SGRAかわらばん

  • 2010.01.20

    エッセイ232:オリガ・ホメンコ 「アナスタシア:古い伝統を守る若きウクライナ人」

    彼女はジャーナリズム学部を卒業して、今大学院で歴史学を学んでいます。アナスタシアさんと言いまして、26歳で、2人の子どもの若き母親です。長男は2歳で、次男は6カ月です。そして母親の仕事と大学院の勉強を両立しながら、大人と子供むけの子守歌のクラスを開いています。 アナスタシアさんが長男をみごもって「母親学級」に参加したとき、そこでは育児方法だけでなく子守歌も教えていました。子守歌は子どもが初めて聞く言葉なので、赤ちゃんと母親の最初のふれあいの「時」になると、先生が言っていました。しかしながら、なぜかそのときに教えてもらった歌は全部ロシア語でした。ウクライナは独立してからもう18年もたっているのに、若い母親に教えられているのはロシア語の子守歌だったことに驚きました。あかちゃんが生まれて初めて聞く歌なのですから、その子の潜在意識の中に残る歌はウクライナ語ではなくロシア語になる可能性が高いと思いました。ウクライナ人としてのアイデンティティを強く認識しているアナスタシアさんは、それではいけないと思いました。 実は彼女が子どものとき、まだソ連時代でロシア語の教育が政治的な政策として実施されていた頃に、キエフでたった5%しかなかったウクライナ学校に通っていました。そこでは授業はみなウクライナ語でしたが、出世するためにはロシア語が必要だと子どもたちも分かっていました。当時、言語政策の一環として、ロシア語は「都会語」、ウクライナ語は「田舎語」という意識を教えられたので、子どもたちは「ロシア語は格好いい」と思い込んでいて、この学校の授業や家ではウクライナ語だったのにもかかわらず、休み時間にはお互いに「格好をつける」という意味もあってロシア語で話していました。しかしながら、高校生になった時、アナスタシアさんは学校の休み時間でもウクライナ語で話すことにしました。最初はからかわれたけれども、そのうち皆慣れたようでした。 大学の頃には、もう独立してから10年も過ぎ、言語に関する法律も制定・施行されたので、公式的な場だけではなく、日常的にウクライナ語を話す人が非常に多くなりました。しかしながら、この母親学級では、なぜかまだロシア語の子守歌が教えられていました。そこで、先生に「どうしてウクライナ語の子守歌を教えないのですか」と聞くと、「知らないから」という答えでした。70年間もソ連時代が続いたのでロシア語が日常生活の中にしみ込んで、子守歌までロシア語になったとことを悲しんだアナスタシアさんは、自ら子守歌を探す活動を始めました。自分の赤ちゃんにはウクライナ語で子守歌を歌って、子どもたちをウクライナ人として育てたいという強い願望があったからです。 図書館や資料館などに出かけて資料を収集し、関係する音楽のCDを全て買い集めました。そうすると、ウクライナの子守歌の本がないことに気付きました。遊び歌、伝統行事の歌、お祭りの歌などの本はあるのに、楽譜つきの子守歌だけの本は見つかりませんでした。本がないから人々がウクライナの子守歌を習うことができなかったのだと思いました。 子どもが生まれて3ヶ月たった頃、アナスタシアさんはすでに20くらいの子守歌を集めていたので、自分と同じくらい年齢で子どもを持っている親たちのためにクラスを開きました。そこで2週間に1回程度で子守歌を教えています。今、そのクラスに訪れるのは母親たちだけではなく、若いお父さんたちや年よりのおばあちゃんたちもいます。彼らもやはり自分の子どもや孫に子守歌を歌いたいという気持ちが強いのです。そしてロシア語ではなく、ウクライナ語で歌ってウクライナの民族意識を持った子どもを育てたいという思いも少なくありません。このクラスはもう2年にわたって行われています。全くボランティアです。 今年のクリスマスには、初めて子守歌とは別に、聖書をテーマとする伝統的な劇も勉強しました。参加者の間で役を分けて練習しました。2歳になった子どもたちも参加しました。よりたくさんの人に見てもらいたいという気持ちで、旧歴で祝うウクライナのクリスマスの1月7日に、町の広場で上演しました。   アナスタシアさんに「どうしてこの活動をしているのですか」と聞くと、「自分の伝統や習慣に興味があります」と恥ずかしそうに答えます。しかしながら、このような個人的な活動のおかげで、若いウクライナ人たちは自分のアイデンティティに気づき、周りの人々にもそれを気付かせ、自信を与えています。ウクライナの伝統がこれからもちゃんと生き続けていくように、そしてウクライナが盛んになるようにと。 ★このお話は、2010年1月23日(土)に、NHK BSで放映されます。 ------------------- <オリガ・ホメンコ ☆ Olga Khomenko> 「戦後の広告と女性アイデンティティの関係について」の研究により、2005年東京大学総合文化研究科より博士号を取得。2006年11月から2008年12月まで学術振興会研究員として早稲田大学で研究。2005年11月に「現代ウクライナ短編集」を群像社から出版。現在キエフでフリーの日本語通訳や翻訳、NHKやBBCのフリーランス記者など、広い範囲で活躍している。 ------------------ 2010年1月20日配信
  • 2010.01.13

    エッセイ231:包聯群「はじめてのオランダ旅行」

    2009年7月にオランダのユトレヒト大学で開催された第7回国際バイリンガルシンポジウムに参加した。ヨーロッパに行くのは初めての体験であり、シンポジウムでは、著名な社会言語学者の講演も予定されていたので、準備の段階からわくわくしていた。オランダの入国ビザを取るためには、仙台から東京まで行かなくてはならなかったが、シンポジウムに参加できることを考えると、とても楽しみで、その道のりも別段苦にならなかった。 7月8日の午後東京を出発し、長い旅が始まった。11時間以上も飛行機に乗るのは初めてのことである。機内スクリーンのフライト情報をチェックしながら楽しいひと時を過した。オランダと日本は8時間もの時差がある。飛行機から降りたとき、日本ではもう寝る時間なのに、オランダはまだ昼間のまっただ中だった。それにしてもまったく「未知の世界」に突入したようで、言葉、駅の看板表示から電車の開閉ボタンまで目に入るあらゆるものが新鮮に感じた。普段英語を話す機会はほとんどないが、一人の旅なので何でも「自分で」解決しなければならない。幸い、言語は、「環境」さえあれば何とかなるという不思議な面があるので助かった。 飛行機を降りる前から緊張感に包まれ、ユトレヒト大学に行く地図の案内を見ながら、頭の中の「言語の整理」を始めた。大学に行く道を英語でどのように尋ねたらよいのか、何番線の電車に乗るのか、タクシーに乗るには、どのような言葉で表現すればよいのかなどなどのことで頭がいっぱいであった。ちょうどそのとき、ふっと思いついたのが、隣席にいる女性に行く道を尋ねてみることだった。これは「事前準備になる」と思い、ちょっと安心した。しかし、その喜びはあまりにも短かった。私は地図を指差しながら彼女に必死に話しかけた。そうすると、彼女は自分はフィンランド人なので、アムステルダムのことはほとんど知らないという。このような答えが返ってくるとは想定外だった。さきほどまで彼女は大勢の仲間と英語で話していたのに。また日本から一緒にアムステルダムを目指しているのに・・・という思いだった。普段はアジア系以外の人との交流が少ないせいか、私にとっては、ヨーロッパ人がみな同じように感じられてしまっていたのだ。結局、何の情報も得られず、すべてがスタート地点に戻ってしまった。しかし、彼女と会話を交わすことによって、プレッシャーなのか、緊張感なのか、他の理由があったのか不明ではあるが、私が急に英語圏に入ったことを実感し、英語の単語も徐々に記憶が戻ってきているような気がした。これは私の初めての英語圏の旅の貴重な体験となった。単語や感覚を徐々に記憶からとり戻した私は、飛行機から降りてからも怖がることは何もなく、尋ねられた相手が理解できない場合には、言語の「助手」である「手振り身振り」を使い、一人で無事にアムステルダムから電車に乗り、ユトレヒト市を目指した。 会議が開催されるユトレヒト大学はオランダ最大の大学である。ユトレヒトは首都アムステルダムから30キロほど南に位置するオランダの第4の都市で、ユトレヒト州の州都でもある。アムステルダムから30分ぐらい電車に乗る距離だった。電車を降りてからタクシーに乗り、雨の中の街の風景を観賞しながら、20分ぐらいかけてユトレヒト大学にたどり着いた。しかし、受付をする場所を探しても見つからず、聞いたところ、その場所は臨時に市の中心部へ変更したという。この「臨機応変」は日本とちょっと違うところだなと感じた。ちょうど困っていたときに、私と同じように受付場所を探している地元の3人の女性に出会った。そこで、私たち4人は一緒にタクシーに乗り、受付をしている場所へ出発した。タクシーから降りる際、私は自分のタクシー代を一緒に乗った「仲間」にあげたが、なかなか受け取ってくれなかった。彼女たちが言うには、「あなたは遠くから来たお客さんだから」。3人はとても親切でずっと笑顔だった。こうして無事に受付をすることができ、会議の参加者と合流した。   国際バイリンガルシンポジウム(ISB)はバイリンガル学界において最も影響力をもつ最大の国際会議である。1997年に設立され、2年ごとに500人を収納できる施設を持つ大学にて開催することとなっている。第1回と第2回(1999年)はイギリスのニューカッスル(Newcastle)、第3回はイギリスのブリストル(Bristol)にて開催された。第4回はアメリカのアリゾナ(Arizona)、第5回はスペインのバルセロナ(Barcelona)、第6回はドイツのハンブルク(Hamburg)にて開催された。次回の第8回は2011年にノルウェーのオスロ(Oslo)で開催されることが決まっている。 今回は70以上の国と地域から総勢500人を超える学者が出席した。会議は四日間にわたって、6人の基調講演、99の分科会およびポスター発表に分けて行なわれた。名簿によると、日本からの出席者は私一人であったが、中国大陸からの出席者は4人、南京大学、南京師範大学、上海大学からの学者であった。ヨーロッパからの学者が多数を占めている印象を受けた。 会議のテーマは、第二言語習得、バイリンガルの使用、接触による言語変異、コードスイッチングの文法的研究、バイリンガル児童の文法発展状況、言語接触現象、言語消滅、言語維持、言語政策とバイリンガルイデオロギー、言語シフト、バイリンガル心理言語学研究、バイリンガルコミュニティーと移民の社会言語学研究、コードスイッチングの社会言語学研究などであった。 私が発表を行った第59セッションのテーマは「中国の都市化、言語接触と社会バイリンガル」、「中国語との接触による言語変異」であった。オランダのLeyden大学のMarinus van den Berg教授とロンドン大学の李嵬教授が本セッションの議長を務めた。李嵬教授は、「中国語とグローバル化」というタイトルのセッションの議長も担当した。南京大学の徐大明教授は「言語政策とイデオロギー」と題した第23セッションの議長を務めた。私が発表した論文のテーマは「ドルブットモンゴル族コミュニティー言語―混合言語を事例としてー」 であった。 今回の会議を通して得られた最大の収穫は、地域の言語を分析する際の理論や知見などを参考にしている多数の著名学者の講演を聞き、そしてその学者たちとの交流ができたことである。例えば、社会言語学界の著名な言語学者Thomason氏(Thomason and Kaufman. 1988. 《Language Contact, Creolization, and Genetic Linguistic》は言語接触を研究する多くの研究者に引用されている)の講演を聞くことができた。また自分の研究を紹介したところ、彼女が興味を持ってくれたので、大変うれしかった。 そして、会議の合間を見つけ、学校のキャンパスの見学もした。こちらの大学の建物は中国、日本、台湾、香港などの国や地域のそれと異なり、非常に鮮やかな色を使っているのが印象的だった。例えば、赤、黄色、緑などの色が混合した建築物もあった。このような飾り方が駅周辺にもみられた(写真をご覧ください)。 12日夕方に会議が無事に終わった。13日に、南京大学と南京師範大学の先生たちとともに、ユトレヒトからアムステルダムへ移動した。そして、午前中は都市の中心部にある川の水が流れる音を聞きながら都市の建築を観賞した。午後はゴッホ美術館を見学することもできて、とても有意義な一日を過した。オランダ訪問はゴッホの生涯に関する知識を増やす絶好なチャンスともなった。 14日の朝、日本に戻る準備をし、一人でアムステルダム駅へ移動した。夕方の飛行機であるため、空港まで行くにはまだ早かっので、荷物を駅のロッカーに預けた。クレジットカードを使えば、現金よりはるかに安くて便利であった。 商店街を一人で歩き、駅前の街をゆっくりと観賞した。お土産を販売している店に入ると、アジア系の女性が話しかけてくれた。話をしているうちに、不景気により、旅行者が非常に減少したことにもふれはじめた。経済不況が世界中に打撃を与えているなと感じた。でも、町中をみると、人々はのんびりと話をし、広場ではビールを飲みながら歌を歌っている姿も見かけるので、とても緊迫感を感じている雰囲気ではなかった。 今回の旅でアジアと異なる文化を体験できたことは私にとって貴重な収穫となるに違いない。 オランダ旅行の写真 ------------------------------------ <包聯群(ボウ・レンチュン)☆ Bao Lianqun> 中国黒龍江省で生まれ、内モンゴル大学を卒業。東京大学から博士号取得。東北大学東北アジア研究センターの客員研究員/教育研究支援者。現在モンゴル語と中国語の接触によるモンゴル語の変容について研究をしている。SGRA会員。 ------------------------------------ 2010年1月13日配信
  • 2010.01.06

    エッセイ230:温井寛「第3回在日本中国朝鮮族国際シンポジウム」報告

    SGRA研究員の李鋼哲さんにお願いして、環日本海総合研究機構事務局長の温井寛様に12月に東京で開催されたシンポジウムの報告を書いていただきましたのでご紹介いたします。尚、李さんからは「お蔭様で大盛会でした。われわれはお金もなく、事務所もなく、専門スタッフもない状況ですが、国内外から200人参加してくださり、内容も非常に充実していました。渥美財団も名義後援してくださってありがとうございました」というメールをいただきました。   ■ 温井 寛「第3回在日本中国朝鮮族国際シンポジウム」報告   「東北アジア共同体の可能性とコリアン・ネットワークの役割」をテーマにした国際シンポジウムが12月12日、東京の目白大学で開かれた。このシンポジウムは2001年12月の第1回、2005年11月の第2回に次ぐ第3回目となる。そこでシンポジウムの概要の紹介と若干のコメントを述べたい。   今回の国際シンポジウムは、日本にある朝鮮族研究学会(李鋼哲会長)が中心となって組織したもので中国の朝鮮族民族史学会(黄有福会長)、韓国の東北亜共同体研究会(李承律会長)の三者の共催で開かれた。冒頭あいさつに立った北陸大学教授でもある李鋼哲氏は、日本の政権交代で登場した鳩山政権が「東アジア共同体」構想をかかげていることを踏まえ、「国境を越えるアクターとして国家間・民族間の交流に重要な役割を果たしているのは朝鮮民族にほかならない」と指摘。そこに、このシンポジウムの国際的意義があると強調した。 基調講演では、最初に中国民族大学教授でもある黄有福氏が「グローバルコリアンネットワークと東アジア共同体」と題して問題提起。東アジアには2000年前から経済文化交流の歴史があり、それを踏まえて朝鮮民族がネットワークを形成して東アジア共同体構築の先頭に立つよう訴えた。   次いで延辺科学技術大学副総長でもある李承律氏は「東北アジアにおける経済秩序の新たな変化と国際協力」のテーマで基調講演。「東北アジア人」である朝鮮族は「多様な文化意識と多重知能をそろえている人材グループとして、超国家主義的な国際協力の媒体として登場」と役割を強調した。日本の朝鮮族研究学会副会長の笠井信幸氏(アジア経済文化研究所首席研究員)は「東アジアの三つの波」と題して東北アジアにおける交流の推移を分析しながら、地域共同体とネットワークの関係性に言及した。 また企業・経済人フォーラムでは、劉京宰・アジア経済文化研究所長が「未来型としてのグローバル固体と世界ネットワーク」と題して特別講演。世界が自由貿易化に向かっているとしつつ、「縦横無尽の志向を持つネットワークだけが強い競争力を持つ」と指摘、閉鎖性と排他性をこえる「グローバル固体」の結集の重要性を強調した。   シンポジウムでは基調講演を踏まえた「共同体構築とコリアン・ネットワークの役割」、特別講演に沿った「コリアン企業人ネットワーク構築の課題」について、それぞれのパネルディスカッションが行なわれ活発に議論が展開された。 若干のコメント。その一つは、日本の新政権が「東アジア共同体」をかかげているのと符丁を合わせたようなテーマの国際シンポジウムであり、極めて時宜を得たということである。しかも来賓には和田春樹東大名誉教授のほか、昨年の参議院選挙で初の韓国系国会議員として当選した白真勲氏があいさつに立ったことは非常に示唆的である。将来的には日本政府の関係者も参加できるような展望で今後の取り組みを期待したい。 二つには、学会としての体裁を整えてきたということ。   前二回のシンポジウムは中国朝鮮族研究会として開かれたが、研究会は2年前に発展的に改組し学会になった。そこで今回は国際シンポジウムの前に「歴史・外交」「経済・社会」「文学・言語」「共同体・アイデンティティ」の四つの分科会で学術発表が行なわれたのである。   筆者が参加した分科会で注目したのは、1910―20年代の中国間島地域(現在の延辺地域)における牛の検疫をめぐる中国と日本の対応の分析であった。植民地支配の末端における国家権力のせめぎ合いと住民の反応は未開拓の分野であり、一層の研究の深化が望まれる。 三つ目はシンポジウムの持ち方である。今回は中国、韓国からの参加者も多く、使用言語は基本的に韓国朝鮮語で行なわれたが、三分の一は日本人の参加であり十分に理解ができたとはいえない。通訳費用の問題はこの種のイベントの悩みのタネだが、少なくとも日本に軸足を置く学会である以上、まず日本人の賛同者を獲得する工夫の必要があるように思われる。 (ぬくい・ひろし:旧INAS=環日本海総合研究機構)   シンポジウムの写真     2010年1月6日配信
  • 2009.12.30

    エッセイ229:趙 長祥「深秋のキャンパス:キャンパス生活シリーズ③」

    夏休みの大騒ぎから、既に3ヶ月が過ぎ去った(キャンパス生活シリーズ②参照)。おかげで私の夏休み計画(論文と本の出版) は半分しか達成できなかった。2002年から建設が始まったこのキャンパス(中国青島にある海洋大学法政学院)は、主要な工事は終わったものの、現在も周辺の工事が進んでおり、時々物凄い噪音が響き、休んでいられないほどである。中国の工事現場には、日本と違って噪音やほこり対策などなく、また、しばしば深夜や早朝のでも工事をしている 。 今は深秋の末、初冬である。涼しい微風も徐々に冷たい風に変わり、緑溢れた草や木々の葉は冷たい風を受けて黄色くなり、徐々に母体を離れて大地に舞い降り、干裂な冬の土壌に埋め込まれ、来春のルネサンスに向けて力を蓄える時期となっている。中国北方の冬景色と同じく、このキャンパスもだんだん荒涼とした風景に代わっていく。正に北宋の大詩人(中国史上最も傑出した女流詩人) 李清照の詩に描かれた情景である。「帘卷西风,人比黄花瘦」、それを解釈すると、「The west wind flow the cotton, I’m more frail than the yellow chrysanthemums」となる。単なる風景を描くように見えるが、実際、この詩句には、景色や天気の描述を借りて詩人の気持に喩えられ、更なる景色や気持の寂しさを描き出すという意味が書き込められた。「以景喩人(景色をもって、人に喩える)」の手法である。 中国の北方の冬景色というと、緑が少ないため、どうしても荒涼、寂莫といった気配が感じられる。しかし、近年、経済と技術の発展につれて、従来南方にしか生長できなかった花、草、木々などが北方にも移植され、冷たく寂しい真冬でも緑にふれ合い、生き生きとしたエネルーギを感じるようになった。このキャンパスの一部に、冬でも人の目を楽しませるような植物が移植されている。例えばアパートの下に植えられている「紅豆樹」。夏には緑の葉がいっぱいであるが、秋と冬には、木の下に植えられた芝生に枯れ葉が落ちても、赤い豆を枝にいっぱい実らせる。鮮明な赤で枯黄色一色の冬の中で四季の色を彩り、寒い冬に人々の目を楽しませて、エネルーギを贈っている。 さて、キャンパスの一隅にある丘はこの時期にはどのような風景になったのだろう。 つい最近、食事の後、夕焼けが空に染まる頃にキャンパスの丘に登ってみた。風はそれほど冷たくなかった。遠くからみると、半分が枯れぎみの黄色、半分が未だ緑に覆われている。近づいてみると、枯れぎみの部分はアカシアや草類が生息する部分であるが、青々と茂っている部分には背の高い針葉松と背の低い青松に覆れている。松は耐寒力が強いため冬でも青々として自己の生命力をアピールしている。丘から周りをみると、日没に近かったため、少しぼんやりとしていた。キャンパスの赤煉瓦に覆れた建物は夕日に照らされて一層赤く染まり、人に時空倒錯のもうりょう感を与える。ただし、緑が少なくなっているため、赤と緑が相互に輝く躍動感がなくなり、西部の「秋水共長天一色(秋には沙漠、川水と空と一色となる)」の雄壮感もなく、なんとなく欠落感がある。周囲の村落も同様だった。 春夏秋冬、四季の移り変わりつれて大自然の色が異なり、キャンパスの色彩も変化する。四季が変わっていくにつれて、キャンパスの光景も物語も変わっていく。人それぞれの人生も、四季やキャンパスの光景と同じく、それぞれの物語があり、輝く時期もあれば、グレーの時期もある。山もあれば、谷もある。それぞれの色にあわせてどのような変化へ立ち向かっていくのか。人それぞれの人生が決められて行く。 このキャンパスにきてから、既に2年間経った。その間、色々な経験をさせてもらった。良し悪しを別にして、経験は人生に不可欠なものであり、その人にしかできないものである。この2年間をまとめて、そろそろこのキャンパスを離れる時期がきていると決意した。このキャンパス生活シリーズもこれて終わり。安らぎをくれたこのキャンパスの丘を胸に刻み、つねにその色と変化、そしてその変化によって私に持たらされた感動、楽しみや悲しみを持って、自分の人生をさらに豊かにしていきたいと思っている。 深秋のキャンパスの写真 キャンパス生活シリーズ②「雨季のキャンパスの光景」 キャンパス生活シリーズ①「零落黄泥碾作塵、惟有香如故」 ------------------------- <趙 長祥(ちょう・ちょうしょう)☆Zhao Changxiang> 2006年一橋大学大学院商学研究科より商学博士号を取得。現在、中国海洋大学法政学院で准教授。専門はイノベーションと起業家精神、企業戦略。SGRA研究員。 ------------------------- 2009年12月30日配信
  • 2009.12.23

    エッセイ228:シム・チュン・キャット「日本に『へえ~』その3:みんな、えがおで、げんきよく!」

      標題の「みんな、えがおで、げんきよく!」というフレーズは別に北朝鮮の人々がマスゲームを踊るときにお互いにかける合言葉ではありません。日本の小学校の教室の壁に貼ってあって、よく見かける典型的な標語の一つなのです。似たような標語として「みんな、あかるく、たのしく!」「みんな、にこにこ、たのしそう!」「友だちさそって、みんなでわいわい、なかよくあそぼう!」「みんな、なかよし、キラキラえがお!」などもあります。どれもご尤もでとても素晴らしい言葉だと僕も思いますが、このように文字が飛び出してきそうな、元気いっぱいな標語が「みんな」が見える場所に大きく貼ってあるのを目にすると、つい「う~ん」と首を傾げたくなるのは僕だけでしょうか。 先に断っておきますが、日本の小学校教育は世界的に評価が高く、諸外国が見習うべきところがいっぱいあるので、僕もよくシンガポールの視察団を日本の小学校へ案内したりします。そのたびに、日本の小学生たちも実に元気がよく、楽しそうに勉強しているようで、先生が質問すれば本当にみんなが手をあげて「はい!はい!はい!」と大きな声で質問に答えようと競う場面もたくさん見てきました。標語の文字通り、児童たちは本当に仲よさそうにみんな笑顔でキラキラと明るいのです。 でも、ちょっと待ってよ。もし「今日ちょっと元気がないなぁ」と思う子がいるとしたら?もし普段から笑うことがちょっと苦手な子がいるとしたら?昨夜お父さんとお母さんが喧嘩して今日ちょっと落ち込んでいる子がいるとしたら?これらの子にとって標語のあの踊り出そうな文字群が逆にプレッシャーになりやしないかと考えてしまう僕はひねくれ者でしょうか。僕が特に気になるのが「みんな」という言葉です。個性重視の教育政策が提唱される昨今、「みんな」ほどその政策にそぐわない言葉はないのではないかと思います。笑いたい子が笑えばいいし、無表情で物事を考えたい子はそうすればいいのです。笑顔までみんなで一緒に作らなくてもいいと思います。   僕がその昔、東京都の某小学校で講演をしたある日のことです。「はい!シンガポールがどこにあるか知っている人!」と僕が聞いたら、クラスの全員がすぐに手をあげて例の「はい!はい!はい!」という大合唱を始めました。「じゃ、君!」と僕が三列目に座っていて、あまり目立たなかった一人の子を指名して答えを求めると、「……」なんとその子は困った顔になったのです。あれ?手をあげたのに、答えを知らない…?その後、僕がいろいろと「明確な」ヒントを与えたため、ようやくシンガポー ルの位置を世界地図の上に一応だいたいのところで示してもらうことができましたが答えを知らなくても手はあげる児童もいるのだと、そのとき初めて気づきました。おそらくその子は取りあえず「みんな」と一緒に手をあげて「はい!はい!はい!」と元気な声で僕の質問に応じただけだったのですね。   みんなで何かをやることにあまりこだわりすぎると、「出る杭は打たれる」ことを恐れ(否、上の例だと「出ない杭は踏まれる」と言ったほうがいいかもしれませんが)、ついほかのみんなと横並びする態度や傾向を助長してしまうのではないでしょうか。ネクラな子や「みんな」とちょっと違う子がいじめの対象になりやすいとよく聞きますが、どうもそれも「みんな、えがおで、げんきよく」という標語と無関係ではない気がしてなりません。僕だったら、「みんな、みんなをわすれて、でるくいになれ!」と言ってしまいたい気分ですが、そういう僕こそ先に打たれてしまうかもしれませんね。 みんなさんはどう思いますか。 ----------------------------------- <シム・チュン・キャット☆ Sim Choon Kiat☆ 沈 俊傑> シンガポール教育省・技術教育局の政策企画官などを経て、2008年東京大学教育学研究科博士課程修了、博士号(教育学)を取得。現在は、日本学術振興会の外国人特別研究員として同研究科で研究を継続中。SGRA研究員。著作に、「リーディングス・日本の教育と社会--第2巻・学歴社会と受験競争」(本田由紀・平沢和司編)、『高校教育における日本とシンガポールのメリトクラシー』第18章(日本図書センター)2007年、「選抜度の低い学校が果たす教育的・社会的機能と役割」(東洋館出版社)2009年。 ----------------------------------- 2009年12月23日配信
  • 2009.12.09

    エッセイ227: ガンバガナ「自由の鐘」

    これはアメリカでの小さな出来事だ。 今年の5月から8月にかけて、ニューヨークに滞在していた私は、ナイアガラの滝、ワシントンDC、フィラデルフィアを二泊三日でまわるという、相当ハードなスケジュールの旅をした。その最後の目的地となったのは「自由の鐘」であった。「自由の鐘」は、ペンシルベニア州フィラデルフイアに保存されている、ひとつのごく普通の鐘のことであるが、アメリカの独立宣言、奴隷制度の廃止など一連の歴史事件と大きなかかわりをもっていることから、長い間、アメリカの国民に自由のシンボルとして親しまれてきたという。 私たちも、この意義ある鐘を一目見てみようと思い、その施設へ足を運んだ。建物の一番奥の方に一台の鐘が置かれていた以外は、壁に数枚の写真やポスターが貼られてあるぐらいで、厳しいセキュリティチェックを通って入ってきた割にはシンプルに感じた。 私はニューヨークのマンハッタンにある自由の女神を見に行ったときのことを思い出した。そのときも相当厳しいセキュリティチェックがあった。「アメリカでは自由にかかわるものが大切にされているんだな」と、私は思った。ガイドさんの話によれば、毎日、世界中から多くの観光客がここを訪れるという。「何がこんなにたくさんの人を惹き付けるんだろう。意味の重さから?それとも他にも原因があるのかな?やっぱり人間は、自由というものに憧れているから?そういえば動物だって同じじゃないの?」このように自問自答しながら観賞を続けているうちに、いつの間か自分の想いに入り込み、今まで自分で仮想してきた自由の世界と、実際に存在する自由の空間の境がなくなってしまって、経験したことのない不思議な心の癒しを味わっていた。 ところが、残念ながら、それは一瞬の妄想にすぎなかった。私の想いは一人のお客さんの思いもかけぬ行動にことごとく砕かれてしまったのである。というのも、私の前を歩いていた人が、突然、「ダライ・ラマ!!!」と大声で叫びながら、壁に向かって、力強く空中パンチとキックを浴びさせ、多くの人を大変驚かせたからである。 私は本能的にそのパンチを向かわせた方向に目を移した。そこにはダライ・ラマ法王のポスターと南アフリカのネルソン・マンデラ元大統領のポスターが並んで貼ってあった。彼の怒りの理由は明らかだった。同時に、彼がどこの国からきた人であるかもほぼ断定できたのである。しかしながら、私は彼のこのような行動には、疑問を感じざるを得なかった。この人はこの二日間の旅でアメリカという国をまったく理解していなかったか、あるいは理解しようとも思っていなかったからである。 私は彼をゆっくりと眺めてみた。興奮しすぎたのか、顔が相当固くなっていた。ちょっと話をしてみようかなと思ったが、途中であきらめた。喧嘩を売られるのが怖かったから。私は、その日の午前中にワシントンの蝋人形館を訪れたときのことを思い起こした。二人のお客さん(どこの国の人であるかわからないが、中東系の顔をしていた)が、ブッシュ元大統領の人形の前に行って、平手をあげたり、靴を脱いで叩いたりするような格好で写真を撮っていた。私には、ダライ・ラマ法王のポスターに空中パンチをあびせたのも、同様な行動パターンに見えた。二日間行動を共にした私はちょっと恥ずかしくなった。 その部屋には、何人かのスタッフがいたが、何の反応も示さなかった。それもそのはず。「表現の自由」という原則がこの国にあるのだから。そういえば、われわれのこの主人公も、この時点で、知らないうちに、すでにその恩恵を受けているのではないか。私は彼の顔をあらためて眺めてみた。彼はそこまで考えていないようだった。もしかして彼は今自分がどこにいるのか、その居場所について考えていないかもしれない。もしかしてこの「自由の鐘」は、彼には単なる罅だらけの鐘として映っているかもしれない。もしかして彼は今まで「自由の空気」さえ吸ったことがないかもしれない。私は彼への理解に苦しんだ。 その後、私は彼と行動を共にしていた人との話から、彼は約一ヶ月前に中国からアメリカに遊びに来た若者であるということを知った。ついでに「あなたのお仕事は?」と聞いてみたら、二年前からここにきて、ある研究所で医学の研究をしていると答えてくれた。いわゆるエリート層だった。私はさらに彼のアメリカについての感想を尋ねてみた。返ってきたのは「ごく普通」という返事だった。それ以上私は何も話さなかった。 この「ごく普通」の国を多くの中国人が一生の夢として目指していることは事実であり、しかも一回国境を越え、この国の土を踏んだら、なかなか帰国しないのも事実ではないか。この「言」と「動」の関係がいったいどのようにはたらいているのか、正直なところ私にはわからない。いずれにしろ、アメリカが「魅力的」だったから目指したわけではなさそうだ。 アメリカは、「自由」と「民主主義」を国家理念としてまつりあげてきた。アメリカ人にとって自由は聖なる領域だ。ワシントンではリンカーン記念館に立ち寄った。リンカーンといえば、奴隷制度の廃止で知られている。その階段は、キング牧師の有名な「私には夢がある」という演説の舞台であった。その後、私たちは、蝋人形館に行った。そこには、黒人運動のもう一人のシンボルである、ローザ・バークス氏の肖像があった。そして、フィラデルフイアにあるこの「自由の鐘」。中国では権力を象徴するものが観光スポットになっているのに対し、アメリカでは自由を象徴するものがスポットになっているようだった。私はさらに考えた。「キング牧師は白人ではない。ネルソン・マンデラ氏はアフリカ人だ。では、ダライ・ラマは何人なんだろう。」 私の思いはまるで鎖から解放された鳥のように自由の空を飛んでいたが、それに待ったをかけたのは、ガイドさんの「時間ですよ、みんなバスに乗ってくださ~い」というアナウンスだった。いよいよ旅の終わりだ。私は複雑な気持ちを抱えたまま案内に従ってバスに乗り込んだ。バスは人々のさまざまな思いを乗せて、ニューヨークに向かって走り出した。 やがて、マンハッタンの街が見えてきた。自由の女神が手を振りながら私たちを迎えていた。またも「自由」のテーマ、そうか、ここはアメリカだから。 -------------------------------- <ガンバガナ ☆ Gangbagana> 中国内モンゴル出身、2008年に東京外国語大学大学院地域文化研究科から博士号取得、専攻は内モンゴル近現代史。現在東京外国語大学外国人研究者、秋田国際教養大学非常勤講師 -------------------------------- 2009年12月9日配信
  • 2009.11.25

    エッセイ226:今西淳子「ペリカンの舞う島:コスタリカのプンタレナス・チラ島訪問記(その2)」

    コスタリカのプンタレナス・チラ島訪問記(その1)はここからご覧ください。 船はニコヤ湾を横切り目的地のチラ島についた。そこまでくると湾の奥になるので、海は鏡のように静かだった。港に繋がれた小舟の上に、まるでその船の主であるように一羽の白鷺がとまっていた。桟橋はなく、こののどかな港の砂浜に私たちが乗った小舟はのりあげた。港には小屋がありテラスにはレストランのようにいくつかのテーブルと椅子がおいてあって、数名の人が座っていた。この島の人口は4000人で、全員がこの島で生まれ育った漁師とその家族だという。チラ島の原住民は混血して純粋な原住民はいないが、中央山脈のタラマンカ地方には、少数ではあるが数種族の原住民が生きているそうだ。オスカルさんに聞くと、話す言葉はここでも都会でもほとんど変わらないということだった。もしかすると彼らの祖先は農民だったかもしれない。農業が大型化するにつれてはじきだされた人たちの多くが、資本のいらない漁業を営むことになったという。 港から船長の運転する車で「観光」をした。車は相当おんぼろで、ドアが固くてあけるのに苦労した。道は舗装されていないが十分に広くよく整備されていた。大型の船が着く港はないのであろうから、車は数えるほどしか走っておらず、人々は徒歩かマウンテンバイクで移動していた。トラックを改造して荷台に人を乗せるようにした「バス」が唯一の交通手段のようだ。道の両側は牧草地のようであった。時々牛を見かけた。耳がながくて垂れていてこぶのある「コスタリカの牛」もいた。この島では1週間に1頭ずつ牛と豚を殺して食べるのだそうである。その他は魚である。大規模な畑や田んぼは見かけなかった。船長は「村」の名前を教えてくれるが、家が数件集まっているところがあるだけで村とも認識しにくい。その中の普通の大きさの一軒家をさして「あれが島一番大きなお店です」と教えてくれた。この島ではひとりの女性が8人位の子供を産むそうだが、このような小さな島を少しまわっただけで、小学校が3つ、中学校がひとつあった。学校は全て無料だそうだ。校舎はどれも大きくはないが、生徒は数百人いるそうだ。車がほとんどない島なのに、どの学校にも大型のスクールバスがあった。あの大きなスクールバスをどうやって運んだんだろう。学校教育に力をいれている政府の姿勢が表れているともいえる。 船長は、私たちを島の奥の「港」に連れていってくれた。港というよりもマングローブの林の間の小さな砂浜で、コスタリカ本土から電気をひいているところであった。この島では電気も水も本土からきている。砂浜にはしわしわの長い首ととさかをもった黒い大きな鳥の群れが、羽根を広げて日光浴をしていた。オスカルさんが「これはソピロテというコンドルの親戚ですよ」と教えてくれた。白鷺や他にも何種類かの鳥がいた。やがてひとりの漁師が乗った小さなボートが着いた。岸のそばに来ると、彼はさっそくナイフで収穫した30cmほどの魚の内臓をとりだし、海の中に棄てる。魚をより長く保存するための知恵であろう。鳥たちは注意深くそれを見守っている。オスカルさんと船長は、舟の中においてあった小さなアイスボックスを覗いていた。その漁師のその日の収穫であるが、そんなに大した量ではないだろう。次に行った港はもう少し大きく、民家も数件あった。私たちが着いた港のように海辺に小屋があって、何人かの男性が時間をつぶしていた。この人たちは、島のお店の人で漁師から魚を買いにきていると、オスカルさんが教えてくれた。漁師たちは朝早くから夕方まで、ひとりとかふたり乗った小舟で漁をし、港でその魚を島の「お店の人」に売り、残りは家族で食べる。この生産の原点のようなサイクルがゆったりとした時間のなかで何年も何年も続いているわけである。 島で一番大きな小学校の向いにある、イサイル船長のお母さんの家でお昼をご馳走になった。家の造りは、広々としたテラスがあること以外はコスタリカの他の町の家とそう変わらなかった。水道は蛇口から飲める水がふんだんにでるし、トイレも水洗だし、テレビもあった。学校にはインターネットもあるから、家庭に引くことだってできないことはないだろう。ランチは20cmくらいの魚のから揚げと、魚と野菜のスープと、海老のいためものと、サラダとごはん。シンプルでとても美味しかった。向こうにあるテーブルでは、この家の家族が団欒していた。8月15日はコスタリカの「母の日」なので、叔母さんがカリブ海側の町から訪ねてきたところだった。船長の甥や姪にあたる就学前の子どもが3人、ビニールボールを蹴って遊んでいた。人懐っこい犬がテーブルの下に来て寝ていた。 この島のこのゆったりとした自給自足に近い生活をしている人たちが「幸せ」なのかどうか、私にはわからない。しかし、この生活がこのままずっと続いていくとは思えない。オスカルさんによれば、まわりの島に比べてチラ島はまだ外との接触がある方だという。船長によれば、漁だけに頼る生活は苦しいという。実際、彼は島をでてプンタレナスの町に住み、小舟を使って運送業を営んでいる。やがて、学校教育を受けた子どもたちが育って、島の外の世界へでていくだろう。そうしたら島の生活もだんだんと変わっていくのだろう。島の中の広い土地を「中国人」が買って、飛行場もあるリゾート開発をしようとしたが、政府が禁止したという話を聞いた。何故政府が禁止したのか、土地の人は開発を歓迎しないのか疑問に思って聞くと、「島の人たちが今使っている場所を使えなくしてしまう計画だったので、反対運動がおこり政府が禁止した。開発は勿論歓迎だ」という答えだった。人々が休暇を過ごすには暑すぎるのではないかと私は思うのだが、10年後に来てみたらゴルフ場とカジノのあるリゾートができていた。。。なんてことになりませんように! 「中国人」というのは「古くからいる中国人」ということで、おそらく国籍は中南米の中国系の人を指すようだ。コスタリカはつい数年前まで台湾を承認していたので、このような田舎でも「台湾が作ってくれた橋」とか「台湾資本のはいったレストラン」という話を聞いた。中華人民共和国のビジネスマンや資本は、少なくともこの地域にはまだはいっていないようだ。そもそも、このあたりでは東洋系の人はあまり見かけないのだが、オスカルさんの大学の学長は中国系の女性だったので驚いた。彼女の両親はプンタレナスで中華料理店を経営しており、彼女自身も大きな家に住んでいるという。ちなみに、彼女の専門はコンピューターだそうだ。この国にも人種による偏見はないとはいえないが、それがその人の実力に基づいた出世を妨げることはないようだ。 イサイル船長のお母さんの家でランチをした後、最初に着いた港にもどると、ずいぶん潮がひいていた。船長の息子たちが水の中にはいって舟を砂浜の近くにひいてきた。私たちも膝まで水にはいって舟に乗った。島の裏側の海も鏡のように静かだった。小舟がたくさん浮かんで漁をしていた。そのまわりにはたくさんの水鳥が集まっていた。その中でひときわめだつのがペリカンだった。多くはつがいで、あるものは海面に浮かび、あるものは大きな羽をひろげて青い空の中をゆったりと飛んでいた。魚と鳥と人が一体となって自然の中に溶け込んでいた。 コスタリカ、プンタレナスの写真 ------------------------------------------ <今西淳子(いまにし・じゅんこ☆IMANISHI Junko> 学習院大学文学部卒。コロンビア大学大学院美術史考古学学科修士。1994年に家族で設立した(財)渥美国際交流奨学財団に設立時から常務理事として関わる。留学生の経済的支援だけでなく、知日派外国人研究者のネットワークの構築を目指す。2000年に「関口グローバル研究会(SGRA:セグラ)」を設立。また、1997年より異文化理解と平和教育のグローバル組織であるCISVの運営に加わり、現在英国法人CISV International副会長。 ------------------------------------------ 2009年11月25日配信
  • 2009.11.18

    エッセイ225:今西淳子「ペリカンの舞う島:コスタリカのプンタレナス・チラ島訪問記(その1)」

    2009年8月のグアテマラの会議の後、SGRA会員のオスカルさんを訪ねてコスタリカのプンタレナスへ行った。首都のサンホセから120km、車で約2時間の太平洋岸のリゾートとされる人口約5万人の町である。ニコヤ湾に5キロメートルに渡って細長い砂州が海に突き出し、その先にプンタレナスの町がある(プンタレナスとは「砂の岬」という意味)。昔はサンホセから自動車道がなく鉄道が通っていた。太平洋岸では最大の港だという。自然保護区が多く、動植物の宝庫としても知られている。 オスカルさんは2回目の日本留学により東京海洋大学から博士号を取得した後、コスタリカ大学プンタレナス校に戻り、現在は副学長を務めている。昨年帰国してからは貸していた家の修理改築が大変だったということだが、そのお宅に泊めていただいた。奥様の久美子さんと愛犬ルミちゃんの3人(?)暮らし。オスカルさんの家は細長い岬の中ほどに位置し、裏口からでると左手には1軒おいて砂浜、右手には鉄道線路の跡や道路や数件の民家の向こうに運河が見える。残念なことに浜辺には流木をはじめ漂流物が多く誰も泳いでいない。サーフィンやヨットなどのマリンスポーツも何もない。もう少し岬の先の方に行けばビーチになっていて、週末にはサンホセからも人々がやってくるということだが、滞在したのが週の中ほどだったせいか、夏休みが終わってこの週から学校が始まったせいか、ビーチで泳いでいる人はひとりも見かけなかった。一方運河の方は港や船の停泊地として活用されているが、反対側はマングローブの森が続き、そこにはワニがたくさんいるという。 プンタレナスという海と運河に挟まれた0m地帯の砂州が本当に安全なのか、本当にこれから何百年もそのまま存続するのかという疑問がわいてくる。それに対する答えは「今まで津波も高潮もなかったから大丈夫でしょう。まあ、もし津波がきたら助からないかもしれませんね」とのこと。このあたりはアメリカの独立戦争と同じころに独立したので、せいぜい200年ちょっとの歴史である(原住民の歴史を考えなければ)。「数年前の火山の爆発でカリブ海側の地盤が上がったから、太平洋岸は少し下がったかもしれない」と話す人もいたが、オスカルさんの話によれば以前はもっと海が近く砂浜が狭かったそうなので、水位は下がったのかもしれない。南太平洋の島々にみられる地球温暖化による水位の上昇は、こちらでは全く語られていないようだった。 久美子さんは「まだ間に合わなくて冷房がないんですよ」と言うが、冷房なしの生活はもしかしたらオスカルさんの狙いかもしれない。そもそも、このあたりでは、冷房のある家はあまりない。気温は真夏日と熱帯夜が続いている感じで、湿度も東京に負けず、汗っかきの私はじっとしていると汗がぼたぼた落ちる。滞在中、タオルが手放せなかった。ただし海辺なので風があり、冷房の利用が少ないから、東京の都心よりはましかもしれない。それにしても、これが「夏」の気候ではなく、1年中こうなのだから凄い。近隣諸国を含めてこの地域には四季がない。あるのは雨期と乾期だけ。海に行けばいつも真夏。山に登ればいつも涼しい。実際、最後の日に海辺のプンタレナスからサンホセ市の近くの標高2800mの火山へ行ったが、そこは摂氏15度で震え上がった。だから中米では、おおかたどの国も首都は標高1000m以上の高地にあり、会議もそのようなところで開催されることが多い。中南米でこのような暑さを経験したのは初めてだった。扇風機の前に座って食事やメールチェックをし、あるいは扇風機の風にあたりながら眠ることになった。そして、外は暑すぎるから、家の中で扇風機にあたりながらベッドに寝転がって本を読むという何とも幸せな一時を過ごすこともできた。ここでは時間がゆったりと流れていて、その中に浸っているのはなんとも居心地が良かった。 3日目、オスカルさんが小舟を手配してくださり、ニコヤ湾の奥の島へ行くことになった。朝7時に港に行き、しばらく待っていると、船長のイサイルさんが家族と一緒にやってきた。船の安全性や漁業の研究をしているオスカルさんとは旧知の仲らしい。舟は10名くらいを載せることができる大きさで、湾内の島々とプンタレナスを結ぶ交通手段である。簡単ながらも屋根があったので助かった。私たちが乗って、油(燃料)のはいった大きな容器を載せて、それからオレンジ色の救命胴衣と浮き輪を載せた。オスカルさんが、「最近はこういうことに注意が払われるようになったんですよ」と教えてくれた。私が「それはオスカルさんのおかげですか?」と聞くと、少し恥ずかしそうにほほ笑んだ。オスカルさんは博士論文で、中米の海難事故データを日本のデータと比較し、中米における漁船の安全対策を提案した。海で遭難して死亡する事故が中米では増加している一方、日本では激減したことに気付き、日本の経験から学ぶことができると思ったのがこの研究を始めたきっかけだという。コスタリカではまだ小舟で漁をする漁師が圧倒的多数だが、近年、沿岸では魚が少なくなり漁場はどんどん遠くなった。漁師たちは安全対策に関する知識も装備も全くない状況でどんどん沖合にでていくことになる。したがって死亡事故が増加する。日本の高価な装備をコスタリカの漁民に与えることは不可能だが、浮き輪や救命胴衣やボート、自分の位置を知らせる発煙筒を備えるなどの基本を知れば死亡事故はかなり防げるはずだ。プンタレナスでは、すでに研修者の研修が始まっており、すべての漁師が研修を受けなければ漁ができないようなシステムを作る予定である。また、それをコスタリカだけでなく、中米の国々でも実施するよう近隣諸国に呼びかけている。日本に留学していた頃から、この話をすると、いつもは物静かなオスカルさんから情熱がひしひしと伝わってきた。 今日の航海は、イサイル船長の息子2名が手伝ってくれた。次男はまだ高校生くらいで舟の前にたって見張りをしていた。海に丸太が浮いていると、操縦しているお父さんに手で合図してスピートを落とさせ、左右に誘導して避けるようにする。ビーチにも無数に打ち上げられているこの漂流木には驚いた。中には直径1m以上の大木を2mくらいに切ったものまである。このような木片や丸太が、それこそどこの海岸にも打ち上げられている。原因を聞くと、この湾に流入する大きな川から流れてくるからという。オスカルさんは、大学の環境学習のゼミで、学生にこの原因を探る課題をだしたという。どうしてこの問題が起こるのか、どうすれば解決できるのか、どこへどのように働きかければいいのかという環境改善への努力は、きっとプンタレナスの時間に合わせてゆっくりと進んでいくのだろう。もし来年ここへ来ることがあっても、きっと何も変わっていないだろうが、10年とか20年のものさしで測れば何かが変わるのかもしれない。(つづく) ------------------------------------------ <今西淳子(いまにし・じゅんこ☆IMANISHI Junko> 学習院大学文学部卒。コロンビア大学大学院美術史考古学学科修士。1994年に家族で設立した(財)渥美国際交流奨学財団に設立時から常務理事として関わる。留学生の経済的支援だけでなく、知日派外国人研究者のネットワークの構築を目指す。2000年に「関口グローバル研究会(SGRA:セグラ)」を設立。また、1997年より異文化理解と平和教育のグローバル組織であるCISVの運営に加わり、現在英国法人CISV International副会長。 ------------------------------------------ 2009年11月18日配信
  • 2009.11.11

    エッセイ224:範 建亭「日本留学の回想」

    この夏の2ヶ月間の日本研究訪問が終わった。今回の短期滞在は6年ぶりの日本生活となり、思った以上に充実したものであったが、どのような研究成果があったのか、自分自身もまだよく分からない。2ヶ月は短いようで長かった。生まれたばかりのわが娘から離れることは非常に辛かった。 帰国の日がやってくると、家族を思う気持ちが一層強くなる。一刻も早く家族に会いたい。羽田空港へ向う京浜急行のスピードはいつもより遅く感じた。上大岡、横浜、鶴見、電車がこれらの懐かしい駅を次々と通り過ぎると、昔の思い出が走馬灯のように頭を駆け巡る。なぜか、胸が一杯になり涙が滲んできた。 19年前に来日した僕は、自分の人生に不満だらけで、祖国の前途にもほぼ絶望的であったから、逃げるような気分で出国した。だが、日本で何かをしようというはっきりした計画を持ち合わせていなかった。 僕は上海生まれ、上海育ちであるが、スラムのような下町で育てられ、勉強嫌いで大学にも進学できなかった。日本の留学生活は日本語学校からスタートしたが、人生をやり直す気持ちで猛勉強した。その調子で学部から博士号を取得するまで進んだが、アルバイトで学費を稼ぎながらの生活が長く続いていたので、とても辛かった。それをなんとか乗り越えたが、それまでは実に沢山の方々にお世話になった。 滞在中に、友達を連れて横浜中華街で食事した。日本に来る時にはなるべく中華料理を食べないことにしているが、今回はどうしても会いたい人がいた。店に入った瞬間、奥様と娘さんが一斉に僕の名前を呼んだ。十年ぶりの再会にもかかわらず、名前まで覚えてくれて、とても嬉しかった。調理場から出てきた店のオーナーも驚きながら歓迎してくれた。 その店は中華街で一番古い店の一つであり、外見と内装は今も十数年前とほとんど変わらなく素朴な雰囲気である。その店で僕は4年間ぐらいアルバイトをしていた。来日したばかりで日本語があまり話せない僕を雇ってくれた上に、大学の保証人までなってくれた恩は、言葉では言い尽くせない。 「彼はそこまでできるとは思わなかったよ」と、オーナーは僕の友達にそう言った。正直に言って、僕はいまも自分が成功していると思っていないが、十数年の留学生活を終えて、結局大学の先生になるなんて夢にも思わなかった。 来日した1990年ころは、日本はまだバブル経済を謳歌していた時期であり、その「金持ち国」としての繁栄ぶりに驚いた。一方、当時の中国経済については、中国人さえ自信を持つ人はあまりいなかった。今の発展ぶりを想像できた人は恐らく存在しないと思うが、中日両国の巨大な経済格差は、逆に留学生が頑張る原動力となっていた。 僕の日本での最初のアルバイトは横浜中華街の米屋であった。毎日朝7時ころ、20キロの米を肩で担いでレストランに配達していた。今思えばとても辛い仕事であったが、当時はそう思わなかった。時給は1200円もあったから、一時間働けば、当時の中国人の平均月収分の収入がもらえた。このように、金銭に対する貪欲、豊かな暮らしへの夢、そして明るい未来への憧れは、異国での留学生活を支える源泉であった。 その後、日中経済は正反対の動きをみせた。日本国内で最近行ったある調査によると、「今後の生活が向上する」という回答が過去最低という結果が出た。逆に、「発展完了」の日本から「発展途上」の中国に視線を移せば、「明日の暮らしはきっと今日よりよくなる」と信じる人が圧倒的に多いに違いない。そのような信念は意外と重要かもしれない。特に若者にとってはなおさらだ。 成熟社会で育てられると、自立精神とタフさがだんだんと薄れる恐れがある。短期滞在中に通っていた母校の関東学院大学は、十数年前に僕が学部に通ったころに比べて、キャンバスがずいぶん綺麗になっている。いくつもの立派な高層ビルが建てられ、校門前の駐輪場も整備された。路上禁煙も徹底的に実施された。 しかし、変化はそれだけではない。タバコを吸う学生、髪を染めた学生が多いことは以前も同じであるが、学内にいくつかの「学生支援室」が設けられたことに驚いた。関係者に事情を聞くと、最近では人間関係のストレスや生きる悩みを抱えている学生が増えているから、「一人暮らし講座」や「日常生活の悩み相談」など、様々な支援を考えたという。日本の若者は中国に比べて精神的に弱くなったのではないかと思った。 不況の影響で日本の生活レベルは低下しつつあるものの、中国はまだその足元にも及ばないと思う。いつも日本から中国に戻ってしばらくの間は、日本の静かな環境、清潔な街、快適な交通、サービスや治安の良さなどがとても懐かしくなる。中国の生活環境はそれとまるで別世界であるが、その一方で激動する国であるからこそ、その変化と成長を楽しむことができる。それに比べて、日本社会の変化は乏しい。 帰国前の送別会で、元指導教官の恩師に「今回の短期訪問で最も印象に残ったことは何ですか」と聞かれたが、僕はしばらく考えても答えられなかった。かつて日本に十数年も住み、帰国後も年に一回くらい来日しているから、目に慣れてしまった環境にはその変化を感じ取りにくい。 逆に、今回の滞在で「変わってないな」と感慨することのほうが多かった。たとえば、銀行の暗証番号は相変わらず四桁、テレビの番組は相変わらずお笑い系の芸人が独占(日本人がこんなに真面目なのに)、古本屋には相変わらず漫画本ばかり、交番の前に張ってある指名手配の犯人顔は十数年前と同じ、などなどである。 日本は好きか。そう聞かれたら僕はすぐには答えられないと思う。日本のことについては、好きという言葉が軽く感じられる。青春時代をすごした町、そしてわが人生をやり直すことができた国には、それ以上の感情がある。 そう書きながら、上海の虹橋空港がもう空から見えはじめた。我が家のぬくもりがもう目の前だ。果たして6ヶ月になる娘が笑顔で迎えてくれるのか。ノートを閉じて、目を閉じると、わくわくと胸が高鳴る。 -------------------------- <範建亭(はん・けんてい)☆ Fan Jianting> 2003年一橋大学経済学研究科より博士号を取得。現在、上海財経大学国際工商管理学院准教授。 SGRA研究員。専門分野は産業経済、国際経済。2004年に「中国の産業発展と国際分業」を風行社から出版。 -------------------------- 2009年11月11日配信
  • 2009.10.21

    エッセイ223:シム・チュン・キャット「日本に『へえ~』その2:時はマジで金なり?」

    シンガポールで日本人のイメージについて聞くと、必ずといっていいほど「マジメで時間を守る」という返事が返ってきます。まあ、長年日本に住んでいると、それほどマジメでもない日本人の友人にも少なからず恵まれてきたので、前者のコメントについてはノーコメントを貫きたいのですが、こと後者のほうに関していうならば、僕は手を上げ足を上げ大賛成です。 何年か前のある夏のことでしたが、僕は東京に遊びにきた四名のシンガポール人の飲兵衛親友と同じく四名の日本人飲兵衛友人と、高尾山の展望台にあるビアマウントでビールの力を借りて暑さを凌ごうということになっていました。ビールばかりではちょっと高尾山に失礼かもしれないというので、飲む前に少しだけハイキングして汗を流したところで乾杯しようという算段になり、高尾山口駅で中途半端な三時半ごろに待ち合わせることに決まりました。それで僕が引率するシンガポール人組がちょうど三時半ごろに待ち合わせ場所に着いてみると、なんと日本人の友人は全員揃ってそこで僕たちを待ち受けていたわけです。僕はなんとも思わなかったのですが、「ワオー!リアリー?遅刻した人が一人もいないなんてすごい!」と驚きまくりのシンガポール人を前にして日本人の友人たちもかなり驚きました。いわれてみれば、シンガポールではグループで待ち合わせするときに時間通りに全員が揃うことは確かに稀なことです。しかも、日本人友達の中に一番「遅く」到着した友人が三十分前に僕の携帯に「ごめん、二分ほど遅れるかもしれない」というご丁寧なメールを寄こしたものでしたから、これにもシンガポール人組は驚きまくりの様子でした。「二分ぐらいならメールは要らないよ!待っていてやるよ!」というシンガポール友人の反応を聞いて、確かにシンガポールでは二十分遅れてもメールも何も寄こさない人がたくさんいることを僕は思い出しました。 上の実例のように、日本人は確かに時間にはかなり厳しいほうですね。時間を守ることが他人や仕事に対する姿勢の一つとされ、約束した時間に遅れた人はまだ一人前でないとされてしまう危険性すらあります。日本人はなぜもっとリラックスして時間と付き合えないのでしょうか。その理由の一つが、著しく発達した交通網の時刻表にあるのではないかと僕は考えています。周知の通り、日本の地下鉄や鉄道の時刻表は極めて細か~いです。「9時13分に各駅、9時16分に急行、そして9時19分に次の各駅と乗り合わせの特急が来る」といった神業に近い緻密な計算は、東京では珍しくも何ともないかもしれませんが、海外の大都会でもあまり見かけません。同じく時刻表が発達しているドイツや韓国などの国でさえ、時刻表はあくまで参考用であると聞いています。しかしそれが日本だと、もしも電車が少しでも遅れた場合には「電車が二分ほど遅れております!お客様には大変ご迷惑をおかけしております!」というお詫びの放送がすぐ聞こえてきたりします。「二分ぐらいなら放送は要らないよ!待っていてやるよ!」というシンガポール友人の声が聞こえてきそうですが、まあ、東京などの都会の場合では乗り合わせとかも多いため、二分の遅れが本当に「ご迷惑」になることも考えられますから、落ち落ち時間と付き合っていられないというのもわかります。 思い起こせば、シンガポールの地下鉄では「時刻表」(?)に書いてある時間は二つしかなく、始発と終電の時間だけなのです。電車は、この二つの時間の間に適当に来るというのがシンガポール流です。ラッシュアワーならもっと頻繁に、そうでないときはより断続的にといった具合ですが、とにかく待っていればそのうち電車は来ます。近年、ホームに着くと次の電車が何分後に来るというシステムがやっと設置されるようになりましたが、でもこれについても駅に着かない限り電車が来る時間など知りようがありません。だからなのか、シンガポールに帰っているときは電車に間に合うためにあまり走ったりしません。駅に着く前に電車の時間は知らないし、たとえ約束に遅れても「ごめん、電車が来なくて…」という言い訳は広く市民権を得ているからです。そうであるからこそ、シンガポールでは二十分遅れてもメールも何も寄こさない人がたくさんいるし、待ち合わせに時間通りに全員が揃うことも稀なのです。これとは反対に、東京などの都会にいると時刻表はちゃんとあるのですから、駅員が配る「遅延証明」の紙がない限り電車の遅れなんて遅刻の理由になりません。そのため、電車に間に合おうと駅に向かって走ったり、乗り合わせの電車に遅れまいと駆け込み乗車したりする人の姿は、東京では日常茶飯事です。シンガポールにいたときよりも、日本にいるほうが僕は痩せているというのもこのためかもしれません。でも、これは悪いことではありませんね。   どこかの本で読んだのですが、エレベーターが最初に発明されたときには階ごとのボタンと「開ける」というボタンしかありませんでした。その後、「閉まる」というボタンを付け加えたのは日本人だそうです。これを知ったときに、僕はなんかすごく納得しましたね~。さすがは日本人です。エレベーターのドアなんて放っておけばすぐに閉まるのに、そこまで待っていられずいち早くドアを閉めてしまいたい、効率的に時間を使いたいわけですね。これもなんか「9時13分に各駅、9時16分に急行、そして9時19分に次の各駅と乗り合わせの特急が来る」という緻密なダイヤルに通じるものを感じます。「時は金なり」の信奉者なのか、人生は短いから時間は有効的に使わなければという人生観からなのか、なぜ多くの日本人がそんなに急いでいるのかな…「急がば回れ」という人生訓の諺もあるでしょうに…というようなことを考えながら、今日も駅に向かって足早に歩かされている自分がいます。 ----------------------------------- <シム・チュン・キャット☆ Sim Choon Kiat☆ 沈 俊傑> シンガポール教育省・技術教育局の政策企画官などを経て、2008年東京大学教育学研究科博士課程修了、博士号(教育学)を取得。現在は、日本学術振興会の外国人特別研究員として同研究科で研究を継続中。SGRA研究員。著作に、「リーディングス・日本の教育と社会--第2巻・学歴社会と受験競争」(本田由紀・平沢和司編)、『高校教育における日本とシンガポールのメリトクラシー』第18章(日本図書センター)2007年、「選抜度の低い学校が果たす教育的・社会的機能と役割」(東洋館出版社)2009年。 ----------------------------------- 2009年10月21日配信