SGRAかわらばん

  • 2010.05.05

    エッセイ245:エリック シッケタンツ「日本式喫茶店」

    私は日本に留学したことによって、異文化の中で暮らしはじめた。日本での生活にともなって、たくさんの新しい体験が出来た。いわゆる「異文化体験」だ。日本に来る前から、私は日本で異文化に接することをとても楽しみにしていた。来日前からすでに日本の文化について、本やテレビを通じて得た知識をたくさん持っていた。畳の上の暮らしも期待していたし、お箸で食事することもわかっていた。これらは、ドイツでよく知られている日本文化のシンボルである。だが、このような私が期待していた異文化体験に加えて、予想外の場所での異文化も私を待っていた。この予想外の場所の一つが、日本の喫茶店だ。こんな所で異文化体験ができるとは予想していなかった。つまり、日本の喫茶店はドイツの喫茶店とは異なる文化空間になっているのである。さて、ではこの「日本式喫茶店」とはどのような場所だろうか。 日本の喫茶店が提供するサービスは、ドイツと異なっている。もちろん、飲み物と軽食を売るという点では似ている。しかし、日本の喫茶店はそれ以上の機能を持っている。それに気づいたのは、上智大学に一年間留学した時だった。当時はお金があまりなく、エアコンとお風呂が付いていないアパートの部屋で暮らしていた。扇風機があったとはいえ、夏は暑い。それで、近くのドトールに行って、店のエアコンで涼みながら読書をしようと考えた。店に入ると、私と同じアパートの隣の部屋に住んでいた人も同じ発想で来ていた。なるほど、喫茶店にはこんな便利な機能があったのだ。安い部屋に住んでいた私はあの夏、大いにドトールの世話になった。確かにエアコンは喫茶店の正式なサービスではないかもしれないが、あの夏は喫茶店のエアコンのおかげで何とか生き延びることが出来た。 しかし、喫茶店をより本格的に利用することになったのは、東京大学に留学することになってからである。今のアパートの部屋はエアコンを装備してはいるけれども、部屋が狭く、一人だとなかなか集中できない。私は周りに人がいる場所で勉強することが好きだ。普段は図書館で勉強するのだが、図書館が閉まっている日もよくある。最初はたしかに、図書館が閉まっていたので仕方なく喫茶店で勉強しようと思った。ところが入ってみると、勉強目的で来ているのは僕だけではなかった。これには驚いた。ドイツではよく友達と喫茶店で待ち合わせして、コーヒーやお茶を飲みながらおしゃべりをしていたけれども、喫茶店を勉強する場所としては認識していなかった。ドイツであれば、コーヒー一杯をずるずると飲んで長時間そこにいれば、お店の人に怒られるだろう。しかし、日本では、コーヒー一杯を飲みながら、喫茶店を長時間利用してもいいということが暗黙の了解になっているようだ。多くの人々が狭い部屋に住んでいるという原因もあるのかもしれない。しかし、僕からすると、私的な空間が喫茶店に忍び込んでいるように見える。読書している人ももちろんいるし、友達と会話する人も多い。だが、それ以上に、ドイツでは考えられないのは、喫茶店が職場の延長になっていることである。私のよく行く喫茶店では、隣のテーブルでテストの採点をする学校の先生や、ノートパソコンで洋服やグラフィックのデザインの仕事をする人をよく見かける。時々、どこかの会社の会議室に間違って入ってしまったような気がすることもある。 もちろん、すべての喫茶店がそうであるというわけではない。私の近所にある喫茶店から判断すると、ある程度、喫茶店の使い分けがあるようだ。この喫茶店では主に友達同士で会ったりすることが多いのに、あの喫茶店は勉強と仕事をする場所として知られている。多くの人が仕事場として利用する近所のスターバックスのスタッフもそれを意識しているようで、「14:00時-17:00時の間は勉強と仕事をしないようにお願いします」という看板を立てて、店にとって経済的に重要な時間帯を指定している。このことから、この店が仕事場として使われている姿が伺える。 日本にある喫茶店が日本社会の一部として、その特徴を現していることは当然なのかもしれないが、こうして喫茶店によく通ってみると、日本的な社会空間に入りこんで、ドイツで馴染んでいた場所をまた新しい目で見ることができた。これも日本ですることができた重要な文化体験の一つだと思う。 ------------------------ <エリック シッケタンツ ☆ Erik Schicketanz> 1974年、ドイツ(プフォルツハイム)生まれ。2001年、ロンドン大学東洋アフリカ学院(日本学)修士。2006年、東京大学人文社会系研究科(宗教学宗教史学)修士。同年、東京大学人文社会系研究科宗教学宗教史学博士過程入学。現在、東京大学人文社会系研究科・特任研究員。趣味は、旅行と映画・音楽鑑賞。 ------------------------ 2010年5月5日配信
  • 2010.04.28

    エッセイ244:シム チュン キャット「シンガポールの新しい賭け:カジノ!カジノ!」

    国内外の富裕層の取り込みを狙ってあの清廉かつ堅物のイメージで有名なシンガポール政府がちょうど5年前にカジノをつくると宣言したときは、正直にいってシンガポール人でさえ驚かされました。それもいきなり2つも!マジで?大丈夫?などの疑問をよそに、政策を決めたら即刻実施という「効率至上」のシンガポール政府は、あれよあれよという間に入札を始め、そのすぐ後に工事を急ピッチで進めてきました。そして、計画通りに今年2010年の旧正月の元日に一軒目のカジノが始動し、もう一軒も今年の4月末にオーブンすることになりました。   もちろん、シンガポールにおいてこれまで賭け事のような産業がまったくなかったわけではありません。イギリスの「伝統」を受け継いで競馬は昔からありますし、宝くじも普通にあります。クルーズに乗れば海上カジノもありますし、橋を渡って国境を越えればマレーシアの高原リゾートにも立派な老舗カジノがあります。さらに、賭け事が好きで今は他界した僕のお祖母さんの話によると、法を犯すことを恐れなければ、ちょっと船に乗ってシンガポールの海域を出たら、違法なインドネシアのカジノ船も何隻か海上に停泊していたそうです(うちのお祖母さんはいったいどこまで賭け事をしに行ったのでしょう…)。   ただ、これまでのカジノではクルーズやリゾートに行くための時間と出費、あるいは法網をくぐってまで違法なカジノ船に乗り込む勇気が必要でしたが、国内に簡単にアクセスできるカジノをつくるとなると、話は全然違ってきます。しかも、都市国家シンガポールの国土は東京23区の面積ぐらいしかないので、二つの新しい合法カジノは本当に「ちょっとそこまで」という距離にあるわけですから、カジノ産業によって賭け事にのめり込む国民が増え、仕事放棄、家庭崩壊、犯罪助長の引き金になりやしないかという心配の声があがりました。当然、同じ心配をシンガポール政府の役人も抱えています。かといって国内外の富裕層のお金もほしいものです。さあ、あなたならどうしますか。   シンガポール政府が考え出した対策は簡単です。外国人はともかく、賭け事にのめり込む国民が増えることだけが心配の種ならば、その国民をカジノに来にくくさせればいいのです。そこで、シンガポールの国民と永住者に限り、100ドル(約7千円)のカジノ入場税が課されることになりました。カジノに入場するための税金が導入されたのは世界初だそうです。またご親切に、2000ドル(約14万円)の年間税を先払いすれば、一年間無制限に入場することもできます。ただし、二つのカジノをまたがっての相互利用はできず、カジノ別の入場税もしくは年間税が必要となります。   それだけではありません。三種類の「カジノ排除」(Casino Exclusions)措置も取られることになりました。賭博中毒を自覚しており、自らをカジノから遠ざけるための「自己排除」(Self Exclusion)、親、配偶者、兄弟、子どもなど直接の家族構成員が自分の家族をカジノに入れないための「家族排除」(Family Exclusion)と、破産申告した者や政府から生活保護を受けている者などのカジノへの立ち入りを自動的に禁止する「第三者排除」(Third-Party Exclusion)がそれにあたります。さすがはルールづくりに長けているシンガポールというところでしょうか。一軒目のカジノのオーブン早々、「大阪にカジノを」と掲げる橋本知事がさっそく視察にシンガポールへ行ったのも頷けます。   ところが、カジノがオープンした旧正月の元日にシンガポール政府の想定外の事態が起きました。なんと外国のパスポートを持ち、入場税のかからない外国人単純労働者がきれいで快適な設備と無料で提供される飲み物だけを求めに洪水のごとく世界最新のカジノに押し寄せたのです。そのうえ、カジノの清潔な床の上で昼寝する外国人労働者もいっぱいいたようで、華やかに着飾ってカジノを楽しむために来た入場者からは苦情が殺到しました。その後、またいろいろな議論が起きたのは言うまでもありません。外国人労働者にも入場税を課すべきだとか、そもそもあの立派なカジノをつくったのが工事現場で働く外国人労働者なのですから彼らも行く権利はあるとか、富裕層は歓迎するのにお金を持たない外国人なら排除するとはいったいシンガポールの社会はどこに向かっているのかとか、とにかくいろいろな意見がマスコミを賑わしたわけですが、二軒目のカジノのオープンを前に新しいルールはまだできていないようです。さあ、あなたならどうしますか。   ---------------------------------------- <シム チュン キャット☆ Sim Choon Kiat☆ 沈 俊傑> シンガポール教育省・技術教育局の政策企画官などを経て、2008年東京大学教育学研究科博士課程修了、博士号(教育学)を取得。日本学術振興会の外国人特別研究員として研究に従事した後、現在は日本大学と日本女子大学の非常勤講師。SGRA研究員。著作に、「リーディングス・日本の教育と社会--第2巻・学歴社会と受験競争」(本田由紀・平沢和司編)『高校教育における日本とシンガポールのメリトクラシー』第18章(日本図書センター)2007年、「選抜度の低い学校が果たす教育的・社会的機能と役割」(東洋館出版社)2009年。 ----------------------------------------   2010年4月28日配信
  • 2010.04.21

    エッセイ243:イェ チョウ トゥ「テレビから学ぶ日本」

    母国ミャンマーではニュース番組を除いてテレビをほとんど見なかった私だが、来日後は時間を見つけては見るようになった。というのは、日本のテレビ番組には素晴らしいものが多く、学びの可能性が無限に広がっているからだ。 来日当初は、主に日本語の学習のためにテレビを見ていた。NHKの教育番組だけでなく、ドラマから日常会話や若者の使う日本語などを学んだ。字幕付きの番組も多く、漢字の勉強に役立った。日本語がだんだん分かるようになると、スポーツ、旅行、文化、ドキュメンタリーなど、さまざまな番組を見るようになり、日本の文化に対する理解が少しずつ深まっていった。最近では、お笑いや政治番組も理解できるようになり、くだけた日本語や逆に硬い日本語を学ぶのに役立っている。 このように日本のテレビ番組は私にとって貴重な学びの場であるが、中でもドキュメンタリー番組からは多くのことを学んだ。たとえば、戦争体験者の話から日本の歴史的事実を初めて学んだ。ミャンマーにいた時は、戦争を体験した日本人の痛みなど全く知らなかったが、つらい時代を過ごした日本人の語る内容に強い衝撃を受け、戦争について深く考えるきっかけとなった。また、障害をもった人や病気の人が懸命に生きようと頑張っている姿を描いた番組を見て、心を揺さぶられ、命の重さについて考えさせられた。歴史上の偉人、研究者、政治家など、日本を変えるために人生をかけている人についての番組もよく見る。このような立派な人々の努力があったからこそ、日本はここまで豊かな国になったのだと実感する。そんな時、自分もできることを精一杯やらねばという思いで胸が熱くなる。 もちろんテレビが与える影響には良いものも悪いものもあり、場合によっては危険性もある。しかし、私は、日本のテレビ番組は素晴らしい教育手段のひとつであると考える。研究を行う上で手がかりとなるような幅広い知識を得ることもでき、私にとっては知識の宝庫といえる。 学会などで海外を訪れた際は、短時間でもテレビ番組を見るようにしている。そうすることにより、文化、流行、教育などに触れることができ、少しその国に近づけたような気がするのだ。このような経験から、日本に来たばかりの人へアドバイスをするとすれば、テレビから学ぶ日本をお薦めしたい。わずかな時間でも、何かを学び取ろうという意識をもってテレビを見ることで大いに勉強になるということを伝えたい。 寝転がっていながらリモコンひとつで勉強ができる日本では、いくらでも知識を増やしていくことができる。今夜もテレビをつけたまま居眠りして朝を迎えることになりそうだ…。 --------------- <イェ チョウ トゥ☆Ye Kyaw Thu> 1975年、ミャンマー(ヤンゴン)生まれ。2000年、Dagon University(ミャンマー)物理学部卒業。 2006年、早稲田大学大学院国際情報通信研究科修士課程修了。現在、同大学助手。ヒューマン・コンピュータ・インタラクション、自然言語処理、子供および障害者を対象とした教育に関する研究を行い、博士号取得を目指している。趣味は、武道(合気道、テコンドー、カンフー)、読書、旅行。 --------------- 2010年4月21日
  • 2010.04.14

    エッセイ242:ダルウィッシュ ホサム「ダマスカスの伝統:ハンマーム(公衆浴場)への誘い(その2)」

      入浴は、身体的・宗教的な清めとして、イスラームの文化に根付いている。イスラームの聖典クルアーンは、顔、手から肘まで、そして足先から足首までを洗うことを推奨し、ムスリムは日々の5回のお祈りの前に、この清めの儀式を行う。これは、魂を浄化するには、身体も清められていなければならないからである。このため、ハンマームに行って身体を清潔にすることは、モスクでのお祈りを補完すると言われている。ハンマームは、ムスリムが魂を浄化する上で、特別な精神的・身体的清めの役割を担っていると考えられているのである。   ハンマームの雰囲気を言葉だけで表現するのは難しいが、ここでハンマームでの体験を紹介したい。   ハンマームは、脱衣所や休憩所がある「バッラーニー」、身体を温める「ウィスターニー」、そして熱いサウナがある「ジュッワーニー」の3つに分かれている。ハンマームの内側は、全面光り輝く大理石で出来ている。ハンマームの入り口の門をくぐると、美しく装飾された噴水が中央に鎮座する「バッラーニー」に入る。噴水の両側には、絨毯が敷き詰められた数段の階段があり、それを上ると脱衣所がある。脱衣所で着替えを済ませると、ハンマームの従業員からタオルと、歩くとカタカタと音がする木製のサンダルを受け取る。タオルを身体に巻き、木製のサンダルをはいて、次に向かうのが温かく熱されたサロン「ウィスターニー」である。熱いサウナに入る前にこのウィスターニーで少し休んで、身体を温める。 身体が温まり、熱いサウナに入る準備が出来たら向かうのが「ジュッワーニー」だ。ここは、燃え盛る炎で熱されたお湯が、パイプを通って部屋の床の下を巡っている。全体が大きなサウナのようになっているが、横には小さな部屋もあり、身体を洗ってもらうこともできる。ジュッワーニーの中には、石の水うけと銅の蛇口があちこちにあり、水蒸気で曇った中にローレルとオリーブ石鹸の香りが立ちこめ、美しく装飾されたドーム型の天井の窓から、日の光が差し込む。子供たちは、石鹸と水蒸気でツルツルになった大理石の床の上を滑り、笑い声をあげて遊ぶ(が、いったん垢擦りに捕まったら、この笑い声は悲鳴に変わる!)。 「ハラーラ」という熱いサウナで汗を流したら、次は垢擦りである。皮膚が赤くなるまで、紙ヤスリのような固いスポンジで身体中をこすられ、垢だけでなく体毛もこすり落とされてしまう(!)。垢擦りが一段落すると、次に待っているのがマッサージである。マッサージは例外無く関節が音をたてるくらい力強いもので、身体中の筋肉の最後の一つまで揉みほぐされる。マッサージには、オリーブ石鹸が使われ、肩から指先までマッサージされる間、抵抗することもできずに静かに横たわっているしかない。しばらくすると、痛みにも慣れ、身体が生まれ変わるような感覚に陥る。 ハンマームで身体を洗い、汗をかき、垢擦りとマッサージを終えると、最後に休憩所が待っている。従業員たちは、「ナイーマン(祝福の意味)」と声をかけながら、ゆったりとした布で身体を覆う伝統的なハンマームの服装に着替えた客を、テラスに案内する。ここでズフーラート(花とハーブのお茶)を飲みながらゆっくりと休憩し、他の客と語らうのは、ハンマームでは必要不可欠だ。純粋に入浴と汗をかくだけの目的でハンマームに来る者はなく、ハンマームは社会的な集まりの場として重要な役割を果たしているのである。 ハンマームは、ダマスカスの文化的な遺産である。これは歴史や建築の観点からだけでなく、その社会的な役割からも言うことができる。なぜなら、ハンマームは、個人が社会活動や伝統を他の人々と共有するための場所、時間そして機会を提供する社会・文化的な空間としての役割を果たしているからだ。また、ハンマームでの社会・文化的な体験を特別なものにするのは、ハンマームの美しい建築であり、中の装飾であり、水の音、窓から差し込む柔らかな自然光、お湯から立ち上る水蒸気、そして天然石鹸の香りなのである。 ハンマームはまた、ダマスカスの人々にとって社会的儀式を行う場所でもある。宗教的な祝日や、家族行事など大事なイベントがあると、人々はハンマームに向かう。この時には、特別な料理とお菓子を入浴後にハンマームで食す。このような機会は男性よりも女性の方が多く、例えば結婚式の前、子供が生まれた40日後、そしてラマダン(断食月)明けのお祭などの機会にハンマームに行くのである。男性の同行無しに外に自由に出られなかった女性にとっては、ハンマームは、家族や親戚、友人が自由に集まって話せる唯一の公的な場所でもあった。   ハンマームは、大昔から続くダマスカスの文化的な伝統を、現在も継承し、実行している場所であり、ダマスカスの人々が共有する記憶をとどめている空間なのである。もしダマスカスに行く機会があれば、ぜひハンマームに足を運び、この歴史的な記憶と伝統に触れてみてはいかがだろうか。 ・ハンマームの写真はここからご覧ください。 ・ホサム「ダマスカスの伝統:ハンマームへの誘い(その1)」はここからご覧いただけます。 ---------------------------- <ホサム・ダルウィッシュ☆Housam Darwisheh> 1979年、シリア(ダマスカス)生まれ。2002年、ダマスカス大学英文学・言語学部学士。2006年、東京外国語大学大学院地域文化研究科平和構築・紛争予防プログラム修士。2010年同博士。現在、東京外国語大学大学院講師・研究員。趣味は、ジョギング、ダルブッカ(中東地域の太鼓)演奏、ダンス。 ---------------------------- 2010年4月14日配信
  • 2010.04.09

    エッセイ241:ダルウィッシュ ホサム「ダマスカスの伝統:ハンマーム(公衆浴場)への誘い(その1)」

    アラビア語で「ディマシュク」と言い、ジャスミンの町として知られるダマスカスは、アブラハムの時代にまでさかのぼり、人々が現在まで住み続けている世界の都市の中で、最も古い。ダマスカスの長い歴史の中で、歴史家たちはこの都市を「ジルク」「ファイハ」「アッシャーム」など様々な名前で呼んで来た。古都ダマスカスは壁と塔、そして7つの門で囲まれていた。この7つの門をくぐれば、目の前には息をのむような建築美が広がっている。預言者ムハンマドは、メッカからの旅の途中、近くの山の頂上からダマスカスを見て、「楽園の門をくぐるのは、死を迎えた時の一度だけにしたい。」として、ダマスカスに一度も足を踏み入れなかったという言い伝えがある。マーク・トゥエインは、1869年の旅行記 “The Innocent Abroad” で、いくつもの帝国の繁栄と衰退を目撃してきたダマスカスを、以下のように書き記している。   “Damascus measures time not by days and months and years, but by the empires she has seen rise and prosper and crumble to ruin. She is a type of immortality. In her (Damascus) old age she saw Rome built; she saw it overshadow the world with its power; she saw it perish. …no record event has occurred in the world but Damascus was in existence to receive news of it. Go back as far as you will into the vague past, there was always a Damascus… She has looked upon the dry bones of a thousand empires and will see the tombs of a thousand more before she dies.” Mark Twain. 1869. The Innocent Abroad (Chapter 44). このエッセイでは、ダマスカスの人々の間で何百年も続く伝統、「ハンマーム・アッスーク/ハンマーム・アッシャービー」(公衆浴場)を紹介しよう。(本エッセイでは、以下「ハンマーム」と略す。) ダマスカスの人々とハンマームとのつながりには、長い歴史がある。アラビア語で「温かさを広げる」ことを意味するハンマームは、ダマスカスを首都として栄えたウマイヤド朝(662〜750年)から続いている。歴史家の中には、ダマスカスのハンマームはローマ帝国時代にまでさかのぼると主張する者もいる。ダマスカスのハンマームは、多くの歴史家の著作の中に登場する。例えば、著名な歴史家イブン・アサーキル(〜1176年)は、著書『ダマスカスの歴史』の中で、50以上のハンマームに言及している。イブン・シャッダードは、1250年に発表した著作の中で100以上のハンマームを取り上げ、イブン・ジュバイルは、1185年にダマスカスを訪れた時、100以上のハンマームが存在したと書き記している。ダマスカスには160以上のハンマームがあったと言われているが、時代の移り変わりや生活環境の変化と共にその数は減っていった。ダマスカスのハンマームの数は20程度に減少したものの、ダマスカスからハンマームが消えることはなく、現在に至るまで、その扉は地元の人々だけでなく旅人や観光客にも開かれている。 ハンマームはローマ時代の伝統とアラブの伝統が混ざり合って出来たものであり、ハンマームに通う習慣は何百年も前から姿を変えずに続いている。有名なハンマームを挙げれば、旧市街の中のアル・ブズーリーヤ市場の近くでウマイヤド・モスクの東にあり、スルターン(君主)ヌール・アッディーン・アッザンキによって1170年に建てられた「ヌール・アッディーン・アッシャヒード」や、旧市街の城塞とウマイヤド・モスクの間に位置し、985年に建てられた「アル・マリク(王)・アル・ザヒル」などがある。 人々はなぜハンマームに通い続けるのだろうか?ハンマームに行けば、心身ともにリラックスでき、仕事や旅の疲れを癒し、リフレッシュすることができる。それだけでなく、社会的なコミュニケーションの場としても、ハンマームは大きな役割を果たしている。また、ハンマームで温まれば、たくさんの子供に恵まれるようになり、双子の男の子を授かる確率が高くなると信じている人もいる。結婚式や誰かが退院した時、遠くへ旅をしていた友人や家族が帰って来た時など、何かの機会に人々はハンマームに行き、身体を綺麗にしてお祝いをする。これは昔から続く伝統である。 以前よく通っていたハンマームの横にあるコーヒー屋には、千夜一夜物語(アラビアン・ナイト)や恋物語を語って聞かせる人(ハカワーティー)がいて、その数々の物語の中には、ハンマームが頻繁に登場した。ある物語の中のハンマームの描写を紹介しよう。   「昔々、スルターン(君主)の息子が結婚した。結婚式の前夜、新郎と新婦は、召使いたちを連れてハンマームに出かけた(もちろん、別々に!)。新郎と他の男たちは、頭と足から火花が出るまで、ハンマームの熱いベンチに座って汗を流した。また新婦は、ハンマームから出て来ると、この世で最も美しい新婦になっていた。」(つづく) ----------------------------- <ホサム・ダルウィッシュ☆ Housam Darwisheh> 1979年、シリア(ダマスカス)生まれ。2002年、ダマスカス大学英文学・言語学部学士。2006年、東京外国語大学大学院地域文化研究科平和構築・紛争予防プログラム修士。2010年同博士。現在、東京外国語大学大学院講師・研究員。趣味は、ジョギング、ダルブッカ(中東地域の太鼓)演奏、ダンス。 ----------------------------- 2010年4月7日配信
  • 2010.03.31

    エッセイ240:葉 文昌「台湾の若者が感じた日本」

    2009年12月、台湾の大学の研究室の全員を連れて宮崎で行われた国際学会に参加し た。メンバーは自分を含めて13名、そのうち海外渡航経験者は11名、日本渡航経験者 は9名であった。国際会議できちんと聴講してもらうのと同時に、日本とは如何なる 所かを体験できるせっかくの機会でもあったので、学会後には、日本の某大学研究室 との交流飲み会や、福岡での温泉付ビジネスホテルの宿泊等を企画した。    帰国後、全員に学会とそれ以外の感想を書いてもらった。ここで学生が学会以外に感 じたことをそのまま皆さんに紹介しようと思う。 まずは修2のA君から。「福岡のホテルでB君に温泉浴場に行こうと誘われたけど、 そこは全裸と聞いて恥ずかしいと思った。」「日本は街でゴミを見かけないと聞いた けど、実際に来て見て本当にそうだった。感服した。」「博多から大宰府まで地下鉄 で行けるので、日本の地下鉄網はとても便利と思った。台湾も将来このように便利に なればいいな。」 次は海外初めての修2のB君。「大宰府では賽銭の音が大きいほどいいと聞いたの で、惜しみもなく500円玉を投入した。お守りは800円もするけど、これで御加護が得 られるのなら代償はやむをえない。」「台湾の物価水準から日本を見ると、食べ物は 高く、日用品は安いとの印象を受けた。」 修1で海外初めてのC君。「台湾から日本は2時間ちょっとの距離だけど、まるで別世 界に来たようだ。テレビで見たことがあるものもあるけど、実際に見てみるとまた違 う味がした。そしてもっとも感じたことは日本の生活水準の高さと環境の良さであ る。」「街は聞いていた通りに綺麗で、しかも台湾のような道を争う車やバイクもな い。台湾に戻ってきたら少し戸惑った。だから生活環境で台湾が見習う所が多い。で も台湾にも日本より便利な部分もある。例えばテレビチャンネルの多さとコンビニの 多さ、それから夜遅くまで開いている屋台等、これらは台湾に居ることの幸せであ る。」    続いて新卒の女性事務アシスタント。ここで説明するが、台湾政府はリーマンショッ ク以来、失業率を下げるために大学に人を雇う予算を与えた。それで僕も申請したら 3人のポストが与えられた。折角の機会なので一つの実験をしたくなった。男女共同 参画の米軍に見習って、事務・研究アシスタントとして新大卒女子を三名雇ったの だ。これで研究室にはじめて女子が入ってきた。半年間の感想を言うと、実験室の安 全には気を使ったものの、女子の存在で研究室の雰囲気は和らいだし、仕事の面でも 悪い影響を受けた印象はなかった。総じてプラスといえるだろう。ただ一つ、女性は 厳しくすると男性より涙もろいようなので、男女平等と言っても本音で平等に接する ことは注意が必要のようだ。   その三人の女性は今回自費での参加である。自費なので学会に参加する義務はない。 学会の間、彼女達は三人で宮崎観光に出かけた。日本語はできないものの、多くの地 元の方に親切にして頂いたようだ。A子曰く「バスを乗り継いで鵜戸神宮で降りたら そこに見えるものは山と海だけだった。でも日本人の人情は厚く、沿道ずっと目的地 への行き方を教えてくれる人がいた。しかもあるお土産店のおばさんは歩きやすい行 き方も教えてくれた。平和台公園で道に迷った時にはバスの運転手が無料で目的地ま で乗せてくれた。」   学会翌日の土曜は福岡に移動しての自由時間である。その日は私以外の皆は大宰府に 行った。感想文には、B子の薦めた大宰府の梅枝餅は美味しくてとても感動したと、 皆書いてある。若い人は何を食べても美味しいから羨ましい。私が居たらおそらくは 「これの何が美味しいのかね?所詮は観光客向けのお菓子だろう」などと殺風景なこ とを言っていたかも知れないので、やはり私は行かなくて正解だった。更にその夜は 事前に調べた有名なラーメン屋さんに行ったようである。福岡での自由時間の計画は すべて女性達によるもので、男子は計画もなく尻についていく感じだった。翌日の帰 国にもかかわらず女性は夜も店が開いている時間目一杯まで買い物をし、帰国日も朝 早く起きて買い物に出かけた。女性陣にとって今回の旅行は骨の髄まで楽しめたと言 えるのではないか。   最後にA子「もう日本を離れる時間になった。台北と比べてこれ以上ない新鮮な空気 が恋しい。綺麗な街道、時間に正確、秩序、それと客への礼儀正しい対応、すべては とても印象に残りました。このような機会を与えてくれた先生に感謝します。」 これが有終の美を飾る研究室の卒業旅行となった。12月末に、島根大学での准教授就 任が内定したからだ。学生には厳しくも真摯に接してきたから、このことを学生に伝 えるのは悲しかった。でも熟慮して決めたことだから前を向いて進むしかない。3月 には8年間学生と共に手作りで立ち上げた、太陽電池や薄膜トランジスタが作れる薄 膜デバイス研究室は消滅する。4月からの日本での新生活は期待と同時に不安もある が、期待だけを増幅させて臨んで行きたい。 ----------------------------------------- <葉 文昌(よう・ぶんしょう) ☆ Yeh Wenchuang> SGRA「環境とエネルギー」研究チーム研究員。2001年に東京工業大学を卒業後、台湾 へ帰国。2001年、国立雲林科技大学の助理教授、2002年、台湾科技大学の助理教授、 副教授。自己評価による8年間の業績は予算を獲得し装置を手作りして、薄膜トラン ジスタやシリコン太陽電池が作れる環境を整えたこと。2010年4月より島根大学電子 制御システム工学科の准教授。異国の生活の中で気づいたことは、国籍も人種も意味 はなく、重要なのは食わせて頂いている組織、地域、そして国に、給料を超えた価値 を創出すること。 ----------------------------------------- 2010年3月31日配信
  • 2010.03.24

    エッセイ239:シェルマトフ・ウルグベック「ウズベキスタンの結婚式」

    ウズベキスタンの人々の生活のなかで結婚式の存在は非常に大きい。ここでいう「存在が非常に大きい」というのは、人々が生活のなかで他人の結婚式に係ることが非常に多いという意味である。その理由は、ウズベキスタンの結婚式の規模にあるといえる。すなわち、ウズベキスタンでは、結婚式を構成する多くの行事が存在すると共に各行事に参加する人も多い。まず、ウズベキスタンの結婚式の行事を簡単に紹介する。なお、ここではウズベク人の結婚式を前提にしていることをあらかじめお断りしておく。   ウズベキスタンの結婚式は、原則として婚約式、朝のオシュ(プロフ)、ザークス、披露宴(狭義の結婚式)、新婦による朝の挨拶、チャッラリー、オタチャキリクからなる。 そもそもウズベキスタンでは、お見合い結婚が一般的であり、結婚に至るまで、若者は20―30回くらいお見合いを経験することは稀ではない。婚約式は、新婦の家で行われる。婚約式には新郎側から両親と親戚、新婦側から両親、親戚と近所の人が参加する。 次に行われる朝のオシュは、結婚式の不可欠な行事である。新郎側も新婦側もこの行事を主催し、親戚、友達、家族の知り合い、近所の人など、結婚する相手の親戚と知り合いにオシュ(プロフ:お米、人参、肉などから作る料理)やその他の料理をご馳走する。いわゆる食事会である。この食事会は、朝の早い時間、午前5時ころから開始する。出席する人は男性のみである。出席する人の数は、主催する家族によって大きく異なるが、平均は400人くらいであろう。また、食事会に伝統的な歌を歌う歌手が呼ばれるので、出席者は、歌を聴きながら食事をする。同日の午前11時ころには女性が出席するオシュ食事会が開かれる。近年、都会の人は、(朝の)オシュ食事会のために広いレストランを貸し切りにするが、地方では、オシュ食事会の会場として家の庭を利用したり、または家に接する道路を閉鎖してテーブルを配置した仮会場を利用したりする人が多い。 オシュと披露宴との間、新郎、新婦および新郎新婦の友達は、ザークスという行事に参加する。そもそもザークスの目的は、日本でいう結婚届けの提出であるが、結婚届け提出後に、参加者は、車で貸し切りになっているレストラン(会場)に移動する。会場で様々な料理が用意され、会場を盛り上げるために歌手が呼ばれる。 夜の披露宴は、結婚式の主な行事であり、日本の披露宴と共通する点が多い。ただ、ウズベキスタンの場合、少なくとも一人の歌手が必ず呼ばれ、その歌手は、会場を盛り上げるために披露宴中ずっと歌っている。経済力のある家族の場合、全国的に有名な多くの歌手や芸能人が登場し、披露宴が日本の紅白歌合戦に該当する豪華なイベントになることもウズベキスタンの結婚式の特徴であろう。 披露宴が終わったら、新郎は、原則として新婦を新居となる自分の家に連れて帰る。そして、一夜明けると新婦は、その家で大勢の人の前で数回にわたってお辞儀をする。これは、新婦による朝の挨拶という行事である。 これだけでは結婚式が終わったとはいえない。披露宴が終わってから2日後にはチャッラリーが行われる。チャッラリーとは、新婦の両親が新郎、新婦(娘)および新郎の両親、親戚と友達をもてなし、新婦側と新郎側がお互いをよく知り合うための会である。近年、チャッラリーの会場としては、広いレストランが用いられる。ここでも、様々な料理が用意され、歌手が呼ばれる。 チャッラリーが終わってから1―2週間後にはオタチャキリクが行われる。オタチャキリクとは、新婦側と新郎側がお互いをよく知り合うための会であり、その意味でチャッラリーと同様の目的のために開かれる。ただ、オタチャキリクでは、新郎の両親が新婦の両親、親戚をもてなす。ここでも、様々な料理が用意され、歌手が呼ばれる。 このように、ウズベキスタンの結婚式では、各行事に参加する人の数が多いのと同時に行事自体の数も多い。そのため、一つの結婚式に係る人の数が日本の結婚式より遥かに多い。そして、人々の生活に対する結婚式の影響も日本より大きいといえる。このことは、新郎新婦の職場の関係者が結婚式に参加するときに、顕著である。すなわち、結婚式のために、新郎または新婦と同じ職場の上司、同僚および後輩たちがどこかで集合し、一緒に入場し、退場する。朝のオシュの場合、退場した後に皆で職場に向かって行くこと、夜の披露宴の場合、早めに仕事を終わらせ、皆で披露宴会場に向かって行くことが一般的である。また、結婚会場での音楽が会場の外でもよく聞こえるため、結婚式をしていることが結婚に直接に関わっていない人にも明確に知られる。 ウズベキスタンの人々は、結婚式の在り方を大事にし、現在も守ろうとしているが、結婚式に多くの手間および膨大な費用がかかることは明らかである。そのため、近年、結婚式の在り方については国内で批判の声が頻繁に上がっている。批判の内容は、結婚式をより簡易にし、無駄遣いをなくすことである。その批判を支持する人は多いものの、結婚式が伝統としてウズベキスタンの社会に深く根付いているという現実もある。今後、ウズベキスタンで結婚式の在り方は大きく変わっていくのか。社会の変遷が反映される問題であるため、今後の展開を注目していきたい。 ----------------- <シェルマトフ・ウルグベック☆ Shermatov Ulugbek> ウズベキスタン出身。タシケント世界経済外交大学国際法学部卒業。2003年、横浜国立大学大学院国際社会科学研究科修士課程修了。2003年-2005年、ウズベキスタン法務省経済法立法部で勤務。2006年、明治大学大学院法学研究科博士課程入学。現在、同研究科所属。SGRA会員。 ----------------- 2010年3月24日配信
  • 2010.03.08

    ★★★SGRAエッセイが本になりました!「われら地球市民~かるがると国境を越える」発売中!

    新刊紹介: 今西淳子編「われら地球市民−かるがると国境を越える」 渥美財団15周年・SGRA10周年を記念して、過去5年間に配信したSGRAエッセイを1冊にまとめました。八重洲ブックセンター他の書店でご購入いただけます 「地球市民」というテーマのもとにまとめられた外国人奨学生たちのエッセイ集。 世界と日本、そしてそれぞれの自国の現状と問題点をえぐり出している。 深刻な問題から日常のトピックスまで、世界の動きが身近に感じられる1冊。 渥美国際交流奨学財団の15周年と、関口グローバル研究会(SGRA)の10周年を記念して出版された元奨学生・現奨学生たちのエッセイ集。ただこの本が単なる記念出版物でないことは、巻頭に掲載された元国連事務次長、明石康氏の次の一文からも読み取れる。 -------この文集の楽しさと興味深さは、外国からの奨学生たちが、実に自由で生き生きとした視点から日本や日本人を観察し、日本の文化や社会に反応し、アジアと世界について語っていることにある------   現在、ネット検索をすれば390万件ものヒット数がある「地球市民」というタイトルのもとに、世界の動きを実感することができる1冊である。 今西淳子(渥美国際交流奨学財団)[編] ジャパンブック 判型:四六判 定価:本体1500円+税 ISBN978-4-902928-09-9
  • 2010.03.03

    エッセイ238:張 桂娥「新羅千年の都~雨の慶州を巡る冬の旅~(その2)」

    空腹を抱えながら午前中の見学プログラムをこなし、午後一時過ぎ、やっとランチタイムに。大衆食堂っぽいレストランで韓国料理の食べ放題コースでした。味もそこそこおいしいし、料理の種類も豊富なので、本国の観光客はもちろん、外国人の私もいろんな料理にチャレンジできて、満足感が味わえる昼食でした。 午後のツアーは、満腹感による睡魔との闘いから始まりました。ちょうどうまい具合に眠りこけた頃に、石窟庵への遊歩道入り口付近に到着。バスガイドの元気な韓国人おばさんに促され、いやいやながらバスを降りた私は、石窟庵にたどり着くまでの長くて険しい道のりにさすが閉口しました。しとしと降り続ける寒い雨の中、泥濘状態の道を進み、凍った地面で足を滑らせたりしたアクシデントも。しかし、根気強く歩いて、吐含山(Tohamsan)の頂上にたどり着くと、そこには、花崗岩を重ね、人工的に作り上げた石窟寺院のような荘厳な洞窟があり、その窟の真ん中には高さ3.48mの本尊仏像が安置されており、まるで私たちを待ち受けているように、静かに迎えてくださったのです。 新羅時代751年に着工し、30年に渡って作り続けられ完成された石窟庵には、本尊仏像のほかに、前室と窟入り口左右の壁には八部神衆、仁王及び、四天王などの立像を始め、石窟庵内部の至る所に詳細まで彫刻された仏像が、およそ40あまり現存しているといいます。ここでも陸さんの精彩に富んだ解説の御蔭で、石窟庵の見学ポイントを伝授され、仏像の美を十倍楽しむことができました。心身とも満たされた充実感に包まれ、帰り道では、寒気も眠気も疲れも、どこかへ吹っ飛んだかのように、うそみたいに軽快な足取りでバスに戻れました。本当に陸さま様でした。 そして、このシティーツアーのハードスケジュールの極めつけは、世界文化遺産として指定されている韓国の代表的な寺院である、あの華麗な新羅文化の歴史を髣髴させる仏国寺の見学でした。現在総面積が12万余坪に至る仏国寺境内には、大雄殿を中心に多宝塔、釈迦塔など世界的に有名な宝物があるほか、韓国の国宝も含む多彩な宝物が合わせてなんと7000あまりも残っているといいます。この洗練された新羅の芸術と仏教文化をそのまま語り伝える韓国の重要文化財を散策している間に、境内に漂っている静粛な雰囲気に圧倒された私は、頭に思い浮かべる言葉が一つもないことに気づき、ただ沈黙を保ったまま、新羅芸術の美を自分なりの感性で楽しむことに意識を集中しました。 歴史の勉強が苦手な私にとっては、消化不良な遺跡ツアーになりそうですが、相変わらず熱のこもった陸さんの説明に終始熱心に聞き入っている今西さんと石井さんの真剣な表情を見ると、きっといい勉強になる充実した歴史の旅に違いないと確信しました。旅行の達人になるためには、出発する前の事前勉強が鍵ですね。 日が暮れかかる頃、慶州教育文化会館に到着。部屋で一息ついた後、全員ロビーで集合。レストランの送迎バスで「韓牛」の焼肉名店へ移動。フォーラム前夜の歓迎レセプションが開かれました。丸一日のシティーツアーで全員少し疲れがたまったのと、翌日に控えるフォーラムの準備に心がとらわれたせいか、みんなの口数がめっきり減ってしまったような気がしました。食事の合間に、フォーラム運営関係者たちが打ち合わせに取り組んだりしていましたが、オブザーバーとして気楽に出席した私は、霜降り「韓牛」の極上焼肉の誘惑に負けて、超美味なお肉を黙々と口に運んだだけでした。フォーラムを成功させたい一心の韓国SGRAメンバーたちに、大変申し訳ございませんが、本当に美味しかったです。ご馳走様でした! 翌日、フォーラムは午後二時からなので、陸さんの通訳案内で今西さん、石井さんと私の四人は、観光ツアーの第二弾を決行しました。行く先は新羅時代の遺物が集結された国立慶州博物館でした。晴れ女の名にかけてご利益を蒙ろうとしても慶州の神様には通じないようで、途中で雨が降り出しました。 慶州博物館の2千余坪の敷地には、本館を始め第1別館である古墳館、第2別館である雁鴨池館、野外庭園があり、総2千700余点の遺物が展示されています。本館には慶州とその周辺地域から見つかった各種遺物を、古墳館には新羅古墳から出土した遺物を、雁鴨池館には雁鴨池から出土した代表遺物を展示していますが、陸さんは最も思い入れの強い、博士論文にもとりいれた、野外庭園に展示されている四天王石像について詳しく説明してくださいました。また石窟庵でよく見られなかった各種大小の仏像のレプリカも間近で見学できてよかったと思います。 昼食後、午後二時よりフォーラムが開催されました。研究発表の記録やプログラム実施の詳細及び成果については、金賢旭さんの報告をご参照ください(来週のかわらばんで配信予定)。 2月10日10時半、慶州から釜山の金海国際空港へ直行。帰途の高速道路は平日なので、大きな渋滞もなく順調でしたが、実の詰まった3泊4日の釜山慶州の旅を振り返ると、駆け足視察みたいにあっさりと終盤を迎えてしまうような気がして名残惜しくてなりません。 一方、帰りの便の中では、飛行機で片道一時間と少しであっという間に着いちゃう国なのに、なぜか今まで積極的に理解しようとしなかった自分がいることに、疑問を投げかけて問い詰めないではいられませんでした。東アジアに生きていながら、東アジアに目をつぶりがちな生き方に納得できなくなる今日この頃、私を受け入れてくださった韓国SGRAの皆さんの心の広さにあらためて敬意を表したいと思います。 韓国の皆様、カムサミダ!!お疲れ様でした。 張 桂娥「新羅千年の都~雨の慶州を巡る冬の旅~(その1)は、ここからご覧ください。 ---------------------------- <張 桂娥(チョウ・ケイガ)☆ Chang Kuei-E> 台湾花蓮出身、台北在住。2008年に東京学芸大学連合学校教育学研究科より博士号(教育学)取得。専門分野は児童文学、日本近現代文学、翻訳論。現在、東呉大学日本語学科助理教授。授業と研究の傍ら日本児童文学作品の翻訳出版にも取り組んでいる。SGRA会員。 ---------------------------- 2010年3月3日配信
  • 2010.02.24

    エッセイ237:張 桂娥「新羅千年の都~雨の慶州を巡る冬の旅~(その1)」

    韓国慶州(キョンジュ)で開催される第9回日韓アジア未来フォーラム(2010年2月9日)を控え、一足先に釜山(プサン)入りしたソウル在住のSGRA研究員、金雄熙さん、金賢旭さん、韓京子さんの暖かい出迎えの中、今西淳子さん、石井慶子さん、梁明玉さん、陸載和さん、そして、台湾から東京経由で参加した私が金海空港に到着したのは2月7日午後2時でした。 想定外の好天気に恵まれ、ぽかぽかの陽気に包まれながら、流れていく車窓の風景を眺めていると、海を越えて釜山に来ているのに、なんだか外国に来たという実感があまりしない自分にびっくりしました。どこか懐かしい雰囲気さえ漂っているこの町の風情にすぐに馴染んで、東アジア社会に共通する何らかの繋がりを肌で感じました。今までただの記号としか見えなかったハングル文字も、今にもカラフルな看板から躍り出ようとした感情豊かな文字に見えてきて、ほんの2、3文字でも認識できれば町の景色に少しは溶け込むこともできたのにと、密かに悔やんでいました。 程なくホテルに到着し、今回の発表者の横山太郎先生(跡見学園女子大学)と合流し、部屋に荷物をおろしてから、みんなで(しかも自家用車一台で六人乗り⇒さすが華奢な女性陣ならではの凄技ですね^^)海雲台(ヘウンデ)ビーチの美しさを堪能できる釜山ウェスティン朝鮮ホテルの喫茶ラウンジに繰り出しました。素晴らしい砂浜の景色を眺めながら、自己紹介に続いて、日本・韓国・台湾の大学教育現場の珍現象について議論したり、梁明玉さんのお姉様の梁明順さんからの差し入れ=美味しい干し柿(マシッソヨ!!カムサミダ!!)をつまんだりして、優雅なティータイムを心ゆくまで満喫しました。(この旅の初めから終わりまで、梁明順さんの至れり尽くせりのサービスにはただただ感謝の一言です。どうもありがとうございました!) しばらくすると、もう一人の発表者である藤田隆則先生(京都市立芸術大学)と上述のソウルからの参加者が到着し、全員集合。釜山在住の朴貞蘭さんを入れて総勢12人でわいわい話しながら、海雲台ビーチを一望するラウンジの窓際の特等席を独占していました。もちろん、フォーラムの打ち合わせや翌日の慶州観光ツアーのスケジュールの確認も入念に済ませました。そして、歓談も一段落ついたころ、夕日に染まり始めた白い砂浜を後にした全員は、二台の車(うち一台は乗客定員11名の現代(ヒョンデ)ワゴンレンタカー)に分乗してレストランへ向かいました。   数年前から韓国料理のおいしさに目覚めた私は、韓国でのご馳走といえばお馴染みの焼肉やブルコギか伝統的宮廷料理と思い込んでいましたが、幹事の朴貞蘭さんが案内してくださったのは、なんと「夢」と名づけられた高級日本料理店!!朴さんのご主人のお勧めでもあるようですが、ぜひ韓国人の目線から捉えられた日本料理のあり方を体験してもらいたいという企画動機を聞いて、なるほど、この店で出された日本料理を食べたら、韓国の人々に受け入れられる日本料理の姿がわかるということになるわけです。まあ、韓国料理は明日も明後日も食べられる機会がいくらでもあるし、せっかくのチャンスなので、世界に広がりつつある日本料理を通じて、食生活における異文化理解にアプローチしようじゃないかと期待を膨らましながら席に着きました。 さすが、プサンの政財界にも名の知られるご接待向けの日本料亭だけあって、出された料理の数々は、日本人でも納得できる秀逸の品ぞろい。お刺身、ふぐのてっさ、焼き魚、煮魚、珍味、漬物、しめのうどんやご飯と味噌汁。しかし、一見高級日本料理の素材がふんだんに取り入れられても、ドレッシングやソースの種類をはじめ、付け合せの野菜や食べ方は、やはり韓国料理的要素が上手にミックスされていると感動しました。地元の人でもめったに体験できない日韓食文化の集大成に舌鼓を打った私は、韓国における台湾料理を一回だけでも味見したいなって、ついに欲が出てしまいましたが……。 会席の間に交わした話題は、今回のフォーラムテーマである「東アジアにおける公演文化(芸能)の発生と現在:その普遍性と独自性」にちなんで、日韓中における伝統的芸能の様々な様相をはじめ、接待向けの座敷から生まれた日本の遊女・舞妓・芸者文化や韓国の妓生(キーセン。Wikipediaによれば「朝鮮国に於いて、諸外国からの使者や高官の歓待や宮中内の宴会などで楽技を披露するために準備された女性の事をさす。しかし実際の妓生の位置付けは芸妓を兼業とする娼婦である。」)まで広がり、東アジアの民族性や民俗イベントの異質性と同質性をめぐる熱き論議が繰り広げられていました。専門外の私も時々箸を置いて日韓双方の見解に耳を傾けて頷くほど、本番のフォーラムに遜色のない真剣な話題も盛りだくさんでした。これぞ、SGRAの醍醐味ではないかとつくづく思ったのは私だけでしょうか。まだ初日での顔合わせの段階なのに、参加者たちの気持ちはすでに未来フォーラムに向けて、着々とウォーミングアップし、後一歩で準備完了といったところでした。   翌日2月8日早朝、車で未来フォーラムの開催地である慶州へ移動しました。予想した以上に時間がかかったため、急遽、観光ツアーコースの途中の観光名所に先回りして、そこで待機することになりました。慶州鮑石亭(ポソクジョン)址は新羅の風流を知る場所でありながら、新羅千年の幕が降ろされたと伝わる悲劇の場所でもあるといいます。慶州の遺跡に熱い眼差しを注いできた美術史家の陸載和さん(武蔵野美術大学)の情熱あふれるガイドに従って鮑石亭の由来や見所を見学している間に、バスがようやく到着しました。いよいよ慶州旅行ツアーのスタートです。残念なことに、晴れ女たちの実力が発揮できず、慶州に入ってから、終始あいにくの天気でした。それでも私たちは、スーパーガイド陸さんの金メダル級の流麗な素晴らしい解説に引き込まれ、新羅千年の古都慶州を巡る冬の旅に興味津々で観光バスに乗り込んで、車窓に映る雨模様の古の都の風景を眺めながら天馬塚(古墳公園)へ出発しました。 最も大きい規模を誇る新羅時代の古墳公園大陵苑にある天馬塚は、唯一内部が観光客に公開されている陵で、墓の内部には発掘した金冠、装身具などの出土遺物のレプリカが展示されています。SGRAメンバーたちは絶好のシャッターチャンスを逃さず、早速その入り口で記念写真を撮りました。次の観光スポットは、瞻星臺という東洋に現存する最も古い天文台として知られている石塔でした。その優雅な曲線美と、四角、丸の絶妙な調和の取れた建築物として評価を受けている瞻星臺は、星を観測する天文台と判断されているが、古代美術史の若き新鋭研究者の陸さんは、異なる見解を持っておられるようです。門外漢の私は、遺跡を巡る様々な仮説に果敢的に挑んでいく陸さんの追究心にひたすら感服しているだけでした。(つづく) 釜山慶州旅行と日韓アジア未来フォーラムの写真を下記よりご覧ください。 張桂娥撮影 石井慶子撮影 ---------------------------- <張 桂娥(チョウ・ケイガ)☆ Chang Kuei-E> 台湾花蓮出身、台北在住。2008年に東京学芸大学連合学校教育学研究科より博士号(教育学)取得。専門分野は児童文学、日本近現代文学、翻訳論。現在、東呉大学日本語学科助理教授。授業と研究の傍ら日本児童文学作品の翻訳出版にも取り組んでいる。SGRA会員。 ---------------------------- 2010年2月24日