-
2008.10.07
最近読んだ産経新聞の記事「残留孤児の2世・3世がマフィア化 同胞からみかじめ料取り勢力拡大」(9月1日)が大きなショックだった。内容は「中国残留孤児(婦人)の子供たちである2世・3世が正規の在留資格を持ち、不正行為をしても強制送還されないため、中国人の店からみかじめ料をとっても、経営者が被害者を訴えない泣き寝入り状態だ」というものだ。
この記事をそのまま評価するわけにはいかない。というのも、この記事の書き方自体に問題があると思うからだ。産経の記者の視点が、中国残留孤児(婦人)の2世・3世を中国人と位置づけしているようなのが気にかかる。もちろん彼らは日本国籍を保持する日本人であるから、「強制送還」に該当しない。そして彼らの「同胞」は中国人なのか、日本人なのか。記事ではどうも中国人としているようだ。
しかしそうした問題はさておき、この記事がショックだったのは、かつて事件にもなった中国残留孤児2世・3世による暴走族のドラゴン(怒羅権)を思い出したからだ。ドラゴンに関しては、当時の日本の受け入れ態勢の不備、学校教育が行き届かない事によるドロップアウト等が原因の一つという指摘もある。日本に着いたばかりの子供に日本での生活の第一歩を導くはずの学校で、逆に大きなストレスと挫折感を味わってしまうことが原因とは皮肉ではないだろうか。それから何年か経ち、当時の暴走族が大人になってみかじめ料をとっているのか、また当時と今とでは状況がどのように変遷したのか等の記述が記事にはなかったが、もし2世・3世の子供たちが来日当初にスムーズに日本社会に馴染めていたら状況は大きく変わっていたと思う。
そうした意味で外国人児童生徒の日本語指導に関わったことがある私には、先の記事が胸の痛むものだったのだ。もし学校が子供たちの「日本に軟着陸する」手伝いの機能をある程度果たしていたら・・・と思う。もちろん頑張っていた先生たちも多いとは思う。現場の教師たちも何とかしようと努力はしているものの、外国人の子供を初めて指導するケースや、まず何から手をつけていいのかわからなかったり、あるいは教師自身が抱える仕事量の多さから子供たちに十分手が回らなかったりで、状況は厳しい。
しかし状況は少しずつでも明るくなってきている。そこで本エッセイでは、この夏、東京外国語大学で行われたフォーラム「在住外国人児童生徒のための教材開発から見える課題とその解決に向けて」を紹介したいと思う。大変活気あるフォーラムで、留学生、元留学生の皆さんの中にも、日本語指導のアルバイト経験者がいて面白いのではないかと思う。
日本語指導が必要な外国人児童生徒数は22,413人(平成18年9月現在)とされており、文部省の平成11年の調査開始時から最も多い。中でもポルトガル語を母語とする児童生徒が4割近くを占め、中国語及びスペイン語の3言語で全体の7割以上を占めるとの結果が出ている。また外国人児童生徒が「1人」の学校が2,591校(47.3パーセント)で約半数を占め、「5人未満」の在籍校が4,337校で79.2パーセント、一方「30人以上」の学校は85校と少数ではあるものの増加しており、「分散と集中の二極化の状況」にあるといわれている。(出典:文部科学省URL)
こ
の分散と集中の二極化を意識したためかフォーラムでは、「ブラジル人コミュニティとの教育における連携」、「使ってください!領域別系統表-系統別に指導できるトゥカーノ算数教材を例に-」、「分散地域における教材開発を含む教育支援システム構築に向けて」、「集住地域における教材開発を含む教育支援システム構築に向けて」の4つの分科会に分かれて行われた。東京外国語大学ではブラジル人児童生徒のための学科指導用教材を開発しており、現在はフィリピン人児童生徒のための 学科指導用教材を開発している。
こ
皆さんは留学生、あるいは元留学生として大学や大学院での現状はご存知のことと思うが子供たちの日本語教育についてはどのようにお考えだろうか?まず指摘されるのが不就学児童生徒の問題だ。複数回答の質問による答えからは、「学校へ行くためのお金がないから」(15.6パーセント)が最も多く、次いで「日本語がわからないから」(12.6パーセント)「すぐに母国に帰るから」(10.4パーセント)と続いている。しかし、親が「すぐに母国に帰るから」と考えていても、様々な事情で日本での滞在期間が延びることも多く、「結果としての長期滞在」は健康保険加入などの問題などでもよく指摘されている。
こ
教師でもしばしば勘違いしてしまうのが「子供の頃から日本に住んでいれば、日本語を習得するのは簡単だ」という考えである。確かに子供はすぐに言語を習得することが多い。しかしそれは日常言語のことであり、学習言語はまた別の問題であることはあまり知られていない。フォーラムでは「『日本の学校教育は日本文化・日本語を前提にして成り立っている』という限界」が指摘された。教科書には日常会話では使われないような言葉が出てきたり、また長い文章や難しい構文からなる問題文で、日本語習得が十分でない子供たちが、(言語に頼る度合いが少ないといわれる算数でも)内容が理解できなかったりすることがある。
こ
最近の傾向として小学校1年生から日本の学校に入学する子供たちの増加が挙げられる。こうした子供たちは、日本語あるいは学科教育には問題がなくついていけると思われているが、日本の保育園や託児所を利用していない(地域によっては日本語を使わなくても生活できるコミュニティが既に形成されており、ブラジル人による託児所の利用も多い)、あるいは家庭内での会話に日本語が使用されていない等の理由で、学習についていける程度の語彙力がないことが指摘されている。実際に調査をすると、小学校1年生から日本の学校に入学した子供でも授業の内容についていけない子供たちがいることが紹介されている。こうしたことから日本語指導が単なる語学指導に留まらず、学科教育にまで至ることが多々ある。つまり日本語指導以外でもやることが山のようにあるということだ。私の知っているケースでは親が深夜も働いているため、子供の睡眠時間や生活が乱れて学校では寝ているだけとか、幼い兄弟の面倒を見るため勉強できない等の生活問題に学校が対応しなければならないことがかなりあった。
(つづく)
こ
---------------------------
<太田美行☆おおた・みゆき>
1973年東京都出身。中央大学大学院 総合政策研究課程修士課程修了。シンクタンク、日本語教育、流通業を経て現在都内にある経営・事業戦略コンサルティング会社に勤務。著作に「多文化社会に向けたハードとソフトの動き」桂木隆夫(編)『ことばと共生』第8章(三元社)2003年。
---------------------------
こ
(2008年10月7日)
こ
-
2008.09.30
私が高校生の頃、我が家ではいわゆる「スポーツ新聞」を購読していた。主にスポーツ関連記事や芸能界のゴシップで埋められたスポーツ新聞を、店や会社でもない一般家庭で購読することは、韓国でスポーツ新聞が創刊された直後の20年前はもちろん、今も滅多にない。そのためか、ポストからスポーツ新聞だけが狙われてなくなることも度々あった。友達との飲み会でも、私がその事実(スポーツ新聞購読)を明かすと、聞いていた皆が唖然として、「あなたの芸能界に関する雑学の源泉がようやくわかった」といわんばかりの顔をしていたのを覚えている。
それから相当の時間が経過した21世紀の日本・東京、私はある韓国語塾の「上級韓国語クラス」の映画を用いた授業を行なっていた。10人弱の日本人に対し、毎週末に、毎回約10分程度の分量のディクテーションを中心とし、セリフの表現について説明し、使い方の練習を行った。すでに韓国語をマスターしていた人々なので、韓国語という語学だけでは十分ではなく、時には俳優の裏話、映画の秘話、韓国の時事ニュースに関しての説明を加えた。韓国についてかなり詳しい彼らでも、さすがに20年近く前から情報を蓄積して来た私には及ばなかった。「先生。先生の専攻は何ですか。何であっても、その専攻より、韓国の芸能界に関する文章や講演のようなことをした方が売れるんじゃないでしょうか」。ある日、授業後の飲み会の中で、真剣な顔でそう言われたことは今でもはっきりと覚えている。
その2年後、平日の夕方に社会人が通う大学の生涯センターで「初級韓国語クラス」を教えることになった。前の上級クラスとは違って、日本語を使って韓国語のイロハから教えるクラスであった。ほとんどが韓国ドラマを見てファンになって韓国語を学びに来た人々なので、私の芸能情報はそこでも非常に歓迎された。一日の仕事と厳しい韓国語の勉強に疲れ、眠くなっている彼らの目を覚ますためには何よりだった。
どちらも韓国語を教えるという仕事は同じであるが、二つのクラスの雰囲気の違いは、最近の日韓文化交流が活発になることによる、日本における韓国関心者の性質の変化を象徴している。すなわち、韓国に関心をもって交流しようとする日本人層がどのように変わったのかを表わしているのだ。上級クラスの学生たちは、日本で韓国文化が流行る以前から、各自の様々な理由による関心から、韓国経験をしていた。彼らは、いわゆる典型的な日本人とは異なっていた。彼らは、悪びれもせず授業に遅れたり、授業中に食べ物や飲み物(しかもアルコール)を持ち込んだり、無遠慮な言い方で無理やり飲み会に誘った。悪意のない彼らの態度は、かえって韓国人気質に似ているものだった。実際に、彼らは韓国での生活体験を懐かしがり、辛い食べ物や、ジェット・コースターを連想させる韓国の市内バスを恋しがった。そのクラスの中では、「先生(すなわち私!)がもっとも日本人らしい」とよく言われた。
それに比べると、初級クラスの学生たちは相当異なっていた。彼らは、日本社会の中流階級の平凡なおばさんや、会社員、管理職を退職した年配の方々だった。韓国のドラマを通じて韓国文化に出会うまでは、韓国に接したことがほとんどなく、今も映像に映る韓国の荒っぽい生活と刺激的な食べ物に、好奇心と恐怖心を半々に抱いていた。長い間勉強から遠ざかっていた人々が、まったく新しい外国語に向き合うことは容易なことではない。日本人にとっては、どうしてもし難しい発音のために、筋肉に微かな痙攣を起しつつ必死に頑張る様子からは、私も感動と励みを感じた(ある人は、韓国語の一部の発音が、日本の女性にとっては一生したこともなく、抵抗感を感じさせる発音なので、どうしても素直に出来ないと言訳をしたが、真偽は確かではない)。彼らは、非常に丁寧で(個人差はあるものの)私に対しても絶対に無礼な言動をしなかった。また、日本人は必ず一つ以上の特技を持っていると言われる通り、茶道、生け花、三味線、私が聞いたことのない外国のダンスなど、必ず一つ以上の趣味を持っていた。韓国では想像さえ出来ないほどのちっちゃなプレゼントを照れずにいただくことに慣れたのもこのクラスのおかげであった(一言では説明できないが、日本と韓国のプレゼントの文化はかなり異なっている)。
上級クラスの学生の中では、韓国の光州民主化運動(1980)を見たことや、「在日」問題に関わることになったことがきっかけで、韓国に関心を持ちはじめたという「重い」動機から韓国と付き合うようになったケースが多かった。韓国旅行の計画をのぞいてみても、私でも行ったことのない歴史的な遺跡地と地方文化探索を試みるものだった。その反面、初級クラスからは、韓国芸能人の日本内活動やファンクラブの動向に関する情報を得ることができた。
この対照的な二つのクラスは、私個人の偶然な体験だけとは言い切れない。昔、日本で韓国に興味を抱いて学ぼうとした人々は大抵、日本社会に息苦しさを感じ、それとは対照的な韓国人気質や歴史に興味を抱き始めた人々、ある意味では「変わり者」やアウト・サイダーが多かった。ところが、最近、新たに現れた韓流ファンは、平凡な日常生活を送りながら、黙々と家庭と社会を支えてきた人々である。昔は、韓国語を教えるところが少なかったゆえに、韓国語を勉強しようとすれば、必ず(前述した塾をはじめ)いくつかの限られた場所にたどり着くようになっていたが、昨今では、韓国語を教えるところが「雨後の筍のように」出来たので、伝統あるところは「古臭い」と度外視されている。その結果、韓国に対する関心があまりにも軽く、興味本位へと傾いてしまうのではないか、と懸念する声もある。日韓交流におけるこのような変化の意義はともかく、私の在日期間中にこのような変化が起こり、自分のもっとも身近なところでそれを目の当たりにできたことを非常に意味深く感じている。
高校時代、夜遅く家に帰り、疲れを抱えて、間食を食べながらスポーツ新聞を読むことを一日の楽しみにしていたあの頃は、まさか21世紀、東京の片隅で、自分が日本人の前に立って、その新聞で得た情報をもとにして韓国の言葉と文化について教える日がくるとは想像すらしなかった。今でもたまに不思議な気持になる。そして今、21世紀初頭の日々を東京の隅っこで過ごしながら見聞きし、考えたことが、また想像も出来ない「何か」で実ることを期待する。
2001年、韓流のはじまりと共に始まった私の留学生活は、そのうねりとともに歩み、そのかげりが見え始める今、そろそろ終着地点が見えようとしている。偶然か必然かは、今後、開かれる道によって証明されるだろう。
--------------------------------------
<李垠庚(イ・ウンギョン)☆ Lee Eun Gyong>
韓国の全北全州生まれ。ソウル大学人文大学東洋史学科学士・修士。現東京大学総合文化研究科博士課程。関心・研究分野は、近代日本史・キリスト教史、キリシタン大名、女性キリスト者・ジャーナリスト・教育者など。現在は、韓国語講師を務めながら「羽仁もと子」に関する博論を執筆中
--------------------------------------
*このエッセイは、2007年度渥美国際交流奨学財団年報に投稿していただいたものを、筆者の許可を得て再掲載しました。
(2008年9月30日)
-
2008.09.26
なんて素晴らしい中秋節の週末!この日、私は37歳になり、私の雇い主のリーマン・ブラザーズは倒産しました。なんて素晴らしいプレゼント!
まずはご無沙汰してしまった皆さんにお詫び申し上げます。あまりご連絡を差し上げませんでしたが、皆さんのことを忘れていたわけではありません。リーマンの倒産以来、メールや電話を通して暖かい言葉をいただきまして本当にありがとうございます。
それでは、私の近況をお知らせいたします。
娘のアリスは6歳になり、数週間前に小学校に入学しました。 息子のセイジは4歳になり、私よりずっとハンサムです(笑)。あいにく、過去3年の間、子どもたちと一緒に過ごす時間はあまりありませんでした。化学者から転職した証券アナリストの私は、コーネル大学を卒業してからとても忙しく、東京のUBS証券で1年、香港のリーマンで2年働いてきました。香港にきてからは、妻は育児に専念していますから、この2匹の幸せな小さな虎たちがすくすくと育っているのは、すべて彼女のおかげです。
この2年間、出張でどれくらいの距離を飛んだか当ててみませんか?
私たちは、この2年間に家族旅行を5回もしました。1回はこの夏に北京へ。もう1回は去年のクリスマスに三亜へ。残りの3回は、私の故郷の青島に行きました。全て、出張で集めたマイレージの特典です。これは自慢すべきことなのか、みじめな生活を示すものなのか、私にはわかりません。
リーマンでの仕事はとても楽しかったのです。今、私の人生の途中で職の安定を失って困っているということだけでなく、158年の歴史があるこの偉大な会社が倒産して、その名声がなくなるのを見送らなければならないのが大変悲しいです。
でも、リーマンとウォール街のこの半年間の激しい変化を経験したことは、私の人生にとって大きな資産になったと思います。最初は月ごと変わり、それから毎週、毎日、そして毎時間、最後は10分ごとに事態が変わりました。もし将来、自分のビジネスを経営するチャンスがあれば、もっと慎重になりたいものだと思います。MBAを取得した後も、たくさんのことを学び、たくさんの友たちができました。
本当は子どもたちと一緒に2ヵ月くらい、中国あるいはアメリカの大陸横断ドライブへ行きたいところです。でも、学校は、もう秋学期が始まってしまいました。どうせだったら、もうちょっと早く倒産してくれたらよかったのに。あるいはもう数カ月後に倒産してくれれば、私は国際アナリストのランクをもう一段あげて、スターアナリストになることができるはずだったのに。
どんな未来がくるのか今は定かではありませんが、ひとつだけ確かなのは、自分がもっとバランスのとれた人間になるだろうということです。
もう一度、皆さんからの励ましの言葉に感謝します。近いうちに、また一緒に飲みに行く機会があることを願いつつ。
(2008年9月26日)
★「その後」の報告(10月7日SGRAかわらばん会員だより)。
---------------------
リーマン・ブラザースが倒産してから今まで、みなさまから暖かい激励の言葉やご支援をいただきありがとうございます。
決して忘れられない、ものすごい半月間でした。現実に起こっている金融の津波の真っただ中に居合わせたわけですが、ある意味で幸運だったと思うこともあります。もっとも、もう一度この幸運を繰り返したいとは決して思いませんけど。中国のことわざによれば「最も危険な場所が一番安全」なのだそうです。
新聞でお読みになったように、結局リーマンはノムラホールディングスに買収されました。そして私たち全員が、ほとんどそのままノムラの従業員になります。給料や賞与、そして雇用年数もそのままです。(つまり、もしリーマンに10年間働いていたら、その分の10ヶ月分の退職金も、将来ノムラから支払われます。)会社の電話番号まで同じなんですよ。勿論、名刺は新しく印刷しなければいけませんけど。おまけに、法律上の何らかの理由で、10月の下旬まで働いてはいけないそうで、実際、それは私にとって好都合です(上司には言わないでくださいね)。
この2週間、毎晩家に帰って子どもたちと食事ができました。過去3年間できなかったことです。そして明日から1週間、四川省の九寨溝に家族旅行します。その後、香港に戻ったら、多分、毎日毎日市場の動向を見る代わりに、本を読んで過ごすでしょう。あるいは、香港の蘇豪地区や深せんを探索するかもしれません。そして、毎日毎日やかましい情報を処理して暮らす代わりに、人生や自動車産業や金融業について、もっと深く考えることができるでしょう。
なんてすばらしい、仏様(あるいはあなたの信じる神様をいれてください)からの贈り物でしょう!倒産から、グローバルな知名度はかなり低くなるけど安全な(皮肉にも今や世界で唯一の)投資銀行への異動、そして家族との休暇という道すじの、「貴重な体験」という贈り物です。
-------------------------------
<侯 延クン (こう・えんくん)☆ Hou Yankun>
2000年東京工業大学より工学博士取得、有機合成を専攻。エール大学医学院勤務の後、コネール大学でMBA。2005年から、UBS東京支社で一年間勤務の後、2006年にLehman Brothers香港支社勤務。中国自動車及び部品業界のEquity Analyst。
- ------------------------------
-
2008.09.23
今年の7月、ウズベキスタンに行ってきた。今年の4月まで私が勤めていた韓国外語大の中央アジア研究所とウズベキスタンの識者グループが夏に共同でセミナーを開くことになっていたため、夏の休暇を利用してウズベキスタン入りをしたのである。セミナーはタシュケントにあるウズベキスタン国立大学の一室で行われたが、それほど密度のある学術交流とまではいえず、少し気の抜けた感じのものであった。私は中央アジアのイスラーム、特にイスラーム原理主義や過激派、テロリズムなどを専門にしているが、現地ではこれらの話題を口にすること自体が禁忌とされたため、がっかりした。また、ウズベキスタン大統領の宗教政策の成功事例ばかりを羅列する向こう側の学者たちには正直あきれたものである。しかし、セミナーが終わってからはウズベキスタンの主要都市を周りながら、自分なりのフィールドワークができたことを感謝している。コースは首都タシュケントからブハーラ、サマルカンド、ヒーヴァとウズベキスタンの中央部と南西部を一周するルートであった。摂氏40度を越える酷暑のなかを、クーラーもついていない小型車で毎日6時間以上走るというハードな旅程であったが、現地のモスクを訪問しイスラーム教徒たちの素直な声を聞くことができた。
ところで、いまだ韓国では「ウズベキスタン」というと、「あ〜ウクライナね」という返事が返ってくることが多い。せめてウズベキスタンという国名を正確に言える人も、十中八九はあの国がどこにあるのかよくわからない。「スタン」で終わる国は貧乏な国、イスラーム色が強い国、どこか怖いイメージがするという人も多い。韓国ではあまりウズベキスタンのことは知られていないのである。
だが、ウズベキスタンでは事情は正反対である。まず首都タシュケントをはじめあの国のほぼ全域で道路は韓国車で溢れかえっている。今韓国では没落した財閥企業の代名詞となっている「デウ」の車である。デウはソ連邦崩壊後、ロシアの支配から抜け出して新しい独立共和国を創り始めていた中央アジアのスタン五カ国に速やかに進出を図った。なかでもウズベキスタンでデウの活躍は眩しく、現地に自動車工場をつくるまでに成長した。その結果、ウズベキスタンで走る自動車の約9割はデウの車が占めるようになった。しかし90年代末、デウ自動車は破産してしまった。海外で無理に事業を拡張していたことが原因とされる。ウズベキスタンで稼働していた自動車工場も閉鎖される危機に直面した。幸いにも、ウズベキスタン政府がこれらの工場を買い入れたおかげで、工場は運営を続けることができた。ただ、もはやそこで作られる車はデウ製ではなくなった。ブランドはデウであってもウズベキスタンの車である。しかしウズベキスタンの人たちはデウが韓国の車だということをみんなよく知っている。それゆえ、タクシーに乗ったら運転手から韓国車の褒め言葉で耳が痛くなることを覚悟しなければならない。
またウズベキスタンで「韓流」を実感することもできた。旅行中現地の市場でぶらぶらと歩くことが大好きな私であるが、市場にいったら現地の人々から「ジュモン」という言葉でよく声をかけられた。最初はそれが何を意味するのかわからなかったが、ある子供が写真を見せながら「ジュモン」、「ジュモン」と言った途端、それが昨年韓国で大人気を集めた時代劇のタイトルだということがわかったのである。事情はこの国の最西端にある古都ヒーヴァでも同じである。そこで偶然出会った現地の大学生は「『ジュモン』は子供向けの幼稚なドラマだが、ベ・ヨンジュン主演の「冬の恋歌」は秀作だ。あのドラマはウズベキスタンでもう6回も再放映され、その度に視聴率は60パーセントを記録している。僕もあのドラマを観てから人生が変わったんだ。必ず韓国にいく。」とまで言ったのである。日本でもヨン様ブームを巻き起こしたあの「冬ソナ」のことである。
ウズベキスタン第二の都市でこれまたシルクロードの古都でもあるサマルカンドでは街のいたるところで韓国語が聞こえてくる。それも現地の商人が客引きをするために片言で話す韓国語ではない。すばらしい発音とイントネーションはもちろん、今韓国で流行っている流行語なども混じった流暢な韓国語である。彼らに聞くと、韓国で3年以上働いた経験のある人がほとんどである。実はいま韓国ではウズベキスタンから出稼ぎに来ているウズベク人労働者が非常に多い。彼らのほとんどはソウル周辺の工場などで働いているが、3年くらい働くと結構大きなカネを稼いで国に帰ることができるという。さらにウズベク人女性が韓国人男性と結婚して韓国で住み着くケースも増えているようである。この国では韓国は夢を実現する地として知られているらしい。
こうした韓流ブームには、当然であるが、問題も付きまとう。ウズベキスタンにはあまり興味を示さない韓国人だが、例外の人たちがいる。キリスト教の猛烈信者たちである。夏の観光シーズンになるとソウルからタシュケントまでの航空便がよく満席になったり、チャーター便ができたりするが、それはウズベキスタンに行く韓国人のキリスト教宣教団が急増するからだという。韓国の大型キリスト教会は、だいたい、中央アジア、なかでもイスラーム色の最も強いウズベキスタンで活発な宣教活動を展開している。彼らが現地で様々な問題を起こし、現地警察に摘発されて追放されるケースも増えているという。真偽のほどは確かではないが、ウズベキスタンのイスラム・カリモフ大統領がつい最近「もうこれ以上、ウズベキスタンを外来宗教のゴミ捨て場にはさせない」と警告したようであるが、それは韓国の宣教団に当てた警告であるらしい。アフガニスタンでも韓国人宣教団がターリバーンに人質にされ物議を醸した事件があったが、同胞たちの自制を願いたい。
----------------------------------
<玄承洙(ヒョン・スンス)☆ Seungsoo HYUN>
2007年東京大学総合文化研究科より博士学位取得(博論は『チェチェン紛争とイスラーム』)。専門はロシア及び中央ユーラシアのイスラーム主義過激派問題。韓国外国語大学中央アジア研究所勤務の後、2008年4月より国会議員李相得政策特別補佐官。SGRA会員。
----------------------------------
-
2008.09.19
留学生の支援と同時に、CISVという異文化理解と平和教育を行うグローバル組織でボランティア活動をしている(www.cisv.org 参照)。世界各国から参加者が集まって2~4週間の短期合宿生活を送るもので、11歳から成人まで年齢にあわせたプログラムがある。現在、73カ国が参加しており、毎年世界各地250箇所で開催され、参加者は8000人。日本からも毎年150名を越える参加者を送り出し、各国から同数の参加者を受け入れている。
CISVはアメリカの児童心理学者のドリス・アレン博士によって始められ、1951年に第1回目のキャンプがアメリカのオハイオ州で開催された。しかし、現在、国際事務局はイギリスにあり、参加者もアジア太平洋地域が10%、南北アメリカ地域が30%、そしてヨーロッパ(一部中東とアフリカを含む)が60%と、圧倒的にヨーロッパが多い。また、国際総会では一国が一票を持つので、当然、方針決定は参加国数が多いヨーロッパが強い。つまり、いろいろな決まりごとの「国際標準」は欧米、特にヨーロッパがとることが多い。
57年前に最初に開催されたのは、CISVの中では最年少の子どもたちを対象としたビレッジと呼ばれる国際プログラムである。そこでは11歳の男子2名と女子2名と21歳以上のリーダー(引率者)がチームを作り、12カ国から12チームが集まって4週間の合宿生活を送る。遠足、オープンデー、ファミリーウィークエンド(ホームスティの週末)以外は、殆ど外部とは遮断された状況で、様々なゲーム、スポーツ、音楽やダンス、図画工作などを通して、文化の違う人たちとどうやって一緒に過ごすかを体験しながら学ぶ。ボランティア組織ながらも、当初より児童心理や教育に携わる学者が関わっており、50年の歴史があるから活動内容や経験の蓄積も豊富で、CISVの目的に沿う教育効果を得ることができるように指導者研修なども充実している。英語が公用語なので、参加者の中で一番話せないのが日本人だったりすることは珍しくないようだが、それでも11歳の子どもたちは言葉がなくても十分楽しめる。4週間が過ぎてキャンプが終わる時には、皆大泣きして別れを惜しむことになる。この11歳の体験が、大人になってから物事の判断に大きな影響を与えるという。
その11歳プログラムの中に「ナショナルナイト」がある。お国自慢の夕べである。日本のナショナルナイトには、日本的な料理を振る舞い、はっぴを着てソーラン節を踊り、筆で外国の友だちの名前を書いてあげたりする。上述のように、圧倒的に欧米諸国からの参加者が多いので、珍しい日本文化紹介はとても人気がある。日本の子どもたちにとっては、初めてゆかたを自分で着たり、ソーラン節を習ったりする自国文化を知る機会でもあるし、それによって英語はできなくても人気者になれるので自信をつけるチャンスでもある。つまり自己アイデンティティーを確立できる。もし空手などできたら、その子はもうキャンプのヒーローである。
ところが、14~5歳のサマーキャンプというプログラムになると「ナショナルナイト」はもうない。日本でいう中学生以上のプログラムには、それぞれテーマがある。たとえば、そのキャンプのテーマが「差別」だとすると、参加者はチームごとにそのテーマについて自国の状況を調べてきて発表したり、そのテーマに沿ったセッションを企画したりする。つまり国境を越えた共通の大きなテーマについて、参加者がそれぞれの角度から参加し、皆で考える。必ずディスカッションになるから、英語にもディスカッションにも慣れていない多くのアジアからの参加者にとっては結構大変である。珍しいからと注目を浴びることも少なくなる。民族衣装も特別料理もいらない。キャンプによって若干の違いはあるが、基本的にはお国自慢はもう卒業したのである。
毎年イースターの休みの頃に、国際プログラムのリーダーやスタッフ、そしてジュニアたちの研修のため、アジア太平洋地域、アメリカ地域、そしてヨーロッパ地域の3か所、計5か所でワークショップが開催される。その中で、唯一、「ナショナルナイト」をするのはアジア太平洋地域である。特にアジアの国々の参加者にとって、これは一大イベントである。皆、民族衣装を用意し、歌と踊りを練習して披露し、それぞれの国で人気のあるお菓子を持参し、盛大にお国自慢を楽しむ。実際、アジア諸国の文化がどんなに多様であるかを知る良い機会でもある。
しかし、たとえば、北ヨーロッパ地域のワークショップに集まった、スウェーデンとデンマークとオランダの中高校生たちが民族衣装を持参してお国自慢の夕べをすることは考えられない。彼らは既に「大人」の組織とは独立して、ジュニア部会を独自に運営しており、最先端のIT技術を駆使して、グローバルなネットワークを構築している。彼らの関心は、お互いの考え方や文化の差を知り、それをどうやって調和させていくかというよりは、いかに自分たちのグローバル組織を運営し、発展させていくかということなのである。ラテンアメリカも含む欧米のジュニア達の活動を見ていると、彼らにとって国境はあるのか、移動する航空運賃だけが問題なのではないかと思うほど、いとも軽々と実際に、そしてバーチャルに飛びまわっている。
日々の活動でそんなことを感じていたところ、先日、「EUが挑む民主主義」という新聞記事に興味をひかれた(朝日、2008年9月14日)。そこでは、ロンドン大学のヒクス教授の言葉を次のように引用している。「欧州議会の議決は『今や8割程度が議員の出身国ではなく政治会派に分かれて争った結果』。左派議員は国籍にかかわらず、環境問題では規制強化、移民には開放的、財政支出は増やす政策への投票傾向が強いのに対し、右派はその逆という。理事会でも閣僚らは必ずしも自国の損得で動かず、EUレベルで政策の適否を論争することが増えていると見る。『EUでせめぎ合っているのは各国アイデンティティーではなく政治思想だ』」
CISVの国際総会でも、ヨーロッパ各国の若い代表たちが、自分の国の利益というよりは、国際組織がどのように進むべきなのかということを中心に議論する姿を眺めていると、この「EUが挑む民主主義」も当然の展開のように思う。全てヨーロッパに学べばいいというわけではないが、グローバル化の大きな流れが逆行するとは思えないし、アジアの独自性を叫んでいるだけでは差異が広がるばかりであろう。欧州で進んでいる改革を知り、その意味を理解する必要はあるのではないかと思う。そして、国境を超えた地球規模の利益、あるいは人類の普遍的な価値を考える広い視野を持たせ、それを国際の場で語る力を養う教育の必要性を感じる。そのためには、あえてお国自慢を卒業させる必要がある場合もあるかもしれない。
------------------------------------------
<今西淳子(いまにし・じゅんこ☆IMANISHI Junko>
学習院大学文学部卒。コロンビア大学大学院美術史考古学学科修士。1994年に家族で設立した(財)渥美国際交流奨学財団に設立時から常務理事として関わる。留学生の経済的支援だけでなく、知日派外国人研究者のネットワークの構築を目指す。2000年に「関口グローバル研究会(SGRA:セグラ)」を設立。また、1997年より異文化理解と平和教育のグローバル組織であるCISVの運営に加わり、現在英国法人CISV国際副会長。
------------------------------------------
(2008年9月19日)
【読者の声】
今西さんのCISVに関するSGRAメールを拝見して、嬉しくなってメール致しました。
エッセイ、大変興味深く読ませて頂きました。CISVの北欧のキャンプのことなどを思い出し、今西さんのご意見は、考えてみると本当にその通りだなと実感しました。
彼らは確かに「お互いの考え方や文化の差を知り、それをどうやって調和させていくか」というフェーズを飛び越えて、さらに一歩広い世界から物事を考えているように感じます。世にいうグローバルシティズンなんだなあと。
ヨーロッパは歴史や宗教、大まかな民族のバックグランドに関しても、アジアより共有していることがたくさんあるのは確かです。そんな前提を考慮しても、「EUが挑む民主主義」の国家や民族の枠組みを超えた考え方は、日本から見ると本当に異質だと感じます。
アジアが例えばASEAN+3のような地域間枠組みを今後想定したとしても、ヨーロッパのような国家を超越した考え方を、人々がすぐにできるようになるとは、日本人の私にはとても想像できません。
自分は、頭ではそういった考え方を理解しても、なかなか「日本」・「日本人」というパースペクティブを抜かして物事を考えられないのが現実です。これも島国・日本でぬくぬくと育ったせいなのでしょうか。
どちらの考え方がいいとか悪いとかではないと思いますが、今西さんもおっしゃる通り国際社会の中で、世界をまたにかけて主導的役割を果たすには、そうした〝世界的視点〟も持てることは非常に重要であると考えます。
そしてそのために日本人は語学力であったり、世界で影響力を行使する経験をたくさん積む必要があるとひしひしと感じます。(こうやって「日本人は・・」とすぐに日本視点で考えること自体、私が「島国・日本人」を抜け切っていない証拠なのかもしれませんが・・)
私事ですが日本でサラリーマンをしていると、視野を広げようと意識はしていても、気付くとどんどん視野が狭まっています。今回のエッセイを読ませて頂き、改めて自分の世界を広く持ち、色々な考え方ができることの大切さを再認識しました。どうもありがとうございました!
ゆぶ
(2008年9月26日)
-
2008.09.16
帰国してもう2年半が経とうとしています。帰国後、留学中の8年間の変化というものを目の当たりにして「浦島太郎」になった気分でしたが、いまだに「ここはどこ?」という心境です。 エッセイを書き始めた頃は、今韓国で流行っているものなどを中心にお伝えしていこうと思っていましたが、なんだかねた切れ気味になってしまいました。そんなところ、キャンパス内で目に入ってきたものがありました。それは「無料帰省バスの運行」についての張り紙でした。
もうすぐ(9月14日)韓国は秋夕(旧暦のお盆のようなもの)です。日本ではお盆は夏休み中なのですが、韓国では旧暦ですごすため毎年9月か10月と日にちが違ってきます。今年はいつもよりも早く9月の中旬で、残暑がきびしいため秋の収穫への感謝という感じがうすれてしまった気がします。
さて、この秋夕はお正月(旧暦)と合わせて韓国では民族大移動の日となるのですが、お正月と違って秋夕は学期中なので大学の授業は休講となることがしばしばあります。帰省の電車やバスの切符がとりにくく、休日となる前日に帰省し、連休明けの次の日に戻ってきたりするため、帰省する人数の多いクラスは休講となることが多いのです。休講でない場合でも、帰省のためやむなく欠席する学生を出席と認めたりすることもあります。それだけではなく、帰省する切符が買えなかった学生のため無料バス(学校によってはバス代を払う場合もあります)まで運営しています。この帰省バスの運行は学生福祉委員会が毎年行っているようです。無料という魅力の上に同郷の学生と帰省する楽しみまで味わえます。路線によってはお弁当やお土産も出るそうです。こういうことは日本のように交通費の高い国では考えられないことのような気がします。韓国の物価も日本並み(日本以上のものも)に相当上がりましたが、なぜか交通費だけはそれほどでもないため可能なのでしょう。また、日本だと北海道から九州までバスでというと気の遠くなるような距離ですが、韓国は日本ほど国土が長くないということもあるのだと思います。
秋夕は前後1日ずつを休みとして3連休となっていますが、運がよければ週末と合わせて5連休にもなります。しかし、今年は誰もが最悪と言うように土日月のたったの3日だけの休みとなりました。しかも土曜日はもともと休みの人も多いので月曜日が休みというだけです。つくづく振り替え休日制度を取り入れてほしいと思います。
このご時世、秋夕をめぐる行事もずいぶん簡素化されてきました。秋夕の2週間ほど前に先祖のお墓の雑草を刈る行事があります。今は火葬も増えましたが韓国の一般的なお墓は山や丘の傾斜面に土葬した封墳がほとんどでした。このお墓に芝が植えられているのですが、この時期になると雑草がぼうぼうと生い茂るため、秋夕の前にあらかじめお墓をきれいにしておくのです。これまた地方にあるため週末を利用して帰省して行います。この草刈、親戚一同が集まり一族のお墓全部(ほとんど近くに集まっています)をするため相当な時間と労働力を要します。今は、多くの人が実家を離れて暮らしており、また少子化に伴い家族構成員が減少しているため、実際この草刈をすることは非常に大変なことです。予定した日が雨になることも多く、実際私も(まだ1度しか参加したことはありませんが)ちょうど台風がきていたため大変な経験をしました。そこで現れたのが、草刈代行業者です。帰省する費用より業者さんに頼むほうが安上がりだし、地元の業者なので週末にこだわらずいつでもできるということもあり、最近では大盛況らしいです。
数年前から法事の際のご先祖へのお供え物の料理を代行して作ってくれる業者があらわれたり、その料理を持って連休を利用した海外旅行先でご先祖への法事を行う人もいるというニュースを聞いたりしましたが、こうも変わっていいものかと思ってしまいます。
このような韓国内のめまぐるしい変化の流れに乗れず、私一人取り残されてしまうような気がします。「浦島太郎」の結末ってどうだったかなと、気になる今日この頃です。
-------------------------------------------
<韓 京子(ハン・キョンジャ)☆ Han Kyoung ja>
韓国徳成女子大学化学科を卒業後、韓国外国語大学で修士号取得。1998年に東京大学人文社会系研究科へ留学、修士・博士号取得。日本の江戸時代の戯曲、特に近松門左衛門の浄瑠璃が専門。現在、徳成女子大学・韓国外国語大学にて非常勤講師。SGRA会員。
-------------------------------------------
-
2008.09.12
これは十年ぶりの生まれ育った故郷への訪問だ。ここには幼い頃の数多くの思い出が残っている。あのころ、私は山のぼりが大好きで、よく山に入って、杏、モイル、ウレル、オラーガナなど、野生の果物を拾って食べた。時にはキノコ採りに行ったり、家畜を探しに行ったりもした。今回、私が里帰りを決断したのは、時間の流れにつれて薄れていく少年時代の記憶の再現と、故郷の土から新たなエネルギーをもらうためである。
しかしながら、私のその思いがいかに愚かで、なおかつ幼稚であったかということを、私が故郷の土を踏むや、悟ったのである。というのは、この十年ぐらいの間に、私の故郷は余りにも大きく変化していたからである。
翌日、私は車で草原へ出かけた。そこは私にとっては知恵と命の源であり、昔は至る所が家畜の群れであふれていた。ところが、今、その風景はまったく変わっていた。群れる家畜どころか、人間の影さえほとんどなかった。私は空しくなった。その原因を隣に座っていた運転手さんから聞いたところ、彼は、「近年、環境保全型移民政策の導入によって、多くの人が故郷を離れ、町に移住することを余儀なくされた」と、説明してくれた。なるほど、最近、話題となっている、いわゆる「生態移民政策」とはこんなものなのか、以前本で読んでいたことを、こうして体で実感することとなった。だが、正直に言えば、こうした現実を素直に受け入れる勇気は私にはなかった。とりわけ、生まれ育った故郷から追い出された人々の現状を考えると胸が痛くなった。
私は、せっかくの里帰りなので、「変なことを考えないほうがいい」と、自分に言い聞かせるように呟き、現実から逃避することを試みた。まさに自分との戦いであったが、なかなか思い通りにいかなった。
西の方を眺めていると、列車が走っていた。鉄道ができたのだ。何のために? 運転手さんが、北のほうで露天炭鉱が発見されたからと教えてくれた。そういえば、夕べのテレビで、これから産業開発を重点的に行うというニュースが流れていたことを思い出した。
ところで、ここは私にとっては、思い出の場所なんだよ。あのころ、そこには、「ボロガース」という柳の枝のような植物が大量に生えており、冬になると、ウサギの罠を仕掛けていたんだよ。今は砂漠と鉄道以外はなにもないようだ。
その変化の速さに私は驚いた。
いったい、なぜ、こんなに猛スピードで砂漠化が進行しているか、最近の研究、記事などについてちょっと考えてみた。海外の研究では、漢人の入植と開墾に一因があると主張しているのが多いが、中国では、家畜の増産、とりわけヤギの繁殖にその原因を求めているようだ。またも政治と学問の癒着ということか。聞いてみたら、運転手さんの見解も後者のほうであった。私は反論しようと思ったが、途中であきらめた。彼には彼の事情、私には私の人生があるからだ。
しばらくたったら喉が渇いたことに気づいた。この辺で、誰かの家に寄ってお茶を飲みましょうと運転手さんに提案した。「みんな移住してしまったから、おそらく無理だろう」との返事だった。仕方がない。なら、あの先祖から祭られてきた聖なる山に登って、祈りをささげてから帰ったらどうかと聞いた。彼は同意してくれた。
二人で山へ向かって車を走らせた。まもなく検問所に行き当たった。「自然保護区」との看板が掛けられ、観覧するだけでも、料金を払わなければならないことになっていた。さらに、不思議なのはその経営に当たっていたのは、なんと南のほうからやってきた開発商人であった。違和感があったが、従うしかなかった。私はその検問所に立っていた人をじっと見つめた。どう見ても違う顔であった。それが私ができる唯一のことであった。自分の無力さを痛感した。
「もう充分!」私は何も語らずひたすら山頂へ向かった。頂上に着くや、モンゴル人の慣習どおりオボー(石を円錐状に積み上げたもので土地の守護神が宿るとされている)を三週回り、合掌しながら祈りをささげ、最後に、自分のもってきた供物を供えておいた。そうしたら運転手さんが、「気持ちを表すぐらいでいいじゃない。何を供えておいてもすぐ持って行かれちゃうから」と言った。彼の言葉の意味をよく理解できなかった私が、その理由を聞いたら、彼は山の右側のふもとを指差しながら説明してくれた。その方向に目を移すと、そこには大勢の人が石の採掘作業をしていた。彼の話では、それらの人はみんな外地の労働者で、開発商人が連れてきたという。
私の気持ちはもはや限界に達した。「だって、ここは自然保護地域でしょう?だって、我々は、入場料を払って入ってきたでしょう?だって、これは我々の聖なる山でしょう?」私はいきなり多くの質問を運転手さんに向かってぶつけた。なんの返事もなかった。当然のことだ。私は狼に押さえられた子羊のように、最後の力を搾り出して、大声で叫んだ。それでも反応はなかった。戻ってきたのは山の響きだけであった。それも当然といえば当然なことだ。なるほど、ここではすべてのことが当然のように行われているようだ。
--------------------------------
<ガンバガナ ☆ Gangbagana>
中国内モンゴル出身、東京外国語大学地域文化研究科博士後期課程在籍、内モンゴル近現代史専攻。
--------------------------------
☆このエッセイは、2007年度渥美国際交流奨学財団年報に投稿していただいたものを、筆者の許可を得て再掲載しました。
☆会員のマイリーサさんより、下記の書籍をご寄贈いただきましたのでご紹介します。
小長谷有紀・シンジルト・中尾正義 編
地球研叢書「中国の環境政策:生態移民―緑の大地、内モンゴルの砂漠化を防げるか?」
マイリーサさんの論文「『生態移民』による貧困のメカニズム」も掲載されています。
-
2008.09.09
1985年より、安徽省南の山間部に点在している八十箇所の企業や公共施設が廃業し、二万人以上の上海人が帰郷の途についた。
1960年代、三人の子どもが次々と上海を離れた後、祖母は家を売り払い、南京の伯父と同居することにした。そのため、母は「上海に帰る」とは言っているが、実際帰るところはなかった。母は時々、もし祖母が上海を離れなかったらと悔しそうに言う。私にはそれがかえってよかった。当時、上海では人口が密集し、住居が著しく不足していた。地方で長年苦労したとはいえども、引き揚げてきた兄弟を誰もが快く受け入れたわけではなかった。法廷にもつれ込んだ骨肉の争いも決して珍しいことではなかった。母と違い、私は「血のつながり」に対して、いかなる本質主義的な幻想を抱かなかった。
もっとも、上海に戻ることは、決して「上海人」に戻ることではない。「上海人」は安徽省の山奥にいるときにだけ「上海人」であったが、一旦上海に戻り、別々の会社に分かれていくと、こんどは安徽省での生活経験を共有する「山裏人」という新たなアイデンティティが形成されるのである。さらに、別々の工場から引き揚げてきた「山裏人」が同じ会社に入り、同じ郊外の農家に間借りし、やがて同じマンションに入居したため、その輪がますます広がったのだ。
「山裏人」は想像の共同体ではない。彼らはそのつながりをフルに利用し、「故郷」での決して楽ではない新生活を切り開いていった。たとえば、洗剤や紙といった日用品は洗剤会社や製紙会社に勤めている「山裏人」からもらい、自転車やカメラといった当時の人気商品は、自転車会社、カメラ会社のかつての同僚に、安く購入できるよう便宜を図ってもらう。時計が壊れたら、時計会社に配属された「山裏人」の友人に届ければ、無料で修理してくれる。引っ越す時に、「山裏人」のドライバーさんに電話すれば、かならず手伝ってくれる。誕生会や、定年、還暦、子どもの結婚式、初孫の満月祝いまで、人生のあらゆる重要な場面において、彼らはともに喜怒哀楽を分かち合っていた。親戚すら一目置く存在である。
かといって、「山裏人」は決して新しい環境に疎外感を覚える外来者の集団ではない。むしろ新しい同僚や友人関係に自然に溶け込めるのがその特徴である。というのは、彼らを結び付けるのは、郷愁でも利権でもない。ただ単に、同じ境遇であったという理由から生まれた一種の親近感と義侠心、それに、助け合いながら生きるという習慣にほかならない。だから、彼らに団結、友愛、無私といった徳目を押し付け、道徳的にもちあげるのは筋違いだろう。ただ、年を重ねるとともに、その利己心は生きることへの執念のように映り、多少の「不正行為」も一種の柔軟性と受け取れなくもないと、私も思うようになった。
母が上海に戻った最大の理由は、よい教育環境で子どもたちを育てたいからだ。ただ、親にとっての「よい教育環境」と子どもにとっての「よい教育環境」とは必ずしも一致するとは限らない。
初めて上海に来た時、すでに上海の中学校に通っていた兄は自分の小遣いでアイスキャンディを買ってくれた。田舎ではアイスキャンディは紙で包むため、その密封したビニール袋をどう開ければよいかと戸惑っている私の顔を見て、兄は得意げに封を切って見せた。彼にとって、そのビニール袋はまさに都市文明の象徴であったのだろう。学校の寄宿舎に泊まっていた兄は、週末になると、ふらりと街に出る。同級生はみな家に帰るが、彼だけは、一人で映画を見たり、ラーメンを食べたりして、またふらりと校舎に戻る。上海は兄にとって、優しく包んでくれた空気のような存在である。彼はこの街に深い感情を抱いている。飲み水がまずいとか、青空が見えないとか、街路樹の葉に黒い煤煙が覆われているとか、いちいち目くじらを立てる私とは対照的であった。二人の心に、異なる原風景が描かれている。
河北、安徽、南京、上海と四つの小学校を転々としていた私は、常によそ者だった。よそ者として来て、またよそ者として去る。しかも、どういう経緯でやって来たのかも、うまく説明できない。子どもなのに、話そうとすると長くなってしまう。特別ではないけれども、理解してもらうには複雑すぎる。自分が何者であるかを説明するために、母の人生を理解しなければならない。母の人生を理解するためには、国家の歴史を知らなければならない。そう思うようになったのはつい最近のことである。
「三線建設」は、1960年代初、アメリカ、旧ソ連との緊張関係の中で、戦争に備えるために西南、西北、中央の山間部で始めた大規模な工業、交通、国防建設を指す。1980年まで、2千億元以上の資金と、数百万の人員が投入され、1100以上の企業や関連施設が建造された。80年代に入ると、多くの軍需企業が民需企業に変わり、近辺の中小都市に移転した。現在、沿海都市から「三線」に移ってきた人々の中で、もとの居住地に戻った人と、地元に残った人との間に、生活水準に歴然とした差がある。「三線建設」の成果に関して、農民から多くの農地を奪い、巨大な物資と人力を浪費したと指摘し、「間違った時に間違った場所で行われた間違った建設」だと批判する人もいれば、いくつもの重要な工業都市が形成され、東西経済発展の格差を是正したと、評価する人もいる。
上海地方誌弁公室は、1966年から、安徽省績渓県績北道路沿線に建設された、上海軽工業局管轄下の「三線企業」を次のように取り上げている――1971年に生産を始めてから1983年まで、57ミリの砲弾402.8万発を製造。1978年に民需品の生産に切り替えてから、扇風機25.98万台、置時計61.59万個、腕時計の部品15万個、自転車のチェーン225万本、石炭コンベヤ82台等を製造。総生産額5.09億元。
偶然にも四川大地震の際に、日本の報道番組で珍しく「三線建設」という言葉を耳にした。なぜすぐに日本の救援隊を受け入れないかと追及された解説委員は、四川省にかつて「参戦建設」が行われていたため、いまだに軍事関連施設が多く残されているからではないかと分析した。
政党、政権、政策を中心とする歴史叙述は、所詮政党、政権、政策の歴史にすぎない。国家によって翻弄された個人の歴史に関する叙述も、おおかた、個人を翻弄する国家という観念を前提とした、国家の歴史に関する叙述にほかならない。現代中国の歴史と現状は、個々人の人生において異なる紋様として顕現された歴史と現実を見つめることによって、初めて見えてくるのではないだろうか。その意味で、国家の歴史が母の人生を理解する鍵というよりも、むしろ母の人生が、国家の歴史を照射する光源ではないかと思われる。
数年前、母の友人が、すでに廃屋になった安徽省の山奥のマンションを購入した。かつて住んでいた部屋を改装し、いまは別荘として悠々と暮らしている。人は、最後にどこを「安住の地」として選ぶのか。それだけは、国家の政策によって決められるものでも、また国家の歴史から想像できるものでもない。
--------------------
<孫 軍悦 (そん・ぐんえつ) ☆ Sun Junyue> 2007年東京大学総合文化研究科博士課程単位取得退学。現在、明治大学政治経済学部非常勤講師。 SGRA研究員。専門分野は日本近現代文学、翻訳論。
--------------------
「山裏人(その1)」
-
2008.09.05
前回のエッセイ「ところでシンガポール人は何語を喋るの?」が掲載されたあと、僕はすぐさま上のタイトルのような質問を受けました。「実験国家」であるシンガポールで生まれ育った僕が国のことでいろいろ質問されるのにはもう慣れっこなのですが、こんなに早く反応が出るなんていささか驚きを覚えると同時に、嬉しくも思いました。
そうなのです。世界広しといえども、漢字の簡体字が使われているのは、中国と国連以外に、シンガポールだけなのです。同じ東南アジアのマレーシアやタイの華人社会でも簡体字が使われていますが、それほど徹底的ではないようです。したがって、政府の公文書まで漢字の簡体字が完全に使用されている国は、中国とシンガポールだけということになります。そこへタイトルの質問です。
「東南アジアの中国」と見られるのを恐れ、シンガポールが中国と国交正常化を果たしたのは、意外にも1990年になってからのことであり、アセアン原加盟国(シンガポール、インドネシア、マレーシア、タイ、フィリピン)の中では一番遅かったのです。ただ、それはあくまでも1990年になってやっと中国と国交を結んだ「アセアンの兄貴分」であるインドネシアの顔を立ててあげなければならないという小国ならではの諸事情があるためで、シンガポールと中国との関係が悪いからということでは決してありません。それどころか、中国系住民の多いシンガポールと中国との関係は戦前から非常に親密であり、日中戦争が勃発したときも、シンガポールは東南アジアの抗日運動や中国への献金運動の拠点となり、それゆえにその後シンガポールを占領した日本軍がまずおこなったのが中国系に対する粛清であったという話についてはシンガポール人なら皆学校で学んでいます。また1975年にシンガポールの外相が初めて中国へ公式訪問したときにも、中国側がシンガポールを「親戚国」と呼んで大いに好意を示したことも有名な話です。ところが、独立後のシンガポールはすでに「遠い親戚より近くの友人」と決めており、そのため1976年に訪中した当時のリー・クアンユー首相はシンガポールの「中国性」を否定し、両国がもはや「親戚」ではなく、「友人」であると中国側に強調しました。「親戚」であれ「友人」であれ、国交がなくても中国とシンガポールは常に友好関係にあり、長らく貿易の拡大が図られたり、政府要人の相互訪問が重ねられたりしてきたことは明らかです。国交正常化なんて建前に過ぎず、共存共栄関係を保ち、商売ができればそれでよしという逞しい商魂が見え見えです(笑)。
さて、簡体字の話に戻りましょう。親密なる「友人国」であるうえ、アジアの大国でもある中国に小国のシンガポールが文字の使用において追随するのは合理的なことだといえましょう。実際に、シンガポールが簡体字の全面使用に踏み切ったのは独立した4年後の1969年であり、ジャーナリストの友人の話によれば、当時の二社の華字紙(中国語新聞)「星洲日報」と「南洋商報」の紙面もそのすぐあとの1970年の1月5日から簡体字への転換を図りました。そして言うまでもなく、独立した当時から進められた二言語政策のもと、簡体字の使用が中国系生徒の負担を軽減することにも当然つながりました。ところで、シンガポールの中国系の中に福建系が多数を占めていることから、そもそも北京語はそぐわないのではという質問も受けましたが、福建系が多数を占めるといっても中国系全体の半数にも満たない四割程度です。2000年の国勢調査によれば、シンガポールの中国系に占める福建系の比率は41%であり、残りについては潮州系21%、広東系15%、客家系8%、海南系7%、その他8%となっていますから、福建語が中国系同士の共通語になるはずもなく、標準語である北京語が共通の言葉としての役割を担うしかありませんでした。また、たとえ福建語が共通語になれたとしても、書き言葉として簡体字が選択されたのであろうと考えられます。
簡体字に対して好き嫌いがあるようですが、漢字を簡略化することによって、非識字者の一掃と中国語の普及に大いに効果があったと僕は思います。また僕はこの分野の専門家ではないのですが、『中国の漢字問題』(1999年・大修館書店)という日本と中国の学者が編著した本によると、漢字の簡略化の歴史は非常に古く、千数百年もの間に民間で実に多くの簡体字が使われてきたようで、それらの簡体字の統制を中国が1950年代に強化し規範化したのが現行簡体字の原型だそうです。もっとも、コンピュータ技術の進歩に伴って漢字が簡単にワープロで打ち出されるようになり、漢字を手書きする機会もぐんと減った今とあっては、果たして漢字を簡略化することに対してこれからもこだわりを持つ必要があるのかという意見もありますが、皆さんはいかがお考えでしょうか。
-----------------------------------
<シム・チュン・キャット☆ Sim Choon Kiat☆ 沈 俊傑>
シンガポール教育省・技術教育局の政策企画官などを経て、2008年東京大学教育学研究科博士課程修了、博士号(教育学)を取得。現在は、日本学術振興会の外国人特別研究員として同研究科で研究を継続中。SGRA研究員。
-----------------------------------
-
2008.09.02
2008年8月5日から25日までのマニラの滞在の最大の成果は、渡日する前の古いネットワークにほぼ再接続できたということである。大学、大学院、職場で一緒だった古い仲間と再会して、そのネットワークをフルに活躍できるように再起動できたと思う。これは海外にいる人がだれでも望むことであろう。これからの課題はこの母国のネットワークを活用しながら、どのように日本のネットワークと有効的につなげていくかということだ。SGRAの研究員であるだけでも自動的に日本と母国との懸け橋を整備できるが、SGRAを重要なパイプにして、日本にいる仲間たちを向こうの仲間たちに接続できればと思っている。
その第1歩として、自動車産業の共同研究では、SGRAの仲間(李鋼哲さん)を通して出会えた名古屋大学の平川均教授を、僕の大学院(修士課程)とその後の職場でも一緒だったフィリピンのアジア太平洋大学(UA&P)の経済学部の仲間と接続した。平川さんは、今年の夏は海外の出張が多いためマニラ訪問を控えられたが、また12月に行かれる予定です。
北京オリンピックの開会式の前日、UA&PとSGRAの共催で、自動車産業についての第8回目の共有型成長セミナーを開催した。このセミナーで自動車産業の共同研究の第1ラウンドは終了することになった。しかし、僕は政府の関係者や自動車産業組合と引き続き連絡をとっている。政府との交渉という第2ラウンドに研究を発展させるための準備作業だ。第1ラウンドの研究の委託者である大手日系自動車企業と政府の関係者は僕たちの研究内容を高く評価してくれているが、今は、今後のラウンドについて産業側の決断が出てくるまで待機状態である。
第2歩としては、僕が東京大学の博士課程の時に、チューターだった東京大学の中西徹教授を、UA&Pで都市と地方における貧困問題を研究する仲間たちと接続できた。前回に引き続き、今回の滞在でも中西さんはUA&Pの貧困問題の研究班長と会議して、12月にUA&Pの定期出版物に共同記事を投稿し、2009年の4月にUA&Pでワークショップを開催し、さらに来年の後半にはフォーラムを開催するという予定ができた。この共同プロジェクトについては、将来的に共同研究資金助成を申請して研究員の交換を想定している。
ちょうどスペインから一年半ぶりにフィリピンに帰ってきた、SGRA軽井沢フォーラムにも参加したことがあるUA&Pの経営経済学・IT研究部の運営委員会の会長になったヴィリエガス先生にもお会いすることができ、中西さんと僕の指導教官であった高橋彰教授が今年亡くなったことを彼に伝えることができた。僕たちは東京大学で高橋先生に大変お世話になって、ヴィリエガスさんにも紹介したことがある。フィリピンの資金によりフィリピン大学へ留学され、フィリピンを対象とする研究をされた最初の日本人の研究者ともいえる高橋先生のために、敬虔なカトリック教徒のヴィリエガスさんは、お祈りをささげてくださると約束してくださった。
第3歩として、大学時代とその後の職場の仲間たちと連絡を取り合い、3つ目のプロジェクトである船舶工学の教育プログラムのプロジェクトを今後どうするか、更に細かく話し合った。マニラに到着した翌日、すぐにスービックの元上司のところに行って研究用のデータの収集を始めた。日本のODAで実施した2005年12月の分厚い調査研究報告書をお借りできた。元上司はマニラにあるマラカンヤング宮殿から帰ってきたばかりでちょっと遅れてきたが、面談の時間をたっぷり割いていただいた。そして、僕の活動を正しものだと認めてくださり、お手伝いしますよ、という心強い言葉をあらためていただいた。大統領からスービックをMARINATE(船舶産業を中心に発展させるというちょっとした駄洒落)せよという命令をいただいたそうである。
12月には、またスービックに行く予定である。今度はフィリピン大学の機械工学部の仲間たちを連れて行こうと企画している。フィリピン大学の機械工学部における船舶工学の教育プログラムの設立について提案を発表させていただくためである。まだ発表の内容は準備中だが、発表日の午前中に政府関係者であるスービック湾管理局と、午後には民間の造船所の幹部たちと会議をする予定にしている。自動車産業と同様にここでも共有型成長に貢献し、NGO・NPO(政府でもなく、企業でもなく)という発想を生かしたいと思う。ただ、今回はUA&P・SGRAではなくUP(フィリピン大学)・SGRAの活動としてやりたい。無論、経済学の僕の専門も利用するが、工学の仲間たちとやっているので、僕の工学の側面をもう少し復活させながら活動するつもりである。(嬉しいことに、こんなに工学から離れていたのに、ここで教えないかという誘いを受けている)
東京に帰る数日前に、もう一人の造船所時代の上司(当時社長)と再会できた。これで母国での古いネットワークとの再接続が完了したと考えてもいい。彼はなんとUA&Pから歩いて5分ほどにあるところで、船の乗組み員の人材会社の社長として務めている。しばらく造船産業から離れたが、彼の同僚の誘いで改めて造船所(スービックになるかもしれない)を立ち上げるという企画もあるようである。自動車産業と同様に、フィリピンの造船産業には潜在的な可能性があるのだが、いろいろな問題があって、本来の力がなかなか発揮できない状態にあるようである。彼もこの産業についての僕の活動の進展を期待してくれている。
先の第1歩と第2歩と同じく、この第3歩にも日本と母国のネットワーク接続を試みたいと思う。しかし、日本側のパートナーは、今までと違って大学ではなく、できれば民間部分と接続したい。以前、フィリピン大学が船舶プログラムの立ち上げについてフィリピンに進出した韓国の大手造船所から接触されたことがあったが、どうやら上手くいかなかったようだ。もう一回その可能性を探りにスービックへ行くが、日本の造船所あるいはその関係者ともこの可能性を一緒に展開してみたいと思う。みなさん、心当たりがあれば、ご紹介ください。
考えてみれば東アジアで太平洋に面する列島と呼ばれる国は日本とフィリピンである。世界経済の重点が西から東へシフトしても、状況が良くなっても悪くなっても、西と東を結んで干満する海と昔からつきあっている二つの列島国は、この「水球」における海の重要さについてきっと共通の認識を持っているだろう。船舶の分野においても、お兄さんである日本からの協力を期待したい。
--------------------------
<マックス・マキト ☆ Max Maquito>
SGRA運営委員、SGRA「グローバル化と日本の独自性」研究チームチーフ。フィリピン大学機械工学部学士、Center for Research and Communication(現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、テンプル大学ジャパン講師。
--------------------------