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エッセイ438:外岡 豊「飯舘村参観記:菅野宗夫氏の試みについて」

 

真手(までい)という言葉は初めて知ったが、江戸時代あるいはそれ以前から日本の伝統的な社会を支えてきた、勤勉、善良な農民の生活意識と行動を表した言葉に見える。なかなかよい表現である。持続可能社会を目指せ、というのが環境問題研究者として私が社会に強く訴えるべき重要な事項であり、日夜それを考えているが、要は、化石燃料と原発への依存を脱却することと同時に、社会全体が真手になればかなり達成されるはずの目標である。だから飯舘村の再生への試みは持続可能社会への入り口探しなのであり、日本中をその方向に向けてひっぱってゆく、最先端を知らずに担っているのである。

 

他の村にはない脱原発への強い意志がここに集中しているのは当然であろう。両方を併せ持っている村がここにある。真手な生活を実践している人々には当然のように考えられることが、被災していない東京では完全に忘れ去られており、飯舘村に来て菅野さんの話を聞くと、都会人が何を失っているのか気づくよいきっかけになるだろう。真手の精神と前向きな試行錯誤への姿勢は、突然奈落の底に落されたような事態においても、あるいは見えにくい放射能というやっかいな汚染状況においても、再生への着実な原動力になる。このような人がいる村はたとえ一度どんなに人口が減ろうと、いつか立ち直ることができるだろうと確信する。行政の混乱で明らかなように、実は都会が、東京の社会が、霞が関も銀行も大手企業も、当事者能力に欠けている人が多く、菅野さんのような頼もしい人が見当たらないのである。それは実は非常に深刻な事態なのであるが、それを深刻と考えていない人が大勢であることそれ自体が、実は見えにくい危険事態なのである。奇妙なことに放射線の見えにくい汚染と都会の見えにくい無責任さとが符合しており、複合化した更なる危険に持ち上げられているようである。

 

それは大学も似たようなもの、自分の組織で打破できていないので大きなことは言えないが、旧態依然の規則にしばられ、というより柔軟な運用ができず、ちょっとしたことができない、許されていないと言われて、成果、効果がそがれてしまうことは多々ある。教員も事務方も、どちらも自分はこの件の主役ではないと言って逃げてしまい、結果に責任を持とうとしないのである。このような事態はイギリスの大学でも同様であった。数年前までの中国は全く逆の問題がありそうに見えたが最近どうなっているのかはわからない。

 

高校時代から田舎の農村の景色を水彩画に描いてきたが、それは里山に象徴される自然と一体化し、その恵みをいただいて生活する本来の日本の生活への共感が裏にあった。まさに真手な生活の場としての農村集落と伝統民家にひかれるものがあった。今、環境問題の専門家として、若いころ描いた絵の世界に回帰している。半ば予定されていたかのような人生の変遷は自分の根底にある価値観がそうさせているのであり、それは神から与えられた使命のようなもの、自分の内部のこだわりとしてできること、できないことが明らかにあるのである。

 

今回渥美財団関口グローバル研究会の御縁でようやく飯舘村に来ることができ、大震災から3年半後に初めて被災地を体験する機会を得たが、そこで思いがけなく旧知の田尾さんの御世話になることになった。それは偶然以上の何かが隠れていると思わざるを得ない。田尾さんとは 2008年頃同じ早稲田大学理工学部の尾島研究室に机を持ち時々そこに居合わせた関係で、そこでの接触が今回また引き合わせていただいた裏に無意識の引き合いがあったのだろうと理解している。田尾さんが福島再生のNPO活動家として現地で大活躍されていることを今回知った。また博士論文の副査でもあった恩師木村建一先生が参加されるということも忙しい中であえて参加することを後押しするものであった。来てみると汚染度が高いという小宮地区の大久保金一氏宅で 90才の大老母の世話をしていた井上充成氏が偶然、藤沢の湘南中央病院(辻堂)に勤務している方で、聞いてみると父、豊彦のことを知っており、ここでも偶然の裏に必然につながる何かの引き合いがあったのだろうと感じさせるものであった。

 

河北新報の寺島氏の話を菅野宅で聞いたが、被災から3年、若い人たちが帰村しない傾向が明らかになりつつあり、高齢者ばかりではいずれ村の人口はさらに減り、行政を維持できなくなるのではないかという問題を予想させる厳しい話となっている。原発事故で起きたきわめて特殊な状況、それゆえの多大な困難、それを改めて考えさせられる話であったが、逆転して考えれば、そこに農家の子孫でもない農家経営希望者に大きな機会を与えるものであり、一転して大きな希望に変える可能性すら見えてくるようにも思える。

 

よそ者を受け入れなければ村が成り立たない、とくに若い人たちがいてくれなければやって行けないとなれば、保守的な村落の慣習を超えて新規参入者を迎え入れることができれば、これまでの農村にない気風と新しい知識を持ったよそ者が入ってきて新しい農村を創出する絶好の機会となるであろう。行き詰まった世界経済の悪影響を避けてその外乱に乱されない別の日本社会をここから構築することができるのであり、たまたまこの数日下げ続けたニューヨーク株式の急落が暗示するように、近々来るかもしれない世界経済大崩壊は、福島原発事故以上に巨大な世界危機を引き起こす恐れもあり、飯舘村の試行が、その世界危機を避ける予備的な先行対応になっている可能性もあり、目先の危機に真手に取り組むこと、その積み重ねが思わぬ神の加護をもたらすかも知れず、真手な飯舘村こそは日本の、世界の希望の灯なのである(と思いたい)。

 

ふくしまスタディーツアー「飯舘村、あれから3年」報告

 

英語版エッセイはこちら

 

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<外岡豊(とのおか・ゆたか)Yutaka TONOOKA>

神奈川県出身。県立湘南高校卒業、早稲田大学理工学部建築学科卒業、同大学院終了、工学博士。埼玉大学経済学部社会環境施系学科教授。早稲田大学研究員、大連理工大学と西安交通大学の客座教授、兼務。元Imperial College、Visiting Prof.、建築学会地球環境委員会委員長、同論理委員会委員、低炭素社会推進会議(18団体で今年設立)幹事、森街連携会議代表、エコステージ協会理事、他専門分野は都市環境工学、環境政策、とくにエネルギーと環境のシステム分析。最近は気候変動対策評価研究を発展させて、持続可能社会について考察中。SGRA会員。

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2014年12月3日配信