SGRAかわらばん

  • 2011.09.28

    エッセイ309:オリガ・ホメンコ「私のなかのチェルノブィリ事故」

    3月、日本に地震や津波があって福島の原発事故が起きた時、最初は本当に信じられなかった。まさか日本でもチェルノブィリみたいな事故が起きるとは。ありえないと思った。チェルノブイリの事故はやはり人間のミスという要素が大きかったようだが、きちんとしている日本でまさか事故が起きるとは。   ウクライナにいて福島からのニュースを毎日テレビで見ながら、思い出したくなくても、どうしても25年前のチェルノブイリのことを思い出していた。そのときの思い出が痛いほど目の前を流れていた。私はまだ十代前半で中学生だった。事故があった朝に知り合いがたくさんいた父親に電話がかかってきた。何かが起きているという話だった。だが両親はそのときはよく分からなくて、知り合いの物理学者に電話したという。そして何か大変なことが起きてしまったと分かったようだった。子供だった私たちにはしばらく何も話さなかったが、話してもらえなくても、やはり何か起きているなと感じた……。   5月1日、キエフでは毎年のように自転車レースが行われた。ちょうどマロニエの花が満開で、その下を自転車が走っていた。事故から5日後だったが、レースは中止にならなかった。メインストリートでメーデーのパレードも行われた。今から考えると、それは本当に許せないことだった。事故から3週間くらいは、不安ばかりの日々を送っていたことを覚えている。ラジオで解説していた医者たちは、外から帰ったらまずは靴のうらを洗うことが必要だと言っていた。そして建物の中にいるときに窓を全部閉めるように、学校へ行く時にはスカーフをかぶるように、と。だが十代の子どもたちは年寄りのおばあちゃんみたいにスカーフをかぶって学校に行くなんてちょっといやだと思って、家から出るときはスカーフをかぶっていたけれど、家から少し離れるとみんな外していた。格好悪いから、クラスの男の子に見られたら恥ずかしかったから。 その年の5月はじめの3週間の味も、今でも覚えている。紅茶に医療用ヨードを5滴くらい入れて飲まされたから。そうすれば放射線が身体につきにくくなると思われていた……。   後になって、必要なのはそれとは違うヨードだったということが分かった。だが、そのときには誰も知らなかったし、そんなヨードはキエフになかったかもしれない。 そしてやっと20日くらいたって、学校ごとにチェルノブィリとは反対の南の方に避難させられた。それも一生忘れられない経験だった。「キエフから避難します。簡単な荷造りをしてきてください。みんなで保養地へ行きます。子供だけです。学校の先生と一緒に」と言われた。はじめて両親と離れるので、とても不安だった。しかも生徒の間に、もうキエフに戻れないかもしれない、もうキエフという町が存在しなくなるかもしれないという噂が流れていた。悲しくて悲しくて、先が見えなかった。毎日悲壮感にかられて、泣いていたこともあった。   ただ両親には涙を見せなかった。親も心配していたし、しかもこれから避難生活がはじまるので、今さら両親を悲しませても意味がないと思った……。 そして避難する日が来た。学校の前にバスが20台くらい来た。わたしの通っていた学校には、当時1500人くらいの生徒がいた。高校や中学校の生徒は残された。期末試験があったり、卒業だの入試だのがあったからだった。年がそんなに離れていないのに、それだけの理由で残された。両親と離れ離れになるのはとても悲しかった。泣いていた子も結構いた。ちょっと戦争になったみたいな感じだった。   キエフ駅に連れられて行って、汽車に乗って、昔から子供の保養地のキャンプがたくさんあった南部の方に運ばれていった。その汽車の移動もとても印象的だった。子供ばかりの汽車だったのでちょっと不思議な感じだった。そしてそこで3カ月すごした。 クラスの仲はあまりよくなかったけれど、保養地のキャンプで一緒に暮らして、みんなお互いによく助け合うようになった。女の子で集まって男の子のTシャツを洗ってあげたり、泣いている同級生を一緒に慰めたりしていた。とても強くなった。   キャンプに着いたとき、現地の人は最初「あら被爆者が来た! 気をつけましょう」という反応だった。わたしたちにはそれが不思議な感じだった。第一にチェルノブィリから180キロも離れているキエフの出身だったし、首都のちゃんとした学校の生徒たちだったので、プライドもなかったわけではなかった。現地の人にそういわれて結構怒っていた。それでも時間がたてばたつほどお互いによく知り合うようになって、仲よくなった。地元の人たちもあまりにも心配で、どう反応すればいいか分からなかったみたいだった。   その時のもうひとつの思い出。毎年、夏の間に両親と一緒に海に遊びに行くのをとても楽しみにしていた。5歳の時に海に連れていってもらいたくて、頑張って自分でアルファベットを覚えて読めるようになった。読めるようになったら海に連れていってあげると両親に言われたからだった。それぐらい海を見たかった。でも、事故があった1986年の海の味は、とてもしょっぱかった。毎日砂浜へ行って、海を眺めながら「キエフの家に戻れるかな」と思って寂しかったから。海の塩と涙の塩の味を混ぜた味だった。   8月末にキエフに戻ることになったときは、どれだけ嬉しかったか! また両親と一緒の家に住めるし、好きな学校にもいけるし、みんなで授業を受けられるし、遊べることがとても嬉しかった。キエフに戻ってから、ずっと残って仕事していた父親の話を聞くと、その3ヶ月の間のキエフはとても奇妙だったらしい。掃除の車が1日3回道に水を流して、町には子供が一人もいなかったという。大人ばかりの町。とても妙な雰囲気だったらしい。   キエフの人は普通はチェルノブィリ事故の話をあまり思い出したがらない。外国人から見たらおかしく見えるかもしれないけれど、それにはいろんな理由がある。一つには、その時に受けたショックが今でもどこか心の中に眠っている。そして事故の後しばらくしてソ連は崩壊してしまい、ウクライナも独立した。そのあとは経済発展を目指して、細かいことを気にしなくなったと言っていいかもしれない。こんな言い方はひどいかもしれないけれど、チェルノブイリより多くの経済的な問題を解決しなければならなかったというのが実情だった。そしてもうひとつには、あんな大きな事故にあって、やはりショックから立ち直れない部分がどこかある。ただ被害者意識を持っているだけだと何も新しいものが作れないから、まずはそれを乗り越える必要があった。無理やりにでも、何もなかったというふりをしてでも、一生懸命……。   家庭のレベルでは、多くの家でガイガーカウンターを持つようになった。万が一のために。事故の後は食料検査も行われたし、チェルノブィリ近辺の森も赤くなったし、変わった魚や動物が生まれているというニュースも結構流れた。だからやはりそれを自分で確認しないと落ち着かないという人もたくさん現れた。それにはガイガーカウンターが便利だった。まあ、計ってみて、もしだめだったらどうすると聞かれたら、それはまた別の話……。どうするか分からない。逃げるしかないのかもしれない。それでも放射線は見えないので、やはり機械があると少し安心できる。 あとになって分かったのは、事故からの直接的な被害より、直接的でない精神的な被害の方が大きかったということ。放射線は見えないから、本当に自分の家に住んでも安全なのだろうか、畑で実ったものを食べてもいいのか、不安に思う人も少なくなかった。   それでも結局時間がたてばたつほど、「まあいっか。何とかなる」という考え方になった人が多かったかもしれない。抜けられない緊張感に疲れたのか、飽きたのか……そこはよく分からないけれど。 ただ、その時にいくつか体で覚えたことは、今でも忘れられない。まずは公園や森を散歩するときには、深い草の中にはいかないこと。秋の落ち葉の中では遊ばないこと。放射線が高いかもしれないから。キノコ狩りは避けた方がいいと言われた。牛乳もしばらく気をつけていた……。 去年の秋に25年ぶりにラトヴィアに遊びに行ったときに、友達にキノコ狩りに誘われた。森にいくと、まず私の頭の中に「草に入らないほうがいい」という信号がついた。ちょっと笑った。まさか、今でもそんなふうに反応するとは思わなかった……。ちなみに、ラトヴィアの森で放射線量を測ったら、ものすごくきれいなものだった。そこでとったキノコもとても美味しかった。久しぶりだったからかもしれないけれど。   ここ数年は、チェルノブィリへの観光ツアーが流行している。私の外国の友達は結構それに興味を持って、私も何度か誘われたけれど、行かないようにしている。安全かどうかはまた別問題として、やはり子供の頃に感じた「チェルノブィリの恐ろしさ」は今でもどこか記憶に残っている。見たくないし、思い出したくもないし。あれだけの経験をすると、原子力に反対するようになる。やはり人間には自然の力を抑えることは無理だと分かる。チェルノブィリの近くにあった美しい森、川、池の昔の写真を見ると、ものすごく悲しくなる。あれだけの美しい土地を一瞬で使えないものにしたのだから……悲しい。   最近仕事で、事故当時ラジオでいろんなアドバイスをしていたお医者さんに会った。会う前は、結構複雑な気持ちだった。あれだけ微妙な情報を伝えていた人の目をのぞいて見たかった。会ってみると、もうおじいさんだった。話をしてみると、そのお医者さんの発言についての見方が少し変わった。事故の当時は、放射線や核の問題について知識が不足していただけではなく、大変な政治的プレッシャーもかけられたようだった。それでも人々に情報を伝え、何らかのアドバイスをした方がいいとその医師は思ったようで、自己責任で発言したようだった。ラジオでのアドバイスはほとんどそうで、結構勇気ある行動だったのだと思った。その仕事で、キエフの子供たちを避難させる決定はキエフの女性政治家が強く押したものだったということを知った。モスクワからはこうした方がいいという話はいっさいなかった。ひどい言い方かもしれないけれど、事故現場から千キロも離れているので、どうでもよかったのかもしれない。 事故当時、さかんにアドバイスをしているその医者は冗談で(ウクライナ人は冗談が好きですから)「チェルノブイリの鶯」と呼ばれた。鶯はきれいな歌をうたう鳥だけれど、本当かどうか誰も分からない……。今回会ってみて、大変な人生を歩んできた人だと思った。あんな厳しい状況の中でも、自分の医者としての誓いを破らなかった。できる限りのことをした人だったと思った。外見で人を判断してはいけないと、また思った。   25年前のことは、あまり思い出したくなかった。あまりにも寂しくて、その時に受けたショックが大きかったからかもしれない。しかし何年過ぎても、やはりその事故の影響を感じてもいた。学校では甲状腺の病気の子も出たし、白血病で急死した人もいるし、いろんな病気も発生するようになった。直接関係あるかどうか誰もいえないけれど……。人々が元気を取り戻すのに、かなり時間もかかった。 この事故のことを、多くの人は忘れてはいけないと思っているけれど、毎日は思い出したくないという微妙な感情を持っている……。それが今回の福島の事故で、本当に昨日あったことのように、フラッシュバックして目の前に現れた。やはり核は非常に危ないものであると感じた。そして福島近辺の人々の気持ちは、誰よりも分かると思った……。 一日も早く状況が安定することを祈ります。こんな事故は二度と起きないことを祈ります。生活のありかたも変わると思いますが、心だけは大事にして、落ち込まないことが大事です。前向きに歩いていくしかないから。 ウクライナから愛を込めて……。   *本稿は、群像社の「群」に掲載された記事を、著者の承諾を得て転載しました。   ------------------------------------ <オリガ・ホメンコ ☆ Olga Khomenko> キエフ生まれ。東京大学大学院の地域文化研究科で博士号取得。現在はキエフでフリーのジャーナリスト・通訳として活躍。2005年には藤井悦子と共訳で『現代ウクライナ短編集』を群像社から刊行した。 ------------------------------------   2011年9月28日配信
  • 2011.09.21

    エッセイ308:趙 長祥「上海万博のよい影響は長続きできるのか?」

    昨年の5月から10月に上海で開催された万博は中国の経済発展にとって、北京オリンピック以来最大のイベントであり、中国急成長の証でもあった。 上海万博を成功させるために、中央政府をはじめ、上海市政府は莫大な投資をした。特に、都市部のインフラ(地下鉄、バス路線などを含めた公共交通手段)、万博関連施設の建設、街の清掃(一時に多くの人手を投入した)、市民へのマナー教育など、様々な面で工夫していた。そのため、上海万博は成功裏に収められ、その時点において上海を国際大都市にまで向上させた。昨年10月に筆者も万博を見学した。その時、街の清潔さ、市民のマナー、万博園内のサービス(夜20時以降を除く)など、色々な面で上海は他の国際都市と比肩できる世界有数の都市だと思った。また、この上海万博の開催効果を長く持続できるだろうと思っていた。 しかし、実際に上海に住み始めてみると、万博一年後の現在は昨年の万博の時の上海とは比べられないほど違っており、どこか別の都市ではないかという錯覚さえも感じてしまう。同じ街なのに、何故これ程違った印象を与えるのか不思議に思った。 まず、現在の状況を確認しよう。2011年7月27日の上海浦東テレビ台の報道によれば、三林浦東万博園内の状況はめちゃめちゃであった。道路のあちこちに捨てられた様々なゴミ、補助施設の破壊などは驚きであった。かつての文明エリアは消え失せていた。 明らかに現在の上海はソフトの面で何か大切なものが欠落している。 筆者自身の経験からもその点を証明できる。市の中心部を除けば、どこに行ってもゴミが捨てられ、ゴミ捨て場のようになっているところもある。あちこちに痰を吐くことも相変わらずである。地下鉄に乗るときの「列に並びましょう」というポスターは完全に無視され、ドアが開けば一斉に中へ流れこんで、席を奪い合う。降りる人が降りられなくなり、私はみんなの席の奪い合いが終わってから降りることがしばしばである。深夜(お祭でもないのに午前2時に爆竹を鳴らす)や早朝(5時頃)も自分の都合ばかりで騒ぎ、他人の休息に影響を与えても、偉そうに屁理屈ばかりこねる。 このようなマナーは常識的なものばかりで、特別なことは一つもない。しかし、これらのマナーは一つの街が文明的であるかどうかを評価する指標となっている。しかも、このような態度を直す方法はいくらでもある。だが、人々はこのようなことはすべて小さなこと(小事)であり、殆ど無視し、改善する気持ちはほぼ皆無に等しい。 一つの都市を評価する時、ハードとソフトの両面を客観的に見なければならない。ハードだけ(市内のインフラなど)からみれば、最新技術を取り入れた高く聳え立つ「陸家嘴金融城」、「新天地」、「万博園」などのビルや、新しく開設された地下鉄など、上海は確実に世界のどの街にも劣らない国際都市である。ところが、ソフトの面(街の文化、庶民のマナー、サービスなど)から評価すれば、上海は世界の国際都市からほど遠い。殆どの分野で国際スタンダートと大きく離れている。勿論、筆者もグローバリゼーションによってローカル性を失わせることを主張しないが、完全なグロバールスタンダードには遥かに及ばず、また完全なローカル性もない、中途半端は一番嫌われる。 何故、ソフトとハードがこれほど離れているのか。 ご存知のように、経済さえ発展し、金さえ投入すれば、最新技術を瞬時に手に入れることができる。したがって、ハードのキャッチアップはそんなに難しいことではない。しかし、ソフトは昔と深いつながりをもっているため、コア技術の蓄積と同じく、培わなければならず、完全に模倣することはできない。経済発展の期間が短いと言われるかもしれないが、改革開放以来30年以上を過ぎている。世界の発展史にとって、瞬時に消え去る流れ星ほどの短さかもしれないが、一人の人生にとっては、30年は長い期間であり、一世代の人間が成長できる期間でもある。したがって、時間の問題だけではない。中国の歴史からみれば、かつて世界一の道徳、文明の国であった。それが継承されないのは、主に近代史150年近くの屈辱(外国侵略、鎖国)によって経済発展が遅れて、人々が自信を失い、貧しさによって人々の意識が変えられたことに原因があるのではないかと考える。 そもそも中国は“人治の国”であり、“法治の国”ではないと言われている。しかし、近年、法律やルールは驚くべきスピードで完備されつつある。問題は人々の意識である。ルールや法律があっても、殆ど守らない。現世代から次世代へ悪循環を続けている。逆にマナーやルールを守る人達は形式的だと見られている。それほど道徳観が喪失している。 私は、上海万博一年後の現在の文明的な態度の欠落、万博効果の喪失、ソフト面の欠落の原因は、人々の意識にあると考える。人々の意識を変えなければ、いくら豊かになっても、いつまで経っても、このままの状態が続くであろう。 中国は歴史と文明のある国であり、上海も歴史と文化のある都市である。今後、インターネットやテレビ、学校、家庭、NGO/NPOなどの様々メディア、諸機関を通して、法律やルールと合わせて、庶民のマナー教育を実施し、人々の意識を一新して、万博効果が長続きするようにできれば、上海市は物心ともに発展し、真に世界有数の国際都市になることができると期待する。 ---------------------------- <趙 長祥(ちょう・ちょうしょう)ZHAO Changxiang> 2006年一橋大学大学院商学研究科より商学博士号を取得。専門分野はイノベーションとエントルプルヌアシップ、コーポレートストラテジック。SGRA研究員。 ---------------------------- 2011年9月21日配信
  • 2011.09.14

    エッセイ307:趙 長祥「国の基本を脅かす『食の安全』問題はいつ治まるのか」

    昔から中国では「民は食を以て天と為す――民以食为天」と言われている。漢書にある孟子の言葉で、中国人は食を重んじる民族であるから、国民はおなかいっぱい食べられなければ蜂起する、だから国を治めるのと食を大事にするのは同じであるという意味である。昔の定義からみると、明らかに現在の状況を説明することができない。 というのは、近代社会では、エンゲル係数で一国の経済発展程度を量ることになっている。エンゲル係数が高ければ高いほど経済発展が遅れているという決まりである。とはいえ、昔と比べられないほど経済が発展した今日では、消費全体に占める食費の比率はむしろ減少している。しかしながら、ほかの部分、例えば、教育、エンターテイメントなどがいくら高い係数を占めても、国民にとって最も基本的なものは、国民全体の健康を維持する食である。食の安全を保つことができなければ、国民の健康が悪化し、国に莫大な衛生、医療負担をもたらし、社会不安にもつながる。したがって、毎日の食の安全は小さいことでありながら、国の基本も脅かす問題でもある。 この点からみれば、中国古来の諺が近代社会の各国での食に対する認識は基本的に通じている。すなわち、食は庶民にとっても、国にとっても基本であり、大事なものである。 中国では、上述の諺からみても、昔から食を重視してきたことがよくわかる。しかし、化学製品(農薬、添加剤など)の使用があまり進んでいなかったせいか、人々の社会意識の発展が低いレベルにあったせいか、食の安全の問題はあまり顕在化していなかった。しかし、近年、経済発展が進むにつれて、特に昨年(2010)あたりから一気に爆発している。上海では、大事件がない限り、食の安全問題のニュースが毎日、各種メディアを賑わしている。 (1) 悪質商売による悪質食品 “地溝油”――食堂などで、下水道に流れている油を掬い出し、加工して市場に売り出す。また、一回に使い終えた油を二度、三度も使うものも指す。 (2) 農薬残留度の高い野菜、果物など (3) 品質低劣なものを高品質なものに偽装して市場に売り出す “勾兑醋”――お酢の添加剤と水などでミックスしたものを醸造酢として販売 “染色饅頭、染色米”――化学薬品を使って、小麦粉で作った饅頭に金色をつけて、コーンで作られたものに偽る(コストが高いから);米も同じく、普通の米を染色して値段の高い品物として販売 余談だが、これは、ほかの分野にも広がっている…… “ダビンチ家具” ――国内で作られた家具を様々な流通チャネルを通して転々とさせ、ダビンチという名をつけて、もともと3万元のベッドを輸入品に偽って300万元で販売 (4)添加剤、防腐剤などの過剰使用、あるいは廉価の代替品を食品に使う 膨張剤を使い西瓜を促成栽培。叩くとすぐに破裂する 国内市場で販売されている台湾製飲料に添加剤を過度に使用 (5)生産日付、メーカなどの表記改ざん   事例を挙げると切りがないが、大きく分類すると上述の5種類に分けられよう。概して言えば、上海市の食品企業で調べた限り、少なくとも10%の企業は様々な問題があると思われるが、全国に広げて見れば、氷山一角といえよう。 では、なぜこれほどの食品問題が一気に顕在化しているのか。 まず、近年、市場経済が進むにつれて、拝金主義が蔓延し、貧富の差が大きく膨張した。その過程における人間の倫理観、道徳観の喪失が原因であると考えられる。金儲けのために、手段を問わないことが、明らかに食品の品質劣化につながり、表面に浮かんできたといえよう。 つぎに、2008年の世界金融危機以来、グローバル性インフレが進んでいる。特に中国を含めた新興国では、インフレ率が非常に高く、食品企業はコストを抑えるために、偽物あるいはコストの安い代替材料を使い食品問題につながっている。 さらに、30年間あまりの経済発展につれて、徐々に豊かになっている国民は、食品の品質に覚醒しているようだ。即ち、一昔の“食事が腹満たし”(吃得飽)から“よりよく満足した食事をとる” (吃得好)へと変化している。食品への品質チェックから食品安全問題が顕在化した原因の一つであると考えられる。 最後に、規制の整備や管理、監督の問題があげられる。即ち、日進月歩の経済発展スピードに足がついていない現状である。特に、食品にまつわる立法、規制などはひと足遅れているため、市場での監督、管理部署は監督執行の法律依拠がない。また、そのような法律、規制などがあっても、市場での監督、管理部署は監督執行の整備ができていないため、食品安全問題につながっている。 真剣に調べれば、ほぼあらゆる食品に多少の問題がある。しかし、食の安全の問題を話すと、殆どの人が「余り気にすると生きていけない」という言葉が返ってくる。つまり、食の安全を気にしながら、負担にならない程度で進まなければいけないと解釈できる。様々な問題が発見されていることは、実は、経済発展途上国にとっては悪いことではない。悪いことは顕在化した問題を避けて通ることである。というのは、殆どの先進国においても、国の発展途中で食の安全問題が多発した時期があった。したがって、発見された問題は、避けて通るではなく、問題の原因を見極めて、解決すればよい。 現状からみると、食の安全問題を解決するためには、多方面から同時に取り組まなければならない。ルール、法律の整備、食品企業のアライアンス(合規)文化の醸成、国民の倫理観の向上、国内のインフレ率を3%ほど抑えるなどの対策が考えられる。いずれも複雑な問題で短期間に解決できるものではない。しかし、国の基本を脅かす食の安全を治め、国民の生活を改善するために、官民合同で一日も早くこの問題を解決することが必須となっている。 ---------------------------- <趙 長祥(ちょう・ちょうしょう)ZHAO Changxiang> 2006年一橋大学大学院商学研究科より商学博士号を取得。専門分野はイノベーションとエントルプルヌアシップ、コーポレートストラテジック。SGRA研究員。 ---------------------------- 2011年9月14日配信
  • 2011.09.07

    エッセイ306:宋 剛 「今だからこそメディアに言いたいこと」

    7月から1年間の予定で日本に滞在している。つい最近、筆者の中国人として心を痛めるニュースがまたまた目に入った。 中米外交のニュースだった。アメリカのバイデン副大統領は8 月16日から6日間に渡って中国を訪問し、次期指導者と有力視される習近平国家副主席など、政府の要人と相次いで会談したという。 北京にいたら、なんとも思わずに聞き流すかもしれないが、日本にいると、中国に関するニュースが出た場合、なぜか神経を尖らせて、耳を傾ける癖がついてしまった。大半を占めるマイナス面のニュースはもとより、プラス面のニュースの途中から出てくる「ところが」に備えて、重い気分を気力で追い払う準備をしなければならないからだ。 早速、中米外交に関連して出てきそうな「ところが」の材料を頭の中でサーチした。サーチ効率を向上させるべく、烏龍茶の黒を一口飲んだ。米国債格下げ?雇用難を無視したオバマ大統領の夏休み?円高ドル安?高速鉄道脱線事故?化学工場抗議デモ?対中貿易赤字?せいぜいこのくらいだろう、と心のどこかで日本メディア通として気取った。 ところが、バイデン副大統領訪中のニュースに続けて出てきたのは、中米バスケットボール親善試合での乱闘だった。中国人民解放軍所属チーム対米ジョージタウン大学の親善試合だ。 「北京五輪準備が佳境に」の後の「深刻な水不足問題」、「中国、億万長者が続々」の後の「格差拡大で各地デモ」、「中国GDP、日本を抜き世界第2位へ」の後の「民主化集会押さえ込み」――今までの「ところが」の前後は中国人から見て、決して愉快に思わないが、レベル的にはそれなりにバランスが取れていて、「一理ある」と気持ちを抑えて自分を納得させることが多々あった。 しかし、中米トップの会談と親善試合の乱闘のコラボレーション――親善試合だから乱闘しても問題にはならないという発想はいささかもなく、当然終始友好ムードで最後点数も引き分けたほうがよいと考えるが――どうしても、『風の谷のナウシカ』と『スラム・ダンク』が一緒になっているように筆者には見える。 一方、中国のメディアはどうかというと、従来の反日ドラマの新作が続々と放送されているのは言うにも及ばないが、ここ最近では、尖閣諸島の海域で中国人船長が海上自衛隊に拘束され釈放を延期される場面や、東日本大震災の惨状や、福島原子力発電所の事故で近隣諸国に通告せずに汚染水を海に排出する報道しか記憶に残っていない。 反日教育対嫌中報道だ。どっちもどっちだ。 かつて、日本では中国ブームがあった。中国でも、ラジオやテレビで日本語講座が毎日流れる日々を筆者は経験していた。いつのまにか、「今こそあれ」(編者註:古今和歌集の出典。今でこそこんなだが、昔は盛んだったという和歌に基づく)というような状況になってしまった。 8月末に、日本のNPOと中国日報共同主催の中日フォーラムという大型イベントが開催された。何よりも衝撃を受けたのは両国で行われた世論調査の結果だった。中国に対して良いまたはやや良い印象を持っている日本人は合わせて21%にすぎない一方、日本に対する良いまたはやや良い印象を持っている中国人は29%に止まった。つまり、残りのパーセンテージは嫌いかやや嫌いの数値だ。調査対象は日本人1500人弱と中国人1000人だった。互いに好感を持っている人数のほうが多いとは思わなかったが、史上最低というその数値は予想を大きく下回った。 中華料理はすでに日本の社会に定着している。ところが、中国が好きだから、中華料理を食べる日本人は一人もいない。反対に、日本のマンガとアニメも中国の若者の世界に充満している。ところが、日本に来たことのない人は、日本にはオタクばかりいると考えがちで、日本に来ても、秋葉原のメイドカフェにしか足を運ばない人は少なくない。国とその文化は完全に区別されているようだ。はたして、文化交流で国民同士の心が結べる、文化外交で国のイメージアップが果たせるというようなスローガンはまだ安易に使えるのだろうか。 メディアの力は大きい。政府の関与があろうが、なかろうが、メディアは視聴者=国民の最大の情報源だ。毎日同じ場面が繰り返されると、いくら判断力が強い人でも左右される恐れがある。真実を伝えることが最大の使命だ、とメディアに携わる人は常に言う。しかし、真実を伝える際、内容の組み合わせ方によって人に与える印象が正反対になる。同じ人に対して、「太ってるけど優しい」と「優しいけど太ってる」を言った場合、当人の反応がずいぶん違ってくる心理学の実験があった。 だから、すでにどん底に陥った互いの好感度を配慮して、どうしても言いたいことあるいは言わなければならないことを言うときに、せめてその調理法を工夫してほしい、と両国のメディアに言いたい。 --------------------------------------------------- <宋 剛 (そーごー)☆ Song Gang> 北京外国語大学日本語学部講師。SGRA会員。現在大東文化大学訪問研究員。 --------------------------------------------------- 2011年9月7日配信
  • 2011.08.31

    エッセイ305:包 聯群「アメリカの地震とハリケーン」

    この夏、東京大学のグローバル・スタディーズ・プログラムによる派遣で、アメリカ東海岸のマサチューセッツ大学に来ている。そして、この短い滞在期間に、アメリカ東海岸史上(100年以内)最強の地震を体験し、アメリカ史上最大の災害をもたらすと予測された大型のハリケーン「アイリーン」に遭遇することとなった。 1.アメリカでの地震体験 8月23日午後、ヴァージニア州中部を震源とするマグニチュード5.8の地震があり、ワシントンやニューヨークで建物から人々が避難するなど、一時騒然となった。原子力発電所2基が運転を停止する措置が取られた。地震が発生した時、私がいるマサチューセッツでは少し揺れを感じたものの、それほど大きくないし、日本で地震に慣れているから気にしなかった。しかし、テレビの報道をみると、首都ワシントンでは、ホワイトハウスや近郊の国防総省などの建物が一時閉鎖され、職員が避難したり、記者会見も中断されたりしていた。ワシントンの街は、ビルから逃げてきた人々で、道路が埋め尽くされていた。そして、ワシントンやニューヨーク市では、地震で驚いて泣き出したり、お互いに抱き合ったりしている人もいた。ヴァージニア州では、建物の一部が崩れるなどの被害が出た。物が壊れたり、がれきが散乱したりしていたところもあちこちに見られた。 中国の四川地震と同じ年(2008年)に仙台市にいた私は宮城県で起きた震度6弱(マグニチュード7以上)の地震を経験したが、それほどの被害はなかった。地震が終われば、すぐに日常生活に戻り、外に避難した人もあまり見かけなかった。 アメリカのテレビニュースでは、地震をあまり体験していない人々があわてふためいている様子が映し出されていた。建物も、少なくとも私が住んでいるところでは、煉瓦で作られているのが多数を占めているので、危険度は高いのだろう。 日本にいる時に夜中にマグニチュード6ぐらいの地震が起きて目が覚めてもすぐにまた寝てしまう自分を思い出すと、日本の建物の丈夫さに感謝すべきであると改めて感じた。日本では当たり前のものが、外国からみると当たり前でないことが多くあることに気付くべきであり、日本の良さを忘れてはいけないと思った。 2.大型ハリケーン「アイリーン」に遭遇 金曜日に大学からメールが来て、大型ハリケーン「アイリーン」に備え、土曜日と日曜日は図書館や関連施設がすべて閉鎖するという。図書館に引きこもっている私にとっては、本当に嬉しくない知らせだった。 オバマ大統領がマサチューセッツ州での休暇を中断してホワイトハウスに戻り、国民に向けて、全力でアイリーンに備えるよう呼びかけた。そして、多くの市民も避難しはじめたが、それにしても日曜日(8月28日)の時点ですでに20人を超す犠牲者が出ている。 私たちも、金曜日にスーパーに行って、3日間分の食事の準備をした。こちらのキッチンではガスを使用しておらず、電気に頼っているため、一旦停電すると何もできない状況になってしまうのである。 ニューヨークで全ての公共交通機関の運行停止という史上初めての措置が取られ、ニューヨーク近郊の空港も閉鎖された。アイリーンは土曜日にニューヨークに上陸し、中心部では木が倒れたり、道路が冠水したりする被害が出ている。 ハリケーンを体験したことのない私にとっては、とにかく皆と同じようにするしかない。土曜日は一日中家でインターネットのニュースを見て、ハリケーンの動向を見守っていた。午前中は晴れていたものの、午後から大雨が降り始め、日曜日の夜まで、時に小雨になったり、時に土砂降りになったりする状況が繰り返されていた。 土曜日は、私が住んでいるアパートからAmherst市中心を通過して学校まで行けるバスが平常通り運行していたけれども、日曜日には完全に運行中止となった。 日曜日の午前中は小雨だったので、外に出て少し歩いてみたが、周辺には人影が少なく、風や雨の音しか聞えず、物々しい雰囲気であった。夕方6時ぐらいに雨が一時止んだが、風は強く空は真っ黒だった。私たちの地域に到達したハリケーンはすでにスピードを落としており、ゆっくりと通過した。夜の10時頃になってまた強い風が吹き始め、10時40分、つい停電してしまった(この文章は電気がない状況で書き始めた)。 次の日の朝、外に出てみると、私が住んでいるアパート(大きな集合住宅)の庭では枯れそうになっていた大きな木が根底から倒れていたが、道路の両側に散乱しているのは枯れ枝ばかりで、大きな被害がなく通過したようで、ほっとした。 3.困難に対して平常心を保つ アイリーンに対して、アメリカ政府は軍、消防、警察などの全てを動員した態勢で臨んだ。ニュースをみると、多くの人々が避難する際に、「平常心」を保っていたことが窺われる。ある人は、窓ガラスやドアに「薄い板」を張って養生し、その上に「Good NITE Irene」と書いた。自然災害が到来した時にも、ユーモアを忘れず、困難があっても前向きの態度が取られていることに心が打たれた。 私の住む町の人々が皆、自分の家でハリケーン「アイリーン」の通過を見守った週末だった。 ------------------------------------ <包聯群(ボウ・レンチュン)☆ Bao Lian Qun> 中国黒龍江省で生まれ、内モンゴル大学を卒業。東京大学から博士号取得。東北大学東北アジア研究センターの客員研究員/教育研究支援者を経て、現在東京大学総合文化研究科学術研究員、中国言語戦略研究センター(南京大学)客員研究員、首都大学東京非常勤講師。言語接触や言語変異、言語政策などの研究に携わっている。SGRA会員。 ------------------------------------ 2011年8月31日配信
  • 2011.08.24

    エッセイ304:林 泉忠「『満蒙開拓団慰霊碑』事件から戦争・植民地支配を考える」

    毎年8月になると、日本社会に重い雰囲気が漂う。広島・長崎での原爆投下記念イベントや終戦記念日の集会のほか、メディアも相次いでさまざまな記念特集を企画している。66年前のあの戦争にいかに向き合うかということは、依然として今日の日本社会に残された重い課題である。 こういった記念イベントは、「戦争の悲劇を繰り返さない」というメッセージを発信している一方で、その内容の多くは、あの戦争がどのように日本の国民に災難をもたらしたのかということであり、戦争責任の問題に直接に触れるものは極めて少ない。 戦争責任の問題が日本社会においてセンシティブな話題となる背景としては、当時の日本国民のほとんどが多かれ少なかれ日本の対外戦争に巻き込まれていたからである。戦争当事者の軍部や軍人以外の一般国民は、いったい戦争の共犯者なのか、それとも軍国主義の被害者なのか、という問題が今日においても存在している。 日本国民は共犯者か、それとも被害者か 当時の日本の一般国民の戦争責任についてどのように考えればよいのかは、どうも日本人だけの問題ではないようだ。先日起きた「親日記念碑」損害事件がもたらした広範な議論は、この問題について、中国人の間でも共通認識に達していないことを示している。 いわゆる「親日記念碑」は、7月末にハルビン市方正県の「中日友好園林」内に設置されたものであり、日本の「満洲開拓団」の250名の死者の氏名が刻まれた慰霊碑である。8月4日、5名の「愛国者」という団体のメンバーが、それにペンキをかけて損傷したことで、メディアの注目を集め、議論を引き起こした。議論の焦点の一つは、満洲開拓団員を日本の侵略者の一員と見なすべきかどうかということである。 かつて、周恩来首相が「日本国民も軍国主義の被害者だ」と指摘したにもかかわらず、今回の中国国内の世論を概観すると、「網民」(ネット市民)にせよ、政府メディアにせよ、ともにこれを器物損害という違法な行為として譴責するよりも、彼らを「五壮士」と称え、方正県を「国恥を忘れたものだ」と批判する傾向がみられる。この世論の方向は中国国内において今なお根強い反日感情が存在することを如実に反映していると言えよう。 しかし、このような対日感情は、台湾海峡の向こう側ではかなり異なる様相を呈している。台湾はかつて50年間にわたって日本の植民地支配を受けた。1990年代、民主化運動および「本土化」(土着化)運動が勃興するにつれ、台湾社会では「日本時代」再評価の動きが現れた。この雰囲気のもとで、「親日記念碑」が続々と建てられた。 2006年に台湾烏来(ウライ)に「高砂義勇記念公園」が竣工し、李登輝氏が除幕式に出席した。戦前の日本の植民地時代において南方作戦に徴兵され戦死した台湾先住民「日本兵」を慰霊する施設である。園内には、日本人の寄贈で、日本語で書かれた石碑が数多くある。もう一つの先住民村落の武塔村にも「莎韻(サヨン)記念公園」が建設された。1938年に泰雅(タイヤル)族の少女サヨンは、日本人の先生の中国出征を見送りに行く途中に、暴風雨に遭遇し、不幸にして足を滑らし川に転落して命を落とした。後に、このことは総督府が皇民化教育を行なう際の手本となった。また、それに基づいて映画「莎韻之鐘(サヨンの鐘)」も作成された。主演は当時満映のトップスター李香蘭である。興味深いことに、60年の歳月が経った1998年に武塔村がこの公園を建設した際、村長の題辞では依然として「可歌可泣」という言葉でサヨンの事跡を賞賛している。さらに、今年の5月には、台湾政府が1.2億台湾ドルで建設した「八田與一記念公園」が完成した際、馬英九氏が森喜朗元首相の同行で総統として式典に出席して挨拶を行ない、八田與一技師が日本統治期に建設したダムは戦後周辺の開発や民衆の生活に貢献したことを称えた。 サヨンの事績や高砂義勇隊はともかく、八田與一の行為でさえ、もし中国本土で行なった場合、おそらくその「貢献」は日本の植民地支配に加担したものだと強調されることになろう。実際、植民地の権力構造のなかで、八田與一の身分が日本の植民地支配において「共犯者」の側面を有していたことは容易に否定できるものではないだろう。 以上のように、「親日記念碑」に対する中国社会と台湾社会が採る姿勢は対照的と言っても過言ではないほど異なっている。それは、双方の民衆の異なる日本観を反映しているものである。こういった差異は最近の対日観の世論調査にも如実に表れている。公表されたばかりの日中共同世論調査によると、中国の国民の対日印象が大いに悪化し、「よくないと思う」人は65%にも達し、過去最高となった。それに対して、昨年の日本交流協会委託の調査によると、台湾では回答者の半数以上は「最も好きな国家」は日本だと回答し、日本に親近感を覚えている人が60%を占めているという。 では、香港の状況はどうだろう。今日の香港社会にも、日本による「3年8ヶ月」の占領期があったという辛い記憶が残されている。しかし、イギリス植民地の経験を持つためか、植民地主義に対する香港社会の評価はおそらく台湾に近いだろう。実際、中国に復帰して14年が経った今日においても、イギリスの支配者を記念するために命名した公共施設は、数多く存在している。病院を例に挙げれば、瑪麗医院(Queen Mary Hospital)、葛量洪医院(Grantham Hospital)、伊利沙伯医院(Queen Elizabeth Hospital)、威爾斯親王医院(Prince of Wales Hospital)、尤徳夫人那打素医院(Pamela Youde Nethersole Eastern Hospital)などである。興味深いのは、今日の香港社会ではその名称を変更しようとする声さえ現れておらず、植民地風の街道名もそのまま残っている。 日本観と植民地観 台湾海峡を挟んだ両岸社会の異なる日本観にしても、また植民地主義に対する中国・台湾・香港三社会の異なる理解にしても、ともに置かれている環境や経験の違いによるものであり、また価値判断の問題でもある。すなわち、侵略戦争および植民地支配の原罪を強調するか、それとも関連する人や事件を含め、植民地支配のプロセスを一つ一つのケースで客観的に見るか、ということであろう。 方正県における「親日記念碑」事件が、戦争や植民地支配に関して理性的な思考や議論の契機となってくれれば、それもプラスの意義があるように思う。 *本稿は『明報』2011年8月16日号に掲載された記事「從『親日碑』事件反思殖民主義」を著者本人が加筆修正し、また著者の承諾を得て日本語に訳しました。原文は中国語。朱琳訳。 ---------------------------------- <林 泉忠(リム・チュアンティオン)☆ John Chuan-Tiong Lim> 国際政治専攻。中国で初等教育、香港で中等教育、そして日本で高等教育を受け、2002年東京大学より博士号を取得(法学博士)。同年より琉球大学法文学部准教授。2008年より2年間ハーバード大学客員研究員、2010年夏台湾大学客員研究員。 ---------------------------------- 2011年8月24日配信
  • 2011.08.17

    エッセイ303: 林泉忠「ナショナリズムのせめぎ合い:2011年中越紛争の特徴」

    冷戦時代に協力と対立を繰り返した中国とベトナムでは、社会主義が退潮する中、それぞれのナショナリズムが急速に高まってきている。今年5月から続いている中越間の衝突の最大の特徴は、両国のナショナリズムが初めて正面からぶつかり合ったことにあり、軽視できない歴史的な意味をもつ。 今回の中越間の衝突は、5月26日と6月9日に中国が南シナ海で二度にわたってベトナム国営石油会社探査船の資源調査活動を妨害し、両国政府が互いを糾弾したことから始まった。ベトナムはその後同海域で実弾演習を行い、中国は最大級の巡視船「海巡31」を南シナ海に派遣した。その頃から、中越双方の民衆の間で相手への反感や怒りが高まり、一時は収拾がつかない状態であった。ハノイの中国大使館周辺では、ベトナムの若者が、6月5日から8週間連続してここ30年間で最大規模の反中抗議活動を行った。一方、中国側のネット上では「到底我慢できない」「懲罰すべきだ」といった「開戦」の声が急速に高まった。 今回の中越間の衝突に対する中国と国際社会のメディアは、アメリカ及び関係国の国益に絡んだ複雑な国際関係に焦点を当てているが、筆者は、今回の中越紛争の最も大きな特徴は両国のナショナリズムが初めて正面衝突したことであり、決して軽視できない歴史的な意義をもつと考えている。 21世紀中越衝突の特徴 摩擦も含む中国とベトナムの歴史関係は古い。近代以降、両国は、いずれも西洋列強に圧迫され、また共に民族解放のスローガンを掲げ、社会主義の道を歩んできた。中華人民共和国が成立し、東アジアの冷戦構造が急速に形成される中、中国とベトナムは互いを「兄弟」と呼び合うようになり、1950年代から60年代にかけてホーチミン時代の20年間は、「蜜月期」であった。しかし、1969年にホーチミンが逝去すると、中越間の対立は次第に表面化し、そして1979年にはついに戦争にまで発展した。 その時期の中越間の衝突の背景には、社会主義陣営内部の軋轢があった。中ソ関係が悪化する中、ポスト・ホーチミン期のベトナムは中国に追従しソ連と距離を置くのではなく、むしろソ連に接近する政策を採るようになった。1978年に軍事同盟並みの『ソ越友好協力条約』が締結され、ベトナムはソ連の海軍がカムラン湾に進駐することを認めた。と同時に、ベトナムはカンボジアから亡命してきたヘン・サムリン勢力を支持し、1978年にカンボジアに出兵した。この軍事行動によって、北京が支えていたポル・ポト政権が崩壊した。言い換えれば、この時期の中越間の軋轢は、中ソ間のイデオロギー対立による産物で、冷戦時代の「代理戦争」という特徴を持ち合わせており、ナショナリズムの色彩はそれほど濃厚ではなかった。 その後、中国は改革開放の道を歩み、ベトナムも1986年から「ドイモイ」と呼ばれる改革政策を推進するようになった。資本主義市場経済の導入に伴い、両国民衆の意識に変化が起った。たしかに、社会主義という看板こそ今日でも掲げているものの、社会主義というイデオロギーは、共産党による統治の合法性を維持する上ではその有効性はもはやなくなったといってよい。それに取って代わって登場したのが「愛国主義」である。 冷戦後の中越におけるナショナリズムの勃興 改革開放からすでに30年余り経過し、中国におけるナショナリズムの高揚に関しては多くの議論がなされてきた。ナショナリズムを維持するには、平和な時代にあっては、たとえ確実な敵が存在しなくても、民衆の国家に対する求心力を凝集させるために、仮想敵を作る必要があった。この30年、中国のナショナリズムの仮想敵は主に日本とアメリカであった。ベトナムが中国ナショナリズムの相手になることはなかった。 中国の民族主義者がベトナムを眼中に置かなかったのみならず、中国の「大国外交」という対外政策の特徴の影響もあり、中国社会全体がベトナムを含む東南アジアの諸国に対してあまり関心を払わなかった。したがって、今回のベトナムの反中抗議騒動が発生した後、とりわけ再三にわたって激怒した数百人のベトナムの若者が中国大使館の前に集まり、「中国はベトナムの主権を侵害するな!」と抗議した場面を見た瞬間、中国の若い「愛国者」たちが耐えられなくなっただけでなく、当時の「社会主義の兄弟国」との親密な関係を今も鮮明に記憶している一世代前の人々も驚かされた。 一方、中国周辺に位置している小さな国として、ベトナム人は古今を問わず、常に中国の存在を意識してきた。近代以降、ベトナムのナショナリズムはフランスの殖民地主義に反抗する解放闘争の中で現れ、アメリカという「張り子の虎」と戦う戦争の中で確立した。北ベトナムが1975年に南ベトナムを統一し、ベトナム社会主義共和国を打ち立てたが、統一後の社会主義建設の期間はそれほど長くなかった。1986年から始まった「ドイモイ」や、その後のソ連と東ヨーロッパにおける社会主義政権の崩壊などによって、社会主義はベトナムにおいても中国と同様にその生命力を失い、民族の尊厳や国家利益を強調する「愛国主義」が再び登場することになった。 以上のように、ベトナムのナショナリズムは反仏戦争と反米戦争の中で高揚した。しかし、遠く離れたフランスやアメリカを敵と見なさなくなった今日、払拭できない歴史的コンプレックスや、パラセル諸島(西沙諸島)の領土や資源など現実的な利益にかかわる競争関係によって、近隣の中国は一躍ベトナムのナショナリズム最大の仮想敵となった。 ナショナリズムも立場を代えて考える必要がある 今回の中越紛争は、ポスト冷戦期における両国のナショナリズムが社会主義イデオロギーに干渉されない状態の中で、初めて起きたものである。中国人にとって、今回の衝突は、ベトナムのナショナリズムの特徴を認識し、ベトナム人の中国観を知るための好機でもある。 中国のナショナリズムの一つの重要な特徴として、中国は被害者であって、強くないから長期にわたって強権からの侮辱や不平等な対応を受けてきた、と考える傾向が今もなお健在である。そのため、多くの中国人は自分の「愛国主義」イコール正義であって、それは疑う余地のない正当性を持っていると堅く信じてきた。しかし、この信念は中国にしか存在しないということではない。ベトナムのナショナリズムも思考上では同様な特徴を具えている。多くの中国人は、ずっと他者にしか使ってこなかった「覇権」「圧迫」「侵略」のような決まり文句が自分の身に使われる日が来るとは思いもよらなかったであろう。 近年、中国と日本の間ではたびたび「歴史問題」で衝突が生じている。中国人から見れば、日本人は過去の侵略戦争に対する反省が不十分で、心をこめて中国に謝罪する気もないという。それゆえ、日本は中国のナショナリズムの攻撃対象となってきた。しかしながら、ベトナム人にとっては、中国人も同じであろう。多くのベトナム人の目からすれば、中国は、歴代の王朝がベトナムに対する侵略と圧迫を繰り返してきたことに対して反省したこともないし、1979年にベトナムに侵入したことに対しても未だに謝罪しようとしていないということだろう。 確かに、日本の中国侵略と中越間の度々の摩擦や衝突とは、時空も環境も異なっているので、一律に論じることはできない。とはいえ、ナショナリズムの視点から見れば、「歴史問題」をめぐっては、中国人が思っている日本とベトナム人が思っている中国は、本質的に重なる部分があるだろう。 中越の歴史観のずれ 歴史は立場によって解釈も異なる。かつて宗主国と属国の関係にあった中国とベトナムは、現在、それぞれ主権をもつ独立国家となりまたそれぞれ歴史的関係の解釈権を握っている。両国の歴史関係に関連する記述と解釈はどの程度異なっているだろう。 二千年以上に及ぶ長い歴史の流れの中で、ベトナムはある時には中国王朝の直接支配する領土であり、ある時には独立または半独立の国であった。近代以前の東アジア地域では、中国の強い文化力と経済力を背景に、皇帝を中心とした「天下」が作り上げられた。それは「華夷秩序」と呼ばれていることである。ベトナムは「北属」の時期(北に位置する中国の属国とされた時期)には中国の皇帝の直轄下の「地方」で、自主の時期には中国皇帝が冊封した属国すなわち朝貢国であった。「華夷秩序」が存在していた時代には、多くの国は中国皇帝に朝貢していた。朝鮮は満州族が明朝を滅ぼすまで中国に対して恭しい態度をとり続けていた。一方、琉球は中国に対する二心のない忠誠さという点で属国の中で突出した存在であった。しかし、何度も中国王朝に反発するベトナムは異なっていた。したがって、中国歴代の士大夫も現代のエリートたちも、歴史の中でたびたび中国に「逆らう」ベトナムを「反逆児」と見なしてきた。このような歴史の中で蓄積されてきた「中心一邊陲」すなわち中心に位置する中国(皇帝)の威徳を受けた周囲の国々は中国にひれ伏して従うのが当然という歴史観は、代々の中国人がそれを有していた。「反覇権」というスローガンを高く掲げた社会主義の中国でさえ、1979年の中国・ベトナム戦争(中国では「自衛反撃戦」と称す)を論じる際に、中国の行動を臆することなくベトナムへの「懲罰」だと言い切れたのも、その歴史観を反映したと捉えられる。 では、近代の中国から「中華民族の傍系」と見なされてきたベトナム自身はどのような歴史観を持っているのであろうか。 いま、ベトナム駐中国大使館のホームページには、次のような「ベトナム歴史」に関する記述(中国語)が書かれている。 紀元前111年、甌雒國(西瓯(タイアウ)人と駱越(アウヴェト)人からなるベトナム最初の国名)は中国漢朝の侵略を受けた。それ以降、ベトナムは十数世紀以上にわたって中国の封建王朝に支配されてきた。北方の封建王朝の統治の下で、ベトナム人民は勇敢で気丈に戦い、支配者に反抗する武装蜂起を次から次へと起こした。紀元10世紀にベトナム人民はようやく独立国を打ち立て、その名を「大越国」とした。紀元1010年に昇龍(今のハノイ)に遷都して以来、大越国は長期にわたる独立の時代に入った。この期間にも、ベトナム人民は何度も外国の侵略を経験した。その中には中国宋朝、元朝、明朝と清朝が含まれる。(抜粋) この歴史観には近代主権国家の思想やナショナリズムにおける民族と国家に対する思考様式の特徴が反映されている。この記述の中に当時の中越間の従属関係およびそれにかかわる「冊封」と「朝貢」などの史実がまったく触れられていないのは、こうした歴史の考え方によるものである。ほかにもう一例を挙げよう。ベトナムの人々は、今でも「徵氏姉妹」(または「二徵夫人」)が勇敢に漢の侵略に抵抗した物語を興味深げに語る。この歴史に関しては、中越間の論述も大きく異なっている。ベトナムの史料では、徵氏姉妹が中国の官吏の圧迫によって蜂起したことを強調しているが、中国の史書では、この二人は詩索(姉徵側の夫)が罪を犯し、死刑に処せられたことをきっかけに、その私憤をぶちまけるために反逆したと記されている。  本稿では中国とベトナムのナショナリズムの歴史的文脈を検討し、ナショナリズムの構築における人為的な側面も指摘した。高揚している今日の中国とベトナムのナショナリズムの本質に対する理解を深めるきっかけになればと期待したい。 *本稿は『明報月刊』2011年7月号に掲載された記事「「侵略」與「懲罰」之間:中越衝突的民族主義特徵」を本人の承諾を得て日本語に訳しました。原文は中国語。李軍訳。 ---------------------------------- <林 泉忠(リム・チュアンティオン)☆ John Chuan-Tiong Lim> 国際政治専攻。中国で初等教育、香港で中等教育、そして日本で高等教育を受け、2002年東京大学より博士号を取得(法学博士)。同年より琉球大学法文学部准教授。2008年より2年間ハーバード大学客員研究員、2010年夏台湾大学客員研究員。 ---------------------------------- 2011年8月19日配信
  • 2011.08.10

    エッセイ302:宋 剛「高速鉄道の事故についての雑感:ダチョウ役人と歴史的一歩」

    テレビをつけたら、必ず目にはいってきたのが中国の高速鉄道の事故だった。最初、中国国内のメディアでは雷で事故が起きたと伝えたが、どちらかというとその時点で私はその真実性を疑っていた。日本のユビキタスなど情報技術に関心をもっているためか、雷ぐらいであんな事故になるのはどうしても信じられなかった。(理工系ではないから、ド素人の観点かもしれないが。。。) その後、事故の真相究明が期待されている中で、先頭車両を粉々にして土に埋める行動に出た鉄道部に呆れた。遺族の憤りと記者の疑問に対して、鉄道部の役人の「救援活動のためだ。君らが信じるかどうか知らないが、私は信じる」という、いかにもへたくそな、かつ傲慢な言い訳を聞いた途端、怒りが限界を越えて、僕はプッと吹き出してしまって、以前読んだ本のタイトルを思い出した。 それは渡辺淳一の『鈍感力』だ。現在の中国の多くの役人はまさにこの「鈍感力」という言葉に尽きると思う。みんな見事な鈍感力の持ち主だ。しかし、それは生れつきのものではない。上ばかり向いて、下の国民の声を聞く耳を持たない役人がいることは否定できないが、それより多くの場合は実際の状況が分かっているにもかかわらず、分からない振りをする人たちだ。その原因を追究すると、時代の変わり目にあるからだと僕は思う。 サーズ以来、中国の中央政府は世界の目が気になって常に世界を見ている。一方、国民は新しい情報技術の発展によって海外情報を簡単に入手できる。つまり、中国全国は上から下まで、中央から地方まで政権の民主化、行政の透明化、言論の自由化を意識している。しかも、それがスピードアップしていることにも誰もが気付いている。言い換えれば、今までと同じやり方で国民を統治することはできなくなったと思う支配層と、今までと違う目線で政府を見てもよくなったと思う国民が生まれたのだ。 そういうような状況の中で、一番いづらいのは役人層だ。役職昇進するには、中央政府の歓心を得れば良いという時代がだんだん遠ざかっていく。国民の声に耳を傾けなければならないと承知するものの、どこまで聞けば、中央政府の思惑と一致するのか、国民の反感を買わないのか、自分にとって一番無難なのか分からない。古い出世法が効かなくなったのに、新しい処世法が未だにないまま。焦っている。一人では不安で、方向が見えないから癒着する人もいる。いつまでも権力が使える自信がないから汚職して海外に逃げる人もいる。変わらなければならないという危機感をもちながらも、どう変わればよいか分からないので現実から目を背けようという鈍感が相まって生じるひとが一番多く存在する。まるで、ダチョウみたいだ。何かあったら、何よりも頭を土の中に埋めるのが先だ。事故後、列車を埋めたり、掘り戻したり、賠償金を提示したり、路線を回復させたりして、理解しがたい行動だらけだが、とにかく速やかだ。そのバカ速さはまさに危機感と鈍感が共存する役人たちの特徴を物語っている。 ところで、今回の事故で、遺族たちの声は中央政府に届き、温家宝総理を現地に訪れさせるほどの力を持っていることが明らかになった。これは歴史的に大きな一歩だと僕は評価したい。中国の歴史を振り返ってみると、どの時代の国民も大体忍耐強い。しかし、その忍耐袋の緒が切れると、蜂起して政府を倒さないと気が済まない国民性も有している。死者39人の遺族は100人くらいだろう。彼らが政府を倒す可能性はゼロだ。そのような思いを持っている人さえ一人もいないと思う。しかし、100人単位、100人単位の怒りを無視し続けると、いつかそれが千、万単位に達するに違いない。それが怖くて国の最高指導者は花を持って遺族たちの憤りを静めに動いた。つまり、100人の国民が総理を動かしたのだ。血まみれの一歩だが、それは、中国の歴史上一度もなかったことなのだ。これをきっかけに、中国のダチョウたちも土に埋めた頭を出して、もう少し現実に直面するだろう。 事故の処理に注目しながら、中国社会に起きた微かな変化を感じた昨今だった。 ---------------------------------------- <宋 剛 (そーごー)☆ Song Gang> 北京外国語大学日本語学部講師。SGRA会員。 ---------------------------------------- 2011年8月10日配信
  • 2011.08.03

    エッセイ301:マックス・マキト「マニラ・レポートin蓼科」

    2011年7月2日(土)にSGRA蓼科フォーラム「東アジア共同体の現状と展望」が開催された。休憩中にパネルディスカッション司会の南基正さんからコメントを発言するよう頼まれた。フォーラムの真っ最中にマニラの家にいる愛犬が静かに亡くなったという知らせを受け取った僕は集中力が乱れていたが、要請に応じて何とか発言した。しかし、わかりにくいところもあったと思うので、ここで改めて整理して、その後の印象と一緒に述べさせていただきたい。 今回の発表者のなかには東南アジアの代表がいなかったが、基調講演をしてくださった恒川惠市先生と、黒柳米司先生がASEANに関して十分に話してくださった。それに少しだけフィリピンの立場を付け加えたい。 スペイン帝国がフィリピンを米国に譲るというパリ協定が署名された一年後の1899年、16世紀からスペインの海軍基地であったスービックに、星条旗が初めて掲げられた。それから100年近くたった1992年、米海軍は撤退し星条旗は下ろされた。その後、予想通り、スービック地域の経済は低迷したが、フィリピン政府がそこに経済特区を設置した結果、地域経済は回復に向かった。 当時、米軍の撤退はどちらかというと良かったと思った。あの国はうっかりすると軍事力をもって地域介入する傾向が強いので、東アジア共同体の構築はやはり我々東アジア人に委ねるべきであろうと思った。冷戦ベビーである僕としてはこのような考え方は驚くべきことであった。冷戦の恐怖に育てられたものにとっては、守ってくれる米軍はどうしても欠かせない存在のはずだったからだ。 スービックから米軍が撤退した頃、東アジア共同体について楽観的になる展開がいくつかあった。たとえば、東アジアの暴れん坊である北朝鮮をこの地域に巻き込もうとする日朝平壌宣言とか、あるいは、共産主義を支えてきた中央計画経済を放棄した中国の市場経済の導入とか。当時は、アメリカがなくてもこの地域はやっていけるのではないかという前向きな気持ちが湧いていた。 このような希望を象徴する当時のあるテレビ番組を思い出す。ある日本の俳優が銀座でタクシーを拾う。運転手さんに「ロンドンまでお願いします」という。目指す方向は西。太平洋を経て西欧を目指した今までとは正反対の、まさにその時代の風向きである。 残念ながら、平壌宣言は失敗に終わった。北朝鮮は弾道ミサイルの開発を進め、命中率はともかく、その射程距離に東南アジアの一部分も入ってしまった。そして、市場経済から膨大な富と力を蓄えた中国が、東南アジアの心とも言うべき南シナ海において威圧的な軍事力をもって暴走し始めた。シンガポール、ベトナム、そしてフィリピンはこのような行動に反発している。恒川先生が指摘されたように、残念ながら東アジアではまだ冷戦が終わっていない。 あの冷戦の悪夢が蘇った現状では、どうすればいいのか。基調講演にも取り上げられた逆転の発想があった。それは、黒柳先生が言及された「弱者である」ASEAN主導型の東アジア共同体である。しかしながら、この構想は東アジアの先輩である日中韓が容認するかどうかまだはっきりしていない。ERIAという東アジア共同体のための研究機関の本部は、日本の支持も受けてジャカルタにあるASEAN事務局に設置されたから、日本はASEAN主導を支持しているようである。しかし、韓国はソウルに設置したかったという。いずれにせよ、このASEAN主導型の東アジア共同体構築という構想に日中韓の容認が得られるならば、ASEANは喜んで協力するであろう。 ただし、この構想が容認済みという前提であれば、逆に日中韓の協力が必要となる。この構想が上手くいくためにはASEANの団結が益々重要になる。東アジア共同体の構築はASEANの中の一国だけでできることではないからである。そう考えると、日中韓に対して、ASEANを分裂させるような行動を避けていただくようにお願いしたい。 国際分業化は恒川先生の共同体の定義にも入っているが、僕もその通りだと思う。日本の企業も東アジアの国際分業化に大きく貢献してきた。EUのような制度がなくてもこれだけ域内貿易が進んでいるのはその結果とも考えられる。しかし、最近の動きをよくみると、日系企業の東アジアへの進出はある特定の国や地域に集中的に行われるようになりつつある。それ故に、日本は共有型成長という素晴らしい理念を持っているにも関わらず、バランスを欠いた分業化に成りつつある。このような不均衡な状態は結局ASEANの団結に打撃を与えかねない。 中国はまだ東アジアの国際分業化に日本ほど貢献していないが、領土問題の取り組みはASEANの分裂を進める危険性が十分にある。中国は多国間の話し合いの誘いに応ぜず、二カ国間の話し合いにしか対応しない姿勢である。これはASEANの分裂にも繋がりかねない。二カ国間の政府レベルの話し合いの大部分は不透明であり、政府同士が納得できたといっても、必ずしもそれが国民にとって良いとは限らない。劉傑先生が引用された「(東)アジアは中国の共通な故郷である」という言葉で思い出した。昔、中国の艦隊がアジアの海を帆走し回っている航海時代もあったが、当時の西洋的な考えとは違い訪問先を植民地化するような方針はなかった。乗組員が訪問先の国を気に入って、そこに住もうと決心して居残ったこともあった。今の中国はその原点に回帰していただきたい。 韓国は、北朝鮮巻き込み作戦の失敗や市場経済の過剰な導入により、日中韓の中では一番東アジア共同体の必要性を痛感しているかもしれない。1997年に勃発した東アジア金融危機によりIMFから厳しい政策転換を余儀なくされ、韓国社会は多大な打撃を受けたし、北朝鮮からは死者が出る軍事攻撃を2回も受けたのであるから。それだけに、ソウルではなくジャカルタ(ASEAN本部)にERIA本部が置かれたのは韓国にとって悔しいであろうが、朴栄濬さんの発表にあったように、韓国が戦後すぐに太平洋同盟構想を発表したように、今でもASEANを信じてくれるようお願いしたい。 今回のフォーラムの内容について、SGRAの仲間たちもいろいろと考えたようだ。意外にも、中国本土の仲間たちがASEAN主導型の共同体構築に寛大な姿勢であった。「強者同士だけだと何もならない」、「問題の島はどの国のものでもなく、皆で共有すればいい」、「皆さんの話は客観的でいい」など。これに対して、「辺境」の東北アジアの仲間たちは、「中国中心にすべき」という意見が強かった。「ASEAN+辺境」と提案しても直ぐ中国のことが気になって否定された。 良き地球市民を目指しているSGRAは、それ自体が小さな東アジア共同体の構築をしようとする活動である。SGRAは僕にとって共同体構築の悲しさや喜びを分かち合える場でもある。ASEANも軍事同盟もなくなり、東アジアという共同体のみとなる希望の未来、僕がこの目で見ることは出来ないかもしれないが、今から仲間たちとその準備を始めたい。 -------------------------- <マックス・マキト ☆ Max Maquito> SGRA日比共有型成長セミナー担当研究員。フィリピン大学機械工学部学士、Center for Research and Communication(CRC:現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、アジア太平洋大学にあるCRCの研究顧問。テンプル大学ジャパン講師。 --------------------------
  • 2011.07.06

    エッセイ300:孫 軍悦「沈黙と喧騒」

    吉村昭が『海の壁』という本のなかで、明治29年(1896年)6月に三陸沿岸を襲った大津波を次のように描いている。「波は、すさまじい轟きとともに一斉にくずれて部落に襲いかかった。家屋は、たたきつけられて圧壊し、海岸一帯には白く泡立つ海水が渦巻いた。人々の悲鳴も、津波の轟音にかき消され、やがて海水は急速に沖にむかって干きはじめた。家屋も人の体も、その水に乗って激しい動きでさらわれていった。干いた波は、再び沖合でふくれ上ると、海岸にむかって白い飛沫をまき散らしながら突き進んできた。そして、圧壊した家屋や辛うじて波からのがれた人々の体を容赦なく沖合へと運び去った」。 そして、住民の被害状況について、彼はこう語った。「死体が、至る所にころがっていた。引きちぎられた死体、泥土の中に逆さまに上半身を没し両足を突き出している死体、破壊された家屋の材木や岩石に押しつぶされた死体、そして、波打ち際には、腹をさらけ出した大魚の群のように裸身となった死体が一列になって横たわっていた。……梅雨期の高い気温と湿度が、急速に死体を腐敗させていった。家畜の死骸の発散する腐臭もくわわって、三陸海岸の町にも村にも死臭が満ち、死体には蛆が大量発生して蝿が潮風に吹かれながらおびただしく空間を飛び交っていた」。 吉村は大げさな想像によってこのような地獄絵を描いたのではない。実際『風俗画報 大海嘯被害録』に、〈唐桑村にて死人さかさまに田中に立つの図〉や〈広田村の海中漁網をおろして五十余人の死体を揚げるの図〉などが残されている。過去の記録と今日の津波報道を比べると、両者の違いが一目瞭然である。家屋や車や畑が濁流に飲み込まれ、町全体が跡形もなく消え去った衝撃的な映像に、轟音、腐臭、そして自然が直に破壊した「人の体」が決定的に欠けている。皮肉にも、メディアが高度に発達する現代社会において、被災地の現実を理解するには、より一層鋭敏な感覚と逞しい想像力が必要である。 明治、昭和期に三陸沿岸を三度も襲った大津波の様子を仔細に記録し、自然の暴威に無残に傷つけられた「人の体」をありのままに描いた吉村は、三陸地方をこよなく愛していた。なぜなら、「三陸地方の海が人間の生活と密接な関係を持って存在しているように思える」からだ。「海は、人々に多くの恵みを与えてくれると同時に、人々の生命をおびやかす過酷な試練をも課」し、「大自然の常として、人間を豊かにする反面、容赦なく死をも強いる」――それが作家の捉えた海と人間との「密接な関係」の内実である。その「異様なほどの厚さと長さをもつ鉄筋コンクリートの堤防」、「みすぼらしい部落の家並みに比して、不釣合なほど豪壮な構築物」を目の前にして、作家は、世界に誇る人間の偉業に感服し安心するのではなく、むしろ「それほどの防潮堤を必要としなければならない海の恐ろしさに背筋の凍りつくのを感じた」のだ。 吉村の語りにおいて、人間は直に触れた大自然の圧倒的な力に恐怖を覚え、抵抗を試みる受け身的な存在である。それに対し、自然を利用、破壊、修復、保護、再生といった文言が示すように、今日われわれが自然を語る際、人間は常に「主語」の位置を占めている。「エコ」や「共生」の思想にも、人間の意識と技術次第で、自然をいかようにもできるという主人の姿勢と優越感が滲み出ている。こうした人間の自然に対する鈍感と技術への過信が、地震や津波といった自然現象を完全に「想定」の枠に嵌め、逆に原子力発電という本来コントロールしなければならない人間の所為を十全に「想定」しなかった、という二つの「想定」に関する過ちにも現れている。 自然災害は、地震や津波といった自然現象そのものではなく、自然現象とそれが発生する瞬間の人間社会との相互作用の結果である。そのため、災害は自然の脅威を表していると同時に、<いま・ここ>にある人間と社会の一面をも映し出している。犠牲者のなかに、近隣の家々が目の前の道路を流されているにもかかわらず、指定された避難場所を一歩も離れようとしない人がいた。渋滞に巻き込まれながらもなお自分の足より車を信じていた。迫りくる波の轟音も、屋上から必死に叫ぶ避難者の警告も、ラジオの情報に空しくかき消されてしまった。本来道具に過ぎないテクノロジーとマニュアルこそ命綱だと思い込んだ人間は、もはや自分の身体と感官を信用せず、自らの知性で物事を判断することを放棄してしまっているのではないか。 思えば、この雑学全盛の時代に、我々は自らの生活乃至生死を左右する物事に対して驚くほど無知である。福島第一原発事故が起きて三か月も経ったいま、なお毎日新しいトラブルが起き、新しい言葉が飛び交っている。これほど集中的に外来語を勉強したのは初めてだ。事故が起きる前、この世界有数の地震多発列島の上にすでに54もの原発が建てられていたことを、果たしてどれほどの人が知っていたのか。これまで、私たちはただ、一所懸命働き、税金を納め、安全、安心、快適な生活を保証してくれるはずのシステムに頼り、そのシステムを作動させるマニュアルに従って生きてきた。このシステムとマニュアルによって秩序づけられた世界は、「偶然性をただ障害物としてしか、それどころか敵として、そして脅威としてしか見ないのである。理想は、偶然性を支配すること、偶然性を最小限に還元する管理の網を大きくすることである」(チャールズ・テイラー)。だが、莫大な税金をつぎ込んで開発された放射性物質予測システムが電源喪失のため、コンピュータすら起動できなかった。入念に設計された防災マニュアルが自然の本質である偶然性を排除したがゆえに十全に機能しなかった。これから、われわれが、より一層精確化、精緻化するシステムとマニュアルの開発に向かうのか、それとも偶然性に満ちた自然と現実に鋭敏に反応する、豊かな感覚と想像力が備わる身体を取り戻すのか、それこそ今回の災害がわれわれに突きつけた一つの課題であろう。 確かに、被災地が無法地帯と化してしまった歴史(明治、昭和期の大津波の後にそうした現象が起きていた)に照らし合わせると、今日の日本では、人々は実に冷静に行動し、秩序を守っていた。それは言うまでもなく、災害が起きるたびに、新たな教訓を総括し、不断な検証、批判、運動を通して、防災、救援、補償など様々な法律と制度を整備してきた結果でもある。だが、毎日食料品と必需品の調達のために長蛇の列に並び、肉親を探すために、避難所の入り口に張り出された名簿を指でなぞり、海岸をさまよい、避難所を回り、遺体安置所に訪れ、そして再び真っ暗な避難所に戻る生活を、ただ「秩序ある冷静な行動」という、繰り返されてきた常套句で称賛するのは、たとえどんなに善意が込められ、どんなに愛国心がくすぐられても、私には同調できない。まして、「フクシマフィフティ」といった英雄物語は、かの国のおなじみの愛国主義を動員する典型的な形態にほかならず、グローバル経済の時代に安い賃金で過酷な労働に従事する下請け会社の労働者の実態を何一つ表していない。 そもそも、外面的な冷静な行動が必ずしも内面の平静を意味しない。沈黙もまた美徳とは限らない。早朝から臨戦態勢でスーパーの入り口に並び、開店とともに一斉に走り出す主婦たちの「冷静な買占め」が、まさに極度の不安の表れではないか。一方、原発に反対する科学者をスタジオに招かず、誰もが思いつく疑問や反論を決して口にしないテレビメディアの「冷静な対応」は、一種の隠蔽としか言いようがない。そして、地震直後に、毎日何時間もかけて黙々と会社へ出勤していく都内のサラリーマンと、原発事故の原因も責任の所在も分からぬまま、節電を呼びかける善良な市民の姿に、むしろ現実へのあまりにも早い追認と隷属の慣性、忍従の態度が見え隠れはしないか。 「これしかできない」と「謙遜」しながら、節電を励行し、義援金を送り、東北を応援する消費活動を意識的に行い、「ニッポンが強い」と国民の士気を鼓舞するのは結構なことだ。が、国の命運を決める政治的権利を与えられていない外国人と同じこと「しかできない」という意識は奇妙ではないか。一個人としての倫理的行動以外に、主権者としての公的責任もあるはずだ。今日の日本においては、もはやシステムとマニュアルに生死を預け、大手メディアとそれによって選別された専門家に討議を任せ、政治家に決断を委ねるわけにはいかない。主権者として責任を果たすための充分な時間を確保し、自らの生活に深くかかわる事柄を学習し、討論を重ね、決断を下し、明確に意思表示すると同時に、政策決定につながる方途を探ることが、国民の権利でありまた義務でもあろう。民主主義を保障する制度は民主主義を実践する人がいなければ意味をなさない。同調性への圧力がとりわけ強い日本の現実的状況においてこそ、私は沈黙と秩序を守る「冷静な行動」に賛辞を贈るより、反原発の旗を掲げ、漸く声を上げ始めた「騒がしい日本人」にエールを送りたい。 -------------------- <孫 軍悦 (そん・ぐんえつ) ☆ Sun Junyue> 2007年東京大学総合文化研究科博士課程単位取得退学。現在、東京大学教養学部講師。SGRA研究員。専門分野は日本近現代文学、翻訳論。 -------------------- 2011年7月6日配信