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エッセイ300:孫 軍悦「沈黙と喧騒」

吉村昭が『海の壁』という本のなかで、明治29年(1896年)6月に三陸沿岸を襲った大津波を次のように描いている。「波は、すさまじい轟きとともに一斉にくずれて部落に襲いかかった。家屋は、たたきつけられて圧壊し、海岸一帯には白く泡立つ海水が渦巻いた。人々の悲鳴も、津波の轟音にかき消され、やがて海水は急速に沖にむかって干きはじめた。家屋も人の体も、その水に乗って激しい動きでさらわれていった。干いた波は、再び沖合でふくれ上ると、海岸にむかって白い飛沫をまき散らしながら突き進んできた。そして、圧壊した家屋や辛うじて波からのがれた人々の体を容赦なく沖合へと運び去った」。

そして、住民の被害状況について、彼はこう語った。「死体が、至る所にころがっていた。引きちぎられた死体、泥土の中に逆さまに上半身を没し両足を突き出している死体、破壊された家屋の材木や岩石に押しつぶされた死体、そして、波打ち際には、腹をさらけ出した大魚の群のように裸身となった死体が一列になって横たわっていた。……梅雨期の高い気温と湿度が、急速に死体を腐敗させていった。家畜の死骸の発散する腐臭もくわわって、三陸海岸の町にも村にも死臭が満ち、死体には蛆が大量発生して蝿が潮風に吹かれながらおびただしく空間を飛び交っていた」。

吉村は大げさな想像によってこのような地獄絵を描いたのではない。実際『風俗画報 大海嘯被害録』に、〈唐桑村にて死人さかさまに田中に立つの図〉や〈広田村の海中漁網をおろして五十余人の死体を揚げるの図〉などが残されている。過去の記録と今日の津波報道を比べると、両者の違いが一目瞭然である。家屋や車や畑が濁流に飲み込まれ、町全体が跡形もなく消え去った衝撃的な映像に、轟音、腐臭、そして自然が直に破壊した「人の体」が決定的に欠けている。皮肉にも、メディアが高度に発達する現代社会において、被災地の現実を理解するには、より一層鋭敏な感覚と逞しい想像力が必要である。

明治、昭和期に三陸沿岸を三度も襲った大津波の様子を仔細に記録し、自然の暴威に無残に傷つけられた「人の体」をありのままに描いた吉村は、三陸地方をこよなく愛していた。なぜなら、「三陸地方の海が人間の生活と密接な関係を持って存在しているように思える」からだ。「海は、人々に多くの恵みを与えてくれると同時に、人々の生命をおびやかす過酷な試練をも課」し、「大自然の常として、人間を豊かにする反面、容赦なく死をも強いる」――それが作家の捉えた海と人間との「密接な関係」の内実である。その「異様なほどの厚さと長さをもつ鉄筋コンクリートの堤防」、「みすぼらしい部落の家並みに比して、不釣合なほど豪壮な構築物」を目の前にして、作家は、世界に誇る人間の偉業に感服し安心するのではなく、むしろ「それほどの防潮堤を必要としなければならない海の恐ろしさに背筋の凍りつくのを感じた」のだ。

吉村の語りにおいて、人間は直に触れた大自然の圧倒的な力に恐怖を覚え、抵抗を試みる受け身的な存在である。それに対し、自然を利用、破壊、修復、保護、再生といった文言が示すように、今日われわれが自然を語る際、人間は常に「主語」の位置を占めている。「エコ」や「共生」の思想にも、人間の意識と技術次第で、自然をいかようにもできるという主人の姿勢と優越感が滲み出ている。こうした人間の自然に対する鈍感と技術への過信が、地震や津波といった自然現象を完全に「想定」の枠に嵌め、逆に原子力発電という本来コントロールしなければならない人間の所為を十全に「想定」しなかった、という二つの「想定」に関する過ちにも現れている。

自然災害は、地震や津波といった自然現象そのものではなく、自然現象とそれが発生する瞬間の人間社会との相互作用の結果である。そのため、災害は自然の脅威を表していると同時に、<いま・ここ>にある人間と社会の一面をも映し出している。犠牲者のなかに、近隣の家々が目の前の道路を流されているにもかかわらず、指定された避難場所を一歩も離れようとしない人がいた。渋滞に巻き込まれながらもなお自分の足より車を信じていた。迫りくる波の轟音も、屋上から必死に叫ぶ避難者の警告も、ラジオの情報に空しくかき消されてしまった。本来道具に過ぎないテクノロジーとマニュアルこそ命綱だと思い込んだ人間は、もはや自分の身体と感官を信用せず、自らの知性で物事を判断することを放棄してしまっているのではないか。

思えば、この雑学全盛の時代に、我々は自らの生活乃至生死を左右する物事に対して驚くほど無知である。福島第一原発事故が起きて三か月も経ったいま、なお毎日新しいトラブルが起き、新しい言葉が飛び交っている。これほど集中的に外来語を勉強したのは初めてだ。事故が起きる前、この世界有数の地震多発列島の上にすでに54もの原発が建てられていたことを、果たしてどれほどの人が知っていたのか。これまで、私たちはただ、一所懸命働き、税金を納め、安全、安心、快適な生活を保証してくれるはずのシステムに頼り、そのシステムを作動させるマニュアルに従って生きてきた。このシステムとマニュアルによって秩序づけられた世界は、「偶然性をただ障害物としてしか、それどころか敵として、そして脅威としてしか見ないのである。理想は、偶然性を支配すること、偶然性を最小限に還元する管理の網を大きくすることである」(チャールズ・テイラー)。だが、莫大な税金をつぎ込んで開発された放射性物質予測システムが電源喪失のため、コンピュータすら起動できなかった。入念に設計された防災マニュアルが自然の本質である偶然性を排除したがゆえに十全に機能しなかった。これから、われわれが、より一層精確化、精緻化するシステムとマニュアルの開発に向かうのか、それとも偶然性に満ちた自然と現実に鋭敏に反応する、豊かな感覚と想像力が備わる身体を取り戻すのか、それこそ今回の災害がわれわれに突きつけた一つの課題であろう。

確かに、被災地が無法地帯と化してしまった歴史(明治、昭和期の大津波の後にそうした現象が起きていた)に照らし合わせると、今日の日本では、人々は実に冷静に行動し、秩序を守っていた。それは言うまでもなく、災害が起きるたびに、新たな教訓を総括し、不断な検証、批判、運動を通して、防災、救援、補償など様々な法律と制度を整備してきた結果でもある。だが、毎日食料品と必需品の調達のために長蛇の列に並び、肉親を探すために、避難所の入り口に張り出された名簿を指でなぞり、海岸をさまよい、避難所を回り、遺体安置所に訪れ、そして再び真っ暗な避難所に戻る生活を、ただ「秩序ある冷静な行動」という、繰り返されてきた常套句で称賛するのは、たとえどんなに善意が込められ、どんなに愛国心がくすぐられても、私には同調できない。まして、「フクシマフィフティ」といった英雄物語は、かの国のおなじみの愛国主義を動員する典型的な形態にほかならず、グローバル経済の時代に安い賃金で過酷な労働に従事する下請け会社の労働者の実態を何一つ表していない。

そもそも、外面的な冷静な行動が必ずしも内面の平静を意味しない。沈黙もまた美徳とは限らない。早朝から臨戦態勢でスーパーの入り口に並び、開店とともに一斉に走り出す主婦たちの「冷静な買占め」が、まさに極度の不安の表れではないか。一方、原発に反対する科学者をスタジオに招かず、誰もが思いつく疑問や反論を決して口にしないテレビメディアの「冷静な対応」は、一種の隠蔽としか言いようがない。そして、地震直後に、毎日何時間もかけて黙々と会社へ出勤していく都内のサラリーマンと、原発事故の原因も責任の所在も分からぬまま、節電を呼びかける善良な市民の姿に、むしろ現実へのあまりにも早い追認と隷属の慣性、忍従の態度が見え隠れはしないか。

「これしかできない」と「謙遜」しながら、節電を励行し、義援金を送り、東北を応援する消費活動を意識的に行い、「ニッポンが強い」と国民の士気を鼓舞するのは結構なことだ。が、国の命運を決める政治的権利を与えられていない外国人と同じこと「しかできない」という意識は奇妙ではないか。一個人としての倫理的行動以外に、主権者としての公的責任もあるはずだ。今日の日本においては、もはやシステムとマニュアルに生死を預け、大手メディアとそれによって選別された専門家に討議を任せ、政治家に決断を委ねるわけにはいかない。主権者として責任を果たすための充分な時間を確保し、自らの生活に深くかかわる事柄を学習し、討論を重ね、決断を下し、明確に意思表示すると同時に、政策決定につながる方途を探ることが、国民の権利でありまた義務でもあろう。民主主義を保障する制度は民主主義を実践する人がいなければ意味をなさない。同調性への圧力がとりわけ強い日本の現実的状況においてこそ、私は沈黙と秩序を守る「冷静な行動」に賛辞を贈るより、反原発の旗を掲げ、漸く声を上げ始めた「騒がしい日本人」にエールを送りたい。

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<孫 軍悦 (そん・ぐんえつ) ☆ Sun Junyue>
2007年東京大学総合文化研究科博士課程単位取得退学。現在、東京大学教養学部講師。SGRA研究員。専門分野は日本近現代文学、翻訳論。
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2011年7月6日配信