SGRAかわらばん

エッセイ188:今西淳子「5年ぶりの延辺」

2008年9月24日、成田から北京経由で、ほぼ一日かけて延辺朝鮮族自治州の延吉に到着した。今回の目的は延辺大学でSGRAフォーラムを開催するためで、私にとっては5年ぶりの訪問だった。一行は、講演者のアジア学生文化協会の工藤正司常務理事、SGRAの嶋津忠廣運営委員長と私の3名。薄暗い延吉空港には、SGRA会員の呉東鎬さんと、金香海さんの学生さんたちが迎えにきてくれていた。金さんは国際政治の専門家なので、学生さんたちは日本語よりは英語の方が得意だった。ホテルにチェックインした後、金さんと呉さんと一緒に金さんの行きつけのお店でビールを飲みながら打ち合わせをした。私たちは12時前にはホテルに戻ったが、金さんと呉さんは、なんと同じ大学に居ながらも久しぶりの機会だったそうで、明け方まで話がはずんだということだった。

 

翌日、金さんが、北朝鮮とロシアの国境である図們江(朝鮮語:豆満江)デルタ地帯を案内してくださった。まず、5年前と違っていたのは高速道路ができていたことである。車は一直線に進みあっという間に国境地帯へ着いた。このあたりは中国でも一番自然が残っているところだそうで、両側は木々が青々と茂っていた。「どんな動物がいるんですか?」という質問には「虎!」とのこと。道の右側に沿って流れる図們江が北朝鮮との国境である。見張りの櫓も警備の兵士も見あたらない。といっても誰も見張っていないわけではないはずだ。冬になれば凍って歩いて渡れるというが、夏でもすぐに泳いで渡れそうなほどの小さな川である。

 

このあたりには脱北者はいるはずだが、人々はあまり語らない。一般人が入手できる脱北者に関する情報は日本の方が多いのではないだろうか。泊まったホテルは北朝鮮系というし、レストランや旅行社など北朝鮮の人々が居ないわけではない。ただ、「独裁者に虐げられたかわいそうな人々だから、助けてあげなければいけない」ということはない。脱北者に接触したら厄介なことが起きるから関わらないに越したことはないということなのだろう。前回、北朝鮮からの留学生は北京の大学に行くと言われたが、今回は延辺大学にも来ているということだったので受け入れが拡大したのかもしれない。

 

北朝鮮側の羅津という町には、日本海に面する大きな港があり、中国からの物資を運ぶ輸送ルートとして注目されている。釜山へのコンテナ航路もある。一時そこにカジノがあったが、中国のお役人たちがたくさん行き浪費をするので、中国政府が禁止したそうである。「それでは、さぞかし、北朝鮮経済にとって痛手になったでしょう」と言うと、「営業していたのは香港マフィアですから」とのこと。一時非常に盛んになった図們江地域の物流は、北朝鮮の核実験でとまってしまったということを聞いたことがあったが、途中で休憩した琿春市はとても賑やかだった。

 

図們江は長白山に源を発し河口付近で中国領は途絶えロシア領となるが、中露朝三国の国境地域に位置する場所には展望台があり、ロシアと北朝鮮が一望でき、遠くに日本海を眺めることができる。というか、「あれが日本海ですよ」と言われると海が見えるような気がするが、地平線と海と空の境界は肉眼では定かではなかった。展望台にたどり着くまでには、右側に図們江、左側にロシアとの国境である高さ1.3mくらいの鉄条網のフェンスの間の細長い中国領が続くわけであるが、ふと見ると右側に鉄条網のフェンスがある。ということは、私たちは今ロシア領に居る???なんでも、高速道路を作る時に、川沿いの崖っぷちの元の道路が使えなかったので、ロシアと交渉してこのようになったらしい。なんとも大らかな話。

 

金さんが以前に休暇を過ごしたという、水道局の管理する保養所で昼食をとった。到着が遅かった上、予約が上手くはいっていなかったようで閑散としていたが、すぐに昼食を用意してくれることになった。建物の前に蓮の池と水槽があった。その池で釣りができるらしいが、水槽の中には鯉のような魚や、小魚、蟹などが居た。料理ができるのを待っている間に、近くを散歩した。トウモロコシや綿花の畑の間の道を歩いていくとダムでできた湖があった。小さな観光船のようなボートが繋がれていたが人気はなかった。のどかな農村風景であった。昼食は、そのサイズのお皿がなかったのだろう、ステンレスの巨大な器に載せられてきた5kgの鯉を始め、6人で食べても殆どを残してしまったのではないかと思うほど豪勢な食事だった。日本人としては、「こんなに残して勿体ない」と罪悪感を禁じえないのであるが、おそらくそのような心配は無用なのであろう。ちなみに、この食事が全部で470元(約8千円)と後で聞いてさらに驚いた。

 

途中、図們の町によった。図們江を挟んで北朝鮮と中国の町が隣接し、70年前に日本が建設したという小さな橋で繋がっていて、その真ん中が国境だった。入場料を払って橋の途中まで行く。人民解放軍の兵士がついてきた。北朝鮮側に30cmほど入って写真を撮った。私の時は問題なかったけど、嶋津さんが国境線を越えて撮ろうとしたら注意された。特に理由はなく、たまたまそうなったのだと思う。門の上に登って10分ほど橋と北朝鮮の村の様子を眺めていたが、往来は殆どなかった。大きな荷物を曳いて北朝鮮側からきた男性がひとり通っただけだった。振り返って図們の町には、新しいマンションや建設中のビルがたくさんあった。

 

5年ぶりの訪問で一番変わったのは、新築の建物の多いことである。途中で通りすぎた村には、屋根に太陽熱温水器をつけた同じデザインの新しい住宅がまとめて何軒も建てられ、町には新しいマンションがどんどん建設されている。この経済発展の主な収入源は、出稼ぎだという。現在、朝鮮族は韓国に50万人、日本に5万人居るという。延辺朝鮮族自治州の朝鮮族の人口は既に40%を割り、登録したまま海外へでる人もいるので、実態はさらに少ないのではないかと言う。朝鮮族が流出したことによる労働不足を補うのは漢族である。したがって、この地域では、国の政策ではなく、市場原理によって少数民族の人口比が減ってきている。朝鮮族は中国語を、漢族は朝鮮語を勉強するという。両方の言語ができるとより良い仕事がみつかり、より良い収入が約束される。いわゆるマイノリティーとしての少数民族の問題はここにはないようであった。

 

延吉に戻った時にはすっかり暗くなっていた。金さんが松茸を用意してくださり、羊肉の串刺しと一緒に炭火でバーベキューを楽しんだ。白酒とともに、本当に美味しかった。「日本ではめったに食べれられないから大変うれしい」と大喜びしたが、延吉でも非常に高級なもので、一緒に食事をした学生さんたちの中には、初めて食べると言う人もいた。 

 

5年前の「延辺訪問記」はここからご覧いただけます。

 

——————————————
<今西淳子(いまにし・じゅんこ☆IMANISHI Junko>
学習院大学文学部卒。コロンビア大学大学院美術史考古学学科修士。1994年に家族で設立した(財)渥美国際交流奨学財団に設立時から常務理事として関わる。留学生の経済的支援だけでなく、知日派外国人研究者のネットワークの構築を目指す。2000年に「関口グローバル研究会(SGRA:セグラ)」を設立。また、1997年より異文化理解と平和教育のグローバル組織であるCISVの運営に加わり、現在英国法人CISV International副会長。
——————————————
2009年2月10日配信