SGRAかわらばん

  • 2013.09.11

    エッセイ385:シム チュンキャット「日本に「へえ~」その13:「2020年オリンピックが東京に

    おめでとうございま~す!Congratulations! 恭喜恭喜(ゴンシーゴンシー)!   僕が人生の活動拠点を置いているこの大東京で7年後に夏季五輪が開催されるなんて、祭と人込みが大好きな僕はもう今からワクワクドキドキです!いろいろな競技を生で楽しめるように軍資金を貯めておかないと。シンガポールにいる家族や友人もたくさん来るでしょうしね。だって、これまでオリンピックで金メダルを1個も取ったことのないシンガポールがオリンピックの開催地になることは、隣国との共催ならともかく、たぶん百年後でも無理です。百万シンガポールドル(8千万円弱)という世界最高金額の金メダル獲得賞金を用意しても、シンガポール生まれ育ちでない新移民の力に頼っても、ならぬものはならぬのです。とにもかくにも、東京五輪2020となんら関係を持たない僕も忙しくなること請け合いです!   あっ、話が脱線しました。3回連続で立候補したマドリードと5回目の挑戦となったイスタンブールは本当に残念でした。とりわけ、イスタンブールが掲げた「Bridge Together」(ともに橋を架けよう)というスローガンが一番心に響いただけに、何か心残りになりました。確かに、大陸間、民族間や宗教間の架け橋となることなど、トルコが果たせる役割は大きいと考えられます。特に、「われわれ」と「彼ら」という対抗意識に横たわる溝が深まりつつある今日の国際情勢において、その役割はますます重要でありましょう。ただ、あいにく数ヶ月前に起きた大規模反政府デモとその鎮圧が象徴するように、当のトルコ国内における政府と市民との間の架け橋が覚束ないように見えるうえ、周辺国の不安定情勢も心配の種となりました。もし僕が選考委員だったとしても、リスクを回避し時期尚早という判断を下したことでしょう(誰だよ、君は!と突っ込まないで、オリンピックから縁遠いシンガポール人の戯言だと思ってください、はい)。   それに対して、失礼ながらマドリードのスローガンの意味はいささか掴みきれませんでした。「Illuminate the Future」(未来を照らせ)という文字通りの意味は分かります。だが、その未来というのが、スポーツの未来なのか、それとも人類社会の未来なのか、はたまたEUの未来、もしくは自国経済の未来なのかがはっきりと伝わってきませんでした。いずれの未来にせよ、甚だ無礼ではありますが、それを照らすことを、なぜ未来を担う若年層の失業率が半数超というスペインが先導するのかが今ひとつ理解できませんでした。   一方、東京のスローガンは「Discover Tomorrow」(未来(あした)をつかもう)でした。うん、つかみましょうよ!というよりも、つかまなくても来ますから、未来(あした)は。重要なのは、どのような未来(あした)を目指すかですね。昨日までやってきたことと今日やることによって未来(あした)は創られるものの、ひとたび天災や人災が起きれば未来(あした)ほど脆いものはないことをわれわれは思い知らされてきました。ともあれ、その未来(あした)について、東京は「平和」「アジア」「復興」という理念を打ち出しましたが、単なるスローガンに終始せずにぜひ実践してほしいものです。   しかし、安倍首相のあの「福島第一原発の汚染水漏れはまったく問題なし」や「福島の状況はアンダーコントロール」という自信たっぷりの発言には驚きました。原発事故をめぐる一連の問題がすでにコントロールされているなんて、僕は知りませんでした。大学の教員でありながら、実に不勉強です。まったく問題がなくて状況がコントロールされているのなら、なぜそれを当事者の福島県民の前で発表せずに、地球の反対側まで行ってそれも英語で声高に宣言するのか、ちょっと不親切ですね。   このことも含め東京五輪の再来について、15万人以上の人々が未だに避難中という福島の人々はどのように受け止めているのか、気になります。去年の10月にSGRAの福島県飯舘村スタディツアーで会ったたくさんの顔が頭に浮かんできます。駐車場に設けられた仮設住宅の中の、決して広いとはいえない広場で静かに日向ぼっこしていたおばあちゃん達、誰も住んではいけない村を今でも交代で昼夜防火・防犯巡視を行う村民達、イノシシの増殖に対応しながら実験畑の汚染状況を調べ続ける「ふくしま再生の会」のボランティア達、立ち入り禁止区域の前のゲートで直立し、全身を防護服で包んだ、顔も見えない警備員のお兄ちゃん達…各々どのような思いでロゲ会長の「Tokyo!」を聞いていたのか、想像すると胸に苦みが広がります。まったく問題なしだなんて、そんな子供騙しのことを言わないでくださいよ、首相。つかむどころか、ましてやコントロールするなんて、未来(あした)が見えない人がまだたくさんいることをご存知でしょうに。   祭大好きと言っておきながら、皆がお祭気分で盛り上がっているときに水を差すようなことを言う僕も、大人気ない偽善者かもしれません。五輪招致の成功でアベノミクスの4本目の矢が放たれ、「無駄ではない」と言い切れる公共事業を増やしたり、もっと電気が必要だということで原発再稼働を推し進めたりする口実も手に入ったことから、脱デフレ期待で株価が上がりお金がジャラジャラと鳴る音が聞こえる世の中は悪いわけがないですものね。   2020年オリンピックが東京に決まって本当によかった…ですよね?   ------------------------------- <沈 俊傑(シム チュン キャット) Sim Choon Kiat > シンガポール教育省・技術教育局の政策企画官などを経て、2008年東京大学教育学研究科博士課程修了、博士号(教育学)を取得。昭和女子大学人間社会学部・現代教養学科准教授。SGRA研究員。著作に、「リーディングス・日本の教育と社会--第2巻・学歴社会と受験競争」(本田由紀・平沢和司編)『高校教育における日本とシンガポールのメリトクラシー』第18章(日本図書センター)2007年、「選抜度の低い学校が果たす教育的・社会的機能と役割」(東洋館出版社)2009年。 --------------------------------   2013年9月11日配信
  • 2013.08.28

    エッセイ384:尹 飛龍「日本が好きになってきた」

    私は2007年9月に日本に来ました。私にとって初めての外国でした。日本滞在はもうすぐ6年になりますが、冷静に考えると、日本語は上手くなったけれども、日本の文化、日本の歴史、日本の政治、日本の経済などについて、悔しいですが、あまり深くは知りません。実を言うと、それらを理解しようとする努力をしなかったためです。   博士号を取得した時、どうして日本で生活を続けるかをもう一度考え直す機会がありました。正直に言うと、日本に来る前は、日本に対する印象はあまりよくないものでした。その原因は日本に対する知識があまりなかったからです。私のもっていた知識は、昔の日本は中国を侵略して多くの中国人を殺したり苦労させたりしたこと、現在の日本は経済面で中国から多くの利益を盗んだことくらいでた。日本に来たのも先生方に薦められたからで、技術力が高い日本で自分を高めようとしただけの利己的な考えでした。   然し、日本に来て、まず日本の環境に驚きました。市街にごみがなく、川の水が澄みきって、浅い水の中でも魚が生き生きと泳いでいました。道路と川の両側に木がたくさん植えられていて、公園もたくさんあって、東京に住んでいるのに、自然や緑がいっぱいだと自慢できることは想定外でした。日本にいる間にイギリスのロンドンとアメリカのオーランドの学会に行きましたが、そちらと比べても、日本は勝っていると思います。日本の環境は世界一という噂は確かなようですね。環境問題に陥った昔の日本と現在の日本を比べて、中国もこれから改善できることがわかり、中国の明るい未来が見えてきました。   それから、日本人の礼儀が素晴らしいと感じたのは、有名なお菓子屋さんでアルバイトをしていた時でした。仲間の接客を見て、その一言一言から「お客様が第一」ということがしっかり分かりました。そこで3年以上アルバイトを続けましたが、恥ずかしいですけど、外国人である私は接客に出る自信はありませんでした。子供の頃から、このような環境に慣れなければいけないかもしれませんね。然し、公衆トイレにトイレットペーパーを入れても、すぐ盗まれた時代も日本にあったことを知り、昔の ような「路不拾遺(道徳が世に行われて人々は道に落ちているものを拾わなくなる)」「夜不閉戸(夜でも鍵をかけなくても良い)」の中国もいつか戻ってくるでしょう。   また、日本人の親切にはすごく感動しました。東京に来て間もない頃は電車の乗り換えの時に困りました。東村山市萩山に住んでいたので、学校から帰るときに国分寺で乗り換えが必要でしたが、どう行けばいいのか分かりませんでした。その時、ある日本人の方にホームまで案内していただきました。いま思い出しても、まだ心が温かくなります。その後、何度もこのように親切に助けていただきました。修士課程の時からは、奨学金をいただきました。奨学会は毎月例会を行って、お金をあげるだけではなく、日本での生活、学業など幅広いことについて話し合って、大変助かりました。これも日本人の親切の表現だと思います。   日本の生活は便利で、食品が安全であることがとても好きです。何の業界でもルールがあって、皆が守っていることはすごくいいと思います。車が横断歩道の手前で止まって歩行者に譲ったり、電車やバスに乗るのに列を作って待ち、なんでもスムーズに動いています。市役所に行っても、警察署に行っても、サービス精神溢れる公務員からサービスを受け、大満足でした。皆が自分の責任をしっかり認識して、守るべきことを尊重しています。   日本へ来て、自分自身でいろいろ新しい情報を手に入れて、日本人に対する印象、日本に対する感情が大きく変わりました。昔のことの痛みはまだありますが、塩に水をかけるように、だんだん薄くなってきました。そして、今の平和を望んでいる日本人に、昔の罪に対する罰を与えることも不公平だなと考え、自分の視線は未来志向へ変わり、平和が続くように願い続けています。   様々な感動があって日本を好きになりましたが、まだ日本人のすべてを理解できるとは言えません。ルールが多すぎるせいかもしれませんが、日本人の中には、機械のように生きている方がたくさんいるように思います。皆が活発になるように何かをしてあげたいです。これは私の独りよがりの考えで、間違っているかもしれません。   それから、ある政府の関係者から、日本の政治家の中には右翼的な方が相対的に多いことを教えていただきました。個人的な考えですが、そのような状況がちょっと不安です。   日本に来て、私の視野が広くなりました。日本人と付き合って、日本に対する敵意がなくなりました。日本で生活をして、日本が好きになりました。日本も中国も、良いところを続け、良くないところを直していって、皆の幸せのために平和的な発展を目指し続けましょう。個人の力だけでは何も変えられないですが、我々地球市民の皆の力を合わせば、何でも変えられるでしょう。   頑張ろう、日本! 頑張ろう、皆! 私も頑張るぞ!   ------------------------------------------- <尹 飛龍(イン・フェイロン) Yin, Feilong> 東京農工大学工学博士。専門は自動車工学。車と人間の情報伝達手段として、アクセ ルペダルの反力を制御することで、安全かつエコの運転を実現する方法を研究してき た。現在は井関農工株式会社海外営業本部に所属し、海外向け製品の技術サポートを 担当している。2012年度渥美奨学生。 -------------------------------------------     2013年8月28日配信
  • 2013.08.07

    エッセイ382:崔 勝媛「日本の科学、そして世界化について」

    私は日本に来る前から日本の科学文化に興味をもっていた。日本に旅行で来て訪れたさまざまな博物館、韓国でも翻訳されている科学教養書、そしてニュートンのような科学雑誌など、日本のノーベル賞受賞者たちの名前を挙げなくても、日本は十分に日本独自の科学文化を形成している。   しかしながら、日本に来た2009年のある事件により、私は日本の科学について深く悩み始めた。それは新しく生まれた民主党政権による「事業仕分け」だった。一時期「1位じゃないとダメでしょうか」というセリフが流行ったぐらいに事業仕分けは熱い話題だった。それに反対する科学系の人々の声が高まる中、東京大学の小柴ホールで科学系のノーベル賞受賞者による記者会見が行われた。ノーベル賞受賞者が6人も集まって自分の声を発する科学系の環境に私は迫力を感じたが、彼らの発言は結局「いつかは役に立つ。そして1位を目指さなければ、2位もない。だから支援を続けるべきである」というのが結論だった。私はこの発言に違和感を覚えた。私たち科学者は本当に「いつか役に立つため」に研究を続けているのだろうか。国民の莫大な税金で行われる科学の研究に関して、研究者はもちろんその研究の青写真を国民に提案する義務はある。しかし研究者に研究し続けさせる原動力は、純粋な好奇心から出るものである。物事の根本に対する深い考えがあってからでこそ、横への広がりも生まれてくると思う。浅く掘った穴は大雨ですぐ埋められてしまう。今すぐ必要とされるものは、すぐにその必要性を失ってしまう。それをノーベル賞の受賞者の方々から聞けなかったのは非常に残念なことであった。   私はこれをきっかけに「科学とはなにか」について悩み始めた。そして西洋文化である科学を日本はどう取り入れ、科学先進国になったのかということに興味を持ち、色々な文献を読んだ。その中で一つ得た答えとしては、明治時代に科学を日本に取り入れる時の「専門用語の漢字語への翻訳過程」が非常に大事な段階だったということだった。何かに新しく名前を付けるには、対象の特徴を理解し、それをもっともうまく表現できる字を深く考察する必要がある。今存在する科学系の専門用語は明治時代の日本が作った漢字語である。私はこの過程が日本の学者たちに科学を深く考えさせる哲学と文化を生み出したと思っている。同じ漢字圏である韓国と中国は、科学を取り入れる時に日本が作った漢字語をそのまま取り入れたため、最初の考える段階が欠けてしまった。そして当時の科学は強国になるための手段であったので、先進国の科学知識と技術を急いで追いかけるだけで精一杯だった。私がこう考え始めたのが2011年ころである。日本の様々なメディアでは日本の世界化に関する話を良く取り上げていた。多くの大企業で全社員を対象とした英語コミュニケーションを推進したり、大学は世界の大学に合わせるため、9月に学年を始める案を検討したりしていた。現在の日本が世界化を念頭に入れるのは当然だと思うが、それを実現させるための案は他の国のマネのようなものがほとんどだ。大企業は、今、世界でもっとも多い売上を達成しているサムソンのシステムを学ぼうと叫び、大学は欧米の教育システムを取り入れようとしていた。   しかし今の日本に必要なのは他国のマネではない。これからの先を考えるため最も必要なのは、最初に科学用語を作り上げた時のような物事への深い考えなのではないだろうか。それが日本だけの突破口を見つける一番の近道だと私は思っている。   その頃、留学生として私の興味を引く話があった。文部科学省の「留学生30 万人計画」だった。日本学生支援機構による2012 年5 月1 日現在の留学生数は約13 万7 千人。2020 年までに今の留学生数の2 倍を超える30 万人の留学生を日本に招くということだ。国際化社会の一国として力をつける為、世界各地の優秀な人材を積極的に集めるという趣旨だ。天然資源に限界があり、人材が最も大事である日本という国で、海外からの人材の輸入は大事な戦略であることは確かだ。しかしその戦略の焦点が、単なる数に当てられているのはどうだろうか。   科学系でも似たような話がある。1990 年代日本政府は、日本の科学技術立国を実現する為、研究者の数を増やすべきだと判断し、理系の大学院生の数を増やすことに力を入れた。しかし、学生の数だけが増えても、その人たちを受け入れるポストが限られていた為、日本政府は、今度は、1996 年から2000 年までの5 年間の「ポスドク1 万人計画」をたて、大学及び研究機関に雇用資金を配布するに至る。しかし尚残る問題は、ポスドクを得た後の安定した職場の状況が全然改善されていないことだった。安定したポストを得る為の競争の時期が、博士号取得の直後からポスドクの契約期間が終わった後に延長されただけで、むしろ人の数が多くなり競争がもっと激しくなる一方であった。   日本で勉強する留学生の環境を改善し数を増やすことは、もちろん世界の中の日本の立場の上昇に寄与するに違いない。しかしそれは入学の時期を9 月にずらし、授業の言語をすべて英語に切り替えるなど、形だけの変化で叶えられるものではない。日本が留学生を増やそうとしていたのは今だけの話ではない。30~40年も前から、日本には、他のアジアの国に比べて、沢山の留学生が存在してきた。またその人材を育てる重要性もわかっていたはずだ。それなのになぜ今まだ日本は、日本が望む世界化にはなってないのだろうか。そこには様々な要因があると思うが、私は日本が英語中心の世界化だけに注目しているからだと思う。日本に留学する学生の出身地に注目する必要がある。日本学生支援機構の統計によると日本の留学生の8 割を占めるのが中国と韓国だ。それ以外のアジアの国を合わせると9 割に至る。英語は大事な共通言語にもなりうるが、その英語は西洋中心的な考えだけで、アジアの国への深い理解は欠けていると感じられる。日本は日本なりの世界化を考える必要がある。日本政府と大学は、世界の中のアジアの位置づけやその役割を深く考えるべきではないだろうか。   日本は、今までの日本、そしてこれからの日本、それを深く考えて日本なりの答えを見つけてほしい。その議論がまた日本内だけに縛られることなく、日本に住む外国人とも広く考えてほしい。人が持つ行動の力は、人と人の間で生まれてくる。良い留学生を、また研究者を増やすだけで、世界化、また科学立国になるわけではない。人と人の交流なしでは、人はただすれ違っていくだけだ。これからは多様な人たちの自由な混ざり合いから様々な答えが探れる社会になると思っている。これからも日本で科学を続ける研究者として、私は、日本の社会が、また科学が、どういう答えを見つけていくのか、その答えを周りの人たちと共に探し続けていきたい。   ----------------------- <崔勝媛(チェ・スンウォン)、Choi, Seung-won> 東京大学理学博士。現在理化学研究所特別研究員。専門は植物の分子生物学。現在は植物免疫研究グループで植物が病原菌にどう対応するのかを細胞レベルで検討する研究をしている。今の人間社会で科学が持つ意味についてもずっと考察中である。2012年度渥美奨学生。 ------------------------     2013年8月7日配信
  • 2013.07.31

    エッセイ381:李 垠庚「グローバル時代における講義の難しさ」

    今年の春学期、女子大学生を対象に「日本の女性とその歴史」についてはじめて講義をすることになった。普段は半年を通して「日本の歴史」について講義をしてきた私にとって(「日本史」について話せることはどれほど多いだろうか。いつも時間が足りないほどである)、 もっぱら「日本の女性」というテーマについて毎週3時間ずつ全15回、あわせて45時間も話すことが出来るか、少し心配になった。学期が始まる前の冬休みからプレッシャーは徐々に増し、日本出張中には日本女性関連の書籍を漁り、使えるものがあるかと韓国人の書いた関連論文も一通り目を通した。   ところが、実際に学期がはじまると、予想外の問題が待ち受けていた。受講生の中に「日本」からの学生たちが10人近くも含まれていたのである。彼女たちの学生としての身分はばらばらであった。ある学生は正式な交換学生、またある学生は語学研修のための留学生。日本からやってきた日本人女子大学生たちの前で、「日本の女性」について講義をしなければならないということが新たなプレッシャーとなった。しかも、その中には講義の内容どころか、講義に関する連絡事項さえ十分に理解できない聴講生もいた。したがって、日本語を交えて講義をしなければならず、レジュメにも日本語を適度に書き加えることにした。試験の際は、問題を日韓対訳で作成し、同じく留学の経験がある者として、自分なりに彼女らに対し最善を尽くしたつもりであった。   ところが、その講義ではもう一つ気にかかることがあった。受講生の中には中国からの学生2人も含まれていたのである。彼女達は朝鮮族ではなく、大陸からの漢族であった。韓国語の実力はそれほど違和感が感じられないほどそこそこ高いレベルであったが、日本語だけを交えながら講義をするとなると、日本の学生だけに有利ではないか、気になるのも事実であった。もしかすると、これを差別かひいきと感じるのではないか、いや、私が実際に、または無意識に差別をしているのではないか、何度も自問をせざるを得なかった。   言葉の問題だけではなかった。正直に言うと、日本女性に関する私の講義を、「日中韓」の東アジア三国の学生たちが一緒に聞くという状況は、私の想像を超えたものであった。講義中、誰かが気分を害する内容はなかったか、いわゆる「口がすべる」ことはなかったか、講義を終えての帰宅時間はいつもこのような反省の時間となった。   たまに、歴史にかかわる科目を教える立場の人間が、学生の集中力を高めるため、または分かりやすさのため、他国の極端なケースと比較したり、さらには揶揄する場合がある。これらは学生の笑いをさそうもっとも簡単な方法である。彼らに悪意があるわけではなく、なるべく印象深く、そして分かりやすい説明をするためであるとはいえ、もし当事国の人々が目の前に座っている状況であったならば、とうてい考えられないことであり、しかも決して講義でしてはいけない内容である場合も少なくない。学生が皆韓国人である場合、「ここだけの話だけど」だとか、「私たちだけの話だけど」といいながら、冗談めいた表現をすることも多いが、 もうこのような「国内用」講義が通用しない時代になりつつある。   実際、ある先輩は、いつも通りに講義をしたものの、その後、ある国の留学生団体から「講義に我が国を傷つける内容があった」との抗議を受けたという。その国をこきおろすのが目的ではなく、いわゆるその「国民性」を分かりやすく説明するつもりで例えたのが度を過ぎたとの言い訳であった。私は直接その講義を聴いたわけではないため、どれほどの内容だったかはわかりようがないが、とにかく、講義の内容がそのような理由で問題化したのは、これまではあまり見られなかった現象であろう。ソウルにあるほとんどの大学には、もはや数百人以上、大学によっては一千名を超える外国からの留学生が生活しているという現実を認識し得なかった故に起きたミスと言えるだろう。   では受講生の中に外国人がおらず、韓国人だけのクラスだったとすればそれはそれでよかったのだろうか。講師本人は気づいていないかも知れないが、究極的にはそれこそがより大きな問題であるとも考えられる。なぜならば講師が勢いで他国の歴史や国民性について、なにげなく「冗談」のつもりで話をした場合、講義以外に日本に関する情報や知識に接するチャンスが少ない学生たちは、そのままそれを「事実」として受け止めかねないからである。一学期の講義が終わってからの学生たちの感想・評価を見ると、講義中の冗談がもっとも印象に残ったとの答えが多いことを鑑みても、講師が冗談のつもりで歪曲した内容だけを学生達は強烈に記憶する可能性が高い。特に他国と比較したり、他国の風習を笑いの対象とする行為は、学生や大衆の関心を引くにあたって、より陥りやすい誘惑の道なのである。   私が講義室に東アジアの三国の学生が一緒にいることを知り、少し慌てたのは、私自身も、そのような誘惑や習慣と完全に決別していないことを示唆しているのかも知れない。帰国後、講義をするチャンスは増えたものの、他の研究者たちの(研究発表ではない)講義を聞くチャンスは少なくなるばかりである。私が最近、先輩の研究者がどこかで公開講義をするといううわさを耳にすれば、なるべく足を運ぶ努力をしているのには、このような背景がある。彼らの「知識」が気になるのではなく、大衆または学生に向けてどれくらいの「レベル」で、どのような「言葉」と「表現」をもってして伝えようとしているかがより気になる今日この頃である。   ------------------------------------------ <李垠庚(イ・ウンギョン)、Lee, Eun-gyong> 韓国ソウル大学日本研究所研究教授。淑明女子大学・漢陽大学などで非常勤として講義中。専門は日本の近現代史で、主に日本女性の運動・生活・文化について研究中。ソウル大学で学士と修士の学位を、東京大学総合文化研究科で博士の学位を取得。2007年度渥美奨学生。著書としては、『日本史の変革期を見る』(共著、2011)、 『現代日本の伝統文化』(共著、2012 )、論文としては「大正期における日本女性運動の組織化と路線葛藤」(2011)、「戦後の日本女性の対外認識」(2011)、「近代日本キリスト者の戦争協力」(2010)などがある。 ------------------------------------------   2013年7月31日配信
  • 2013.07.10

    エッセイ379:李 彦銘「第4回SGRAカフェ報告―日中に求められる『温故知新』」

    2013年6月15日、東京九段下の寺島文庫みねるばの森にて、早稲田大学の劉傑先生をゲストスピーカーとして迎え、第4回SGRAカフェが開催された。   冒頭の挨拶でSGRA代表の今西淳子さんから、カフェ開催の趣旨と経緯が説明された。今回の目的は、昨年以来から緊張感が高まる日中関係をどのように理解、整理すればいいか、リラックスしながらみんなで考えることである。劉先生のお話は少し硬い「文革世代の私からみた中日交流40年とこれからの中日関係」というテーマであったが、結論から言うと、蒸し暑さが飛ばされ、清涼感が漂う3時間となった。   劉先生はまず個人の体験を踏まえ、中国の文革世代と日本との出会いを話してくれた。日中国交正常化の直後、「紅小兵」(紅衛兵の小学生バージョン)として日本語の勉強を始めた劉先生の経歴は、現在中国の指導者層や社会運営の中枢を担う多くの文革世代のなかで、決して一般的なものではないが、日中の本格的な相互認識や一般の交流が可能になったのは、1980年代になってからのことであったと、参加者に実感させた。つまり、日中の相互認識は、われわれが想像したような長い歴史と深い理解を持つものでなく、これからもっと進めていかなければならないのだ。   1950、60年代生まれの中国人のなかには、劉先生のように、改革開放に伴い80年代初めに渡日し、日本というものが日常生活の中に常に存在し、人生の大半が日中関係の中で過ごした人々が多くいる。その一方、現在中国で国の方向性を握っている同じ世代の政策決定者は、必ずしも時代相応の国際感覚を持っていないと、劉先生は指摘する。とくに彼らの中には、国益の追求を重視する傾向が存在する。また毛沢東時代に対する肯定的な再評価の動きも現在の中国において物議を呼んでいる。これらの要素は今後の中国の対日姿勢だけでなく、中国の外交スタンスに対する周辺諸国や国際社会の憂慮の材料になっている。しかしグローバル化が進むなかで、これらは同時に中国側が乗り越えるべき課題であると、劉先生によって問題提起された。たとえば、昨年の反日デモにおける中国側の過激な行動と言説は、1930年代の反日運動と、驚愕するほど似ているのだ。百年近く前の歴史が繰り返されたように、歴史研究を専門とする劉先生の目に映っていた。   中国側の国際認識を検討した後、日本側の対中認識についても問題提起された。中国側の反日言説と行動だけでなく、日本側の国際社会に向けての訴えもまた歴史と同じだ。つまり、1930年代と同じように、日本は「国際社会のルールを守らない」という中国に対する批判と、自らこそが国際社会と「価値を共有」していると国際社会に訴えているのだ。   そして「価値」の分野だけでなく、歴史認識においても日中は格差が存在している。そもそも「戦後」に対する認識は、日中においては異なり、日本が主張する「今日的正義」に対し、中国は「歴史的正義」を主張している。こうした認識の格差は、今すぐに両国間で歴史を共有することがもはや困難であり、そこばかり追求していくと対立は避けられないということを示しているように思われる。   現状として、中国社会の中の多元化が進んでおり、国家と個人の関係や国益に対する認識も一枚岩ではなくなってきている。昨年のような反日デモの中に暴力的な事件が起こったのは、極めて残念なことであり、日本社会にとってだけではなく、中国社会でも大きなショックとなった。その後、社会の反省は、個人財産を保護すべきとの主張や、「文革」心理の復活に対する危惧の形で表れている。確かに中国社会はまだまだ激動の真っ最中で、その方向性を正しく予知することは難しい。しかしだからこそ、国際社会の反応自体も、中国のこれからの方向性にとって重要な要素となりうる。   以上のような変化の流れを見過ごしては、偏った中国理解につながり、そして偏った中国理解に基づいた日本側の行動が、また中国国内の被害者意識や過度な国益追求を刺激してしまう、という負の連鎖を引き起こすではないか、というのは筆者の感想である。すでに1930年代にはそのような負の連鎖が起こった。その歴史を鏡にもう一度現状を見直し、「温故知新」を求めるのは、日中双方の責任そして、われわれ市民社会の責任である。   日中に横わたる問題を解決し、相互理解をより進めていかなければならない。そのために、まず共通の価値観や認識を見出すことが大事であると劉先生は提起した。とくに、一国の利益のみを考えないで、全人類の福祉を促進する立場からの平和と協力の視点が必要とされている。筆者は一人の「80後」(中国で1980年代に生まれた、最初の一人っ子世代)として、その結論に大いに賛成し、またこれは世代や国籍を超えた認識であると確信している。   当日の写真(ゴック撮影)   ------------------------------------ <李 彦銘(リ・イェンミン) Yanming LI> 国際政治専攻。中国北京大学国際関係学院卒業、慶應義塾大学にて修士号取得し、同大学後期博士課程を単位取得退学。研究分野は日中関係、現在は日本の経済界の日中関係に対する態度と影響について博士論文を執筆中。 ------------------------------------     2013年7月10日配信
  • 2013.07.03

    エッセイ378:葉 文昌「実験装置や備品の買い方」

    私の実験系研究室では実験設備や消耗品等を購入する機会が頻繁にある。私はすべて自ら見積もりを取って購入している。まずネット検索に始まり、続いて会社のサイトで要望と資料の請求を記入するのだが、その後の業者の対応は千差万別だ。すっきりするのが見積書と仕様書を速やかに送ってくる、又は電話で仕様について詰めてくる業者である。こういうのは進展が早い。そして嫌なのが、「後日訪問させていただきます」というタイプである。「見積書を先に送ってもらえませんか?」と要望を出しても、「訪問時に持参いたします」ともったいぶる。こっちはその為に時間を作らなければならないし、訪問すると言っても来られるのは大抵1、2週間後の事なので、そんな呑気に待っていられない。「営業は足でする」と誰かが言っているが、それはインターネットが普及する前の話だ。今ではネットで瞬時に情報を収集できる。だから営業活動で面白い情報でもなければ「訪問する金と暇があるなら安くしてくれ」と言いたくなる。   消耗品に関しては私が台湾から日本に移った3年前から日本はすでにネット販売の時代になっていた。更に金属や樹脂の特注加工もネットで形状設計して発注できるようになっていた。台湾では消耗品は商社に見積もりを依頼してから物品を購入していたし、特注加工品は町工場を見つけて出向いてお願いしていたので、効率は雲泥の差がある上にネット発注の方が格段に安くなっていた。全国的に展開しているネット会社が市場を席巻する一方で、これまで地域で展開していた商社は痛手を被っているようだが、ネットの効率性には敵わないのが現状だ。   大学の一研究室の物品購入もすでに国境を超えてグローバル化しつつある。私は台湾での経験もあるので日台間の実験装置部品の価格差がわかる。日本での売値が台湾よりも安い物もあるが、昔台湾で購入していたある米輸入品が、日本では2倍強で売られていたことがある。アフターサービスのしようがない製品にもかかわらずだ。幸い今の大学も、業者に翌月末払いの信用取引を取り付けることができれば、物品の海外からの直接購入は可能となっている。米メーカーにもメール交渉すれば、信用取引に応じてくれる業者もいる。因みに私の英語力は貧弱と言える。しかし英語力は必ずしも重要ではない。信用取引に応じてくれれば予算が浮くので、だめもとで試す価値はある。   実験装置を作る時、予算が無限にあれば高くても一番いい部品を揃えられる。しかし当然ながら予算は有限である。だから部品の購入にも取捨選択が求められる。その方法は日常生活と同じだ。今の時世では着る服をブランド品で固める人はもはやいなくなり、富裕層でも場面によっては廉価アパレルブランドも着こなす方が多いのではないか。この方がマネージメントとしてもスマートで、個人レベルにおける生活のパフォーマンスが大きくなる。私も実験装置で使う部品は性能面で特に問題がなければ安い海外製も購入することもある。こうすることによって限られた予算内でも大きいパフォーマンスを得ることができ、それが私が在籍する社会へのより大きな貢献となる。よくオールジャパンという言葉を聞くが、私はこの言葉は好きではない(もちろんオールタイワンも)。肝心となる部分を押えていれば、他はジャパンでなくてもいいと考えている。そして社会レベルでパフォーマンスが最大化できれば、結局は社会が潤う。   島根大学に来て満3年となったが、真空装置や測定装置を立ち上げることができて、太陽電池等の半導体デバイスを作って評価する環境を構築することができた。そして春には国内初と言える結晶Si太陽電池をその場で作る大学公開講座も開講した。大学でもグローバルに物品を調達できるようになったこととネット販売の利便性による所に感謝している。   ----------------------------------------- <葉 文昌(よう・ぶんしょう)  Yeh Wenchang> SGRA「環境とエネルギー」研究チーム研究員。2001年に東京工業大学を卒業後、台湾へ帰国。2001年、国立雲林科技大学助理教授、2002年、台湾科技大学助理教授、副教授。2010年4月より島根大学総合理工学研究科機械電気電子領域准教授。 -----------------------------------------   2013年7月3日配信
  • 2013.06.26

    エッセイ377:デール・ソンヤ「『外国人』として」

    先日、耳鼻科に行った。初めての診察で、登録等をし、症状を書類に書いた。私の番になったときに、名前が呼ばれて、診察室に入った。「日本語はもう完璧みたいですね」と言われて、すぐ診察が始まった。   その後、薬をもらうために隣の薬屋に行った。パートナーと一緒に行ったので、私の番を待ちながらおしゃべりをしていた、日本語で。ここでも、初めての客として登録をするための書類が必要だった。書類を渡すため、私の名前を呼んだ薬剤師が、「日本語大丈夫ですか」とすぐ聞いた。名前を見たからか、顔をみたからか、なんだろうね。隣に座っていたパートナーに日本語でしゃべっていたのに、なぜか日本語ができないと思っていた。   別の日、またパートナーと整体の体験に行ってみた。小さな施設で、整体師も一人しかいなかったので順番に整体を受けた。まずはパートナーだった。次は私。国籍や日本語の能力について何も聞かれず、「普通」に話してくれた整体師は、不思議と新鮮だった。とても嬉しかったので、パートナーにその感想を話した。「いや、私に聞いたよ。ソンヤが日本語できるかって」。その現実を聞いて、ちょっとがっかりした。   日本で、多くの日本人が、なぜか(見た目や名前で判断して)外国人は日本語ができない、と思い込んでいるようだ。人と初めて接する時に、ほとんどいつも「日本語できますか」と聞いてくる。もはや日本語ができないことを前提として話すようだ。私が日本に来たばかりのときなら、日本語がまだ分かりづらかった時だったら、そのような気遣いをされると嬉しかったかも知れないが、日本に来て4年目に入って、少し飽きてきた。   私の先生は、白人のアメリカ人で、20年近く日本に住んでいる。最近、二人で喫茶店で待ち合わせをして、英語で話していた。小さなお店で、トイレの場所が分かりにくかったので、先生は店員さんに場所を聞いた。少し複雑な場所だったので、私の先生は、「はい、はい」と言いながら聞いていた。私たち以外、お客さんがあと一人いた。先生がトイレの長い説明を聞いているのを見て、その人は私と目を合せてきた。「日本語、わかるかな」と笑いながら私に向かって言った。「もちろんですよ。日本語はぺらぺらです」と、私は、先生の代弁をした。どうせ、あの人は私の曖昧な見た目で「日本人」だと思ったのだろう。   ある人が、ある人を「日本人」じゃない、と判断する。その判断は、ほとんど見た目に基づいているのだろう。または、名前を見て判断するのだろう。その判断は、多くの場合一瞬で終わる。そして、「外国人」と判断されてしまったら、まさか日本語ができるとは思われないようだ。私は、たまに日本に生まれ育った日本人のハーフ(またはダブルやミックス等々、お好みでどうぞ)のことを考える。そういう人たちが、「日本人」じゃないと判断されてしまうことは、きっと辛いだろう。「ハーフ」は、親の国籍や育ちによって二つ(または三つ、四つ、それ以上)の文化を合わせ持つと言えるが、同時にそのいずれかの文化(または社会)から排除される可能性もある。見た目で判断するから、そういうことになるのだろう。私は、日本人のハーフではないが別の「アジア系」のハーフである。そのため、国籍が判断しにくい顔になっているようだ(そもそも顔で国籍を推測するってどういうことなんだろうね)。でも、その顔のおかげで、たまに「日本人」としてパスできる。そういうときは、なぜか嬉しく感じる。別に「日本人」になりたいわけでもないけどね。何よりも、「普通」にしゃべってくれることが嬉しい。   20年間近く日本にいる私の先生が、初めて出会う人に「日本語はわからないだろう」と判断されたのは、少し悲しい現実を目撃した感じだった。20年も日本にいても、どこまで日本語が上手になっても、見た目が「日本人」ではない限り私も同じ扱いをされるだろう。日本人が「外国人」を見下しているわけではないが、やはりもう少し(いや、少しだけではなく、もっともっと!)、日本語に関しては期待してほしい。でもそれだけではなくて、やはり単純に見た目や名前で、人を判断してほしくない。人の国籍や年齢や性別や身長や眼の色等を前提として、話してほしくない。みんなを自分と同じ「人」として、接してほしい、接したい。   ---------------------------------------------- <デール、ソンヤ Sonja Dale> 上智大学グローバル・スタディーズ研究科博士課程満期退学。上智大学グローバル・スタディーズ研究科特別研究員。ウォリック大学哲学部学士、オーフス大学ヨーロッパ・スタディーズ修士。2012年度渥美奨学生。 ----------------------------------------------     2013年6月26日配信
  • 2013.06.19

    エッセイ376:カトウ メレキ「トルコの反政府デモ:『アッラーがアダムをつくった。翌日カインがアベルを殺した。』」

    「今度のオリンピックは、東京とイスタンブール、どちらが選ばれると嬉しいですか」とよく聴かれていた。それが急に「大変ですね、トルコ、大丈夫ですか?」と言われるようになった。トルコでは、現在、大規模な反政府デモが続いているからである。すでに死者がでており、500人ほどが逮捕された。デモ隊は6月16日に政府によって排除された。このデモは世界各国のメディアでも取り上げられている。デモ参加者の攻撃的な態度と、政府および警察のそれに対する姿勢が大きな批判の的となっている。デモ隊が反対しているのは、イスタンブールの中心街のタクシム広場に関する「ゲジ公園」という再開発プロジェクトである。環境保護団体のメンバー達は、この広場の木が切られることに反対であると訴えている。   2013年5月下旬から6月のはじめにかけて、エーゲ海の新緑が美しくなった頃、ちょうどトルコにいた。イスタンブール以外の都市は静かに(トルコの「静か」は日本のそれとくらべたら「うるさい」と感じられるかもしれないけれども)日常生活を送っていたときに騒動が起こった。それは、突然、フェイスブック(以下FB)上と、ランキングはそれほど高くない「ハルクTV(国民テレビ)」というテレビ局の両方で始まった。ハルクTVは、現場からの生中継の間に、トルコの左よりで革命派の俳優ギュネイ・ユルマズ主演の反政府映画とその主題歌アルカダッシュ(我が友)を放送した。その映像には銃などが出てくるシーンがあり、思春期の若者の気持ちを刺激し、彼らが自らのことを「反政府の英雄」と夢みてデモ隊に加わることになったと、新聞記者トルグット・セルダル氏が書いている。氏は、若者が犠牲になったトルコのクーデターを自ら経験しており、トルコではこのようなことが数年ごとに繰り返されると批判している。トルコという国の若者たちは、数年ごとに原因不明の「分裂病」にとりつかれるのだろうか。   ハルクTVを除けば、デモが始まったころメディアは無関心だった。しかしFBでの呼びかけをきっかけに、若者を中心とする多数のグループが、タクシム広場周辺でテントを張り、寝泊りしながらデモを始めた。その後子どもから高齢者まで、様々な年齢の人々が加わった。イスタンブールの知事が、自分の子どもを連れ戻しに来るように、母親たちに呼びかけたこともあった。それは警官隊が使用する催涙弾などが含んでいる有害物質の影響から若者を守るためだった。エジプトの反政府運動やシリアの内戦が始まったとき、トルコの世論は、アラブ諸国よりも自らの国がデモクラシーの面で優越していると自慢げだった。しかし今回のデモをきっかけにトルコのデモクラシーも問われるようになった。シリアの友人に「トルコの春がきたね」と言われた。   最初、デモ隊は、環境保護を訴えてタクシム広場の木が切られることに反対する人々であった。しかし参加者の中には、反政府組織のメンバー、野党支持者及びPKK(クルディスタン労働者党。クルド族の独立国家建設を訴える武装組織のメンバーも多く、トルコではテロリストとしても認識されることがある)支持者や、トルコ外部の勢力に支持されている違法団体の人々も入っていると、政府は認識している。それに対する最初の攻撃は、警察によるデモ隊の撤退を求めるものだった。しかし、参加者の多様性や、政府の過激な抑圧を観察するだけでも、今回のデモが単にトルコ政府の都市開発プロジェクトとそれに反発する民衆の衝突として単純化されない問題であることがわかるだろう。その背後には、無視することができないトルコの政治的、社会的、歴史的そして精神的な背景があるという事実は疑いの余地がない。   トルコの政治的な構造をみると、主に4つに分かれる。政権を握っているAKP公正発展党はイスラム主義を掲げている中道派である。その次に支持されているのはCHP共和人民党であるが、左よりでライシテ(政教分離や世俗主義)、アタチュルク主義(トルコ共和国初代大統領ムスタファ・ケマル・アタテュルク)的な思想を持っている。第3勢力はMHP民族主義者行動党であり、ナチスドイツまではいかなくても民族崇拝的な色が濃く、イスラム思想を重んじる傾向を持っている。最も少数派であるBDPはクルド人住民を代表する左派政党である。もちろんこのような説明の仕方は大雑把で、支持者を単純にグループ化することは容易ではない。   トルコでは同じ家族の中でも、支持する政党や思想がかなり異なる場合が多い。時には兄弟の間で摩擦の原因にもなる。トルコで政治が話題になっている時に、忘れてはならないことが一つある。子どもから年配の方まで、政治や政治家のことを話せば絶対に盛り上がる。政治は常に日常化した熱心な議論のネタである。職場の同僚に嫌われるのは、彼はAKP支持者なのに自分はMHP支持者であるから、ということは十二分にある。トルコの某国立大学で働いていたCHP寄りの研究科長の某先生は、昨年、新しく入ってきた学長がAKP寄りであったから、強制的に他の国立大学に勤務先を変更させられた。とにかく日本ではおとぎ話にも聞こえるような出来事が沢山出てくる。   トルコの政党の話が長くなったが、こうした政党や、その支持者同士の摩擦が長年続いてきた。今回のゲジ公園プロジェクトに反対するデモ隊の中には、AKP以外の党を支持するグループも多く、結局、異なる政党支持者間の衝突まで始まった。AKP側の若者たちがCHPの別館を石や棒で攻撃したのもその一つの事例である。それはCHP側の人々が、最近のエルドアン政権の行いに対して不満を抱くようになったこととも関係している。AKPは、2002年以来続いている政権の中で、国民の多くに認められたように厚生、社会福祉、経済、国際関係の分野で大きな発展を成し遂げた。しかし、だからといって信条や習慣が統一されたわけでは全くない。   トルコでは、飲酒やお酒の販売に関しては様々な法令の提案があったが、今回のゲジ公園プロジェクト抗議運動の直前に、午後10時以降お酒の販売が禁止された。この法令はイスラム主義のエルドアン首相やその支持者である国民の一部にとって望ましい変化であった。イスラム教ではお酒は禁止されており、その販売も宗教的に禁止である。トルコでは飲酒の習慣が日本とは異なる。トルコでお酒を飲むのは殆ど男性であり、その中でも、飲む人と、生涯飲まない人とではっきり分かれている。これは宗教的な選択である。田舎の街角でビールを購入すると、中身が「バレないように」缶を新聞紙に包んで渡される。かたちであれ、心からであれ、宗教的な生活を好む住民が多いトルコでは、飲酒は、どことなく白い目で見られがちな習慣なのである。   それと反対に、左よりのCHPやアタチュルク主義を訴え世俗主義的な生活を好む住民にとって、お酒販売の制限は大きな抑圧である。さらに、観光業が大きな収入源であるイスタンブール、地中海およびエーゲ海などで観光業に携わる経営者達にとっては、お店が賑わう夜10時以降は客にお酒を出してはいけないという政府からの制限は、厳しい打撃となった。お酒販売の制限であっても、トルコでは2項対立の反応が常にあるのである。   また、エルドアン首相の最近の独裁者的な言動も、国民の間で不満の的にもなっていた。確かに大規模な集会などでのエルドアン氏のスピーチを聞くと、驚くほどオスマントルコのスルタンの口調で話す例が少なくない。最近のデモを受けて、トルコの有名な心理学者キョクネル・オズジャン教授は、「演説などを分析したところ、ヒトラーという独裁者でさえ、エルドアン氏ほど暴力的な口調では話さなかった」とある電子新聞の記事に書いた。6月16日、イスタンブールの市内のタクシム広場でデモが続いていた時に、エルドアン首相が同じ市内の別の場所で大規模な集会を開催し、自分の支持者の前にたって演説を続けたこともかなり批判されている。   その舞台となったイスタンブールでは、二人の兄弟がいれば、一人がエルドアンの演説を聞いて拍手しながら盛り上がっている最中に、もう一人の兄弟がデモ隊の中で警官隊と衝突しているということは、全く普通の話である。その兄弟は翌日同じ家で生活し同じ食卓を囲む。しかし、話題が政治に変わると、この二人は必ずと言ってよいほど殴り合いになる。兄弟であっても憎しみでいっぱいになる。今回のデモでは4人の命が失われた。これは中東的な落ち着きの無い性格なのだろうか。または気性が激しい国民性といったところだろうか。   エルドアン首相やギュル大統領はデモ隊を無視し続けているが、その姿勢について彼らの言い訳はAKP支持者がトルコ住民の半数に及んでいるからということである。そのようなAKP政権を全くの「悪党」とみなすのは不平等な理解の仕方になるだろう。長い間AKPは国民に支持されてきたのである。CHPやMHPは野党としてしか政治に関与できず、そのメンバーや支持者は政権交代を訴え続けて10年あまりが過ぎている。その歳月の間、AKPが様々な分野で多くの業績を残しているのは明確である。病院、学校や職場など公の場で、トルコに帰国するたびに観察できる変化が著しい。国民の経済的なゆとりも顕著である。携帯電話やPCを2台以上持っている人も多いし、iPhoneを片手に友達と話している中学生も少なくない。果物、野菜やパンなどの食料がゴミとして大量に捨てられるほど余っている。それなのに、人々の間では、とにかく政権を批判することが盛んになっており、トルコの最近のトレンドである。   今回のデモが起こったのは、トルコの最近の発展成果を示す重要な出来事がいくつか重なっていたことも指摘されている。デモ開始の2週間前の5月14日、トルコは国際通貨基金(IMF)から借りていた膨大な借金をやっと完済した。1969年1月1日以降、トルコ政府が借りた4億米ドルのことである。   6月1日から16日の間、140カ国からのトルコ語学習者の学生たちがトルコを訪れ、第11回目のトルコ語オリンピックが開催された。このオリンピックはギュレン運動(ギュレン・フェツフッラー氏がリーダーである中立的な宗教団体で、政治と距離をおき、イスラム教の掟を守りながら、自らや周りの人々の教育に熱心なグループであり、最近米国などで国際学会も開催されるようになった)が開催しているもので、どちらかというとエルドアン首相やイスラム教に積極的な人々が応援しているイベントである。   トルコ経済が軌道に乗り、国の借金が完済され、トルコ東部で長年続いたテロ問題もそろそろ落ち着いてきた今、トルコ語オリンピックも開催されているちょうどその時期に反政府デモが起こるのは、政府に言わせればエルドアン政府の支持率を下げるための一つの仕掛けであり、政府の業績よりもその欠点を前面に出そうとする試みなのである。   そのような主張をする政府も、国民を政府側と反政府側という二つのグループに分けて扱おうとする。国民も、ときには非常に意識的に、ときには無意識的にこの二つのグループに自ら別れる。一方はデモ隊に入って棒や石で警官隊のパトカーや救急車を襲う。もう一方は警官隊側に立って「人だかりの方に催涙弾を投げろ!」という命令に従いデモ隊を攻撃する。この二人とも同じイスタンブールの市民であり、制服やデモ用のマスクを脱げば、翌日同じスーパーで何もなかったかのようにアッラーの作った野菜を購入して晩ご飯のおかずにする。そしてまたその翌日兄弟を棒や石で襲う。モナリサはトルコを見ていたに違いない。   アッラーのために、一日5回、礼拝堂のミナレットから人々に祈りに集まるように呼びかけられる。その日もその翌日も、カインのようなトルコ人が、アベルのようなトルコ人を殺しつづける。   ---------------------- <カトウ メレキ(Melek Kato)> トルコ出身。トルコのエルジエス大学日本語日本文学部を卒業後、筑波大学人文社会科学研究科・文芸言語専攻にて文学修士号を2006年取得。同研究科で20011年学術博士号取得。現在白百合女子大学非常勤講師。研究分野は比較文学、比較文化、翻訳研究。SGRA会員。 ----------------------     2013年6月19日配信
  • 2013.05.29

    エッセイ375:韓 玲姫「日本体験記―駆け込み乗車」

    来日してすでに10年の歳月が流れた。思えば人生で最も輝く30代を、わたしは日本とともに過ごした。日本は、私に豊富な知識を与え、人間として生きる力を与えてくれた。さらに、私に2人の子供を授け、私を大人に成長させた。今、振り返ってみると、7年間の会社生活と3年間の研究生活は、いずれも私にとって新しい発見と学びの旅であり、その一つ一つが私の人生の宝物であった。   勿論、日本での体験はすべてが愉快というわけではない。入社間もない頃、中国の取引先との電話商談がうまくいかず、会社で唯一の中国人である私をわざわざ呼び出し、「おれは中国人が嫌い。だから中国と取引したくない。」と直属上司でもない人に、意味不明に八つ当りされたこと、「中国には信号があるの?」、「キム・ジョンイルって中国の首相?」などのような馬鹿げた質問に、「はあ?」と唖然としてしまったことも多々ある。しかし、そのようなことがあったからこそ、もっと日本人を理解したい、日本社会を知りたいという強い思いが芽生えたと思う。   そもそも、私が東京の生活に憧れ、会社に入社したのは、10年前のあることがきっかけだった。それは、初めて上京した時の出来事だ。閑静な筑波大学のキャンパスとはガラッと変わって、混雑した人込み、職場に向かって早足で急いでいるスーツ姿のサラリーマンやOL(オフィスで働く女性の意)、建ち並んでいる高層ビル群、これまで頭の中で想像していた都会の風景が目の前に現れた時の感動は、未だに鮮明に覚えている。田舎生れ田舎育ちの私にとって、東京という大都会はすべてが新鮮で、神秘的なものだった。その時、私はこの憧れの大都会で生き延びることをひそかに心に決めたのである。   1年後、再度来日した時、私は念願の東京OLの仲間入りを果たした。そして、電車に揺られて7年間の通勤の旅が始まったのである。日本の通勤といえば、満員電車と思われる人が多いが、私にとって一番印象に残るのは朝のラッシュ時の駆け込み乗車である。   上京して最初の4年間、私は千葉県市川市の南行徳に住み、その後は船橋市の船橋法典に引っ越した。会社まではそれぞれ地下鉄東西線、JR武蔵野線を利用したのである。東西線も武蔵野線もラッシュ時の乗車率がトップテンに入るぐらいで、私が乗っている区間はいつも混雑していた。   朝の通勤ラッシュの時間帯になると、ホームにいつも長い行列ができるのは珍しくないことだ。いよいよホームに電車が入ってくるが、電車の中はすでに人がぎゅうぎゅう詰めで、降りる人もほとんどいない。いつの間にか長い行列の人が我先に中へ乗り込んでゆく。小さいスペースしか空いていなかったのに、そんなに長い行列の人が全部入れるなんて信じられないが、確かにみんな乗っている。   「ドアが閉まります、ご注意ください。」、「駆け込み乗車はお止めください。」というアナウンスとともに、よく目にする光景がある。それは、必ずといっていいほど、閉まる扉に駆けこんでくる人がいることだ。半開きになったドアには片足しか入っていないが、それでも諦めず必死に押し寄せてくる。やっと体半分が入ったところで、男性の駅員が駆けつけてくる。「駆け込み乗車はお止めください。」、「もう満員なので降りてください。」と怒り出すのかと思うと、今度は駅員が必死に外から客を中に押し込めてあげる。そして、半開きになったドアを手動で締めると、かすかながらも安堵の表情を浮かべる。   実は、このような光景は中国でもよくあることだ。しかし、舞台が違う。それは、国営の電車や汽車ではなく、地方行きの個人請負バスである。個人経営なら、お金を稼ぐために一人でも多くの人を乗せたいだろうが、日本の場合は違うのではないか。私は、閉まる扉に駆け込む人に対しても、命が危ないことをする利用客を止めない駅員に対しても、疑問に思っていた。しかし、徐々に私は彼らが理解できるようになった。   毎朝、私はいつも15分前には会社に着くようにする。が、その時ほとんどの社員がすでに仕事を始めているのだ。定時前に着いても、みんなが仕事をしているところへ入っていくのは、何となく気まずい雰囲気がしてたまらない。私だけの思いかも知れないが、朝出社した時、席に座っている社員に向かって、「おはようございます。」と挨拶をするより、席に座って、「おはようございます。」と出社した人を迎えたほうが、精神的にもっと楽な気がする。これが決して理由にはならないが、遅刻は禁物という日本社会の秩序と、毎朝緊張が走る会社の雰囲気が、どうしても目の前の電車を逃したくないという思いを募らせた原因の一つであるのは違いない。   次の電車に乗って、3分、5分遅く出社するより、1分でも早く着きたいという気持ち、また、予定時刻より早く会社に着いた時のラッキーな気持は、日本の社会人にしか分からないことだろう。そして、その気持ちが分かるからこそ、駅員も駆け込んでくる客を乗車させたかったのだろう。必死に電車の中へ乗り込もうとする客、そして、後ろで客を必死に電車の中に押し込もうとする駅員、彼らはまったく他人であるが、彼らには以心伝心の原則が通じるのだ。その光景は、まるで同じゴールを目指し、バトンを渡して後押しする人生のリレーマラソンのようであり、心の温まる場面であった。   とはいっても、私にとって日本での社会生活の中で、仕事より朝の通勤のほうが確かにプレッシャーだった。そして、それがストレスとなり、挙げ句の果てに某日の朝、会社のエレベータから降りた途端、廊下で倒れ、大騒ぎになったことさえある。社会人として遅刻禁物というルールは当然守るべきであるが、もっと精神的にゆとりのある職場と気楽な社会環境が必要かもしれない。   --------------------------------------- <韓玲姫(カン レイキ)Lingji Han> 中国吉林省出身。延辺大学日本語学部卒業後、延辺大学外国言語学及応用言語学研究科にて文学修士号取得。2013年3月筑波大学で学術博士号取得。現在浙江越秀外国語学院東方言語学院日本語学部講師。2012年度渥美財団奨学生。研究分野は比較文化、比較文学。 ---------------------------------------
  • 2013.05.22

    エッセイ374:シム・チュンキャット「21世紀のアジアの教育を考える」

    (第1回アジア未来会議報告#5)   華麗な手さばきでiPhoneやiPadをいじる子どもを電車の中でよく見かけます。鮮やかだな~と感心する傍ら、彼らのこの優れた指技と能力を学校の現場で活かさなければ、もったいなすぎるといつも思います。今の子ども達を取り巻く成長環境が大人世代のそれとは大きく異なることは想像に難くありません。つながろうと思えば、見知らぬ人ともつながることができますし、調べようと思えば、わざわざ出かけなくても部屋の中で多くの情報を容易に入手することができます。その良し悪しはともかくとして、既成の観念と枠組みや従来の常識がおそらく今後も次々に打ち破られていく、そういう時代に移ったと認めなければなりません。そして、学校教育が子ども達の未来のための材料づくりを担う役割を果たすのであれば、なおさら変わらずにいられるわけがないと思って、2013年3月にバンコクで行われた第一回アジア未来会議では「21世紀に向けたアジアの教育の在り方を考える」というセッションを組みましたが、この僕の狙いと期待は見事に裏切られました。未来志向の教育を目指すその前に、現存する学校教育制度には問題が山積しており、その解決が先であることを僕は4名の発表者に教わったのです。同じセッションに分野や専門などを異にする研究者が集まるアジア未来会議であるからこそ、視点の違う立場からある共通のテーマについて議論することができました。ということで、2ヶ月程遅れましたが、僕が座長を勤めたセッションで行われた発表と主な議論の余韻を少しでも皆さんにお届けできればと思って、以下に簡単にまとめました。   まず、青山学院大学大学院の中西啓喜氏がシンガポールとの比較を通じて、日本における商業科高校の変化と課題を検討しました。同氏によれば、近年日本の商業科高校には社会階層上位層の子弟が入学しており、また就職指導よりも進学指導が実施されるようになってきた、という変化が見て取れるといいます。換言すれば、生徒の手に職をつけるという職業教育の本来の目的から離れ、日本の商業科高校の職業教育機関としての不明瞭さが増してきているということです。アジア各国で大学進学熱が高まるなか、職業教育の存在意義の再考および新たな役割の認識が求められている現実が浮き彫りになりました。   つぎに、東京大学大学院の李スルビ氏は、同じ学校の生徒でありながら、使われる教科書と教育内容によって歴史認識が大きく変わるという事例研究の結果を発表しました。李氏がフィールドワークを行った東京韓国学校において、日本の大学への進学を目指す「Jクラス」の生徒と、母国の韓国に帰国して進学を希望する「Kクラス」の生徒とでは、使用する歴史教科書の視点と内容が異なるため、日韓関係史に対する認識が進路によって大きな隔たりが生じていることが示されました。アジアにおける歴史認識の問題がクローズアップされている昨今、歴史という教科の学びと意義および教科書の在り方がいっそう問われていると李氏は問題提起をしました。また、李氏のこの興味深い発表はこのセッションでの優秀発表賞(Best Presentation Award)に選ばれました。   続いて、上越教育大学の堀健志氏は、最初の発表者である中西氏と同様に日本とシンガポールとの比較をもとに、学力面で下位に位置づけられる高校生に焦点を当てることによって、グローバル化の影響で何らかの不利と困難がもたらされた子どもへの対応について検討しました。堀氏によると、現代社会では自分の人生をどう生きるかを自ら決定することが求められる「個人化した状況」が生み出されているにもかかわらず、日本の下位校生徒の多くは、社会に出ることに対して不安を抱いており、自己有能感も低く、そのうえ今の学校生活から将来像を描くことができずにいます。社会や将来に対する若者の不安と不満が、過度にナショナリスティックな姿勢に結びついてしまわないためにも、そうしたネガティブな感情を抱かずにいられる状況を作り出すことが、本人たちの未来にとってもアジアの未来にとっても極めて有益であると訴えました。問題解決に向かう道の一つとして、同氏はシンガポールのように完成教育としての職業教育を若者に提供すること、また職業教育を受けたとしてそれが生かされる職を用意することが重要であると提案しました。なお、これらの知見をまとめた堀氏の大会論文は優秀論文賞に選ばれたことをここで記しておきます。   最後の発表者は、きれいな関西弁日本語を駆使するにもかかわらず、なぜか英語で発表をすることにした同志社大学のラフマン・シャフセインリ氏でした。シャフセインリ氏は、初等教育における平和教育の重要性を強調しつつも、その導入と実施がアゼルバイジャン、アルメニアおよびグルジアの三国からなる南コーカサス地方において困難を極めていることを明らかにしました。紛争が長く続いたこの地域において、学校教師の多くが実際に戦争を経験しており、若かった頃に憎むことをひたすら教わった教師達がいかに平和について教えるかが大きな課題となっていると報告しました。子ども達のための「寛容教育(Tolerance Education)」がつい4年前の2009年に始まったばかりのアゼルバイジャンは、同じく悲惨な戦争を経験し、その後平和憲法を守り続けてきた日本から多くのことを学べるはずであるとシャフセインリ氏は最後に提言しました。   以上で紹介した通り、また冒頭でも述べたように、僕が座長を務めたセッションにおける4つの発表内容は良い意味で多岐に及んでおり、未来の教育に向けての現在の課題が多く指摘されました。言うまでもなく、未来と現在は陸続きになっており、いま現在の教育問題への解決について議論することは、結局のところ未来に向けた教育を考えることにもつながるのだということを、バンコクで改めて気付かされた次第です。「未来」を照らすためには、やはり「現在」という鏡が必要不可欠なのですね。   ------------------------------- <Sim Choon Kiat (シム チュン キャット) 沈 俊傑> シンガポール教育省・技術教育局の政策企画官などを経て、2008年東京大学教育学研究科博士課程修了、博士号(教育学)を取得。昭和女子大学人間社会学部・現代教養学科准教授。SGRA研究員。著作に、「リーディングス・日本の教育と社会--第2巻・学歴社会と受験競争」(本田由紀・平沢和司編)『高校教育における日本とシンガポールのメリトクラシー』第18章(日本図書センター)2007年、「選抜度の低い学校が果たす教育的・社会的機能と役割」(東洋館出版社)2009年。 --------------------------------