SGRAかわらばん

  • 2024.07.18

    エッセイ771:シム ミンソプ「私の奉仕活動を振り返り、私を支えてくれた皆様へ捧げる書簡」

    窓を通り抜ける風の音が聞こえるほど静かな夜明け。日本では渥美国際交流財団の30周年イベントがこの時間帯に行われているだろう。私は小さな照明と温かいお茶を親しみながら、英国で、この1年間を振り返ろうとこの文を書いている。最大のイベントに参加できず残念でならないが...   2023年3月の真夜中過ぎ、眠りにつこうとしたその時、メール通知音で目が覚めた。 「トルコ地震の被災地にスタッフとして参加できれば連絡ください」   2023年の新年、始まりのドキドキ感に満ちていた2月、トルコとシリアは大地震に襲われた。   世界中から救援活動と支援の手がトルコに向かっていた。少しずつ温かい春の気配が冬の名残を追い払いつつある時期、家族を残し英国へ向かった。いつも憂鬱だと感じる英国の天候は、銀色の海に静かに浮かぶ街のように深い霧に覆われていた。私を待つチームは紅潮した顔で、突然の準備に緊張感が漂っていたが、久しぶりの再会を喜んでいる様子だった。長い移動の疲れを癒す余裕もなく我々はトルコに向かった。   “惨状だった。これまでの救援活動の現場とは比べものにならないほど惨かった”   現場を確認し、本格的な活動に備えて救援物資の調整のため少し離れた補給所で活動を始めた。本当に何も考えられないほど忙しい日々が続いた。ほんの少し目をつぶって仮眠だけでも取ろうとしたその時、周りで騒々しい声や悲鳴が聞こえ、血を流しながら倒れる仲間の姿が見えた。救援物資を強奪する現地の人々で大混乱になり、私たちは呆然とただ見守ることしかできなかった。   “私たちの奉仕活動はこのような人々のためだったのか。私たちの活動の意味は一体どこにあるのか”   答えを見出せないまま活動を終えようとしていた頃、団体からまた別の連絡があり、団体の配慮と支援のお陰でガーナに向かった。私と妻によく懐いていた子どもが、私と妻に会いたがっているという。事故で、もう少しでこの世を去らねばならないかもしれないという悲しい知らせだった...私は疲れ切った体で飛行機に乗り、何も考えずガーナに向かった。残念ながら体と心は疲労の極みにあった。しかし到着して、私の心はすぐに罪悪感に襲われ、涙が溢れとまらなかった。その小さな手には、私たちの団体の名前が書かれた読めない手紙と、私と撮った写真が握りしめられていたからだ。   “この小さな子供にとって、私は親友であり、生きる希望だったのではないか”   「悪かった、遅くなって。もしかしたら私は君にとって人生の全てだったかもしれないのに、ただすれ違う一時の出会いだと思ってしまい、自分の疲れた心を優先した。本当にごめんなさい」ただただ涙を流した。数日後、その子はこの世を去った。私は一緒に掘った井戸のそばに佇んで、私の真心が届くようにと祈った。   日常に戻った私は、他の皆と同じように論文執筆に集中し、日々を過ごしている。日常の流れに身を任せ、無気力になっていた私にとって、財団への参加は単なる義務だったかもしれない。しかし、参加のための準備をしている最中、鏡を見ると、いつの間にか参加への期待感で顔がほころんでいた。久しぶりの笑顔だ。1度、2度、参加が重なることで、徐々に前向きに変わっていく自分が新鮮に感じられ、活動中の日々での仲間が、私にとって次第に大切な人々と感じられるようになっていった。   私の心の変化を、財団でもすぐに分かったようだ。 「顔が随分明るくなりましたね」と、常務理事の今西さんが気づいてくださった。   空虚だった心と疲れた心を黙々と支えてくれたのが、今年の私にとっての大きな変化だった財団の存在だと思う。私の姿をただ応援し励ましてくれ、私の帰るべき場所となってくれた財団があったからこそ、自分の道を歩むことができた。   世の中が変わっていく時、共に自分自身もそのような社会と似て変わってきたのではないか。今の自分に失望し、言い訳ばかりしていた。今までは過ぎ去る時の中で、この世に生を受けた意味への答えは見出せなかったが、やっとそれを見つけた気がする。   「現場で私を必要とする人と共に生きていこう」   「国境なき医師団」での活動をより躊躇なく遂行できるようしっかりと支えてくれる渥美財団があることで、私は自分の人生の方向を決めることができた。人生への答えを見出すべく、ずっと1人で歩んできたと思っていたが、結局、だれかと共に歩むことでこそ真の意味を見出せることが、今やっと分かった。この発見が遅くなったことについての後悔よりも、感謝の気持ちが大きくなっている。   これから英国に戻り、研究員としての計画に取り組み、それが終わり次第また現場に戻ろうと思う。これが私の道だと信じて、いつか過ぎ去った時の中で答えを見出せなかったとき、誰かが「正しい道を1人で歩んできたか」と訊ねれば、答えられるだろう。「共に歩み、私を支えてくれた人がいる」と。そして、今までの過去に後悔はないと。   歩んできた道が善き道であるよう、そしてまたいつか善き影響力を及ぼすことができたらと願う。皆とこれから別の道を歩んでいくことになるかもしれないし、アカデミズムから遠のくこともあるかもしれない。それでも、皆の活動を遠くからでも聞き、知ることができれば、再び立ち上がる力を得られるだろう。   どんな私であっても財団を訪ねると、喜んで迎えてくれるという確信ができた。そしてこの確信は財団が私にくれたものだ。これからの私の進む道が財団への恩返しとなっていればと願う。   用意しておいたお茶が冷めていく今、この手紙を締めくくろうとしている。書き始めた時は名残惜しい気持ちでいっぱいだったが、30周年イベントでの同期の写真が送られてきて、皆の心が私に届いた今、再び明るい笑顔を浮かべてこの手紙を締めくくることができる。   静かでいつもより冷たい空気が漂っていた銀色の街ロンドンは、徐々に昇る陽ざしと共に金色に染まっていく。 「後輩たちに、私たちが過ごした暖かさに満ちたこの場所を譲る時が来た。皆に今のこの金色の光のように明るい未来が共にあることを願って...」   <シム ミンソプ SIM_Minseop> ロンドン大学衛生熱帯医学大学院熱帯疾病研究所特別訪問研究員。一橋大学大学院社会研究科歴史専攻博士課程満期退学。東京大学論文博士修了予定。韓国国家記録院海外史料調査委員、韓国空軍士官学校特性化専門研究室・軍事人文研究室郊外研究室研究員、朝鮮史研究会幹事、日本歴史学協会若手研究者問題特別委員。国境なき医師団ヘルスプロモーターとして、現在ウガンダで活動中。     2024年7月18日配信
  • 2024.07.04

    エッセイ770:李鋼哲「図們江ゴールデン・デルタ開発は新たに脚光を浴びるのか」

    2024年6月19日、朝鮮民主主義人民共和国(略称「朝鮮」、日本では「北朝鮮」と呼ぶ)を訪問していたロシアのプーチン大統領と金正恩(キム・ジョンウン)委員長との間で『包括的戦略パートナーシップ条約』が締結された。軍事同盟に近い「互いの国が第三国から攻撃された場合には互いに支援する」という項目が盛り込まれた。合意文書には「図們江※に架かる国境道路橋の建設に関する」両国政府間の合意も含まれたという。5月16~17日に国賓として訪中したプーチン大統領は習近平国家主席と会談し、共同声明を発表した。その中で、プーチン大統領は「(中露)両国は図們江下流域を航行する中国船舶の問題について朝鮮民主主義人民共和国と建設的な対話を行う」と約束した。   私の専門である図們江ゴールデン・デルタの国際開発が、朝露関係の変化で転機になる可能性が出てきた。33年前の1991年9月に中国・長春で開催された「東北アジア経済フォーラム」には、東北アジア6カ国から代表や専門家たちが参加したが、中国・吉林省代表が「図們江ゴールデン・デルタの国際開発」構想を提案し注目を集めた。94年には国連開発計画(UNDP)が現地調査をしてリポートを提出し、開発計画を多国間協力プロジェクトとして進めることが決まった。1995年、このプロジェクトを実行するためにニューヨークに図們江事務局(Tumen Secretariat)を設置し、関係5カ国(中国、ロシア、朝鮮、韓国、モンゴル。=日本はメンバーになることを断った)からスタッフを派遣し運営していたが、翌96年には北京に事務局を移転し現在に至る。   私は1991年に来日し94年に大学院に入学した頃、この情報に接した。そして、図們江開発プロジェクトを研究テーマとして決めた。このテーマは私にとっては特別な意味があると思い、私の生涯の課題、歴史的な使命として受け取り、30年間研究してきた。というのもこの開発計画の中国側の延辺は私の故郷であり、朝鮮半島は祖先の国であり、2つの言語に恵まれているだけではなく、北京の大学院ではロシア語を独学していたので、3か国語が分かる自分にとっては二度とない貴重なチャンスだったと思ったからである。   アルバイトで生計を立てる状況にもかかわらず、95年夏休みには現地を訪問。コロナ禍前までほぼ毎年現地調査をした。延辺は故郷であり、延吉市から120キロ先に琿春市があり、そこから30~40キロ先の防川村まで足を運ぶ。その先はロシアと朝鮮の領土で、展望台からロシアのポシェト港、図們江の対岸は朝鮮、15キロ先は日本海が肉眼で見える。現在では有数な観光地になり、近くには国連公園までできている。防川から図們江に架けられた約500メートルの橋を渡って、朝鮮の羅津・先鋒に3回も調査訪問し、バスで陸路からロシアのウラジオストックにも2回訪ねた。   2002年に中国政府が「東北大振興政策」を打ち出したが、図們江から日本海への出口が確保されたら、プロジェクトに新しい機運が生まれるだろう。23年9月7日に習近平主席が黒竜江省ハルビン市で「新時代の東北全面振興を推進する」という座談会を開いた。すると、それに呼応するように9月11~13日にウラジオストクで開催した「東方経済フォーラム」で、プーチン大統領は「ロシアは極東の重点開発戦略に着手する」と宣言した。   ただし、ロシアがどこまで本気なのか疑問もある。ロシアはなぜ米国の同盟外交に対抗して中国との同盟関係を進めないのか。報道によるとロシアの国会議長は、米国との協力関係ができるのであればロシアは中国の台頭を抑えたい、と発言しているという。中露関係はとても親密のよう見えるのに、米国中心の西側同盟に対して、こちらは同盟を作らないのはなぜだろう。両国の心底に不信感があるからだろう。   かつてプーチン大統領と胡錦濤国家主席両首脳による政治決着で、2004年10月14日に最終的な中露国境協定が締結されたが、それ以前に中国側は図們江の防川から日本海までの15キロの領土を譲ってもらい、その代わりに新疆の領土の相当な部分をロシア側に譲渡すると提案したと言われている。ロシア側がその提案を受け入れなかったことから推理すると、両国首脳は「中露関係は『上限なき協力関係』である」と言いながらも、お互いに相手を牽制していることが窺える。   中国のロシアに対する不信感は歴史が長い。1689年清国はロシアとの間で「ネルチンスク条約」を締結し、シベリア東部と極東地域は中国の領土だと決めた。しかし、1840年アヘン戦争に始まる西欧列強の中国侵略と勢力圏分割の流れに乗ったロシア帝国は、強い軍事力を後ろ盾に1860年に清朝との間で「愛琿条約」と「北京条約」を締結し、清国から約160万平方キロメートルの領土を奪ったと中国の歴史教科書で教えている。2008年に国境画定協定が結ばれ、約4,300キロの国境が最終的に確定した際は、中国のネット世論は失った領土を認めたのは「売国行為」だと政府を批判した。   今年5月の習近平主席とプーチン大統領との会談で、「図們江から日本海への出口を確保したい」という中国側の提案に対して、プーチンは「金正恩さんと相談して解決したい」と応答した。それが今回の朝露首脳会談と「共同宣言」の中に盛り込まれ、図們江に鉄道橋に加え新しい道路橋を建設することが決まったという。防川から船で日本海に出るという中国側の念願は達成できるのか、ロシアと中国、ロシアと朝鮮の間で詳細に関してどう話し合っているのか、今のところ分からない。ただし、中国側の日本海へ自由に出入りしたい30数年来の念願に対してプーチン氏は満足できる回答を出していないのは事実である。朝露間の准同盟条約の締結を含め諸合意に対して、中国側がどう思っているのか推移を見守るしかない。   朝露間の同盟が中朝同盟にどのような影響を及ぼすのか、5月の訪中でプーチン大統領は習近平主席と事前に協議して了解を得ていたのか、それとも中国を蚊帳の外に置いているのか、今までの情報では知るすべがない。中朝露の三角関係が微妙に変化していることが東北アジア地域の地政学をどう変えていくのか、さらなる観察と分析が必要であろう。   ※図們江:国連の公式名称はTumen River、日本語では「とまんこう」、中国語ではTumen jiang、朝鮮語では豆満江   <李鋼哲(り・こうてつ)LI Kotetsu> 1985年北京の中央民族大学業後、大学院を経て北京の大学で教鞭を執る。91年来日、立教大学大学院経済学研究科博士課程単位修得済み中退後、2001年より東京財団、名古屋大学国際経済動態研究所、内閣府傘下総合研究開発機構(NIRA)を経て、06年11月より北陸大学で教鞭を執る。2020年10月1日に一般社団法人・東北亜未来構想研究所(INAF)を有志たちと共に創設し所長を務め、日中韓+朝露蒙など多言語能力を生かして、東北アジア地域に関する研究・交流活動を幅広く展開している。SGRA研究員および「構想アジア」チームの代表。近著に『アジア共同体の創成プロセス』、その他書籍・論文や新聞コラム・エッセイ多数。     2024年7月4日配信  
  • 2024.06.27

    エッセイ769:小美濃彰「来し方行く末」

    かつては大学院生としての生活すら想像していなかったにもかかわらず、どうしたことか現在も研究を続けることができている。それは偶然でないにしても、すべてが決然とした判断と行動の積み重ねであったわけでもなく、ありがたい縁に導かれてたどりついたというほかない。   大学院博士後期課程への進学後、郵便局でのゆうパック配達と大学での教務補佐とのかけもちで得た収入から研究費用をわずかに捻出していた私にとって、渥美奨学生として研究活動に没頭することのできた1年はきわめて貴重なものとなった。奨学金に支えられながらゆっくりと思考を広げることができたひとまとまりの時間は、それ以前のような生活のなかで断片になっていた時間をいくらかき集めたとしても、代えることはできない。学部生の頃から積み重なっている日本学生支援機構からの借金をさらに膨らませるわけにもいかず、あれやこれやに追われていた生活も、また別の固有な時間であったとはいえど。   釜ヶ崎(大阪)や山谷(東京)における日雇労働運動史に大きな影響を与えた船本洲治という革命家・思想家がいる。船本洲治は1975年6月に沖縄米軍嘉手納基地第2ゲート前での焼身決起をもって、当時の皇太子訪沖に抵抗した。半世紀近くの指名手配生活を経たのち、今年1月に名乗りをあげた桐島聡が加わっていた東アジア反日武装戦線「さそり」のなかでも、帝国主義や植民地主義に対する船本の思想は共有されている。   その船本が猛烈な批判を突きけていた人物である梶大介の思想と活動を、私は研究対象にしている。船本洲治の思想が『新版 黙って野たれ死ぬな』(共和国、2018年)を通じて新しい読者を獲得していることを思えば、私の研究テーマは的を外してしまっているような気がしている。船本による梶大介批判があまりに激烈なために、一体どんな人物なのかという素朴な疑問から史料探索を始めて抜け出せなくなってしまったのだ。かといって、なにかを後悔しているわけでもない。   梶大介には『山谷戦後史を生きて』上・下(績文堂、1977年)という、山谷に関心を寄せたことのある人々のなかでそれなりに知られた著作がある。それを手がかりに何か関連史料を見つけて読んでいけば、この人物がいつどこで何をしていたのかを知るのは、とりたてて難しいことではない。しかしながら、山谷における地域社会と日雇労働運動の歴史という枠組みのなかで何かを考えようとすると、それだけでは梶大介をうまく位置づけることができない気もしていた。   もともと梶大介は『バタヤ物語』(第二書房、1957年)を書いたバタヤ作家として知られていた人物で、その活動と存在は何らかのルートでインドにまで伝わっていたらしい。梶大介を中心とするバタヤ=屑拾いのグループがインドの思想家・社会運動家、ビノーバ・バーベから招待を受け、2名の仲間が渡航予定ということを『読売新聞』(1960年7月29日付夕刊)は報じていた。さらに、梶大介はミサイル試射場建設の是非が激しく争われていた伊豆諸島の新島にも足を運んでいる。思いつくだけでも切りがなく、山谷における運動の前史として時系列に記述を整えただけでは何の意味もつかめないような事実がいくつも連なる。   1993年11月14日に死去した梶大介が同年7月3日に遺した自筆には、釋襤褸という法名と共に「親鸞さま ありがとうございました。/山谷さま ありがとうございました。/和田先生さま ありがとうございました。/すべてのみなさま ありがとうございました。/南無阿弥陀仏」と記されている。「和田先生」とは非戦平和を訴え、かつ「闇の土蜘蛛」による東本願寺大師堂爆破事件(1977年)が意味することの追究にも努めた真宗僧侶・和田稠である。『実践・歎異抄:浄土真実身読記』(いし・かわら・つぶて舎基金/伊豆歎異抄に聞いていく会、1994年)という講述を遺した梶大介は、念仏者としても知られていた。   梶大介の人物の活動と思想を山谷だけで見ることはできないし、また山谷という限られた地域が一体どのような広がりを持つのかということも、丁寧に考える必要があった。そのような意味で、この1年間の研究生活は博士論文を仕上げていく段階でもう一度これまでの作業を見直す、絶対に不可欠な時間であったように思う。その成果として(いまだに...)執筆中の博士論文では、日本における社会運動の高揚期でもあった1960年代に、山谷という場所において無数に折り重なっていた思想の平面を一端でも叙述できるよう試みている。   悠長に構えている場合ではないという叱咤を各方面から受けているところだが、この1年ほど自分自身の研究活動のなかで多くの知的刺激にあふれた密度の高い時間はなかった。一刻も早く博士論文を書き上げなければならない立場ながら、いまに至る道のりを振り返っては感謝の念に堪えない。   <小美濃彰(おみの・あきら)OMINO Akira> 東京都生まれ。東京外国語大学大学院総合国際学研究科博士後期課程単位修得満期退学。東京都公文書館専門員(史料編さん担当)、2023年度渥美奨学生。専門は日本近現代史・都市社会史。     2024年6月27日配信
  • 2024.06.20

    エッセイ768:金希哲「AIとロボット革命」

    ここ数年間で人工知能(Artificial Intelligence=AI)とロボット工学は目覚ましい発展を遂げました。特にチャットボットのような対話型AIや画像、動画生成AIは日常生活の中でもその影響力を確実に感じることができます。   過去、AI技術の活用性に様々な疑問が寄せられてきましたが、今ではそのような懐疑の声は聞かなくなりました。この数年、AIは囲碁で人間を打ち負かすなど新技術として評価される一方、実用的なアプリケーションとしては性能の問題があったため、実用化には悲観的な専門家も多くいました。しかし、多くの研究者が様々な分野からの研究を行い、その問題を解決できるようになりました。   この変化の中心には、過去の研究方法論を超える新しいアプローチがあります。これまではそれぞれの小さなタスクに焦点を当てていましたが、最近ではより汎用的に活用しようとする努力がなされています。最近のAIは「Transformer」という単一のニューラルネットワーク構造を基盤に発展しており、以前に提案された「画像生成専用構造」、「対話型AI専用構造」などは全てこのTransformer基盤の構造に統一されています。AI研究におけるこのような統一は、学習に必要なノウハウの公開につながり、結果的に誰でもAIを学習させることができるようになり、AI研究を爆発的に加速させました。この汎用的なデータを学習できるTransformer構造の発見により、あらゆる状況に一般的に適用できる「一般人工知能」(Artificial General Intelligence=AGI)誕生の可能性まで提起されています。   ロボット工学における革命も始まったばかりです。もともとAIとロボットは同じ研究分野の両輪でした。人間に似た創造物を作る目標は、実体的な面(ハードウェア)と精神的な面(ソフトウェア)の融合があってこそ可能になるはずでした。ロボットという実体とAIという人工的な精神は、そもそも互いに分離しては存在できないものです。しかし、その二つを同時に人間のレベルに引き上げる神話のようなことは起きませんでした。ロボットはAIを搭載しないまま、工場などでのごく単純な反復作業で価値を証明してきました。一方、AIはウェブとビッグデータの成長、そしてコンピュータの発展に支えられ、実体を持たずにウェブ上の無限のデータを基盤に成長してきました。それが今ではAIが現実世界を理解できるようになり、AIとロボットが統合されています。これはロボットがAI技術を活用して、より複雑で多様な作業を遂行できるようになったことを意味します。   私が修士・博士課程の間に進めた研究は、精密な操作をする能力にAIを適用することでした。例えばロボットによる「針に糸を通す」、「バナナの皮むき」というテーマも挑戦的でしたが、研究室の優秀で精密なロボットシステムと計算資源を使って、他の研究室では得られない精度の成果を出すことができました。さらに研究室の環境支援のおかげで、一連の面白くて挑戦的な課題を遂行することができたのは非常に貴重な経験であり、今後の研究と開発に大いに役立つと思います。   私は卒業後、Tefa Robotics(本社ソウル)というスタートアップ企業で、現実世界で実際に役立つロボットを制御できるAIを開発することに専念する予定です。近い将来、少子高齢化の影響で日本および韓国社会は労働力不足に直面しますが、私はAIとロボットの結合を通じて、この問題の解決に取り組んでいきます。   <金希哲 KIM Heecheol> 東京大学工学部機械情報工学科卒業、同大学院情報理工学系研究科知能機械情報学専攻修士、博士。TEFA Robotics Inc.に在職中。2022年度渥美奨学生。     2024年6月20日配信  
  • 2024.06.14

    エッセイ767:徳永佳晃「4年ぶりのイラン調査」

    2024年2月23日から3月7日にかけて、イラン・イスラーム共和国の首都テヘランに赴き、史料調査を行った。イラン立憲制史を研究対象として同地に2年間留学していた筆者にとって、ある程度勝手の知った場所である。しかしながら、コロナ禍後4年ぶりに訪れ、少なからず時の変化も感じられた。このエッセイでは、自分が外国人の研究者として体験した出来事を紹介し、そこから浮かびあがるイランの大学、学界の現状について簡単な展望を示したい。   まず史料調査の環境に関して、結論を先取りして述べれば、4年前と同様かむしろ改善の傾向が見られた。この結果は意外であった。イランの現状として欧米諸国との関係改善が絶望的になり、外国人への管理を強化する傾向が強まっていると聞いていたからである。もちろん、歴史史料の複写・閲覧はおろか外国人の立ち入り自体を禁止している文書館があるほか、調査可能ではあるものの担当者によって閲覧ルールが異なるなど、利用者を当惑させる状況は続いている。しかしながら、文書の閲覧申請を許可するまで数週間待たせることや、文書館に持参する紹介状の文言に細かな注文を付けるなど、文書を出し渋るような対応は見られなかった。   文書館が幾分ながら協力的となった背景には、いくつかの理由が推測できる。一つ目は文書を含めた歴史史料のデジタル化・公開の促進である。これは欧米諸国をはじめ世界的な潮流を踏まえた動きであり、非常にゆっくりとした歩み(かつしばしば逆行する)ではあるものの、イランにおいても確実に進展している。少し前までは刊行史料のみに依拠したイラン近代史の学術書、論文が多く出版されていたが、現在少なくとも同国内においては、文書その他の未刊行史料を一切用いない研究を見つけることのほうが難しい。   二つ目の理由としては、訪問する海外研究者が急減したことが考えられる。欧米諸国との関係改善が絶望的な現状において、国内の大学その他の機関で活動できる研究者はトルコ、イラク、シリアなどの近隣諸国、そして中国、韓国、日本といった東アジア地域の出身者に事実上限定されている。そのなかで曲りなりにも「先進国」であり、政治、経済的にもイランとの大きな軋轢がない日本は、学術交流の相手として概ね歓迎されている。さらに、日本人は研究もしくは学問目的で現地に渡航する割合が他国と比べて大きめであり、少人数ながら政治、経済状況に比較的影響を受けず、継続的な往来がある点も特徴である。このように地味ながら着実に積み重ねてきた交流の実績に、K-POPや日本のアニメ・漫画の流行による東アジア全体の文化イメージ向上が加わり、日本人研究者への好感が官民ともに維持されている。   日本人研究者に対する(あくまで他国との比較の上ではあるが)好意的な対応は、文書館だけではなく現地の大学においても確認できた。研究ビザの取得においては窓口となる現地の大学の国際局が迅速に対応してくれたことにより、想定より大幅に短い3週間ほどで終えることができた。また、今回の調査では何名かの現地の研究者や教授の方々と面会したが、皆好意的に応対してくださったことに加え、国際会議の開催や更なる日本人留学生の受け入れを繰返し打診されたことが印象的であった。筆者が一介の博士課程学生に過ぎず、そのような学術交流を行う予算も権限もないことは、先生方も十分に分かっている。それでも、敢えて何度もこれらの話題が出たことに、日本との交流に積極的な現地の先生方の姿勢を窺い知ることができた。   コロナ禍後の国際情勢緊迫化、それに伴う外国人への管理強化といったイラン政治の現状にもかかわらず、日本人研究者の調査環境は、好転とまでは言えないまでも従来通り維持されている。この4年間の環境変化は、現地大学への留学や調査が事実上不可能になりつつある欧米諸国の研究者のそれとは、対照的である。このような日本人研究者への「好待遇」から、欧米諸国と早期の関係改善が絶望的になった今、その他の国々との関係性を維持、強化することで生き残りを図るイランの戦術を読み解くことができる。日本に対する「好待遇」は、政治、経済面、さらには大学や学界をも含めイランが置かれている厳しい現状を反映した現象であると言えるかもしれない。   <徳永佳晃(とくなが・よしあき)TOKUNAGA  Yoshiaki> 東京都生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。日本学術振興会特別研究員PD(日本大学)、2023年度渥美奨学生。専門はイラン地域研究・近代政治史で、主な論文に「「不法な影響力の排除」を目指して:パフラヴィー朝成立期のイランにおける1304年選挙法改正(1925) 」『歴史学研究』 (1044)などがある。     2024年6月14日配信  
  • 2024.06.06

    エッセイ766:丁乙「現代社会における研究者のあり方」

    2022年11月から2023年8月まで東京大学東洋文化研究所にある東アジア藝文書院(EAA)という組織で特任研究員を務めた。数多くのイベントに参加し、自らもプロジェクトを立ち上げたことで、社会連携・研究・教育を総合する組織での学問の可能性に関して広く考える機会に恵まれた。   私が担当したのは「東洋美学の生成と進行」というシリーズ講演・討論で、計6回実施した。初回は小田部胤久先生(東京大学)、第2回は陳望衡先生(武漢大学)、第3回は王品先生(上海交通大学)、第4回はKevin M. Smith先生(UCバークレー)、第5回は青木孝夫先生(広島大学)、第6回は塚本麿充先生(東京大学)。グローバルな視点から見ると、西洋に発端した美学という学問領域を参照して近代に作られた東洋美学は、未だ十分適切に位置付けられてきたとは言えない。そこで、EAAという場において、東洋美学と称されうる領域の射程やあり方について検討を試みた。本イベントを通して目指すのは、「東洋美学」をすでに定まった領域と見なしてそれに該当する最新の研究を紹介するのではなく、むしろ「生成中の領域」としてそれがいかなる形で進行しているのか、哲学・美学のほか、文学や芸術批評、美術史などの分野にも注目し探求することである。日本だけでなく、交流のあった中国やアメリカの研究者からも、それぞれの立場から東洋の美学に対する理解や視点を得ることは重要である。   このプロジェクトのほか、EAAでの活動を通じて、研究や学問のあるべき姿やその意義について考えさせられた。まず、研究のスピードについて。私が以前より慣れ親しんだ人文社会系という伝統的な学問分野や学的環境では、基本的に文献研究が行われており、その性質のゆえか研究成果の産出スピードは速くはなかったし、おそらく速くなりえないだろう。対照的に、EAAで目にしたのは新たな学問を開拓するために、必然的に量的にも範囲的にも膨大かつ多様な研究と向き合わねばならず、社会連携からの要求もあるため、素早く発信している姿であった。初めは自分がそのスピードに合わせることができるのか心配していたが、一定の蓄積を持つ研究者ならば、必ず物事に対する独自の視点があり、そこから何らかの感想やコメントを述べられることに気づいた。しかし、それは本当にその発表や研究に対する理解に基づく適切なものであるのか、という別の不信が生じてきた。着任当初の自己の能力への不安から、次第に、学問のあり方についての別の問いが生まれてきた。   また痛感したのは、いわゆる研究のパフォーマンス性である。学生の時に有名な研究者の講演を聴講しに行き、失望した経験が時々あった。著作と比べ、なぜ面白くなかったのかと考えていた。だが現在の自分は、もはや一つ二つの講演で研究者の研究を評価しない。同じ分野内の学者向けの発表と、分野外の学者向けのもの、さらに一般向けのものがあるからである。これらの発表に求められるものは必ずしも一致しておらず、互いに相反する部分も少なくない。人文系の研究の価値は広く発信していかなければ、一種の傲慢なエリート主義に陥りうる。しかしそればかり行えば、現在の社会ではあるいはそれだけで名声や地位を獲得することも考えられ、学者より数的に圧倒的な公衆に認められ、必要性があると判断されることに偏重してしまう、というアポリア(論理的難点)が存在するように感じ取れる。   この一年間、学問の可能性に興奮した瞬間は多かったが、他方で虚しさもしばしば感じた。そして、自分がいかなる研究者になりたいのか、また現実的になれるのか、という課題が頭に浮上してきた。これは今後、研究者として現代社会を生きていく上で重要な課題となるであろう。   <丁乙(てい・おつ)DING Yi> 東京大学人文社会系研究科修士・博士課程、東京大学東洋文化研究所の特任研究員を経て、現日本学術振興会外国人特別研究員(京都大学)。カリフォルニア大学バークレー校やHerzog August Bibliothek Wolfenbuttel(ドイツ)など客員研究員。研究分野は中国美学、比較美学。博士論文『『ラオコオン』論争からみる二〇世紀中国美学』は第14回東京大学南原繁記念出版賞を受賞し、2024年度中に東京大学出版会より刊行予定。     2024年6月6日配信
  • 2024.05.16

    エッセイ765:李貞善「世界遺産の時間は悠々と流れる」

    「皆さん、この中で世界遺産はどれでしょう。当ててみてください。」 2024年4月13日(土)、世界遺産検定マイスターを対象にした公式認定研修に参加した。日本のNPO法人世界遺産アカデミーが主催する検定試験である。   東京大学大学院の研究生として入学試験の準備をしていた2015年夏、研究と関連があると思い、真剣な気持ち半分、好奇心半分で世界遺産検定2級と3級資格を取得したのが発端であった。2017年には1級に合格。その勢いで、翌年は博士課程に進学するとともにマイスター試験にも挑戦した。それまで習得した理論的知識を土台に、世界遺産に関する時事的なニュースや最新の争点を中心に確認していく構成にした。大学院入試以降の久しぶりに受けた2時間の論文試験で、準備不足であった私は少し心配したが、幸いに合格できた。   研修を受けたのは、2019年以来博士論文執筆に取り組み始めたことに加え、2020年からの長いコロナ禍による中断があったからである。世界中の人々が類のない危機で苦しんでいる中、世界遺産へのアクセス自体が困難な時期もあった。文化遺産も、自然遺産も、複合遺産も人間とほとんど接触できない「アンタクト」(韓国の造語=UN+CONTACT)の時間を過ごした。立ち止まっているように感じられたあの4年間は、実は自然に順応しながらも危機と真正面から向き合う時間であった。   研修プログラムの内容は、プレゼンテーションスキルについての講義とグループワークだった。最初に講師がプレゼン方法や話すスキル、分かりやすく説明する方法などの講義を行った。その後、グループに分かれてプレゼン練習を繰り返した。4人が1つのグループになり、自己紹介の後、リーダーを選ぶように言われた。私のグループは男性3人と女性の私。リーダーを希望する者はなく、じゃんけんで勝った人がリーダーになることにした。今までじゃんけんで勝ったことはないので安心していたが、なぜかその日は優勝を勝ち取ったのは私で、リーダーになってしまった。   各グループは世界遺産検定の3級ガイダンスを聞いた後、講義の練習をした。秘密の封筒が配布され、中には世界遺産に関する知識のテーマが入っていた。3分程度でプレゼンができる分量のスライドも同封されていた。最後に各グループの代表が前に出て、3分にまとめた模擬講義を担当した。メンバー全員の指名により私が発表をすることになった。その後、講師によるフィードバックと意見交換が行われた。最後に参加者たちに公式認定証が交付され、ひとりずつ写真撮影して認定研修は終了した。これを以て、私は外国人としては初めての日本の世界遺産検定マイスターとともに認定講師になった。   研修を受けながら、これまで身につけてきた世界遺産に関する想念が頭をよぎった。それまでしばらくの間立ち止まっていたような私の世界遺産の時間が、この研修を機に再び流れ始めた。世界遺産とは、人類にとって「顕著な普遍的価値」を有する文化遺産や自然遺産、複合遺産などの不動産であり、1972年に成立した世界遺産条約に基づいて世界遺産リストに登録された物件である。「ル・コルビュジエの建築作品―近代建築運動への顕著な貢献―」の構成資産として世界遺産として登録されている上野の国立西洋美術館のように、国境を超える「トランスバウンダリー・サイト」も少なくない。世界遺産は、登録前もその後も、国や自治体レベルの持続的な管理と保全、また必要に応じて適切な修復を要する。時間の経過による劣化や破壊などの変化への対応、つまり「時間とどう向き合っていくのか」が肝心なのである。   世界遺産公式講師になった私は、4月付けで東京大学大学院人文社会系研究科附属次世代人文学開発センターに特任助教として赴任した。9年前から私の日本留学生活を共にしてきた世界遺産は、研究者として成長させるとともにコロナ禍を乗り越えるためのレジリエンスを鍛えてくれた。ウィズコロナ禍であろうが、ポストコロナ禍であろうが、平和の時代であろうが、戦争中であろうが、どのご時世であっても変化へ対応していく世界遺産のように、自然に順応しながらも危機と真正面から向き合うことが重要であろう。これからも世界遺産と関わりながら研究を続けていきたい。世界遺産の時間も、私の時間も、そしてこの世の時間も悠々と流れている。   世界遺産アカデミーのインタビュー記事   <李貞善(イ・ジョンソン)LEE Chung-sun> 東京大学大学院人文社会系研究科附属次世代人文学開発センターの特任助教。2021年度渥美奨学生として2023年2月に東京大学で博士号取得。高麗大学卒業後、韓国電力公社在職中に労使協力増進優秀社員の社長賞1等級を受賞。2015年来日以来、2022年国際軍史事学会・新進研究者賞等、様々な研究賞受賞。大韓民国国防部・軍史編纂研究所が発刊する『軍史』を始め、国連教育科学文化機関(ユネスコ)関連の国際学術会議で研究成果を発表。2018年日本の世界遺産検定で最高レベルであるマイスター取得後、公式講師としても活動。     2024年5月16日配信  
  • 2024.05.09

    エッセイ764:モハッメド アキル シェッダーディ「外国人住民の参政権について」

    7年以上日本に住んでいる外国人として、私はこの国でいつも歓迎され、尊重されてきました。大学院で研究するために来日、その後大学で講師として働くようになりました。大人の人生の半分以上を日本で過ごし、日本国民と同じように税金や年金保険料、健康保険料を支払い、さまざまな形で社会に貢献しています。日本とその文化が大好きで、日本を第二の故郷と考えています。   しかし、一つだけ気になることがあります。それは、どの選挙にも投票する権利がないことです。自分の生活や地域に影響を与える政策や決定について、何の発言権も持っていないということです。コロナ禍で日本が半年間、外国人居住者を含めて国境を閉鎖したとき、外国人は政策決定において考慮されなかったと実感しました。日本国民と同じ程度に社会に貢献しているにもかかわらず、まだ二等市民と見なされているのだと感じました。投票権がないということは、自分のような外国人居住者にとって重要な問題を解決することができないし、私の利益を代表する指導者を選ぶことができないということです。   これは不公平であり、民主的ではないと思います。外国人住民は単なる訪問者や客ではありません、永続的または長期的にここに住む社会の一員です。外国人住民は権利と責任を持ち、コミュニティーにおいても代表となり、未来を形づくる政治プロセスに参加することができるべきです。   この意見は私だけのものではありません。多くの外国人住民が同じように投票権を求めています。多くの日本国民もこの考えを支持しており、多様性と包摂のメリットを認識しています。一部の地方自治体は外国人住民に地方選挙や住民投票での投票権を与えようと試みましたが、法的・政治的な障害に直面しました。現在、地方住民投票で一部の投票権を認めている自治体は1,718市町村(東京都区部を除く)のうち42しかありません。   例えば、東京の武蔵野市は2021年、外国人住民に地方選での投票権を認める条例案を提案しました。しかし、市議会は、「外国人に国家安全保障問題に関する発言権を与えると、日本の主権を損なう恐れがある」と主張する一部の保守派の反対により、この提案を否決しました。日本は労働力不足に対処するために今後ますます外国人労働者が必要な状況であるのに、このような反対は「同質的な国家」のイメージを強め、社会の多様性と活性化の議論をすること自体を抑圧してしまいます。   先日、統一地方選挙の運動期間中に、郵便箱に「外国人参政権に反対」ということを中心的なスローガンとして掲げた候補者の選挙チラシが届きました。候補者は、「外国人住民に投票権を与えることは、国益に反する可能性」があり、「日本の安全が危ぶまれる」と主張していました。しかし、この主張は根拠のない誤りです。まず、地方選挙や住民投票は、国家安全保障や外交政策ではなく、教育、医療、環境、交通、公共サービスなどの地域の問題に関するものです。これらは、国籍に関係なく、その地域に住むすべての人に影響する問題です。   外国人住民に地方選挙での投票権を認めることは、彼らに市民権や二重国籍を与えることを意味しません。外国人住民は引き続き日本の法律に従い、日本の価値観を尊重しなければなりません。彼らが元の国籍やアイデンティティーを失うことではありません。単に所属感や参加感という新しい次元を得るだけです。   また、外国人参政権を認めることは、日本国民よりも不公平な優位性や特権を与えることを意味しません。外国人住民は引き続き一定の基準や条件を満たさなければなりません。有効な在留資格を持ち、一定期間地域に居住し、有権者として登録すると、日本人有権者と同じ規則や手続きに従わなければなりません。   したがって、外国人住民に地方選挙での投票権を与えることは可能であり、望ましいことです。それは日本の民主主義と多様性を高めるとともに、社会的な結束と統合を促進し、相互理解と尊重を育み、市民的な参加と責任を奨励し、すべての人々の生活の質を向上させるでしょう。日本は今のところ外国人住民に参政権を与えず、二重国籍も認めない数少ない先進国ですが、外国人住民の地方政治への参加の価値を認めた他の国々のように、状況を変えるべき時が来ていると思います。   日本を愛し、その発展に貢献したいと思う外国人住民として、いつか自分の票を投じて自分の声を届けたいと願っています。この社会の真の一員として自分の投票権を行使できるようになることを望んでいます。   <モハッメド アキル シェッダーディ Mohammed Aqil CHEDDADI> モロッコ出身。モロッコ国立建築学校卒業。慶應義塾大学政策・メディア研究科環境デザイン・ガバナンス専攻修士号取得・博士課程在学中。同大学総合政策学部訪問講師。2022年渥美奨学生。     2024年5月9日配信
  • 2024.05.02

    エッセイ763:謝志海「釜山で東アジアの国際関係の歴史を考える」

    春休みに同僚の先生方と韓国・釜山へフィールド調査に行った。専門分野が違う5人がそれぞれの視点から釜山の町を観察して歩いたが、私にとっては自分の専門である国際関係の歴史について深く考える機会となった。   調査に行く前に、「国際市場で逢いましょう」という映画を観た。ほぼ実話に基づいた内容だという。朝鮮戦争で父親と妹と別れた主人公が、長男として母親を支え、兄弟の面倒を見ながら別れた家族を探し続ける話だった。おじいさんになっても、頑固に釜山の国際市場にある古い店を守り続けたのは、父親と別れた際にその店で再会しようと約束したからだ。   この家族に限らず、朝鮮戦争で離散を余儀なくされた人々は国際市場にある「40階段」というところで待ち合わせることを約束したという。今回はその映画の舞台となった釜山の国際市場を訪れ、実際その階段にも登ってみた。階段には家族を座って待つ銅像があった。   戦争によって家族が引き離されてしまうことが、歴史ではなく、現在も起きていることは非常に残念だ。先日テレビ番組で見たある家族の今を思い出す。ウクライナ人の女の子はロシアの侵攻の後、母親と一緒に来日し、日本の高校に通い、都内の大学に合格した。父親は祖国に残り戦争支援のために働いている。戦争により、家族にとっての日常が一瞬にして非日常的になるのは昔も今も同じだ。   釜山にある国連墓地も訪問した。朝鮮戦争に参戦した米軍をはじめとする国連軍の犠牲者を慰霊する場所だ。現地のパンフレットには、朝鮮半島の平和と自由を守るために戦ったと書いてあるが、中国と北朝鮮側から見たら、自分たちのほうが正義だと考えるだろう。実際、北朝鮮には中国志願軍の墓地もあり、昨年7月には朝鮮戦争休戦70周年を記念するため、金正恩総書記が訪問した。ロシアと中国の代表団も記念行事に参加。戦争の記憶は第二次世界大戦だけでなく、その後の朝鮮戦争をめぐっても参戦国の認識がかなり違うことを実感した。   近現代史博物館には日本植民地支配時代の韓国の歴史が紹介されていた。釜山は最初に支配された都市だった。中でも釜山の鉄道はなかなか興味深く、1900年代、日本の実業家で新一万円札の「顔」にもなる渋沢栄一らがソウルから釜山までの京釜鉄道を建設した。今回の調査とは関係なくたまたま読んでいた「鉄道と愛国」(吉岡桂子著、岩波書店、2023年7月)という本にも、まさに京釜鉄道はかつての植民地支配の道具でもあったと記されていたが、釜山の博物館でその歴史の痕跡を確かめることができた。   先述の映画では、韓国がベトナム戦争に巻き込まれていたことも描かれた。主人公は父親と約束した待ち合わせ場所の店を守るためのお金を稼ぐべく、ベトナム戦争の機械兵を志願して、現地で片足をけがしてしまった。韓国はベトナム戦争で米国に協力した。一方、北朝鮮は、北ベトナムを支援した。   ロシア研究の専門家によると、今回のロシア対ウクライナ戦争では、武器提供において北朝鮮V.S.韓国の構図が見えている。北朝鮮はロシアに武器支援をし、韓国が北大西洋条約機構(NATO)に輸出している武器は、ウクライナ支援に充てられている。戦争をめぐって、北と南の対立の構図は冷戦時代から変わっていない。   一緒に釜山へ行った日本人の先生が言うように、日本では戦争とは1945年で終わったものというイメージが強いが、実際には第二次世界大戦から時をあけずに朝鮮戦争が始まり、さらにベトナム戦争、そして今に至るまで、戦争は世界でひっきりなしに続いている。このことをもっとたくさんの人々に認識してもらいたい。幸いにも、今の東アジアは時に緊張はあれど戦争はなく、平和な状態が続いている。東アジアの平和を願いながら、ロシアとウクライナの戦争もガザでの中東戦争も一日も早く終わるように祈る。   <謝志海(しゃ・しかい)XIE_Zhihai> 共愛学園前橋国際大学教授。北京大学と早稲田大学のダブル・ディグリープログラムで2007年10月来日。2010年9月に早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士後期課程単位取得退学、2011年7月に北京大学の博士号(国際関係論)取得。日本国際交流基金研究フェロー、アジア開発銀行研究所リサーチ・アソシエイト、共愛学園前橋国際大学専任講師、准教授を経て、2023年4月より現職。ジャパンタイムズ、朝日新聞AJWフォーラムにも論説が掲載されている。     2024年5月2日配信
  • 2024.04.11

    エッセイ762:森崇人「真理の探究」

    私の研究は高エネルギー理論物理学、物性理論、量子情報理論の境界領域である。在学中は興味本位でこれら様々な分野から「量子もつれ」と呼ばれるミクロ特有の相関を調べていたため、博士論文の研究を一つの大きなストーリーにまとめるのが難しかった。そこで研究の原点に立ち戻る必要があった。このような振り返りは研究中にはあまりしないので、何を行ってきて、何を目指していたのか、そしてどこまで進んだのか再確認するには非常に有用であった。エッセイでは、私が何を目指して博士課程の間に研究をしたのか、そして在学中に感じたことを書き連ねたい。   研究目標は量子重力理論の解明である。量子重力というのは非常に微視的(量子的)なスケールで顕著になる重力の揺らぎや重ね合わせなどの量子効果を調べる分野で、その理論的枠組みを明らかにすることがゴールである。それにより、宇宙の誕生やブラックホール等に存在する時空の特異点(=これまでの理論が破綻する領域)を説明する理論構築につながると考えられている。このように重力が強く、その量子効果が無視できない領域では、我々が今持っている物理的理解・数学的手法が及ばないため、何か間接的な理解の仕方が必要となる。   そこで、近年はホログラフィー原理という対応を用いて、量子重力を、重力を含まない多自由度の量子系(例えば電子など)から理解する試みがなされている。私の研究ではその立場から、量子系の量子もつれなどの情報を調べることで、量子重力を理解しようとした。解析手法には、場の理論[高エネルギー理論物理]、テンソルネットワーク[物性理論]、一般相対性理論[重力理論]などの様々な分野の手法を援用した。このように分野を俯瞰しながら、ゆくゆくは情報理論の立場から量子重力を理解したいと考えている。   宇宙の誕生や時空の構成単位に迫る研究は理論物理の興味のみならず、哲学的にも意味があると信じている。古来より、人類は自身や宇宙の起源、存在に疑問を投げかけてきた。私の研究は、これらの問いに対して一つの答えを与えるものだと考えている。これまでの研究からの私の理解は以下である。   私たちが見ている世界、実存とは、実際のところ情報の集合体である。また、私たちが認識できるような世界というのは微視的情報が粗視化されたような解像度の低い世界(この構造を階層性と呼ぶ)で、理論的には一次元低い世界の情報の束として表現できる。従って、我々の世界や我々が行う観測という行為は一次元低いハードディスクのような記憶媒体、つまり情報源から、ホログラムのように情報を読み出す再生装置のようなものだと思われる。   では、私たちの上位存在である記憶媒体のことを我々は知り得るのだろうか。これは近年の量子コンピュータの発展とも無関係ではない。量子コンピュータ―は古典コンピュータ―より速いかもしれないと言われているが、果たして演算される入力と出力自体は量子性を認識できるのだろうか。我々が処理される情報のようなものであるなら、このような具体化はあながち間違いではないかもしれない。このように、理論物理は哲学とも深く結びついていて、自分とは何者か問いかけられる良い手法だと思う。   私が続けてきた学際的な研究は近年、急速に進んでいる。特に理論物理と情報理論の親和性は高く、これまでにない速度とレベルで研究交流がなされている。例えば、量子重力と量子情報や、物性理論と量子情報、非平衡熱力学と情報幾何学などがある。しかし、その一方で、どちらにも精通して分野を俯瞰しながら、新しい研究分野を創成することができるような成果はまだ少なく思える。もちろん一つの分野を極めて、そこからじわじわ境界領域を攻めていく方法は間違いではないし、むしろ強みがあった方が良い(自分はおろそかにしがちなので、この文章を書きながら自らに言い聞かせている)。   しかし、様々な分野を平等に攻めたからこそ、より根幹をなす普遍的な問題に気づけるのではないだろうか。そのような問題意識で量子重力・量子情報・物性理論・高エネルギー理論物理学の幅広い分野で研究を推し進めてきた。特に私の主な分野である量子重力分野に顕著だが、曖昧で弱い根拠の上に様々な論を組み立てるものがある。これ自体はインスピレーションの源泉にもなりうるし、実際多くの研究がなされた結果、元のアイデアがより厳密に示されたりするので、良い側面はある。   しかし、実際は驚くほど地に足をつけて議論できていないこともある。例えば、ある分野の研究対象Aと別の分野の研究対象Bの間に類似性がある。「A=B」とすればAかBのいずれかを調べることで両分野の進展につながる。しかし、「A=B」というのは仮定であり、それは検証されるべき前提条件である。残念ながらその緻密な検証作業がおろそかになっている側面は否めない。これは近年の競争原理の高まりによる論文至上主義(はやりの分野で、たくさん論文を書けば良い)の弊害だろうか。私もそのあおりを受けざるを得ないのだが、それでも地に足をつけながらバイアスを排除して真実を見落とさないように注意深く、じっくり研究していきたいと思っている。   これからは京都大学、そしてカナダのペリメータ理論物理学研究所で研究員として研究を続けていくことになるが、より一層様々な分野の人々と協力しながら真理の探究をしていきたい。   <森崇人(もり・たかと)MORI Takato> 2024年10月~:京都大学特定研究員(学振PD)、2024年6月~:ペリメータ理論物理学研究所研究員、2024年4月~9月:日本学術振興会特別研究員PD(京都大学基礎物理学研究所)、2023月3月:総合研究大学院大学高エネルギー加速器科学研究科素粒子原子核専攻5年一貫博士課程修了、2022年度渥美奨学生。     2024年4月11日配信