SGRAかわらばん

  • 2013.11.21

    エッセイ393:韓 玲姫「国境を超えて」

    歩いて2分ほどのところに国境がある。中国と朝鮮の国境線―鴨緑江である。幼いころよく川辺で洗濯をしていた母の隣で、川の向こうにいる人にまで声が届くかなあと、大きな声を出してみたり、手を振ってみたりした。また、川が凍結する冬には、川の真ん中まで歩いてみたり、氷にぽつんと空いた穴を囲んで黙々と洗濯している(中国と朝鮮の)人達の姿をわざわざ覗きにいったりしたことを、今も鮮明に覚えている。ということもあって、私にとって国境は程遠いものではなかった。いや、むしろ身近で親しいものだった。   そのような国境が私の心で変化し始めたのは、来日して韓国系の企業に就職してからだった。そもそも、子供の時に住んでいた町は朝鮮族が16%で、大半が漢民族であったこともあって、小学校の時から家と学校では朝鮮語、外では中国語と二つの言語を使い分けてきた。たまに近所の意地悪い男の子にからかわれたこともかすかに覚えてはいるが、それよりも彼らと楽しく過ごした記憶のほうが今も懐かしく思われる。当時の私にとって朝鮮族の人も、漢民族の人も一様だった。だって、私達は同じ中国の同じ場所に住んでいるのだから。私達は同じ中国語を話す中国人なんだ。私達は産みの違う母親から生まれた兄弟なんだ。という認識だったかもしれない。   一方で、中国語と朝鮮語のバイリンガルに、日本語ができるという語学能力が決め手となって、私は念願だった日本での就職を果たした。生れて初めて中国の朝鮮族として少し優越感を感じる瞬間だった。韓国にある親会社と日本支社、日本にある得意先、そして中国、海外にある取引先を連携する橋渡し役は、なかなかやりがいのあるものだった。そして、かつて地理の授業で必死に覚えていた一本一本の国境線が少しずつ心の中から薄まっていった。   しかし、ある出来事で私は自分のアイデンティティについて疑問を持つようになった。それは韓国人の駐在員と外回りの際は必ずと言っていいほど「韓国人の○○です。」と紹介してもらうことだった。「実は中国人ですが…」と喉まで出かかった言葉を飲み込み、笑顔でごまかすが、なんだかすっきりしない気分になる。自分のルーツを辿ってみると、確かに祖父の世代に朝鮮半島から中国に渡ってきたゆえに、韓国・朝鮮人の血が流れているには違いない。だが、中国で生まれた3世として、朝鮮族の学校に通ったとは言え、中国教育と漢民族の影響を多く受けながら育ってきた私には、韓国人のことをあまりにも知らなさすぎた。はっきり言って、今の韓国社会についてはまったく門外漢なのだ。来日までに私のアイデンティティは韓国・朝鮮人という認識よりも、朝鮮語が話せる中国人という意識のほうがもっと強かった。   同じようなことが繰り返され、私は次第に彼らの目に映った自分は韓国語が話せる中国人ではなく、かつて中国に住んでいた同じ民族であることに気付いた。彼らは同じ韓国人として私を受け入れてくれた。今振り返ってみると、30年も異なる世界で離れて暮らしてきた私を、快く受け入れてくれた彼らに心より感謝したい。しかし、当時の私には正直何とも言えない不思議な気分だった。そして、「私はいったい何者?」、「私のこれまでのアイデンティティはなんだったの?」と、初めて心の中に葛藤が生じた。   幼いころ、川一つ挟んでまったく違和感を覚えず暮らしてきた身近で親しい「国境」が、なぜか疎遠になったように感じた。いや、まるで小説の中の世界のように私から遠ざかっていくようだった。いつの間にか私の心の中にはひそかに国境線が引かれていたのである。とはいうものの、それが自分のルーツを考え直す契機となり、その後韓国社会について調べたり、韓国のエンターテインメントを通して韓国の文化や歴史を理解したり、かつて心の中から遠ざかっていった「国境」に少しでも近づけようとした。   その後、自分のアイデンティティとは関係なく、私は日本語教育を目指して筑波大学の博士後期課程に入った。いつからかはわからないが、名前を言っただけで「韓国人?」と聞かれる時が多くなった。昔だったら「いえ、中国人です。」ときっぱり否定したかもしれない。だって、パスポートの国籍にはっきり「中国」と書かれているのだから。しかし、今は「う~ん、宇宙人です。」と冗談交じりで返すことが多い。まあ~、中国人でも韓国人でもいいや。私はわたしだから。私は国境を超えて生きているから。このような考えはかつて国籍に縛られていた私を気楽にさせる。   今年の10月から東京で日本語講師として勤めることになった。そもそも日本での日本語講師といえば、日本語母語話者がほとんどであるようだ。そのためなのか。応募した学校の中には、模擬授業の時に「先生~わかりません」と、何度も何度も質問を投げてきた生徒役の審査員がいた。いじわるなのか、まじめなのか、教職経験を持つ私にはなかなか理解しがたい。   グローバル化が進んでいる現在において、「日本語教育は日本人が教えるもの」という固定観念を捨て切れず、未だに一本の線で分断しようとする現場の考え方に正直戸惑う時も多々ある。そのような気風があふれる現場で、冷たい風当たりを感じながら、この道を歩き続ける魅力があるのかと思うと、ちょっと虚しい気分になってしまう。しかし、いつかは国境を超えて世界でつながっていく日本語教育の可能性を信じて、願って、私は今日も、明日も一歩一歩、歩み続けたい。   --------------------------------------- <韓玲姫(カン レイキ) Lingji Han> 中国吉林出身。延辺大学日本語学部卒業後、延辺大学外国言語学及応用言語学研究科にて文学修士号取得。延辺大学の日本語講師を経て来日。日本の貿易会社で7年間勤務後、2013年3月に筑波大学で学術博士号取得。現在東京で日本語講師非常勤、中国語講師非常勤を務める。研究分野は比較文化、日本語教育、中国語教育。 ---------------------------------------     2013年11月20日配信
  • 2013.11.13

    エッセイ392:金キョンテ「あまちゃんと韓国」

    2013年はまだ終っていないが、今年最高にヒットしたドラマといったら間違いなく「あまちゃん」であろう。「あまちゃん」はNHK朝のドラマで、2013年4月1日から2013年9月28日まで全156話が放送され、毎回最高視聴率20%を上回る記録を残したという。日本の友達から「あまちゃんすごく面白いよ」といわれ、半信半疑で見てみたが、本当に面白かった!   東北地方の仮想都市、北三陸市を舞台として東京の女子高生アキが、母の春子と一緒に母の実家に行き、祖母の夏と会い、海女である彼女の影響を受けて海女になる決心をする。一方、北三陸には、東京に行ってアイドルになることを夢見ている足立ユイという同じ年の少女がいて、二人は友達になる。二人は各々地元のアイドル的な存在になって人気を集めることになる。その後、アキは東京に行きアイドルになるため努力するが、ユイは事情によって地元に残ることになる。私が見たのはここまでで、後は東日本大震災以後二人が北三陸にもどって復興のために頑張る話が描かれているという。   脚本家、宮藤官九郎特有の、漫才を彷彿させるテンポの速い台詞、本物の女子高生を連れてきたような純粋なイメージのアキ(能年玲奈)、小泉今日子、宮本信子など、ベテラン俳優の熟練した演技、1984年と現在を行き来する絶妙な演出、日本の「メインカルチャー」だけではなく、サブカルチャーの要素を巧みに盛り込んだ奇抜さ。普段ドラマをあまり見ない私だが、自分でも知らぬうちにこのドラマに夢中になり、数十編を見てしまった。(1回に15分だけだが)   私がこのドラマを好きになった理由は (たぶん、このドラマが人気になった重要な要素の一つだと思うが) このドラマがとても優しくて、暖かいというところにある。久しぶりに登場した人情味の溢れるドラマだった。最近のドラマや映画は、残酷さを強調する刺激的なものが多い。もちろん世の中は厳しい面があり、我々はそのなかで生きていかなければいけない。そのようなストーリーや表現が描かれているのも、また人間の生き方を映すのであろう。しかし、毎回そのような場面だけを見ていたらたまらない。   世の中の別の一面、暖かい世の中を見たいし、癒されたい。「あまちゃん」は、私たちに足りなかったその部分を満たしてくれたのではないだろうか。寅さん好きな私としては、本当に満足できるドラマだった。(「男はつらいよ」シリーズに、あけみ役で出演する美保純さんがドラマでは海女の美寿々さんとして出演したので嬉しかった) 最近、不倫と出生の秘密を素材にしたドラマが流行っている韓国で、このようなドラマが放映されたら逆に人気を得るのではないかと思っている。   さて、韓国では日本ドラマはあまり人気がない。地上波テレビでは放送されていないし、ケーブルテレビでは放送されてはいるが視聴率は高くない。韓国で日本ドラマはマニア層だけに人気があるといっても過言ではない。   それなのに、「あまちゃん」というドラマが最近、韓国で言及され始めた。ニュースにも登場した。しかし、「あまちゃん」が人口に膾炙しているのは、ドラマが面白いからではない。ドラマの人気に影響を受け、日本(三重県)で、海女漁を国連教育科学文化機関 (ユネスコ)の無形文化遺産に登録させようとする動きに危機感を感じたからである。   世界の中で現在、海女漁をしているところは韓国と日本だけ (これはドラマの中でも海女美寿々の台詞を通じて言及される) 。韓国では彼女たちを海女(해녀, ヘニョ)と呼ぶ。海女は韓国のほぼ全国の海辺で活動している。海辺の近くで育った私も海女さんたちがうにをとるのを見たことがある。今も実家に行けば彼女たちを見ることができる。   韓国で海女といえば、 濟州島(チェジュド)がいちばん有名で、いま活動している海女の人数も多い。濟州では海女漁のユネスコ無形文化遺産への登録を目標としていたが、日本で、「あまちゃん」ブームで海女が全国民的な注目を浴びることになり、ユネスコ無形文化遺産登録にも積極的に動きはじめたので、危機を感じたのである。単独登録になると、類似なものの登録は難しくなる。すなわち、韓国か日本のどちらかが先に登録されたら、他の国は登録できない。 一時期は共同登録を検討していたようだが、今のところは足踏みの状態らしい。   2002年ワールドカップ誘致競争を思い出したら、思い過ごしだろうか。度を超す競争はどちらかひとつの 犠牲につながる。両国が必死になる必要がある分野かどうかよく分からない。今のところで最善の「解決案」は共同登録しかないと思うが、競争が好きな人たちは「共同」を嫌がる。こうして登録の問題は政治的な問題になってしまった。   さて、考えておきたいのは、果たして我々が今まで海女に関してどのくらいの関心をもっていたのかということだ。彼女たちが採ったうにとサザエをおいしく食べながらも、それを採った彼女たちのことを考えたことがあるだろうか。日本も同じだろう。「あまちゃん」が人気を得る前に、日本の海女の生活を知っていた人は多くなかったと思う。私も彼女たちをそばで見ながらも彼女たちの暮らしについて興味を持ったことはない。しかし、このような「作られた」「急造された」興味が彼女たちの生活を潤沢にし、海女という文化的な伝統を維持できる道につながる。皮肉な現実である。 そりゃ「あまちゃん」のなかの北三陸市だって、アキとユイの地元アイドル活動で観光業を復興させたのですから。   歴史問題で相変わらず韓国と日本の間は騒々しい。海女で戦う必要があるのだろうか。海女は世界のなかで韓国と日本にしかいない。日本と韓国の普通の人々が海辺に円座して、お互いに話し合いながら、両国の海女さんが採って来る甘いうにを食べるのはどうでしょうか。あ、うにをだれが多く採るかで競争することならいいかもしれない。   -------------------------------------- <キム キョンテ Kim Kyongtae> 韓国浦項市生まれ。歴史学専攻。韓国高麗大学校韓国史学科博士課程。2010年から東京大学大学院人文社会研究科日本中世史専攻に外国人研究生として一年間留学。研究分野は中近世の日韓関係史。現在はその中でも壬辰戦争(壬辰・丁酉倭乱、文禄・慶長の役)中、朝鮮・明・日本の間で行われた講和交渉について研究中。 --------------------------------------   2013年11月13日配信
  • 2013.10.30

    エッセイ391:フリック・ウルリッヒ「ドイツから見える日本」

    日本留学を終え9月にドイツに帰国した後、ドイツから日本がどのように見えるかについてのエッセイを依頼された。日本滞在中は、ドイツ語によるメディアに触れる機会がとても限られていたため、ドイツで日本がどのように報道されているかを知ることは難しかった。また、ドイツを離れている間に、メディアが伝える日本のイメージに変化が起きたかどうかもあまり詳しくは分からない。それゆえ、これから述べることは、あくまでも私の主観的かつ個人的な意見として受け取って頂きたい。   ドイツ人が日本をどう見るかと言えば、まず日本の「遠さ」を取り上げなくてならないだろう。ドイツ人にとって、日本はおそらく非常に遠い存在である。日本人の間では、ドイツと日本は、第二次世界大戦中に同盟関係であったという意識が今でも割と存在しているようだ。しかし、ドイツ人の間では、そのことは忘れ去られたことではないものの、当時の歴史はとても暗い歴史であるため、三国同盟などに関連する事柄をことさら取り上げることはまずない。それゆえ、日本とドイツが歴史的につながっているという意識がドイツ人の間で低いのは当然である。   もちろん、日本製の車や電化製品は、ドイツでも日常生活に欠かすことができないものになっている。そのため、日本はテクノロジーがとても発達している国というイメージが強い。1970年代、ソ連で製作された『ソラリス』というSF映画は、日本が撮影の場所になっていたことを思い出す。テクノロジーの発達や、日常生活の機械化などの面から見て、ドイツにおける日本のイメージは、もしかすると今でも少しSF的な色彩を持っているかもしれない。日本と聞いて、ドイツ人が普通に思い浮かべる風景はおそらく世界遺産として選ばれた富士山よりも、新宿や六本木のような高層ビルが乱立する場所であり、それは先に取り上げたSFのような日本のイメージをさらに強化するのである。   残念なことに、ドイツのメディアにおける日本についての報道はきわめて偏っているというしかない。日本は変わった趣味を持つ国であり、日本が登場するニュース以外、メディアが取り上げるのはあくまで日本の変わった部分である。そのようなイメージを多くのドイツ人が持っている。私自身はこのような日本の描き方に強い反感を抱いているが、この種の偏った国の描き方はおそらくお互い様だろう。例えば、数年前、日本のある航空会社が東京からミュンヘンへの直行便を始めた時に、延々と続く飲み会のイメージでドイツを売り込もうとしていた。ドイツもビールとソーセージだけではなく、複雑な文化を持っている。日本もドイツも相手が持っている一方的なイメージに対して文句は言えないだろう。文化に関心を持つ人にとっては、日本仏教の禅や石庭といったものが日本のイメージになっている。総じて言えば、日本製のテクノロジーに日常的に触れているとはいえ、日本はドイツ人にとって遠い存在であり、ドイツ人が持っているぼんやりとした日本のイメージには矛盾点が多い。   しかし、日本についてのイメージでは、最近、悲しい点が一つ増えた。それは福島の原発事故である。東京が2020年のオリンピックの会場に選ばれた際、日本はドイツから遠く、ドイツではニュースにすらならなかったのではないかと聞かれた。しかし、スポーツに情熱を傾けるドイツでは、そのようなことはあるはずがない。そして、ドイツでは東京オリンピックに関連して福島が話題になった。   まず、なぜドイツ人がそれほど福島にこだわっているかについて述べなくてはならない。鉄のカーテンの西側では、ドイツはおそらく一番直接にチェルノブイリ原発事故の影響を受けた国の一つだろう。私の子供時代までさかのぼるが、私も「雲」が通った時の屋外活動の自粛や汚染のため砂遊びが禁止されたことなどを体験した。私の世代以上のドイツ人は皆このような経験と記憶を持っている。25年以上たっているものの、今でも放射能汚染が基準を超えているため、キノコの採集や狩の獲物の消費が禁止されている場所もある。このような経験をもとに、ドイツでは強い反原発運動が形成され、それは反原発文学のような文化活動にまで発展している。その代表的な存在は後に映画化された『雲』(日本語訳で『みえない雲』)という小説である。学校で読んだ人も多く、知らない人は殆どいないと思う。ドイツ語では、『雲』ほど原発事故への恐怖を表現する言葉はおそらくないだろう。   私自身もドイツ人として当初から、日本政府及び日本人の事故への対応の甘さに強い違和感を持ち、そしてそれは今でも続いている。オリンピック会場の選出の件に限らず、日本について語る時には福島が話題にされることが多い。日本についてのニュースでは、福島についてのものが著しく多い。遠いゆえに、日本国内の事情はそれほど注目されないが、福島において新たな問題が起きた場合、ドイツのメディアはそれにきわめて敏感であり、すぐに反応する。このような現象は決してドイツに限らないと思う。福島の原発事故は日本国内のみならず、様々な意味でグローバルな問題でもある。日本政府が「日本を取り戻す」というスローガンをいくら掲げても、まず原発事故の問題を速やかに解決し、国際社会の信用を取り戻さない限り、おそらく取り戻せるものは一つもないだろう。   ------------------------------------------- <フリック・ウルリッヒ Ulrich Flick> ドイツ・ハイデルベルク大学東アジア研究センター博士課程。2001年、中国研究と日本研究を専攻としてハイデルベルク大学修士課程へ入学。北京及び東京留学を経て、2009年修士課程を卒業。同年、博士課程へ入学。2010年後期より2013前期まで早稲田大学外国人研究員。 ------------------------------------------     2013年10月30日配信
  • 2013.10.23

    エッセイ390:葉 文昌「トルコ旅行記(その2)」

    翌日、フェリーでボスポラス海峡を渡ったアジア側を散策した。「アジア」といえども建物や雰囲気はヨーロッパであった。トルコ人も私にはアジア人ではなくてヨーロッパ人に見える。散策していると、一行の中の何人もが鼻がムズムズしてきてくしゃみが続いた。通りにあるすべての銀行のATMを見ると画面の強化ガラスが蜂の巣状に割れている。そして道路標識は押し倒された状態で歩道に横たわっている。広告看板には「UTAN! Polis」という落書きが。意味は分からないがその類の落書きは世界共通なので簡単に想像できよう。きっと昨日はここでもデモがあって、くしゃみは残った催涙ガスのせいなのであろう。でも店はちゃんと開いていて、それらの破壊以外は平常通りだった。   旅の後半は飛行機で400㎞離れたアンタルヤへ行った。地中海に面したリゾート地である。海沿いにはパステルカラーのリゾートマンションが続く。イスタンブールの気温は20度前後でとても気持ちよかったが、アンタルヤは40度の暑さだった。タクシーには空調がない。日本や台湾だったら汗が噴き出していたに違いないが、トルコではさほどの苦痛にはならなかった。乾燥しているので汗がすぐ蒸発して涼しく感じるのだろう。乾燥のせいでトルコではすぐ喉が渇き、水分と塩分の補給が必要になる。トルコではミネラルウォーターとアイランという塩味のヨーグルトが随所で売られている。アイランは塩味である以外は日本や台湾のヨーグルトと全く同じ味であったが、体が塩分を欲しがっているせいか、やみつきになった。   アンタルヤ滞在中は日帰りで世界遺産のパムッカレにも行った。車の中からトルコの地形を眺めることができた。山はわずかな草に覆われているか、はげ山が多かった。東アジアだったらこういう山は雨で土砂崩れを起こしているだろうが、ここには鉄砲水がないので大丈夫そうだ。パムッカレの観光客は殆どがロシア人であった。寒いロシア人が暖かいトルコにあこがれてよく観光に来るのだそうだ。道路沿いの売店もロシア人観光客を乗せたバスが来るたびに溢れかえり、ロシア人観光客は沢山のお土産を買って帰って行く。   お店に行くと試食を薦められる。食べてみたい気持ちはあるが、試食したら押し売りされてしまうという警戒心が働いて断ってしまう。日本や台湾ではたとえ買わないつもりでも試食するのだが。実際にはトルコのお店だって消費者心理を販売の手段としているわけではなく、「美味しければ買えばいい」程度に思っているのかも知れない。また、街で地図を広げて場所を確認している時、大学生風の若者が親切に場所を教えてあげると言って来た。心の中で「気をつけろ!」という警戒が先走ったが、結局はとても親切な若者だったのである。言葉も文化も知らない場所にいると警戒心が高まるが、自分の邪推を醜悪と反省した。   中東の料理の特徴は羊肉である。かつて羊肉は苦手であったが、学生の頃に渥美財団のバーベキュー会でケバブ(羊の串焼き)を食べて羊肉が好きになった。羊肉はたっぷりのクミンをかけて焼く。羊肉もクミンも自己主張が激しい。でも一緒だととても相性がよい。更にそれらはビールともよく合う。ドネルケバブという豪快なファーストフードもある。東アジアでも見かけるようになったが、肉片を円筒状に積み重ねて、側面から焼きながらそぎ落としてナンやパンで包んで食べるものである。羊肉100g入りが10リラ(500円)、150g入りが15リラ(750円)であった。最後の3日間は毎日このドネルケバブを食べ続けた。帰国直後は自分の汗が羊肉臭いことに気づいた。中東の人が持つ匂いだ。目から鱗であった。体臭は人種固有のものではなく、食に起因するものだった。   初めての西アジア旅行は刺激的な経験となった。幾つかの国に行ったことがあるヨーロッパに比べると、今回のトルコは異文化度が高かった。異文化の交わる所は創作活動が盛んになるそうだが、これほど刺激が多ければ芸術文化が盛んになるのも頷ける。   旅行の写真をここからご覧ください。   葉 文昌「トルコ旅行記(その1)」はここからご覧ください。   ----------------------------------------- <葉 文昌(よう・ぶんしょう) Yeh Wenchang> SGRA「環境とエネルギー」研究チーム研究員。2001年に東京工業大学を卒業後、台湾へ帰国。2001年、国立雲林科技大学助理教授、2002年、台湾科技大学助理教授、副教授。2010年4月より島根大学総合理工学研究科機械電気電子領域准教授。 -----------------------------------------     2013年10月23日配信
  • 2013.10.16

    エッセイ389:葉 文昌「トルコ旅行記(その1)」

    島根の友人5名と9月にトルコへ旅行した。初めてのイスラム圏への旅である。松江から最も手頃で早い航空便は、岡山空港発、ソウル仁川経由でイスタンブール行の大韓航空だった。朝6時に松江を出て、翌日2時(現地時間夜8時)頃にイスタンブールのアタチュルク空港に到着した。人からなのかそれとも店からなのか、空港ロビーに降り立った時からケバブのにおいがしていた。クミンかマトンかあるいはそれらの混ざり合った匂いである。日本は発酵大豆の匂い(味噌か醤油)、台湾は八角の匂いがするそうだ。たしかに私も最近台湾に帰ると八角か小籠包の匂いが気になる。自分は無色無臭と思っていたらそれは間違いなのである。   空港からタクシーで旧市街地のホテルへ向かう。高速道路の作りや雰囲気が台湾と似ている。それは「緻密度」だろうか。昔台湾から新潟へ出張したとき、アスファルトと道端のコンクリートの継ぎ目の緻密さに感激したことがある。作業員(職人)のこだわりの主張を感じた。これが緻密度である。予算たっぷりに建物を作ったとしても、或いは先進国の建設会社が作ったとしても、見える外装は現地の職人の手で完成されるので、経済的に余裕があるほど完成品の緻密度は高くなる。トルコの経済水準は台湾と同程度なので、同じような緻密度なのだろう。   途中で雑貨屋があったので、イチジクを一個買った。皮は紫色で枝の付け根から半分に裂くと真二つに割れて綺麗に断面が見える。日本のと比べると皮は薄く、中身は色が赤く乾いていてとても甘かった。調べてみるとイチジクの原産は中東とあった。いくら他の土地で人工的に品種改良しても、土地と気候が適した原産に敵うわけがない。果物は日本や台湾では輸入制限があり、現地だけでしか味わえないことが多いので、海外旅行で楽しみにしていることの一つである。   翌朝、ブルーモスク、トプカピ宮殿、地下宮殿と回る。ブルーモスク内部のパステルな色使いは今でも通用する落ち着いたデザインだと思う。またトプカピ宮殿の幾何学的な窓格子も印象的だった。かつて富が集まった場所の工芸品は緻密度が高い。いずれも最高の職人が仕上げたものだからである。すべて人の手によるものなので、時代に関係なく、最高の職人による彫刻や建築を見比べることができる。各国のかつて栄えた時代の工芸を見れば、特定の人種が職人芸に秀でているのではないことがわかる。近代の日本の工芸品は緻密度がとても高いが、これも同じ事が言える。   夜になれば、世界三大料理の一つとされるトルコ料理とお酒の至福の時間となる。出発前の情報によればトルコは穏健イスラム派のエルドアン政権により、飲酒が昔よりも制限されたとあるので、酒が飲めないことを心配していた。しかしいざ到着してみると、青いEFESビールののぼりがあちらこちらにあって安心した。結局はイスタンブールではどこでも普通に飲めたので、トルコ万々歳である。   一行はタクシム通りの近くの予約したレストランへ向かった。タクシム広場では普通に観光客が歩いていたが、その一角では大勢の機動隊員とその車両が陣取っていて、物々しさを感じた。その日はオリンピックが東京に決まった日。それがきっかけで政府への不満が爆発してデモや暴動が起こることないかと心配しながら通り過ぎた。どこの人ですかと聞かれてたので、私が「Taiwan」と返せば「Good。 I don’t like Japan」と、同行者が苦笑する場面もあった。国際連合ツアーの良さもあるものだ。店でトルコ料理とビールを堪能し、気持ちよく酩酊して店を後にする。   トリム(路面電車)に乗るために再度タクシム通りに出た途端、群衆のシュプレヒコールが聞こえて来た。タクシム通りの100m先は人で溢れかえっており、群衆の中心でもある交差点から黒煙が立ち上っていた。そして一部がこちらに向かって走ってくる。スポーツ競技の前のような胸の高鳴りを感じた。同調心理だろうか。こういう時は何も考えずに群衆に吸い込まれる人も多そうだ。でもここは野次馬根性を捨て、トリム乗車を諦め、逆方向から抜けることにした。途中、早歩きで群衆に向かう50人程の機動隊とすれ違う。小路をすり抜けて大通りへ出た。大通りは相変わらず車で満ちているもののデモはなく、その静けさに安堵した。ホテルへ直行し、次の日の為に早めの休息を取った。 (つづく)   関連の写真は、ここからご覧ください。   ----------------------------------------- <葉 文昌(よう・ぶんしょう)  Yeh Wenchang> SGRA「環境とエネルギー」研究チーム研究員。2001年に東京工業大学を卒業後、台湾へ帰国。2001年、国立雲林科技大学助理教授、2002年、台湾科技大学助理教授、副教授。2010年4月より島根大学総合理工学研究科機械電気電子領域准教授。 -----------------------------------------     2013年10月16日配信    
  • 2013.10.02

    エッセイ388:アーロン・リオ「Sさんを待ちながら」

    ミニバスの運転手と2人きりでガタガタ山道を走っている。ちょっと前までは農家と田んぼとガソリンスタンドがいくつかあったけど、今は窓から外を見ると、杉林の起伏ばかりが続き、真夏の昼間なのに杉が太陽を遮ってとても暗い。運転手は、僕の不安な表情に気づいたのか、「カントリーサイドやねん」と、わけのわからない日本語で喋り出してくすくす笑っている。「カントリーサイド?それってちょっと控えめすぎるんじゃない?」と思いながら、やがてまた杉のリズムに戻っていく…   その数年前に、大学を卒業したら大学院で日本の美術史を勉強すると決心した。まずはまだ行ったこともない日本を味わってみようと思い、航空券代を稼いだら一週間東京へ。新宿西口の夜の賑わい、東京国立博物館で見た大徳寺聚光院の襖絵、山手線の大混乱、はじめての酎ハイ…今顧みるとそれぐらいしか思い浮かばない。帰国後、ジェットプログラムに応募した。仏教美術に憧れていたので、軽々しく奈良と京都を第一、第二希望にした。   卒業後の夏、一日千秋の思いで待って、遂に日本国文部科学省から手紙が届いた。「Placement」という欄にローマ字で「Soni Village」としか書かれてない。ワクワクしながらインターネットで検索してみても結果が出ない。 漢字も分からず、 グーグルマップがまだ存在しないあのとき、不安いっぱいで日本人の友人に聞いてみたけれど、「ソニって?漢字は何だろう」。ぶつぶつ言いながら何日かたつと、「Soni Village」のSさんからの簡単な挨拶メールが入った。大変きれいな英語でなぜかほっとした。漢字も委細もわからないまま荷造りをしたり、別れの挨拶をしたりして、一夏を過ごした。関西空港に到着したら、優しそうなSさんが迎えにきてくれると期待していたけど、ミニバスの運転手しかいなかった。   …とうとう、ミニバスが山を下りはじめ、無限の杉林が開けて、明るい谷間が広がった。渓流の両岸に田んぼとビニールハウスが並び、山腹に農家が点在している。一本道は、軽トラックだらけで、川に沿って伸びていって渓流の遠端に消えていく。まさに一度離れたら戻ることができないという桃源郷のようだ。ミニバスはまた坂を上って森を背にして建っている小屋の前に止まった。「ジス、イズ、ハウス」とミニバスの運転手が口ごもって言う。ミニバスの運転手は一緒に荷物を中に運んで、しばらく半分関西弁(当時は一体何語なのかと思ったけど) 半分片言英語まじりで、家の中を回って、指差しながら説明する。布団、固定電話、冷蔵庫、炊飯器、洗濯機。浴室で、これを押し回しこれをガチャガチャ回転させ何とかなると、細かいジェスチャーで何かを説明しているけど意味不明。「Sさん、来週、カムバック」と、妙に親切なミニバスの運転手は小腰をかがめながら家を去った。   ミニバスの運転手が指差した冷蔵庫の扉に、付箋紙で「Please drink!」とSさんによる指示があった。冷蔵庫の中に見つけた「American Cola」の印がついた赤い缶を開け、不味いけどそれを飲みながら、窓から目の覚めるような景色を眺める。渓の向こう側に、あとになって名前がわかった「鎧岳」という山が空に聳えている。目を下ろすと、目の前に広がる田んぼのど真ん中に腰の曲がったお婆さんが篭を背負ってこっちを凝視している。んん?と思いながら、畳の上に横になってぐっすり寝入ってしまう。少しして、玄関から震える女性の声で「先生?先生?」と聞こえてくる。畳の上から襖をそーっと開けて首を伸ばすと、人の姿は見えないけれど、大きい段ボール箱が置いてある。躊躇いながらこそこそと玄関へ這って行くと、なぞの箱にはトマト6個、茄子2個、ほうれん草1束、信じ難いほどたくさんのお米(一年分?)など、ぎっしりと詰まっている。今も尚、誰だったかわからないけど、あの田んぼのお婆さんだったと勝手に信じている。   暫くの間、幾人かの見知らぬ人が突然玄関に現れて、野菜やお米をくれたり、人がたくさん集まった誰かさんの家に連れて行かれて食べさせてくれたりした。酔っ払っているミニバスの運転手もなぜかよくいて、何時も「Sさんがー」なんちゃらかんちゃらと。はじめての日本酒もミニバスの運転手と。ある日突然、医者っぽいおじさんがエアコンを携えて来て、説明も無く壁に取り付けた。別の日、ミニバスの運転手が僕を車に乗せて、途中でお爺さんを迎えに行って、最後にある家の前に止まった。お爺さんだけが家に入って、20分後に車に戻って僕から3万円を求めてまた家に入る。お爺さんが10分後にもどったら、僕に車の鍵を渡して「マイカー」だと。帰りはお爺さんを「マイカー」になったばかりの軽カー(軽自動車)に乗せて。   ミニバスの運転手が約束した通り、着いてから1週間後にSさんが玄関に現れた。英語ぺらぺらの美人のSさんは僕の上司だそうだ。1週間ぶりの英語のためか、初めてなのに久しぶりの親友のように、多事な1週間をSさんに語り尽くす。田んぼのお婆さんが隣人のTさんでSさんの夫の母、エアコンを取り付けた医者っぽいおじさんがクリニックの院長のFさん、3万円を求めたお爺さんが教育長のMさん、姿を表さないマイカーの売り手が教育長のMさんの秘密の恋人、ミニバスの運転手がSさんの友人で役場の整備員のIさん、漢字が「曽爾」、等々、Sさんが1週間の神秘を解いてくれた。   あれから10年も経って東京で博士課程を終えつつある。不慣れなところも未だに多いけど、留学の経験や日常生活や研究によって、日本について色々学んできた。今でも、東京の喧騒から逃げたいときは、時折第二の故郷の曽爾へ。Sさんと一杯やりながら、現実からの息抜き。そのときにいつも考える、今も僕が日本について「知っている」事のほとんどは、Sさんを待ちながら学んだ。   ------------------------------------------- <リオ・アーロン Aaron M. Rio> コロンビア大学美術史考古学部博士課程後期。2004年インディアナ大学東アジア研究部・文学部を最優等で卒業。2008年コロンビア大学美術史文学修士、2010年日本美術史哲学修士。同年より東京大学東洋文化研究所訪問研究員、2012年より学習院大学文学部哲学科客員研究員。研究分野は中世日本の地方画派。 -------------------------------------------   2013年10月2日配信
  • 2013.09.25

    エッセイ387:マックス・マキト「マニラ・レポート2013年夏」

    2013年8月23日、フィリピン大学工学部にて、第16回日比共有型成長セミナー「都会・農村の格差と持続可能な共有型成長」が開催された。   午前8時45分、予定通りフィリピンと日本両国の国旗掲揚で開会した。日の丸は在フィリピン日本大使館から借り、両国の国歌は、英語訳のついたものをYouTubeからダウンロードした。今年の3月のSGRAかわらばん(エッセイ368:マニラ・レポート2013年冬)でも報告したように、本セミナーを共同で主催する団体の2つの国、フィリピンと日本の国旗掲揚と国歌演奏を行うことは、本セミナーの顧問である東京大学の中西徹教授からヒントを得て、フィリピン人で構成されたセミナー実行委員会で私が相談した結果である。ご存知のように、第2次世界大戦の最後に、マニラはベルリンとスターリングラードと並べられるほど壊滅的な破壊を被った。他の東南アジアの都市では、日本軍は比較的早く降伏したのに、なぜかフィリピンでは徹底抗戦をし、大勢の地元住民が巻き込まれた。実行委員会で相談した時、数人の委員が当時自分の家族が日本軍から受けた経験を分かち合ってくれた。私の提案は拒否されるのではないかと思ったが、最後には、全員一致で受け入れてくれた。「あの戦争は忘れてはいけないが、それを乗り越えて前に進まなくては」と。   中西先生が、参加者の誤解を招かないように、この国旗掲揚の意味を、開会挨拶で感動的に語ってくださった(下記参照)。日本大使館から日の丸の貸し出し許可が下りたので、中西先生と日の丸を受け取りにいく時に、大使にご挨拶をしたいと伝えたところ、卜部敏直大使は中西先生のために夕食会を開いてくださった。実行委員会のメンバー数人も一緒に招待され、大使公邸でマニラで一番美味しい和食をご馳走になった。   今回のセミナーは様々な点で今までの記録を更新した。参加者(200人強)、報告(25本)、協力(在フィリピン日本大使館、フィリピン高等教育委員会)、協賛(鹿島フィリピン、農業訓練所、マリア エズペランザ・B・ヴァレンシア&アソシエイツ、ダニエル・B・ブリオネス建設、フィリピン建築家連合)の数が倍増した。皆さんのご支援とご協力に心から御礼を申し上げたい。そして、実行委員たちが本当によく頑張ってくれたことに感謝したい。企画に協力してくれたフィリピン大学建築学部、フィリピン水と衛生センター、元日本国文部省奨学生同窓会、そしてフィリピン大学工学部(とくに機械工学部)にも感謝の意を表したい。   セミナーのテーマは「都会・農村の格差と持続可能な共有型成長」で、5つのブロックに分かれた。「持続可能な共有型成長(その他)」(ブロック1)、「都会・農村のコミュニティにおける社会サービスと生活」(ブロック2)、「持続可能な農業」(ブロック3)、「持続可能な都市」(ブロック4)、「都会の緑とグレー」(ブロック5)である。各ブロックで、平均5人の発表者から各15分の報告があった。合計26本の報告は一日がかりであった(最終的なプログラムは下記リンク参照)。フィリピンは丁度雨季で、セミナーが開催された週はフィリピンの各地で洪水がおこり、キャンセルした報告者や参加者もあった。しかし、実行委員会の懸命な努力により、220人もセミナーに参加してくれた。   名前を出さないのは報告者に対して申し訳ないが、全ての報告についてここで語りきれないので、関心のある読者はぜひ下記リンクより論文要旨をご参照ください。どの報告も、私達が目指すフィリピンのためのKKK(効率・公平・環境)を掲げたものである。ブロック1では、共有型成長KKKに関する定義が取り上げられた。「幸せ」、「環境倫理」、「日本から学んだ共有型成長」というやや広範なものから、フィリピン人が好む「モールに行くこと」やアキノ政権の「健康政策」という具体的な事例まで語られた。ブロック2では、水や衛生を地方に普及させるWASH(Water Sanitation and Health 水に関する衛生と健康)や、高原で母なる自然と調和するシステムを営んでいるKISS (Kapangan Indigenous and Sustainable Systems カパンガン地区における土着かつ持続可能システム)プロジェクトを中心に報告が行われた。お弁当のランチを挟んでブロック3では、ネグロスで実施されている事業を中心に議論が進められた。この事業については僕がDIRI(Downstream Integrated Radicular Import-Substitution 下流統合型幼根的輸入代替)モデルと命名し、研究を続けている。ブロック2と同じくこのブロックでも持続可能な共有型成長のための試みが語られたが、WASHは基本的にPCWSという非営利団体主導、KISSは農地改革省主導、DIRIは民間企業主導と、多様な形がある。ブロック4ではいかにマニラが都市集中型の発展から離れるかという主旨で、他の地方や国(オランダ)の持続可能なモデルが紹介された。同時に、東アジアにおけるフィリピンの戦略的な立地活用についても議論が進められた。ブロック5では、都会の緑とグレーの両側面についての報告があった。前者では、自然が重視されたモールや公共のスペースや都会型の農業がテーマだったが、後者では、都会のゴミは貧しい人々によって処理されているが、その人々を社会の公的な部分に取り入れる重要性が訴えられた。   会場から飛び込んできた質問があった。「あなたはフィリピンにおける共有型成長の実現をどう展望しているか、どのように実現できるかを聞かせてください。」   僕は、過去数年間製造業を、そして近年は農業を通じて、フィリピンの共有型成長へ貢献する道を探ってきた。中小企業・労働者・東アジアと成長が共有できそうなフィリピンの製造業や、KKKを実現できそうな持続可能な農業の可能性を探ってきた。そして、これらの部門を支援・指導する国家戦略がなければ、この可能性を実現することはできないという結論に至っている。僕たちが色々頑張ってみても、あまり進展がない感じである。というのは、フィリピン社会は、海外出稼ぎ者の送金に依存する深刻な病に掛かっている。フィリピン政府が、困難な産業・農業発展戦略を実施しなくても、海外出稼ぎ者から準備外貨が送金される。だから、この質問に対して明るい展望をなかなか描けない。   このように答えざるをえないはずであったが、このセミナーの2週間前に、僕はフィリピンにとって新しい道を発見した。そのきっかけは、国士舘大学の平川均教授、名古屋工業大学の徳丸紀夫教授、創価大学の遠藤美純博士によるフィリピンIT産業の調査である。1週間、IT産業の関係者とのヒアリングを行い、訪問中の皆さんと議論したお陰で、フィリピンIT産業には、上述したような製造業や農業の潜在力を引き出すダイナミズムが十分にあることに気付いた。フィリピンでも共有型成長の展望が明るくなったという気がする。   僕の発表の時に、僕の方から質問を投げかけた。「我々が日本から学べるものに関心がある人?」会場の3分の2ほどが挙手してくれた。手を挙げていない人々よ、これから僕が日本から学んだ共有型成長についてお話ししましょう。日本からいかに学べるか、経済学の視点から説明しましょう。この15分間の話で納得できない方のために、今、「フィリピンのために日本から学ぶ共有型成長」という本のシリーズを執筆しています。   今度のマニラ訪問で、意気投合した仲間達とその本の共著を決めた。その仲間が、いつ出版するのかと聞かれた時に、「5年前(に出版すべきだった)」と即答した。彼はフィリピン政府の政策立案・実行と多くの開発プロジェクトに関わっているからであろうか、この研究の重要性をすぐ理解してくれた。数年間、友人の経済学者に共有型成長の重要性を訴えてきたが、従来型の経済学(つまり市場万能主義)はフィリピンでも根強いらしい。この本にマニラ・セミナーのビションを詳細に書き、従来型と違う経済学をフィリピンに紹介しようと思っている。   この夏、フィリピンで大きなエネルギーをいただいた。第17回日比共有型成長セミナーは、来年の2月にマニラで開催する。「早すぎない?」と悲鳴をあげた実行委員もいたが、幸い20人以上の委員が、フィリピンのためのKKKという我々の使命を理解してくれている。第17回目のマニラ・セミナーは日本の建国の日、2月11日に開催する予定である。   関連リンク等   1.フィリピンの国歌 (英訳付き)   2.日本の国歌(英訳付き)   3.セミナープログラム (又はSGRAセミナー・レポート、まだ作成中)   4.発表書類   5.本エッセイ「マニラ・レポート2013年夏」の英語版   6. マニラ・セミナー16報告書(英語)   7. 中西徹教授の国旗と国歌に関する挨拶文   ■ NAKANISHI, Toru "On Sharing the National Flag and National Anthem"   It is my great honor to be given a chance to talk about sharing and respecting the National Flag and National Anthem between the Philippines and Japan as a Japanese. The idea of this opportunity comes from an informal discussion with Dr. Max, Ferdinand Maquito, Program Organizer of this conference.   Frankly speaking, however, I could say that I have not loved HINOMARU and KIMIGAYO for a long time. I think many Filipinos may be surprised to hear this, but such a feeling is not so unusual among the Japanese people. Such tendency may come from the stance of mass media or the elementary and secondary level education in Japan. Some of us insist that HINOMARU and KIMIGAYO were symbols of the militarism in Japan during the World War II, so that respecting them so much will call back such militarism.   Indeed, the Japanese invasion caused huge damages to the other Asian countries like the Philippines. When I was a high school student, I read Without Seeing the Dawn, translated in Japanese, written by Stevan Javellana. This book inspired me to study the Philippine society. In this book it is eloquently described how the Japanese invasion violently changed the peaceful and happy days in a charming village in Panay Island into cruel and hopeless nights.   On the other hand, many Japanese youth were forced to serve in the so-called Kamikaze suicide squad that executed the suicide attack on the US warships, even if they did not want to die in such manner. Even as the bereaved families tried to understand the tragic loss of their sons, they have been condemned for long time after the War as if their sons were willing offenders. The ordinary people, mga tao, always lose loved ones in all wars everywhere.   From the historical point of view, it is true that the World War II had been a nightmare in the long history of Japan. If we, Japanese, really understand the history of the nightmare, none of us will repeat or participate in such tragic and sad mistakes ever. HINOMARU and KIMIGAYO were not created for the World War II but had existed since the Meiji or Edo era during the 19th century. Our history of invasions of the Asian countries has to be understood and accepted as our serious mistakes which disgraced the long history of Japan.   Furthermore, to tell the truth, I have had a basic question: can Japan really pay due respect to the national flag or the national anthem of another country, if she does not pay due respect to those of her own country? Such a question was elicited by one of my experiences in the Philippines about 5 years ago. (By the way, as introduced I have been coming back and forth to the Philippines more than 30 years now.)   I have been involved in some scholarship program for the students living as informal settlers in Malabon since 2006. The aim of this program is to assist students with good grades in the early high school level to take and pass the entrance examinations of the high standard universities, like the UP, and to assist them until their university graduation. About 5 years ago, I went to register some of my scholars for the entrance examination in a private university. I was doing this task for my wards, because their parents did not have enough money to do so.   After I queued up for long line I was finally in front of the registration window to submit the registration forms. I could get my turn at last. However, at this moment, the officer suddenly stopped working. I could not understand what happened to her and asked her why. Then she pointed to the window behind me without saying anything. When I looked back, everyone was silent in the room and were looking at only one thing: the national flag raising with the accompanying singing of the Philippine National Anthem. Immediately, I also paid due respect to the occasion. To pay due respect to the national flag and the National Anthem is very common everywhere in the world. This scene, however, is rarely seen in Japan! This was a very valuable experience for me, because I confirmed that Japan has not shared such an inspiring global standard.   Both HINOMARU and KIMIGAYO already existed long before the World War II started. If the Japanese still think that they are so sinful and therefore scarlet with shame, there must be a strong movement to change the National Flag and the National Anthem in Japan. However, we have not found such movement in Japan until now. I think all Japanese accept HINOMARU and KIMIGAYO positively or negatively. If one says this proposition is not right, I suppose that he would not face up to the history of Japan or he would like to get the absolution for the sins of the World War II by disguising to hate them.   Based on the above narration, the meanings for me as a Japanese of the honor to share the Japanese National Flag and National Anthem with Filipinos are the following three points: First, HINOMARU and KIMIGAYO continue to warn us against militarism. It can be said that for most of us Japanese to accept HINOMARU or KIMIGAYO gives us some pains to some degree or another. In general, Japanese have a feeling that to positively accept HINOMARU or KIMIGAYO means to have an abnormal thought, though to negatively accept them is not. I am confident, however, that we need some more positive deed, that is to say, to accept the whole of our history by squarely or directly confronting our stigma. HINOMARU and KIMIGAYO show our history itself. They always continue to remind us they are symbols of our long history and yet warn us of our historical events and warn us against futile and destructive military adventures.   The second point concerns a global standard of social custom. According to my understanding, there are no countries where many people have a negative image on their own National Flag and their own National Anthem, except Japan. I believe that we should pay due respect to the social custom based on historical traditions. HINOMARU and KIMIGAYO have a long history as repeatedly mentioned. Therefore, if I do not pay due respect to HINOMARU and KIMIGAYO, I must have not a global standard but a double standard. I am confident, finally, that the Japanese should pay due respect to HINOMARU as our National Flag and KIMIGAYO as our National Anthem.   Finally, all the program board members willingly consented to our, sort of test, for jointly honoring both our countries by this gesture through the initiative of Dr. Max. I know the relatives of many of you have grievous experiences similar to those described in Without Seeing the Dawn. On this point, the word “absolve” in a Catholic sense to which Dr. Max referred is very impressive to me. Here I confirm to be determined that Japan would never repeat the mistake in the World War II. Though our trial balloon today is very small step, I feel confident that it will give us a further push to fostering deeper friendship between the Philippines and Japan. Thank you very much for your kind attention.   (Professor, The University of Tokyo)   英語版エッセイはこちら   -------------------------- <マックス・マキト Max Maquito> SGRA日比共有型成長セミナー担当研究員。SGRAフィリピン代表。フィリピン大学機械 工学部学士、Center for Research and Communication(CRC:現アジア太平洋大学) 産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、アジア太平洋大学にあるCRCの研究顧 問。テンプル大学ジャパン講師。 --------------------------   2013年9月25日配信
  • 2013.09.18

    エッセイ386:角田英一「『3・11』『ふくしま』から考える」

    崔勝媛さんのエッセイ「日本の科学、そして世界化について」を興味深く、また共感をもって拝読しました。と書くと硬くなってしまいますが、「僕と同じことを考えている!」とうれしくなって読んだ、と言うのが本音です。   《大学の「自死」》   現在、大学のグローバル化と留学生をめぐって、「『学』と『知』の魅力」「産業の魅力」「生活環境の魅力」「歴史・文化の魅力」などの議論が行われていますが、「『学』と『知』の魅力」を語るべき大学人の意識、思考力の欠如と視野狭窄に愕然とさせられます。崔さんが書いている「研究者に研究し続けさせる原動力は、純粋な好奇心から出るものである。物事の根本に対する深い考えがあってからでこそ、横への広がりも生まれてくると思う。」というような、「知のありよう」に関する本質的な問いかけや議論を公式の場でできない大学人とは、何なのでしょうか?当然のことながら、大学人の多くは、自らこうした問いかけをしているのでしょうが、公式な議論の場には出てきたがらない。逃げる。あるいは封殺されて出てこられない。「知のありよう」を考え、新しい知を創造する拠点としての大学の「自死」とも言える状況が蔓延しています。   《大学のグローバル化戦略とアメリカ型グローバル資本主義》   大学のグローバル化、グローバル人材育成という課題の下には、アメリカ型グローバル資本主義のもとでの国際競争という背景があります。さらに、地球社会全体に蔓延したアメリカ型グローバル資本主義の根底には、旧態依然とした西洋型近代主義、経済成長至上主義のイデオロギーがあります。ローマクラブが「成長の限界」を発表してから40年がたち、地球大の人口爆発からもたらされるエネルギーの枯渇(現在の原発問題もこの文脈の延長線上にあります)、貧困の増大と食糧の枯渇、環境破壊等々、地球社会の危機的な状況が急速に進展している今日、西洋型近代主義、経済成長至上主義に依拠し、その究極の形態であるアメリカ型グローバル資本主義が、今後数十年にわたって生き長らえて行くのでしょうか?その基盤となっている「科学・技術のあり方」はこのままで良いのでしょうか?   《千年前のアラビア科学の発祥に学ぶ》   崔さんは「日本の科学」をテーマとしてお書きになっていますが、本質には、現代における「科学とは何か?」、「知のありようとは、何か?」についての問いかけをなさっているのではないでしょうか?とは言っても、「科学とは何か?」、「知のありようとは何か?」に答えることは、いかなる天才でも簡単なことではありません。直接的に答える以前に、共に考える「場」を設定することが必要です。   8世紀から12世紀まで、バグダッドを中心にして「アラビアの科学」が勃興し、その後、レオナルド・ダ・ヴィンチを始めとするヨーロッパのルネッサンスの生成に大きな影響を与えたことはご存知の方も多いと思います。アラビア科学の発祥にあたって、アラビア科学を担ったのはアラビア・イスラムの学者ではなく、その大部分が当時の辺境であったトルコ、ペルシャ、更にはインドや中国からバグダッドに招かれた学者や翻訳家でした。(伊東俊太郎著「近代科学の源流」等参照)当時の版図による「世界中」からもたらされた、多様な科学、文化、知識の集積、特に翻訳文化の上に、成立したのが「千年前のアラビア科学」です。正に、一握りの天才ではなく、多様な文化背景や知識を持った大量の学者や翻訳家の集積の上にアラビア科学が発祥したと言われています。新しい「知のありよう」を探り、紡ぎ出すためには、多様な文化背景や知識を持った大量の学者や翻訳家が集まる「場」が必要なのです。   ここまで書くと、「チョッと待てよ、SGRAは正にそうした『場』ではないのか?」と思い始めました。SGRAには、アジアだけでなくアメリカ、ヨーロッパや最近ではラテンアメリカ、アフリカまでの、多様な留学生、学者が集まっています。こうした多様な文化背景や知識を持った大量の学者が集まり、多様な知識を持ちより、自由に議論する「場」は、他にはない貴重なものなのです。   《「3・11」、「ふくしま」の現場から考える》 とは言っても、ただ集まって自由に議論していても議論の基盤が見えてはきません。日本が直面している「3・11」と「ふくしま」は新しい「知のありよう」を模索する上での重要な契機を提供しています。「3・11」では、自然の驚異の前に人間はいかに無力であるか、を思い知らされました。「ふくしま」では、科学・技術、あるいは科学技術の専門家への根源的な疑問や疑いが生まれています。科学・技術信奉の基盤の上に成立している西洋型近代主義、経済成長至上主義、国民国家主義などが崩壊しつつある今日、「3・11」と「ふくしま」は、現代の「知のありよう」に大きな方向転換を迫るものではないでしょうか?   1755年のリスボン大地震の災禍は、ヴォルテール、ルソー、カントなどの哲学に強烈な衝撃を与え、18世紀のヨーロッパ啓蒙思想に強い影響を与えたと言われています。「3・11」と「ふくしま」には、それと同様あるいはそれ以上のインパクトが内包されています。SGRAでは、毎年福島県飯舘村でのスタディーツアーを行い様々な議論をしています。こうした現場を訪れ避難村民の方々の生の声を聴きながら「日本の社会が、また科学がどういう答えを見つけて行くのか」その姿を世界に発信して行くことこそが、「日本なりの世界化」への一歩ではないでしょうか。   ------------------ <角田英一(つのだ えいいち) Tsunoda Eiichi> 渥美国際交流財団理事、アジア21ネットワークス代表、Global Voices from Japan事務局長。 ------------------   2013年9月18日配信
  • 2013.09.11

    エッセイ385:シム チュンキャット「日本に「へえ~」その13:「2020年オリンピックが東京に

    おめでとうございま~す!Congratulations! 恭喜恭喜(ゴンシーゴンシー)!   僕が人生の活動拠点を置いているこの大東京で7年後に夏季五輪が開催されるなんて、祭と人込みが大好きな僕はもう今からワクワクドキドキです!いろいろな競技を生で楽しめるように軍資金を貯めておかないと。シンガポールにいる家族や友人もたくさん来るでしょうしね。だって、これまでオリンピックで金メダルを1個も取ったことのないシンガポールがオリンピックの開催地になることは、隣国との共催ならともかく、たぶん百年後でも無理です。百万シンガポールドル(8千万円弱)という世界最高金額の金メダル獲得賞金を用意しても、シンガポール生まれ育ちでない新移民の力に頼っても、ならぬものはならぬのです。とにもかくにも、東京五輪2020となんら関係を持たない僕も忙しくなること請け合いです!   あっ、話が脱線しました。3回連続で立候補したマドリードと5回目の挑戦となったイスタンブールは本当に残念でした。とりわけ、イスタンブールが掲げた「Bridge Together」(ともに橋を架けよう)というスローガンが一番心に響いただけに、何か心残りになりました。確かに、大陸間、民族間や宗教間の架け橋となることなど、トルコが果たせる役割は大きいと考えられます。特に、「われわれ」と「彼ら」という対抗意識に横たわる溝が深まりつつある今日の国際情勢において、その役割はますます重要でありましょう。ただ、あいにく数ヶ月前に起きた大規模反政府デモとその鎮圧が象徴するように、当のトルコ国内における政府と市民との間の架け橋が覚束ないように見えるうえ、周辺国の不安定情勢も心配の種となりました。もし僕が選考委員だったとしても、リスクを回避し時期尚早という判断を下したことでしょう(誰だよ、君は!と突っ込まないで、オリンピックから縁遠いシンガポール人の戯言だと思ってください、はい)。   それに対して、失礼ながらマドリードのスローガンの意味はいささか掴みきれませんでした。「Illuminate the Future」(未来を照らせ)という文字通りの意味は分かります。だが、その未来というのが、スポーツの未来なのか、それとも人類社会の未来なのか、はたまたEUの未来、もしくは自国経済の未来なのかがはっきりと伝わってきませんでした。いずれの未来にせよ、甚だ無礼ではありますが、それを照らすことを、なぜ未来を担う若年層の失業率が半数超というスペインが先導するのかが今ひとつ理解できませんでした。   一方、東京のスローガンは「Discover Tomorrow」(未来(あした)をつかもう)でした。うん、つかみましょうよ!というよりも、つかまなくても来ますから、未来(あした)は。重要なのは、どのような未来(あした)を目指すかですね。昨日までやってきたことと今日やることによって未来(あした)は創られるものの、ひとたび天災や人災が起きれば未来(あした)ほど脆いものはないことをわれわれは思い知らされてきました。ともあれ、その未来(あした)について、東京は「平和」「アジア」「復興」という理念を打ち出しましたが、単なるスローガンに終始せずにぜひ実践してほしいものです。   しかし、安倍首相のあの「福島第一原発の汚染水漏れはまったく問題なし」や「福島の状況はアンダーコントロール」という自信たっぷりの発言には驚きました。原発事故をめぐる一連の問題がすでにコントロールされているなんて、僕は知りませんでした。大学の教員でありながら、実に不勉強です。まったく問題がなくて状況がコントロールされているのなら、なぜそれを当事者の福島県民の前で発表せずに、地球の反対側まで行ってそれも英語で声高に宣言するのか、ちょっと不親切ですね。   このことも含め東京五輪の再来について、15万人以上の人々が未だに避難中という福島の人々はどのように受け止めているのか、気になります。去年の10月にSGRAの福島県飯舘村スタディツアーで会ったたくさんの顔が頭に浮かんできます。駐車場に設けられた仮設住宅の中の、決して広いとはいえない広場で静かに日向ぼっこしていたおばあちゃん達、誰も住んではいけない村を今でも交代で昼夜防火・防犯巡視を行う村民達、イノシシの増殖に対応しながら実験畑の汚染状況を調べ続ける「ふくしま再生の会」のボランティア達、立ち入り禁止区域の前のゲートで直立し、全身を防護服で包んだ、顔も見えない警備員のお兄ちゃん達…各々どのような思いでロゲ会長の「Tokyo!」を聞いていたのか、想像すると胸に苦みが広がります。まったく問題なしだなんて、そんな子供騙しのことを言わないでくださいよ、首相。つかむどころか、ましてやコントロールするなんて、未来(あした)が見えない人がまだたくさんいることをご存知でしょうに。   祭大好きと言っておきながら、皆がお祭気分で盛り上がっているときに水を差すようなことを言う僕も、大人気ない偽善者かもしれません。五輪招致の成功でアベノミクスの4本目の矢が放たれ、「無駄ではない」と言い切れる公共事業を増やしたり、もっと電気が必要だということで原発再稼働を推し進めたりする口実も手に入ったことから、脱デフレ期待で株価が上がりお金がジャラジャラと鳴る音が聞こえる世の中は悪いわけがないですものね。   2020年オリンピックが東京に決まって本当によかった…ですよね?   ------------------------------- <沈 俊傑(シム チュン キャット) Sim Choon Kiat > シンガポール教育省・技術教育局の政策企画官などを経て、2008年東京大学教育学研究科博士課程修了、博士号(教育学)を取得。昭和女子大学人間社会学部・現代教養学科准教授。SGRA研究員。著作に、「リーディングス・日本の教育と社会--第2巻・学歴社会と受験競争」(本田由紀・平沢和司編)『高校教育における日本とシンガポールのメリトクラシー』第18章(日本図書センター)2007年、「選抜度の低い学校が果たす教育的・社会的機能と役割」(東洋館出版社)2009年。 --------------------------------   2013年9月11日配信
  • 2013.08.28

    エッセイ384:尹 飛龍「日本が好きになってきた」

    私は2007年9月に日本に来ました。私にとって初めての外国でした。日本滞在はもうすぐ6年になりますが、冷静に考えると、日本語は上手くなったけれども、日本の文化、日本の歴史、日本の政治、日本の経済などについて、悔しいですが、あまり深くは知りません。実を言うと、それらを理解しようとする努力をしなかったためです。   博士号を取得した時、どうして日本で生活を続けるかをもう一度考え直す機会がありました。正直に言うと、日本に来る前は、日本に対する印象はあまりよくないものでした。その原因は日本に対する知識があまりなかったからです。私のもっていた知識は、昔の日本は中国を侵略して多くの中国人を殺したり苦労させたりしたこと、現在の日本は経済面で中国から多くの利益を盗んだことくらいでた。日本に来たのも先生方に薦められたからで、技術力が高い日本で自分を高めようとしただけの利己的な考えでした。   然し、日本に来て、まず日本の環境に驚きました。市街にごみがなく、川の水が澄みきって、浅い水の中でも魚が生き生きと泳いでいました。道路と川の両側に木がたくさん植えられていて、公園もたくさんあって、東京に住んでいるのに、自然や緑がいっぱいだと自慢できることは想定外でした。日本にいる間にイギリスのロンドンとアメリカのオーランドの学会に行きましたが、そちらと比べても、日本は勝っていると思います。日本の環境は世界一という噂は確かなようですね。環境問題に陥った昔の日本と現在の日本を比べて、中国もこれから改善できることがわかり、中国の明るい未来が見えてきました。   それから、日本人の礼儀が素晴らしいと感じたのは、有名なお菓子屋さんでアルバイトをしていた時でした。仲間の接客を見て、その一言一言から「お客様が第一」ということがしっかり分かりました。そこで3年以上アルバイトを続けましたが、恥ずかしいですけど、外国人である私は接客に出る自信はありませんでした。子供の頃から、このような環境に慣れなければいけないかもしれませんね。然し、公衆トイレにトイレットペーパーを入れても、すぐ盗まれた時代も日本にあったことを知り、昔の ような「路不拾遺(道徳が世に行われて人々は道に落ちているものを拾わなくなる)」「夜不閉戸(夜でも鍵をかけなくても良い)」の中国もいつか戻ってくるでしょう。   また、日本人の親切にはすごく感動しました。東京に来て間もない頃は電車の乗り換えの時に困りました。東村山市萩山に住んでいたので、学校から帰るときに国分寺で乗り換えが必要でしたが、どう行けばいいのか分かりませんでした。その時、ある日本人の方にホームまで案内していただきました。いま思い出しても、まだ心が温かくなります。その後、何度もこのように親切に助けていただきました。修士課程の時からは、奨学金をいただきました。奨学会は毎月例会を行って、お金をあげるだけではなく、日本での生活、学業など幅広いことについて話し合って、大変助かりました。これも日本人の親切の表現だと思います。   日本の生活は便利で、食品が安全であることがとても好きです。何の業界でもルールがあって、皆が守っていることはすごくいいと思います。車が横断歩道の手前で止まって歩行者に譲ったり、電車やバスに乗るのに列を作って待ち、なんでもスムーズに動いています。市役所に行っても、警察署に行っても、サービス精神溢れる公務員からサービスを受け、大満足でした。皆が自分の責任をしっかり認識して、守るべきことを尊重しています。   日本へ来て、自分自身でいろいろ新しい情報を手に入れて、日本人に対する印象、日本に対する感情が大きく変わりました。昔のことの痛みはまだありますが、塩に水をかけるように、だんだん薄くなってきました。そして、今の平和を望んでいる日本人に、昔の罪に対する罰を与えることも不公平だなと考え、自分の視線は未来志向へ変わり、平和が続くように願い続けています。   様々な感動があって日本を好きになりましたが、まだ日本人のすべてを理解できるとは言えません。ルールが多すぎるせいかもしれませんが、日本人の中には、機械のように生きている方がたくさんいるように思います。皆が活発になるように何かをしてあげたいです。これは私の独りよがりの考えで、間違っているかもしれません。   それから、ある政府の関係者から、日本の政治家の中には右翼的な方が相対的に多いことを教えていただきました。個人的な考えですが、そのような状況がちょっと不安です。   日本に来て、私の視野が広くなりました。日本人と付き合って、日本に対する敵意がなくなりました。日本で生活をして、日本が好きになりました。日本も中国も、良いところを続け、良くないところを直していって、皆の幸せのために平和的な発展を目指し続けましょう。個人の力だけでは何も変えられないですが、我々地球市民の皆の力を合わせば、何でも変えられるでしょう。   頑張ろう、日本! 頑張ろう、皆! 私も頑張るぞ!   ------------------------------------------- <尹 飛龍(イン・フェイロン) Yin, Feilong> 東京農工大学工学博士。専門は自動車工学。車と人間の情報伝達手段として、アクセ ルペダルの反力を制御することで、安全かつエコの運転を実現する方法を研究してき た。現在は井関農工株式会社海外営業本部に所属し、海外向け製品の技術サポートを 担当している。2012年度渥美奨学生。 -------------------------------------------     2013年8月28日配信