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エッセイ210:南 基正「盧武鉉大統領の死を想う」

盧武鉉前大統領の衝撃的な死から1ヶ月が経った。その間、私の中では、衝撃、憤怒、虚脱、自責、哀悼、愛惜、悔恨、覚醒、などの感情が入り乱れ、うつ病に似たような状況に陥り、何も考えられず何もできない時間が一日に何度もあった。断っておきたいが、私はいわゆる「ノサモ」の人ではない。「ノサモ」とは、「ノ・ムヒョンを愛する会」の略称で、盧武鉉前大統領を熱烈に支持する市民の集まりである。2002年の大統領選挙で大きな力を発揮した。
 
2000年の総選挙で盧武鉉氏は、韓国の東南部・慶尚道出身でありながらも韓国の西南部・全羅道に支持基盤をおく民主党の候補として、当選が確実視されるソウルの選挙区を捨て政治的故郷の釜山から出馬し落選した。その愚直な姿に感動した人たちの小さな集まりが「ノサモ」の始まりである。民主化を成し遂げた韓国社会の最後の課題である地域利己主義に立ち向かうその姿に心を打たれた人は少なくなかった。その5年前の1995年、釜山市長に出馬し落選した翌朝にはラジオ・インタビューで「農夫が畑を恨むことはない」といい切り、地域主義の強固さに落胆していた多くの人を泣かせ、更に奮い立たせたのである。
 
1990年の三党合党では、これを野合と批判し、敢えて非主流の道を選択した。労働運動と学生運動の活動家たちを支援する人権弁護士として軍事政権に抵抗していた盧武鉉氏を政界入りさせたのは金泳三氏であったが、政治の師匠でもあったその金泳三氏を激しく批判する姿に痛快を覚えた人もまた多かった。1988年に国会議員として初当選し、全斗煥政権の不正を暴きだした聴聞会では核心に迫る鋭い質問ぶりで、多くの国民に「スター政治家」の誕生を印象付けた。貧農の息子として生まれ、高卒の学歴で苦学の末に司法試験に合格したこと、普通に兵役を終えたことなども、多くの国民に親近感と希望を抱かせた。
 
私はこのような経歴の盧武鉉氏が好きだった。政治家としての評価を離れ、ただ人間的に好きだった。だから2002年の大統領選挙でも彼を応援した。当時、私は東北大学で学生たちを教えていた。韓国政治そのものがテーマではない講義やゼミだったのに、授業中に大統領選挙についても多く語っていたように覚えている。投票当日には、ゼミのコンパで遅くまで学生たちと飲んでいた。何時だったのかは覚えていないが、ある学生が盧武鉉氏の当選の知らせを持ってきた。私は素直にうれしかったので、学生たちと何度も乾杯をした。盧武鉉氏の当選に乾杯し、彼を当選させた韓国政治の成熟に乾杯し、平和路線の継承に乾杯した。しかし、日本での反応は冷ややかであったように覚えている。日本のマスコミは韓国の保守系新聞の論調に振り回されているように思われた。韓国の保守系新聞は、盧武鉉氏とその周辺に「反米左翼・アカ」とレッテルを貼り、伝統的保守主義に寄り集って反盧武鉉キャンペーンを張っていたのである。2002年の9月に小泉首相が訪朝し、金正日国防委員長が日本人拉致の事実を認めた後、拉致責任追及の反北朝鮮キャンペーンが日本のマスコミを連日にぎわせていた。そのような時、日本の国民は対北朝鮮平和路線の継承を訴えていた候補の当選に当惑したのであろう。
 
盧武鉉氏がまだ当選者であった頃、福岡のアジア太平洋センター(現、福岡アジア都市研究所)から「韓国・新大統領の誕生と日韓関係の展望」をテーマに講演依頼を受けた。盧武鉉氏は、彼の履歴や読書暦からして左翼などではなく、自由と民主主義の信奉者であることを強調した。何よりも北朝鮮問題を解決するにおいて日朝国交正常化が必要であり、更に東アジアの平和体制作りのために日本がイニシアティヴを発揮してくれることを希望していることも強調して伝えた。
 
しかし、日本はそのような盧武鉉氏の期待に反応することなく、むしろ盧武鉉氏を孤立させた。盧武鉉大統領の在任期間中、北朝鮮政策をめぐって日韓関係はこじれ続け、歴史問題まで絡んだ挙句、日韓関係は戦後最悪とまで言われる事態となってしまった。盧武鉉前大統領の現実認識の甘さを指摘するときよく使われる話である。しかし、日韓関係を研究する立場から見ると、北朝鮮問題をめぐる日本への期待も的外れだったとは言いがたいし、歴史問題についての苛立ちも理解できなくもない。さらに、イラクへの兵力派遣や米国とのFTA締結などを強力なリーダシップで推し進めたことも彼が「反米左翼・アカ」でないことを雄弁に物語っている。逆に韓国の急進派から批判される政策も多かったが、私はその点がむしろ盧武鉉氏のバランス感覚を示していると理解していた。結局のところ、私は政治家としても盧武鉉氏に期待し、応援していた。
 
そのような人の死の前で、私に客観的な分析ができるはずがない。そのように装ってもいけない。だから敢えて断っておきたい。彼の死の問題を見る視点において、私は大いに党派的である。
 
当初、私はこの事件から距離を置こうと努力した。しかし、日が経つにつれてそれは私自身への裏切りのように思えた。事件から6日目の日、私は住んでいるアパートの近くに作られた追悼所へ足を運んだ。市内の「大漢門」前の追悼所にもいってみたかったが、時間が許さなかったし、それよりも、一人で静かに追悼したいという気持ちがあった。区民会館に作られた追悼所にもすでに多くの人が駆けつけ、私が訪問した当日も、常に3-4人が並び追悼の列が中断することはなかった。献花し黙祷し、そして、喪主として出てきた関係者のほうにいき抱き合った。最後の行動は計画になかった行動であった。抱き合いに行ったというよりは、文句をいいにいったというのが正確であろう。文句をいおうとして出てきたのは「しっかりしてくれ」という言葉だった。その瞬間、涙が急に出てきた。自分でも予想できなかったことなので当惑した。何年間も人前では泣いたことがなく、泣くことを忘れてしまっていたので、どうしたらいいのか分からず、慌ててその場から逃れるように出てきてしまった。
 
次の日、国民葬が行われた。昼食の約束があり、ソウル市役所前の市民広場で行われた路祭には途中からしか参加できなかったが、あの群集のなかで私が確認したのは、「平和」と「民主主義」の危機を鋭く感じている多くの市民が、自発的参画の意味をようやく自覚し始めたという事実である。今の政府がその意味を過小評価し、このような動きを公権力で抑えて乗り切ろうとするなら、韓国の悲劇はここで終わらない。路祭からの帰り道、悲劇を繰り返さないために私に何ができるか、ずっと考えていたが、答えは簡単ではないようだ。

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<南基正(ナム・キジョン)☆ Nam Ki Jeong>
1988年ソウル大学外交学科卒業。1991年来日、東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士論文は「朝鮮戦争と日本―基地国家の戦争と平和」(2000年)。韓国・高麗大学平和研究所責任研究員、東北大学法学研究科教授を経て、現在、韓国・国民大学国際学部副教授。戦後日韓関係を含め、現代東北アジア国際関係に関する研究を行っている。SGRA研究員。著書(共著)に『日韓の共通認識―日本は韓国にとって何なのか?』(2007年、東海大学出版会)など。
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2009年6月24日配信