  • 2011.03.28

    エッセイ285:李 軍「揺れるもの、揺るぎないもの」

    例年3月下旬になると、桜の開花前線のニュースや卒業式の鮮やかな袴姿が春の到来を告げる。しかし、今年はM9.0という日本国内観測史上最大の東北関東大震災に見舞われた。東日本では、津波に飲み込まれた後の無残な瓦礫、福島第一原子力発電所の爆発によって出てきた灰色の煙、寒さにじっと耐えている避難所の被災者…真冬の暗い色に染められていた。 大地震が発生した3月11日から十日間が過ぎて、ヤフーのHPのバック・カラーが暗い色から徐々に明るくなってきているが、この大震災を体験した人々の心はいつ春らしく明るくなるのであろうか。地震、津波、原発事故、これらの災害は尊い命を奪い、人間の身体、心を傷つけ、多くの家屋や建物を破壊しただけではなく、普段目立たない人間の本性をも容赦なく曝け出していた。もちろん、どんなことがあっても揺るぎない敬服すべき良い部分も見せてくれた。 大地震の二日後、スーパーに食材を買いに行ったら、トイレットペーパーやティシュペーパーを買い占める長蛇の列に出会いびっくりした。食材を買い占める人もたくさんいたが、生きていくために紙がそんなに重要なのかと不思議に思った。周りの人が買うと、必要かどうかとは関係なく自分だけが買わないと不安だという日本人の心理が作用しているのではないかと思う。一昨日から、各店舗に買占め防止ポスター「みんなで分け合えば、できること」が貼られ始め、一番上の絵はトイレットペーパーであった。 買占めと言えば、いま中国では塩(特にヨウ素が含まれる塩)の買いだめが激しくなっている。理由は日本の原発事故で、放射線汚染が生じるのではないかというデマであった。中国の国内の塩供給量は十分足りているにも関わらず、そんなに塩を使わないにも関わらず、である。また、香港における日本産の粉ミルクの買占めブームも物議の種になっている。 地震後、私の周りの多くの中国人が相次ぎ帰国した。余震や放射線汚染など不安な要素が多い環境から離脱したい、中国にいる家族を安心させたいという気持ちは痛いほど分かっている。しかし、自分でちゃんと情報を収集し、それに基づき状況を判断したほうが自分も家族ももっと安心できるのではないかと思う。 周りに流されやすいというのは日本、中国といった東アジアの人々に共通しているのであろうか。 一方で、大地震を体験しても揺るぎないものもあった。地震が発生した後、全世界のメディアが一斉に東日本の災害状況に目を向けた。巨大な津波に飲み込まれていく村落、多数の犠牲者、悲惨な光景に全世界の人々が心を痛めたが、日本人の国民性や美徳も地球人を驚かせた。 中国のある新聞に、中国駐在の日本人に地震後の日本人の行動についてのインタビュー記事が報道されている。「何百人の避難者が同じ広場に長時間いたにも関わらず、ゴミ一つも出てこないというのは本当に素晴らしい。あんな大地震が発生したのに、日本人はなぜ列を作って待つことができるのか、どうして冷静に対応できるのか」という質問に対し、「これは素晴らしいかどうか分かりませんが、当たり前のことだと思います。みんな普通に行動しているだけです」との返事が返ってきた。 福島第一原子力発電所の事故による影響の拡大を防ぐために、50人ほどの作業員は命懸けで回復作業を続けている。匂いもない、形もない、短時間で命を蝕んでしまう放射線との戦いはその危険性を十二分に熟知している従業員たち自身の恐怖との戦いでもある。中国のメディアではこれらの勇士を「50死士」と称して、命を捨ててまで人類を守っている彼らの勇往邁進な姿を大々的に報道しているが、日本ではそれに関する情報はとても少ない。それはなぜであろうか。 地震後、義捐金を送金したり物資を郵送したりする個人や企業が多くあった。中国ではボール紙に寄付金の額を書いて誇示するような風景をよく見かけるが、日本では誰がどのぐらいのお金を寄付したか、どのぐらいのお金を使ったかという報道も少なかった。 余震がまだ続いており、福島第一原子力発電所の事故処理も時間がかかりそうである。大震災から立ち直り、復興に至るまでの戦いが長期戦になるかもしれないが、頑張っている人々のことを思うと、元気づけられる。 昨日の夕方に久しぶりに散歩に出かけた。美しい満月であった。中国では、満月の日は「一家団欒」の日と言われている。生まれ育った故郷を離れ、遠くに避難している方々のことや、いまだに家族の安否情報を把握できていない方々のことを思うと心が痛むが、早く元通りの生活に回復してほしいとお月さまにお願いしたら、微笑んでくれたような気がした。 -------------------------------------- <李軍(リ ジュン)☆ Li Jun> 中国瀋陽市出身。瀋陽市同澤高等学校で日本語教師を務めた後、2003年に来日。福岡教育大学大学院教育学研究科より修士号を取得。現在早稲田大学大学院教育学研究科博士後期課程に在籍。主に日中漢字文化を生かした漢字指導法の開発に取り組んでいる。ビジュアル化が進んでいる今日、絵図を漢字教育に取り組む新たな試みを模索している。 -------------------------------------- 2011年3月28日
  • 2011.03.25

    エッセイ284:ヴィグル・マティアス「日本に居る私から見たフランスの報道とフランス政府の福島原発事故の危機管理」

    3 月 11 日(金)午後 2 時 46 分、私は人生で初めてマグニチュード 9.0 を記録する地震を体験しました。その時、私は家で勉強していましたが、激しく揺れたのでビルが崩れ落ちないように祈りながら、机の下に避難しました。幸いにも棚から本が落ちた以外には何も被害はなく、地震に負けない優れた日本の建築技術に本当に感心しました。その後、今回の地震はどうも普通ではないと思いながら、すぐに嫁に連絡してみましたが、電話がつながらなかったのでとても不安でした。1時間半後、職場の周りの公園に避難していた彼女の無事を確認しようやく安心できました。また、日本の大震災は必ずすぐにフランスの朝のニュースに出ると思ったので、両親に連絡して安心させました。両親と話しながら、テレビで東北地方の町が津波で水没する恐ろしい映像を見ました。 金曜日、思った通り、フランスの全てのニュース番組は日本の大震災をとりあげました。地震と津波の映像の他には、被災して一番苦しんでいる東北地方の日本人より、当時東京にいたフランス人の留学生、日本の会社で働いているフランス人などを、生中継でインタビューしました。土曜日と日曜日、福島第一原発1号機で水素爆発が発生した後、福島原発の危機は一日中、フランスのテレビのブレイキング・ニュースになりました。しかし、フランスの報道は、現地の状況を詳しく知らないようで、フランスの原子力の専門家は「チェルノブイリ原子力発電所のような事故ではない」と最初から説明したにもかかわらず、福島原発の危機についてチェルノブイリと類似的な、あるいは正しくない情報ばかりを流しました。 来年フランスでは大統領選挙がありますから、フランスのエコロジー党は政治的な目的で、日本の原発の事故を利用して、パリなど大都市部で急速に原発抗議運動をしているようにも見えました。その頃日本では何千人もの人々が死亡して、行方不明の人も1万人以上あって、避難していた人は食料や水などの必需品がなかったということを知っていたのに、フランスのメデイアあるいはフランスの政党の一部は、被災者を無視して福島原発の危機とそのフランスにおける影響の方に重点を置いていたことは、情けない行動だと思いました。また、Facebookにも炉心が爆発する可能性あり、現地の作業者はあと2週間の命しかない、東京人を安心させるために日本政府が本当のことを隠しているというような噂が走りはじめました。このように「カタストローフ」の方に重点を置いた報道の結果、フランスの家族と友達から「日本政府からの情報を信じちゃダメ」「早く逃げろ」というような忠告ばかりが一日に何回も来ました。 一方、日曜日にフランス大使館が「放射線物質を含んだ風が東京に飛んできている可能性が高いので、直ちにフランスに帰国するか東京から離れた方がいい」という勧告を出した後、関東地方にいるフランス人は皆パニックになってしましました。私の友達の中で何人も、帰国を願う人のために政府が用意した特別便に乗ってフランスに帰りました。その頃、いつも会見で「不明」「確認中」を繰り返す東京電力の担当者から詳しい情報を得られないにもかかわらず、日本のメディア、日本の政府、また周りの日本人の友達を見ても、この危機に対して皆は慌てないで静かでした。このような情報の混乱と相違を見た私たちはどうすればいいか、全く迷いました。フランスか嫁の母国の中国に帰ろうと思いましたが、一旦日本から離れると、私たちの将来にもかなり影響があるので、結局簡単に逃げられませんでした。とりあえず、フランス大使館の勧告に従って、水曜日に東京から離れて名古屋に行きました。 そこで、海外のメデイアを無視して、もう一度冷静に原子力の専門家の分析をはじめ福島原発についての科学的な根拠に基づく情報を集めていろいろ読みました。理系ではない私は苦労しましたが、読めば読むほど東京で放射能率が通常より少し高くても全く体に影響がないし、日本政府は事実を隠していないことが分かりました。しかも読んだ報告の中には、イギリス政府の科学顧問長の報告のように、科学的な根拠に基づかないフランス政府の避難勧告を批判した声もありましたので、自分の考えを改めて土曜日に東京に戻りました。この原稿を書いている時点では、その危機がまだ終っていませんし、放射性物質が付いた野菜などのニュースも出たので、これを食べ続けると将来体に影響があるかどうかという不安感は今でも続いていますが、今後は慌てて行動するより、情報源をよく選んで冷静に考えることにしました。 では、なぜフランス政府は福島原発の危機にこのように対応したのでしょうか。実は、チェルノブイリ原子力発電所事故が起きた時、放射能物質を含んだ風はフランスの国境には届かないと言って放射能の本当のレベルをはっきり言わなかったなど、当時のフランス政府が厳しく批判されたことがありました。また、科学的な根拠に基づいていませんが、チェルノブイリの放射能によってフランスの甲状腺癌の患者数が増えたというフランス国民の疑いが今でもあります。ですから、チェルノブイリの事故以来、フランスの政治家とフランス国民の間では原子力発電は論争の的となる厄介な問題で、福島原発のような危機があると、フランスの政府はいつも最悪のシナリオを考えて念のため万全の対策を取るのです。しかも、今回、フランスのメデイアが、福島原発から放射線物質を含む風がヨーロッパにも来るようなことを言ってフランス社会に不安感を広めたので、フランス政府が一早く万全な対策を取らなかったら、フランス国民が許さなかったと思います。 この危機管理を見た私は、フランスのメデイアの態度は不適当で本当に情けないと思います。なぜなら、フランスのメデイアは、本当に苦しんでいる東北地方の日本人より、放射線を浴びる可能性があるかもしれないフランス人ばかりに注意を引きつけました。今でも、行方不明者の数が段々上がって、厳しい寒さで亡くなっていく被災者も増えて、まだちゃんと水や食料が届かない避難所もあるのに、リビアの危機によって福島原発の問題以外、日本の大震災の現場はフランスのメデイアから姿を消しました。それにもかかわらず、インターネットでは日本人に同情を示す多くのフランス人が見られます。フランスでも東北地方の日本人のためさまざまな募金活動が始まりました。私も、日本が大震災から早く復興するように祈ります。 --------------------- <ヴィグル・マティアス☆Vigouroux Mathias> フランス、ロデーズ市出身。中国学専攻。リヨン第三大学文学研究科日本学専攻・修士。2007年3月二松学舎大学より博士号を取得(文学博士)。論文は「近世日本における鍼灸医学の形成とその普及:東アジアおよびヨーロッパの文化交流の一例として」。現在、北里研究所東洋医学総合研究所医学史研究所無給研究生と同時に二松学舎大学文学研究科中国専攻の非常勤助手。 --------------------- 2011年3月25日
  • 2011.03.23

    エッセイ283:シム チュン キャット「日本に「へえ~」その7:すみません、ちょっとわからないのですが...」

    もう「へえ~」どころの騒ぎじゃありませんね。「おお~!」というか、「おおおお~!」ですね。3月11日に起きた千年に一度の巨大地震、それによって引き起こされた巨大津波、また被災規模の大きさ、そして何よりも被災された皆様の無念さ、苦痛と悲しみの深さを考えると、どんな言葉も無力で意味を成さない感じがします。国にいる家族や友人からの心配の電話やメールに対する、「僕は無事です」「東京は大丈夫です」「帰る必要はありません」などの返事さえも、避難所の人々が置かれている過酷な状況を思うと、なぜか軽く聞こえ、心配してくれる相手の気持ちをわかっていながらも、心の中に「東京はいいだろう!東京は!」と叫びたくなる無礼な自分がいます。そして、今はエッセイなんか書いている場合でもないかもしれません。「えっせい」という響きがこんなにも軽量だったのかと思ってしまうほどです。でも、こんなときだからこそふっと思い出したのが、「有事のときにこそ普段のように無事に生活することが大事」という、その昔僕が国家公務員をやっていた頃にイスラエル人の災難対策指導官に教わった言葉です。(なぜ天災のほとんどないシンガポールで災難対策が必要なのかはまた後日に。)ということなので、平常心やこれまでの生活リズムを取り戻すためにも、反感を買うかもしれないということを承知のうえで、いつものように自分らしくエッセイを書かせていただきたいと思います。テーマは恐怖のあの日以降、僕が「ちょっとわからないのですが...」とつい首を傾げてしまったという小さなことについてです。 まず、なんといっても震災被害に追い討ちをかけた福島原子力発電所の事故ですね。もちろん、今回の地震の巨大さが想定外だったとはいえ、起きてはならない事故であることは言うまでもありません。しかしあの強烈な地震で前後左右に揺さぶられたはずにもかかわらず、発電所の第一号機から第六号機がすべて倒壊しなかったことに最初不謹慎にもちょっと驚きを覚えてしまったのは僕だけでしょうか。日本の建物の耐震性能の高さを改めて認識させられました。それから、これとは別に、事故発生直後「格納容器」「核燃料棒」「炉心溶融」「メルトダウン」など普段では聞き慣れない仰々しい言葉が次から次へと学者や専門家の口から飛び出たわりには、対策が「放水」だったことにも驚きました。原発のことはちょっとわからないのですが、対策が地味というか、素朴なのですね。 それはさておき、被曝の恐怖の中、最後まで命懸けでその放水活動に携わった東京消防庁の隊員たちには、いくら帽子があっても脱帽しきれない気持ちでいっぱいです。隊長さんたちが記者会見で見せたあの涙には本当に感動しました。それに、会見でのあの説明のわかりやすかったこと!なんとかの不安院、もとい保安院の偉い方々にはぜひ見習ってほしいものです。なぜならその保安院が行った会見の中に、「これって日本語?」と思わず自分の耳を疑ってしまった場面が多々あったからです。しかも、中には頭も上げずにぼそぼそと説明文を読んでいるだけという役人もいたりして、僕が下宿している家の日本人のお母さんまで「この人、フランス人?」と真顔で聞いてきたこともあったぐらいです。電力会社や現場の作業員とのコミュニケーションがどうなっているのかはちょっとわからないのですが、社会の平安・安全を保つことがお仕事なら、もう少し一般人にもわかるような説明をしていただかないと、逆に不安と混乱が広がるばかりだというのです。その一方で、ぼそぼそと説明する保安院の役人に向かって、ときどきヤクザみたいに乱暴な口調で質問を浴びせる記者たちのやり方がどのように事態を好転させられるのかということもちょっとわからないのです。 あと、今回の東日本大震災に対して「やっぱり天罰だ」と発言した政治家の心持ちがちょっとどころか全然わからなければ、こんなときにプロ野球セ・リーグが早々と開幕を決定したことについてもちょっとわからないのです。ある日本人の友人の言葉を借りれば、それは「野球試合をやるんで、皆さんこれまで以上に節電をしてくださいね」と言っているみたいなことです。因みに、野球ファンであるこの友人も早期開幕に反対です。もちろん、冒頭でも言ったように「有事のときにこそ普段のように無事に生活することが大事」ではあります。「選手は野球が仕事」という言い分もわからなくはありません。でも門外漢であることを承知で言わせてもらうと、チャリティ試合ならともかく、2つのプロチームが戦って最後に勝負がつくことで被災された皆様がどう「勇気づけられる」のか、そのメカニズムがちょっとわからないのです。東北出身の高校球児たちが甲子園でがんばる姿のほうがよっぽど被災地を元気にできるというものです。 赤道直下にある祖国のシンガポールがなぜ自国の空気中の放射能濃度を測定し始めるのか、近所のおじいさんがなぜお米やトイレットペーパーだけでなくお酒まで大量に買いだめしたりするのか、わからないことや書きたいことはまだありますが、そろそろキーボードを打つ手を止めたいと思います。足りない頭をひねり、日本にとどまる外国人の一人としてこれから自分に何ができるのかということを考えながら、あの日以降一滴のビールも口にしてないという自分の最長記録を伸ばしつつ、皆様からの意見や批判および寄稿を心待ちにしたいと思います。 ------------------------------------ <シム チュン キャット☆ Sim Choon Kiat☆ 沈 俊傑> シンガポール教育省・技術教育局の政策企画官などを経て、2008年東京大学教育学研究科博士課程修了、博士号(教育学)を取得。日本学術振興会の外国人特別研究員として研究に従事した後、現在は日本大学と日本女子大学の非常勤講師。SGRA研究員。著作に、「リーディングス・日本の教育と社会--第2巻・学歴社会と受験競争」(本田由紀・平沢和司編)『高校教育における日本とシンガポールのメリトクラシー』第18章(日本図書センター)2007年、「選抜度の低い学校が果たす教育的・社会的機能と役割」(東洋館出版社)2009年。 ------------------------------------ 2011年3月23日配信