SGRAかわらばん

エッセイ215:孫 軍悦「彼の名はトラちゃん(下)」

この人を見よ
 
             僕を理解するには何よりも勇気が要る。 ニーチェ
 
今となると、トラの抱える障害が果たして先天性のものなのか、それとも乳児期の窒息事故に起因するものなのか、誰もが追究しようとは思わなくなった。それどころか、その障害が一体何なのかを正確に知ろうとも思わなくなった。残念ながら、健常者は大同小異だが、障害者は千差万別である。トラはトラだ、この個性的な命に寄り添い、共に生きていくほかに方法がないという、あまりにも平凡な考えを受け入れるには、実に長い年月がかかったのだ。
 
トラが障害者だと宣告された時、大人たちはまず自らの救済にとりかかった。それは、体裁を繕うためについ口にしてしまった度重なる嘘と、わらにもすがるような思いであらゆる科学的、非科学的な治療を試みた徒労と、一切の経験がものを言わなくなり、未知の現実の荒海に投げ込まれた、不安に満ちた日々であった。その間、トラは「治療」の苦しみに堪えながら、もがき続ける大人たちが正気に戻ることをひたすら待っていた。そして、いつの間にか、走れる、話せる、歌える、人の眼を見て話を聞くことができるようになった。
 
ある日、勉強が大嫌いなトラは珍しく本を手に取った。本といっても、分厚い通販のカタログにすぎなかった。トラは小さい頃から本を破る癖があるため、大人たちはいつの間にか識字カードや絵本を買い与えなくなり、彼の手の届かないところに本を置くことにした。

トラはまず表紙にある電話の写真に指をさしながら、「これはなに?」と横に座る私に眼で聞いた。
「電話だよ、で・ん・わ」私は親指と小指をたて、手首を左右に振りながら、電話をかけるポーズをしてみせた。
すると、トラは「リン、リン、リン」と、笑いながら受信音の真似をした。
「そう、そう、電話はリンリンと鳴るんだね」
私はトラの反応に思わず昂奮した。漸く掴んだ教育のチャンスを逃すまいと意気込んだ。
次にトラの目に留まったのは、枕に頬を当てながら安らかに寝ている外国人女性の写真だった。
「これはまくら、トラが大好きなまくらだよ」
「これはフライパン、おばあちゃんはいつもフライパンで料理を作ってるね」
「これはケーキ、トラもケーキが大好きでしょ、美味しいね」
「これは化粧品、お母さんが毎日使っている化粧品だよ」
トラは異常な速さでページをめくった。私は声を張り上げ、彼の指差した商品を一つずつ丁寧に説明しながら、家に絵本を置いていないことが残念でならなかった。しかし、一冊を読み終わると、トラは再び、電話、まくら、フライパン、ケーキ、化粧品の順に指をさし、私の顔を見上げた。
 
知的障害者に対して、誰もが説明を繰り返す労力を惜しまないだろう。それは私たちが十分に寛容だからではなく、無意識の中で彼らの理解力を信じていないからではないのか。

トラが知りたいのは本当に商品の名前なのだろうか。よく考えてみると、彼が興味を示したのは、身近なものばかりだった。三十センチもある分厚いカタログのなかに、知らないものが山ほどあるにもかかわらず、彼は実にすばやく、自分のよく知っているものだけを選び出したのだ。トラは私の言葉をよく理解したに違いない。が、私は彼が何を知りたいかすら、想像も付かないのだ。
 
トラが三度目にまくらの写真をさした時、私は言葉を変えてみることにした。
「ああ、きれいなお姉さんだね、髪が長いねえ」
「あら、いろんな野菜があるじゃない。トラは野菜の名前言えるかな。パプリカ、ピーマン、ブロッコリー、トマト」
「ケーキの上にトラが大好きな果物がいっぱいあるねえ。イチゴ、リンゴ、キウイ、美味しそう」
「これは頭を洗うシャンプだよ、これはお母さんが毎日使う化粧水、これはリップクリーム」
 ……
 
四度目には、私はあえて色に注目した。
「緑のベッドだね。お姉さんが気持ちよさそうに寝ている。トラも寝るか」
「野菜の色がきれいだね。これは何色?赤、緑、黄色」
「果物も色とりどりだね。赤いのはイチゴ、緑は?キウイだよ」
しかし、化粧品には、色がない。不揃いな白いビンだけが並んでいた。
私は咄嗟にブランド名を口にした。
「これはヴァセリン、ブァ・セ・リン」
すると、トラは突然小さな声で復唱した。
「ヴァセリン」
「そう、それは?パンテン」
「パンテン」
「これはメンソレータム」
「メンソレータム」
トラは、鼻音の伴う三つの言葉の音を楽しんでいるように何度も繰り返した。言葉には意味だけでなく、色彩も音楽もある。もしかして、トラはそれを私に伝えたかったのかもしれない。彼はそのカラフルで美しきメロディーの響きあう世界に私を誘ったのである。たとえその一時間の中で、トラは結局私から期待していた言葉を聴くことができず、私も彼の言いたかったことをついに理解することができなかったとしても、私たちは心から相手を理解しようと思い、理解してもらおうと真剣に向き合ったのだ。
 
これほど完璧なコミュニケーションはほかにあるのだろうか。
 
相手を理解しようとする執念もなければ、自己を省みる勇気もない人間は、往々にして自己主張の能力をコミュニケーション能力と勘違いし、独語を対話と取り違えるのであろう。
「常識とは十八歳までに身につけた偏見のコレクション」。
「健常者」はこの巨大なハンディを一生背負わなければならないのである。

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<孫 軍悦 (そん・ぐんえつ) ☆ Sun Junyue>
2007年東京大学総合文化研究科博士課程単位取得退学。現在、明治大学政治経済学部非常勤講師。SGRA研究員。専門分野は日本近現代文学、翻訳論。
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2009年7月29日配信