SGRAかわらばん

  • 2023.03.30

    エッセイ735:オリガ・ホメンコ「この状況で経営者はどうしているのか?」

    ウクライナ西部でイースト(発酵剤)とペットフードの会社を兄弟で経営している友人がいる。ロシアに侵攻された後もさまざまな問題を乗り越えて頑張っている姿を見るのは嬉しい。しかしながら、新聞に出ないような辛い話もたくさんある。   戦争が始まって自社の商品が生活必需品であることをさらに実感した。最初の3カ月間、家でパンを焼くためにイーストを買う人が激増した。危機感があるとイーストが売れる。コロナ時代の2020年3~4月もそうだった。トイレットペーパーと同じようにイーストが売れた。不思議な傾向だが、危機感を感じる時にパンの消費が伸びる。逆に安心して平和な時代には健康を気にしてパンの消費が減るようだ。   最後まで戦争になるとは信じたくなかったが、国際メディアが騒ぎ始めた2021年12月ごろから少しずつ備え始めた。パラノイック(偏執病)だと思いながらも、300人も働いている会社だから、万が一のためにシェルターを準備した。万が一のために空襲警報のシミュレーションと避難訓練をした。本当は「カイゼン」が好きで在庫を持たないが、念のために2カ月分の材料を備蓄した。ウクライナで買えるものは全部そろえた。その中には、東部で製造している硝酸、硫酸、パッケージなどもあった。戦争の影響を受けずに2カ月間は製造できるので、とりあえず安心と思った。侵攻が始まっても2、3人しか避難しなかった。   その頃ポーランドの物流と販売の関係者から「従業員の子供たちを保護者と一緒に引き受けましょうか」と言われた。最初は誰も行く気がなかったが、空襲警報が増えて、ミサイルも飛んで来るようになると希望者が出てきた。結局数百人をポーランドに避難させてもらった。ポーランドの取引会社の社長も自分の家に6人住ませてくれた。ポーランドの小さな田舎町だったが、子供は学校で勉強し、週末には観光もさせてくれた。自然な形で助けてくれたので、皆とても感謝している。   会社の敷地内にもミサイルが飛んできた。運良くオーストリア・ハンガリー時代の頑丈な塀の間に落ちて爆発しなかった。ソ連製のミサイルだった。   ウクライナ各地に工場を3つ持っている。西ウクライナ以外の2つはハルキフとクリビーイ・リーグにある。最初の1カ月間は西部にある工場しか稼働できずに大変だったが、残りの2つの工場も再稼働できた。商品の5割は海外輸出用である。1年前にウクライナの通貨が下落した時に外貨を得て、新しい工場施設を建てたことも役立った。大変な状況の中で輸出先の海外関係者は一人も減らなかった。もちろん、万が一製造が止まった時の「プランB」も考えていたが、誰も戦争だから取引をやめますとは言わなかった。特にクロアチアとドイツの取引先の人々は素晴らしく、輸出量も伸びた。クロアチアのバイヤーは「我々も戦争を経験している。平和の時によくやっている会社は戦争の時も大丈夫だ」と勇気づけてくれた。   実はロシアにも工場があったが2015年にカナダの合弁会社に譲った。3月10日に残っていたもの全部をカナダの関係者に100ドルくらいで売った。ロシアに資産を持ったらいけないと思った。とにかく手放したかった。購入したカナダの関係者からは「これからの5年間、利益の5割をあなたたちが好きな方に回してもいい」と言われた。   友人はトレンドに敏感な女性の社長で、数年前に健康志向によってパンの消費が減り始めたことに気づき、イーストを他に利用する方法を考えてバイオビジネスにも進み始めていた。バイオテクノロジーの研究開発(R&D)部門も持っている。侵攻が始まった時、ターゲットになりやすいかもしれないので会社のウェブサイトを閉じた。そして密かに軍隊に寄付した。「1年に1回、イーストのひとつのブランドの売り上げの2割を軍隊に寄付する」と告げて、その春に400万~500万グリブナを寄付した。   侵攻が始まる1年前から新しい工場を建てるために建設費の半分を借金した。侵攻後数週間は工事が止まった。2022年の夏にオープンする計画だったので、3月半ばに工事再開を決めた。工事を止める意味がないと思った。ウクライナの将来を強く信じるし、それが会社の方針でもあるので続けることにした。2023年2月末のオープンが決まり、海外関係者を招いたが誰も来なかった。それでもオープンした。新しい工場が作っているものは2つある。   1つ目は日本の「味の素」みたいな調味料。イーストで出来たもので、うま味を自然に引き出す。最初の宣伝用商品は海外に送った。2022年秋には侵攻後最初の海外展示会でパリに行った。そこでは「ウクライナだから関わりたくない」という反応はなく、逆に「ウクライナ製」というブランドがプラスに働いた。もちろんブランド性だけでは長続きできず、商品の質が良くなければいけない。2015年から欧州連合(EU)内で関税がなくなっただけで、今回何か特別なものが得られたわけでもない。ヨーロッパでプロバイオティクスのイーストとイーストで出来た家畜用のサプリメントを売るためには許可が必要だが、それは既に取ってあった。新しい施設を作るために借りたお金も予定通りに返している。400人の従業員に給料も払い続けている。一人も辞めてない。ただ空襲警報によって仕事効率が落ちる。イーストは空気と接触したら発酵するので、時間通りにパッケージ化しないといけない。警報でシェルターへ降りないといけないので、それができない時もある。だがこの1年間、売上高もEBITDA(編者注:グローバル企業の業績や多国間の業績を比較・分析する際に用いる指標)も伸びた。   もう1つは家畜用のサプリメント。パンの売り上げが減った時に、いろいろ探して見つけたビジネスアイディアである。畜産業に目を向けて、イーストから鳥、豚、牛が自然に体重を増やすサプリメントを作った。今では国内だけではなく24カ国に輸出している。アジアにも販売網を広げようとしている。日本では北海道の農家に話を持っていこうと考えている。   20年前、ビジネスを拡大するために、イーストと似ている製造ラインで何をできるかと考え、ペットフードの会社も設立した。コロナ時代には、家に長時間居るのは寂しいし、散歩の理由が欲しいので犬や猫を飼う人が増えた。ペットフードの消費も増えた。2014年以降はロシアのメーカーがウクライナ市場からほぼ撤退したので、シェアを拡大するチャンスになった。設備投資、新技術の導入、新商品開発もしていたので大きく発展した。ペットフードを32カ国に売り、1300人の従業員が働いている大きな会社だ。   コロナの最中にリトアニアで大きな工場をオープンし、ウクライナからの輸出ではなく、EUで作って直接ヨーロッパ市場で売ることにした。動物に優しい食べ物と環境を作る会社のために努力し続けた。ペットの世話や心理を説明しているラジオ番組まで立ち上げていた。従業員は会社に飼い犬や猫を連れてくる。ウクライナ全国で「自分のペットを会社に連れて来よう」というキャンペーンもした。とても興味深いイノバティブな会社だ。戦争が始まった時、捨てられた犬や猫を会社に連れて来て世話をして、新しい飼い主探しまでしてあげた。   国内避難者が西ウクライナに多く来ているし、それまでは自分で犬の食事を作ってあげていた人も市販のペットフードを使うようになったので、ペットフードの売り上げが伸びた。戦争だから犬や猫も避難生活をしなければいけないので、かわいそうだと思う飼主が多い。もう少し良いものを買おうとするので、プレミアムセグメントの商品を増やし、米国やヨーロッパの国々にも輸出している。戦争の時も前向きで頑張っているこの兄弟からは見習うことが多い。   子供は海外にいる。時々会いに行く。「この状況下でビジネスをするのはどんな感じ?」と聞くと、「もう慣れた」という返事がくる。ミサイルもどちらから飛んできているか区別できるようになった。ベラルーシからドローンが飛んで来ている時と、カスピ海から飛んでくる危険物の区別は音でできるそうだ。「今どこから元気をもらっているの?」と聞くと、毎朝7時からジムかプールでパーソナルトレーナーと運動しているので、そこから元気をもらえるという。ピラテスと水泳をやっている。「家にもジムがあるのに、どうして?」と聞くと「シェルターとして使っている」と笑いながら言う。「一人で運動してもつまらないし」って。   一番大変だったのは、停電でインターネットが落ちた時だった。情報が入らない時は本当に不安になる。電池式ラジオを買って少し安心した。最初の数カ月間は読書や映画を見ることが全然できなかったが、今はネットフリックスで映画も見ている。小学生の子供も時々海外から遊びに来る。「ウクライナに居る時、子供はどんな感じで反応する?」と聞くと、「前と違ってぼんやりしてない。戦争だとわかっているので集中力が自然に上がる」という。   去年の10月にインフラをやられて停電が始まった時、非常に大きな2メガワットの発電機をトルコから買った。大きなトラックのサイズのもので、停電になっても工場の電気を保つ。   侵攻後初めて海外に出た時に、たまたま海の近くの街で、海岸沿いの通りに出ている喫茶店で、平和にリラックスしてほほ笑んでお酒を飲んでいる人々を見た時に大きなショックを受けた。辛かった。どうして自分の国は今苦しい目に遭わなければいけないのかと問い続けた。従業員から最初の9カ月間休みは要らないと言われて、休暇なしで働いた。最初に連休をもらって休んだのはクリスマスだったかもしれない。「アドレナリンで走っている」と分かっているので、自分の部下のことを、特に感情を出さない男性従業員のことを心配している。   <オリガ・ホメンコ Olga_KHOMENKO> オックスフォード大学日産研究所所属英国アカデミー研究員。キーウ生まれ。キーウ国立大学文学部卒業。東京大学大学院の地域文化研究科で博士号取得。2004年度渥美奨学生。歴史研究者・作家・コーディネーターやコンサルタントとして活動中。藤井悦子と共訳『現代ウクライナ短編集』(2005)、単著『ウクライナから愛をこめて』(2014)、『国境を超えたウクライナ人』(2022)を群像社から刊行。   ※留学生の活動を知っていただくためSGRAエッセイは通常、転載自由としていますが、オリガさんは文筆活動もしていますので、今回は転載をご遠慮ください。   ※昨年4月から毎月オリガさんにエッセイを執筆していただきましたが、この号をもって終了します。ご購読ありがとうございました。     2023年3月30日配信
  • 2023.03.09

    エッセイ734:オリガ・ホメンコ「ウクライナと日本」

    2022年はウクライナと日本の外交関係樹立30周年だった。まだコロナの最中だったので、私が教えていた大学では日本の有名な先生のオンライン講義を開催する予定だった。開会式を行い、最初の収録の朝にロシアの侵攻が始まった。慌てて講義をお願いしていた先生に電話をしてキャンセルした。私が「早く終わるように祈っています」と言うと、「これはさあ、長引くかもしれない」と言われてショックを受けて言葉が出なかった。あれから1年が過ぎ、戦争はまだ続いている。残念だが講義する場所がなくなり、無期延期となっている。   なぜそのような講義を企画したかというと、ウクライナ人にとっては、日本に行く機会はまだまだ少なく、日本に触れることもあまりない。侵攻が始まる前に、ウクライナ語で「日本」と「日本人」をグーグル検索すると、「美しい日本」、「観光名所」、「日本人と中国人の違い」などしか出てこなかった。ウクライナは独立してから留学や旅行に行く人が増えた。しかしながらせっかく外交関係30周年でも、残念なことにウクライナでは日本についての情報がまだまだ少なく、普通の日本人と接触した人も少ない。日本で修士や博士まで勉強できた私は多くの先生方を知っているので、オンライン講義によって本当の情報を学生たちに届けたいと思った。   初めて日本へ留学したのは1994年の春。初めての海外だった。友達は「最初はポーランド、その次はドイツ、その後はアメリカ、それから日本へ行くべきだ。真っすぐ日本に行ったらショックが大きすぎる」と笑いながら心配してくれたが、子どもの頃から版画や墨絵をたくさん見て、翻訳された日本文学の作品を読んだ私にとっては、学ぶべきことがたくさんあった。日本で勉強し、言葉、歴史、思想史、文化、国際政治など学んだことをウクライナに持ち帰りたいと思っていた。   1994年の夏にキエフに戻る時、とりあえず日本で食べた物をウクライナで作れないかと思って色々持ち帰った。その中に寿司の太巻きを作るセットとインスタントラーメンが何個かあった。友達を呼んでパーティをしたら皆不思議がって食べていた。今までの肉やじゃがいも中心の食事と全く違っていた。あれからほぼ30年が過ぎた。ウクライナにもいろいろな日本食が入ってきた。2000年に入るとキーウに寿司屋がたくさん増えた。24時間営業のファストフード系もあり、学生に人気だ。この数年間でラーメンの人気も出て会社員はお昼によく食べに行っていた。そして抹茶ラテがお洒落な喫茶店で出てくるようになった。昔のように「粉になっているお茶?信じられない!」と驚く人は、今は誰もいない。普通に飲んでいる。   しかしながらキーウで日本人が経営している日本料理店は2軒だけで、他は全部地元の人がやっている。ウクライナ人の日本料理への愛着が日本人より先に到着したとも言える。日本人の料理人や経営者は、日本食ブームの恩恵を生かすことができなかった。そして、日本にもその話題が届き、そろそろ日本からお店を出せる人が出てくる時に、ロシアの侵攻が始まったのでさらに不可能になった。   ウクライナ人の日本に対する思いについては深い歴史がある。ソ連時代からのウクライナでは日本文化への憧れがあって、1970年代から多くの日本の文学作品がウクライナ語に訳されていた。黒澤明の映画、坂本龍一や喜多郎の音楽、ソニーのテレビやウォークマンが人気だった。日本はロボットの国と思われていた。ある意味でソ連のオリエンタリズムに流されていた。このようなイメージを抱くのは40代半ば以上の世代だ。若い世代はやはり日本のポップカルチャーに育てられた。「たまごっち」や「ファービー」から始まり、漫画やアニメ、ポケモンなどの切り口で日本や日本語に興味を持つようになった若者が多い。   日本語を勉強できるところも増えた。キーウでは、10カ所以上の大学で日本語を主専攻や選択科目などで勉強できる。日本語学科に入る若者はほぼ全員アニメや漫画に興味があるので志望するが、日本語学習は難しいので3年生までに留学できなかったら専攻を変える人も多い。留学して卒業しても就職先がほとんどないのが現実である。商社や大使館は日本語ができる人を採用するが、キャリアアップできない。言葉ができるだけでは言語学者以外に何にもなれない時代になったが、それでも言葉の勉強に投資した日々を考えるともったいない。だが日本語を勉強する学生の多くは成績が優秀なので、日本語をあきらめても米国や欧州に留学し直して国際関係、経済、マーケティングを少し勉強して事業を始めたり外資系企業に入ったりして、かなりの成功につながった人もいる。だがそれには勇気が必要だ。両親や家族と強い絆を持つウクライナ人の若者の皆がそうなれるわけではない。   日本に留学した人には勇気がある。会社を起こしてウクライナと日本を貿易で繋ぐ人もいる。「ゼンマーケット」はその一つである。直接日本の店から多くの商品をオンラインで注文することができるようになった。ウクライナ独立後に「日本語」が増えたとも言える。芸者・リキシャ・着物の次に、漫画・アニメ・寿司・ラーメンが入ってきた。そして、最近興味を示しているのが、ビジネスに取り入れる「カイゼン」、日本のものの直し方「金継ぎ」、近藤マリの断捨離「こんまり」。   日本との交流は、この10年間で政治だけではなく文化、スポーツなどでも盛んになった。2012年の秋、外交関係20周年は国際交流基金の支援を受けて、キーウ、リビウ、ドネツクに日本の能楽師や裏千家などの茶人が訪れて大きなお祭りになった。それ以来、毎年秋に大使館では日本映画祭を開催し、宮崎駿の多くの作品が上映され、日本への関心はいつも高かった。   ウクライナの国営ウクルインフォルム通信社の日本語ホームページ編集者の平野隆氏をはじめウクライナ在住の日本人はウクライナ情報を日本で普及させることに大きく貢献している。また、ツイッターのおかげで、コロナ期でもウクライナと日本を近づけることができた。2021年1月、風邪をひいて退屈していたので、軽い気分でツイッターを始めた。ウクライナで春にパンの鳥を作る習慣について書いたら、一気に7千人のフォロワーが現れてびっくり。交流サイト(SNS)のすごい力を感じた。より広いオーディエンスに直接話せるという憧れはあるが、距離感が縮んで中毒的な影響もあるので注意を払って付き合うべきだと思う。   クリミア併合後、日本の首相が初めてウクライナを訪れ、多くの経済支援をいただいた。ロシア侵攻が始まってからは日本からたくさんのサポートや援助をいただき、日本への親近感が増えた。お互いの隣国であるロシアに対して複雑な気持ちも分かち合える。今までウクライナについて情報が少なかった日本でも、侵攻後に多くの情報が入るようになった。外交のリーダーとして歴史上初めて、ゼレンスキー大統領が日本の国会でオンラインで演説した。今まではありえなかったテレビのバラエティ―ショー、お昼の番組などでウクライナの話題が出るようになった。恐ろしいくらいの回数で。以前はウクライナについての番組は毎年数回しかなかったのに、今は毎月200件以上の番組の提案があるそうだ。   1990年代半ばには「どこからですか」と聞かれて「ウクライナ」と言ったら「ソ連ですか?ロシアですか?」、あるいは「ウルグアイですか」と聞き返された。2004年のオレンジ革命後は「西部ですか?それとも東部ですか?」と問い返された。2014年のマイダン革命以降は「ウクライナ」と言ったら「キーウ、クリミア、ドネツクですか?」と聞かれた。2022年2月以降は「キーウ州のブチャ、イルピンですか?またドニプロそれともハルキフですか」など、さらに細かい地位名が知られるようになった。世界中の人々のウクライナの地名について知識が一気に増えた。不幸の中のありがたい話ですが。。。本当は違う関係でウクライナのことを知ってほしかった。1000年の文化を持っていて、歌が綺麗で、豊かな自然に恵まれて、料理が美味しく、人々は優しくておもてなしが上手ということで知ってほしかった。   ウクライナでの戦争に対する日本政府の反応は速かった。日本は欧米ではない唯一の先進7カ国(G7)の一員としてウクライナを強く応援したことに気づく。侵攻直後の2022年4月の首相官邸ウェブページのニュースを見ると6回もウクライナ関係の会議が開かれ、そのうちの2回は首相の記者会見もあった。30年間の外交関係で一番多い。日本のウクライナ支援はマイダン革命とともに始まって、クリミア併合後に強くなった。2015年6月、安倍晋三首相が初めてウクライナを訪れた。私はその時に1000年以上の歴史を持つソフィア教会の案内を務めさせていただいた。 首相の到着が少し遅れたので、待っている間に昭恵夫人とお話をする機会があった。私の靴を褒めてくださったので、なんて優しい方なんだろうと思った。安倍首相は歴史の話をよく聞いてくださり、ほぼ同じ時代だが日本の木造建築である奈良の東大寺の方が少し早くできたことを指摘され感動した覚えがある。案内が終わってからもう一度ソフィア教会の祭壇の前に戻りたいと言われ、お一人で戻って静かに瞑想されていた。忙しいのに外国の文化に尊敬と理解がある方だと思った。首相が亡くなられたニュースを聞いた時には、ソフィア教会の礼拝台の前に立っていらっしゃった姿が目の前にしばらく浮かんで心が痛かった。   そしてロシアの侵攻以後、日本の支援は6億ユーロにのぼり、史上初めて自衛隊からの非軍事支援もあった。2000人以上の避難民を受け入れてくれて、そのために世界で最も厳しい日本のビザの基準を少し緩めた。キーウと姉妹都市の京都だけではなく、全国の都道府県でウクライナ人を受け入れた。ウクライナの大学生のために特別講座を作った大学も少なくなく、ウクライナ語の講座を開いた大学もある。今まで30年以上かけてウクライナの外交官が一生懸命進めていた文化交流はスピーディに動いたかのように見える。戦争がなくてもこのように発展してほしかったけれど。   NHKではウクライナ語のホームページができて、避難者のためになるさまざまな情報と共に、海外や国内のニュースをウクライナ語で提供し続けて、日本の文化や日本人を理解するために非常に役立っている。   今まではロシア文化やロシア人と思われていたウクライナのことが日本にやっときちんと伝わった。アナキーズムを日本に紹介した一人のレフ・メーチニコフ、また彼のお兄さんでノーベル賞も受けた生物学者イリヤ・メチニコフ、そして新宿の中村屋に支援していただいた目の不自由なワシリー・エロシェンコ、それから旅順要塞を守ろうとしたコンドラチェンコ司令官、また戦艦ミズーリで第2次世界大戦を終わらせるためにソ連側の代表として署名したクジマ・レデビャンコも皆ウクライナの人である。   日本とウクライナの交流は極東シベリアで始まったと言うこともできる。小作農制度から解放されたウクライナの農民たちは与えられた国内の土地に不満を持っていたので、ロシア帝国政府の極東開発プロジェクトの宣伝に乗って遠くに引っ越した。統計によって数字が違うが、1875年から1917年までにおそらく100万人ものウクライナ人が極東に移った。そしてロシア革命とともに自分の民族権利を強調するようになって、自分の自治体制「緑ウクライナ」を作ろうとした。ウクライナ語の新聞や学校も作り、1918年から1920年までの間に少なくとも4回、ウクライナ人の集会が開催された。「緑ウクライナ」憲法のドラフトも作った。本気で独立したかった。その時シベリアに出兵中の日本にも力を貸してもらいたかった。日本の外務省も20世紀初めの極東におけるウクライナ人の多さに気づき、報告書も出している。日本人は満州でもウクライナ語コミュニティーやウクライナ人が出していた新聞にも協力していた。お互いに隣にロシアがあるのでシェアする不安が多かったから。今回のウクライナへのロシアの侵攻の激しさを見て、日本人の頭の中に思い浮かんだことが想像できる。   今回、スピード感のある両国関係の深まりと相互理解と開花は不幸の中の小さい幸せである。この厳しい時代を乗り越えて、平和な状況の中でつながり続けることを期待している。   <オリガ・ホメンコ Olga_KHOMENKO> オックスフォード大学日産研究所所属英国アカデミー研究員。キーウ生まれ。キーウ国立大学文学部卒業。東京大学大学院の地域文化研究科で博士号取得。2004年度渥美奨学生。歴史研究者・作家・コーディネーターやコンサルタントとして活動中。藤井悦子と共訳『現代ウクライナ短編集』(2005)、単著『ウクライナから愛をこめて』(2014)、『国境を超えたウクライナ人』(2022)を群像社から刊行。   ※留学生の活動を知っていただくためSGRAエッセイは通常、転載自由としていますが、オリガさんは文筆活動もしていますので、今回は転載をご遠慮ください。     2023年3月9日配信
  • 2023.03.02

    エッセイ733:蒋薫誼「 “比較”から得たもの」

    今までの人生は絶えず北へ行く流れだった。島国である台湾において、唯一の海なし県である南投が私の故郷だ。南投は台湾の中心部にあり、有名な日月潭がある。ただ、観光地以外はあまり賑やかではなく、田舎のイメージが強い。私は南投県の小さな町、草屯で楽しい子供時代を過ごした。その後、優秀な学校に進学するため中学と高校は台中の進学校に、大学は台北のエリート校に進学した。ますます北へ、ますます都会へ。そして、現在ははるか北にあるもう一つの島国におり、国際的な大都市・東京で暮らしている。   東京で初めて雪を見て、その感動は今でも忘れない。湿度が極めて低くなると、肌が乾燥すると同時に、いろいろな健康問題が起こることを痛感し、初めて加湿器を使った。太陽が午後4時半頃に沈んでしまう冬の夜の長さに驚いた。異世界の迷路のような複雑な鉄道交通網を利用し、さまざまな国の方と出会うと、大都会に生きている実感が湧く。   私の研究対象である江戸儒学者の荻生徂徠は、父親が放逐されたため、田舎の南総(千葉県中部)で10代と20代前半を過ごした。江戸に戻った20代後半の徂徠は、その「南総体験」と目の前の繁華な江戸を対比し、人に対する「風俗」の影響力は莫大であり、人々は自分が生きている環境とそこから得た経験しか分からないため、識見が制限され、まさに「廓(くるわ)」に囲まれた状況にいることを悟った。そのため、徂徠は「廓」から出て、現在の「風俗」を相対化する能力の重要性を強調した。   居所がずっと変動していた私は、徂徠が言った「風俗」の違いと「廓」による制限を確実に感じている。さまざまな情報が自由かつ速やかに流通している現在でも、都会と田舎では暮らし方や人々の関心は違っている。そして、言うまでもなく、国の境を越えた後、文化・価値観などの違いは非常に大きい。   来日する前の日本に対する印象はごく単純、そしてシンプルなものばかり。例えば「食べ物は塩辛い」、「皆、礼儀正しい」など、台湾人の日本への一般的なイメージを共有していた。これらは間違っていないけれども、日本という国の複雑さを非常に乱暴な形で要約した結論だと思う。「塩辛い」は恐らくラーメンやとんかつなどのイメージだろう。しかし、日本の家庭料理は台湾より遙かに薄味であり、伝統的な日本料理も濃厚な味を追求していないと思う。また、礼儀正しさの半面、人間関係は一定の距離を取っており、建前と本音が分かりにくい場合がよくあると実感している。   日本で何年も生活して、日本の方々と付き合い、「他者」である日本を単純に理解してはいけないことが分かった。また、そこから「自己」である台湾のいろいろな事象を、より深く理解できるようになった気がする。例えば、私は日本の方から「台湾料理の特徴は何か」と聞かれて、初めてこの問題を考えた。ちなみに、その答えは「やはり甘い」だ。また、台湾では不作法な振る舞いがよく見られる。しかし、その反面は人情味溢れる社会と、「一致すること」を追求しない自由な雰囲気だ。   私が心得たことは、自己と他者の文化を比較する目的は、決して両者の優劣を下すためではないということだ。それは、自己と他者の実態を十分に分かった上で、他者を理解するために自己の特徴を以て他者を思索し、自己を認識するために他者の特徴から自己を対照する作業だと思う。これを通じて他者と自己を同時に「相対化」し、それぞれの「廓」から両者を解放することができる。これは居所がよく変わる私にとって非常に有益な心得であり、従事する思想史の比較研究にも役に立つ視点だ。   英語版はこちら   <蒋薫誼(しょう・くんぎ)CHIANG Hsun-yi> 2021年度渥美奨学生。台湾南投県出身。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程に在学中。東アジア思想史を専攻。江戸時代の徂徠学と清朝考証学との思想的な交流を研究。     2023年3月2日配信
  • 2023.02.23

    エッセイ732:李典「パートナーに支えられた留学生活」

    この春、7年間の博士課程でのトレーニングを終了し、新たな道を歩み出す。10年も留学で日本にいたことになるが、その間の出来事を振り返ってみたい。   初めて日本に来たのは6歳の時で、両親の仕事の都合で北京から大阪に引っ越し、2年間住むことになった。小学校の担任が私や両親とスムーズにコミュニケーションが取れるように中国語を勉強したり、クラスメートたちも親切に接したりしてくれて、日本を離れる時にまたいつか来たいと強く思ったのを覚えている。   再び日本に来たのは13年後の2011年春。東日本大震災の直後だった。生物学専攻の学部生の私は交換留学で横浜に1年間留学することになった。余震が絶えなかったので、ビクビクしながら初の海外での一人暮らしだったが、面白い授業や実習のおかげで充実した毎日を過ごした。当時指導していただいた先生の紹介で私がその後所属する研究室を訪ねる機会があり、運よく修士課程から受け入れてくれることになった。   北京の大学の学部を卒業し、2014年春、東京で新生活が始まったが、まさか9年間も慶應義塾大学にいることになるとは思ってもみなかった。修士課程はそれほど難しくなく、授業を受けながら残りの時間を実験に使った。チャレンジングなプロジェクトに入っていたが、順調に進んで結果も出始めた。実験手法を磨き、きれいなデータを出すのが楽しくて、2年間はあっという間に過ぎていった。   その後も学問を追求したいという思いから、迷うことなく博士課程に進学した。しかし、そこからさまざまな変化があった。実験がうまくいかず、プロジェクトが進まない。試行錯誤し続けても改善が見られない。実験などいろいろなことを教えてくれた仲の良い先輩たちが卒業していき、ライフワークバランスが崩れ始めた。学会発表でも研究について厳しく指摘され、追い討ちをかけられた。研究や対人関係で心細い思いをし、一時期はあまり動けず、朝布団から出られず、研究室に行けなくなってしまうまで調子を崩した。   そんな時に一番心の支えになってくれたのが夫だった。中国から駆けつけてくれて、私が立ち直るまで一緒にいてくれた。時間がかかったが、なんとか回復して、研究も方向を変えて新しいプロジェクトをゼロからスタートさせた。もう博士課程3年目だったが、余計なことを考えずもう一度研究を楽しもうと決心した。夫も中国での仕事を辞め、日本に来て博士課程に入り、同じ研究室で研究を始めた。   4年が経ち、この3月に私たちはようやくプロジェクトを完了し、博士号を取得する。この間はもちろん全てが順調ではなかったし、研究をしていると毎日のように問題に直面し、時には挫折する。そんな中でも心のバランスを保ち、困難を乗り越えていくには心の支えを持つことと、身の回りの些細なことに気を取られないことが重要だと知った。生活面での心の支えは一般的に家族になるのだが仕事面まで理解が得られない場合が多い。しかし、仕事面でのサポートも生活面と同じくらい重要だと感じている。私の場合、運良く生活でも仕事でも理解してくれるパートナーに出会えたことで困難を乗り越えられた。   もう一つ私にとって大事な心掛けは、些細なことに気を取られないようにし、日々の生活の中で余計なエネルギーを使わないことだ。一つの実験結果に一喜一憂していると時間もエネルギーも無駄になるし、ニュースや会員制交流サイト(SNS)の情報で落ち込んでいられない。感情的になるよりも論理的に物事を分析することのほうがよほど効率が良い。エネルギーを使いすぎてしまうと次の日がどうしてもしんどくなってしまうので、無駄な消費を抑えることが自分にとって一定のコンディションを保つ有効な方法だと感じている。たまに感情が薄いと言われることもあるが、それも気にしない。   ここまでこられたのは、大勢の方々からの助けがあったからこそで、恵まれていたと感じている。失敗も挫折も経験したが、それらに向き合ってきたからこそ成長できたと思う。感謝の気持ちを忘れずに、目の前のプロジェクトに挑み続けたい。   英語版はこちら   <李典(り・てん)LI Dian> 2021年度渥美財団奨学生。中国北京市出身。慶應義塾大学医学研究科博士課程在学中。哺乳類着床前初期胚発生時に、ゲノム中でとびまわる特殊なDNA配列の動態を研究。3月に博士号取得見込み。4月からは所属が変わり、アメリカ・ペンシルベニア大学で研究活動を継続する。     2023年2月23日配信
  • 2023.02.16

    エッセイ731:陳希「複数の故郷で生きる」

    日本に留学に来たのは2013年秋のことでした。もともと日本に留学したいと思っていたので、公募を知りすぐに応募したところ、運良く国費留学生として選ばれて都内の大学院で研究生活を始めることになりました。異なる言語に囲まれ、異なる言語で研究生活を送るのは決して簡単なことではありません。しかし、私は言葉の面で窮地に立たされた記憶がほとんどありません。理由として考えられるのは次の二つです。   一つは、留学する前に大学で日本語を学び、日本人の先生方や留学生たちとコミュニケーションを取った経験があるからです。おかげで比較的すんなりと日本社会に馴染むことができました。   もう一つは、小さい頃から中国・貴州省の中で学校を転々としていたことが挙げられます。同じ省とはいえ話される言葉はかなり異なっているので、最初に苦労するのは言葉でした。しかも、当時は共通語としての「普通話」(中国における民族共通語 )は今ほど普及していなかったため、日常生活はもちろん、教室の使用言語も方言が使われることが普通でした。子供であっても、現地の言葉に順応するのには時間と工夫が必要でした。   なぜなら、異なる方言を学ぶときには、発音、語彙、文法だけでなく、その方言の独特の表現法や現地の文化も合わせて学ばなくてならないからです。そうでなければ、現地の人々と真の意味でのコミュニーションは成立しがたいです。逆に言えば、異なる言語を学ぶことによって、自分がいままで知らなかった新しいものの考え方や文化を知ることができます。   何度も転校を繰り返して気づいたのは、言葉はコミュニケーションのための手段である以上の機能を持っているということでした。つまり、言葉を思想や文化と切り離して考えることができません。異なる言語を学ぶとは、その言語を用いる他者を知り、自分の世界を広げていくことでもある、ということを、子供の時になんとなく感じ取っていたようです。   この経験から「異なる道を歩み、異なる地に逃げて、異なる人々を探し出しにいく」(魯迅『吶喊・自序』)かのように、日本留学を選びました。幸いなことに日本で何人かの「異なる人々」と出会いました。「異なる人々」との協力と支えがあったからこそコロナ禍でも博士論文が書け、無事に学位を取得し、研究者としての第一歩を踏み出すことができました。   限られた時間と能力のなかでの執筆であり、史料の発掘、テクストの分析などに関しては十分であったとは思えませんし、別の観点、別の論点から考察を行うこともできたと思います。これらの反省は今後の課題です。   留学生活のなかで度々実感していたことの一つは、もう帰るべき故郷がないということです。幼年期と少年期は貴州で過ごしたので、大雑把に言えば故郷は貴州です。しかし、大学進学のために貴州から離れ、その後は天津で6年ほど、東京で8年ほど、と、ずっと遠く離れた所に住み続けてきました。いつのまにか故郷であるはずの貴州は、ほんの一時住んでいた土地の一つ、という程度でしかなくなりました。   しかし、これは不幸なことではないと思います。なぜなら、私は帰るべき故郷を喪失することによって、複数の故郷を手に入れることができたからです。   哲学者のジル・ドゥルーズと精神分析家のフェリックス・ガタリの共著に『千のプラトー』という本があります。この中で二人の思想家は、人間の言語、文化、性、そして人間そのものの歴史といったものは、決してひとつの原理によって成り立っているわけではないと述べています。つまり、人間は、さまざまな言語、文化、性、歴史によって生きている。ドゥルーズとガタリはこのような「多数性」あるいは「複数性」の原理を提唱しています。   「複数性」の原理は、人間には多様性があるといった単純な事実を掲げるだけではなく、世界を変える可能性をもはらんでいる、と多くの研究者は考えています。私もそう信じています。今後、私は単に「お客さん」としてではなく、一定の責任を持った立場で「複数の故郷で生きる」ことを実践し続けていきたいと思います。   英語版はこちら   <陳希(チン・キ)CHEN Xi> 中国貴州省生まれ。2013年に文部科学省国費留学生として来日。2021年度渥美財団奨学生。中国近現代史を専攻、2022年3月に東京大学大学院地域文化研究専攻にて博士(学術)学位取得。現在、東京大学東アジア藝文書院特任研究員、津田塾大学非常勤講師。2022年度太田勝洪中国学術研究賞を受賞。     2023年2月16日配信  
  • 2023.02.09

    エッセイ730:王杏芳「光陰矢の如し」

    日本に来て4年半が過ぎた。時間が存在するかどうかはさておき、「ある時刻とある時刻との間の長さ」の意味で時間を理解する。こうした理解では、4年半の期間は決して短くはないが、あっという間である。光陰矢の如し。しかし、振り返ってみると、子供の時代はそうではなかった。時間がより長く感じられた。いや、まるで無限で永遠に終わらないように。しかし、年をとるにつれて、月日の流れの速さをますます強く感じるようになってきた。無論、これは私個人だけの感想ではない。多くの人に共通する感覚であろう。年を重ねるごとに時間が早く感じられるのはなぜか、その原因についてはさまざまな研究と調査があるが、ここでは省く。それより、時間の流れを強く感じている私自身の感想を述べてみたい。   子供の時に覚えた「子在川上曰、『逝者如斯夫、不舎昼夜』」(『論語』子罕第九)という孔子の感慨に、ここ数年、ようやく共感を持てるようになった気がする。孔子が川のほとりに立って言う。「歳月はこの川の流れのように去っていくものだ。昼となく夜となく、休むことはない」。それはいつでも奇麗な現代語に訳することができる。そして、この言葉の意味はよく理解できる、とずっと思っていた。確かに、言葉の表面的な意味はそうだった。しかしここ数年、時間の止まらない、特にその速さに驚き、文字の意味を自身の経験を通して体得するようになった。それと同時に、恐れ及び怖いという感覚も生じてきた。生命が徐々に消えてなくなることに対する恐れ、及び怠けが怖くなる気持ち。人間はなぜ命を失う死を恐れるのか、ここでは議論しない。それより、後者に注目してみたい。つまり、人間が時間を無駄にする怠けが怖くなるのはなぜか。さらに言えば、怠けたらなぜいけないのか、ということに関心を持つようになった。   怠けの話というと、『論語』公冶長篇の孔子が宰予を叱るあの有名な段落がすぐに思い出されるだろう。「宰予昼寢。子曰、『朽木不可雕也、糞土之牆不可朽也。於予與何誅』」と。宰予とは孔子の高弟の一人である。彼が昼寝をしていた。これに対して、孔子は「朽ちた木に彫刻はできない。土がぼろぼろに腐った土塀には上塗りをしてもだめだ。お前のような怠け者を責めても何ともしようがない」と言った。昼寝ぐらいでどうしてこんなに叱られるのだろうか。理由について昔から諸説あったが、それはそれとして、ここでは「怠け」についての理解に留める。   なるほど、孔子は怠けを批判していた。しかし、なぜ批判すべきなのか。前文の「川上之嘆」に、回答が潜んでいる。確かにそれは時の流れを感じる言葉だが、同時に川は休みなく流れ、万物は止まることなく変化するように、人間である我々も日夜努力しなければならないという意味にも読み取れるだろう。また、『周易』にも同じ趣旨の言葉が見られる。例えばあの有名な「天行健。君子以自強不息」。天の運行は現在に至るまで、ずっと休みなく健やかであるように、君子たるものも、この健やかな天の運行を範とし、自ら努め励み、怠けることなく奮励しなければならない、と。   天が健やかで休みなく運行し、万物が止まることなく変化する。自然としての人間である以上、それに従い、永遠に努力しなければならない。これは儒学の人間が怠けてはいけない理由になるだろう。魅力的な答えだと思う。   ちなみに、その答えを探すために、ネットで検索したり、周りの友達にもいろいろ聞いてみたりした。回答は一様ではないが、「怠けるのは別に悪くない」ということは通説である。なぜかというと、怠けるか怠けないかは個人次第でその人の自由であるからだ。   天にその根源があるか自己決定するか、そこにはまた伝統と近代との区別が見られる。   英語版はこちら   <王杏芳(おう・きょうほう)WANG Xingfang> 2021年度渥美奨学生。中国江西省出身。東京大学大学院法学政治学研究科博士課程に在学中。日本政治思想史を専攻。     2023年2月9日配信
  • 2023.02.02

    エッセイ729:李貞善「異国で花咲いた私の『発電所』」

    2023年の年明けに韓国のユン・ソンニョル(尹錫悦)大統領がアラブ首長国連邦(UAE)を訪問した。1980年の国交正常化後、韓国首脳のUAE国賓訪問は今回が初めてで、韓国・UAEの友好増進とともに、さらなる経済協力を図るためである。尹大統領と経済使節団が足を運んだのは、韓国電力公社が率いる共同事業体(以降、KEPCOコンソーシアム)が2009年12月に受注し、建設・運営しているバラカ(Barakah)原子力発電所の現場だった。   私の目を引いたのは、尹大統領がバラカ原発で韓国電力公社の社員たちと一緒に撮影した1枚の写真だ。大統領の後ろには、10年前に私と一緒に勤務した上司が立っていた。その隣にも、私の同僚だった人が特有の表情で誇らしげにほほえんでいる。   韓国電力公社は、2015年に日本に留学する前に11年間勤務した元職場。2003年から2014年まで事務職正規社員として清州(チョンジュ)とソウル本社で働いたが、2009年にUAEのバラカ原発4機を受注する事業の一員になった。約1年間、「War_Room」と呼ばれる本社の地下で、同僚と一致団結してプロジェクトに専念した。少し(大分)誇張すると、映画「パラサイト」の地下室を連想させる極秘の空間で。   忍耐の過程を経てKEPCOコンソーシアムは、日米連合やフランス連合などの有力な競合他社に打ち勝って約400億ドル(約5兆2千億円)規模の受注に成功した。韓国で12月27日が祝日(原子力安全及び振興の日)に制定されたのも、KEPCOコンソーシアムが2009年のこの日にUAEの最終事業者に選定されたことに由来する。これは、韓国史上最大規模の海外受注になっており、今もその記録は越えられていない。   受注に成功した後も、退職する2014年末までこのバラカ原発建設プロジェクトで事務業務を担当した。人事、総務、財務、送金、機密契約書管理など、多岐にわたる業務で、私の30代のバイオグラフィーに達成感と煩悩と、笑いと涙の強烈な痕跡を残した。   遠回りして日本に留学した初期には、自分が研究者としてもう遅いのではないかと不安だった。しかし、博士学位取得を目の前にしている今、導き出した結論は、あの11年間の社会経験が研究にも貴重な資産になり、むしろ今の私を精力的に動かす「発電所(発展所)」にもなり続けているということである。事業報告書の作成、多岐にわたる資料の分析、プレゼンテーションの担当、海外からの重要人物(VIP)リエゾン担当者としての業務連携、約束の順守、異文化理解、業務倫理の厳守、前向きな態度など… 振り返ってみたらこれらの経験は、どんな難関にも常に適応能力(レジリエンス)を持たせて明日に進展させる動力源になったのである。   UAEの発電所は2014年末に私の人生で停止したが、それ以降私は日本で別の形の「発電所」を10年近く稼働してきている。まずは未熟ながら書きたての博士論文が、丹精を込めて築き上げた「発電所第一号機」になるだろう。2023年年明けに、砂漠で蒔いた種がバラカ原発に実った様子を遠くから凝視しながら感無量に思うと同時に、今の私の「発電所」を確かめてみる。   原発建設は通常5~10年ほど工期の遅れが発生する。他方で、KEPCOコンソーシアムは数多くの悪条件を乗り越え、約束した期日と予算内で工事を成功裏に終えた。冒頭で述べた尹大統領のUAE訪問を機に、韓国側がUAEから300億ドル(約4兆円)の追加投資の約束を取り付けたのも、KEPCOコンソーシアムのそのような工期厳守と事業への徹底したミッションがUAEに認められた結果である。これから私も、独自の観点とペース、温度、スタイルで、異国で私ならではの「発電所」を稼働していこうと考える。学位取得以降の次のステージに向かって、今後も2、3号機の新たな「発電所」を前向きに受注・建設していきたい。   私にとっては永遠の未完成品として残っているバラカ原発。あの発電所を見事に完成してくれた元職場の同僚たちにも、そして自分の土壌で各自の「発電所」を稼働している世界中のラクーン(渥美奨学生)たちにも、熱い応援の拍手を送る。   英語版はこちら   <李貞善(イ・ジョンソン)LEE Chung-sun> 東京大学大学院人文社会系研究科博士課程に在学中。2021年度渥美奨学生。高麗大学卒業後、韓国電力公社在職中に労使協力増進優秀社員の社長賞1等級を受賞。2015年来日以来、2017年国際建築家連合等、様々な論文コンクールで受賞。大韓民国国防部・軍史編纂研究所が発刊する『軍史』を始め、国連教育科学文化機関(ユネスコ)関連の国際学術会議で研究成果を発表。2018年日本の世界遺産検定で最高レベルであるマイスターを取得。     2023年2月2日配信
  • 2023.01.26

    エッセイ728:オリガ・ホメンコ「美術で表現する戦争と人の気持ち」

    ウクライナは昔から美術の強い伝統を持っている。口に出せない時も美術で表現していた時代が少なくない。口に出さなくても美術的な表現で会話できるから。その中でも特に美術が開花していた時代が、例えばロシア革命後から1930年代まで。ミハイロ・ボイチュック(1882-1937)を中心に多くのアーティストが育った。ウクライナの画家はベネチア・ビエンナーレにも参加し、1928年には17枚、1930年には15枚の絵を出展、ソ連の他の共和国よりずっと多かった。だが1930年代のスターリンの圧政で多くのアーティストが亡くなり、出展も止まった。   数年前にキーウのウクライナ国立美術館で、この時代の美術展をやっていたことを思い出す。スターリンは弾圧したアーティストの絵を集めて破棄する予定だったが、誰かが隠して守ってくれた。絵は普通に奇麗だったが、キャンバスの裏にも描かれていたもう一つの絵が印象的だった。ある風景画の裏側には秘密警察などを統括する内務人民委員部(NKVD/KGB)の軍人か公安のブーツだけが描かれており、その時代の怖さを感じた。   2014年にクリミアがロシアに併合され、ウクライナ東部で戦争が始まった時、東部出身のアーティストたちがすぐにそれを表現するようになった。2014年の秋にキーウのピンチック現代美術館で開催されていたジャンナ・カディーロワの作品はとても印象的だった。レンガでできているウクライナの地図があり、クリミアは床に崩れ落ちていた。美術の力はすごいと改めて気づいた。   2014年のマイダン革命からキーウの街にグラフィティが増えた。闘争の場となっていたフルーシェフスキー広場の近くの科学アカデミーの建物に描かれた、ウクライナの19世紀の国民的詩人タラス・シェフチェンコや同時代の詩人イワン・フランコとレーシャ・ウクラインカの肖像画がとても印象的だった。バンダナをつけたり、マスクをかけたり、戦う現在の人として表現されていた。そしてシェフチェンコの絵に彼の言葉「燃えている人に火は危なくない」、フランコの顔には彼の言葉「我々の人生は戦争である」、レーシャ・ウクラインカには彼女の言葉で「自分を自由にさせた人は、いつまでも自由になる」と書いてある。それを見て、やはりウクライナ人にとっては、19世紀にウクライナ語や文化が禁止されていたことがまだまだ生々しく、マイダン革命とリンクされると感じた。革命の後、キーウの建物に壁画(以下、ムラール)が現れ始めた。そしてこの8年間で非常に増えた。ベリーカ・ワシリキフスカ通り29番には、1918年にウクライナが最初に独立した時の大統領で歴史家のミハイロー・フルシェフスキーイ、また最後の軍司令官のパフロー・スコロパロドツキ、その時代の軍事委員長シーモン・ペトリューラなど歴史的な人物や19世紀の女性詩人レーシャ・ウクラインカが描かれている。   文化や昔話をテーマにするムラールも増えた。アンドリーイ坂にはウクライナ人とフランス人のアーティストのコラボによる「復活」というタイトルの作品がある。民族衣装を着て花輪を頭に飾っている少女が華やかで印象的だ。雨に濡れて色が薄くなったら書き直すという。保守的な人たちは「建物をきちんと修理しないで古さを隠してしまう」とムラールアートを結構批判している。だがソフィアでは1000年前から壁画が描かれていたことが知られており、キーウにもこの文化が昔からあって、時代と共に進化して建物壁の全体に広げていったということも考えられる。最近はさらに増え続け、街の名所にもなり、キーウの「顔」を少しずつ変えることになった。   そして、2月24日の前にウクライナのイラストレーターは少しずつ不安を感じるポスターを作り始めていた。今でもよく覚えているのは、リボン付きのチューリップのブーケに手榴弾がぶら下がっていて「占領者を花で迎えるのではない」と書いてあった。   侵攻が始まってしばらくは、アーティストたちも他の市民と同じようにフリーズしていた。皆まさかと思っていたのだろう。少し時間が経つといろいろな人の作品が現れるようになった。侵攻後のイラストアートが非常に盛んになって、人々の勇気を盛り上げた。3月初めの英紙The_Guardianには色使いがとても鮮やかで、海外でも戦前から知られているセルギーイ・マイドゥコフ(インスタグラムで「sergiymaidukov」参照)の戦争関係のイラストが掲載された。オレクサンデール・グレーホフ(同「unicornandwine」参照)は詩人のシェフチェンコのキャラクターを現代風の軍人に書いた。彼のイラストは明るい色使いで独特なユーモアがある。インスタグラムで作品を購入でき、一部が軍隊に寄付される。そして画家のオレーナ・パフロワが作った頭が良くていたずらっ子の猫の「イチジクくん」もウクライナの人々を勇気づけている(同「kit_inzhyr」参照)。   キーウには新しいムラールが増えた。戦争関係のものが多い。2022年5月にアントノワ通り13番に聖ジャウェリーナが描かれたが、教会関係者からクレームがあったのでトライデント(三叉槍)があるニンバズ(競走馬)を消した。爆弾を見つけて有名になったチェルニヒフ非常事態省に勤務している犬のパトロンのムラールも現れた。去年の夏には、伝説的な存在になった軍隊のパイロットで「キーウの幽霊」というニックネームの人のムラールが現れた。そして11月にバンクシーを名乗る英国のストリートアートのグループが、独立広場に瓦礫でシーソー遊びをする「戦争中の子供達」を描いた。イルピーンでは新体操をする女の子の絵だ。   有名なアーティスト同様、市民も最初の数週間は「どうして?なんで襲われたのだろう?」という質問が頭から離れず沈黙していたが、少し気持ちを整えてから落書き程度の絵日記を書く人が増えた。その日記や絵は非常に大事な意味があると思う。なぜなら戦争が終わってもその記録は残って、暗い時代の中でも人々が生き延びていた証拠になるから。私もその一人である。   2022年10月からミサイル攻撃が増えてウクライナで停電の繰り返しになった時、知り合いの子供が黒い紙に白い鉛筆で描きたいと両親に頼んだ。理由を聞くと、やはり今の状況を表現するのに一番いいとの返事だった。8歳のハルキフ市出身のジェーニャはハルキフ州内に避難し、半年以上過ごしていた。都会っ子で田舎生活は初めてだったので動物や植物にたくさん触れて絵を描き続けてきた。停電になると一瞬で絵のスタイルが変わった。風景は一緒だが、電気と一緒に色が絵から消え急に白黒になった。このような表現の仕方もある。   友達の写真家はこの10年近くウクライナの有名アーティストの写真を撮っていた。しかし戦争になってから避難先で避難者の写真を撮り始めた。戦争の大変さは人の顔で表現できるからだ。   今回、西ウクライナにたくさんの人が移動したが、イワノ・フランキフスク州の劇場は1日も活動を中止しなかった。逆に、俳優たちは昼と夜で2倍仕事をすることになった。昼間は支援物資を集めて避難者に配る作業、夜は通常通りの劇場活動。劇場には毎日2回行列ができていた。昼間は支援物資を受け取るために、夜は劇を見るために。上演中に空爆があったので舞台を地下室に移動し、そこで空襲中にも続けていた。戦争中には劇場が自然にシェルターとして使われており、地下室で劇をやっている最中に空爆から避難してくる人もたくさんいた。2022年2月から4月までに500人も入っていたという話もある。戦争になってから1年近くになるが、新しい劇も出している。その中で、ウクライナの19世紀の詩人レーシャ・ウクラインカの「森の歌」を現代風にアレンジしたものが特に評判が良い。   海外でもこの1年間、ウクライナ美術展が増えた。特に印象的だったのが2023年1月にマドリードで開催されたウクライナの1900年から1930年の間のモダニズム美術展だ。今までの美術との連続性が見えるウクライナ美術の社会との関わりや、鮮やかな色を昔から使うのを好んでいたことを知った。そしてスターリン政権に殺された多くのウクライナのアーティストの運命を考えて悲しかった。生きていればどれだけウクライナ美術が開花していたでしょう。   この1年間ウクライナで空爆され、破壊された素朴画で有名なマリア・プリマチェンコの美術館、哲学者のフリホーリーイ・スコヲロダーの博物館、そして10月のミサイル攻撃で被害を受けたキーウのハネンコ美術館のことを考えると、ウクライナ人の自由で豊かな表現の仕方への妬みがあり、1930年代の圧政時代と変な連続性があるように思える。   <オリガ・ホメンコ Olga_KHOMENKO> オックスフォード大学日産研究所所属英国アカデミー研究員。キーウ生まれ。キーウ国立大学文学部卒業。東京大学大学院の地域文化研究科で博士号取得。2004年度渥美奨学生。歴史研究者・作家・コーディネーターやコンサルタントとして活動中。藤井悦子と共訳『現代ウクライナ短編集』(2005)、単著『ウクライナから愛をこめて』(2014)、『国境を超えたウクライナ人』(2022)を群像社から刊行。   ※留学生の活動を知っていただくためSGRAエッセイは通常、転載自由としていますが、オリガさんは日本で文筆活動を目指しておりますので、今回は転載をご遠慮ください。     2023年1月26日配信
  • 2023.01.06

    エッセイ727:オリガ・ホメンコ「移民史、戦争、避難民」

    7、8年前から極東アジアにおけるウクライナ人運動史、移民史を研究している。ウクライナや米国、日本の資料館で調べながら1870年から1945年までウクライナ人がアジアでどのように暮らし、文化活動をしていたかに注目した。特にコロナ禍の間、米国で集めた資料をキーウで改めて読みながら、身分証明書もなく、移民先で色々ひどい目にあった人々の苦しみを感じていた。2022年2月24日のロシアの軍事侵攻後、まさか自分の研究テーマが私自身の現実になるとは夢にも思っていなかった。避難先の警察へ行き、指紋を取られて新しい身分証明書の発行を申し込んだ。研究者としての身分と自尊を取り戻すために必死だった。色々言われたりひどい目にあったりしたこともあった。研究で知ったことを、今度は自分の肌で感じることになった。   1945年の上海で難民が食料券をもらう際には家庭訪問があった。家に猫がいると「お金持ち」とみなされてもらえなかった。今年の春、犬や猫を連れて避難するウクライナ人が多かった。そうすると、住むところがなかなか見つからない。やはり「お金持ち」とみなされたこともあったようだ。この歴史的な関連を不思議に思った。動物は家族の一員で捨てられないというウクライナ人が多いが、周りの圧力に負けて手放した人もいる。   ウクライナから海外への移民の波はこれまで4回あった。目的はさまざまだ。第1波は1870年代半ばから第1次世界大戦まで。西ウクライナからの農民や労働者がカナダ、米国、そしてブラジルへ出稼ぎに出かけた。小作制度が廃止された結果、極東開発のために移動する人も少なくなかった。オーストラリアやニュージランド、ハワイに移動した人もいた。   第2波は第1次世界大戦と第2次世界大戦の間に社会的政治的な理由で人が動いた。ソ連政権の下にいたくない人が移動したと言っても良いかもしれない。ポーランドやチェコ、ルーマニア、フランス、ドイツ、米国、カナダなどに行った。   第3波は第2次世界大戦が終わった時に始まった。難民キャンプの元軍人、ナチスによって無理矢理に肉体労働のためにドイツに連れて行かれた人たち、戦争で難民になった人々など。この人たちは米国やカナダ、ブラジル、アルゼンチン、オーストラリアなどに移動した。この時アジアにいたウクライナ人ディアスポラも米国や南米の国々、オーストラリアへ動いた。   ソ連崩壊の頃には経済的な理由で第4波があった。その時に特に西ウクライナから米国やヨーロッパ(女性はヘルパーやベビーシッターで、男性は建設労働者として、行き先はポーランドやポルトガル、イタリアなど)、ロシアに多くの出稼ぎ労働者が出かけた。2014年にクリミア併合や東部で始まった戦争で、またポーランドや他の国に移民した人も少なくないが、それは特別な「波」とはされていない。   今回の軍事侵攻があってから「5回目の移民の波になった」と研究者が指摘し始めた。統計がまだまだ確実ではないが、2月以来1200万人が国外に出たという。戦争が長引くとこの中のどれくらいの人が帰ってくるか誰にも分からない。いずれにせよ人口4600万人のウクライナにとって大きな人災であることは間違いない。今回海外で避難民になったウクライナ人は、それ以前に移民した人たちと全く同じ経験をしている。持ち物はほとんどなく、身分証明書類もきちんとしてなくて、子供や動物を抱えて新しい住居を必死に探す。言葉の壁もあって新しい社会に溶け込むのに時間がかかるので、取りあえずウクライナ人コミュニティで固まることも多い。交流サイト(SNS)が進んでいる時代なので、新しい町で簡単につながって情報交換し、「歌う会」、「靴下を編む会」、そして「避難民や軍人を支援するボラティアの会」にまとまる。   海外に避難したのはほとんど女性と子供なので「女性の会」が多い。「ウクライナ女性はきれいな身なりをしているので避難民に見えない」という意見も聞いた。イタリアのロケから戻ってきた日本人の友達が、ローマでタクシーの運転手に言われたそうだ。服装や美容に力を入れているので「今まで見てきた避難民には見えない」と。コロナの3年間で皆、運動着姿になってしまっても、化粧もするし服装にもそれなりに注意を払っている。あまり私物が持てなかったソ連時代には、外に出かける時に服装で判断されることが多かったのでドレスアップしていた。   それを聞いた時、別の日本の知り合いから聞いた話を思い出した。キーウに格好良い若い社長が滞在していた。ヘアスタイルや服装を揃えて男性誌に出るモデルのような人だった。聞いてみると、小さい時に経済的にあまり恵まれなかったので「だらしない」と言われないように気をつけるようになったという。人って過去のトラウマから色々な生活習慣が生まれるのだ。ヨーロッパの避難所に所持品はほとんどないのにルイ・ヴィトンの鞄を持っていた女性がいたので受け入れ先の関係者が驚いたという。国によってドレスアップとドレスダウンするところがある。狙われないように南米では逆の見方があるということを、2016年にブラジルに行った時に初めて気づいた。   10年以上前から知っている2人のイギリスの友達の家族が実は避難民だった、と今回初めて知った。1人のお父さんは1950年代にエジプトから避難、もう1人のお爺さんはユダヤ系で20世紀初めに移ってきた。それまで一度もそのような話をすることがなかったが、今回の軍事侵攻でその記憶が戻ってきたようだ。「知らない人が私達を助けてくれた。そのお返しをしたいのでウクライナの家族を受け入れた」とも言っている。受け入れたウクライナ人は全く知らない人だったが、数カ月間で仕事も見つけて無事に自分の家も借りられたので、そのイギリス人の「ウクライナ株」も上がった。ありがたい話です。   しかしながら、外国の生活や他人の家に慣れることができず、なかなか新しい言葉を学べず、社会的地位が変わったので自分のアイデンティティーに危機を迎え、ウクライナに戻る人も少なくない。旦那がウクライナに残ったので家族で合流したいという理由も大きい。そんな時に子供の意見もよく聞く。母親だとやはりどうしても子供を守りたくて、子供を優先する。ドイツに避難した子供から話を聞いたことがある。「ハルキフに帰りたいが、攻撃が怖いから帰りたくない」「パパを大好きだがママは離れてほしくない」「ドイツの学校で友達もできた」「ママやおばあちゃんもやはり残るって」。複雑だがなんとなく分かる。この人たちが以前の移民たちと同じように自分のウクライナ人としてのアイデンティティーを少なくとも生活習慣や文化活動で守り続けるか、受け入れ国の社会に溶け込んでしまうかはまだ分からない。   友達のお母さんがドイツで泊まっているアパートの住人は掲示板にメッセージを貼ってくれた。「ドイツ語を話せないフラウ(夫人)がいるので、困った時には助けてあげてください」と。それで皆親切にしてあげる気になったようだ。避難民と受け入れる人々のこのような小さな交流が、受け入れてくれた社会になじんでいくきっかけとなるのだろう。   この1年でさまざまな人に会った。パレスティナの避難民にも会ったことがある。避難生活7年目と15年目の家族だった。7年目の人たちは子供がたくさんの言葉を話すことができ、人に優しくていろいろ手伝おうとしていた。15年目の人は子供の避難経験を思い出すと泣き出してしまうが、それ以外は特別に陽気だった。共通の友達に「避難してきた家族の経験は皆同じように過酷なものですが、きっと人に落ち込んだ気持ちを見せたらいけないと考えているのでしょう」と言われた。どうでしょうね。でもそうなのかもしれない。最初は落ち込んでいる人を助けようとするけど、それが続くと支援する側もマイナイス思考に疲れて離れるかもしれない。海外に避難したウクライナ人が強気で陽気で行くか、戦争から受けたトラウマでしばらくマイナス思考になるか分からないけど、受け入れてくれることを祈る。   <オリガ・ホメンコ Olga_KHOMENKO> オックスフォード大学日産研究所所属英国アカデミー研究員。キーウ生まれ。キーウ国立大学文学部卒業。東京大学大学院の地域文化研究科で博士号取得。2004年度渥美奨学生。歴史研究者・作家・コーディネーターやコンサルタントとして活動中。藤井悦子と共訳『現代ウクライナ短編集』(2005)、単著『ウクライナから愛をこめて』(2014)、『国境を超えたウクライナ人』(2022)を群像社から刊行。   ※留学生の活動を知っていただくためSGRAエッセイは通常、転載自由としていますが、オリガさんは文筆活動もしていますので、今回は転載をご遠慮ください。       2023年1月6日配信  
  • 2022.12.16

    エッセイ726:ボルジギン・フスレ「ウランバートル・レポート2022年秋」

    2022年は日本・モンゴル外交関係樹立50周年だった。半世紀の日モ交流の成果を振り返り、同時に北東アジア各国の国際関係の現状や課題を総括し、ユーラシアの眼差しから日モ両国の関係がどのようなプロセスをへて構築されたか、どのように構築していくべきかなどをめぐって議論を展開することは、大きな意義を持つ。第15回ウランバートル国際シンポジウムはこの課題に応えるものであった。   9月3~4日、日本・モンゴル外交関係樹立50周年記念事業である第15回ウランバートル国際シンポジウム「日本・モンゴル ―ユーラシアからの眼差し」がモンゴル国立大学2号館203室で開催され、160名ほど研究者、学生等が参加した。昭和女子大学国際文化研究所と渥美国際交流財団関口グローバル研究会(SGRA)、モンゴル国立大学科学カレッジ人文科学系アジア研究学科の共同主催で、渥美国際交流財団、昭和女子大学、モンゴルの歴史と文化研究会、「バルガの遺産」協会から後援を、麒麟山酒造株式会社、ユジ・エネルジ有限会社から協賛を頂いた。   モンゴル国立大学科学カレッジ人文科学系アジア研究学科長Sh.エグシグ(Sh.Egshig)氏が開会の辞を述べ、モンゴル国駐箚日本国特命全権大使小林弘之氏(在モンゴル日本国参事官菊間茂氏代読)、モンゴル国立大学学長B.オチルホヤグ(B.Ochirkhuyag)氏、渥美国際交流財団事務局長角田英一氏、モンゴル国立大学科学カレッジ副学院長N.アルタントグス(N.Altantugs)氏が祝辞を述べた。その後、2日間にわたり、前在モンゴル日本大使清水武則氏、モンゴル科学アカデミー会員・前在キューバモンゴル大使Ts.バトバヤル(Ts.Batbayar)氏、一橋大学名誉教授田中克彦氏、ウランバートル大学教授D.ツェデブ(D.Tsedev)氏、東京外国語大学名誉教授二木博史氏、大谷大学教授松川節氏、モンゴル国立大学教授J.オランゴア(J.Urangua)氏などをはじめ、日本、モンゴルの研究者32名(共同発表も含む)により、21本の報告をおこなった。ウランバートル国際シンポジウムに初参加の角田氏はたいへん注目され、歓迎された。   シンポジウムはモンゴルの『ソヨンボ』『オラーン・オドホン』などの新聞により報道された。日本では『日本モンゴル学会紀要』第53号などが紹介する予定である。シンポジウムを終えて、9月5日午後から24日にかけて、私は「“チンギス・ハーンの長城”に関する国際共同研究基盤の創成」と「匈奴帝国の単于庭と龍城に関する国際共同研究」の研究プロジェクトでボルガン県、アルハンガイ県、ウムヌゴビ県、ヘンティ県などに行き、現地調査を実施した。その詳細も別稿にゆずり、ここでは番外編エピソードを紹介したい。   9月4日午後のエクスカーションで、海外からの参加者はトゥブ県のチンギス・ハーン騎馬像テーマパークを見学した。そこで予想もつかぬ「出来事」が起きた。ウランバートルから1時間半ほどの旅を経て、私たちのバスは目的地のテーマパークに着いた。88歳のK先生がバスを降りたとたん、ズボンのベルトをはずし、急いで近くの木に歩いていき、小便をしようとした。 「先生、白昼堂々とこんなところで…やめたほうがいい。罰金取られるよ。(テーマパークの)中にはお手洗いがあるから」と私は阻止しようとした。 しかし、K先生は「モンゴルでは大丈夫。もう我慢できない」と言いながら、木の下で用を足した。するとすぐ管理人らしい中年の男が走って来て、怒って止めようとした。   その後、みんなで記念写真を撮ってから、巨大なチンギス・ハーン騎馬像(建物)に入った。約1時間の見学を終えて、私たちが騎馬像から出ると、中年の女性 ―テーマパークの支配人が待っていた。「あなたたちの代表は誰ですか」と聞かれたので、「何かありましたか」と尋ねた。 「あなたたちのなかの1人がこのテーマパークの芝生で小便をした。罰金です。防犯カメラにちゃんと写っている」と支配人は言う。 「いくらですか」と聞いた。 「10万トゥグリグ(約4000円)」。 私はK先生に「どうしよう。やはり罰金です。10万トゥグリグ」と言った。 「10万トゥグリグ?高いね。ね、あの人に、 僕はそこで半分しかおしっこしなかった。だって、あのおじさんに阻止されたから。だから、半額にしてくれないか”と交渉してみて」と頼まれた。 言われた通り、女性支配人に説明した。 「半額?無理。半分したにしろ、全部したにしろ、おしっこしたことは事実でしょう。どれほどしたかとは関係ない。割引はできないよ」と、戸惑った支配人は厳しく言った。 K先生は「おかしいな。半分しかしなかったのに、なぜ全額を支払うか。納得できないね。半分したから、支払うのも半分にするのは妥当だろう」と、再び私に交渉させた。実はK先生、モンゴル語がうまい。しかし、なぜかずっと私に交渉させる。 支配人は突然何かを理解したようで、「そんなことってあるの。もういいわ。分かった。半額の5万トゥグリグをください」と笑いながら言った。 K先生は、まわりに悠然と歩いている牛や馬、羊などの家畜を指しながら、「彼女(支配人)に聞いて。牛とか、馬、羊とかさ、毎日自由にここでおしっこをしたり、うんこをしたりしている。これってどうやって罰金取るのか。誰が支払うのか。誰に支払うのか。ほら、あの犬おしっこしているよ」と。 支配人は一瞬言葉を失ったようだが、少し考えて、「これ…、これは罰金取らないよ。だって、これは自然のことで大自然には何の悪いことにもならないし、自分の家畜だから」と言いながら、笑いが止まらなかった。 「おかしいよね。だって、僕のも自然なことじゃないか。僕のおしっこで大自然に貢献したじゃないか。僕にお金を支払うべきじゃないか」とK先生も笑いながら5万トゥグリグを払った上で、今度は「ね、領収書をくれないかと聞いて」と私に言った。 「領収書?面白い人ね。ここには領収書はないよ。今日、ウランバートルの本社は休みなので、明日電話して。そこからちゃんともらえる」と支配人は笑いをこらえられず、電話番号まで教えてくれた。   結果を聞いたK先生は、こんな話をし始めた。 「モンゴルは本当に変わったね。昔はどこに小便しても大丈夫だった。今はダメになったか。不思議。領収書ももらえるのか。モンゴルはしっかりしているね」 「あの支配人も、なぜ僕に“おしっこを半分しかしなかったということをどのように証明するか”と聞かなかったのか。人間って、おしっこを半分で止めるのはけっこう難しいよ。ほとんど人はできない。それをどうやって証明し、どうやって検証するのだろう」 「でも僕は嘘ついていないよ。僕はできる。さっき、本当に半分しかしなかった」 「明日、ちゃんと領収書をもらってね。彼らはそこに何を書くかが興味深い。 “罰金10万トゥグリグのところ、おしっこは半分しかしなかったため、その半額の5万トゥグリグ”と書くか。想像もつかない。その領収書をちゃんともらってくださいよ。日本に帰ったら、新聞にこのことを書くよ。面白いね…」   帰りのバスの中では、この出来事が延々と話題になった。   その夜、スフバートル広場近くの日本レストラン「ナゴミ」で懇親会が開かれた。最後に私がK先生に中締めのご挨拶をお願いした。K先生はいくつかのことを振り返ったが、やはりこの出来事が話の中心になり、大いに盛り上がった。   第15回ウランバートル国際シンポジウムの写真   <ボルジギン・フスレ BORJIGIN Husel> 昭和女子大学国際学部教授。北京大学哲学部卒。1998年来日。2006年東京外国語大学大学院地域文化研究科博士後期課程修了、博士(学術)。東京大学大学院総合文化研究科・日本学術振興会外国人特別研究員、ケンブリッジ大学モンゴル・内陸アジア研究所招聘研究者、昭和女子大学人間文化学部准教授、教授などをへて、現職。主な著書に『中国共産党・国民党の対内モンゴル政策(1945~49年)――民族主義運動と国家建設との相克』(風響社、2011年)、『モンゴル・ロシア・中国の新史料から読み解くハルハ河・ノモンハン戦争』(三元社、2020年)、編著『国際的視野のなかのハルハ河・ノモンハン戦争』(三元社、2016年)、『日本人のモンゴル抑留とその背景』(三元社、2017年)、『ユーラシア草原を生きるモンゴル英雄叙事詩』(三元社、2019年)、『国際的視野のなかの溥儀とその時代』(風響社、2021年)、『21世紀のグローバリズムからみたチンギス・ハーン』(風響社、2022年)他。     2022年12月16日配信