SGRAかわらばん

  • 2008.06.20

    エッセイ139:宋 剛 「国際化と自己本位の狭間に彷徨う若き中国」

    半年も過ぎていないのに、2008年は中国にとって多事多難の一年になりそうだ。オリンピックの開催をきっかけに、幸も不幸も中国は世界の注目を集めている。聖火の輝きとともに、以前から抱えてきた諸問題は、目前に突如起きたかのように目立つ。数万人に及ぶ死者を出した四川大震災ですべての問題がまた瞬時に消えたように錯覚させるが、中国経済に対するダメージは実に大きい。   中国政府の行動に対して外国の多数のメディアは、厳しい視線を浴びさせながら理解不能だという論調をあげている。人権問題が解決されていないのになぜオリンピックの開催を急ぐ? 沿道の観客が見られないのになぜ聖火リレーを続ける? 二万人以上が生き埋めの状態なのになぜ国際緊急援助隊受け入れの決定を遅らせる? 確かに、反面教師の役割を果たしていたミャンマー軍政府がなかったら、日本の救急隊は未だに成田空港で待機していたかもしれない。(ヤンゴンのキンさんをはじめ、ミャンマー出身の国民のみなさん、お許しください。)   国によって数字が違うが、中国は4000~6000年の歴史を誇る大国だと認識されている。恐らく、98%の我々中国人もそう思っているだろう。しかし、今日の中国は未熟の少年なのだ、と私は言いたい。なぜなら、国家の歴史と政権は別次元の問題だからだ。   人民共和国は、60年の誕生日を迎えようとしている。だが、生れて初めてその初々しい目で世界を見ようとしたのはたったの30年前のことだ。孔子は「三十にして立つ」と言ったが、アメリカ合衆国は、世界の頂点まで辿りつくのに二百余年の歳月を費やした。日本もまた、文明開化以来百年以上の試行錯誤を積み重ね、ようやくアメリカに次ぐ経済大国となった。   先進国からみると、現在の中国には子供らしい一面や、不合理に見える部分が存在するのは当然なことだ。そして、未熟な中国は国際化のレールに乗ろうとしているのだ。   国際化とは何か? それは国境線を越えて世界的規模に広がることだとすれば、中国は必ずしも頑丈ではない列車をつくり、信じられない速度でそのレールに乗ろうとしている。なぜなら、世界に取り残されたくないからだ。賃金が何倍も安くても外国資本を招致する、世界中でチャイナフリーと言われても世界工場の座を譲らぬ、四合院が取り壊されても高層ビルに入ればよい、という中国。近代化に熱中する中国には、得失を計算する余裕はもはやない。   しかし一方、プロレタリア階級革命によって植民地の危機から救出された中国は、同じプロレタリア階級革命によって中華民族のアイデンティティーそのものも失いつつあることにようやく気づいたようだ。孔子思想の国内における再認識運動、孔子学院の世界進出、文化大革命時代の行き過ぎた孔子批判は反省され、それとともに、過剰な自己肯定論が広がり、大国意識が目覚めている。   こうして、まだ若い中国は、古代の栄光と近代の屈辱、つまり自己本位を徹底するのか、それとも、完全に他人本位を選び、国際化するのか、そのバランスは如何に調整するのかという狭間の中に彷徨っている。    最後に、チベットの人権問題について、愚見を一言付け加えたい。人間として、生きることは基本的な権利で、何よりも優先すべきだと私は思う。言論の自由や、文化の伝承など、さまざまな問題は確実に存在している。しかし、経済を発展させて、お腹がいっぱいにならないと、すべては空中楼閣なのだ。これは中国が60年を経てやっと見つけた方向なのだ。    ----------------------------------------  <宋 剛 (そーごー)☆ Song Gang> 中国北京聯合大学日本語科を卒業後、2002年に日本へ留学、桜美林大学環太平洋地域文化専攻修士、現在桜美林大学環太平洋地域文化専攻博士課程在学中。中国瀋陽師範大学日本研究所客員研究員。SGRA会員。 ----------------------------------------  
  • 2008.06.17

    エッセイ138:洪ユンシン「思いを形にすることについて~宮古島に建つ日本軍「慰安婦」のための碑に係わりながら~」

    一つの思いが形になる際、そこには、何が残るのか。宮古島に建つ日本軍「慰安婦」のための碑に関わって一年が過ぎようとしている。その間、私は、「何故、沖縄なのか」「何故、宮古島なのか」という質問に度々出会い、政治的な目的や背景があるのではないかと批判され、時には、「女性を偶像化するな」とも言われてきたものだ。この碑をめぐる疑問と質問に、今日は答えたい。私/私たちは、ただ、思いに触れて、その思いを思うがままに行動に移した一人、一人の個人であると。ごく単純に、日本軍「慰安婦」のことを忘れず、彼女の休んだ場所に大きな石を置いて、誰か「朝鮮」から人が来ないかと待っている素朴な農民がいた。そして、彼の証言を聞き、その思いに触れた者達が集まってきたのだと。それで納得いかないと言うなら、今日は、実際に起きた出会いを語ることで、宮古島に建つ日本軍「慰安婦」のための碑に関わった経緯を説明しよう。実行委員会のメンバーとしてではなく、何の目的も持たない私自身の思い出として。   「沖縄戦と朝鮮人」の関係を研究している私は、2006年10月と12月宮古島を訪れた。韓国でインタビューをした朝鮮人軍夫のうち、最も病弱な方が宮古島に強制動員されていたからである。私と宮古島の縁は、このような一人の朝鮮人軍夫との出会いで始まった。部屋に入るや否や「では始めましょう」と正座をしたその方は、始終、姿勢を正し冷静な語調で話をしてくれたが、何処か不安そうに見えた。「動物のなかで一番信用できないのは人間だ」という口癖のような言葉が、私を不安にさせたのかもしれない。彼は、何故か、「慰安所」の話だけは、すべて日本語で語っていた。傍でただ話しを聞くだけだったおばあさんが、「私は『挺身隊』にいかされると聞き、顔もしらないこの人と結婚したのよ」と呟いた一言で疑問は解けたが、あの深いため息や、彼のインタビューが終わるまでイライラしていた彼女の、どこか寂しそうな横顔を、私は忘れることが出来ない。インタビューの終わり頃、おじいさんが前日までは座ってご飯も食べられないくらい元気を失っていたことを知らされた。おばあさんは何と退院の直後であったことも知った。沖縄に出来た「恨の碑」の除幕式に行きたかったけれど、体調が悪いためいけなかったと寂しげに語るおじいさんだった。そのとき宮古島の写真を送ろうとひそかに決めていた自分がいた。こうして、私は、宮古島に足を運ぶことになった。   調査を始めると、思いもよらない証言や人の思いに出会った。この島では、井戸など住民が生活している空間のすぐ傍に「慰安所」があったということが分かった。3万人もの日本兵が駐屯していたため、住民より軍が目立つほどだったという。沖縄本土と違い、山の少なかった宮古島では、軍が組織的に作った「慰安所」を、住民の目から隠すことは不可能に近かったことも分かった。生活空間のすぐ傍にいた朝鮮人軍夫や「慰安婦」の方々の苦労を、宮古島の住民は、生々しく覚えていた。この島で、私は、しばしばあの朝鮮人元軍夫とその妻の寂しげな横顔を思い出させる証言者に出会ったのだが、それは、戦争を経験したおじいさんの顔だったり、この島で何度も危機にさらされたおばあさんの横顔だったりした。その一人が、与那覇博敏さんである。   与那覇博敏さんは、戦時中宮古島で日本軍の司令部が置かれていた地域に住んでいた。そして、彼の実家のすぐ傍に、長屋の慰安所があり、朝鮮人の女性数人が居たという。水の貴重な島では洗濯をするにしろ、井戸に行かねばならない。彼女たちは、坂道を登ってその井戸まで洗濯に出かけた。そしていつも、与那覇さんの実家の前にあった木の下で腰を下ろして休んでいたという。与那覇さんは、彼女たちのことを忘れまいと、石を置いたと話してくれた。そして、二度目の調査の際に、「この石に、韓国語で名前を付けてほしい」と頼まれた。東京に戻ると、どうしても碑を建てたいのだと、一生懸命書かれている与那覇さんの手紙が待っていた。それは与那覇さんの強い希望だった。   2006年、私は、尹貞玉(ユン・ジョンオック)先生の沖縄調査に偶然、同行する機会を得た。宮古島調査からの帰りだった。ユン先生に、与那覇さんという宮古島の人の思いを伝えたところ「彼のように自分を覚えている人が居ることを知ったら、おばあさんたちは、どんなに喜ぶでしょうか」と、碑を建てることにすぐ賛同してくださった。こうして、2007年5月、ユン先生を団長とする「韓国・日本・沖縄」共同調査団が、宮古島に足を運ぶことになった。新聞記事を読んで、那覇滞在の宮古戦体験者の方々からも証言したいと声が寄せられた。同調査団に参加し、どうしても碑を建てたいという与那覇さんの話を聞き、その思いの強さに感動した「聞き手」を中心に、直ちに募金活動が始まった。   2008年、二度目の共同調査を実施。合計15箇所の「慰安所」がこの島にあったことを確認した。宮古島に動員された「慰安婦」の方が韓国に生存していることも確認された。現在(2008年4月)、宮古島・東京・韓国に実行委員会が結成され、広く募金を呼びかけている。証言調査も同時に進めており、16番目の「慰安所」を確認した。沖縄の「慰安所」は130箇所だといわれてきたが、その10分の1以上がこの島に存在したことになる。そして、与那覇さんのようなたくさんの住民が彼女たちについて語っているのである。     2008年8月15日、私たちはこの島の与那覇さんの土地に「日本軍『慰安婦』のための碑」を建てる。私たちは女性を表象化する何の彫刻も建てない。ただそこには、日本軍「慰安婦」であることを強いられた韓国のおばあさんたちの多くが自分自身をその花にたとえ、好んでいた花、ドラジコット(キキョウの花)を一輪置く。宮古島の暑い夏、かつて彼女たちがそうだったように、「希望の木」(2007年5月植木)がこの石に、大きな木陰を作ってくれるだろう。そして、いつか、あの木の下で休もうと、腰を下ろす旅人は、この真っ黒い琉球岩石を、守っているかのように囲んでいる私たちのメッセージと、小さいキキョウの花畑に出会える。そして「慰安婦」となった女性たちの10カ国の言語で刻まれた次の言葉を読むだろう。   「日本軍による性暴力被害を受けた一人ひとりの女性の苦しみを記憶し、全世界の戦時性暴力の被害者を悼み、二度と戦争のない平和な世界を祈ります。」   旅人がこの祈りの文を読み終わった後に、あの与那覇さんの石に目を留め、この場所に連れてこられた女性たちへ思いを馳せてくれればよい。あの戦争中戦場となり日本軍の要塞となった沖縄で生まれ今も米軍基地と共に行き続ける人々の思い出と、ここに座り込んでいた「慰安婦」にさせられた女性たちの記憶は、「希望の木」を植えた人々の手触りの暖かさに包まれる。飾りのない素朴な琉球岩石が、寂しく見えるはずはない。そして、この場をたまたま訪ねた人々の思いが、そもまま「祈り文」となるだろう。これらの営みは、決して形などに留まることのない未来への強い希望として働きかけるはずだ。人の思いは形などに留められない。ただ生きているその人自身の「思い」そのもの、ごく普通の人間の思いそのものが、歴史を動かす力となることを、私は、多くの日本軍「慰安婦」証言者や沖縄戦の語り部に学んだ。それを信じている。   ・ ・・「あなたの思いとして、募金と寄付を、募ります。」   宮古島に日本軍「慰安婦」の祈念碑を建てる会 ●代表:与那覇博敏・尹貞玉・中原道子・高里鈴代 ●賛同金:一口2千円。 ●郵便振替口座:00150-9-540937 ●連絡先:(沖縄)宮古島平良西里989-1      (東京)東京都杉並区阿佐ヶ谷南1-8-6   ------------------------------------------------ <洪ユン伸(ホン・ユンシン)☆ Hong Yun Shin> 韓国ソウル生まれ。韓国の中央大学学士・早稲田大学修士卒業後、早稲田大学アジア太平洋研究科博士課程在学中。学士から博士課程までの専攻は、一貫して「政治学・国際関係学」。関心分野は、政治思想。哲学。安全保障学。フェミニズム批評理論など。現在、「占領とナショナリズムの相互関係―沖縄戦における朝鮮人と住民の関係性を中心に」をテーマに博士論文を執筆中。SGRA会員。 ------------------------------------------------  
  • 2008.06.13

    エッセイ137:キン・マウン・トウエ「ナルギス被災者支援プロジェクト第一回活動報告」

    2008年6月7日朝5時、空はかなり曇っています。今日は、必ず雨が降るでしょう。本日、ミャンマーのサイクロン被害者の方達へ支援活動を行うために、2つのボランティア・グループが合流し、現地へ行くことになっております。最近、政府からは、被害者への支援を行う場合、現地まで行き、直接被災者の方達へ手渡しするようにという正式発表がありました。今回は、私のナルギス被災者支援プロジェクトの運営ボランティア・グループ9名と、友人のミャンマー国内のボランティア・グループから12名が活動に参加してくれました。   集合場所に6時と言うことでしたが、その前にそれぞれ集まりました。準備した支援物資を2台の小型トラックへ運び込み、6時30分に出発しました。今回の支援物資は、お米、食油、玉ねぎ、ジャガイモ、薬、石鹸、国内の古着、スリッパ、お金一部を用意しました。私のプロジェクトから日本円で15万円と友人のボランティア・グループから30万円をあわせて予算を作りました。   活動する対象としては、ヤンゴンから海の方向に存在するクンチャンコン地区ペーコン村を選びました。多くの被害地がありますが、私達の支援物資の量、現地の被害者家族の状況、今までの連絡係りの準備などを考慮して、ヤンゴンから車と船で約4時間で行けるペーコン村になりました。   車で移動している間、午前8時ごろには大雨だったので心配しましたが、9時前には曇りの状態に戻りました。被害地に入ると、周囲を撮影しながら、船乗り場へ到着しました。ボランティアの皆さんの力で資材を船まで運び、再度海へ出発しました。ヤンゴンで被害を受けた建物とは違い、小さい家や古い精米工場が多く存在し、全てがサイクロンの影響を受けました。復興は1ヶ月経っても、まだまだです。   11時半ころペーコン村に無事に到着しました。村の子ども達が我々を笑顔で迎えてくれました。桟橋が今にも落ちそうなので十分注意ながら支援物資を運び、一人分の支援物資をいれた袋を皆で準備しました。私は、村の子ども達と一緒に、村を回って見ました。ほとんどの家がサイクロンの影響を受けて、どうにか居住できるような状態に直してあります。村の学校もレンガのみ残っています。村の人々は、我々が来たことをたいへん喜んでいます。今までUNICEFから2回、民間支援者達から数回しか、支援物資を受け取っていないようです。   学校が被害を受けた関係で、現在はお寺を借りて学校として勉強しているようです。子ども達は「いつになったら私達の学校ができるか分からない」と言うのを聞いて、私の胸が痛みました。村の73歳の方と会ったときも、「あなた方が来てくださって大変嬉しい。出来る力で、この村のことをお願います」と言われ、「はい」と答えましたが、何とも言えない気持ちになりました。ヤンゴン市内の被害者の場合は、ある程度自力で回復する力がありますが、この村は今後どうなるでしょう。   一方、我々の活動に協力してくれた現地の方は、精米所を持っています。そして、かなりの米を生産する農地も持っています。しかし、工場も、在庫のお米も全てだめになり、農地も塩水が入って、大変な情況です。生活レベルに差があったとしても、この地域に住む全ての人々がサイクロン被害を受けました。彼自身が回復ために、かなりの資金力で頑張らなければなりませんが、一般の人たちは、もっと大変でしょう。政府からの支援については話は聞いていますが、でも...   今回サイクロンの被害を受けた全地域が、ミャンマーで第一の米の生産地であり、精米所も多く存在しています。雨季がきて生産時期が始まりましたが、なかなか準備に入れない人が多いです。今まで農業に使用してきた水牛や牛なども約15万匹がいなくなってしまいました。これから機械農業に展開していくといっても簡単なことではありません。政府や国内支援企業の一部から、農業機械の配分があっても、全ての農民に届くチャンスは少ないでしょう。   我々の支援物資は、彼らが一週間生活するのに役立つかもしれませんが、彼らの将来のことまでは、力が及びません。今回支援を行ったことに対して、喜びと悲しみを同時に感じています。   今後の支援方法について考えています。今回のように一週間分の支援物を準備するか、彼らの将来に役立つ事をするかが、課題になっています。例えば、雨季に米栽培用タネを我々が出来る範囲で準備すると、彼らのためにもっと役立つのではないでしょうか。ヤンゴンへの帰り道は、頭の中でいろいろなことを思い巡らしていました。この267世帯の村でもさまざまな問題が生じていますが、被災地全部ならかなりの力が必要であり、被災者自身の強い心と力も必要です。   皆様、私の小さなナルギス被災者支援プロジェクトにおけるご協力やご支援に関して本当にありがとう御座いました。今後もよろしくお願い致します。   活動写真をここからご覧ください   ----------------------------------- <キン・マウン・トウエ ☆ Khin Maung Htwe> ミャンマーのマンダレー大学理学部応用物理学科を卒業後、1988年に日本へ留学、千葉大学工学部画像工学科研究生終了、東京工芸大学大学院工学研究科画像工学専攻修士、早稲田大学大学院理工学研究科物理学および応用物理学専攻博士、順天堂大学医学部眼科学科研究生終了、早稲田大学理工学部物理学および応用物理学科助手を経て、現在は、Ocean Resources Production Co., Ltd. 社長(在ヤンゴン)。SGRA会員。 -----------------------------------   【募金のご報告】森 峰生   12日(木)現在,4団体と18名の方々から総計602,295円の募金をお預かりいたしております. そのうち,15万円を第1回活動費の一部に使用して,残額452,295円です.   ★キンさんのプロジェクトにさらにご協力ください!   募金趣意書   ポスター  
  • 2008.06.10

    エッセイ136:李 垠庚「あらためて死刑制度を考える~光市母子殺害事件の教訓~」

    ある日、テレビをつけると、レギュラー番組が中断され、裁判所の前でレポーターが叫ぶように何かを伝えていた。   「元少年に死刑判決が下されました。あらためて申し上げます。死刑判決が下されました」   1999年山口県光市で起きた、いわゆる「光市母子殺害事件」の判決に関する報道であった。前後のストーリを知らないで見たら、まさに死刑を待ち焦がれていたかのように見える場面であるが、事実は少し複雑である。母子を殺害した当時18歳の元少年に対し、一審・二審で無期懲役判決が下されたが、最高裁は死刑を回避するに足る事情があるのか、という理由で、それまでの判決を破棄し差し戻していた。実は私も以前、興味深く注目していたことがある。それは、事件から10年近く経っているにもかかわらず、事件当時の怒りと悲しみをあらわにしていることもさることながら、30歳くらいの若さで、いつも力強い語調で大勢のメディアの前でもひるまず堂々と訴え続けている遺族(夫)の様子があまりにも印象深かったからである。事件自体よりも、裁判に臨む遺族の姿勢と言葉に引き付けられたのは私だけではなかろう。しかし、死刑を伝える速報を聞いた瞬間は、言葉で表現し難い複雑な気持であった。   実は、この事件は、死刑制度の存廃問題とも繋がるものである。この問題については私も昔から考えて来たものの、今でも自分の立場を決めきれていない。廃止の立場に立つのが宗教的な信念に基づいて説明しやすいし、周りの進歩的な知人たちにも理解されやすい。にもかかわらず、私にはまだ決断できない。以前、私が「死刑廃止論を完全には支持できない」と言うのを聞いた時の、目を丸くして驚いた後輩の表情を今でも覚えている。「死刑は結局、もう一つの殺人に過ぎないと思わない、ということですか」。その答えに詰まりながらも、完全廃止は時期尚早という立場に立たざるを得ないのは、量りしれない悲しみを抱いている被害者家族を考える時、簡単には「死刑廃止」という言葉を口に出せないからである。   もし私が被害者の立場であるならば、失った命の価値を甦らせるためでも、犯人の死刑よりは他の方法を探すだろうと思ってはみるが、それも結局は一つの仮説に過ぎない。しかも、他人にまでそれを要求するほど冷静にはどうしてもなれない。人間の命を救うためである「死刑廃止」が、すでに家族を失って悲しみに沈んだ被害者家族に、かえって再び悲しみを強いるのではないかという迷いもある。死刑に値する犯罪が相次いでいる昨今、死刑が廃止されることは辻褄が合わない気もする。しかし、一方では、その悲しみがいかに深かろうが、他人の命を奪って得られるものが何かあるだろうかという疑問も感じる。   このような私の中途半端な態度が、韓国における死刑制度の現状とも酷似しているのは偶然ではないだろう。韓国の場合、法律上では死刑制度が存続しているものの、10年以上死刑が執行されていないのが現状である。従って、実質的には死刑制度の廃止国と見なされている。ところが、最近、前代未聞の連続殺人事件や幼児・子供を狙った凶悪犯罪が相次ぎ、再び死刑の執行が始まるのでは、という噂や、さらには執行しなければならないという世論が沸きあがっている。約50%であった死刑賛成派が最近60%台にまで上昇し、強く死刑の執行を訴える政治家の発言が、慎重で理性的な意見より言論と世論の注目を集めているのも日本と同じである。それでも、どちらかというと、韓国は死刑問題についてまだ模索中であり、世論も(私の感じる範囲に限って言えば)賛否両論分かれている。   それに比べると、日本の世論は死刑制度の存続の方へより傾いている。死刑が執行されたというニュースもしばしば耳にするし、死刑の存続を支持する世論は80%を上回っている。このような数値は、すでに死刑を廃止した国はともかく、死刑制度が存続する他国と比べても圧倒的な支持率である。わずかな反対論者について言えば、法律を勉強しているか、少なくともかかわっている人々が多い。こうした現実で、日本は来年から一般市民が裁判と判決に直接に加わる裁判員制度の施行を導入する予定である。そのことを考えてみても、今回の光市事件にかかわる一連の出来事は、軽く見過ごすことは出来ないのである。   今回の事件に限って言わせてもらえば、メディアはずっと被害者の立場に目線を合わせ続けていた。犯人の少年は、前例を破って死刑に処するほど残酷で更生の可能性がなく、弁護団は話題性ある事件にしがみついて死刑廃止を主張している荒唐無稽な言動をする変人のように取り扱われていた。主張の是非はともかく、数十年以上、法律を専門としてきた何十人の弁護士がそれほどの愚か者扱いされていること自体、腑に落ちないところがある。事実関係を別して、裁判に先立って世論が暴走しているのではないかと息苦しささえ感じた。さらにメディアは、この事件を「死刑廃止論者」と「死刑存続論者」の対立として取り上げながらも、廃止論者の主張の論拠をまともに取り上げようとはしなかった。そうした風潮の中、人間の手でもう一人の命を絶つことになったという事実に対する悲しみや熟慮を期待するのは無理であろう。   こうした現象は、メディアが日頃から、毎日のように残酷な犯罪を取り上げながら、いつあなたが犯罪の被害者になるかわからないと言わんばかりに、恐怖心を煽って来たという状況の延長線上にある。この数年間、日本における殺害などの凶悪犯罪の発生件数が減少している事実はほとんど知られず、メディアにより恐怖心をかきたてられてきた視聴者は、いつの間にか自分も潜在的な被害者であると思い込み、一人の犯罪者を社会から永遠に排除できたという安堵感を覚えかねない。人間の手により、もう一人の人間の命を絶つことに対して真摯に悩む姿勢は微塵もうかがえない。このような風潮を見ていると、今後の裁判員制度の時代が少し不安になる。   「漫画<デス・ノート>は、こうした日本社会の風潮から生れたものですよね」。最近、はじめて日本の雰囲気がわかったという知人がこのようにつぶやいた。デス・ノートとは、それに名前を書くだけで、直接に手を出さずに人を殺すことが出来る特別なノート。正義だけの社会をつくりたいという熱意に燃えてそのノートに数多くの犯罪者の名前を書き込んだ主人公は、まだ人生の経験や理解が浅い若者であった。極端な例ではあるが、今日の日本社会に漂う空気は、忘れていた<デス・ノート>の内容を、時々思い起こさせる。   しかし、実際の日本社会はこの漫画に描かれた社会より遥かに成熟しており、日本のメディアは青二才に与えられた<デス・ノート>ではなかろうと信じたい。そして、今回の光市の事件は、被害者の粘り強い訴えによって死刑判決を導いた快挙としてではなく、裁判員制度の導入を控えた日本社会に対して、一人ひとりが法と命の問題を身近に感じ、真摯な姿勢で向き合うように、その契機になる問いを投げかけた事件として、記憶と歴史に残ることを期待する。   -------------------------------------- <李垠庚(イ・ウンギョン)☆ Lee Eun Gyong> 韓国の全北全州生まれ。ソウル大学人文大学東洋史学科学士・修士。現東京大学総合文化研究科博士課程。関心・研究分野は、近代日本史・キリスト教史、キリシタン大名、女性キリスト者・ジャーナリスト・教育者など。現在は、韓国語講師を務めながら「羽仁もと子」に関する博論を執筆中 --------------------------------------    
  • 2008.06.06

    エッセイ135:包 聯群「初めての香港」

    香港は私たちにとって特別の意味がある。なぜなら、1997年の“香港回帰祖国”という言葉を中国人であれば誰もが覚えているからである。1984年12月19日にイギリス初の女性首相であったマーガレット・サッチャーが香港を中国に帰還させることに同意したことによって、長い期間を経て香港は1997年にまた中国の領土として戻ってきた。    香港帰還のニュースは、ほぼ毎日メディアで報道されていた。その頃からいつか機会があれば香港に行きたいと思っていた。そして、今年の3月25日から27日まで、香港理工大学で開催された「第六回中国社会言語学国際学術シンポジウム」で発表することになり香港に行ける機会を得た。初めての香港だったから、興味津々で、すべてのものが新しい情報として目に映り面白かった。    飛行機から降りた時から何でも日本と比べてしまう癖がついていた。例えば。。。   1.交通の面で   ①バスも地下鉄も釣銭が出ない。   香港に着いてから会議の案内に従い、空港バスに乗り、市内へ向かった。市内まで約40分で、香港ドル33元かかると聞いていたため、40元を入れて、日本のバスがそうであるように、自動的にお釣りが出てくるのを待っていた。しかし、しばらく経ってもお釣りが出てくる気配がなかったので、運転手に声をかけた。そしたら、驚きの返答が返ってきた。「このバスはおつりが出ないよ。100元を入れてもお釣りが出ないよ!」これがあの経済発展を遂げた香港なのか?と思い・・・一瞬言葉も出なかった。これが香港に来て初めて受けた驚きだった。会議の二日目の夜、中国内陸からきた教師たちと一緒に街に出かけるため、地下鉄に乗った。なんと地下鉄でも同じことが起きた。発券機からもお釣りが一切出ない。その時、サビース精神が旺盛な日本の素晴らしさを思い出した。何でもお客さんを優先的に考える日本から行った人にはなかなか慣れないことであろう。 ②異なるトンネルを利用すると、タクシーの通行料金が変わる。 香港に着いた夜、ホテルを間違えてしまった。予約したホテルにタクシーで向かうには、トンネルを通らなければならない。トンネルの通行料金がまたタクシー代とは別に香港ドル20元(日本円で約300円)かかる。しかしながら、通行料金・香港ドル50元(日本円で約700円)を払えば、近道を利用することができ、時間がはるかに短縮できると言われた。夜遅くなっていたため、近道の方が便利だと思い、利用した。同じ場所に行くのに、トンネルによって料金が違うのは初めての体験であった。 ③交通ルールの違い。 宿泊したホテルは香港理工大学のすぐ近くで、歩いて10分程度の短い距離にも関らず、信号を何か所も渡らなければならない。そこで、驚きの風景を目の当たりにした。まだ赤信号なのに、堂々と横断歩道を渡っている人々がいる。そして、もっと「すごい」のは人より車の方である。人々がまだ横断歩道を渡っている時、左折してきた車が猛スピードで走っていた。そして、人々は瞬時に飛び退いて車を避けた。日本では車が人を待つのが常識になっているので、このような風景を見て驚きを隠せなかった。逆に中国では車を優先する習慣があるので、日本に来た当初、かなり困った。私は車が通過するのを待つが、車も私を待つという場面が多くあった。今は堂々と車より先に渡れるようになった。   ④運転手の技術が熟練している   バスの窓から見ていたら、反対車線を走ってきたバスが、その前方にあるバスの後ろ、たった50cmしかない距離で止まった。私が乗っていたバスもそうだった。これは初めての体験で、びっくりする一方、心配な面もあった。   2.香港には便利なところもたくさんある   香港では、ホテルを一人の名前で予約したあと、知り合い同士と同じ部屋に宿泊することができるようである。宿泊費は人数に関係なく、個々の部屋の値段で決まる。この面で会議に参加する人や旅行する人にとっては経済的にかなりメリットがある。香港の商店街は、お金の換金所が非常に多く、とても便利である。ほとんどのお店で人民元が香港ドルの代わりに使えるのは予想外のことであった。繁華街にある個人経営のお店は夜の12時まで営業することが多く、旅行する人の便利さを考えたと思われる。   3.日常言語   若者の中で北京語を話せる人が多くいる一方、年配の人に北京語で道を訪ねたところ、聞き取れない人もいた。町にある看板は英語だろうと想像していたが、意外と中国語で書かれたものが多かった。   4.歴史・文化   会議の合間をみて大学のすぐそばにある博物館を見学した。香港の歴史、昔の人々の生活ぶりなどを細かく再現した展示があるところがすばらしいと思った。特に香港の銀行の発展の歴史を詳細に展示しているのは、やっぱり経済が発展した香港であるという感銘を受けた。   以上、香港レポートではあるが、いずれかチャンスがあれば、再び行きたい。今度はゆっくり見学できるように・・・。   ------------------------------------ <包聯群(ホウ・レンチュン)☆ Bao Lian Qun> 中国黒龍江省で生まれ、1988年内モンゴル大学大学院の修士課程を経て、同大学で勤務。1997年に来日、東京外大の研究生、東大の修士、博士課程(言語情報科学専攻)を経て、2007年4月から東北大学東北アジア研究センターにて、客員研究員/教育研究支援者として勤務。研究分野:言語学(社会言語学)、モンゴル系諸言語、満洲語、契丹小字等。SGRA会員。 ------------------------------------  
  • 2008.06.04

    エッセイ134:オリガ・ホメンコ「周りの人からもらう夢」

    彼はとても明るく微笑んでいる。慎重な目線と粘り強い性格のおまけにその明るい微笑がある。たくさん苦労をしたように見えない。言葉がとにかく多いのだ。言葉で「足りない部分」は体の動きで表す。話す時はよく動いている。その動きで言葉を伸ばそうというかのように。もしかしたら、その動きでよりたくさんの空間を獲得しようとしているかもしれない。小柄で、歳をとっても少年のようだ。見学で博物館に連れてこられた少年のように、何もかも面白くてすべてに触って見たいというような強い好奇心をもっている。だが「博物館」の代わりに「周りの世界」だ。人々は彼のエネルギーがどこから生まれてくるのかと考えている。毎日、朝から患者さんを診療して、午後は医学部で講義をやっているくらいエネルギーに溢れる人に見える。    ある日、彼の子どもの頃の話を聞いてその理由が良く分かった。彼は1930年代の後半にウクライナの中部の小さな村で生まれた。彼の名前は、伝統に従って、その日の聖人に因んでミハイローになった。5歳にならないうちに母親が病気で他界し、父親は別の女性と再婚した。継母には自分の子供がいて彼には冷たかった。    ミハイローがまだ小さかった時にある人にすごく強い印象を受け、それが将来の職業にもつながったようだ。ある日、彼の村に町から医者が来た。村は小さかったので看護婦しかいなかった。誰かが重い病気になり、医者を呼んだのだ。その「町から訪れた」医者は医療道具が入ったぴかぴかの茶色い皮のカバンを持ち、パチパチという音がするほどのりをつけた白衣を着ていた。彼の白衣は本当に太陽の光よりもぴかぴかに見えた。小さいミハイローにはそのように見えた。緑がいっぱいだった村で、白衣が白かった。ミハイローはその白衣をきた医者が「違う世界」の人に見えた。その「世界」には、畑仕事、牛の世話、そして冷たい継母がいなかった。また大好きだった母親を救えた職業だった。その人を見て10歳のミハイローは医者になることを決めた。医者という仕事の内容も良く分からなかったけど、絶対医者なると決めた。    15歳になった時に家を出て遠くに行った。その行き先の町にはぼた山が多く、仕事帰りの男性は皆疲れて顔が黒くなっていた。その東部の町で、彼は医科短大に入学し、3年間パンと水ばかり食い、熱心に医学を学んだ。実家にはあまり帰らなかった。誰も待っていなかったし。彼はこの知らない町で自分の新しい居場所を探していた。炭鉱の給料が良いと聞き、そこでアルバイトをしようとした。炭鉱夫として。だが年齢や身体的な理由で炭鉱夫になれなかった。しかし夜間講座を受けて測量士になり石炭を計ることになった。一日3時間だけ寝て、短大の朝の授業にも必ず出た。そして授業にでる時も顔が黒くなっていることを誇りに思っていた。誰も「顔をちゃんと洗いなさい」とは言えなかった。なぜならその町では炭鉱の仕事で顔が黒くなっているのは、「仲間入り」したと同じことだったから。彼は、遠い町での居場所も見つけ、「仲間入り」もできた。    短大卒業後、医学部に入学できたので炭鉱のアルバイトを辞めた。6年間医学部で勉強し医者になった。彼の村では初めての医者だったみたいだ。それからもう46年間医者として勤めている。今までいろいろな患者さんを診て多くの人を救った。   ミハイローは私の友達の父親だ。学生時代の仲の良い友達だったから、病院に遊び(見学)に行ったことがある。その時、どうしてパチパチするぐらい白衣にのりを付け過ぎるのか疑問に思った。彼が歩くとそののりをつけすぎた白衣が変な音をたてていた。それに、まるで誰かの古い靴を借りてきたように、サイズの合わない靴をずるずるひきずるような音を立てて歩いていた。だが彼はそれを気にしていなかったみたいだ。逆にそれが好きだったようだ。こんな変な質問は、聞きたくても聞けなかった。    そんなある日、彼が子どもの頃の話を聞かせてくれた。その話を聞いて感動した。その時に初めてそのパチパチとする音は、彼の子どもの頃の夢をかなえた音だったと知った。そして、小さい時に自分の周りにいる人から、その人が知らなくても<夢>をもらうことができるのだと知った。そして夢は原動力となり人生を変えることもできると感じた。友達の父親を見て、夢に向かって努力を尽くせば何でもかなえるとも思った。   ------------------------------------ <オリガ・ホメンコ ☆ Olga Khomenko> 「戦後の広告と女性アイデンテティの関係について」の研究により、2005年東京大学総合文化研究科より博士号を取得。キエフ国立大学地理学部で広告理論と実習の授業を担当。また、フリーの日本語通訳や翻訳、BBCのフリーランス記者など、広い範囲で活躍していたが、2006年11月より学術振興会研究員として来日。現在、早稲田大学で研究中。2005年11月に「現代ウクライナ短編集」を群像社から出版。 ------------------------------------  
  • 2008.06.01

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  • 2008.06.01

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