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エッセイ304:林 泉忠「『満蒙開拓団慰霊碑』事件から戦争・植民地支配を考える」

毎年8月になると、日本社会に重い雰囲気が漂う。広島・長崎での原爆投下記念イベントや終戦記念日の集会のほか、メディアも相次いでさまざまな記念特集を企画している。66年前のあの戦争にいかに向き合うかということは、依然として今日の日本社会に残された重い課題である。

こういった記念イベントは、「戦争の悲劇を繰り返さない」というメッセージを発信している一方で、その内容の多くは、あの戦争がどのように日本の国民に災難をもたらしたのかということであり、戦争責任の問題に直接に触れるものは極めて少ない。

戦争責任の問題が日本社会においてセンシティブな話題となる背景としては、当時の日本国民のほとんどが多かれ少なかれ日本の対外戦争に巻き込まれていたからである。戦争当事者の軍部や軍人以外の一般国民は、いったい戦争の共犯者なのか、それとも軍国主義の被害者なのか、という問題が今日においても存在している。

日本国民は共犯者か、それとも被害者か

当時の日本の一般国民の戦争責任についてどのように考えればよいのかは、どうも日本人だけの問題ではないようだ。先日起きた「親日記念碑」損害事件がもたらした広範な議論は、この問題について、中国人の間でも共通認識に達していないことを示している。

いわゆる「親日記念碑」は、7月末にハルビン市方正県の「中日友好園林」内に設置されたものであり、日本の「満洲開拓団」の250名の死者の氏名が刻まれた慰霊碑である。8月4日、5名の「愛国者」という団体のメンバーが、それにペンキをかけて損傷したことで、メディアの注目を集め、議論を引き起こした。議論の焦点の一つは、満洲開拓団員を日本の侵略者の一員と見なすべきかどうかということである。

かつて、周恩来首相が「日本国民も軍国主義の被害者だ」と指摘したにもかかわらず、今回の中国国内の世論を概観すると、「網民」(ネット市民)にせよ、政府メディアにせよ、ともにこれを器物損害という違法な行為として譴責するよりも、彼らを「五壮士」と称え、方正県を「国恥を忘れたものだ」と批判する傾向がみられる。この世論の方向は中国国内において今なお根強い反日感情が存在することを如実に反映していると言えよう。

しかし、このような対日感情は、台湾海峡の向こう側ではかなり異なる様相を呈している。台湾はかつて50年間にわたって日本の植民地支配を受けた。1990年代、民主化運動および「本土化」(土着化)運動が勃興するにつれ、台湾社会では「日本時代」再評価の動きが現れた。この雰囲気のもとで、「親日記念碑」が続々と建てられた。

2006年に台湾烏来(ウライ)に「高砂義勇記念公園」が竣工し、李登輝氏が除幕式に出席した。戦前の日本の植民地時代において南方作戦に徴兵され戦死した台湾先住民「日本兵」を慰霊する施設である。園内には、日本人の寄贈で、日本語で書かれた石碑が数多くある。もう一つの先住民村落の武塔村にも「莎韻(サヨン)記念公園」が建設された。1938年に泰雅(タイヤル)族の少女サヨンは、日本人の先生の中国出征を見送りに行く途中に、暴風雨に遭遇し、不幸にして足を滑らし川に転落して命を落とした。後に、このことは総督府が皇民化教育を行なう際の手本となった。また、それに基づいて映画「莎韻之鐘(サヨンの鐘)」も作成された。主演は当時満映のトップスター李香蘭である。興味深いことに、60年の歳月が経った1998年に武塔村がこの公園を建設した際、村長の題辞では依然として「可歌可泣」という言葉でサヨンの事跡を賞賛している。さらに、今年の5月には、台湾政府が1.2億台湾ドルで建設した「八田與一記念公園」が完成した際、馬英九氏が森喜朗元首相の同行で総統として式典に出席して挨拶を行ない、八田與一技師が日本統治期に建設したダムは戦後周辺の開発や民衆の生活に貢献したことを称えた。

サヨンの事績や高砂義勇隊はともかく、八田與一の行為でさえ、もし中国本土で行なった場合、おそらくその「貢献」は日本の植民地支配に加担したものだと強調されることになろう。実際、植民地の権力構造のなかで、八田與一の身分が日本の植民地支配において「共犯者」の側面を有していたことは容易に否定できるものではないだろう。

以上のように、「親日記念碑」に対する中国社会と台湾社会が採る姿勢は対照的と言っても過言ではないほど異なっている。それは、双方の民衆の異なる日本観を反映しているものである。こういった差異は最近の対日観の世論調査にも如実に表れている。公表されたばかりの日中共同世論調査によると、中国の国民の対日印象が大いに悪化し、「よくないと思う」人は65%にも達し、過去最高となった。それに対して、昨年の日本交流協会委託の調査によると、台湾では回答者の半数以上は「最も好きな国家」は日本だと回答し、日本に親近感を覚えている人が60%を占めているという。

では、香港の状況はどうだろう。今日の香港社会にも、日本による「3年8ヶ月」の占領期があったという辛い記憶が残されている。しかし、イギリス植民地の経験を持つためか、植民地主義に対する香港社会の評価はおそらく台湾に近いだろう。実際、中国に復帰して14年が経った今日においても、イギリスの支配者を記念するために命名した公共施設は、数多く存在している。病院を例に挙げれば、瑪麗医院(Queen Mary Hospital)、葛量洪医院(Grantham Hospital)、伊利沙伯医院(Queen Elizabeth Hospital)、威爾斯親王医院(Prince of Wales Hospital)、尤徳夫人那打素医院(Pamela Youde Nethersole Eastern Hospital)などである。興味深いのは、今日の香港社会ではその名称を変更しようとする声さえ現れておらず、植民地風の街道名もそのまま残っている。

日本観と植民地観

台湾海峡を挟んだ両岸社会の異なる日本観にしても、また植民地主義に対する中国・台湾・香港三社会の異なる理解にしても、ともに置かれている環境や経験の違いによるものであり、また価値判断の問題でもある。すなわち、侵略戦争および植民地支配の原罪を強調するか、それとも関連する人や事件を含め、植民地支配のプロセスを一つ一つのケースで客観的に見るか、ということであろう。

方正県における「親日記念碑」事件が、戦争や植民地支配に関して理性的な思考や議論の契機となってくれれば、それもプラスの意義があるように思う。

*本稿は『明報』2011年8月16日号に掲載された記事「從『親日碑』事件反思殖民主義」を著者本人が加筆修正し、また著者の承諾を得て日本語に訳しました。原文は中国語。朱琳訳。

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<林 泉忠(リム・チュアンティオン)☆ John Chuan-Tiong Lim>
国際政治専攻。中国で初等教育、香港で中等教育、そして日本で高等教育を受け、2002年東京大学より博士号を取得(法学博士)。同年より琉球大学法文学部准教授。2008年より2年間ハーバード大学客員研究員、2010年夏台湾大学客員研究員。
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2011年8月24日配信