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2014.04.16
近年、日本と韓国および中国との関係は厳しい冷え込み状況に陥り、なかなか解決の糸が見つからない。この問題は日本と中韓両国との関係だけの問題にとどまらず、米国政府も巻き込み、欧米世論も巻き込んだ世界的な大論争に発展した。1月のダボス・フォーラムでも安倍首相の基調演説に対し、司会者が質疑応答で取り上げるほどになっている。その根底にあるのは歴史認識の問題にほかならない。靖国神社参拝の問題にしても、領土・領海問題にしても、歴史認識問題の延長線上に生まれた派生的な問題であると筆者は見ている。
この問題について筆者は、自称「アジア人」として、国家・民族を超えた意識に基づいて「不偏不党」の視点を提示したい。一つは、歴史の複雑性と歴史認識の多様性について、もう一つは、歴史教育の「洗脳性」について、私見を述べたい。
歴史の複雑性
筆者は歴史学者ではないが、歴史とは相当複雑であり、勉強すればするほど面白くなっていることに気づいた。歴史というのは、それを見る、あるいは解釈する主体者によってその事象が異ってくる。歴史のなかに生きた人の経験は千差万別である。さらに、歴史を動かしている人々、歴史を評価したり、歴史を書く人々の立場や考え方には複雑な要素が絡んでいる。したがって、歴史は複線であり、単線で単純なものではないことは自明の理である。歴史に対する認識や見方には多様性があることを認めざるを得ない。そして、歴史は動くものであり、したがって歴史に対する認識も時代(歴史)の変化に伴い変化する。このことを哲学では歴史弁証法という。
中国で生まれ育って、教育を受けた筆者の個人的な体験から言うと、日本に関して、または日中歴史関係についての認識は時と共に変化してきたのである。
1960~70年代、子供であった筆者は、田舎にいても「共産党の抗日戦争」(当時、政権党であった国民党は抗日に消極的であったと教育されていた)の映画をたくさん見てきた。でも、子供だったので、ただの戦争ごっこにしか受け止めなかった。映画の焦点は共産党の八路軍と新四軍が如何に日本軍と勇敢に戦って勝利したのか、日本軍は如何に三光政策を実施したのか、にあった。
1972年に日中国交正常化したが、田舎の人々はそのようなことはあまり知らなかった。ただし、学校教育では抗日戦争の映画を見せる時に、先生は「日本の中国侵略は一部軍閥主義者たちによるものであり、日本国民も被害者であり、日本国民は我々と同じ無産階級(プロレタリア)なので団結すべきであり、憎むべきではない」と教え、そのまま信じた。おそらく、そのような教育指針が政府から出されたと推測できる。
そして、偶然にも小学生の頃、日本人に初めて接する機会があった。1969年頃、ある有名な画家の家族が地元の都市延吉市から私の住んでいる村に下放されてきたのだが、その画家の奥さんが日本人であった。「文化大革命」の真っ最中であり、知識人や外国と関係がある人達は悪者扱いされ批判の対象になる時代であった。
しかし、村に来たその家族は不思議なことに批判の対象とはならなかった。村人達は誰一人、日本人の奥さんを悪者とは思わなかった。逆に、その礼儀正しさ、優しさを村人達は尊敬しており、仲良く過ごしていた。その家の末息子が小学校の同級生だったので、私はいつも神秘感(日本人的な生活スタイルに対して)を持ってその家に遊びに行ったりした。
私が高校を卒業して大学受験に4年間もチャレンジするうちに、外国語の試験が加わったため、日本語の本一冊を持って、「日本語を教えてください」と、友達のお母さんに頼んだら、すぐ承諾してくれた。日本語の仮名の読み方から教えてもらった上で、独学で日本語を勉強した。
大学生の時には、専門は哲学であったが、引き続き外国語として日本語を独学し、大学に来ていた日本人留学生(日本では社会人)と初めて日本語会話を試み、そのうち親しい友人になり、中国語と日本語を混じりながら会話し、周りの友達とも混じりながら交流していたが、誰一人、日本人だから嫌いという人はいなかった。逆に、日本人と親しく交流できる私は周りの学生から「日本通」と言われた。その後も日本友人との交流はずっと続いていた。これが1980年代の北京での私の日本人体験であった。つまり、毛沢東時代と鄧小平時代までは「反日教育」、「反日」は中国では非常に限定的であったということを物語っている。中国で「反日教育」が盛んになったのは1990年代の江沢民時代からであることは周知の事実である。
歴史認識の多様性
話を歴史認識に戻すと、国家間で戦争が発生した場合、必ず強いものと弱いもの、侵略者と被侵略者、加害者と被害者が出てくる。日本が中国で侵略戦争を起こしたことは否定し難い歴史的な事実である。しかし、その戦争によって侵略した側、侵略された側の両方にそれぞれの受益者と被害者がいることも理解せねばならない。どの勢力が国の政治を司るかによって、歴史認識も変わってくるのである。これは何処の国でも当てはまることだと思う。
あるエピソードを取り上げよう。昭和39 (1964) 年7月、日本の社会党訪中団が中国を訪問し、毛沢東と会見した。社会党の佐々木更三委員長が毛沢東に対し、日本の侵略戦争について謝罪したのに対し、毛沢東は「何も申し訳なく思うことはありませんよ、日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらしました。中国国民に権利を奪取させてくれたではないですか。皇軍の力なしには我々が権利を奪うことは不可能だったでしょう。・・・もし、みなさんの皇軍が中国の大半を侵略しなかったら、中国人民は団結して、みなさんに立ち向かうことができなかったし、中国共産党は権力を奪取しきれなかったでしょう。ですから、日本の皇軍はわれわれにとってすばらしい教師であったし、かれら(日本国民)の教師でもあったのです。」「過去のああいうことは話さないことにしましょう。過去のああいうことは、よい事であり、われわれの助けになったとも言えるのです。ごらんなさい。中国人民は権力を奪取しました。同時に、みなさんの独占資本と軍国主義はわれわれをも助けたのです。日本人民が、何百万も、何千万も目覚めたではありませんか。中国で戦った一部の将軍をも含めて、かれらは今では、われわれの友人に変わっています。」と述べたという。
この発言は奥の深い哲学的なものの考え方によるものである。中国には「因禍得福」という諺がある。禍によって結果的に福がもたらされるという意味である。日本軍の侵略は中国に大きな禍をもたらしたが、それを結果的に、そして大局的に見ると人民による新中国の誕生につながったことも事実である。 もう一つ、「反面教師」という言葉も中国でよく使われている。仮に悪いことをしても、それを反省し、教訓を汲むことができれば、良い結果につなげることができる。毛沢東は思想的には哲学者でもあり、物事を考えるときに常に「一分為二」(一つの物事の二つの側面)という弁証法的に考えるべきだと中国人民に教えたのである。中国ではその当時毛沢東が絶対的な権威をもっており、国民の信任が厚かったので、毛沢東はそのような「ジョーク」で会談の雰囲気を変えることができたのだと思う。もちろん、その発言は外交記録にあるのみで、マスコミに発表されたわけではない。
このような考え方で、日韓関係を見ると、もし日本の植民地支配がなかったら、今日の韓国の繁栄はなかったかもしれない。独立運動家は生まれなかっただろうし、韓国民の覚醒もなかっただろうし、朴正煕大統領のような立派なリーダーは生まれなかっただろう。しかし、もし韓国の某大統領が「日本の植民地支配に感謝する」と発言したとしたら、それは国賊扱いにされるに違いないだろう。韓国では「親日派」を徹底的に追求するキャンペーンを行ったが、それは「反日」である前に、まずは国内での政治勢力間の戦いに見えるのではないか。歴代大統領が替わるたびに、「反日」になったり、「親日」までは言えなくとも日韓関係の歴史に終止符を打とうとする、二つの勢力の争いが繰り返されている。現在の朴大統領が対日政策で強硬姿勢に出るのは、親の「親日レッテル」という負の遺産から自分のイメージを払拭したい、という心理的コンプレックスによるものと見受けられる。
筆者なりに歴史を客観的に評価するとしたら、日本の侵略と支配により、隣国は大きな被害を被り、日本はその加害者責任から逃れられない。しかし、加害過程における受益者がいることも否定しがたい歴史的な事実である。歴史というものは完全に客観的に評価できない側面もあることも理解せねばならない。一つの民族、集団の文化としての歴史は、自分達の過去であると同時に現在と直結している自分たちのアイデンティティの整合性の最も重要な部分である。言い換えれば、歴史自体が自己とアイデンティティの主な部分を占める。だからこそ、歴史は解釈であり、勝者と為政者が自分たちの正当性やアイデンティティの形成に利用するものである。したがって、歴史は最も「作為性」と「虚為性」として粉飾される客体であり、主体でもある「文学的な物語」である、とある学者は指摘している。 結論的に言うと、歴史認識というのは時代の産物であり、為政者が自分たちの正当性を主張するための道具という側面があることを認識しなければならない。 (つづく)
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<李 鋼哲(り・こうてつ)Li Kotetsu>
1985年中央民族学院(中国)哲学科卒業。91年来日、立教大学経済学部博士課程修了。東北アジア地域経済を専門に政策研究に従事し、東京財団、名古屋大学などで研究、総合研究開発機構(NIRA)主任研究員を経て、現在、北陸大学教授。日中韓3カ国を舞台に国際的な研究交流活動の架け橋の役割を果たしている。SGRA研究員。著書に『東アジア共同体に向けて――新しいアジア人意識の確立』(2005日本講演)、その他論文やコラム多数。
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2014年4月16日配信
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2014.04.07
昨年末、とうとう安倍首相が靖国神社を参拝した。安倍首相にとって、中韓の反応を配慮し8月15日の終戦記念日に行かなかった代わりに、選びに選んだのがこのタイミングだったのだろう。
しかしそうした「努力」は中韓には無視された。中国側の反応は案の定であり、外交部がこれを「悍然」なる参拝として批判した。その後、イギリスをはじめ世界各国に駐在する中国大使を動員し、英語での日中輿論戦が繰り広げられ、さらに韓国をも巻き込んだ。この一連の動きはおそらく、中国側が安倍参拝の必至を見越して、事前に用意した対策だと思われる。そして1月のダボス会議に出席した王毅外交部長・元駐日大使はフィナンシャルタイムズ社のインタービューで、「いま中国外交の急務としては、国際社会に日本の動きを危惧するように呼びかけることだ」と訴えた。
一方、中国国内では、公式に日本の軍国主義復活論を提起することはなく、あくまで靖国神社は軍国主義の象徴であることを強調し、むしろ焦点は、憲法改正などを唱える安倍政権が日本を軍国主義の道に導こうとしていることに絞った。つまり安倍政権の批判のみで、政権交代の際の交渉の余地を残した。
この靖国参拝は、中国側の政策決定者にとって、安倍政権との交渉をあきらめさせる決定的な要因となったと思われる。「悍然」なるという評価は、中国外交において公式に使われることは少なく、中国側のレッドラインに踏み込んだというメッセージを強く伝えているという外交分析がある。ちなみに一番最近に使われたのは、2006年に北朝鮮が中国に事前通知なしで核実験を行ったときだった。小泉元首相の靖国参拝に対しても、2005年からこの言葉を使って批判していた。しかしながら、小泉内閣からの積極的な反応はなく、中国側は政権交代を期待するしかなかった。
歴史をさかのぼると、日本の首相による靖国参拝がはじめて日中の外交問題となったのは、1985年8月15日の中曽根公式参拝であった。その一週間後、新華社(中国政府の公式通信社)が批判の社説を発表し、靖国参拝と歴史責任を結びつけた(『絶不允許混淆侵略戦争的性質』、1985年8月22日)。しかし鄧小平などの国家指導者は靖国神社参拝を批判しながらも、日中友好の重要性を訴えた。転換点になったのは、むしろ9月18日(満州事変の発端である柳条湖事件記念日)に、天安門広場で行われた大学生による反日デモであり、20日に外交部が改めて靖国参拝を強く批判し、二国間の外交問題として位置づけたことによる。
それ以降、中曽根氏は在任中に靖国神社に行くことはなく、今日まで40年近くの間、首相の公式参拝は安倍氏を除いてこの一回のみであった。在任中に私的参拝をした首相も、小泉氏と橋本氏のみであった。ただし橋本氏は私的参拝した翌年の1997年に、中国瀋陽にある「九・一八事変(柳条湖事件)記念館」を訪問することで、自らの歴史認識が中国側と共通していること示し、その後は参拝しなかった。つまり、首相や外相が在任中に靖国参拝をしないことについて、自民党内では一定の了解があるのだ。
これらの前例に照らしながら、2012年に大規模な反日デモが中国を席巻したこと、またダボスでの安倍氏の物議を呼ぶ発言から考えると、安倍氏を交渉相手にすることは、中国側にとっては対内的に説明がつかないことになる。よほどの国内・国際の事情がない限り、中国側が第二次安倍政権と対話することはないだろう。
それでは、一般の人々にとっては、日本の首相が靖国を参拝することは何を意味するのか。なぜ中国社会では靖国参拝が歴史認識問題として受け止められるのか。それはただ単に共産党の言説をそのまま受容したからなのだろうか。
当然のことながら、1985年以前、ほとんどの人は靖国がどんな場所であるのかをよく知らなかった。中曽根参拝後、中国では名前が知られるようになったが、果たして靖国ではどんな人が祀られているのか、ひいてはそもそも神道とはどんな宗教であり、宗教法人とはどのような位置づけと法的権利を持つのかについては、長い間中国では広く知られていなかった。
限られた情報と知識の中、唯一はっきりいえるのは、そこにはA級戦犯が祀られていること。戦争責任二分論(つまり日中戦争はごく一部の軍国主義者が発動したもので、ほとんどの日本人も中国人と同じように軍国主義の被害者であるという、日中国交正常が行われた際の中国政府による対内説明)が広く受け入れた時代では、A級戦犯はまさに戦前の日本を国家主義、軍国主義、さらに残忍な虐殺に導いた張本人であると認識するのは当然であろう。
さらに、ここには文化的な違いも確かに存在する。中国には神道がなく、「靖国神社に祀られる英霊」というフレーズを聴いたとき、自然と浮かび上がるイメージは、廟やお寺や道観の中のことである。祀られるということは、「供奉」という言葉になるが、亡くなった人の身代わりである「牌位」を供養することである。この「供奉」は、ただ宗教上の崇拝ではなく、道徳の意味も含まれている。仏教にしても、道教にしても、崇拝の対象はいずれも現世に生きた間に善行を行い、そしてその功績が認められ初めて成仏あるいは神になったもの。つまり、宗教施設で供養されることは、死者の生前の行為に対する最大の肯定であり、現在を生きる人々のお手本となるべきというメッセージを含んでいる。日本でもよく知られるのは、三国誌の中の関羽が原型となった関帝廟や、海外の華人社会で多く信仰される媽祖、孔子廟である。こうした誤認識を示す一番最近の例は、2012年靖国神社前で抗議した香港人活動家が、東条英機などの位牌を持参し、それを燃やすことによって憤慨をあらわにしたことだ。
これらの施設を訪ね、彼らの位牌の前で合掌して、自分の願い事の実現を祈ることは日本の神道と共通している。だがこのこと自体が「供奉」の対象の功績を認めることになる。こうしたイメージのなか、靖国参拝=戦犯の行為に対する肯定という図式が成り立ち、そして一国の首相による参拝は許されない挑発行為だと考えるのはむしろ自然なことである。
ただし日中の確執の激しさが増すとともに、ようやく中国でも知識の普及がもたらされた。特に安倍政権になってから靖国についての紹介文も多くメディアに掲載され、神社の中にはいわゆる位牌のようなものがないことに気づき始めたのである。「百度知道」(ヤフー知恵袋のようなもの)でさえ、最近は靖国神社に関する情報が豊富かつ正確になってきている。
以上のように、日中の誤解は、ただの無知から生じたものに過ぎないのかもしれないが、安倍氏による「心の問題」というような説明ではなかなか理解できないだろう。一方で靖国参拝=戦犯の行為に対する肯定という図式は、中国あるいは華人社会のみに存在する観念ではなく、国際社会ではもはや一般的になってきている。その理由は、小泉内閣期に、遊就館とその言説がますます脚光を浴びるようになったことである(田所昌幸・添谷芳秀編『「普通の国」日本』千倉書房、2014年)。遊就館に関する知識もまた、いま中国社会に浸透しつつである。靖国参拝は遊就館と無関係であるという説明は果たして成立するだろうか。参拝の正当性を主張するならば、これらの難問を解くような説明をきちんとする責任がある。
もうひとつ、気をつけないといけない中国社会の思い込みがある。「日本人は自らより強いものに対して服従するが、弱者を相手にしない」という考えだ。第二次世界大戦において日本人はアメリカ人に負けたから、アメリカの言うことに耳を貸すが、中韓の感情を平気に踏みにじるのは彼らに負けていないからという論理である。「百年の屈辱の歴史」に対する記憶と被害者意識はいまだに中国社会に広く存在しているため、こうした感情的な思い込みは相当強い。だからこそ、日本側の歴史認識には敏感に反応したり、それを中国に対する挑発や嫌がらせだと受け止めたりする。もちろんその背後には、戦後日本の平和主義と民主主義の定着に対する根本的な無知と不信感がある。このような認識は、いささか論理が飛んでいるが、遊就館が米紙の批判を受けて言説の一部を修正したなどの事実もまた、そうした思い込みを強める。
筆者は中国社会、ひいては指導層までに存在する以上のような認識の誤差は、長い間における相互認識と情報の極めて不十分な状況と、2000年代に入るとともに大量な日本に関する情報が急激に人々の手に届くようになり、民間の発言空間が生まれた状況との間の巨大なギャップによって生じた結果だと考えている。しかし幸いなことに、中国社会では人々の関心とともに知識の普及が進んでいる。また、2000年代に入ってから、東アジアとの間の歴史問題や戦争責任の再整理にさほど大きな関心を示さなかった日本社会でも、ようやくこれは日本の国際イメージの根幹とかかわる問題だと気づき始めた。
を知り己を知」るのは、戦争に勝つためではなく、有効な外交を展開するためだ。なぜ相手が自らのスタンスを理解できないのかを一方的に責める前に、誤解のわけを知り、それを解くための説明をしたほうが有効な外交ではないか。その意味で、安倍政権は相手を知らな過ぎたかもしれない。選びに選んだ参拝のタイミングも、なんと毛沢東の誕生日と重なっていたのだ。ただし、時代はすでに変わり、外交はますます政府の特権でも外交官だけに頼る専門分野でもなくなった。市民の一人ひとりの発言権が大きくなったとともに、背負う責任、つまり相手を知ることと自国を説明することが重要になっている。日中双方の努力が必要であるが、いまの相互無知と誤解の状況は必ず改善されると信じたい。
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<李 彦銘(リ・イェンミン) Yanming LI>
大学共同利用機関法人人間文化研究機構地域研究推進センター、慶應義塾大学東アジア研究所・現代中国研究センター研究員。中国北京大学国際関係学院を卒業後、慶應義塾大学にて修士号を取得し、同大学後期博士課程単位取得退学。研究分野は国際政治、日中関係と中国外交。現在は日本の経済界の日中関係に対する態度と影響について博士論文を執筆中。
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2014年4月2日配信
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2014.03.26
第17回SGRAマニラ「持続可能共有型成長セミナー(Sustainable Shared Growth Seminar)」は2014年2月11日にフィリピン大学工学部のMELCHOR Hallで開催された。
今回は「製造業と持続可能な共有型成長」というテーマで開催され、運営委員の努力により約125人という多数の研究者、学生の参加を得ることができた。
セミナーはフィリピンと日本の国歌と国旗掲揚式に引き続き、今西淳子SGRA代表の代理である渥美国際交流財団の角田英一理事と、在フィリピン日本大使館の天野哲郎公使のスピーチによりスタートした。
セミナーのセッションは、下記の7つのブロックで構成され、午前9時半から午後5時まで続いた。
第1ブロックは「革新(Innovation)」がテーマで、フィリピンでは「発明」が量的にも(Tony Mateo先生)地理的にも(Arianne Dela Rosa Damayas博士)進んでいない現状と、その障害となっている要因が報告された。積極的な議論が展開され、結果として「発明者と投資家との定期的な話し合いの場」の設置が提案された。
「ITと製造業」をテーマとした第2ブロックは、フィリピンのIT産業における早期非産業化(early de-industrialization)と製品の罠(product trap)が指摘された(マキト)が、それに対してインドのIT産業がこのような課題を乗り越え、産業化を達成したプロセスが報告(徳丸紀夫先生)された。この報告では、エンジニアの長期的雇用制度や人材管理が重要な要因である、との示唆に富む研究結果が取り上げられた。
「水」がテーマの第3ブロックでは、NGOが行ってきた、草の根活動による水処理プロジェクトが紹介された(Apolonio Jimenez工学士)。
「環境・廃棄物処理」をテーマとする第4ブロックでは、製造業の包装(Packaging、 Encasement)から生ずる「廃棄物」問題が取り上げられ、「消費」と「環境」に関する議論が展開され、再利用や再生を促す提言が行われた(Ernie Labuntog工学士)。
午前中の一連のセッションの後、将来の大統領候補としても呼び声が高いGrace Poe上院議員の基調講演が行われた。講演では、貧困者にも成長が共有されているとはいえないものの、成長と発展の著しいフィリピンの経済に対する楽観的な展望が示され、また、みずから実施している貧しい子供たちのための政策を情熱的に語ってくださった。講演後には、会場のみなさんとの集合写真の撮影に喜んで応じていただくと共に、この比日共有型成長セミナーの発展のためのサポートは惜しまない、というメッセージもいただいた。ご多忙の中、貴重な時間を割いてセミナーに参加していただいたGrace Poe上院議員に心からの感謝をささげたい。
午後の部の第5ブロックでは「成長の持続可能性」をテーマとして、フィリピンの成長を妨げる2つの要因(課題)を取り上げた。輸出関係の地場製造業の未成熟(Kristine Joy Cruz Martin先生)と(自宅)建設バブルである(Gregorio Mabbagu先生)。
ミクロとマクロ発展をテーマとする第6ブロックでは、広い視野の発展で捉える持論のPoBME論の説明(平川均先生)があり、現代の世界構造の変化に重要な要因であると強調された。よりミクロ的に捉えた次の報告では、フィリピンの海外出稼ぎ者の送金は地方の開発のためにより効率的に使うべきだとの主張(Janice Zamora-Morales先生)が展開された。
「福島からの持続可能な製造業への教訓」をテーマとする第7ブロックでは、SGRAの福島スタディツアーがきっかけとなった、フィリピンの原発議論における安全や経済効率などに対する疑問が取り上げられた(マキト)。最後に、「ふくしま再生の会」が取り組んでいる7つの挑戦が紹介され(田尾陽一先生)、会場の参加者との対話が行われた。
翌日、セミナーでの議論を延長する形で、参加者13人による(建設中止になっている)バタアン原子力発電所への見学ツアーを行った。マニラから約100Km、美しいバタアンの海岸にある、バタアン原子力発電所は1970年代後半に着工したが、政変や相次ぐ反対運動によって、一度も稼働することなく、現在では見学者を受け入れて、原発の必要性や安全性を伝える、一種の原発記念館(博物館)的な施設となっている。(※ここであえて「博物館」という言葉を使っているが、フィリピンではこの原発の稼働開始を真剣に勧めているグループがある)
案内役のエンジニアに丁寧に応対していただきながら、約2時間、興味深く原発内の各施設を見学して回った。日本やアメリカは無論のこと、世界のどこにも存在しない、唯一の「リアルな原発博物館」で、原子力発電の原理やシステムを学ぶという、非常に貴重な経験をさせていただいた。
今回のマニラセミナーでは、共有型成長が目指すサステイナブルな社会/経済の構築にとって原子力発電がいかなる意味を持つのか、を真剣に議論する必要があると実感させられた。それと共にフィリピンの産業や社会にとって「革新(Innovation)」が重要なカギを握るというコンセンサスが得られていないことに関して、SGRAフィリピンの活動によって、議論が少しでも整理できれば幸いである。
SGRAが、これらの重要課題に関して果たすべき役割は多い。そして、それを絶えず模索して行くことが、SGRAのミッションであろう。
最後に、開会の挨拶で「SGRAマニラセミナーの成功と比日の知的交流の発展を祈る」というメッセージをいただいた在フィリピン日本大使館次席公使の天野哲郎氏、大雪に見舞われたにもかかわらず、日本からセミナーに参加していただいた平川均先生、徳丸宜穂先生、Penghuy Ngov先生、遠藤美純先生、田尾陽一さん、角田英一さん、並びにご協力いただいたANA(全日本空輸)に感謝の意を表したい。
1. プログラム
2. 発表資料
3. セミナーとバタアン原子力発電所への見学ツアーの写真
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<マックス・マキト Max Maquito>
SGRA日比共有型成長セミナー担当研究員。SGRAフィリピン代表、フィリピン大学機械工学部学士、Center for Research and Communication(CRC:現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、アジア太平洋大学にあるCRCの研究顧問。テンプル大学ジャパン講師。
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2014年3月26日配信
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2014.03.18
日米両国において、日米関係についてのそれぞれの国民の見方に若干懐疑的なかげりが見られる。2013年12月19日に発表された米国における対日世論に関するハリス調査によれば、日本が信頼できる友邦であると答えた一般米国民の割合は2012年の84%から2013年には76%に下がり、日本では、2014年2月2日の日経電子版調査で、中国の台頭が顕著になる中で日米同盟体制に不安を感じるとした者が80%を越えた。
これは、日米関係において最近認められる次のような変化に関連していると考えられる。
1950年代に吉田茂総理が選択した対米依存路線は、「対米従属」への反発を招いた。左派勢力は純粋な平和主義ないし中立を主張し、後に総理となった岸信介を含む右派勢力は、自主独立の政策を志向した。日本は、その後50年間あまり、日米安保体制を堅持しつつ、国際協調を旨とする平和国家として不断の外交努力を重ねて来ている。今日、日本がより能動的かつ独自の役割を果たすことを唱える安倍現総理は、祖父岸信介のナショナリスティックな主張と軌を一にしているとも言われている。
アメリカの戦争に巻き込まれることへの日本の不安は、1960年安保条約改訂時に顕在化し、その後も1960年代から70年代にかけてベトナム戦争、1990年代初期の湾岸戦争、今世紀に入ってからアフガニスタン、イラクをめぐって見られて来ている。他方、1971年のニクソン大統領訪中のショックは、米国に見捨てられるのではないかとの日本の不安を煽った。1990年代後半に、台頭する中国の陰で日本の存在感が薄れかねない状況の中で、「ジャパン・パッシング」と言う如何にもマゾキスチックな言葉が日本で作られたのも、同じような感情によるものだろう。今日、米中間で「新型の大国間関係」がどのように発展していくのかについて、日本にとってマイナスの影響が出る可能性も含め懸念がある。そして、皮肉なことに、今度は米国の方が日中間の紛争に巻き込まれることへの懸念を強めているように思われる。
過去70年間のほとんどを通じて、日米同盟の運営に当たっての日本の主要関心事は、防衛面での責任分担についての米国の対日期待と日本自身ができると思っていることとのギャップを埋めることだった。今日の日本では、中国、韓国との関係における尖閣諸島、竹島、日本の戦争の過去と言ったデリケートな問題について米国からどの程度の助けを期待できるのかについて懸念する声が上がっている。
このようなことが相重なって、日中、日韓の軋轢に加え日米間の亀裂が内外のメデイアに盛んに取りざたされている。宣伝合戦という観点からは、昨年12月の安倍総理の靖国神社訪問は、日本の軍国主義復活を唱えることにより日本を孤立させようとして来た中国の思う壷になったとも言われている。尖閣諸島、竹島といった問題について、歴史的事実と国際法に照らして日本の主張の正当性を主張していくことはもとよりである。同時に、国内のナショナリスティックな感情の高まりに任せて、売り言葉に買い言葉の応酬を繰り返していくことが、中国、韓国のみならず、米国をも含む国際社会との関係における日本の立ち位置に好ましからざる影響を及ぼす可能性に留意する必要がある。今や関係国が感情論を超えて冷静に考え、日米、日中、日韓のそれぞれの関係を軌道に戻すことが必要になっている。
この観点から、日本が世界に向けて発出するメッセージは次の点を明確にすべきである。
日本の国民は、時計の針を戻して軍国主義の過去を復活することを決して望んでいない。 日本は、たとえば国連平和維持活動に対する貢献、アジア、アフリカなど世界各地の発展途上国に対する支援にみられるように、国際協調を旨とする平和国家として不断の努力を重ねている。
1995年の村山総理談話および1993年の慰安婦問題に関する河野官房長官談話で表明された反省、お詫びの気持ちに変わりはない。
日本はアジア太平洋地域の諸国の安定と繁栄に引き続き貢献していく。現在検討が進行中の集団的自衛権行使の容認問題は、この関連で、地域の公共財とも言える日米同盟の一層有効な役割を実現しようとするものである。
強硬姿勢を求める国内の圧力が高まる中で、このような道を選ぶことは容易ではない。しかし、責任ある地位にいる人たちは、自らの言動が国際社会に注視されており、思慮分別を欠く場合には上述のようなメッセージの明確さを損ない、さらなる猜疑心の種を蒔く可能性があることに留意する必要がある。
(本稿は2014年3月6日日本英語交流連盟ウエブサイト「日本からの意見」に掲載された。)
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<沼田 貞昭(ぬまた さだあき) NUMATA Sadaaki>
東京大学法学部卒業。オックスフォード大学修士(哲学・政治・経済)。1966年外務省入省。1978-82年在米大使館。1984-85年北米局安全保障課長。1994-1998年、在英国日本大使館特命全権公使。1998-2000年外務報道官。2000-2002年パキスタン大使。2005-2007年カナダ大使。2007-2009年国際交流基金日米センター所長。鹿島建設株式会社顧問。日本英語交流連盟会長。
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2014年3月19日配信
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2014.03.12
私は知識層でも富裕層でもない、どこにでもいるごく普通の日本人、男性、60歳です。ちょっとだけ「ごく普通」でないとすれば、少し英語をしゃべること、学生時代にフィリピンに1年間だけ留学していたこと、仕事で外国、特に中国に行くことが多かったことぐらいでしょう。それとノンキャリア公務員の父の転勤で日本国内いろいろなところで育ったせいで「ふるさと」意識がどこにもない、つまり何かに帰属しているという意識がきわめて低いこともそのひとつかもしれません。
初めての海外経験は1973年の夏、インターナショナル・ワークキャンプで韓国のウォンジュからバスで入った山村で過ごしたひと月でした。貧乏学生だったのでアルバイトで貯めたお金で関釜フェリーに乗って玄界灘を渡り鉄道でソウルに移動、そしてキャンプ地にたどり着きました。(滞韓中に所謂「金大中事件」が起こりました)釜山に着いて町に出た時、深い考えがあったわけではないまま、自分が日本人であることを恥じるような気持ちで、うつ向きに歩いたことをはっきり憶えています。幸いその後韓国人をはじめとする外国の友人にも恵まれ、そういう思考停止状態から解放されて今に至ります。
冒頭で申しましたように中国での仕事が多かったものですから、そこに登場した「なんだか行儀の悪い中国人」に会う機会も多くありました。日本でよく言われる「けたたましく喋る」「自分のことばかり主張する」「ルールを平気で破る」という印象を中国人に持っているということも正直に申し上げておいた方が良いでしょう。この点においても私は「ごく普通」の日本人です。
しかし最近メディアがこれでもかというほど嫌中、嫌韓をたれ流していることには途轍もない恐ろしさを感じています。明らかに意図的に世論を煽っているとしか思えないのです。(中国、韓国から話は逸れますが、北朝鮮に関する報道で流される悪意に満ちた日本語訳などそのわかりやすい例かもしれません)一昨年入院した時、平生は見ることのないワイドショーで「政治問題」が井戸端会議のように語られているのには唖然としました。ワイドショーでは有名人の「不倫問題(?)」と同列に「政治問題」が伝えられるのですね。
そういう世間の空気を背景に(その「背景」が先なのか、先に意図的に「背景」が作られたのかはこの際おいておきますが)日本の政治家たちの発言、行動も日に日に好戦的になってきているのを実感しています。「話せば真意はわかってもらえる」と最近首相、政治家のみならず各方面の公人たちが口にするようになりました。彼らがわかってもらえると思っている「真意」とはいったい何なのでしょうか。もしも「真意」があるのなら問題となって初めてそれを口にするのではなく、最初から「正確な言葉」で「真意」を伝えるのが基本であって、その能力がないのなら「公人失格」と言わざるを得ません。(「あくまで個人の感想です」とエクスキューズするサプリメントのコマーシャルみたいですよね)
国際問題に限らず「個人」が背負っている背景もひとりひとり異なります。「正確な言葉」を使うことがコミュニケーションには不可欠だと思います。そのたいせつさを今こそ再認識する必要があると痛感しています。「異なる」ことを理解するには「正確な言葉」で自分=「個人」の感じ方(気分)を検証することから始めなくてはならないと思います。その「気分」は自分が実際に感じたことなのか?たれ流されているものに「つられて」はいないか?と。
話はあちこちに飛びますが、テレビのバラエティ番組では笑い声がやたらに強調されています。さほど面白くない出演者のジョークに視聴者が「つられて」笑うのを期待してでしょう。確かに効果はあるようです。この「つられて」は世間に蔓延していて、例えば居酒屋などで「つられて」嬌声を上げているグループをよく見かけます。「つられて」をしないと親しく話せないのかなと思いながら、ひたすらそのグループが店を去るのを待つか、こちらが店を出るかでその場をしのぎます。これがビジネス接待や合コンの場面なら、今までもどこでも見られた、自分も混じっていたかもしれない光景だと理解できますが、政治、国際問題となると話はちがいます。「つられて」中国が嫌い、韓国が嫌い。もっと言えば「つられて」「戦争準備態勢をとるのは当然だ」という世論の流れが出来つつあるのだとしたら本当に恐ろしい。
だからこそ感覚的、抽象的、文学的で“わかりやすい”政治的な、あるいは公的な発言は警戒すべきだと思いますし、それが「正確な言葉」かどうか、「真意」はどこにあるのかを嗅ぎ分ける力が「ごく普通」の人間にも求められているのだと強く思います。さきほど「その背景が先か、先に意図的に作られたものか」と申しました。世間の空気の一部は「自分」が担っているという自覚がなければ、嫌中、嫌韓がなだれ込んでしまうかもしれない深刻な事態に対して、あまりにも無責任だと考えます。現在の国際関係はどういう経緯をもとに成立しているのか、その基本的な歴史認識は「それがルール」と知っておくべきでしょう。「あの時は相手だって悪かった」では通用しないという「ルール」であるということを。60歳の私はその「ルール」を元に豊かになっていった日本で育ち60年間暮らしているのですから。
先述しましたように、引越し族の子供だったせいか、私には「ふるさと」帰属意識が希薄です。日本は生まれて以来ほとんどの期間を暮らしている場所ですし、外国語もそんなに得意ではないので海外から帰ってきた時など日本語が通じることにほっとします。それに当然のことですが、友人、たいせつな人たちに占める日本人比率は圧倒的に高い。しかしこれは「日本人が好き」とか「日本が好き」というのとはちょっとちがいます。私にとっての「ふるさと」はたいせつな人のいる心地よいところ、というほどの意味しか持ちません。そして、そんなにたくさんではないけれど、たいせつな友人には韓国人、フィリピン人、アメリカ人、ボリビア人、タイ人、ヴェトナム人、ラオス人などが含まれています。(親しい中国人は今のところまだいませんが、そのうち出会うでしょう)
日本の文化はその中で育ったので概ね心地よく、大げさな言い方をすれば「愛して」いますが、ことさら強調されて使われる「愛国心」は私の中には見あたりません。そういう「愛国心」に基づいて、たいせつな人たちがいる国と嫌い合う、その先に戦争になってしまう、もっとはっきり言ってしまえば、殺し合うのは絶対に嫌です。私にとって「国家」より「個人」の方がずっとリアリティのある対象だから当然です。そういうたいせつな「個人」を、そんなに多くではないけれど、外国人にも持っている「個人」として、“「つられて」嫌中、嫌韓”が招いている(あるいはそれを利用している)戦争準備状態的な時代気分に飲み込まれるつもりはありません。思考停止しないよう自分を見張って、できるだけ「正確な言葉」で「異なる」もの、人、文化と鷹揚にお付き合いしていきたいと思う所以です。新しいともだちを得るのはとても楽しいことですしね。
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<相川雅弘(あいかわ・まさひろ) Masahiro Aikawa>
1953年生まれ。小学生で3回転校し、17歳の時ミュージシャン活動を開始。その後国際基督教大学入学。大学3年時にフィリピン、アテネオ・デ・マニラ大学に1年留学。大学院修士過程(比較文化研究科)を中退して再び音楽の世界に戻る。10年前レコード会社を退職した後は細々とプロデュース、作詞、作曲、ピアノ弾き、雑務、家事をしています。
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2014年3月12日配信
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2014.03.05
◇エレベーターの中の「お隣さん」
自宅はエレベーター付きの14階建ての3階にある。誰かがエレベーターに乗ろうとすると、郵便物を見るふりをしたり、玄関のところで少し時間を潰したりして、できるだけ一緒に上がることを避けるのがこのマンションの暗黙のルールのようである。自分が先に上がった時も、先着者に上がられた時も、何だか寂しいような、気楽なような、不思議な気持ちになる。
ある日の出来事。偶然親子と一緒にマンションに入ったので、そのまま一緒にエレベーターに乗ることになった。というより、5、6歳の、とても可愛らしい男の子をついつい見入ってしまったので、「一緒に上がることにした」といったほうが正しいかもしれない。エレベーターの中で、男の子が「こんにちは!」と元気よく挨拶してくれたので、こちらも「こんにちは!何階ですか?」と笑顔で聞いてみた。「10階をお願いします」とお母さんが答えたので、私は「10階」と自宅の「3階」を押した。そしたら、男の子が「あっ!お隣さんだね。」と嬉しそうに言った。最初は分からなかったが、階数の表示板を見ると、「3」と「10」が横並びになっていることに気づいた。「そうですね、お隣さんですね」と私も若いお母さんも微笑んだ。
この小さな出来事で、いつも利用しているエレベーターなのに、自宅の階数の「3」しか見ていないことに気づかされた。そして、このマンションのエレベーターの乗り方だけでなく、大人社会の「暗黙ルール」の本当の問題点にも気づかされたような気がした。
◇電車の中の「お隣さん」
電車に乗ることが好きなのは、人間観察ができるからである。電車の揺れ具合に合わせて、今にも倒れそうな、爆睡した女子高校生を微笑んで見守る中年の女性もいれば、無理につり革をつかもうとするおじいさんを睨むサラリーマンもいる。人と人の距離をうんと縮めた電車の中では、人間の内面と外面、社会生活の縮図を垣間見ることができる。
ある日の出来事。朝の9時台で、電車の中はそこそこ混雑していた。ドアの近くに立っていた70代のお年寄りが急にしゃがんで苦しそうな表情で膝を揉み始めた。それを見て、ちょっと離れたところに座っていた30代の女性が立ち上がって、お年寄りの病状を見に行き、席を譲ろうとした。その時だった!女性が席を立ったのを見て、ずっとスマートフォンの画面をいじっていた隣の男性(スマホ男と呼ぶとする)が何事もなかったように女性の席に座り、引き続きスマートフォンの画面をいじっていた。その隣に座っていた男性は、お年寄りの病状や女性が席を立った理由をちゃんと見ていたが、スマホ男の「席横取り」に何も言わなかった。結局、ドア近くのお年寄りはあまり歩けないようで、その近くの座席に座ることになった。見舞いに行った女性は、自分の席に戻って複雑そうな表情で理由を説明し、席を返してもらったが、スマホ男は終始無表情でスマートフォンをいじり続けていた。
ネット社会や携帯電話の普及によって、私たちは簡単に情報を手に入れることができ、タッチ一つで世界と「繋がる」ことができるようになった。しかし、多くの情報、多くの見知らぬ「友人」に囲まれているうちに、いつの間にか「参加者」ではなく、「観客席」に座るような感覚になって、何が起こっても漠然と見ることしかできなくなった。
ソチ五輪では、国と国の戦い、個人と個人の戦いになっているが、2月13日に行われたクロスカントリーの試合で、スキー板が破損したロシア選手のところにいち早く駆けつけて替わりのスキー板を提供したのはカナダのコーチであった。厳しい戦いを展開するオリンピックではあるが、国、ライバルといった境界線を越え、隣同士の助け合い、喜び合いが生まれる感動の場でもある。「観戦者」ではなく、「参加者」である、「国」ではなく、「お隣さん」であるという認識があったからこそ、オリンピック精神を生み出したのであろう。カナダのコーチはエレベーターの中の男の子と同じ考え方を持っているのかもしれない。
東日本大震災からいよいよ3年目を迎える。これから被災地に関する様々な情報が多く流れてくることであろう。「観客席」に座って漠然と見るか、それとも「参加者」として「お隣さん」に何かをするか、考えさせられる時期である。
そして、同じ地球(ほし)、同じアジアに住む日本、中国、韓国。住む階数が異なるかもしれないが、エレベーターで一緒に上がった時や廊下で出会った時、電車の中の「スマホ男」のように自分の世界だけ見つめるのでなく、エレベーターの中の男の子のように、笑顔で心地よく「お隣さんだね」と挨拶し合える日が来ることを、心より願っている。
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<李軍(リ ジュン) Li Jun>
中国瀋陽市出身。2013年に早稲田大学大学院教育学研究科博士後期課程修了、博士号(教育学)を取得。現在早稲田大学、学習院大学で非常勤講師を勤めている。漢字・語彙をはじめ、作文指導や表現指導など日中国語教育の比較研究に取り組んでいる。
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2014年3月5日配信
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2014.02.26
最近日本と中国及び韓国との関係が緊張を増している。領土の問題に加えて、安倍総理大臣を含めた政治家による靖国神社への参拝が、両国の関係をさらに悪化させた。また、英語圏のメディアでも、NHK会長による問題発言が頻繁に報道されている。
しかしながら、一方では、欧米の一般市民が東アジアの政治的な動きにあまり関心を示さないことも事実である。グローバリゼーションが進むにもかかわらず「世界の彼方」に起こった動きが自分とどのような関わりがあるのか、という認識を持つ人はあまり多くはない。自己中心的な世界観は危険であると思えてならないが、このような世界観を抱くことは決して欧米に限った現象ではない。
本稿では、最近のニュースから浮かび上がり、今、改めて問われている戦争責任にかかわる問題について考えてみたい。学者間の論争ではなく、日本とドイツを比較しつつ、社会における戦争・戦争責任との向き合い方について考えてみる。
日本人と話をする際、特に初対面の方と話をする際に、よく「どのような研究をしていますか」と質問される。私の研究は「第二次世界大戦と関係しています」と説明すると、最も多く耳にする反応は「暗い歴史だけど、実際、何が起きたかは詳しく知りません」という発言である。こうした受け答えの中から、私は、多くの日本人は第二次世界大戦の出来事を知らないという印象を抱いている。高等学校の先生をしている友人とも話してみたが、教科書に大戦についての記述は確かにあるが、求められる授業の範囲が広いため、毎年、近現代史に属する第二次世界大戦について「教える時間が残されていない」という答えであった。日本には偏った歴史観を記している教科書として国際的に問題視されるものもあるが、むしろ、歴史教育のカリキュラムそれ自体に大きな問題があると思えてならない。
さらに、メディアにおける戦争の扱いにも問題がある。教育の場合と異なり、戦争がメディアに全く取り上げられないわけではない。メディアは戦争の様々な側面を扱っているが、特に多いのが広島、長崎への原爆や空襲など、日本が受けた被害、そして一般人の苦しみについての番組である。当時の日本人が受けた被害、そして彼らの苦しみは歴史的な教訓でもあり、当事者への尊敬を込めてそれらを記憶し、次の世代に伝えるべきだと私も考えている。しかし一方で強い違和感を覚えるのは、被害の側面が注目されるのに対して、加害の側面が無視されがちなことである。
それは第二次世界大戦に限らない。数年前に放送された「坂の上の雲」というNHKの大河ドラマに促されて、多くの日露戦争についての番組が放送された。しかし、残念ながら、故郷が戦場となった中国人が受けた被害を取り上げる番組を、私は一つも見ていない。このような現象は東アジアでは決して珍しくはないが、日本社会では明らかに日本人のみが被害者であると取り上げる傾向が強い。
幕末・明治維新の頃に起きた西洋との衝突に結びついた被害者意識が、教育やメディアによって伝承されている。しかし、この被害者意識だけではなく、北朝鮮は特別な例としても、隣国の中国及び韓国では、反日の感情が長年政治的に利用されてきたのも事実である。日本を含めて東アジアの国々は悪循環に陥り、政治的なメカニズムに巻き込まれている。だが、そのような動きは確かに以前から存在しており、日本が正式に相手国に対して謝罪したとしても、それのみで問題が解決されるわけではないだろう。それぞれの国にとって都合の良い歴史の受け止め方によって、現在の東アジアは、極めて深刻な問題に陥っていると思われる。
このような問題に関連して、「ドイツが第二次世界大戦に対してしっかりと反省を行った」とドイツ人として褒められることもあるが、やはりドイツにも問題がある。次にドイツ社会における戦争・戦争責任問題との向き合い方について述べたい。
終戦直後、ドイツ人からナチス思想を取り除くため、連合国の監督下でいわゆる非ナチ化が施行されたが、長い間、主体的な反省が行われず、学校でも第二次世界大戦について教えられなかった。以下の事柄は、以前人から聞いた話によるものが多いので、正確な事実ではないかもしれないが、ドイツ人が主体的な反省を行うようになったのはおそらく70年代、早くとも60年代からであり、それに伴い第二次世界大戦についての内容も学校のカリキュラムに導入された。
この変化に1968年の学生運動が重要な役割を果たしたが、何故それまでドイツでは第二次世界大戦についての反省が行われなかったかについて考えてみたい。
国を建て直すには、ある程度、元第三帝国のエリートと協力する必要が連合軍に生じたため、特にその社会階層に非ナチ化が徹底しなかったということはすでに常識となっている。そのため、最初の頃には、特に政界及び経済界に第三帝国の歴史を整理する意欲があまりなかったことも考えられる。それに加えて、当時のドイツは国や社会の立て直しに迫られた。例えば、1200万人以上の旧東ドイツ、そして東ヨーロッパから追放されたドイツ人を戦後社会に取りこまなければならなかった、という問題を聞けば、当時、どれほど大きな課題を直面したのかは容易に想像できるだろう。
さらに、個人の次元では第三帝国が起こした戦争は、一種のトラウマではないかと思う。狂った時代に生きて、敗戦によってすべてが崩れてしまい、当事者たちは大きなショックを受けたことだろう。私の祖母も第三帝国に関わるほとんど全てのものを捨ててしまい、亡くなるまでに一度しか第二次世界大戦について話してくれたことがなかった。祖母にとっては第三帝国や大戦のことが、極めて恥ずかしいこと、語るに忍びないことであったのだろう。
私が「歴史学者として知るべき」という理由で、日本人の友人が、いささか無理をおして、自分のお祖母さんに、米軍による占領を目の前にして日本の国民学校で何を教えられたかという話をしてもらったことがあった。その時も、友人のお祖母さんが当時のことを極めて恥ずかしく思っている印象を受けた。そのようなトラウマを整理するには、おそらくある程度の時間が必要であり、終戦直後は、ドイツ人にも、日本人にも不可能だったかもしれない。
ドイツでようやく60年代より積極的に第三帝国において起きたことを分析するようになったのは、間違いなく1968年の学生運動に起因する。第三帝国の当事者の子供の世代が、当事者の世代に第三帝国によって侵された罪を隠そうとしているという非難を向け、社会に大きな動揺をもたらした。そのため、次第に主体的に第三帝国について反省するようになり、第三帝国についての内容が学校教育に導入された。
しかしながら、学生運動の立場にも、大きな問題点が潜在していたと私は考えている。例えば、文学作品からも読み取れるのだが、学生運動には独善的な色彩が強く、それゆえに反省の方向にゆがみが生じた。運動を担う者たちには、自分ならば第三帝国のような罪を犯さなかったという強い自己認識があったように思われる。その理由については後述するが、現在のドイツ人が第三帝国当時のドイツ人であったとしたら、同じ条件でその暗い歴史を起こさなかったと断言できないのではなかろうか。
まず、現在のドイツで行われる学校教育についてだが、ドイツでは学校教育を中央政府ではなく、州政府が管理している。そのため、州によって教育制度と、その内容に一定の差がある。とはいえ、第三帝国の歴史を何度も繰り返し教えるのが普通である。私もこのような教育を受けたが、生徒として「飽きてはいけない」と自分に言い聞かせながらも、何度も同じことを教える授業に飽きてしまったことは事実である。
さらに、第三帝国の歴史はドイツ人の宿罪であるように教えられる傾向が強い。そのため、結果としては自分の国を好きになれず、自国に誇りを持てない青少年が多く育ってくる。極めて攻撃的、そして侵略的な愛国心がどのような悲劇を起こしたかは第三帝国の歴史が証明している。しかしながら国民国家の形成に伴って、いわゆる国民のニーズの一つとして愛国心が誕生したわけであるが、このような愛国心をあまりに抑えすぎると、それがまた歪んでしまう危険がある。
現在、ドイツでも特にスポーツイベントをきっかけに国旗を振りながら街中を駆け回り、盛り上がるようになっているが、実はそのような行動はつい最近まで全くあり得なかった。今日このような風景を見て、解放された気持ちを持つが、条件が変われば、このあまりにも長く抑えられてきた愛国の情熱がまた暴力として勃発する危険性が潜んでいるとも感じられ、単純に喜ぶことはできない。
次にドイツのメディアについてだが、大戦や第三帝国についての扱いに危惧を感じることがある。学校教育と同様に第三帝国はドイツ人の宿罪のように扱われ、ヒトラーが「悪魔」や「モンスター」として抽象化される表現が目立つ。宿罪という世界観も問題であるが、ヒトラーの抽象化にも問題がある。
ヒトラーは悪魔やモンスターではなく、一人の人間だった。普通、「非人間的」という言葉を使うが、人間こそが蛮行を行うという事実を認めない限り、いつかどこかでまた同じようなことが繰り返されるのを防ぐことはできない。いずれにせよ、現在のドイツ人は、自らに罪責感を抱き、ヒトラーのような人物を悪魔として抽象化にすることによって、自分にとってある意味、言い訳を作り上げていると思う。なぜなら、単に罪を認め、そしていわゆる悪魔に責任を押し付けることによって、自分に一番難しい課題から逃げる道をあたえていると言わざるをえない。
真正面から歴史と向き合い、何故あのような歴史が起きたかを徹底的に理解するべきである。この意味で、ドイツで行われてきた第二次世界大戦についての反省が成功したとは言えないであろう。
宿罪、つまり前の世代が犯した罪が自分の身に及んでいるとは思えないが、ドイツ人として自分の国の歴史に責任があり、その責任を取るべきだと考える。このような責任とは何かといえば、悪かったところを公式に認め、被害者に謝罪することも含まれるが、何よりも上述したように真正面から歴史と向き合い、歴史を徹底的に理解し、そして、それを繰り返すのを阻止することに努めることである。
第二次世界大戦で起きた大虐殺などは、モンスターではなく、私たちと同じような人間が起こした現実である。何故、人間がそのようなことを起こすのか、どのような条件で起こすのかを徹底的に理解しない限り、同じような歴史の繰り返しを阻止することはできない。規模が違うとしても、今でも歴史が繰り返されているのは事実である。個人のレベルでいえば、人を軽率にいじめたり、差別したりしている。
人間こそが、このような恐ろしい歴史を起こしたという意識を育てると共に、正しい人間としてどのように行動すべきかを考え、道徳に基づく価値観を身につける教育を行うことが大切な対策ではないかと考える。ドイツで行われてきた反省が以上のような点で欠けているので、現在のドイツ人があの時代のドイツ人と性質上異なり、同じ状況に陥ったとしても同じことは絶対に起こさなかった、とは思えない。
第二次世界大戦の歴史を加害者・被害者のカテゴリーで分析することが多いが、史実は決してそれほど単純なことではなく、歴史を理解する手掛かりとしておそらくあまり役に立たないと思われる。しかも、都合がいい時に政治的に利用されることも多い。自分の歴史に責任を持っているのは、ドイツや日本、全ての国が同じある。いわゆる加害者であるのみならず、被害者が加害者になったり、加害者が被害者になったりする場合もあり、相手がいわゆる加害者だから、自分が犯した罪が罪ではないと言えるはずがない。勝利者か敗北者かにかかわらず、すべての人が真正面から歴史と向き合い、お互いに悪かったところを認めない限り、歴史を克服し、そしてその繰り返しの阻止ができるはずもない。
現在でも、どの国でも、第二次世界大戦を歴史的な教訓としてしっかりと捉えない傾向が強いことを、私は感じている。歴史の中の出来事としての大きさからすれば、第二次世界大戦は実は当事者のみならず、人間そのものにとっての歴史的な教訓であろう。
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<フリック・ウルリッヒ Ulrich Flick>
ドイツ・ハイデルベルク大学東アジア研究センター博士課程。2001年、中国研究と日本研究を専攻としてハイデルベルク大学修士課程へ入学。北京及び東京留学を経て、2009年修士課程を卒業。同年、博士課程へ入学。2010年後期より2013前期まで早稲田大学外国人研究員。
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2014年2月26日配信
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2014.02.19
日本と韓国の葛藤と摩擦は、21世紀に始まった問題ではない。20世紀の戦争と植民地の遺産が常に燻り続けていたものであり、それは現在でも突如として出現し、国家間に緊張状態をもたらす。国家を形成する主権、領土、国民の三要素はまるで共鳴するかのようにナショナリズム/民族主義を発動させる。特に領土問題はその領土の実質的な規模に関わらずナショナリズムを派生させ、この情緒的でありながらも強力な感情にも似た現象は歴史認識問題と重なり合い、過去から現在までを貫通する一つの認識を形成する。
ナショナリズムを煽り助長することは、瞬間的で容易であるが、問題を冷静に対処し和解の方向に導くには長期的な時間と共に知識や知恵、そして行動を要する。領土問題に関しては様々な意見や主張があると思われるが、それに関連する日韓関係のナショナリズムを巨視的に見る次の三点もまた考慮しなければならない。
第一に市場経済と民主主義。日本と韓国の共通項として市場経済と民主主義が挙げられてきた。両国の市場経済はグローバリズムと直結しており、特に資本と人は簡単に国境を越える。しかし、これらの移動は異文化との接触という新しい世界観の創出だけを意味するのではない。既にヨーロッパでも見られるように他者の流入によって自国で雇用機会を喪失した者は移民や異なった民族・人種に対して排他的、規制的思想と行動をとる傾向もある。グローバリズムに伴う資本と人の移動は一方で国家独自のアイデンティティを喪失しないようナショナリズムをより強固にする側面を持っている。
また、日本と韓国は異なる民主主義の歴史がある。戦後日本はアメリカの7年にわたる間接統治により、上からの民主主義を導入した。一方韓国は国内の独裁政治に対して、下からの民主主義の要求があった。民主主義が共通な価値であると安易に考えず、その形成過程の相違から両国のナショナリズムの本質を把握しなければならない。民主主義国家は互いに戦争をしないというテーゼが注目されてはいるが、民主主義国家からも独裁者は誕生し、国民も熱狂するという事例もまた歴史が示している。
第二に地域共同体。内在的に不安要素を残す東アジアに、EUのような東アジア共同体を形成しようとする努力が行われており、これが国民国家のナショナリズムの障壁を取り除くかもしれない。しかし、ヨーロッパは比較的類似した生活様態や文化、言語、宗教を有し、独自のアイデンティティや規範を見出しやすい基盤があった。EUの双璧であるフランスとドイツは、過去何百年において何度も戦争をしては和解してきた。両国を含めたヨーロッパの平和体制は戦争によって崩壊したが、その都度新しい国家間条約や平和条約によって平和体制を作り上げ、国境線を確定する作業も繰り返されてきた。EUの起源はそのような歴史と共に第二次世界大戦後にもドイツによって多大な損害を被ったにも関わらず、フランスがドイツに手を差し伸べて始まった。当時の東アジアの状況を考えるとフランスになりえる国はなかったであろう。
アメリカと共にG2の一角を担う中国の存在が東アジアはもちろん世界にもたらす影響は計り知れない。中国と地政学的に隣接している日本と韓国はより慎重な外交をする力が問われる。それは8千万人もの共産党員を有している現実の中国を直視しながら、その中国をも含めた共通する価値規範の模索が先決であろう。すでに日本と韓国、中国は共に高度な経済的依存の中にある。しかしこの関係がこのまま持続すればいいが、政治的確執によるナショナリズムはこの経済的依存さえも呑み込み、経済力という武器によって、その領域でも軋轢が生じる危険性をはらんでいる。 第三に帝国主義と植民地、そして国際法。戦争と平和の反復は過去の歴史に対する記憶と経験として学習され、今のヨーロッパを作り上げてきた。東アジアはこのような過程を経ずに19世紀に西洋の衝撃によって近代西欧国際法体制を受容、または編入された。文明国を自負していた西欧諸国は東アジアに国際法を適用した。当時の国際法には、いうまでもなく、帝国主義と植民地の問題に関連する法規範と意図が付随されていた。人類は戦争と平和とは何であるかを長い歴史の中で問い続けてきたが、帝国主義と植民地に対する認識の変化は比較的最近である。1910年代後半にアメリカ大統領であったウィルソンが主張した国際連盟(League of Nations)は植民地支配を受けている人々の民族自決を反映させず、国際連盟規約の前文にあるように、国際連盟に参加できた諸国家の平等を理念とした。その国際連盟の理念を一部継承しながら1940年代半ばに発足した国際連合(United Nations)は憲章で平和を掲げたが、国際連盟規約にあった委任統治の変容である信託統治を採用し、帝国主義と植民地に対する解決策や清算を提唱しなかった。国際連合の下では1960年に「植民地諸国、諸国民に対する独立付与に関する宣言」を採択することで、植民地支配を受けている人々の独立の要求を是認した。この時期はひとつの転換期ではあったが、60年代以降も植民地を海外領土として保持する国もある。
1905年の竹島/独島に関連した国際法や、アジア・太平洋戦争を終結させた1951年のサンフランシスコ平和条約もまた帝国主義時代の潮流からは自由ではなかった。ナショナリズムを呼び起こす日韓の領土問題は二国間の問題でありながらも同時に帝国主義と植民地、そして国際法とは何であったのかを想起させるものであり、その世界史的な脈絡での帝国主義の残骸が今現在のグローバル社会において、どこにどのような形態で拡散しているのか追究すべきであろう。
衝突するナショナリズムに対して、簡単に解決策を述べることはできない。外交力と市民力という二つの柱を中心に段階的な改善策が求められる。以前から提唱されてきたように、引き続き東アジア共同体の構築、政府間での対話、市民レベルでの交流、学術的交流など多様な外交政策と交流が同時進行されなければならないであろう。政治家であれ、学者であれ、またはそのような職業に属していない者であっても、ある国を背景にして生まれた一人の人間であるならば、社会的責任と同様にナショナリズムを有していても不思議ではない。問題はナショナリズム自体でなくナショナリズムの方向性である。両国の主張と立場を理解しながら発するメッセージや行為は、時に第三者的立場として追いやられ、両国のナショナリズムの批判対象となる。それにも関わらず閉鎖的なナショナリズムに巻き込まれずに開かれたナショナリズムを保つためには、他者を排除せずにその存在を認識し、自分の思考を整理する「主義」を養うしかない。
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<金崇培 (キム・スウンベ) KIM Soongbae>
政治学専攻。関西学院大学法学部法律学科卒。韓国の延世大学政治学科にて修士号取得。博士課程修了。現在博士論文執筆中。2011年度に慶應義塾大学へ訪問研究員として滞在。研究分野は国際政治史。特に日韓関係史、帝国史、反共史について研究。 在日韓国人三世。
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*本稿は、2012年9月12日にSGRAかわらばん432号で配信したものを、著者の了解を得て再送します。
2014年2月19日配信
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2014.02.12
今、東アジアがきな臭い。その一つが、尖閣諸島をめぐる領有権問題であることには言を俟たない。2012年9月、野田政権は尖閣諸島を構成する魚釣島、南小島、北小島の国有化方針を固めた。これら3島は、1932年まで日本政府が所有し、その後、民間人に払い下げられた。「尖閣国有化」は、ふたたび民間から政府へと所有権を移転させるものであった。だが、中国は、現状変更を目的とする「領土化」とみなし、激しく反発した。以後、日中関係は急速に冷却化し、日中国交正常化以来、最悪の状態に陥っている。現在、日中双方は、尖閣の領有権をめぐって、激しい神経戦/宣伝戦を繰り広げると同時に、海上では、日中のにらみ合いが続いている。尖閣海域は、物理的な衝突可能性も孕んだ緊張の海となっている。
もともと尖閣の海は、海洋資源の豊かな平和な海であった。1960年代まで、尖閣海域では、沖縄・八重山の漁民や台湾・宜蘭県蘇澳の漁民たちによるマグロやカツオ漁などが行われ、両漁民の交流も盛んに行われていた。また、彼らは魚釣島などで、アホウドリの卵や羽毛を採取していた。尖閣海域は、緊張の海とはほど遠い沖縄・台湾漁民たちにとって生活の海となっていたのである。
1960年代末、ECAFE(アジア極東経済委員会)が尖閣周辺海域における石油埋蔵の可能性を明らかにするや、尖閣の海は、にわかに波立つことになる。70年12月、中国は、新華社通信を通じて、尖閣諸島に対する領有権を対外的に初めて主張した。これに続いて71年6月、台湾外交部も尖閣諸島の領有権を公式に主張した。それまで地元の人々だけが関心をむけていた「生活の海」は、一転して、国家がせめぎ合う「対立の海」へと変化した。重要なことは、ECAFEの報告が、尖閣諸島に対して、中国や台湾だけでなく、日本の関心も呼び起こしたことである。折しも沖縄の本土復帰が確実となり、尖閣諸島に対する日本本土の関心は益々高まっていった。そこには、沖縄と日本本土との経済一体化を基本的前提とする「沖縄開発計画」の推進が目標としてたたみ込まれていた。1950年から沖縄の研究者らを中心として、尖閣諸島の生物学・植物学的調査がたびたび実施されていた。沖縄の研究者らによる尖閣調査に、本土側が参加するようになったことは、尖閣諸島に対する本土の関心の高まりを如実に示していた。
ECAFE報告に加え、沖縄と日本本土との「合同」の尖閣調査が実施された1969年から70年にかけて、沖縄では、「尖閣列島の石油資源は沖縄のもの」「県民の資源を守ろう」という声が日増しに強まっていった。そこには領有権を主張する中国や台湾だけでなく、本土側に対する警戒感も含まれていた。「沖縄開発計画」の名の下に、尖閣海域の石油資源が、沖縄には利益をもたらさず、本土側の利益にされてしまうのではないかという不安と懸念が、沖縄で広がっていた。尖閣問題の登場は、日本・中国・台湾の間での緊張関係だけでなく、沖縄から日本本土への不信感も呼び起こした。
こうした不信感は、いまや完全に一掃されたと言えるだろうか。2013年4月に締結された日台漁業協定は、尖閣問題を打開する一つの方法であった。だが、それは事実上、沖縄漁民に大幅な譲歩を迫るものであった。にもかかわらず、沖縄の頭越しに東京と台北で交渉がまとめらたことに、沖縄市民の間では不満が渦巻いている。本土への不信感は、普天間移設や辺野古移転などの基地問題などにおいても、しばしば姿をあらわす。尖閣問題が浮上したときに見られた沖縄から本土への不信感は、形を変えながら、重奏低音のように、現在も継続しているように思われる。
こうした点を念頭に置くならば、「尖閣問題」を克服するためには、日中関係、日台関係だけでなく、本土と沖縄との関係も考えていかなければならない。尖閣の海は、いまはもう地元の人々が、近づくことすらできない世界でも有数の「危険な海」となってしまった。私は、本土の人間の一人として、尖閣を再び「生活の海」にするために、中国や台湾との対話をすすめるだけでなく、沖縄と向き合い、これまでの数百年にわたる本土と沖縄との関係を考えることが、何よりも重要であると思っている。
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<小林聡明(こばやし・そうめい) Somei Kobayashi> 一橋大学社会学部卒業。一橋大学大学院社会学研究科博士課程修了。博士(社会学)。ソウル大学や米シンクタンクなどで研究を行ったのち、現在、慶煕大学哲学科International Scholar. 専攻は、東アジア冷戦史/メディア史、朝鮮半島地域研究。単著に『在日朝鮮人のメディア空間』、主な共著に『原子力と冷戦』『日米同盟論』などがある。日本マス・コミュニケーション学会優秀論文賞(2010年)。
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2014年2月12日配信
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2014.01.31
最近の北朝鮮、尖閣諸島をめぐる緊張の高まり、あるいはアルジェリア人質事件など、日本の安全保障環境が厳しさを増している中で、2012年に民主党政権下で秘密保全のための法制の在り方に関する有識者会議において検討されていた機密保全法制が、自民党安倍政権の下で昨年12月特定秘密保護法として成立に至った。
筆者は、わが国の安全に対する様々な脅威が存在する中での日米同盟の運用の実務にかかわっていた経験を通じて、国家公務員法の守秘義務や1954年の日米相互防衛援助協定に伴う特別防衛秘密、2010年の改正自衛隊法による防衛秘密などのわが国の機密保護法制は、他の先進国に比べて十分に整備されておらず、同盟国であるアメリカを始めとする関係国が重要な機密情報(インテリジェンス)を日本に流すことを躊躇する原因となっていると感じて来た。この背景には、インテリジェンスについてのアレルギーと言うか、戦前の日本を連想して諜報、スパイと言った暗いイメージを伴うものとして忌み嫌う国民感情があり、インテリジェンスは国家安全保障のために存在するいわば「必要悪」であるとの意識がなかなか浸透してこなかったとの事情がある。
今回の法案について、「基本的人権である表現の自由を侵し、言論を封鎖し、日本を軍国主義国に持って行く危険性がある。治安維持法の悪夢を再現させないためにも、この法案は廃案とすべきである。」と言った非現実的な極論があった一方、「国ひいては国民の利益、安全を守るためには必要。特に敵性外国に国の秘密情報が漏れてしまうようでは、ひいては国民全体が不利益を被ることになる」と言った声もあった。世論の反応について、マスコミの調査とネットの調査の間には大きな乖離が見られた。たとえば、朝日新聞社が2013年11月30日~12月1日に実施した全国緊急世論調査(電話)では、法案に賛成が25%で、反対の50%が上回ったが、12月6日~12月16日にYahooが行った調査では、法案が成立して良かった45.7%、成立して良かったが手続きは良くなかった12.3%、そそもこの法案に反対38.5%と賛成が反対を上回っており、この背景にはマスコミ不信があると見られる。法案提出以来採択に至るまでの国内論議を振り返ってみると、取材の自由・国民の知る権利の侵害、不当な処罰・逮捕勾留のおそれと言った点についての一部マスコミの誇張された報道もあり、全体としてバランスの取れた議論が不足していた。
この問題は一般国民には馴染みが薄く、筆者自身、法案の条文、概要、自民党のQ&Aなどを読んでみて、しばらく目にしていなかった法律用語などが沢山並んでいて、素直に頭に入ってこない点がいくつかあった。以下、筆者なりに本件法案のポイントを整理してみると次のようなことかと思う。
1.本法によって保全される特定秘密の範囲は、わが国の安全保障(国の存立に関わる外部からの侵略などに対して国家および国民の安全を保障すること)にとって重要な情報に限定されている。たとえば、防衛に関するものでは、自衛隊が収集した画像情報、誘導弾の対処目標性能、外交に関しては北朝鮮による核・ミサイル・拉致問題に関するやり取り、公電に用いる暗号、スパイなどの特定有害活動に関しては、外国の情報機関から秘密の保全を前提に提供を受けた大量破壊兵器関連物質の不正取引に関する情報、情報収集活動の情報源、テロ防止に関しては、外国の情報機関から秘密の保全を前提に提供を受けた国際テロ組織関係者の動向、情報収集活動の情報源などが法律の別表に具体的に列挙されている。いずれも、これが漏洩された場合には、わが国の安全保障に著しい支障を与える秘密であることは明らかである。
2.そもそも秘密を漏らす恐れがないと「適正評価」によって認められた者(行政機関の職員および委託を受ける民間の職員)のみが特定秘密を取り扱う業務を行うことが認められる。「適正評価」と言うとやや耳慣れないが、秘密漏洩の程度を総合的に評価し、取り扱う適性を判断するセキュリティ・クリアランスを意味し、これは欧米諸国などでは既に導入されている。また、民間企業においても企業秘密を守る観点から同様の判断が必要とされよう。
3.さらに、処罰範囲は最小限に抑えられている。罰則の対象となるのは、上記の適正評価を経て特定秘密を取り扱う業務を行う者が知るに至った特定秘密を洩らした場合であり、最長10年までの懲役ないし罰金刑が課される。特定秘密を取り扱う立場にない者が特定秘密を取得する行為に対する処罰は、人を欺く、暴行、脅迫、施設への侵入、不正アクセスなどの犯罪行為や犯罪に至らないまでも社会通念上是認できない行為を取得の手段とするものに限られている。例えば、外国情報機関等に協力し、特定秘密を敢えて入手したような例外的な場合を除き、特定秘密を取り扱う公務員等以外の人が本法律により処罰対象となることはない。「オスプレイが飛んでいるのを撮って友達に送ったら懲役5年」と言った報道があったが、これは明らかに処罰の対象にはならない。
4.本法は、国民の知る権利や取材の自由との関係で種々の問題を提起しているが、政府当局の立場は次の2点に要約されよう。
(1)情報公開法により具体化されている国民の知る権利を害するものではない。(本法の特別秘密は、国の安全、外交等の分野の秘密情報の中で特に秘匿性が高いものであることから、そもそも情報公開法の下で開示されない情報と解される。)
(2)正当な取材活動は処罰対象とならない。 (取材の手段・方法が刑罰法令に触れる場合や社会観念上是認できない態様のものである場合には刑罰の対象となる反面、正当な取材活動は処罰対象とならないことは最高裁の判例上確立している。)
他方、政府当局とマスコミ、市民団体等との間で国民の知る権利や取材の自由との関係で緊張関係が存在することは事実であり、本法に基本的には賛成している一部のマスコミも、公務員が懲役10年と言う厳罰を恐れて報道機関の取材に対して萎縮するのではないかと言った懸念を表明している。
5.本法立法の経緯から、次の教訓を学ぶことが必要である。
(1)安全保障ないし機密保持のプロの世界では当然の常識になっていることであっても、一般国民の理解を得るためには、丁寧に意を尽くした説明が必要である。民主党政権下のねじれ国会における「決められない政治」から脱却して、「決める政治」を示そうとした安倍政権の本法国会審議に臨んだ姿勢は、性急さが目立ち、結果として本法の内容についてはいささか消化不良のまま審議が終わってしまったとの感は否めない。
(2)本法成立の後、安倍内閣への支持率が10%程下がったことは、政府の「奢り」ないし「強引さ」に対する国民の反発を示しており、今後の国会運営等について注意を促す黄信号とも考えられる。
(3)本法の運用を一たび誤れば、国民の重要な権利利益を侵害する恐れがあるので、政府としては十分に注意して運用して行く必要がある。特に、秘密指定が恣意的に拡大されるのではないかとの懸念に応えるべく、特定秘密指定等の運用基準について、有識者会議で十分論議を尽くし、特定秘密の指定及びその解除並びに適性評価を国民の納得の行くように進めて行く努力が求められている。
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<沼田 貞昭(ぬまた さだあき) NUMATA Sadaaki>
東京大学法学部卒業。オックスフォード大学修士(哲学・政治・経済)。 1966年外務省入省。1978-82年在米大使館。1984-85年北米局安全保障課長。1994−1998年、在英国日本大使館特命全権公使。1998−2000年外務報道官。2000−2002年パキスタン大使。2005−2007年カナダ大使。2007−2009年国際交流基金日米センター所長。鹿島建設株式会社顧問。日本英語交流連盟会長。
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2014年1月29日配信