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エッセイ302:宋 剛「高速鉄道の事故についての雑感:ダチョウ役人と歴史的一歩」

テレビをつけたら、必ず目にはいってきたのが中国の高速鉄道の事故だった。最初、中国国内のメディアでは雷で事故が起きたと伝えたが、どちらかというとその時点で私はその真実性を疑っていた。日本のユビキタスなど情報技術に関心をもっているためか、雷ぐらいであんな事故になるのはどうしても信じられなかった。(理工系ではないから、ド素人の観点かもしれないが。。。)

その後、事故の真相究明が期待されている中で、先頭車両を粉々にして土に埋める行動に出た鉄道部に呆れた。遺族の憤りと記者の疑問に対して、鉄道部の役人の「救援活動のためだ。君らが信じるかどうか知らないが、私は信じる」という、いかにもへたくそな、かつ傲慢な言い訳を聞いた途端、怒りが限界を越えて、僕はプッと吹き出してしまって、以前読んだ本のタイトルを思い出した。

それは渡辺淳一の『鈍感力』だ。現在の中国の多くの役人はまさにこの「鈍感力」という言葉に尽きると思う。みんな見事な鈍感力の持ち主だ。しかし、それは生れつきのものではない。上ばかり向いて、下の国民の声を聞く耳を持たない役人がいることは否定できないが、それより多くの場合は実際の状況が分かっているにもかかわらず、分からない振りをする人たちだ。その原因を追究すると、時代の変わり目にあるからだと僕は思う。

サーズ以来、中国の中央政府は世界の目が気になって常に世界を見ている。一方、国民は新しい情報技術の発展によって海外情報を簡単に入手できる。つまり、中国全国は上から下まで、中央から地方まで政権の民主化、行政の透明化、言論の自由化を意識している。しかも、それがスピードアップしていることにも誰もが気付いている。言い換えれば、今までと同じやり方で国民を統治することはできなくなったと思う支配層と、今までと違う目線で政府を見てもよくなったと思う国民が生まれたのだ。

そういうような状況の中で、一番いづらいのは役人層だ。役職昇進するには、中央政府の歓心を得れば良いという時代がだんだん遠ざかっていく。国民の声に耳を傾けなければならないと承知するものの、どこまで聞けば、中央政府の思惑と一致するのか、国民の反感を買わないのか、自分にとって一番無難なのか分からない。古い出世法が効かなくなったのに、新しい処世法が未だにないまま。焦っている。一人では不安で、方向が見えないから癒着する人もいる。いつまでも権力が使える自信がないから汚職して海外に逃げる人もいる。変わらなければならないという危機感をもちながらも、どう変わればよいか分からないので現実から目を背けようという鈍感が相まって生じるひとが一番多く存在する。まるで、ダチョウみたいだ。何かあったら、何よりも頭を土の中に埋めるのが先だ。事故後、列車を埋めたり、掘り戻したり、賠償金を提示したり、路線を回復させたりして、理解しがたい行動だらけだが、とにかく速やかだ。そのバカ速さはまさに危機感と鈍感が共存する役人たちの特徴を物語っている。

ところで、今回の事故で、遺族たちの声は中央政府に届き、温家宝総理を現地に訪れさせるほどの力を持っていることが明らかになった。これは歴史的に大きな一歩だと僕は評価したい。中国の歴史を振り返ってみると、どの時代の国民も大体忍耐強い。しかし、その忍耐袋の緒が切れると、蜂起して政府を倒さないと気が済まない国民性も有している。死者39人の遺族は100人くらいだろう。彼らが政府を倒す可能性はゼロだ。そのような思いを持っている人さえ一人もいないと思う。しかし、100人単位、100人単位の怒りを無視し続けると、いつかそれが千、万単位に達するに違いない。それが怖くて国の最高指導者は花を持って遺族たちの憤りを静めに動いた。つまり、100人の国民が総理を動かしたのだ。血まみれの一歩だが、それは、中国の歴史上一度もなかったことなのだ。これをきっかけに、中国のダチョウたちも土に埋めた頭を出して、もう少し現実に直面するだろう。

事故の処理に注目しながら、中国社会に起きた微かな変化を感じた昨今だった。

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<宋 剛 (そーごー)☆ Song Gang>
北京外国語大学日本語学部講師。SGRA会員。
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2011年8月10日配信