SGRAかわらばん

  • 2009.01.27

    エッセイ185:于 暁飛「ホジェン族の少女(その3)」

    バスの警笛に私は目覚めた。街津口に着いたのだ。乗客は降り始めた。今日はフェイフェイの姿が見えない、私が前もって具体的な時間を電話で言わなかったためだ。夏場の町は冬場と比べると、活気が多く、道端で数人が屋台をならべ、スイカや瓜を売るもの、自家作の野菜を売るものがいる。村に唯一軒の売店も開いていて、中を見ると生活用品が乱雑に並べられている。道を行くとすぐ尤文蘭の家についた。彼女はオンドルの上で魚皮の服を縫っている。聞くと、街津口でホジェン族の魚皮工芸品展覧会があるので、展示するために用意しているのだという。話しているうちにフェイフェイが外から駆け込んできて、あえぎながら「同級生の家に遊びに行って帰ってきたらもうバスは着いていたの」と言う。   半年も見ないうちにフェイフェイは美しい娘になった、身に着けているものは全て私が冬にあげたものだ。短いジーパンをはき、肩紐のついたシャツを着ている。「あら、お洒落な女の子だね」と驚いて言った。この着こなしは、東京の最新の流行だ。彼女の祖母尤文蘭はいう。「夏になって、この服をきてから、着替えようとしない。毎日この格好なの」。私は知っている。田舎の人は毎日服を着替える習慣がない。習慣がないと言うことは、経済的余裕がないことである。一人が四季を通じ数着の衣服しかもたず、毎日着替える余裕がないのだが、フェイフェイがこの服をどんなに気に入ったかということも解った。   私が最も知りたいことはフェイフェイの高校進学のことだ。彼女は、発表はまだだと言うが、できは悪くなく、見込みがないわけではなさそうだ。私は慌てて「高校へ合格しなかったら、大学にもいけなくなるのよ」というと、彼女は何も言わない。私もそれ以上聞けず、発表を待つしかない。   仕事の時間以外は、いつもフェイフェイと一緒にいた。私たちは川辺の釣魚台へ行き、山里のホジェン族の郷土園をみた。そこには、ホジェン族のいろいろな伝統的な生産生活用具から民族習慣を写した写真などを展示している。ホジェン族の伝統的な魚皮工芸品は、観光客に売るためである。   フェイフェイは言う。「高校に合格できなかったら、川辺で民族工芸品店を開きたい。きれいなお店を開いて、祖母が持っている写真や、作った魚皮服や、魚皮を切り張りにした絵などいろいろなものを並べるの。日本にも持ち帰って、皆に見せて」と希望に満ちた目で言った。しかし、彼女は一寸考え込んでから言う。「もし合格しても、高校へ行けるかどうかもわからない」私はそれを聞いて一寸つらくなった。   夜尤文蘭にたずねた。「高校へ入学すると一年にいくらかかるの?」彼女はいう。「小中学校は義務教育だけど、高校は自分で沢山お金をださなければならない。村には高校がないので、同江市へ行って勉強しなければならないから、学費以外に、寄宿と食費を加えると、一年に1万元位かかる。いま彼女の母が政府の援助でテンを養殖しているが、まだ利益がでない」。私は、もしフェイフェイが合格したら、私が学費を出してもよいと思った。   翌々日、尤文蘭はフェイフェイに一通の手紙を渡して「見てごらん」という。私が見ると同江市のある高校からの通知書である。「フェイフェイは合格した!」私は興奮して叫んだ。しかしフェイフェイは意外に思ったのか、ただ微笑でいた。外出したとき、村の道で、フェイフェイのお母さんが数人の女性と立ち話をしているのを見つけた。私は急いで彼女に「フェイフェイが合格したよ」と言ったのだが、彼女の表情は変わらず、「自分とは関係ないよ」というような感じで「そう」と言っただけだった。私は戸惑った。まさかうれしくないことはないだろうに?都会の母親ならば、待ち望んでいたことでないか?   尤文蘭一家は間もなく開かれる展覧会の準備に忙しく、フェイフェイも例外ではない。合格したことはもう話さなかった。卒業までまだ日がある。私は一週間の調査を終えて、あわただしく街津口を離れた。   街津口の後、長春に行き満州族関連の資料収集の仕事をした。長春では、甥の家に泊った。その夫婦にはフェイフェイと同年の女の子チンチンがおり、彼女も高校受験である。私が行ったとき、通知がきて、比較的良い高校に合格し、家族全員喜んだ。夏休みになり、高校も決まったのに、チンチンは毎日朝早く出て夜帰るという忙しさだ。朝早く父親が車で彼女を送り、夜母親が車で迎えに行く。私は高校課程の補習塾と知り、やっと事情がわかった。高校入学後学業について行けないことを心配して、このような補習塾がある。余裕のある学生はほとんど皆通う。高校の競争率はさらに高くなり、遅れをとると大学合格に決定的に不利になる。学生ばかりでなく、親たちも緊張する。都会の子供にはどんな休みもない。普通の学校の学習以外に、やり尽くせない宿題をしなければならない。親も子供に、ピアノを習わせたり、外国語を学ばせたり、多く習い事をさせ、このような学習塾はますます多くなる。   私は、フェイフェイのことを思い出した。高校始業も近いから、彼女も決めなければならない。電話をすると、尤文蘭の声だ。すぐにフェイフェイのことをたずねた。「開店資金を準備するため、フェイフェイはハルビンへ働きに行った。今レストランでウエイトレスをしている」という。私は言葉を失った。その年、村では10人の子供が高校に合格したが、誰も進学しなかったという。   翌日、成田へ向かう飛行機は予定通りに出発し、間もなく海に出た。空と海は一面紺碧であったが、私の心は重かった。   ----------------------- <于 暁飛(う・ぎょうひ)☆ Yu Xiaofei> 2002年千葉大学大学院社会文化科学研究科より学術博士を取得。現在日本大学法学部准教授。専門分野は文化人類学、北方民族研究。SGRA会員。 -----------------------   于さんのエッセイの前半は下記URLよりご覧いただけます。   于 暁飛「ホジェン族の少女(その1)」   于 暁飛「ホジェン族の少女(その2)」   現地の写真  
  • 2009.01.20

    エッセイ183:于 暁飛「ホジェン族の少女(その1)」

    2008年8月、私は夏休みを利用して、ホジェン(赫哲)族居住地黒龍江省街津口村を訪れた。1999年にホジェン族現地調査を始めてからこれでもう10数回になる。今回の調査の目的はホジェン族の夏季漁業の状況を知ることである。   バスは松花江に沿い三同国道を飛ぶように走る。いつも来た道で、両側は一面見渡す限り大豆ととうもろこしで、緑は濃くつやつやと光り、今年は豊作であることを人々に示していた。私が来るのは夏か冬なので、一面の緑でなければ、一面の雪である。バスが揺れるたびに、この前の冬に来たときのことを思い出し、すぐにでもあのホジェン族の少女に会いたいと思った。   あの冬も、同じようにこの国道であった。気温は昼でも零下20数度、郊外に着くと白く霞んでいて、全て白い雪で覆われていた。とうとうと流れていた松花江、黒竜江は巨大な銀色の竜のように、北方大地に静かに冬眠している。バスは松花江とアムール河の合流点に着くと、それから30分走り、街津口村に駆け込んだ。   バスを降りると、すぐ目に飛び込んできたのは、私が思い描いていたあの顔、霜焼けで赤くなった顔が白い雪に照らされて、まるで一輪の牡丹のようだ、「フェイフェイ、迎えに来てくれたんだ」と言い、私は忽ち寒さを忘れて、フェイフェイと抱きあった。「あなたが迷うのではないかと、おばあさんが私を迎えによこしたの」。私は笑い出した、その街津口村には一本の道しかなく、入り口から山里まで一直線にはしり、丘を越すとアムール河である。余りに簡単だが、それでも私が迷うかもしれないというのは、家がみな同じ形で、特にここ数年の間に建てられた新しい村の住宅は、造りも全て同じで、そのため来るたびにあちこち探してやっとたどり着くからである。   フェイフェイは、ここ10年私が調査の対象としている尤文蘭の孫娘である。1999年の冬以来、ホジェン族の調査のたびに、尤文蘭一家と非常に懇意にし、私を家族の一員として扱ってくれる。私は、街津口に行くたび、家に帰ったように感じる。そのときは、フェイフェイがまだ小学校に上がる前で、彼女の母は離婚して、再婚したので、それ以来ずっとフェイフェイは同じ村に住むお祖母さんと一緒に暮らしている。   フェイフェイは非常に可愛い子で、肌が白く目が大きい。髪と瞳は少し黄色みがかり、まるで西洋の人形のように、可愛い。私はいつも彼女にこう言う。「あなたには、どうしてロシアの血が混ざったのかしら。」フェイフェイは歌が好きで、踊りが好きだ。暇があると腰をまげたり、脚をあげたりして、体がとても柔らかい。彼女が踊っているのを見るたび、頑張りとおすよう彼女を励まし、大きくなったら北京へ行き、中央民族大学に入り、スターになり、ホジェン族の歌を歌い、ホジェン族の舞を踊りなさい、そのためには、一生懸命勉強しなければねと勧めた。フェイフェイはそのたびに澄んだ円らな目を輝かせ、頷くのだった。このことは、私たち2人の約束のようになり、いつしか私の希望となり理想となった。フェイフェイを外の世界に出してあげれば、スターとしての素質を持っているから、将来必ず大スターになる。このまま埋もれさせてはいけない。   この山紫水明の里の大自然の懐に包まれ、フェイフェイは五穀雑穀を食べながら、天真爛漫に成長した。今、私の前に立つフェイフェイは、私が日本から持ってきて彼女に与えた赤いダウンコートを着て、ジーンズを穿き、非常に垢抜けしており、東京原宿の街中を歩かせても、誰も彼女を鄙びた中国辺境の村の娘とは思わない。私は行くたびに自分の不要になった衣類を持って行き、彼女らに与えた。私は、所属している渥美財団の新年会にはできるだけ参加している。皆さんと顔を合わせるほか、不要になった衣類のリサイクルコーナーがあるからだ。実際のところ、いくつかは私も好きなブランド品もある。そのときは、私はフェイフェイのため、似合いそうな洒落た衣服を数着選んだ。これらの素材とスタイルの服は、この鄙びた村には見られず、買おうとしても買えず、また買う余裕も無いから、ちょうど良いお土産である。(続く)   ----------------------- <于 暁飛(う・ぎょうひ)☆ Yu Xiaofei> 2002年千葉大学大学院社会文化科学研究科より学術博士を取得。現在日本大学法学部准教授。専門分野は文化人類学、北方民族研究。SGRA会員。 -----------------------  
  • 2009.01.16

    エッセイ182:趙 長祥「生活の態度–達生」(庄子心得シリーズ③)

    ------「庄子心得」シリーズについて------------   中国では、2006年に「学術超男と学術超女」の話題がメディアに取り上げられ、国中に宣伝された。中国の中央テレビ(CCTV)で放映されたのは、有名大学の教授達が、これまで非常に難しいとされていた国学(中国古典文学)を易しく大衆に解説し、啓蒙する番組である。なかでも、「三国誌」を解説したアモイ(厦門)大学教授の易中天氏(男性)と、中国古典書のひとつである「庄子」を解説した北京師範大学教授の于丹氏(女性)は、それぞれの的確な理解と簡潔明瞭な解説を以って、中国で一躍有名になった。テレビ番組は本に纏められ、それぞれ「品三国」「庄子心得」と名づけられてベストセラーとなった。これまで中国の大学の先生たちは、黙々と研究や教学に努め、マスメディアにでることなく、スーパースターとは全く無縁だった。しかし、今や、学者も国学解説によって学術超男と学術超女となったわけである。   国学が復興したといわれる現在の中国であるが、その原因を分析すると、改革開放30年近くの歳月を経て、徐々に豊かになっている国民は、物質生活だけでなく、精神的な支えも求めるようになったといえるだろう。豊かな中国の古典文学を、現在起きている身近な事象に引き寄せ、易しい説明を加えることによって、金儲けと出世をめざして常に競争に晒され、負組みに陥ることへの恐怖心から常に頑張って緊張している大多数の国民の心を癒すものとなったである。   私は、上海の企業での仕事を辞めて学界に戻ってから、時間的に多少余裕が出てきたので、上述の「品三国」と「庄子心得」を読むようになった。特に、于丹氏によって解説された「庄子心得」における、彼女の独自のロジックからたくさんのヒントを得、少しずつ感想として書き出し、ブログに載せるようになった。そのいくつかを、SGRAかわらばんの場をお借りして、皆様とシェアさせていただきたい。このシリーズが皆様の癒しとなり、テンポの速い生活のなかでも、ときどき空気に漂うスローライフの淡い……淡い香を感じていただければと思う。 ------------------------   ● 生活の態度--達生   昨年の11月で、中国は改革開放政策の実施以来、30年の歳月が過ぎ去った。連日、テレビ、新聞、ネットなどの各種メディアはこの話題を取り上げ、さまざまな形で過去30年の中国の改革の成果を顧みた。なんら疑問なく、過去30年間に中国は、かつて世界銀行に「東アジアの奇跡」と呼ばれたNIESやASEANの成長を凌駕するほどの急速成長を遂げ、人々を錯乱させるほど劇的に変貌した。このような急変化をもたらしたプロセスのなかで、人々は経済成長の速いテンポに共振し、経済成長がもたらした成果をエンジョイすると同時に、大きなプレシャーも背負って、時には迷走しながらも、人生を潜り抜けていく。   アメリカのサブプライムをきっかけに、世界経済に大きな打撃を与えた金融危機は、人々の生活に大きな妨げをもたらしている。輸出依存の強い中国経済も例外ではない。マクロ経済は比較的に健康的な軌道に乗って走っているが、ミクロ面では、特に、輸出依存型の中小企業に多大な損失をもたらし、部分的ではあるが壊滅的な打撃を与えている。長江デルタ、珠江デルタの労働密集型企業は多数破産している。さらに、一般市民は株市場に依存する人が多く、株市場の連月暴落(SHANGHAI STOCK EXCHANGE INDEX:6000ポイントから2000ポイントまで)も人々の心に大きな動揺をもたらし、自殺した人さえいた。   急速に市場化が進む中国では、隣の人が日々変わり、町の様子も日々変わっている。こうした発展は確かに経済によい影響や成果を出しているが、激しい変貌についていけない人もいっぱいいる。自分の明日はよくなるであろうと思っていても、実際はどうなるのだろうかと戸惑い、生活面で挫折や曲がり角にぶつけると、悲しい事件の発生も避けられない。   経済発展を遂げつつある現代中国の一面である。さまざまな問題を抱えながらも、人々は懸命に生きているのも事実である。しかし、こうした問題は中国だけでなく、世界のほかの国も面しているはず。そして、現代中国だけでなく、古代中国人も同じであったはず。こうした問題に面して、中国古代の人々はどう生きぬいてきたのかを、庄子は、自分の人生経験をもとに、さまざまな知恵をわれわれに教えている。その一つは、生活に対する態度である。   「庄子」全章を読むと、庄子の生活態度を二つの文字にまとめることができる。それが「達生」である。「達生」とは、生活やいのちに対する闊達さである。庄子の言葉で言うと、本当の「達生」とは、「達生之情者、不務生之所無以為」である。その意味とは、「本当に生命の真相を理解している人は、いのちに必要でないものを追求しない」ということである。すなわち、経済発展につれて、豊かになっている人々は、従来の生活スタイルを変え、高品質・健康的な生活スタイルを追求すると同時に、生活やいのちに闊達の態度が必然となってくる。寛容な心を以って、日々生活に面し、自分の目標を追求していくことが大事であり、「生年不満百、長懐千歳憂」(注釈:生きている歳月が百年に足りないのに、常に千歳の憂いを抱えている、すなわち、日々心配事ばかりを考えていることである)の状態にならないように努力していくことが重要である。   当然、常に闊達な生活態度を以って、日々履行していくのも容易なことではない。というのは、人間社会では、さまざまな人が生存し、さまざまな考えを持ち、生活の場面で日々ぶつかっていくのだから、常に摩擦を生じ、不平不満がでてくる。たまには、大変腹が立つことにもぶつかるし、どうしても理解できないこともでてくる。いちいち平常心で対面していくのも難しい。それが人間社会の正常態である。つまり、「人生不如意事十之八九」である。   とはいえ、困難だからできないことでもない。庄子の生涯では、ずっと「達生」を体験し、常に寛容な心を以って苦しい生活に面し、いろんな知恵を現代の人々に残していた。「達生」とは庄子の生活態度である。現代人にとって、どれだけ闊達で豊かな人生を得られるのかは、人それぞれであり、人の成長環境、質、理解力などで決まると考えられいる。しかし、毎日、その生活態度を心に銘記し、履行していけば、自分の理解できる闊達人生を得られるはずだ。   ------------------------------ <趙 長祥(チョウ・チョウショウ) ☆ Andy Zhao> 2006年一橋大学大学院商学研究科より商学博士号を取得。現在、中国海洋大学法政学院で講師を務め。専門分野は企業戦略とイノベーション、公共管理と戦略。SGRA研究員。 ------------------------------   庄子心得シリーズ①「独対寂寞、静観吾心」   庄子心得シリーズ②「心中の田園」  
  • 2009.01.13

    エッセイ181: シム・チュンキャット「罰金大国シンガポール」

    シンガポールを紹介する本やウェブサイトなどでは、必ずといっていいほど「Singapore is a Fine Country!」という言葉が目につきます。平常時なら「天気がいい」とか「気持ちがいい」もしくは単なる「美しい」という意味をもつFineなのですが、TPOを変えれば、なぜか「罰金」という意味に変貌してしまうのです(ときに英語も日本語に負けないぐらいややこしいですね)。さっきの言葉に戻りますが、つまり「シンガポールは美しい国なのですが、罰金大国でもあります!」ということに対するシンガポール人の一種の自嘲的な皮肉です。シンガポール以外の国なら「あ、すみません、ついうっかり…」ということとして片づけられそうなことでも、シンガポールではことごとく罰金の対象とされてしまうのです。   ゴミやタバコのポイ捨て、路上でのタン吐き、冷房の効いている場所での喫煙や、交通規則を無視しての道路横断などの「けしからぬ」行為に罰金がつくことぐらいなら、シンガポールではもう小学生でも熟知している常識です。そのほかに、罰金制度のマイナー部分では、例えば公園の花を摘むと罰金(花は花屋で買ってください)、カラスやハトなどの野鳥に餌をやると罰金(そんなに鳥が可愛いのなら、ペットとして家で飼ってください)、トイレで水を流さないと罰金(誰がどこで見ているのかは知りません)、地下鉄やバスの中で飲食することはもちろん、可燃性のものやドリアンの持ち込みでも罰金(にんにくと同様、それ以上に個性的な臭いをもつドリアンの場合でも、一緒に食べたなら問題はないのですが、周りに一人でも食べていない人がいたら、その人の鼻は間違いなく地獄に陥ります。そう、まさに酸鼻の地獄!)などの罰則もあります。    とりわけ、地下鉄での罰則については、僕にはちょっとほろ苦くも恥ずかしい記憶があります。時はずいぶん遡りますが、シンガポールで初めて地下鉄ができた頃、当時青春真っ盛りの僕は日本で花の大学生生活を送っていました。それである年ひさびさに帰国した僕は、ずっと気ままに東京の電車網を使っていたせいもあり、当然ながらシンガポールの地下鉄の壁に貼ってある罰則に圧倒されてしまったわけです。これもダメあれもダメで、つまるところシンガポールの地下鉄は乗るだけの乗り物です。「フン、アホくさ、こんな国を出ておいて良かった」と自分の国をバカにしたように鼻で笑った僕にはすぐそのツケが来ました。ガムや飴を食べることも原則的にできなかったので、退屈していた僕は普通に本を取り出して読書を始めました。それから間もなく周りの冷たい視線を感じ取った僕はハッとしました。まさか、ノー・リーディング!?と僕はその場でいきなりいつものクールさを失って慌てて本をかばんの中に突っ込みながらも、警戒しながらきょろきょろ周りを見回しました。「ナニをやってんの、こいつ?」と周りの空気がさらに冷たくなったのは言うまでもありません。本当のアホは僕でした。周りの人々が僕を見ていたのは恐らく僕にひげがあったのと(シンガポール人は一般にひげを生やさない)、乗る距離が短いから普通は地下鉄の中で読書をしないためなのでしょう。とにかく、学力重視のシンガポールが地下鉄でのリーディングを禁止するはずがありません。このエピソードは、罰金制度がいかに身に染みついていて、またいつも誰かに見られているかもしれないと思う自分を見事に映し出したものでした。本当に恥ずかしいというか、情けないです。でも、この話を友達に話したら、「お前だけだよ!」と皆の失笑を買っただけでした(笑)。   そしてシンガポールの罰金制度の王様といったら、さきほども少し話に出ましたが、それはもうなんてったってチューインガムの禁止令なのです。なんでチューインガムがシンガポールにそこまで憎まれなければならないの?という質問をよくされますが、う~ん、大した理由はないですよ。まあ、でも視点を変えれば大した理由もあったかもしれません。    時はまた遡りますが、僕がそれもまた青春真っ盛りの高校生だった頃まではチューインガムはシンガポールでも普通に噛まれていました。でも噛んだあとのガムを、ポイ捨てはダメなわけですから、シンガポールの若者はこっそりとあちこちに貼り付けたりしていました(もちろん僕はやりませんでしたよ)。そしてそれがエスカレートしてしまって、その後できたばかりの地下鉄の座席の裏やドアの隙間に突っ込んだり、団地のエレベーターのボタンに貼り付けたりするケースが続出して、そのため地下鉄の運行に支障を来したり、またエレベーターのボタンがベタベタと汚くて押せないという苦情が増えたり…とにかくガムは「公害」そのものだったわけです。もちろん、悪いのはそのような悪質ないたずらをした若者であり、決してガムではありません。でも美しい国を作ることを目指してきたシンガポールにとって、ガムは目障りでしかありませんでした。それで「ガムを噛むな!」という禁止令が90年代の頭に出され、一日にしてガムはシンガポールから姿を消し、今日に至ったわけです。    そしてガムの大量持ち込みには最高罰金である1万シンガポールドル(2008年12月現在、63万円ぐらい)がついてしまいました。まあ、「大量」はいったいどれぐらいの量を指すのかは明文化されていませんが、僕が捕まったときの経験からいうと、8箱ぐらいですかね。そうです、カミングアウトします。僕はその昔ガムの密輸で警察に連行されたことがあるのです。うそではありません。僕は前科もちです。はい、説明しますね。    ガムは、シンガポールにはもうありませんが、国境の大橋を渡ればマレーシアにはたくさんあります。そしてあるとき、僕は8箱のガムをシンガポールに持ち込もうとしましたが、またひげのせいか税関で足を止められ、かばんの中身をチェックされてしまいました。「これは何ですか」と税関の捜査官。「ガムですね」と潔く正直に答えた僕。「ついてこい!」とその後僕は連れていかれた冷房の効きすぎの小部屋で名前とその他の個人情報を書かれました。「1万ドルもってないよ!」と叫ぼうとしたところ、「初めてだから、見逃してやるよ」と捜査官は一瞬にして天使になりました(まあ、正確にいえば、捕まったのは初めてでしたが、ガムを「密輸」したのは数回目でしたけどね)。    以上が、僕がシンガポールの法に触れた最初で最後の体験です。本当です。この僕の前科に関するエピソードからもわかるように、シンガポールの罰金制度は確かに細かくてうるさいのですが、僕の周りに罰金を取られたという人はそんなにいないです、というか、いないです。そのアバウトさというか、ゆるさがシンガポールも結局東南アジアの国だなぁと思わせるところです。また、敢えて法を犯すようなことを皆はしないというか、要はルールをきちんと守り、「けしからぬ」行為をしなければいいわけです。    ただ、ガム禁止令のせいでシンガポールの今のほとんどの子どもがガムも噛めないという現実が少し寂しいと思います。例えば、僕が日本から「少量」のガムをシンガポールに持ち込み、甥っ子とか姪っ子に与えようとしたら、いつも兄夫婦と弟夫婦に慌てて止められたりします。なぜなら、甥っ子や姪っ子は噛んだあとのガムを吐き出すことを知らず、飴だと思ってつい飲みこんでしまうからです。ガムを噛めなくてもいいと兄夫婦と弟夫婦は言いますが、ガムを噛めずに一生を終える人生なんてやはりどこか寂しい気が僕はします。   ----------------------------------- <シム・チュンキャット☆ Sim Choon Kiat☆ 沈 俊傑> シンガポール教育省・技術教育局の政策企画官などを経て、2008年東京大学教育学研究科博士課程修了、博士号(教育学)を取得。現在は、日本学術振興会の外国人特別研究員として同研究科で研究を継続中。SGRA研究員。著作に、「リーディングス・日本の教育と社会--第2巻・学歴社会と受験競争」(本田由紀・平沢和司編)、『高校教育における日本とシンガポールのメリトクラシー』第18章(日本図書センター)2007年、「選抜度の低い学校が果たす教育的・社会的機能と役割」(東洋館出版社)2009年。 -----------------------------------  
  • 2008.12.30

    エッセイ180:今西淳子「異文化に学ぶ」

    おかげさまで、2008年の1年間に、127号から221号まで、SGRAかわらばんを94回配信することができました。エッセイを書いてくださった皆様に、そして、そのエッセイを読んでくださった大勢の皆様、時にはコメントを送ってくださった皆様に、心から御礼申し上げます。そして、SGRAエッセイはどなたにも書いていただけますので、皆様からの投稿をお待ちしています。新年は1週間お休みをいただき、1月9日(金)から配信いたします。 皆様、どうぞよいお年をお迎えください。   今年最後のエッセイに、異文化に接して心に残ったことをお伝えします。   ○イギリスに学ぶこと   ゆるやかな丘が続き、羊の群れが何故か冬でも緑の牧草を食んでいる。その隣の柵の中には防寒用の毛布をかけたサラブレッド。遠くの丘の上のすっかり葉が落ちた木々の向こうに夕日が沈んでいく。れんが造りの農家がひっそりと固まって建っている。典型的なイギリスの農村風景は完璧に美しいと思った。   2008年2月、ニューカッスルで開催される会議の前に、SGRA研究員のブレンダさんをロビンフットで有名なノティンガムに訪ねることにしたので、電車でイギリス国内を移動することにした。事前に購入するとかなり安いので、日本からオンラインで切符を購入した。本当に便利だ。   イギリスの駅の自動発券機に予約番号をいれると発券される仕組み。ヨーロッパからの電車ユーロスターが着くロンドンのセント・パンクラス駅からノティンガムまでの電車は快適だった。だけど、快適はそこまで。ノッティンガムからラグビー経由の電車はキャンセル。何の表示もないので、切符売り場に行って尋ねて、その代わりに乗りなさいといわれた電車に乗って、別の駅で乗り換えることになったが、その次の電車もキャンセル。そこでも何の表示もないので、駅員に聞くと、次のエジンバラ行きに乗りなさいと、特別のことではないように言われ、指定されたホームに次にきたがらがらの電車に乗って適当に空いている席に座って、「これでいいのかなあ」と思いながら、まわってきた車掌さんに前に買った切符を見せても、別に何の質問もなし。これって当たり前?   こんな思いをしたので、ニューカッスルからロンドンへの帰りは飛行機を使うことにした。オンラインで切符を購入し、前日には航空会社から「予定通りですか?オンラインチェックインをしますか?空港への交通は大丈夫ですか?」という非常に親切なメールまできたので、指定座席のはいった搭乗券をプリントアウトして、あとは空港へ行くだけ、準備万端。ところが出発4時間前になってメールが届く。「あなたのフライトはキャンセルになりました」と。素晴らしいオンライン・システムもいいけど、インフラ自体をどうにかしてほしい!   まだ切符があったので、もとの計画通り電車でロンドンに戻ることにした。ニューカッスル駅には予定通りの電車が待っていたので一安心。電車も予定時刻に発車しほっとした時、「この電車は途中で線路の工事のために、その区間はバスの振替になります」とのアナウンス。そしてその駅に着いたのだが、アナウンスは「この電車は○○行きになります」というだけ。おそらく戻るという意味なのだが、旅行者にはそれもよくわからずとまどうばかり。でも殆どの人が降りるので人の溢れるホームに降りて、人の流れに沿って出口へ向かう。階段を下りて地下道をくぐって、また階段をあがって駅前の広場に出たのだが、その光景は忘れられない。そこには、おそらく数百名の人が振替バスに乗るのを待っていたが、何の表示もなく、係員もいないのに、整然と列を作って並んで待っているのだ。ジグザグ状の列だが、ロープがはっているわけでもないのに、誰ひとりショートカットをしようともしない。誰ひとり文句を言わず、静かに並んでいる。これって、本当に凄いと思った。   冒頭の完璧に美しいと思った農村風景は、その振替バスの中から見たものだ。この美しさとこの不便さがイギリスだと思った。このように皆あきらめの境地になって文句も言わないのは、いつまでも物事が改善されないという悪循環を招いているかもしれない。それにしても、あの状況でひとりも列に割り込もうとしない社会規範意識の高さはイギリスに学ぶべきだと思った。   ○イタリアに学ぶこと   2008年8月、会議は、花の都フィレンツェの町の中心部、聖マリア大聖堂からすぐ近くの、有名なルネッサンスの建築家ブルネルスキの設計した、世界で一番古い孤児院といわれる建物の中で行われていた。最終日、午後3時に終わるはずの会議は、延々と続き、や~っと終わったのは午後7時。15世紀の建物ゆえ、大会議室に持ち込んだレンタルの冷房は殆ど効かず、猛暑の中の長い会議で出席者は疲れ果てていた。   でも、これから最後のお別れパーティーが、建物の前のピアッツァ(広場)で開催される。皆ドレスアップしなければならない。5時間も遅れて一体パーティーはどうなるのだろう、お料理はどうなっているのだろうと心配になる。ところが、イタリア人のホストは、全くあせらない。「皆さん、急がなくても大丈夫。ゆっくりシャワーをして、準備ができたら広場に集まってください」とのアナウンス。この一言で、皆どんなにほっとしたことか。何時に集まれという指示はなかったけど、人々は三々五々集まりはじめ、食前酒を飲みながら会話を楽しみ、いよいよパーティーが始まったのは9時を過ぎていたかもしれない。それからもパーティーは続き、真夜中の12時ころにはまだダンスのまっ盛り。フィレンツェの町の真ん中の公共の広場の話ですよ。   最初に送られてきた案内状には、「建物の前の広場の階段には、ホームレスさんが寝ているかもしれないから、踏みつけないようにご用心」とあった。ところが、会議に参加した若者たちは、毎晩その広場で朝までたむろしていた。私のホテルの部屋まで、毎日明け方まで騒ぎが聞こえてきていた。あまりの煩さに、ホームレスさんたちは、会議の期間中、この場所からでていったらしい。「おかげで、もめごとがおきなくて良かった」とイタリア人のホストが笑っていた。逆に朝になると若者たちが残した空きビンなどが問題であった。でも、イタリア人のホストは、そこでジュニアたちを呼びつけて叱るようなことはなかった。次の日のニュースレターで、Before と Afterの写真を載せただけだった。   念のために付け加えると、イタリア人のホストたちは本当に働き者だった。そして会議も時間通り、スムーズに進行していた。最終日の会議が伸びたのは、会議の内容が複雑で全部こなすための手続きに時間がかかったから。イタリア人のホストがルーズだったわけでは全くない。会議の参加者が気持ちよく過ごすことを最優先するホスピタリティ精神、参加者の要求に対して、いつも明るく、ユーモアを交えながら、やや控えめに接する態度、そして、何か不都合がおきた時のおおらかで柔軟な対応は、イタリアに学ぶべきだと思った。   ------------------------------------------ <今西淳子(いまにし・じゅんこ☆IMANISHI Junko> 学習院大学文学部卒。コロンビア大学大学院美術史考古学学科修士。1994年に家族で設立した(財)渥美国際交流奨学財団に設立時から常務理事として関わる。留学生の経済的支援だけでなく、知日派外国人研究者のネットワークの構築を目指す。2000年に「関口グローバル研究会(SGRA:セグラ)」を設立。また、1997年より異文化理解と平和教育のグローバル組織であるCISVの運営に加わり、現在英国法人CISV International副会長。 ------------------------------------------
  • 2008.12.26

    エッセイ179:葉 文昌「上海旅行で感じたこと」

    中国に長期出向中の友人を訪ねて、2泊3日で上海に出かけた。中国の旅は実に十年ぶりであり、前回は、民間レベルでは言葉が通じるという油断から恐喝紛いの商品の押し売り、官レベルでは日本にある中国大使館で発行された台湾同胞証が帰国間際の出国審査で偽造と疑われて別室で尋問を受けるなど散々な経験を受けたので、恐る恐るの中国旅行となった。   午後1時過ぎ、マカオ経由の飛行機は5時間かけて上海浦東機場に到着した。空港はとても現代的で、事務員の服装も亜熱帯的台湾のそれよりしっかりしていた。一方で東アジア随一の空港であるにも関わらず利用客はまばらだった。不景気のせいであろうか。空港からリニアモーターカーを経由して市内の地下鉄網につなぐことができた。市内に出ると高層ビルが目立ち、近代都市の様相を見せていた。   早速上海の高級団地にある友人宅に向うのであるが、団地の庭には7、8人程度の子供が一緒に遊んでいた。その光景に少し意外性を感じた。中華圏ではあまり子供を外で遊ばせないからである。案の定、それは全部日本人であった。恐らく親は傍のコーヒーショップで我が子を見守っているのだろう。中国人の親が子供を外に出したがらないのは大事な一人っ子を外で遊ばせるのは危険と思っているのと、家で勉強させたいと思っているからである。台湾でも切手集め等、静的な趣味がいいとされており、「切手集めをする子どもは悪い子どもにならない」とさえ言われる。このような環境の中で、趣味も情熱も社会性もない、灰色に近い国民に育っていくのであろう。つい最近韓国、日本と台湾で活躍しているアメリカ人から、韓国人はアグレッシブ丸出し、日本人は表面的には礼儀正しいが内的にはアグレッシブ、そして台湾人はとてもおとなしいとの印象があると言われた。もっともである。台湾の家庭教育は”Boys be mild”なのだ。これは中国も同じで、都市化への人口集中が進むとともに深まっていく可能性がある。   翌日は中国のベニスと言われる周荘へ行った。ついその前に台湾の九分に行ったのであるが、九分は殺風景な建物群の中に風情ある建物がポツンポツンと残されている状況であった。殺風景の方が多いので嫌な気分の方がいい気分を上回る。だから一日回ると多少まいる。一方で周荘は殺風景な建物は一つもなく、だから数百年前の中国にタイムスリップした気分に浸ることができて楽しかった。台湾の国民は台湾中国直通便で中国人観光客が麗しき島(Formosa)に殺到して経済効果をもたらすことを目論んでいるようだが、絵に描いた餅である。台湾のメディアは国民に真実を伝えて欲しいものだ。グローバル化によって国内の選択と集中がこれまで以上に求められるが、台湾の観光地は選択されるべき優位性はない。   夜は上海で一番美味しい上海蟹が食べられるレストランへ行った。台湾でこれまで数回、上海蟹を食べたのだが、未だに2000円に見合う感動を得た覚えはない。接待でよく食べる友人に「美味しいか?」と聞いても「一匹2500円もするのだからうまくないとは言えないだろう」と、答えにならない答えが返ってくる。早速食べてみたのであるが、やはり2500円を使うなら、東京で2500円のお寿司、台北でウチワ蟹の塩焼き1匹食べた方が感動する。恐らくは資源に人口が見合ってないゆえの需給バランスによるものであろう。だから中国では日本的な感覚で「一般的」なものでも日本より高くなる可能性がある。もちろん安いものは安いが、しかし安かろう悪かろうな物をたくさん頂くより、いいものを少しだけでも頂いたほうが感動は大きい。これは台湾でも思うことでもある。因みにショーロンポーは上海料理であるが、台湾の方に軍配が上がった。台湾の中華料理の水準は中国より高い。台湾で選択される部分があるとしたら中華料理であろう。   二次会は飲み屋へ行った。飲み屋にもいろいろあるが、話によると日本人ビジネスマンは人によっては中国で遊びまくっているとのことである。しかし、台湾も豊かになって中国への事業展開が進むと中国で同じことをしているし、お金持ち中国人でやはり同じことをしてる人も多くいるだろう。だから台湾人として「日本人は悪い」とは言えないのである。需要があれば違法でも供給があるので、日本や台湾でもあったように、貧しさから娘を売ることもある。これは強制連行であり、自国内の慰安婦問題である。ジンギスカンがヨーロッパまで侵攻する過程で略奪をくり返したことを二度とおきないように反省させるのはいいが、しかしそれより自国内の進行形の問題にエネルギーを費やした方が社会はよくなる。そしてこのようなことを避けるには自国の経済を他よりよくすることしかないのである。   台湾に居ると、日本のお米、日本のお菓子、とにかく「日本」がつくと台湾のより高級になる。悔しいが、確かに日本の米やビールは台湾のより美味しい。しかし友人から聞く話によると、中国では台湾のお米、台湾の果物、とにかく「台湾」がつくと高級品になるようだ。うれしい気もするが、嫌な気もする。うれしいのは台湾のものを高く評価してくれている人がいることだ。嫌なのは、お隣なのに更に水準が下の人々がいることである。これは近所の国同士で階層構造ができていることであり、地域の安定にならない。将来のアジア地域の安定には中国の発展を望むしかいい方法はないのである。   2泊3日の短い旅行であったが、10年間の上海の目覚しい発展と、友人が中国で楽しく過ごし、ビジネスも発展していることも確認できた。中国に行くことの不安は今後もあるだろうが、次はもう少し長く滞在して違う場所を見てもいいかと思う。   --------------------------- <葉 文昌(よう・ぶんしょう) ☆ Yeh Wenchuang> SGRA「環境とエネルギー」研究チーム研究員。2000年に東京工業大学工学より博士号を取得。現在は国立台湾科技大学電子工学科の助理教授で、薄膜半導体デバイスについて研究をしている。 ---------------------------
  • 2008.12.23

    エッセイ178:範 建亭「上海における国際金融センターの建設と人材導入」

    北京オリンピックは、これまで中国が主催した最大級の国際的なイベントであったが、去る8月に無事閉幕した。もう一つ注目されている国際的なイベントは、2010年に開催予定の上海万博である。万博は上海にとって百年に一度の大きなチャンスであるから、市政府は前々から万全な計画を立てており、近年では都市のインフラ整備などを急いでいる。だが、上海にはさらにもっと大きいプロジェクトがある。それは上海をニューヨークやロンドンのような国際金融センターとして建設することである。2006年に公表された上海市政府の計画によると、2010年までに国際金融センターの基本的な骨組みを構築し、2020年には国際的な影響力を持つ金融都市になるとの目標である。   経済発展における金融市場の役割は非常に大きい。中国経済が急速に発展し、国際的な影響力が向上するにつれ、国際金融センターを建設することは必然的なことだ。だが、中国国内で国際金融センターを目指しているのは上海だけではない。上海以外にも、北京や天津、深センなども目指しているとされている。こうした無計画な話はいかにも中国的だと思うが、上海は中国最大の経済都市であり、また外資系企業をはじめとする金融関連企業が最も集中している地域でもあるから、国際金融センターとしての条件が他の都市に比べて一番整っていると言える。しかし、上海もいろいろな問題を抱えている。中でも最も肝心なのは、金融専門人材が不足していることである。   ロンドン市政府が08年3月に発表した「世界金融センター指数」によると、上海は第31位にランクされている。「優秀な人材と活気のある人材市場」がランキングを影響する重要な要因となっているが、上海には国際的なレベルに達した金融関連の専門人材は一万人未満だという。   人材不足の問題を解決する方法の一つは、自分で育成することである。上海には何十の大学も所在しているが、金融分野における専門的な教育と研究は依然としてかなり弱く、充実してきたのは1990年代後半のことであった。ここ数年は、金融への関心と需要がますます高まっている。私が勤めている上海財経大学では、もうすでに財務や会計、証券、保険、国際金融などの学科が入試の難関となっている。それでも供給が需要に追いつかないから、上海の各大学や大学院が競って金融専門の学生募集規模を拡大しようとしている。中でも一番注目されているのは上海交通大学の「上海高級金融学院」である。   今年の9月に開校された「上海高級金融学院」は、上海市政府が世界に通用するような高級金融人材を育成するために上海交通大学に委託して作った大学院である。高級金融学院への出資金は5億人民元にのぼり、施設や教育内容、教授陣などは海外の一流の大学と同じレベルを目指している。ただし、学部を持たず、主に修士と博士を育成する。5年後には、毎年500名の卒業生を送り出すような規模となるが、それだけではまるで焼け石に水のようで、上海の人材不足解消にはならない。   そこでもう一つ可能な方法は、海外から直接、必要な人材を採用することである。もともと、上海が必要としているのは大学の卒業生よりも金融業界の経験者であり、また欧米の一流金融機関に働いている中国人元留学生がたくさんいるから、その手は前から考えられていた。だが、こうしたエリートたちはあまり母国に戻ろうとしていなかった。給料などの待遇を考えると雲泥の差があるからだ。   しかし、今回の米国に端を発した金融危機は、上海に人材獲得の絶好のチャンスをもたらした。リストラの波が欧米の金融業界に押し寄せる中、上海市金融当局は、底値を狙うつもりで海外の優秀な金融人材を積極的に取り込むと決めた。12月初め、そのための大規模な募集団が上海から出発した。行く先は、ニューヨークとシカゴのほかに、ロンドンも含まれている。募集団には上海に拠点を置く27の金融機関が参加しており、募集人数は約200人規模で、専門分野は銀行、証券、保険、投資信託、資産管理、リスク管理など多岐にわたる。   この数ヶ月で、ウオール街だけで何万人の失業者が出ているから、上海市政府の今回の募集活動はかなり期待できるだろう。しかし、優秀な人材が導入されても、上海に長期的に定住する保証はどこにもない。そもそも、上海市の戸籍の取得は他都市と比較して困難であるため、優秀な人材を引き留める環境が整っていない。元留学生にとっては、その多くが外国の定住権あるいは国籍を持っているから、戸籍制度の影響はあまりないが、子供の教育、医療サービスなどが問題となっている。香港やシンガポールに比べて高い個人所得税も大きな壁となっている。これらの問題だけを考えると、上海がニューヨークやロンドンのような国際金融センターになるまでは、まだまだ時間がかかりそうだ。   -------------------------- <範建亭(はん・けんてい) ☆ Fan Jianting> 2003年一橋大学経済学研究科より博士号を取得。現在、上海財経大学国際工商管理学院助教授。 SGRA研究員。専門分野は産業経済、国際経済。2004年に「中国の産業発展と国際分業」を風行社から出版。 --------------------------  
  • 2008.12.16

    エッセイ177:カタギリ、カノックワン・ラオハブラナキット「タイ情勢とシンボルカラー」

    11月末、タイのバンコクで政権の退陣を求めて国際空港占拠事件が起きました。前代未聞のこの事件の背景をレポートします。    ご存知かもしれませんが、この事件の背景には2つのグループの対立が潜んでいます。 まず市民団体PAD。タクシン元首相に反対するグループです。タクシン政権の政策で職を失った都市部のビジネスマン、利権や権力を奪われた実業家、特権階級、エリート層が支持母体となっています。2007年8月の首相府占拠から始まったPADの大規模な抗議行動は、憲法を修正しタクシン氏の政界復帰を可能にしようとする前政権の打倒を目指すものでした。11月末の空港占拠の大胆な行動もPADによるものです。   もう一つはタクシン元首相の支持派。タクシン元首相が打ち出した貧困層の救済や農村部の振興政策により農村部の支持を集めました。国民の人口の4割を占めると言われるグループで、PADより数の多いグループです。そのため、選挙になればPADが負けてしまうという限界から、PAD側は首相府や今回のような国際空港の占拠行動に出たのです。   ところで、この二つのグループにはシンボルカラーがあることをご存知でしょうか。PADは黄色で、タクシン元首相の支持派は赤になっています。「黄色」は国王の生まれた曜日である月曜日の色で、「赤」はタイの国旗にもある色で、国家を意味しています。テレビでこの2つのグループの集会を見ればお分かりになるかと思いますが、それぞれ黄色いシャツと赤いシャツを着て抗議運動をしています。   この色分けは、抗議運動する人達だけではなく、一般市民にまで広がり、色を使って自分の立場を主張するようになりました。元々タイの人は色を使って自分の信念や気持ちを表す傾向があります。一週間の各曜日にも色があり、月曜日が黄色、火曜日がピンク、水曜日が緑、木曜日が橙、金曜日が青、土曜日が紫、日曜日が赤となっていて、各曜日にその日の色を身につけると運気が上がると信じています。2006年プミポン国王の即位60周年の年には、国王の誕生日が月曜日であることから、敬愛を表すために、毎週月曜日にシンボルカラーである黄色の服を着る習慣が始まり、町中黄色い服に染められ、一時的に黄色い服が品切れ状態にまでなりました。PAD側が黄色をシンボルカラーにしたのは国王への敬愛ぶりを強く表し、そういう主張をしたいからだと考えられます。   対立が高まった11月に、赤いシャツを着て大学に行くと、もしかしてタクシン派なのかと聞かれてしまいました。また、「学者=反タクシン派」という一般的な理解があることから、ある日、勤め先の大学に「爆弾を仕掛けた」という脅迫電話までがかかってきたこともありました。結局ただのいたずら電話でしたが、その事件の後、身の安全のため自分の立場を隠すため、黄色と赤以外の服を着る職員が増えたそうです。    私の勤め先には反タクシン派の人が多いのは確かです。しかし、タクシン元首相を支持する人も少ないながらいます。10月に大規模なデモによる犠牲者が出た時に、学部の教授会の決定により公務員・職員に1週間の喪服着用の推奨期間がありましたが、それに反発して、わざと赤い服を着る職員もいました。これまでにはないタイ社会における対立がシンボルカラーの使用とともにおきています。   しかし、11月末のPADによる国際空港占拠は、極めて異常な行動だと思う人がほとんどです。このことによりPADに対する国民の支持が離れ始めたという感もあります。国の信用と威信を大きく傷つけてしまったPADの行動を非難し、黄色の服を着る人が少なくなったような気がします。また、黄色のシャツを着ている人を嫌って、近寄りたくないという人も増えてきました。最近、平和を訴えるグループが登場し、黄色の代わりに平和を意味する白の服を着ようという動きまで出てきました。   そして、先週、タイの政界にまた新しい動きがありました。憲法裁判所の命令でソムチャイ政権が崩壊したため、野党だった民主党主導の連立政権が誕生する公算が大きくなりました。PAD側にとっていいニュースですが、タクシン派にとっては望ましくない結果になりました。今後しばらくはPADの抗議運動の代わりに赤いグループの抗議運動があるだろうと専門家が言っています。   同僚である日本人の先生にこう言われました。タクシン派ではない民主党政権になったら、しばらく黄色のシャツも赤いシャツも着ないことにしよう。身の安全のため。   この対立はまだまだ続きそうです。タイに遊びにいらっしゃる皆様、服の色選びにご注意ください。   --------------- <カタギリ、カノックワン・ラオハブラナキット(ノイ)☆ Katagiri, Laohaburanakit Kanokwan (Noi)> タイ、バンコク生まれ。チュラロンコン大学文学部学士、筑波大学地域研究科修士修了。筑波大学文芸言語研究課応用言語学博士取得。専門は、言語学、日本語教育。現在、チュラロンコン大学文学部日本語学科助教授。SGRA会員。 ---------------  
  • 2008.12.12

    エッセイ176:太田美行「病院を変えたい」

    今年はどういう訳か病院と縁のある年だった。私のみならず家族の分も含めて内科(3箇所)、外科、眼科、耳鼻科(2箇所)、皮膚科、さらに救急外来と入院及び転院、あげく救急車にも2回も乗ったり。領収書もどっさり。通院した科の名前だけで総合病院ができそうだ。   うんざりする程の病院通いの中で「これは改善して欲しい」と強く思ったことがある。それは病院の内装で、患者視点のものが少ないように感じる。   まず色のお粗末さ。衛生面を重視する観点から白を基調とするのはわかるけれど、どこもかしこも白。そして蛍光灯の白。新しくできた病院だとパールを使ったりして少しは変化もあるけれど、基本的にペンキ塗りの白。これは総合病院や古い個人医院にも多い。見た目が寒々しく、待合室にいると時間が長く感じる上に、緊張感までが加わってくるようだ。夜間、救急外来に付き添いで行き、廊下で待たされた時は周囲の電気も消えて物寂しく、気分の落ち込みに拍車がかかった。また数年前、外科のリハビリ棟にやはり家族の付き添いで行った時、廊下が全て白一色で何とも憂鬱になったことがある。季節は冬。窓から見える風景もロの字の建物に囲まれた枯れ木だけ。リハビリで歩行練習する人達も変化のない同じ所を何度も歩くのは面白くないだろうとため息をついたものだ。   そして待合室に至っては白一色で「他に見るものが何もない」こと。ニセモノでもいいので観葉植物を一つ置いておくことがどれだけ安らぎになるか。できればクリスマス等の季節に応じた飾りつけもあるともっと良いのだけれど、そこまでは余裕がないのかもしれない。病院は患者だけでなく、付き添いや見舞いの人も利用するところだが、そうした点への配慮がまだ欠けているように感じる。   次に入口の段差とスリッパの問題。小規模の個人医院に多いが、入口で内履きに履き替える。これがお年寄りや障害者には大変な障壁となる。体をかがめて靴を脱ぎ、スリッパに履き替える。まずこれが一苦労。入り口に椅子や手すりがないので、片足状態になる時にふらつく。車椅子の利用者の場合は車椅子から降りて歩き、段差をまたぐ必要が出てくる。一人で歩けない人は介助の人が必要となり、家族やヘルパーの都合も考えて通院しなければならない。(医院のスタッフは手伝い方がわからないのか、忙しいのか手を貸さないようだ)段差が低い場合も高い場合もこうした人々にとっては重労働だ。そして建物の中ではスリッパで歩くため滑りやすい。靴を家の中と外で履き替えるのが日本の伝統だが、高齢者や障害者は足元が不安定なのにスリッパに履き替える必要性がどこにあるのだろうか。最後の関門が元の靴への履き替え。特に混雑時は目も当てられない。玄関いっぱいに脱がれている靴の中から、他人の靴を踏まないよう、足にアクロバットのような動きをさせて自分の靴までたどり着くのは至難の業だ。病院は病気の人が行くところなのに、どうして病人、とりわけ主要な顧客である高齢者と障害者に優しくないのか不思議でならない。わずか数センチの段差が大きなハードルとなっていることを、毎日見ているスタッフは気づかないのだろうか。   内装に色を使うことはそれほどお金のかかることに思えないが、どうだろうか。無機質な壁を楽しい壁画で埋める為に、コンペ形式で美大生や一般からの公募してみるのも良いだろうし、ペンキの塗り手も例えば学生のボランティア活動として学校に募集してみれば反応がきっとあると思う。マンネリ化しがちな総合学習の内容も充実するのではないか。「地域学習」を目指している学校教育にはぴったりではないか。色彩心理学の観点からしても剥き出しのコンクリートの壁が病人と家族にとって良いものでないのは明白だ。蛍光灯の光の中で顔色は沈んで見え、また緊張を気づかぬ内に強いられる。重病の患者を支える家族はただでさえ気持ちが張り詰めているのだ。それを和らげるような内装にすべきではないか。最近でこそ入院患者に木目調の家具を使用する病室も出てきているが、一般の病室でなく、差額ベッド代が必要とされる特別室だったりして道の険しさを感じる。   しかし一方でこうした点に配慮する所も現れている。私が現在通院している内科では(オフィスビルにあるためか)靴を履き替える必要がなく、パステルの淡い色でソファや受付のカウンターが彩られている。診察室のドアもユニークな木目があるもので、更に待合室にリラックス系の音楽が静かに流れている。2時間近く待たされることもあるが、本や雑誌も沢山あるのでそれほど飽きない。最近はモニターを設置し、「病気一口メモ」的な情報を流す所もある。また薬局でも同じような工夫をしている。ここまで充実させなくても、ちょっとした工夫で病院の雰囲気は大きく変わるのに・・・と思いながら私は今日も病院通いをしている。   --------------------------------------- <太田美行(おおた・みゆき)☆ Ota Miyuki> 東京都出身。中央大学大学院 総合政策研究課程修士課程修了。シンクタンク、日本語教育、流通業を経て現在都内にある経営・事業戦略コンサルティング会社に勤務。著作に「多文化社会に向けたハードとソフトの動き」桂木隆夫(編)『ことばと共生』第8章(三元社)2003年。 ---------------------------------------
  • 2008.12.09

    エッセイ175:洪 玧伸 「アジアに一つしかない碑―宮古島の<慰安婦>のための碑建立までを中心にー(その3)」

    結びに代えて: 証言者、その「記憶」に出会った人々の「アリラン」の歌   アジア太平洋戦争期には日本軍の基地が存在し、米軍占領期間には米軍の通信施設があり、今は自衛隊の通信施設がある宮古島の野原岳に、2008年9月、日本軍「慰安婦」のための碑が建てられた。 碑の除幕式に2年間の調査過程で証言をしてくれた多くの証言者が駆けつけてくれたが、そのうち、歌を歌いたいと3人の女性たちが名乗り出た。子どもの頃、自分を可愛がってくれた朝鮮の女性たち、当時は苦しい思いをしていたことは知らないで「アリラン」の歌を教えてもらったが、今度は宮古島の歌を「慰安婦」の方に捧げたいと。   当日の会場は、歌を歌いたいと駆けつけてくれたおばあさんたち、証言調査に参加してくれた地元の方々で朝からたくさんの人々で賑わった。ところが、歌どころではなかった。なんと除幕式当日なのにまだ碑は完成されていなかったのである。石材屋さんは、まだプレートを岩にはめこんでいなかった。そして、「こうすればもっと綺麗ではないか」などと話し合っているのである。私も日本から来ていた人々も、それにはびっくり。「もう、これ以上綺麗ではなくてもよいですから、早く、早く進めてください!」叫ぶかのように声をかけたが、相変わらず「慎重」で「ゆっくり」。我慢できなくなった私や実行委員会のメンバーは、会場を掃除し、花飾りなどを必死で運んだ。すると、宮古島の人々は、「除幕式は1時だから間に合うよ。洪さんは力もちだね。花は重いよ。ゆっくりね、間に合うからさ」と笑って話しているではないか。泣きそうな気持ちだったが、除幕式の10分前にようやく碑が完成。それが宮古タイムだった。   幕がようやく掛けられると、この日のために「アリラン」を初めて学び練習したという宮古高校吹奏学部の高校生たちが、ゆっくり「アリラン」を演奏してくれた。賑やかだった空間が静かなメロディーに包まれ、完成したばかりの碑にかけたばかりの幕を、除幕した。高校生たちの「アリラン」の歌を聞いていると、安心したせいか、いつのまにか自然と涙が流れてきた。振り返ってみると、一緒に宮古島に来た韓国や日本からの参加者はもちろん、先ほどまでせいいっぱい碑のプレートをはめこんでいた石材屋さんまでもが泣いていた。皆が一つになって泣いていた。このように一つの心になれるということに驚いた。   次は、宮古島の方々から元「慰安婦」の被害者に花束贈呈があったが、元「慰安婦」朴順姫さん(パク・スンヒ)は、その花束を、自分たちを覚えてくれた与那覇さんに渡した。それから先日、歌を「慰安婦」の方に捧げたいと駆けつけてくれた3人のおばあさんたちが宮古島の方言で歌を歌った。その場に集まった地域住民たちによって、静かな合唱として響いていった。   朴さんは家族に迷惑になるのをおそれ、証言を避けてきた女性である。自分を歓迎してくれる島の人々、かつてこの島にいた「慰安婦」を忘れない人々の暖かい気持ちに囲まれ、碑を手で触り、亡くなった人々が「安らかに眠ってほしい」と短い一言を残した。そして、今の感動は、言葉にはできないと、突然、「アリラン」の歌を始めた。碑の完成もはらはらしながら見届けていた私たちは、除幕式の打ち合わせもできず式に挑んでいた。朴さんの「アリラン」は予測もつかなかったことだった。その歌声は、涙でところどころ躓いたのだが、歌声に合わせて宮古島の高校生たちがそのメロディーを演奏してくれた。通訳者であった私も、彼女の途切れた「アリラン」の声には涙を我慢することができず、マイクを持ったまま泣いてしまった。涙で歌を歌う「慰安婦」の声が通訳者にも聞こえなくなっていくと、いつのまにか会場の皆が、合唱してくれた。その歌にあわせ、元「慰安婦」の方々の多くが好んだ「キキョウ」の花を参加者の皆が碑の周りに植えた。そしてすべての式が終わると、朴ハルモニが20名あまりの高校生たちを一人一人、ありがとうと抱いていた。式が始まった時から終わるまでの2時間、皆がともにうたい、ともに泣いた「アリラン」の歌のある空間。それが、2008年9月7日の除幕式の出来事である。   かつて「慰安婦」と呼ばれ差別されてきた被害者の女性、それを「見た人々」そして、その「見た人々の記憶を聞く人々」が共に歌う「アリラン」が、私にとっては、今も生き続けている主体の声として、お互いの痛みを「共感」してこそ現れる具体的な歴史、文字や形には刻み切れない、しかし、はっきりとした身体に刻み込まれた、一人一人の歴史そのものとして聞こえてきた。   そして、この一人一人の小さい歴史は、琉球新報や沖縄タイムスのような沖縄の地元新聞はもちろん、朝日新聞、東京新聞により東京に、共同通信の発信により様々な地方新聞やJAPAN TIMESにも報道された。韓国にも6社の新聞社により世間に知られ、KBSによる取材も行われた。しかし、除幕式が終わった今、もっともうれしいのは、あの宮古タイムである。除幕後も、さらなる作業が進み、碑の建立後の建立が始まった。碑の周りに植えた「キキョウ」の花に毎日水をあげ、掃除をする住民も出てきた。南の小さい島、ここは、日本の「民族の聖地」ではない。しかし、そこから発信する人々の歌声のようなメッセジーは確実に、「民族」を掲げ、戦争を生き抜いた人々が、経験したからこそ戦争に反対する心を伝える場所である。それは、「慰安婦」を記憶することで始まったが、「反日」ではない。それは、真の平和を求める人々の思いそのものである。私は、この小さい島での出来事が、日韓の反目の歴史を人権の観点から乗り越え、人々の心を結んだら小さな、しかし、確実な第一歩であると信じている。   除幕式の写真をここからご覧ください。   このエッセイの前半2編は下記よりご覧いただけます。   「アジアに一つしかない碑―宮古島の<慰安婦>のための碑建立までを中心にー(その1)」   「アジアに一つしかない碑―宮古島の<慰安婦>のための碑建立までを中心にー(その2)」   洪さんが2008年4月に投稿してくださったエッセイ: 「思いを形にすることについて~宮古島に建つ日本軍「慰安婦」のための碑に係わりながら~」   ------------------------------------------------ <洪ユン伸(ホン・ユンシン)☆ Hong Yun Shin> 韓国ソウル生まれ。韓国の中央大学学士、早稲田大学修士卒業後、早稲田大学アジア太平洋研究科博士課程在学中。学士から博士課程までの専攻は、一貫して「政治学・国際関係学」。関心分野は、政治思想。哲学。安全保障学。フェミニズム批評理論など。現在、「占領とナショナリズムの相互関係―沖縄戦における朝鮮人と住民の関係性を中心に」をテーマに博士論文を執筆中。SGRA会員。 ------------------------------------------------