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エッセイ207:包聯群「ノモンハンの戦跡を訪ねて」

 

   

 

1.シンポジウムの開催と田中先生のモンゴル関係の著書

 

来る7月3~4日にモンゴル国の首都ウランバートルにてSGRA、モンゴル国家文書局、歴史アカデミーの共催によるノモンハン事件70周年を記念する国際シンポジウムが開催されます。シンポジウムでは、一橋大学の田中克彦名誉教授が基調講演をされるということを伺っております。

 

田中克彦先生の著書は数多くあります。言語学、社会言語学以外に、モンゴル関係のものもあります。例えば:『草原と革命―モンゴル革命50年』(晶文社, 1971年)、『モンゴル革命史』(未來社, 1971年)、『草原の革命家たち―モンゴル独立への道』(中央公論社, 1973年)、『モンゴル―民族と自由』(岩波書店, 1992年)等があり、翻訳書には、『モンゴルの歴史と文化』(ワルター・ハイシッヒ著)(岩波書店, 1967年)、『ノモンハンの戦い シーシキン他』(ワルター・ハイシッヒ著)(岩波書店,2006年)等があります。

 

さらには、ノモンハン事件70周年を迎え、6月19日に著書が発売されます。実は、出版予定のこの本は5年前からすでに準備段階に入っていました。それは田中先生の「ノモンハン事件70周年を迎えるまでに本を書きたい」という会話から始まったと考えられます。

 

 
2.田中先生と一緒にノモンハン戦跡へ出発

 

2005年9月の初めごろ、私は案内役として田中先生と一緒に成田空港から北京経由で大草原にあるフルンベール市に到着しました。そして、事前に知人を通じて連絡を取ったフルンベール大学の先生と一緒に、嘗て戦場の一つであった中国内モンゴルのフルンベール新バルガ左旗を見学する旅が始まりました。

 

新バルガ左旗は地理的にフルンベール市より約200キロメトール離れており、汽車は運行しておりません。旅では、安全性や時間の節約等を考えなければなりません。長距離バスより、タクシーで移動したほうが便利であると田中先生より指示があったため、フルンベール大学の先生が知人の運転手さんを紹介してくれました。その運転手さんは20代後半の若者で、真面目な人でした。

 

9月4日の朝、フルンベール市から目的地へ出発しました。車は、まもなく都市を後にし、青空のもとで、大草原を走り始めました。草原を吹き抜ける風、野生の花々等、自然の美しさを改めて感じた旅でもありました。

 

3.“大変”な道路状況と宿泊条件

 

車をしばらく走らせた後、休憩を取って皆で昼食をし、午後の旅が始まりました。実はこれが“大変な旅”の始まりであったことは事前に知るよしもありませんでした。黒竜江省のハルビン市までの国道は整備されていたのですが、それ以後は、舗装がなかったり、あるいは道自体がないところを走ることになったりで、それは想像以上に大変なことでした。

 

幸いなことに運転手さんは自己管理がうまく出来る方で、2時間走るたびに休憩をとり、集中力を維持し続けることができました。夕方になる頃、やっと目的地の新バルガ左旗の政府所在地に到着しました。そこで、フルンベール大学の先生の知人である新バルガ左旗文物管理委員会の責任者が加わり、運転手さんもいれて総勢5人で、ノモンハンの戦跡から近いところにある観光用のモンゴル「ゲル」(家)に泊まることにしました。

 

私にとっては、初めての野外宿泊の体験でした。しかも「ゲル」と地面の間は下から10センチほど布も何もない。夜は蚊が喜んで飛んで入ってきました。そのため、夜はなかなか眠れませんでした。

 

4.嘗ての戦場を訪ねて

 

翌日は早朝からノモンハン戦争が激しく行われた現場(ノモンハンブルド地区)へ車で向かいました。一時間以上走ったところで、中国とモンゴルの国境線が見えてきました。皆車から降りて、文物館の責任者の案内で、当時の戦争で使用していた実物などを展示してあるゲルや、野外にある「平和」モニュメントなどを見学しました。後者は、国境線付近にあり、戦争時の鉄砲の弾頭で円形をつくり、真ん中に弾頭で“和平”という文字が組み立てられていました。

 

その後、戦場の休憩所跡、中国国境内を流れるフルスタイ河(蘆がある河という意味)、「ブルドオボー)」(清朝のとき、境界線として設置されたが、後に犠牲者を祭るようになった。コンクリートで作られた「台」、縦と横の長さが1メートル以上、高さ1.3メートル以上もある)等を訪れ、戦争の残酷さを改めて実感し、世界がいつまでも平和であるようお祈りを捧げました。

 

田中先生は日本酒とノモンハン桜を戦争犠牲者に捧げ、冥福をお祈りされました。ノモンハン桜というのは、フルンベール草原の植物類の一種です。高さが40cmくらいで、そこに咲く花の色や形は桜ととても似ています。当時、故郷を偲ぶ人々がそれを“ノモンハン桜”と名付けたそうです。

 

午後は、現地から離れ、その日の夜に約130キロ以上も離れている満洲里市に着きました。翌朝、中国とロシアの国境線に行き、そこにある貿易城を見学し、午後にはフルンベール市に戻りました。

 

5.あとがき

 

 
この旅で田中先生をご案内させていただき、無事に旅を終えることができてよかったです。現場を訪れているときに、先生は「数年前に私は、モンゴル国側のほうからこちらを眺めていたよ。私にとって双方から戦場を訪れることができたのは大変意義のある旅でした」と話されていました。この旅が先生が出版されるノモンハン事件の本に少しでもお役に立ったのであれば、私にとってそれが何よりうれしいことです。

 

ノモンハン戦跡の写真

 

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<包聯群(ボウ・レンチュン)☆ Bao Lian Qun>
中国黒龍江省で生まれ、内モンゴル大学を卒業。東京大学から博士号取得。東北大学東北アジア研究センターの客員研究員/教育研究支援者。現在モンゴル語と中国語の接触によるモンゴル語の変容について研究をしている。SGRA会員。
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2009年5月27日配信