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エッセイ218:範 建亭「ハンディーを持Aった者の居場所」

「ハンディーを持った者」と言ったら、あなたはどんな人を想像するのだろうか。僕は最初、それはもっぱら体の不自由な人や知恵遅れの人だと思った。だが、様々なハンディーを持った人たちが生活している施設を見学して、自分の考えが不完全であったことを知った。そして、先進国としての日本、工業国や競争社会としての日本のもうひとつの側面を見ることができ、いろいろと考えさせられた。

この夏、僕は二ヶ月間の短期研究の機会を得て、日本にやってきた。学部時代の指導教官のところで研究しているが、7月下旬、先生と一緒に長野県の現地調査に出かけた。それは先生の循環型農業に関する研究の一環であるが、工業や貿易などを中心に勉強してきた僕にとっては初めての経験となった。

私たちが訪問したのは、長野県小谷村にある「信州共働学舎」という施設であった。それは1974年に作られた心や身に不自由を抱える人たちのための共同生活施設である。現在87歳となる創始者の宮島真一郎さんは、若いときに羽仁もと子創立のキリスト教学校「自由学園」にて学び、卒業後自由学園に教師として残ったが、50歳にて退職し、父親の郷里である長野県小谷村にて心身にハンディーのある人たちと生活する「共働学舎」を始めた。長野県の施設の他に、北海道や東京にも施設と作業所などがあり、現在合わせて約150人がメンバーとして生活している。
  
「信州共働学舎」は2カ所に分かれ、小谷村立屋にある「立屋共働学舎」と、山道を1時間余り歩かなくては行けない「真木共働学舎」がある。「立屋共働学舎」は、北アルプスの裾を流れる姫川沿いの山里にある。そこに20数名のメンバーが生活しているが、米や野菜等の農作物作りの農業が中心となっている。水田や畑などの農地が約3ヘクタールであるが、主に近所の人から借りた田畑である。また、そこに和牛、山羊、鶏なども飼っており、味噌や醤油などの製造、木製の玩具作り、織りや染めなどの手作業も行われている。そして、「からすのパン屋さん」と言う製パン所もあり、村の人たちに販売している。

一方、「真木共働学舎」は山の奥にあり、交通が非常に不便。そこに辿り着くまでは、車が通わない山道を歩いて1時間半ぐらいかかる。かつてそこにはひとつの村があったが、近年の急速な少子高齢化によって過疎化が進み、また交通の不便さもあり、結局村全体が廃棄されてしまった。そこを利用して「真木共働学舎」が始まったわけであるが、いま10名ぐらいのメンバーがそこに住み、米と野菜作りのほかに、わら細工、木工製品製作やラグマット製作等も行い、自給自足の労働生活をしている。交通は非常に不便とはいえ、そこへ実際行ってみると、メンバーたちが茅葺き屋根の古い民家に住み、農業中心の質素で清らかな生活を送っていた。山々に囲まれ、景色がとても素晴らしい。隠居にも絶好の場所だと思った。おまけに、私たちが行った時はちょうど皆既日食が始まり、山の上から日食の様子がはっきり見えたことに感動した。
  
共働学舎の生活は基本的に農業に依存している。米と野菜はほとんど自給し、自分たちの作った作物で食べている。作業はなるべく機械を使わず、田んぼは今でも手で植え、手で刈ることを基本としている。また、いろいろな動物も飼っており、ミルクはヤギから採ったヤギ乳を飲んでいる。このような農業を中心とした自給自足の生活ぶりは、都会で生まれ育った僕には想像しにくいものであった。さらに、そこに生活している人が「普通」の人間ではなく、いろいろなハンディーを持った者であることについては、なおさら想像を絶した。

「ハンディー」とは、体の不自由な人や知恵遅れの人のことを想わせるのが一般的であるが、実際、「共働学舎」で生活しているメンバーには、身体障害者はごく一部しかなく、多くは精神的な問題を抱えている人たちであった。それは、生き方に迷った人、家庭から見放された人、家族を失った人、学校や会社に行きたくない人、競争社会についていけない人、人生をあきらめた人、などなどである。しかも、20代や30代の若い人が多いことに驚いた。

彼ら彼女らは、外見から、生活ぶりから、またはわれわれと会話をしている様子からも、全くの異様さを感じないが、施設代表者の話に聞くと、そこにいるメンバーは皆何らかの問題があるという。例えば、一人の男の子は、離婚を繰り返した母親から見放され、問題児になっていた。もう一人の男性は、子供の時お母さんが交通事故で死亡したのを目撃してから話すことができなくなった。一人の女性は若いときに夫と子供を亡くして絶望してここにやってきた。もう一人の女の子は自殺未遂でここに辿り着いたという。
  
「共働学舎」にやってきた理由は本当にさまざまであるが、集まったメンバーたちが皆と一緒に働き、共に生きている。もともと「共働学舎」とは、「共に働く学び舎」の意味である。どんな過去があっても、知恵や能力が低くても、ここに来たら、共同生活を通じて経済的にも精神的にも自立できるようになり、互いに支えあって暮らしている。また、働けば一定の給料ももらえる。こういう生活が好きになり、何十年も働いた人もいる。

私たちは立屋共働学舎に一泊し、メンバーたちと一緒に夕食と朝食を食べた。夕食後、一人ずつ今日一日の仕事を皆さんに報告してもらうことが慣例となっている。そして、和やかな雰囲気で全員で聖書を読み、聖歌を歌った。「無神論者」に近い僕からみて、家族の温もりを強く感じた。そのような「共働学舎」を見学して、生きることの意味、労働や助け合いの意味、豊かさや幸せの意味、現代文明の意味などについて、いろいろ考えるようになった。
  
日本は何十年の歳月を経て経済大国となり、豊かな社会を築くことに成功した。また先進国の中でも、日本は格差の問題が相対的に少ない平等な国でもある。しかし、いくら平和的な社会と言っても、市場競争原理が働く以上、まして常に頑張る事を要求されている日本社会において、競争に淘汰された人や競争社会に適応できない人は必ず存在する。また、同質・均一社会と言われる現代の日本社会では、異なったものに対する拒否・排外意識が強いため、決まった生活のレールや社会システムから離脱することは、人生の「失敗」を意味し、生き辛くなる。そういう人たちの居場所を提供しているのが、「共働学舎」のような民間施設であり、これらの施設が果たした役割は非常に大きいと思う。

一方、高度成長を続けている今の中国は、日本以上に「弱肉強食」「自己中心」の競争社会となっているため、ハンディーを持った者も大勢存在しているに違いない。しかし、その人たちは一体誰が面倒をみているのだろうか。弱者のことに関心を持つ人はどれぐらいいるだろうか。また、このような社会問題を政府に任せて片付けられるのか、調和のとれた平和社会をつくるために、われわれは何をすべきか。中国にとって、日本の経験や教訓から謙虚に学ぶべきことは、工業化や経済発展だけではないと改めて認識させられた。

現地の写真

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<範建亭(はん・けんてい☆Fan Jianting)>
2003年一橋大学経済学研究科より博士号を取得。現在、上海財経大学国際工商管理学院准教授。 SGRA研究員。専門分野は産業経済、国際経済。2004年に「中国の産業発展と国際分業」を風行社から出版。
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