SGRAかわらばん
エッセイ299:シム チュン キャット「日本に「へえ~」その8:それでも耐えるのですか?」
いつもクールでいたい僕は最近ちょっとイライラしています。理由はもちろん分かっています。分かっているからこそ、余計イライラします。
3・11の天変地異から100日以上が経ちました。余震のない日が増え、あの日に覚えた地震に対する恐怖心が減りました。スーパーの棚に並ぶ品物が増え、ACのテレビCMが減りました。被災地で見つかる死体の数が増え、新聞のトップページに載る行方不明者の数が減りました(でもまだ7000人以上が行方不明です)。いろいろなものや気持ちが増減している中で、変ってほしいのに変らないものもあります。あきれるというより怖いぐらい、福島原発事故の深刻さとそれについての専門家たちの発言の曖昧さは変りませんでした。諦めたくなるというより殴りこみたいぐらい、日本の国会での笑えない茶番劇も変りませんでした。そして、驚くというより悲しいぐらい、日本国民の忍耐強さも変りませんでした。
大震災が起きたあの日の夜、首都圏ではJRや私鉄の運行停止のため、数百万人もの人々が秩序を守りながら、暴動も起こさず大渋滞でもクラクションを鳴らさずに黙々と行動する映像に世界中の人たちは驚愕し、そして絶賛しました。まるで無声映画を見ているようで、いささか不気味に思いながらも、「すごい!さすが耐えることを美徳とする日本だなぁ~」と日本人でない僕もなぜか誇らしげでした。あの夜に余儀なく5時間もかけて歩いて帰宅する羽目になった日本人の友人も、途中でのどが渇いてビールを飲みたいと思ったのに「そういう雰囲気ではなかった」という理由で我慢し、耐えたそうです。まあ、僕もあの日以降、記録的に連続で17日ぐらい禁酒していたので、その気持ちは分からなくもありません。でも、あの日から100日以上、3ケ月以上も経ちましたよ。変ってほしいのに変らないものに耐えることはもうそろそろやめませんか。
去年の10月に、フランスでは350万人もの労働者と民衆が決起し、大規模のデモとストライキが全土にわたって発生しました。印象的だったのが、15万人以上の高校生や大学生も戦列に加わり、300校以上の学校の正門を封鎖したことです。彼らが拳と声を上げて大反対したのはサルコジ政権の「年金制度改革法案」でした。そのほぼ1ヶ月後、イギリスでも大学生によるデモが各地で相次ぎました。彼らが蜂起した理由は大学の授業料値上げでした。翻って日本はどうでしょうか。日本の年金制度がフランスより健全に発展しているとは全然思いません。国立大学の授業料も、日本は世界一高いです。でもそれに対して、な~~にも起こりません。国会議事堂の前に集まってデモをやる人もだ~~れもいません。理不尽な制度に対して、多くの日本人がひたすら耐えているように見えます。別の意味ですごいです!しかも、今の日本が直面しているのは年金制度とか大学授業料の高さのような制度上の問題でもあるまい。こういうことを言うと、「ああ~日本は豊かになりすぎたから、若者が無気力・無関心・無感動になってしまっているんだよ、シムくん」という答えが必ずと言っていいほどオジさん世代から返ってきます。でも、すみません、今の日本はもう「豊かになりすぎた」状態でもないでしょう。それに、フランスもイギリスもそんなに貧乏な国ではありませんから。問題の核心は別にあるのでしょう。
福島原発事故の衝撃を受け、イタリアが国民投票による圧倒的な多数票で原発の再開をしないと決めました。それに先行して、地震が起こらなさそうなドイツでさえ原子力発電所を全廃することを閣議決定しました。イタリア国民の反応を集団ヒステリーとコメントした日本の某衆議院議員もいましたが、では「感情に左右されない、奥ゆかしい」当の日本が原発についてこれからどういう方向に向かっていくのか、冷静に教えていただきたいものです。このまま20年後、30年後にも現存の原子力発電所が次に来る大震災に、日本国民のようにじっと耐えられることを祈るしかないのでしょうか。
今でも進行中の原発問題について、確かに風評被害を訴えた農民漁民による抗議や子どもの被曝最小化を求めた福島県の親たちによるデモもありましたが、いずれも当事者によるごく小規模なものでした。原発反対のデモも日本各地で実施されたことはされたのですが、数万人規模で参加したものは聞きませんし、おかしいことにマスコミも大きく報道しません。そして残念なことに、それらの声が、それこそ集団ヒステリーのように茶番狂言を繰り返す日本の国会に届いているようにも見えません。
英語圏で伝えられてきた古典的な警句の中に、「ゆでカエルになるな」というのがあります。熱いお湯にカエルを入れると驚いて飛び跳ねます。ところが、常温の水に入れてゆっくり熱していくとそのカエルは耐えながらも水温に少しずつ慣れていきます。そして熱湯になったときには、もはやそのカエルは跳躍する力すら失い、飛び上がることができずにゆで上がってしまうというのです(これはあくまで寓話の一種なので、実際にカエルを使って試さないでくださいね)。最近、僕をイライラさせているのが、まさにこの「耐えるカエル」と、恐らく数では勝るとも劣らない「我関せぬカエル」なのです。日本人でもない僕がイライラするのもおかしいというか、しょうがないかもしれませんが、最近よく耳にするこの「しょうがない」という言葉も実は僕のイライラのもう一つの原因でもあったりするのです!
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<シム チュン キャット☆ Sim Choon Kiat☆ 沈 俊傑>
シンガポール教育省・技術教育局の政策企画官などを経て、2008年東京大学教育学研究科博士課程修了、博士号(教育学)を取得。日本学術振興会の外国人特別研究員として研究に従事した後、現在は日本大学と日本女子大学の非常勤講師。SGRA研究員。著作に、「リーディングス・日本の教育と社会--第2巻・学歴社会と受験競争」(本田由紀・平沢和司編)『高校教育における日本とシンガポールのメリトクラシー』第18章(日本図書センター)2007年、「選抜度の低い学校が果たす教育的・社会的機能と役割」(東洋館出版社)2009年。
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2011年6月29日配信