SGRAかわらばん

  • 2008.12.05

    エッセイ174:洪 玧伸 「アジアに一つしかない碑―宮古島の<慰安婦>のための碑建立までを中心にー(その2)」

    日本軍「慰安婦」の碑を建てるまで   沖縄戦における朝鮮人と住民の関係性について調査を進めてきた筆者は、『平良市史』をはじめとする住民の戦争体験の中で語られている「慰安婦」についての証言を参考にしながら、1992年に沖縄の女性史グループがまとめたのべ130ヶ所の慰安所の中、宮古島にあったとされる11ヶ所の「慰安所」を手掛かりに、再調査を実施した。そして、野原の「慰安所」について語る証言者、与那覇博敏氏(1933年生)に出会った。   与那覇氏は少年時代に家の近くに「慰安所」があり、朝鮮人の女性たちがやや離れたところにある井戸まで洗濯しに行き来していたことを記憶していた。彼女たちはよく井戸からの帰りに道端にある木の下で腰をおろして休んでいたという。当時まだ小学生だった与那覇氏は、色白で綺麗な女性たちだったと思って彼女たちに唐辛子をあげたりして喜ばせたという。しかし、戦後、彼女たちが何故宮古島にいたのかを知り、木の下で休んでいた彼女たちの何処か寂しげな姿が、どうしても忘れられなかった。いまや木もなくかつての「慰安所」もない原野になっているその場所に、与那覇氏は岩を置いた。そしてそこに日本軍「慰安婦」のための碑を建てることを望んでいた。私は与那覇氏のことや宮古島の状況を、韓国の梨花大学の名誉教授である尹貞玉先生に伝えた。こうして、日韓の研究者による共同調査団が結成された。   調査は2007年5月に実施され、その後の追加調査などを含め3回行われた。筆者の個人調査を含めると同じ証言者を5回以上訪問した場合もある。これらの調査過程で、与那覇氏を始めとする住民の「記憶」に出会った調査団のメンバーを中心に、何の組織も持たないままの募金活動が始まった。   そして、2008年9月、日本軍「慰安婦」のための碑が宮古島に建立された。日本軍「慰安婦」のための碑は、与那覇氏の記憶を留めた「アリランの碑」と、「アリランの碑」の後方に3つの石碑を立て「女たちへ」(韓国語では「平和を愛する人々へ」)という題で、アジア太平洋戦争期に慰安婦とされた女性たちの出身地の11の言語と、今も続く戦時性暴力の象徴として、ベトナム戦時に韓国軍による被害を受けたベトナム女性たちのためにベトナム語を加え、12の言語で追悼の碑文を刻んだものである。沖縄の小さい島、宮古島に、韓国にも、そして他のアジアの被害国にも存在しない碑が建った。それは、「慰安婦」の被害者の問題を、日韓関係の問題として限定してはいない。今現在も続く「武器紛争下の女性への暴力」に抗するために、だからこそ、記憶すべき「現在進行形」の問題として訴える碑である。   そもそも「慰安婦」問題は、はじめて実名で被害を名乗った1991年金学順さん(キム・ハクスン)の「記憶」によって始まった。実名で「慰安婦」であった事実を訴えるのに、半世紀近くの時間がかかった。金学順さんが、自分の身に起きた傷跡を、あえて、公にしたその悲しみは、「謝罪」と「賠償」を言う前に、むしろ、「自分の存在についての肯定」つまり、共に生きた人々、そして今共に生きる人々への「共感」をまずもって願っていたのではなかろうか。私は、いわゆる「民族の聖地」である「西大門独立公園」に、慰安婦のための祈念碑建立に強く反対している独立運動家の末裔たちの動きを見ながら、それを、もう一度考えざるを得ない。 (続く)   ○ 洪さんが2008年4月に投稿してくださったエッセイ: 「思いを形にすることについて~宮古島に建つ日本軍「慰安婦」のための碑に係わりながら~」   ○ このエッセイの前半: 「アジアに一つしかない碑―宮古島の<慰安婦>のための碑建立までを中心にー(その1)」   ----------------------------- <洪玧伸(ホン・ユンシン)☆ Hong Yun Shin> 韓国ソウル生まれ。韓国の中央大学学士、早稲田大学修士卒業後、早稲田大学アジア太平洋研究科博士課程在学中。学士から博士課程までの専攻は、一貫して「政治学・国際関係学」。関心分野は、政治思想。哲学。安全保障学。フェミニズム批評理論など。現在、「占領とナショナリズムの相互関係―沖縄戦における朝鮮人と住民の関係性を中心に」をテーマに博士論文を執筆中。SGRA会員。 -----------------------------   (2008年12月5日SGRAかわらばんで配信)  
  • 2008.12.02

    エッセイ173:洪 玧伸 「アジアに一つしかない碑:宮古島の<慰安婦>のための碑建立までを中心に(その1)」

    韓国における「光復会」と「慰安婦」問題   「また、慰安婦問題か。いつまで謝罪すれば済むのか」と、戦争責任問題やアジア太平洋戦争による被害者の声を「反日」とする右傾化を、日本でよく目にする。実は、韓国においても、過去の問題によって現在の日韓関係の妨げになる行動、つまり「反日」感情を煽る行動をしてはいけないとの批判が、若い世代や政治家の発言でよく見られる。問題は、その懸念にあるわけではない。歴史的な研究や省察なしに印象だけで物事を考えようとする無意識が問題である。また、このような右傾化の背後に、利害関係に基づく「自己愛」的な傾向があるのが問題であると、私は考えている。   去る11月3日、32期独立運動関連団体が、「慰安婦」のための祈念館建立に反対する声明文を出した。「戦争と女性のための人権博物館」と称される「慰安婦」のための祈念館は、韓国の「西大門独立公園」内に建設される予定で、ソウル市から建築許可を得たばかりであった。「西大門独立公園」は、植民地時代に、日本に抗して独立運動をしていた方々が拷問を受けた場所で、「民族の聖地」とされているところである。32期独立運動関連団体は、その「民族の聖地」に「慰安婦」の祈念館の建築許可を出したのは「(独立公園内の博物館建設は)独立運動をさげすむことで殉国烈士に対する名誉毀損」と規定した。(『国民日報』(韓国)、2008年11月3日参照)   このような韓国国内の動きは、時代に逆流するものであるとしか言いようがない。「慰安婦」問題は、1996年の国連人権委員会の特別報告者ラディカ・クマラスワミ氏の日本政府に対する勧告、1998年に国連人権委員会で受理されたゲイ.J.マクドゥガル氏の報告書などにより、国際的にも女性に対する深刻な人権侵害であったことが知られることになった。米国下院、カナダ、オランダ、ヨーロッパ議会、つい最近は韓国国会でも同様な勧告決議が出された。10月30日には国連の自由人権規約委員会が日本政府に対して、審査報告書及び勧告をだした。その中で「慰安婦」問題に対し、「生存している慰安婦に十分な補償をするための法的・行政的な速やかな措置」と「法的責任を認め、被害者の多数が受け入れられる形で謝罪」を勧告している。このような日本政府への勧告に世界が注目している理由は、「慰安婦」問題が、ただ単に日韓関係に留まらない「女性の人権問題」として世論化されているからである。   「光復会」の動きは、時代の逆流であると共に、いわゆる「日本軍に性を奪われた女性」を「恥」として捉える、韓国社会の根強い家父長制や男性中心的な考え方を暴露するものである。「独立運動」をした人々のための「民族の聖地」には、「慰安婦」の人々はふさわしくないというのだから。それ対して、韓国の女性団体・人権団体などが相次ぐ抗議文を出しているが、こういう動きにいち早く反応した日本からの原稿が、11月5日、韓国のハンギョレ新聞に掲載された。中原道子 早稲田大学名誉教授の投稿原稿である。本原稿は、「慰安婦」問題が単に日韓関係の問題ではなく、国際的な人権問題であることを主張した上、次ような言葉で締めくくった。   日本軍の性暴力被害をうけた一人一人の女性の苦しみを記憶し、  全世界の戦時性暴力の被害者を悼み、  二度と戦争のない平和世界を祈ります。   実はこの締め言葉は、去る9月7日に宮古島に建った日本軍「慰安婦」のための碑文である。2007年、韓国、日本、沖縄、そして、世界各国の人々と協力して沖縄宮古島に「慰安婦」を悼み、その記憶を永遠に未来の世代につたえるために追悼碑「女たちへ・平和を愛する人たちへ」を建立した。そして、上記の碑文を「慰安婦」とされた女性たちの故郷の12の言葉で刻んだ。オーストラリア、中国・台湾、グアム、インドネシア・マレイシア、日本、韓国、ミャンマー、オランダ、タイ、フィリピン、東チモール、ベトナムの言葉である。この運動に参加し中原道子教授は、国際的なメッセジーを、今度は、逆に韓国に発信したのである。   本稿では、このような韓国の状況に対して、むしろ、日本からの発信の拠点となっている「宮古島における慰安婦のための碑」の建立過程・除幕式の様子などを伝えることにする。(続く)   ----------------------------- <洪ユン伸(ホン・ユンシン)☆ Hong Yun Shin> 韓国ソウル生まれ。韓国の中央大学学士、早稲田大学修士卒業後、早稲田大学アジア太平洋研究科博士課程在学中。学士から博士課程までの専攻は、一貫して「政治学・国際関係学」。関心分野は、政治思想。哲学。安全保障学。フェミニズム批評理論など。現在、「占領とナショナリズムの相互関係―沖縄戦における朝鮮人と住民の関係性を中心に」をテーマに博士論文を執筆中。SGRA会員。 -----------------------------   (2008年12月2日SGRAかわらばんで配信)  
  • 2008.11.25

    エッセイ172:劉 健 「私が直感するグローバル金融危機」

    今は、世界的な規模で百年一度の金融危機にあると言われるが、タイムリーにも渥美財団の評議員で、新生銀行社長の八城政基先生から、何故このような危機が起こったかというお話を伺う機会があった。ご講演を伺って、大変勉強になった。金融に関する知識がまったくない、言語学を研究する北京出身の私が直感できる金融危機は物価の高騰と株式市場の暴落である。    日本は二度目である。前回は2004年アテネオリンピックの時で、今度は北京オリンピックの最中にまた東京にやってきた。この4年間に北京も東京も物価がかなり高くなったと実感している。もちろん、東京は北京ほど激しくはない。物価の高騰というと、まず「頭に来るのは最近の住宅価格だ」と中国人ならだいたいそう思っているようである。何故かというと、住宅費は食費や交通費などと比べて、生活費のかなりの比重を占めているからであろう。2004年前後に6000元/平方メートルで購入したマンションが、今年になって15000元/平方メートル近くまで高くなっている場合も少なくない。毎月の給料でどれぐらいの面積を買えるのかという、冗談半分悩み半分の話も時々耳に入っている。確かに、今20代30代の若者たちが北京にマンションを買うには、親からの援助なしにはほとんど不可能というのは事実である。近年、政府は市民の交通代などを減らそうといろいろな対策を出していながらも、それは住宅費の高騰に比べて、まさに「杯水車薪」(馬車に載せた薪が燃えているが、その火を消すには一杯の水ぐらいでは何の役にもたたない)である。    こんな状況の中で、2006年は中国の株式市場は非常に望ましい時期に恵まれていた一年であった。この一年で、株式に何の知識もない爺ちゃん婆ちゃんも少なくとも投資金額の2倍の利益を獲得したと言われている。2007年の春節のお休みの後、ますます多くの人たちが株式市場に投資し始めたが、5月30日に激落した。そして10月17日から今日までずっと続いている株式市場の低迷は、若い投資者にとってすごいショックである。一方、まだまだ株式市場の回復、そして中国の経済発展に自信を持っている投資家も少なくないようである。    2008年は中国にとって決してオリンピックの開催のようなよいことばかりの年ではなかった。年初の大雪災害、5月の四川大地震、そして9月10月に発生したメラミン事件や他の食品安全に関する一連の事件で、中国政府はより有効な経済・食品安全政策を求められている。   ● 八城評議員にご講演いただいた「渥美奨学生の集い」の報告   ----------------------------------- < 劉 健(りゅう・けん)☆ Liu Jian> 中国の山東省生まれ。山東大学日本語学科学士。北京外国語大学北京日本学研究センター修士。現在北京大学日本語言語文化研究科博士課程に在籍し、交換研究員として早稲田大学日本語教育研究科に留学中。関心・研究分野は日本語漢字熟語サ変動詞の文法的特徴・日本語漢字熟語と中国同形語との対照研究など。 -----------------------------------  
  • 2008.11.21

    エッセイ171:包 聯群「中国の経済発展は農民たちに何をもたらしたのか:黒龍江省でのフィールドワークから見えたこと(その2)」

    [農村でも街と同様な生活を]   今年も中国の東北地域では降水量が多く、農民たちにとっては収穫のよい年であった。物質的な向上は農民たちに精神的な向上をもたらしていると言える。ウンドル村から3キロ離れた解放村では、華麗なレストランとカラオケ、休憩所、銭湯などを完璧したお店ができた。この村だけではなく、条件があう多数の村(黄花村、長発村、永発村)には、このような娯楽施設ができている。農民たちは農産物の収穫の忙しい季節を終え、一年の疲れを取るのに、こういった場所を利用するようになった。   今年10月12日(筆者が中国滞在中)、北京で閉幕した中国共産党第十七期中央委員会第三回全体会議は、『農村の改革と発展を推進するいくつかの重要問題に関する中国共産党中央の決定』を採択し、農村の改革と発展に向け、新たな戦略的政策を打ち出した。   会議は改革と革新を大々的に推進し、農村の制度整備を強化し、近代的な農業を発展させ、農業の総合的な生産能力を高めること、農村の公共事業の発展を速め、農村社会の全面的な進歩を促すとしている。さらに2020年までに、農業の総合生産能力を著しく向上させ、国の食糧安全と主要農産物の供給を効果的に保障し、農民の一人当たりの純収入を2008年より倍増させるという。農村部の住民がすべて教育を受ける機会が持てるようにし、基本的な生活保障や医療・衛生制度をさらに健全なものにすると強調している。これらをみると、この地域の農民たちは良い土地や政策に恵まれていると言えるだろう。   [農薬に関する知識の重要性]   ウンドル村では、農薬の大量使用が人体に害をもたらすことを知らない人々がいる。今は、農業の高収穫だけを考え、化学肥料や殺虫剤、除草剤などを大量に使用する現象がでている。   ウンドル村では、昔、農民たちは化学肥料を使用せずに、自然の肥料によって農地を営んでいた。それに毎年、植えた農産物に対して、手作業で丁寧に「除草」作業をし、無農薬の農産物を作っていた。このような手作業は1980年代末まで続けられていた。   しかし、今は、無農薬の農産物が少なくなった。現在、多数の家庭は、農産物の高収穫を望み、また労働力を節約するため、すべての雑植物を大量の「除草剤」で「殺している」という。自分が食べる目的で自家の周辺に植えた野菜にさえ化学肥料や殺虫剤などを使用しているという。農薬の使用について農民Bさんから聞いたところ、Bさんは自分の庭園に自家用のため植えた野菜に化学肥料を使用しなかったことで奥さんと喧嘩になったと話していた。Bさんの奥さんは農薬について、その量が多ければ多いほど農産物の収穫がよいという考えを持っているそうである。このような考えを持っている人は少なくないという。   このように一部の農民が農薬に関する知識を全く持っていない状況が浮き彫りになってきた。化学肥料や殺虫剤を作っている人、あるいはそれを販売している人たちは、農民たちに農薬に関する知識をどれほど伝えているのかが疑問として残った。   ○ 食の安全問題   中国の高度経済成長に伴い、農業が増収し、農村も著しい発展を成し遂げ、よい成果をあげているという喜ばしいことがある一方、食の安全問題が懸念されている。   人間にとって、食の安全は最も重要である。最近、中国のミルク粉に標準値を越えたメラミンが含まれていたことが中国メディアによって報道された。多くの業者が同様な手口でメラミンを故意にミルクに入れていたことが明かされた。この事件が人々に警報を鳴らし、食の安全に対する意識を高めるきっかけになったらと願ってやまない。   人々はこうした中で何を信じればよいのか。ある大学の教師は、「われわれは安全な食品、無農薬の食品を求めており、値段が高くても買って食べている。ときに、安全だと言われている食品、無農薬の食品を買い求める客で長蛇の列までできている」という。このように食の安全を求める人がいる一方で、食の安全に関する知識を持たない人もいる。これからは、「食」を作る人、「食」を買い求める人への知識伝達、食の安全意識への教育が必要となってくるだろう。   黒龍江省でのフィールドワークの写真   写真の中に出ているウンドル村の小学校の再建について書いた包聯群さんのエッセイ「火事で焼失した小学校の再建をみんなの手で実現させることができた」   このエッセイの前半   ------------------------------------ <包聯群(ホウ・レンチュン)☆ Bao Lian Qun> 中国黒龍江省で生まれ、1988年内モンゴル大学大学院の修士課程を経て、同大学で勤務。1997年に来日、東京外大の研究生、東大の修士、博士課程(言語情報科学専攻) を経て、2007年4月から東北大学東北アジア研究センターにて、客員研究員/教育研究 支援者として勤務。研究分野:言語学(社会言語学)、モンゴル系諸言語、満洲語、 契丹小字等。SGRA会員。 ------------------------------------  
  • 2008.11.18

    エッセイ170:包 聯群「中国の経済発展は農民たちに何をもたらしたのか:黒龍江省でのフィールドワークから見えたこと」

    言語接触や言語変容に関する調査のために中国黒龍江省に、9月から10月にかけて約1ヶ月ほど滞在した。調査地は主に大慶市ドルブットモンゴル族自治県、チチハル市の泰来県が中心だった。移動手段は鉄道や車を利用した。ちょうど農民たちが農産物を収穫している忙しい時期でもあった。各地域内での移動は車だったので、これらの地域の変化を直に自分の目で確かめることができ、また農民たちとも話をする機会があった。   ○中国東北地方の中都市(城鎮)の変化    2003年の調査を最後に、黒龍江省大慶市ドルブットモンゴル族自治県に足を運んだのは5年ぶりのことだった。街は見違えるほどの変化だった。道路が整備され、大きなビルが道路の両端に立ち並ぶ。その数は倍増し、かつての古い街並みは変貌してしまった。新しい商店街ができ、多くの人でにぎわっていた。夜になると、多種多様な電灯が住宅のビル全体をてりつけ、華やかな街並みとなっていた。現在の街は昔の何倍にも拡大され、マンションを買う農民も増えているようである。本県の領域では、石油の採掘ができることが経済発展に直接結びついていると市民たちが話していた。   黒龍江省泰来県では石油の資源がないため、経済的に他の県とある程度の差がみられるが、それでも、村と村を繋ぐ道路が整備されるなど、昔と比べると、発展しつつあることが見うけられた。このように、地方都市の外観からでも中国の経済発展の一角がみられるのである。   地球温暖化の原因となる二酸化炭素(CO2)を排出しない太陽光の自然エネルギー利用への転換は、環境やエネルギー資源に対する積極的な取り組みととらえられるが、中国東北地域では太陽エネルギーの使用が普及しつつある。各家庭の給湯、シャワーなどで使われている。これもまた5年前には見られなかった風景である。街にしろ、農村にしろ、屋根の上に横1メートル以上、縦60cm程度(?)の管を横に並べているのがはっきり見られる。太陽熱温水器の値段は、一番安いものが3000人民元(約5万円程度)であり、一般的な家庭でも設置できる手ごろな値段と言われている。業者が村まで行ってチラシ(“東北王太陽エネルギー”)を配っている事情をみると、太陽エネルギーを使用する家庭がさらに増えているのだろう。環境問題が世界的に取り上げられている時代では、これは地球環境を守る一つの手段と言えよう。   ○中国東北地方の農村の変化   言語調査の傍ら、農村の生活を体験し、その変化を感じ取ったことも今回の収穫の一つだと言える。黒龍江省チチハル市泰来県ウンドル村で行われたインタビュー調査をもとに中国農村の変化をみてみよう。    筆者:今の生活をどう思いますか。   農民Aさん:今は昔と比べると、毎日“過年”(お正月)みたいだ。今は、毎日お米や麺類を食べられるようになった。さらに魚、鶏肉、豚肉をいつでも買って食べられるしね。70年代末まではお腹いっぱいに食べられず、いつも空腹感が残っていたので、大変だったよ。新しいトウモロコシが食べられる秋になる前に、それまで食べていた食べ物がすでになくなってしまう。今、トウモロコシを食べる人は一人もいないよ。   筆者:それはよかったね。   農民Aさん:そうですね。これだけじゃないよ。今はね、農民の土地から税金を取られなくなったよ。逆に国から一畝の土地に300元以上の耕地用の支援金をくれるのよ。昔なら、絶対想像できなかった。収穫があってもなくても税金を払っていたよ。   筆者:そうですか。   農民Aさん:うん。今はね、満足しないことがないよ。今年からね、数年間をかけて、国が土で建てた家を壊す計画が出ているよ。誰かが(煉瓦で)新しい家を建てると、国から一万元(農村で100平方メール近くの家を建てるには安くても大体8万元ほどかかる)の補償があるよ。家を建てたい人は登録をすでに済ませて、これからその政策が実行されるとみんなが言っているよ。   筆者:けっこうすごいですね。   農民Aさん:そうだよ。今、ウンドル村では、農業以外、酪農用の牛を育てる家庭も増えているよ。国の支援策があるからね。今農村でも忙しいときに人を雇って農業をやっているよ。昔の地主みたいね。勤勉の人は結構お金を儲けているよ。   筆者:そうですか。   農民Aさん:農民たちは新しい家を建てる際にも、先進的な設備を備えるように工夫している。街にあるシャワー、暖房、水道などの設備がすべてあるよ。   筆者:なるほど、これをみると、昔の農村のイメージと大分違いますね。農村と思えないほどの変化ですね。   農民Aさん:そうでしょう!!(自慢気に)。   (次号に続く)   ------------------------------------ <包聯群(ホウ・レンチュン)☆ Bao Lian Qun> 中国黒龍江省で生まれ、1988年内モンゴル大学大学院の修士課程を経て、同大学で勤務。1997年に来日、東京外大の研究生、東大の修士、博士課程(言語情報科学専攻)を経て、2007年4月から東北大学東北アジア研究センターにて、客員研究員/教育研究支援者として勤務。研究分野:言語学(社会言語学)、モンゴル系諸言語、満洲語、契丹小字等。SGRA会員。 ------------------------------------
  • 2008.11.11

    エッセイ169:今西淳子「留学生30万人計画と短期留学推進への期待」

    5つの国立大学が世話人となって開催する「『留学生30万人計画』と『短期外国人留学生支援制度』の行方」という会合があったので行ってみた。各大学の短期留学プログラム担当者の会だったようだが、私は以前から、5年とか10年とかかけて日本の大学から学位を取得するための留学ではなく、1年未満の短期間の青少年の国際交流をもっともっと大量に増加すべきだと思っているので、短期留学の現状がどうなっているかを知りたいと思ったからだ。主催者から、参加者は全員、短期留学プログラムの資料を提出すべきということだったので、私も渥美財団とSGRAの紹介の後に、今年から始めた北京・ソウルでの面接による奨学生の現地採用について説明し、最後に次のようなコメントを付け加えた。   [短期留学推進への期待]   留学生30万人計画は、勿論悪くない。世界中の若者が、国境を越えて異文化に接する機会が増えれば増えるほどいい。でも、何故か、現場の方々は、あんまり喜んでいないように見受けられる。30万人なんて無理、10万人計画でも問題が山積みだったのにと。勿論喜んでいる人もいる。大きな政策があれば予算がつくから、その恩恵に預かろうと思っている方々。昨今は、ビジネス日本語や企業への就職斡旋や日本企業に相応しい高度人材の育成が大流行り。でも、少子高齢化の日本を救うための留学生受入政策って本物ですか?これから景気が悪くなったら企業の採用も激減するのでは?そうなったら外国人の方が使い捨てになる可能性が高いかも。青少年の国際交流は、異文化に接触することによって個々が成長し、異文化が融合することによって新しいものを創造するところに、その使命と醍醐味があるのでは?通信と交通手段が発達して、時間の流れが早くなった今日、人生の一番大切な20歳代の10年間をかけて日本の大学の博士号を取得しにくる留学生は、これ以上多くはならないでしょう。短期留学の促進にとても期待しています!短期留学促進には、奨学金よりも、英語(中国語も?)による授業、単位交換、宿舎の整備、リスクマネジメントなどがもっと必要なのではないかと思います。   セミナーの前半には、文部科学省高等教育局学生支援課留学生交流室の方による留学生政策の説明があった。留学生30万人計画骨子の3つのポイントは、1)「グローバル戦略」展開の一環として2020年を目途に留学生受入れ30万人を目指す。2)大学等の教育研究の国際競争力を高め、優れた留学生を戦略的に獲得。3)関係省庁・機関等が総合的・有機的に連携して計画を推進、ということであった。最後に短期留学のデータが紹介されたが、2008年5月1日の時点で、留学生総数118,498人に対して、短期留学生は7.1%の8,368人。出身国は、留学生全体では圧倒的にアジアが多いのに対し、短期留学では中国韓国の次にアメリカ、台湾、ドイツ、フランス、タイ、イギリスと、欧米諸国からの留学生も多い。そして文科省の奨学金のひとつの枠である「短期留学推薦制度」については、1996年より2007年まで、採択者数は2千人前後とあまり変化しないが、応募者は2,464人から10,207人に急増している。尚、文科省による「短期留学」の定義は、3か月以上1年未満の留学である。3か月以上とするのは、それ以上滞在するためには留学ビザが必要になるので、留学生ビザによって正確な統計がとれるからだと思う。   セミナーの後半は参加した38機関が、それぞれ1分間で自分の短期プログラムを紹介した。部外者として聞いていると、国立大学と私立大学の差が明確で興味深かった。そもそも、この会合のテーマにある「短期外国人留学生支援制度」というのは、文科省のひとつの施策を意味するらしく、国立大学は、当然のことながら、その恩恵にどうやって与るかが大きな関心事らしかった。また、正確には把握できなかったが、この制度は大学間協定による交換留学に使われることが多いようでもあった。この施策の恩恵を受けることのできるプログラムを「短期プログラム(短プロ)」というらしいのであるが、留学生を1000人以上受け入れている大きな国立大学が、20人とか30人の短プロだけを1つだけ紹介しているので驚いた。このような大学には、それ以外にも1年未満の短期留学生がたくさん来ていると思うのだが、そのような留学生たちはどのように把握されているのだろう。また、留学生30万人計画の中では、そのような「短プロ」以外の短期留学の推進はどのように行われているのだろう。    一方、私立大学は、文科省の「短期外国人留学生支援制度」とはあまり関係なく、独自にいろいろな短期プログラムを工夫しているようだった。中には、自由研究を主体とし、キャンパスのない留学生受入をしているという報告もあり、ちょっと心配になった。一般的には、国公立大学も含め、地方にある大学も、それぞれ工夫して短期留学を推進しようとしているようであるし、何よりも日本に短期留学したいという希望者が増加しているようであった。奨学金がなくても来るという希望者も多いようで、むしろ宿舎の不足が問題という報告もあった。    このセミナーでは、参加者全員が発言することになっていたので、私の番がまわってきた時に、次の2点の感想を述べた。    まず、現在、日本に居る留学生11万人の留学生のうち8千人が短期留学というデータは、日本で受け入れている短期留学生の実態を正確に表していないのではないかという問題提起をした。日本で受け入れた1年未満の留学生の数を把握するのに、ある年の5月1日に、たまたま短期プログラムで来日して滞在していた人を数えても、今、グローバルに激増している青少年の国際交流の実態を把握できないように思う。しかも、3ヵ月未満の超短期留学や各種の交流プログラムを含めると、1年間に短期留学で日本にやってくる青少年の数は、8千人よりはかなり多くなるであろう。30万人計画を進めるために、好都合なトリックになってしまうかもしれないが、現在の国際社会のダイナミズムをもう少し正確に表すことができるデータを使った方がいいのではないかと思う。    そして、各大学の報告を聞いて、一番気にかかったことは、大学間協定を結んで交換留学プログラムを立ちあげても、海外から日本への留学したい希望者は増えているのに、日本からの海外留学の希望者が非常に少ないという、複数の大学からの報告だった。私が「日本全体、大学生までもが、とても内向きになっている。在学中に一度留学しなければ卒業できないというような、制度的な工夫が必要なのではないか」と、部外者の特権で勝手な発言をすると、大学の担当者の皆さんは大きく頷いて賛同してくださった。   ------------------------------------------ <今西淳子(いまにし・じゅんこ☆IMANISHI Junko> 学習院大学文学部卒。コロンビア大学大学院美術史考古学学科修士。1994年に家族で設立した(財)渥美国際交流奨学財団に設立時から常務理事として関わる。留学生の経済的支援だけでなく、知日派外国人研究者のネットワークの構築を目指す。2000年に「関口グローバル研究会(SGRA:セグラ)」を設立。また、1997年より異文化理解と平和教育のグローバル組織であるCISVの運営に加わり、現在英国法人CISV International副会長。 ------------------------------------------  
  • 2008.11.07

    エッセイ168:林 泉忠「どうなる?転換期の日台関係」

    先日、台湾の馬英九総統は、建国記念日に行われたスピーチにおいて、「台日特別パートナーシップ」の構築に言及した。五月の就任式の演説では日本との関係は言及されなかったが、今回、米台関係よりも重点的に言及されているだけに注目を浴びている。   いうまでもなく、馬英九は、6月に起きた台湾漁船「連合号」の衝突事件以降、停滞が続いた日台関係を意識したのである。   「連合号事件」は、台湾側の自制への転換、および日本側の陳謝と賠償の約束で解決したが、事件当初、台湾政府の対応と台湾社会の反応は日本社会を震撼させた。台湾政府要人の「一戦を辞さない」発言、そして報道やネット上での反日的言論が急増したからだ。   日本にとって、台湾が最も親日的近隣として認識されているだけに衝撃は大きかった。それだけに、事件後、日本の新聞も揃って日台関係を懸念する社説を次々と掲載した。   しかし、「連合号事件」はあくまで日台関係を停滞させた要因のひとつにすぎなかった。その背後には、中国への急接近を図る馬英九新政権の対日戦略が不透明だったこと、加えて、許世楷駐日代表辞任後、長い間、新代表の人選が難航し、日台関係の修復を先伸ばしにさせたことがある。   日本側の懸念をやっと理解した馬政権は、7月から、日台関係を決して軽視していない姿勢を次々と示した。   まず、馬英九は、自らを決して「反日家」ではない「知日家」としてアピールし、今度は一歩進んで「友日家」になる意思を表明した。また、「連合号事件」の直後に撤廃した台湾外交部(外務省相当)の下に置かれた「日本事務会」に代わって、各省庁連携で対日政策を検討する「日台関係作業会報」を発足させた。そして、9月になると、新しい日台関係の構築を訴える「台日特別パートナーシップ」を発表した。   しかし、転換期にある日台関係を構築するには、この対日新思考はいかなる役割を果たせるのか。   「台日特別パートナーシップ」が単に国交のない日台間の緊密な友好関係の実態を語るのみにとどまるのであれば、馬英九政権の日台関係重視への転換を示す以上のものはない。しかし、それを新しい日台関係を築くための戦略的指針として捉えてほしいのであれば、それを裏付ける中身が不可欠だ。それにあたり、日台新関係の中期目標として次の四点は重要視すべきであろう。   まず、日台間の交流関係を全面的に強化するためには、「連合号事件」の再発防止に向けた日台間の危機管理体制の確立が最重要課題になろう。確かに、国交のない日台間には米中間の「ホットライン」のような安保協力装置の設置は難しいが、係争地をめぐる衝突を含む緊急時の対応システムの検討は必要だ。   第二に、「台日特別パートナーシップ」を法的に保障する意味においても、日台関係の安定化を図るために、日中関係に悪影響を与えないよう注意を払いながら、米国内法に相当する日本版「台湾関係法」制定の可能性を積極的に検討する意味があろう。   第三に、駐日新代表の人選が難航した背景として、長年下野した国民党側における日台関係に熟知した人材の不足があった。安定した日台の信頼関係を維持するためには、対日外交の人材育成が急務だ。同時に、政権が交代しても野党系の知日派を引き続き重視してほしい。   第四に、日本側において中国接近を図る馬英九政権を懸念する声が高い背景には、近年、親台関係者に「反中」イメージの濃厚な人が集中していることが挙げられる。今回の台湾の政権交代を契機に、親台でも反中ではない、より健全な対中国および対台湾思考の転換が日本社会に求められている。   麻生内閣は首相自身を含めて18人が「日華議員懇談会」のメンバーである。これは、日台間の信頼関係を全面に回復する絶好の環境だ。この好機を逃さず、いかに中身のある「特別パートナーシップ」が構築できるか、今後も目が離せない。  (2008年10月31日ハーバードより)   ---------------------------------- <林 泉忠(リム・チュアンティオン)☆ John Chuan-tiong Lim> 国際政治専攻。中国で初等教育、香港で中等教育、そして日本で高等教育を受け、東京大学大学院法学研究科より博士号を取得。琉球大学法文学部准教授。4月より、ハーバード大学客員研究員としてボストン在住。 ----------------------------------
  • 2008.11.04

    エッセイ167:禹 成勲「『20世紀少年』たちと『ともだち』」

    世界的な金融危機状況が続いている。経済や金融体制に関してはまったくの素人である私としては、こうした金融危機がどうして起こるのか、どのように危機を克服できるのか全然分からない。ただ、様々な原因究明の意見の中で、「現在の『経済システム』の誤りによる」という指摘が気にかかる。     浦沢直樹の「20世紀少年」という漫画を原作とした同名の映画が世界同時公開された。年齢の側面からも経済の側面からも鑑賞可能な「20世紀少年」たちが、この映画に熱狂しているという。    ケンヂという人物を中心とする主人公「20世紀少年」たちは、幼い頃、地球を滅亡させようとする敵が現れたら、皆共に戦い、敵をはね除けて地球を守る約束をする。このことは、やがて忘れられ、主人公たちはおとなになって平凡な日常を過ごしている。ところが、ある日、地球全体を対象にした恐ろしい事件が次々と発生する。主人公たちは、これら一連の事件が、彼らが幼い時に考えた地球滅亡シナリオと同じであることに気付く。一連の事件に絡んでいる謎の男「トモダチ」は、主人公らが幼い時に考えた空想を、次々と現実に再現し、これらを解決することで英雄になって支配者になり、「国家」となる。     現在の経済危機を発生させた「経済システム」は、我々「20世紀少年」たちの現在と未来のくらし、そして夢を守り実現させる存在になりながら「TOMODACHI」となった。「20世紀少年」たちがその存在を認めたことで、それは各種制度を創り出したし、国家の一部になった。 いや、むしろ現在の国々は、「20世紀少年」たちの人生と夢を維持するため、その「TOMOTACHI」に従属しているようにも見える。あたかも漫画の中の「トモダチ」のように。     漫画の主人公ケンヂは、幼い頃の「ともだち」に、彼らの象徴である旗を、彼らの力で取り戻そうと呼び掛ける。たとえその旗が、世界を滅亡させようとする「トモダチ」の象徴物として使われていても、厳密にそれは彼らのものであり、彼らの未来への夢であった。     我々の暮らしを破壊し、夢を押し倒すものを、我々の「敵」と見なす時、今の経済危機を作り出し、現在と未来の暮らしと夢を威嚇している「間違った経済システム」は、明らかに我々の「敵」である。しかしそれは、20世紀的な「トモダチ」とは違う。見えないし実在もしない。見えない「TOMODACHI」と何をもってどのように戦って、我々の暮らしと夢を守り、平凡な平和を取り戻せるのだろうか。見えない「TOMODACHI」と対決し、我々20世紀少年たちの旗を、一緒に取り戻してくれる真の「ともだち」は誰なのか。     漫画の中の「トモダチ」は、その存在が一貫してベールに包まれていた。漫画が終わる時点に至って、疎外感が作り出した「トモダチ」とは、主人公たちと幼い時に別れた「ともだち」であることが明らかとなる。疎外されていたと考えていた「トモダチ」は、主人公たちが自らの存在を記憶しており、「ともだち」として認めているという事実を確認して死を迎えた時、彼らは互いに許しあい和解する。   今の経済危機を打開するために先進国を中心に新しい金融システムを作り出そうとする動きが報道されている。新しい「トモダチ」はどのような姿であろうか。もしかしたらこれによって「TOMODACHI」は、我々「20世紀少年」たちと和解もできないまま死を迎えるかも知れない。いや、もしかすると「TOMODACHI」は、全く新しい姿に仮装して現れるかも知れない。私は、我々「20世紀少年」たちの真の「ともだち」とは、どのような姿をした誰なのか、それが知りたい。   ---------------------------- <禹 成勲(ウ・ソンフン)☆ Woo Seonghoon> 韓国成均館大学建築科を卒業後、2001年に日本へ留学、2007年東京大学で博士号を取得。現在、日本学術振興会外国人特別研究員。SGRA会員 ---------------------------  
  • 2008.10.31

    エッセイ166:宋 剛「国貿:現代中国の縮図」

    北京、否、中国でもっとも有名な大通りは長安街に他ならない。世界で名高い天安門広場はそのど真ん中に位置する。長安街にあり、天安門広場より約5キロ東にあるのがこのエッセイの舞台、中国国際貿易センターだ。   立地の優位性だけではない。「国貿」と略称されたこの地域は1990年に誕生したばかりであるが、高級オフィス、五つ星ホテル、トエッセイ166:宋 剛「国貿:現代中国の縮図」ップクラスのデパート、大型展示場の総合体で、歴史的背景を考えずに言ってみれば、まるで丸の内ビル、帝国ホテル、銀座和光、東京国際フォーラムを一つのエリアに網羅したようなものだ!しかも、敷地面積54万㎡。主建築の高さが330mの第三期建設は進行中だ。ちなみに、留学生活の6年間、筆者は東京国際フォーラムに行ってもam/pmにしか入ったことがなかった。   今回、筆者は正々堂々と「国貿」の展示場の前に立った。胸を張りながら、400メートルに及ぶ長蛇の列の横を通り、開場の30分前に中に入った。現在所属する大学が今年の北京国際留学フェアに参加して、「手伝え」と呼んでくれたからだ。「関係者」という肩書きはいかにも実用的である。下働きだとしても。   北京最大規模の海外留学の宣伝イベントには、日本も含め、30以上の国と地域から、600あまりの大学が出展し、2日間の入場者数は10万人を超えると予想された。去年は8万人だったという。    世界金融危機の最中なのに海外留学は人気があるのだろうか?そんな心配は「国貿」の入口が開いた瞬間に一掃された。30分前よりずっと膨らんだ長蛇が中に飛び込んだ。「200万元用意した、大学四年間で足りる?」「ドル安だから、学費が割引になってるみたい!」「一人息子だから、いくらでも払う!」金融危機はここですっかり姿を消した、というか、中国の「神武景気」が来た印象さえ受けた。    用意したすべてのパンフレットは一日でなくなってしまった。仕事を終えて、せっかくだからトップクラスのデパートにでも行ってみようかと思った。    「国貿」の展示場とデパートは同じ構内にあるが、出入口は別である。GUCCIとCHANELの専門店に挟まれたデパートの入口から入ると、海外留学の経験者であり、下働きながらも「関係者」という誇りは微塵も残らなかった。日本でも入ったことのなかったブランド品専門店がここで顔を揃えている。名前を知らない店も多数ある。ショーウィンドーを通り過ぎるふりをして値札を覗き見したら、目玉が飛び出てしまい、しばらく元に戻らなかった。空が再び金融危機の影に覆われた。筆者一人の頭上の空だけだが。    「やっぱり北京だ、ものが多いな」「あっちにも行ってみよう」四川方言の濃い男女だ。地方の人もわざわざここへショックを受けに来たのか。都会育ちとしての自負心が湧いてきた。が、その手に持ったものをふと見ると、残されたわずかなプライドもどこかに吹っ飛んじゃった。Louis Vuittonのスーツケースとキャリーバッグだった。二人の後姿を満面の笑みで店外まで見送る店員がいた。    これ以上もう堪られない。いっそ帰ってしまうことにした。「国貿」の地下二階は地下鉄の駅だ。この駅を利用する出稼ぎ労働者がなぜか多いという。日が暮れる直前だが、照明はまだ灯されていない。幸い、上と下をつなぐ薄暗い通路は意外と短かった。    ホームに入ると、いきなりよどんだ空気に包まれ、鼻を刺激する臭いもした。そして農民のような格好をした三、四人が重たそうな大きな荷物を背負っている姿が目に入った。何週間も洗っていなさそうな髪の毛に、油のしみが付いている服。別の場所で待とうかと躊躇している間に、入口の方から騒ぎ声が聞こえてきた。ヘルメットを着用している人たちだ。どうやら「国貿」第三期の現場から仕事が引けた労働者らしい。「毎日白菜ばっかりだ」「女房がいたらなぁ」ホームは賑やかになった。  地下鉄の中で、筆者はこう思った。「国貿」はあたかも現代中国の縮図のようだ。外見は先進国を今にも凌駕しそうに立派になりつつある。中の人々も世界に目を向けようとしている。しかし、この繁栄を支えている人が全員その成果を享受しているとは限らない。そして、教育レベルにしても、社会的地位にしても、決定的なのはほかならぬ金となった。金があれば何でも出来るというほどでもない。けれども、金がなければ、知識があっても、身長があっても(筆者自身新たな誇り発見!)、微笑んでお辞儀をしてくれる人もいないし、将来子供に海外留学をさせることも出来ない。こうした思いで、人生の歯車を狂わせてしまった人はきっと少なくないだろう。    とにかく、地上と地下は紙一重だが、別世界である「国貿」は面白いところだ。   ----------------------------  <宋 剛 (そー・ごー)☆ Song Gang> 中国北京聯合大学日本語科を卒業後、2002年に日本へ留学、桜美林大学環太平洋地域文化専攻修士、現在桜美林大学環太平洋地域文化専攻博士課程在学中。中国瀋陽師範大学日本研究所客員研究員。10月より北京外国語大学日本語学部非常勤講師。SGRA会員。 ---------------------------   
  • 2008.10.28

    エッセイ165:キン・マウン・トウエ「時の流れと健康」

      「40歳になると、身体機能、生活環境、職場環境などの影響によって、人間の視覚知識や視覚機能が低下する」・・・視覚工学研究や眼工学研究をしていた大学院時代に、論文や研究発表などの「概要」で良く使われていた表現でした。しかし、当時の私は、視力もよく、視覚知識が低下は自分で体験できないことでした。コンピューターシミュレーションによる実験で、本当の基礎データ-から求められた視覚機能低下者の画像結果を計算した時も、理論から考えて「このように見えるのだろう」と考えながら、研究を行っていました。    その頃、40歳を過ぎた方々から良く聞いたのが、「20代や30代の頃と比べると、体の調子が悪い。体のあちこちが痛い。生活環境を改善しなくては...」と言うことでした。留学時代は、徹夜をして2~3日続けて実験することもよくありましたし、研究室の方々や友達と一緒に無理なお酒を飲むこともありました。しかも、このように無理な生活をしていても、楽しく研究を行い、健康に暮らしていました。    ミャンマーに帰国後も、30代の後半までは、日本留学時代と変わらずに、職場でも自分がしたいことがあれば、昼夜関係無く、無理なこともよくしました。「健康」よりも「自分の目標」が大事で、体調は気に掛けずに、「私は大丈夫です。いくら無理しても、健康ですから」とよく言いました。    時の流れによって、私も昨年40歳になりました。まず、自分の視覚能力が低下してきたことを感じ、とってもショックを受けました。つまり、老眼が始まりました。40年間使用した眼の水晶体(レンズ)の働きが低下したということです。細かい作業をするときや、小さな字の本を読むときに、良く見えない。また、乱視にもなってしまい、雨の日の夜に車を運転する時は、見にくいので大変です。かつて私がシミュレー ションをしていた視力低下者の「見え方」を、自分で体験することができたわけです。そして、時の流れによる「年齢」を感じ、「健康の大切さ」について気づいています。      最近、また大きなショックを受けました。高血圧になり始めています。私の父が高血圧、母親が糖尿です。父も40代の時に高血圧の診断を受け、76歳の現在まで、生活環境にとても注意しながら血圧レベルを管理しています。母親も40代に糖尿病になり、62歳で糖尿病と関連する疾病が原因で亡くなりました。次兄も糖尿病を患っているし、姉も高血圧です。こんな家族の情況ですから、私も30代後半から食生活に大変注意してきました。    しかし、先月、風邪をひいて体調が悪いのに無理した時、眼の前が真っ暗になって、地球が回転して、その後何もわからなくなり、気づいた時は、病院のベッドの上でした。血圧が非常に上がった状態になっていたそうです。しばらく入院させられ、健康管理を行いました。検査の結果は、高血圧になり始めたけれども、その他の病気はまだ発生していない状態とのことです。今後、食生活の管理と運動によって血圧のレベルをコントロールしなければなりません。今まで健康な体でしたが、時の流れによって健康問題が発生してきました。    退院後、大きな問題はありませんが、コンピューターの前の仕事に影響が出ています。今まで、コンピューターの前に座って仕事するのは、何時間でも全く問題なかったのですが、退院後2~3週間ぐらいは、短いメールを書くのが精一杯でした。このエッセイも、締め切りに大変遅れて、申し訳ございません。今は、とっても健康でバリバリ仕事をしています。    一方、時が流れてよくなることもあります。5月のサイクロンによって甚大な被害を受けた地域は、かなり回復してきました。皆様の御支援を受けて支援活動を行った村も、寄贈したトラクターを使用して米を栽培し、まもなく村の人々の喜び季節がやってきます。今回は雨季の米の栽培でしたが、乾季栽培にも、寄贈したトラクターを利用する予定で、配置や分担などの準備が進んでいます。    時の流れによってよくなってきたこともあり、悪くなってきたこともあります。石や鉄でさえも、さまざまな要因によって、時が流れて無くなることもあります。我々人間の場合、健康を大事にすることが、自分の目標を達成するために、とっても重要なのだ感じています。    今回のエッセイは、私の体験に基づいて、皆様の健康管理の参考にしていただける内容を考えました。皆様のご健康をお祈り致します。   ---------------------------------------------  <キン・マウン・トウエ ☆ Khin Maung Htwe> ミャンマーのマンダレー大学理学部応用物理学科を卒業後、1988年に日本へ留学、千葉大学工学部画像工学科研究生終了、東京工芸大学大学院工学研究科画像工学専攻修士、早稲田大学大学院理工学研究科物理学および応用物理学専攻博士、順天堂大学医学部眼科学科研究生終了、早稲田大学理工学部物理学および応用物理学科助手を経て、現在は、Ocean Resources Production Co., Ltd. 社長(在ヤンゴン)。SGRA会員。 ---------------------------------------------