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エッセイ225:今西淳子「ペリカンの舞う島:コスタリカのプンタレナス・チラ島訪問記(その1)」

2009年8月のグアテマラの会議の後、SGRA会員のオスカルさんを訪ねてコスタリカのプンタレナスへ行った。首都のサンホセから120km、車で約2時間の太平洋岸のリゾートとされる人口約5万人の町である。ニコヤ湾に5キロメートルに渡って細長い砂州が海に突き出し、その先にプンタレナスの町がある(プンタレナスとは「砂の岬」という意味)。昔はサンホセから自動車道がなく鉄道が通っていた。太平洋岸では最大の港だという。自然保護区が多く、動植物の宝庫としても知られている。

オスカルさんは2回目の日本留学により東京海洋大学から博士号を取得した後、コスタリカ大学プンタレナス校に戻り、現在は副学長を務めている。昨年帰国してからは貸していた家の修理改築が大変だったということだが、そのお宅に泊めていただいた。奥様の久美子さんと愛犬ルミちゃんの3人(?)暮らし。オスカルさんの家は細長い岬の中ほどに位置し、裏口からでると左手には1軒おいて砂浜、右手には鉄道線路の跡や道路や数件の民家の向こうに運河が見える。残念なことに浜辺には流木をはじめ漂流物が多く誰も泳いでいない。サーフィンやヨットなどのマリンスポーツも何もない。もう少し岬の先の方に行けばビーチになっていて、週末にはサンホセからも人々がやってくるということだが、滞在したのが週の中ほどだったせいか、夏休みが終わってこの週から学校が始まったせいか、ビーチで泳いでいる人はひとりも見かけなかった。一方運河の方は港や船の停泊地として活用されているが、反対側はマングローブの森が続き、そこにはワニがたくさんいるという。

プンタレナスという海と運河に挟まれた0m地帯の砂州が本当に安全なのか、本当にこれから何百年もそのまま存続するのかという疑問がわいてくる。それに対する答えは「今まで津波も高潮もなかったから大丈夫でしょう。まあ、もし津波がきたら助からないかもしれませんね」とのこと。このあたりはアメリカの独立戦争と同じころに独立したので、せいぜい200年ちょっとの歴史である(原住民の歴史を考えなければ)。「数年前の火山の爆発でカリブ海側の地盤が上がったから、太平洋岸は少し下がったかもしれない」と話す人もいたが、オスカルさんの話によれば以前はもっと海が近く砂浜が狭かったそうなので、水位は下がったのかもしれない。南太平洋の島々にみられる地球温暖化による水位の上昇は、こちらでは全く語られていないようだった。

久美子さんは「まだ間に合わなくて冷房がないんですよ」と言うが、冷房なしの生活はもしかしたらオスカルさんの狙いかもしれない。そもそも、このあたりでは、冷房のある家はあまりない。気温は真夏日と熱帯夜が続いている感じで、湿度も東京に負けず、汗っかきの私はじっとしていると汗がぼたぼた落ちる。滞在中、タオルが手放せなかった。ただし海辺なので風があり、冷房の利用が少ないから、東京の都心よりはましかもしれない。それにしても、これが「夏」の気候ではなく、1年中こうなのだから凄い。近隣諸国を含めてこの地域には四季がない。あるのは雨期と乾期だけ。海に行けばいつも真夏。山に登ればいつも涼しい。実際、最後の日に海辺のプンタレナスからサンホセ市の近くの標高2800mの火山へ行ったが、そこは摂氏15度で震え上がった。だから中米では、おおかたどの国も首都は標高1000m以上の高地にあり、会議もそのようなところで開催されることが多い。中南米でこのような暑さを経験したのは初めてだった。扇風機の前に座って食事やメールチェックをし、あるいは扇風機の風にあたりながら眠ることになった。そして、外は暑すぎるから、家の中で扇風機にあたりながらベッドに寝転がって本を読むという何とも幸せな一時を過ごすこともできた。ここでは時間がゆったりと流れていて、その中に浸っているのはなんとも居心地が良かった。

3日目、オスカルさんが小舟を手配してくださり、ニコヤ湾の奥の島へ行くことになった。朝7時に港に行き、しばらく待っていると、船長のイサイルさんが家族と一緒にやってきた。船の安全性や漁業の研究をしているオスカルさんとは旧知の仲らしい。舟は10名くらいを載せることができる大きさで、湾内の島々とプンタレナスを結ぶ交通手段である。簡単ながらも屋根があったので助かった。私たちが乗って、油(燃料)のはいった大きな容器を載せて、それからオレンジ色の救命胴衣と浮き輪を載せた。オスカルさんが、「最近はこういうことに注意が払われるようになったんですよ」と教えてくれた。私が「それはオスカルさんのおかげですか?」と聞くと、少し恥ずかしそうにほほ笑んだ。オスカルさんは博士論文で、中米の海難事故データを日本のデータと比較し、中米における漁船の安全対策を提案した。海で遭難して死亡する事故が中米では増加している一方、日本では激減したことに気付き、日本の経験から学ぶことができると思ったのがこの研究を始めたきっかけだという。コスタリカではまだ小舟で漁をする漁師が圧倒的多数だが、近年、沿岸では魚が少なくなり漁場はどんどん遠くなった。漁師たちは安全対策に関する知識も装備も全くない状況でどんどん沖合にでていくことになる。したがって死亡事故が増加する。日本の高価な装備をコスタリカの漁民に与えることは不可能だが、浮き輪や救命胴衣やボート、自分の位置を知らせる発煙筒を備えるなどの基本を知れば死亡事故はかなり防げるはずだ。プンタレナスでは、すでに研修者の研修が始まっており、すべての漁師が研修を受けなければ漁ができないようなシステムを作る予定である。また、それをコスタリカだけでなく、中米の国々でも実施するよう近隣諸国に呼びかけている。日本に留学していた頃から、この話をすると、いつもは物静かなオスカルさんから情熱がひしひしと伝わってきた。

今日の航海は、イサイル船長の息子2名が手伝ってくれた。次男はまだ高校生くらいで舟の前にたって見張りをしていた。海に丸太が浮いていると、操縦しているお父さんに手で合図してスピートを落とさせ、左右に誘導して避けるようにする。ビーチにも無数に打ち上げられているこの漂流木には驚いた。中には直径1m以上の大木を2mくらいに切ったものまである。このような木片や丸太が、それこそどこの海岸にも打ち上げられている。原因を聞くと、この湾に流入する大きな川から流れてくるからという。オスカルさんは、大学の環境学習のゼミで、学生にこの原因を探る課題をだしたという。どうしてこの問題が起こるのか、どうすれば解決できるのか、どこへどのように働きかければいいのかという環境改善への努力は、きっとプンタレナスの時間に合わせてゆっくりと進んでいくのだろう。もし来年ここへ来ることがあっても、きっと何も変わっていないだろうが、10年とか20年のものさしで測れば何かが変わるのかもしれない。(つづく)

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<今西淳子(いまにし・じゅんこ☆IMANISHI Junko>
学習院大学文学部卒。コロンビア大学大学院美術史考古学学科修士。1994年に家族で設立した(財)渥美国際交流奨学財団に設立時から常務理事として関わる。留学生の経済的支援だけでなく、知日派外国人研究者のネットワークの構築を目指す。2000年に「関口グローバル研究会(SGRA:セグラ)」を設立。また、1997年より異文化理解と平和教育のグローバル組織であるCISVの運営に加わり、現在英国法人CISV International副会長。
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2009年11月18日配信