SGRAかわらばん

  • 2010.03.24

    エッセイ239:シェルマトフ・ウルグベック「ウズベキスタンの結婚式」

    ウズベキスタンの人々の生活のなかで結婚式の存在は非常に大きい。ここでいう「存在が非常に大きい」というのは、人々が生活のなかで他人の結婚式に係ることが非常に多いという意味である。その理由は、ウズベキスタンの結婚式の規模にあるといえる。すなわち、ウズベキスタンでは、結婚式を構成する多くの行事が存在すると共に各行事に参加する人も多い。まず、ウズベキスタンの結婚式の行事を簡単に紹介する。なお、ここではウズベク人の結婚式を前提にしていることをあらかじめお断りしておく。   ウズベキスタンの結婚式は、原則として婚約式、朝のオシュ(プロフ)、ザークス、披露宴(狭義の結婚式)、新婦による朝の挨拶、チャッラリー、オタチャキリクからなる。 そもそもウズベキスタンでは、お見合い結婚が一般的であり、結婚に至るまで、若者は20―30回くらいお見合いを経験することは稀ではない。婚約式は、新婦の家で行われる。婚約式には新郎側から両親と親戚、新婦側から両親、親戚と近所の人が参加する。 次に行われる朝のオシュは、結婚式の不可欠な行事である。新郎側も新婦側もこの行事を主催し、親戚、友達、家族の知り合い、近所の人など、結婚する相手の親戚と知り合いにオシュ(プロフ:お米、人参、肉などから作る料理)やその他の料理をご馳走する。いわゆる食事会である。この食事会は、朝の早い時間、午前5時ころから開始する。出席する人は男性のみである。出席する人の数は、主催する家族によって大きく異なるが、平均は400人くらいであろう。また、食事会に伝統的な歌を歌う歌手が呼ばれるので、出席者は、歌を聴きながら食事をする。同日の午前11時ころには女性が出席するオシュ食事会が開かれる。近年、都会の人は、(朝の)オシュ食事会のために広いレストランを貸し切りにするが、地方では、オシュ食事会の会場として家の庭を利用したり、または家に接する道路を閉鎖してテーブルを配置した仮会場を利用したりする人が多い。 オシュと披露宴との間、新郎、新婦および新郎新婦の友達は、ザークスという行事に参加する。そもそもザークスの目的は、日本でいう結婚届けの提出であるが、結婚届け提出後に、参加者は、車で貸し切りになっているレストラン(会場)に移動する。会場で様々な料理が用意され、会場を盛り上げるために歌手が呼ばれる。 夜の披露宴は、結婚式の主な行事であり、日本の披露宴と共通する点が多い。ただ、ウズベキスタンの場合、少なくとも一人の歌手が必ず呼ばれ、その歌手は、会場を盛り上げるために披露宴中ずっと歌っている。経済力のある家族の場合、全国的に有名な多くの歌手や芸能人が登場し、披露宴が日本の紅白歌合戦に該当する豪華なイベントになることもウズベキスタンの結婚式の特徴であろう。 披露宴が終わったら、新郎は、原則として新婦を新居となる自分の家に連れて帰る。そして、一夜明けると新婦は、その家で大勢の人の前で数回にわたってお辞儀をする。これは、新婦による朝の挨拶という行事である。 これだけでは結婚式が終わったとはいえない。披露宴が終わってから2日後にはチャッラリーが行われる。チャッラリーとは、新婦の両親が新郎、新婦(娘)および新郎の両親、親戚と友達をもてなし、新婦側と新郎側がお互いをよく知り合うための会である。近年、チャッラリーの会場としては、広いレストランが用いられる。ここでも、様々な料理が用意され、歌手が呼ばれる。 チャッラリーが終わってから1―2週間後にはオタチャキリクが行われる。オタチャキリクとは、新婦側と新郎側がお互いをよく知り合うための会であり、その意味でチャッラリーと同様の目的のために開かれる。ただ、オタチャキリクでは、新郎の両親が新婦の両親、親戚をもてなす。ここでも、様々な料理が用意され、歌手が呼ばれる。 このように、ウズベキスタンの結婚式では、各行事に参加する人の数が多いのと同時に行事自体の数も多い。そのため、一つの結婚式に係る人の数が日本の結婚式より遥かに多い。そして、人々の生活に対する結婚式の影響も日本より大きいといえる。このことは、新郎新婦の職場の関係者が結婚式に参加するときに、顕著である。すなわち、結婚式のために、新郎または新婦と同じ職場の上司、同僚および後輩たちがどこかで集合し、一緒に入場し、退場する。朝のオシュの場合、退場した後に皆で職場に向かって行くこと、夜の披露宴の場合、早めに仕事を終わらせ、皆で披露宴会場に向かって行くことが一般的である。また、結婚会場での音楽が会場の外でもよく聞こえるため、結婚式をしていることが結婚に直接に関わっていない人にも明確に知られる。 ウズベキスタンの人々は、結婚式の在り方を大事にし、現在も守ろうとしているが、結婚式に多くの手間および膨大な費用がかかることは明らかである。そのため、近年、結婚式の在り方については国内で批判の声が頻繁に上がっている。批判の内容は、結婚式をより簡易にし、無駄遣いをなくすことである。その批判を支持する人は多いものの、結婚式が伝統としてウズベキスタンの社会に深く根付いているという現実もある。今後、ウズベキスタンで結婚式の在り方は大きく変わっていくのか。社会の変遷が反映される問題であるため、今後の展開を注目していきたい。 ----------------- <シェルマトフ・ウルグベック☆ Shermatov Ulugbek> ウズベキスタン出身。タシケント世界経済外交大学国際法学部卒業。2003年、横浜国立大学大学院国際社会科学研究科修士課程修了。2003年-2005年、ウズベキスタン法務省経済法立法部で勤務。2006年、明治大学大学院法学研究科博士課程入学。現在、同研究科所属。SGRA会員。 ----------------- 2010年3月24日配信
  • 2010.03.08

    ★★★SGRAエッセイが本になりました!「われら地球市民~かるがると国境を越える」発売中!

    新刊紹介: 今西淳子編「われら地球市民−かるがると国境を越える」 渥美財団15周年・SGRA10周年を記念して、過去5年間に配信したSGRAエッセイを1冊にまとめました。八重洲ブックセンター他の書店でご購入いただけます 「地球市民」というテーマのもとにまとめられた外国人奨学生たちのエッセイ集。 世界と日本、そしてそれぞれの自国の現状と問題点をえぐり出している。 深刻な問題から日常のトピックスまで、世界の動きが身近に感じられる1冊。 渥美国際交流奨学財団の15周年と、関口グローバル研究会(SGRA)の10周年を記念して出版された元奨学生・現奨学生たちのエッセイ集。ただこの本が単なる記念出版物でないことは、巻頭に掲載された元国連事務次長、明石康氏の次の一文からも読み取れる。 -------この文集の楽しさと興味深さは、外国からの奨学生たちが、実に自由で生き生きとした視点から日本や日本人を観察し、日本の文化や社会に反応し、アジアと世界について語っていることにある------   現在、ネット検索をすれば390万件ものヒット数がある「地球市民」というタイトルのもとに、世界の動きを実感することができる1冊である。 今西淳子(渥美国際交流奨学財団)[編] ジャパンブック 判型:四六判 定価:本体1500円+税 ISBN978-4-902928-09-9
  • 2010.03.03

    エッセイ238:張 桂娥「新羅千年の都~雨の慶州を巡る冬の旅~(その2)」

    空腹を抱えながら午前中の見学プログラムをこなし、午後一時過ぎ、やっとランチタイムに。大衆食堂っぽいレストランで韓国料理の食べ放題コースでした。味もそこそこおいしいし、料理の種類も豊富なので、本国の観光客はもちろん、外国人の私もいろんな料理にチャレンジできて、満足感が味わえる昼食でした。 午後のツアーは、満腹感による睡魔との闘いから始まりました。ちょうどうまい具合に眠りこけた頃に、石窟庵への遊歩道入り口付近に到着。バスガイドの元気な韓国人おばさんに促され、いやいやながらバスを降りた私は、石窟庵にたどり着くまでの長くて険しい道のりにさすが閉口しました。しとしと降り続ける寒い雨の中、泥濘状態の道を進み、凍った地面で足を滑らせたりしたアクシデントも。しかし、根気強く歩いて、吐含山(Tohamsan)の頂上にたどり着くと、そこには、花崗岩を重ね、人工的に作り上げた石窟寺院のような荘厳な洞窟があり、その窟の真ん中には高さ3.48mの本尊仏像が安置されており、まるで私たちを待ち受けているように、静かに迎えてくださったのです。 新羅時代751年に着工し、30年に渡って作り続けられ完成された石窟庵には、本尊仏像のほかに、前室と窟入り口左右の壁には八部神衆、仁王及び、四天王などの立像を始め、石窟庵内部の至る所に詳細まで彫刻された仏像が、およそ40あまり現存しているといいます。ここでも陸さんの精彩に富んだ解説の御蔭で、石窟庵の見学ポイントを伝授され、仏像の美を十倍楽しむことができました。心身とも満たされた充実感に包まれ、帰り道では、寒気も眠気も疲れも、どこかへ吹っ飛んだかのように、うそみたいに軽快な足取りでバスに戻れました。本当に陸さま様でした。 そして、このシティーツアーのハードスケジュールの極めつけは、世界文化遺産として指定されている韓国の代表的な寺院である、あの華麗な新羅文化の歴史を髣髴させる仏国寺の見学でした。現在総面積が12万余坪に至る仏国寺境内には、大雄殿を中心に多宝塔、釈迦塔など世界的に有名な宝物があるほか、韓国の国宝も含む多彩な宝物が合わせてなんと7000あまりも残っているといいます。この洗練された新羅の芸術と仏教文化をそのまま語り伝える韓国の重要文化財を散策している間に、境内に漂っている静粛な雰囲気に圧倒された私は、頭に思い浮かべる言葉が一つもないことに気づき、ただ沈黙を保ったまま、新羅芸術の美を自分なりの感性で楽しむことに意識を集中しました。 歴史の勉強が苦手な私にとっては、消化不良な遺跡ツアーになりそうですが、相変わらず熱のこもった陸さんの説明に終始熱心に聞き入っている今西さんと石井さんの真剣な表情を見ると、きっといい勉強になる充実した歴史の旅に違いないと確信しました。旅行の達人になるためには、出発する前の事前勉強が鍵ですね。 日が暮れかかる頃、慶州教育文化会館に到着。部屋で一息ついた後、全員ロビーで集合。レストランの送迎バスで「韓牛」の焼肉名店へ移動。フォーラム前夜の歓迎レセプションが開かれました。丸一日のシティーツアーで全員少し疲れがたまったのと、翌日に控えるフォーラムの準備に心がとらわれたせいか、みんなの口数がめっきり減ってしまったような気がしました。食事の合間に、フォーラム運営関係者たちが打ち合わせに取り組んだりしていましたが、オブザーバーとして気楽に出席した私は、霜降り「韓牛」の極上焼肉の誘惑に負けて、超美味なお肉を黙々と口に運んだだけでした。フォーラムを成功させたい一心の韓国SGRAメンバーたちに、大変申し訳ございませんが、本当に美味しかったです。ご馳走様でした! 翌日、フォーラムは午後二時からなので、陸さんの通訳案内で今西さん、石井さんと私の四人は、観光ツアーの第二弾を決行しました。行く先は新羅時代の遺物が集結された国立慶州博物館でした。晴れ女の名にかけてご利益を蒙ろうとしても慶州の神様には通じないようで、途中で雨が降り出しました。 慶州博物館の2千余坪の敷地には、本館を始め第1別館である古墳館、第2別館である雁鴨池館、野外庭園があり、総2千700余点の遺物が展示されています。本館には慶州とその周辺地域から見つかった各種遺物を、古墳館には新羅古墳から出土した遺物を、雁鴨池館には雁鴨池から出土した代表遺物を展示していますが、陸さんは最も思い入れの強い、博士論文にもとりいれた、野外庭園に展示されている四天王石像について詳しく説明してくださいました。また石窟庵でよく見られなかった各種大小の仏像のレプリカも間近で見学できてよかったと思います。 昼食後、午後二時よりフォーラムが開催されました。研究発表の記録やプログラム実施の詳細及び成果については、金賢旭さんの報告をご参照ください(来週のかわらばんで配信予定)。 2月10日10時半、慶州から釜山の金海国際空港へ直行。帰途の高速道路は平日なので、大きな渋滞もなく順調でしたが、実の詰まった3泊4日の釜山慶州の旅を振り返ると、駆け足視察みたいにあっさりと終盤を迎えてしまうような気がして名残惜しくてなりません。 一方、帰りの便の中では、飛行機で片道一時間と少しであっという間に着いちゃう国なのに、なぜか今まで積極的に理解しようとしなかった自分がいることに、疑問を投げかけて問い詰めないではいられませんでした。東アジアに生きていながら、東アジアに目をつぶりがちな生き方に納得できなくなる今日この頃、私を受け入れてくださった韓国SGRAの皆さんの心の広さにあらためて敬意を表したいと思います。 韓国の皆様、カムサミダ!!お疲れ様でした。 張 桂娥「新羅千年の都~雨の慶州を巡る冬の旅~(その1)は、ここからご覧ください。 ---------------------------- <張 桂娥(チョウ・ケイガ)☆ Chang Kuei-E> 台湾花蓮出身、台北在住。2008年に東京学芸大学連合学校教育学研究科より博士号(教育学)取得。専門分野は児童文学、日本近現代文学、翻訳論。現在、東呉大学日本語学科助理教授。授業と研究の傍ら日本児童文学作品の翻訳出版にも取り組んでいる。SGRA会員。 ---------------------------- 2010年3月3日配信
  • 2010.02.24

    エッセイ237:張 桂娥「新羅千年の都~雨の慶州を巡る冬の旅~(その1)」

    韓国慶州(キョンジュ)で開催される第9回日韓アジア未来フォーラム(2010年2月9日)を控え、一足先に釜山(プサン)入りしたソウル在住のSGRA研究員、金雄熙さん、金賢旭さん、韓京子さんの暖かい出迎えの中、今西淳子さん、石井慶子さん、梁明玉さん、陸載和さん、そして、台湾から東京経由で参加した私が金海空港に到着したのは2月7日午後2時でした。 想定外の好天気に恵まれ、ぽかぽかの陽気に包まれながら、流れていく車窓の風景を眺めていると、海を越えて釜山に来ているのに、なんだか外国に来たという実感があまりしない自分にびっくりしました。どこか懐かしい雰囲気さえ漂っているこの町の風情にすぐに馴染んで、東アジア社会に共通する何らかの繋がりを肌で感じました。今までただの記号としか見えなかったハングル文字も、今にもカラフルな看板から躍り出ようとした感情豊かな文字に見えてきて、ほんの2、3文字でも認識できれば町の景色に少しは溶け込むこともできたのにと、密かに悔やんでいました。 程なくホテルに到着し、今回の発表者の横山太郎先生(跡見学園女子大学)と合流し、部屋に荷物をおろしてから、みんなで(しかも自家用車一台で六人乗り⇒さすが華奢な女性陣ならではの凄技ですね^^)海雲台(ヘウンデ)ビーチの美しさを堪能できる釜山ウェスティン朝鮮ホテルの喫茶ラウンジに繰り出しました。素晴らしい砂浜の景色を眺めながら、自己紹介に続いて、日本・韓国・台湾の大学教育現場の珍現象について議論したり、梁明玉さんのお姉様の梁明順さんからの差し入れ=美味しい干し柿(マシッソヨ!!カムサミダ!!)をつまんだりして、優雅なティータイムを心ゆくまで満喫しました。(この旅の初めから終わりまで、梁明順さんの至れり尽くせりのサービスにはただただ感謝の一言です。どうもありがとうございました!) しばらくすると、もう一人の発表者である藤田隆則先生(京都市立芸術大学)と上述のソウルからの参加者が到着し、全員集合。釜山在住の朴貞蘭さんを入れて総勢12人でわいわい話しながら、海雲台ビーチを一望するラウンジの窓際の特等席を独占していました。もちろん、フォーラムの打ち合わせや翌日の慶州観光ツアーのスケジュールの確認も入念に済ませました。そして、歓談も一段落ついたころ、夕日に染まり始めた白い砂浜を後にした全員は、二台の車(うち一台は乗客定員11名の現代(ヒョンデ)ワゴンレンタカー)に分乗してレストランへ向かいました。   数年前から韓国料理のおいしさに目覚めた私は、韓国でのご馳走といえばお馴染みの焼肉やブルコギか伝統的宮廷料理と思い込んでいましたが、幹事の朴貞蘭さんが案内してくださったのは、なんと「夢」と名づけられた高級日本料理店!!朴さんのご主人のお勧めでもあるようですが、ぜひ韓国人の目線から捉えられた日本料理のあり方を体験してもらいたいという企画動機を聞いて、なるほど、この店で出された日本料理を食べたら、韓国の人々に受け入れられる日本料理の姿がわかるということになるわけです。まあ、韓国料理は明日も明後日も食べられる機会がいくらでもあるし、せっかくのチャンスなので、世界に広がりつつある日本料理を通じて、食生活における異文化理解にアプローチしようじゃないかと期待を膨らましながら席に着きました。 さすが、プサンの政財界にも名の知られるご接待向けの日本料亭だけあって、出された料理の数々は、日本人でも納得できる秀逸の品ぞろい。お刺身、ふぐのてっさ、焼き魚、煮魚、珍味、漬物、しめのうどんやご飯と味噌汁。しかし、一見高級日本料理の素材がふんだんに取り入れられても、ドレッシングやソースの種類をはじめ、付け合せの野菜や食べ方は、やはり韓国料理的要素が上手にミックスされていると感動しました。地元の人でもめったに体験できない日韓食文化の集大成に舌鼓を打った私は、韓国における台湾料理を一回だけでも味見したいなって、ついに欲が出てしまいましたが……。 会席の間に交わした話題は、今回のフォーラムテーマである「東アジアにおける公演文化(芸能)の発生と現在:その普遍性と独自性」にちなんで、日韓中における伝統的芸能の様々な様相をはじめ、接待向けの座敷から生まれた日本の遊女・舞妓・芸者文化や韓国の妓生(キーセン。Wikipediaによれば「朝鮮国に於いて、諸外国からの使者や高官の歓待や宮中内の宴会などで楽技を披露するために準備された女性の事をさす。しかし実際の妓生の位置付けは芸妓を兼業とする娼婦である。」)まで広がり、東アジアの民族性や民俗イベントの異質性と同質性をめぐる熱き論議が繰り広げられていました。専門外の私も時々箸を置いて日韓双方の見解に耳を傾けて頷くほど、本番のフォーラムに遜色のない真剣な話題も盛りだくさんでした。これぞ、SGRAの醍醐味ではないかとつくづく思ったのは私だけでしょうか。まだ初日での顔合わせの段階なのに、参加者たちの気持ちはすでに未来フォーラムに向けて、着々とウォーミングアップし、後一歩で準備完了といったところでした。   翌日2月8日早朝、車で未来フォーラムの開催地である慶州へ移動しました。予想した以上に時間がかかったため、急遽、観光ツアーコースの途中の観光名所に先回りして、そこで待機することになりました。慶州鮑石亭(ポソクジョン)址は新羅の風流を知る場所でありながら、新羅千年の幕が降ろされたと伝わる悲劇の場所でもあるといいます。慶州の遺跡に熱い眼差しを注いできた美術史家の陸載和さん(武蔵野美術大学)の情熱あふれるガイドに従って鮑石亭の由来や見所を見学している間に、バスがようやく到着しました。いよいよ慶州旅行ツアーのスタートです。残念なことに、晴れ女たちの実力が発揮できず、慶州に入ってから、終始あいにくの天気でした。それでも私たちは、スーパーガイド陸さんの金メダル級の流麗な素晴らしい解説に引き込まれ、新羅千年の古都慶州を巡る冬の旅に興味津々で観光バスに乗り込んで、車窓に映る雨模様の古の都の風景を眺めながら天馬塚(古墳公園)へ出発しました。 最も大きい規模を誇る新羅時代の古墳公園大陵苑にある天馬塚は、唯一内部が観光客に公開されている陵で、墓の内部には発掘した金冠、装身具などの出土遺物のレプリカが展示されています。SGRAメンバーたちは絶好のシャッターチャンスを逃さず、早速その入り口で記念写真を撮りました。次の観光スポットは、瞻星臺という東洋に現存する最も古い天文台として知られている石塔でした。その優雅な曲線美と、四角、丸の絶妙な調和の取れた建築物として評価を受けている瞻星臺は、星を観測する天文台と判断されているが、古代美術史の若き新鋭研究者の陸さんは、異なる見解を持っておられるようです。門外漢の私は、遺跡を巡る様々な仮説に果敢的に挑んでいく陸さんの追究心にひたすら感服しているだけでした。(つづく) 釜山慶州旅行と日韓アジア未来フォーラムの写真を下記よりご覧ください。 張桂娥撮影 石井慶子撮影 ---------------------------- <張 桂娥(チョウ・ケイガ)☆ Chang Kuei-E> 台湾花蓮出身、台北在住。2008年に東京学芸大学連合学校教育学研究科より博士号(教育学)取得。専門分野は児童文学、日本近現代文学、翻訳論。現在、東呉大学日本語学科助理教授。授業と研究の傍ら日本児童文学作品の翻訳出版にも取り組んでいる。SGRA会員。 ---------------------------- 2010年2月24日
  • 2010.02.17

    エッセイ236:ナリン・ウィーラシンハ「スリランカにやっと尊い平和が訪れた」

    内戦の背景 1983年7月23日、スリランカの輝かしい歴史に汚点が付いた。当時スリランカ北部に駐在していた軍人13人が、秘かにその地域に活動を広げていた武装勢力によって殺害されたことがきっかけだった。このニュースが首都コロンボを駆け巡り、それに怒りを感じた一部の人々がコロンボ市内に住んでいたタミル人の商人や一般市民にその怒りを向け、彼らの家や会社に火をつけ略奪した。政府軍が殺されたこともあってか、残念ながら当時の政府が最初の数日間黙認していたこともあり、この暴動が次第に広がっていった。そして間もなくスリランカを30年近く苦しめた内戦が始まった。しかし、よく考えてみると、この暴動は愛国心の名を借りて行った単なる卑劣な強盗でしかない。この事変は、「7月暴動」あるいは「黒い7月」として知られるようになった。 読者の誤解を避けるために少し説明したい。当時、私の家族は郊外に住んでいたが、暴動が次第に私たちの町まで広がってきた。私たちの近所にそれまでとても平和に暮らしていたタミル人にも、暴徒が目を向け始め、彼らの生活や命が危なくなった。私の父は家の中に一週間近く近所のタミル人家族をかくまった。あの時のことは今でも鮮明に覚えている。これはほんの一例に過ぎない。このようにスリランカ全土で、タミル人もシンハラ人も共に支えあいながら暮らしていることを理解していただきたい。 言うまでも無く、この暴動がきっかけとなって、スリランカの発展は妨げられ、社会は暗い影に覆われた。スリランカ全土に住んでいたタミルの人々はスリランカ政府に不信感をもち始め、沢山のタミル人が政治難民として欧米の国々へ移住した。そして、北部でそれまで秘かに武装活動をしていた若者たちが表舞台に現れ、堂々と「反政府軍」として活動し始めた。「政治難民」として国を脱出していたタミル人は彼らを様々な面で援助することになり、国内の武装勢力は凄まじい勢いで大きな団体となり、スリランカの内戦が始まった。この武装勢力はLTTEと呼ばれ、スリランカ北部と東部にタミル族の独立国家タミル・イーラム(『イーラム』はスリランカを意味するタミル語)を建国し、スリランカからの分離独立を主張した。 隣国インドの“援助” 当初劣勢だった政府軍は装備の充実に努め、1987年にLTTEを北部の町に追い詰めることができた。しかし、ここで親タミル的なインドが介入し、テロ団体に物資を空中投下し、スリランカ政府に停戦の圧力を加えた。スリランカの当時のジャヤワルダナ大統領はインドの圧力に屈した。インドとの交渉の合意に従い、タミル人には自治権が与えられ、スリランカ政府が武装解除の義務を負うことになった。停戦の監視には、インド平和維持軍(IPKF)が当たった。 停戦後、平和が訪れたかに見えたが、今度は南のシンハラ人民族主義者が革命運動を展開した。LTTEも、これを好機と見て武装闘争を再開した。平和維持軍を自任するインド軍は、LTTEに対して大規模な行動に出ることを決め、1988年5月には5万5千人の部隊をスリランカに駐屯させた。 和平交渉の歴史 1989年に当選したラナシンハ・プレマダサ新大統領は、影響力が大きくなってきたインドの要因を排除するために、休戦を宣言し、LTTEとの交渉を再開した。これで、インド軍の存在意義はなくなり、1990年3月にインド軍は撤退した。同時にプレマダサは、南で反政府的な革命運動を起こしていたシンハラ人民族主義者を鎮圧することを決定し、その運動に参加していた大半の若者を殺害し、この勢力は壊滅した。この間、LTTEもテロ活動を再開し、1991年5月21日には皮肉にも彼らを援助してきた元インド首相ラジーヴ・ガンディーを、1993年5月1日にはプレマダサ大統領を暗殺した。 1994年に政権が交代してチャンドリカ・クマーラトゥンガ新大統領が当選し、再度LTTEとの交渉を再開したがやがて決裂した。1999年12月18日にはクマーラトゥンガ大統領の暗殺未遂が起き、これにより彼は片目の視力を失った。 2000年以降はノルウェーの調停で停戦していたがLTTEの爆弾テロが止まらなかったため、2006年にスリランカ軍が北部拠点の空爆を開始、政府は停戦破棄を否定したがLTTEは停戦崩壊を宣言した。これを受け政府側も2008年1月3日にノルウェー政府に対し停戦破棄を通告、同16日に失効した。 以上のように、スリランカ政府はこれまで4人の大統領が和平交渉によって解決を試みたが、そのどの機会においても、和平交渉の裏でLTTEが武力的により強くなり、その末に再度内戦が勃発した。 平和の実現 5人目の現在の大統領マヒンダ・ラージャパクシャも和平交渉を始めたが、これまでの彼らの行動や裏の顔をよく理解していたので他に手段がなく、LTTEを武力的に制圧した。そして、2009年5月18日、国民の誰もが待ちに待った平和がスリランカに訪れた。 欧米の人権の定義? この内戦の終結に向けたテロとの戦いが終盤になりかかった時、意外にも欧米の国々がスリランカ政府に停戦するように圧力をかけて来た。彼らの言い分は、この内戦によって一般市民の人権が著しく侵害されているためとのことだった。その圧力はすごいものだった。毎日のように欧米の国々から大臣が訪れた。「停戦しないと経済的な制裁をかける」との話まで持ち込んでいた。この背後にいたのは上述した7月の暴動で政治難民となって欧米諸国へ移民したタミル人や、30年間に広がった彼らの子孫の選挙権の力だった。上述した1987~89年にスリランカ南部のシンハラ人が起こした独立運動を制圧するために当時の政府が行った残虐な行為に対して、人権の観点から声を上げた欧米の団体はいたであろうか。 私には今でも疑問がある。それは「欧米にとっての人権って何だろう」、そして「欧米にとってテロとはなんだろう」と。スリランカの状況は、9.11テロ以来、欧米の国々が謳ってきたテロとの戦い、そして、イラクやアフガニスタンの国々にもたらした人権と同じものなのか? スリランカの平和はこのように本当に平和を望んだ人々の汗・涙・血と並々ならぬ努力によって実現できた。   * * * * 最後にスリランカと日本の友好を深めることにもなった、お釈迦様の言葉を引用して終わりたい。第二次世界大戦後、1951年に開催されたサンフランシスコ対日講和会議で日本の戦争責任が問われたとき、当時のジャヤワルダナ大統領は下記のブッダの言葉を引用して演説し賠償請求権を放棄した。      人はただ愛によってのみ憎しみを越えられる  人は憎しみによっては憎しみを越えられない  これは永遠の真理である   “Never here by enmity are those with enmity allayed,  they are allayed by amity this is timeless truth” 日本は広島に原爆を投下したアメリカとその後同盟を結び、今や互いに世界の1、2位を争う経済大国となっている。それは、上述したブッダのお言葉通りに憎しみを捨てたからだと思う。スリランカの内戦は広島の悲惨な事件には比べられないかもしれないが、スリランカが多宗教・多民族のユニークな国として、いっそう輝くことを願いながら終わりにしたい。   -------------------------------------------------- <Nalin Weerasinghe(ナリン・ウィーラシンハ)> 2007年電気通信大学院電子工学科において工学博士号を取得。専門は通信工学。現在シュルンベルジェ(株)にて電気エンジニアとして勤務。SGRA 研究員。 -------------------------------------------------- 2010年2月17日配信
  • 2010.02.10

    エッセイ235:韓 京子「ここは雪国かい!」

    今夜も雪です。とにかく今年の冬は寒い。寒いだけじゃなくすご~い雪でした。1月はじめの大雪は夜中に降り出したのですが、積もる積もる。よく積もるな~と思ってながめていました。久しぶりの大雪に「しんしん」と雪が積もるってこれだったよねって当時は興奮しておりました。 一気に降り積もった雪はソウルや近郊(その後の降雪では地方も)をパニックに陥らせてしまいました。雪に強いと思っていた韓国が意外ともろかったのです。以前、東京に留学していた頃、ちょっと降った雪のために終電に近い電車が橋の上で止まったことがあって、「韓国じゃありえない」と言ってたのですが前言撤回です。まったく交通麻痺状態でした。冬休みではあったのですが、集中講義期間でその日は折しも試験の日。朝から、「学校のホームページに今日と明日全講義休講って出てますが、本当に行かなくてもいいんですか」と学生から問い合わせの電話で、その深刻さに気付きました。ちなみに集中講義のあった某大学は構内がすごい坂道なのです。スキージャンプの競技用のような……。休講のおかげで私は外に出なくて済んだのですが、妹(友達の弟も)は車で30分の勤務先に4時間近くかかってやっとたどり着いたそうです。直接運転する自信はなく、覚悟を決め武装をして地下鉄での出勤でしたが途中で何度も引き返したくなるほど過酷な道のりだったようです。中には登山用のアイゼンを装着して歩く人もいたそうです。 とにかく、何日も除雪作業が行われず家を一歩出ると、「ここは雪国かい!」って思わずつっこみたくなるほど辺り一帯が雪でした。100年ぶりの大雪といわれるのですが、そう言われても、「経験者生きてません」って感じでした。とりあえず、車道の除雪から始まったのですが、除雪というより雪を片方に片付けるようなもので、車線が雪で見えないだけでなく、片道一車線がなくなっている状態でした。道路はその後、ブルドーザーとショベルカーとダンプトラックが出動し、除雪作業をしてくれたのですが、路面は思い切り傷んでしまいました。それでも幹線道路ならば山積み状態の雪を別の場所へと運んでくれるのですが、車道でない道や団地内の道はところどころにできた雪の山がずーっとそのままでした。 知り合いの先生は酔っ払って転んだ拍子に半端な除雪作業のため出来たこの小さな氷山に顔面をぶつけ、めがねは真っ二つに破壊、額と頬から大量出血するはめになってしまいました。一瞬、酔いが醒め「いったいどうして。何にぶつかったんだ」って思ったそうです。 ここ数年雪が困るほど降るってことはめったになかったので、なんかなつかしい気もしました。待てど待てどバスは来ない。坂道は3歩進むと2歩下がる。滑らないよう摺足で歩くせいで足はかちんかちんで感覚なし。何年ぶりかに味わったしもやけ。そして、なつかしい思い出を想起させてくれたものがもう一つあります。出ました。またまた登場。都心のスキー。私がこれをはじめて見たのは25年も前のソウル市江南区○○洞。ニュースに出たのを見て、そういえば昔もいたなあと思っていたら、出現地域も同じでした。一族かも知れません。翌日のニュースによると道路交通法違反らしいです。まあ坂道の多い地域ですし、やってみたいという心情も理解できるのですが、法律は守りましょう。罰金の額が大きくないので再発しそうな気はします。罰金関連で付け加えると、これからは自分の家の前に積もった雪を 片付けないと罰金が科されるそうです。 気温が上がると、今度は新たな問題発生。大雪だったのでちょっと気温が上がったところで完全に雪は溶けるはずがなく、あちらこちらの建物でできたつららが落下したり、ちょっと溶けてまた凍りを繰り返してできた氷の塊が屋上から落下するという、ぞーっとする光景が繰り広げられています。除去作業ができなかった学校構内のある建物には今でも「接近禁止―氷落下注意」の張り紙が貼られバリケードが置かれています。 雪が降るとはじめは白くきれいでも、数日たつと道も車も非常に汚くなります。洗車くらいすればと思うのですが、氷点下14度の世界では 凍るので洗車不可能なんです。どの色の車も、また、高級車であってもみんなどろどろでいっしょでした。笑える光景でした。 一方、塩化カルシウムや塩化ナトリウムという除雪、融雪剤はまきすぎて在庫がなくなり、塩そのものをまいたりもしたらしいです。膨大な量を使ってしまい、土壌や河川の塩分濃度が高くなるとかで問題視されています。車にも悪く、きちっとあらわないと錆びてしまうそうで気温が氷点下じゃなかったある日、みんな洗車にかけつけ、すごい行列になっていました。車も車なのですが、私は今年購入したロングブーツがところどころ白いしみができてしまい、革にも影響あるよな、うかつだったと泣いております。ソウルの2010年の1月は、心が錆びてしまいそうな冬でした。 ------------------------------------------- <韓 京子(ハン・キョンジャ)☆ Han Kyoungja> 韓国徳成女子大学化学科を卒業後、韓国外国語大学で修士号取得。1998年に東京大学人文社会系研究科へ留学、修士・博士号取得。日本の江戸時代の戯曲、特に近松門左衛門の浄瑠璃が専門。現在、檀国大学日本研究所学術研究教授。SGRA会員 ------------------------------------------- 2010年2月10日配信
  • 2010.02.03

    エッセイ234:今西淳子「アジア市民の育成を掲げた留学政策を」

    鳩山政権になって、にわかに東アジア共同体構想が語られるようになった。しかし、アジア各国との首脳会議で言及されても同床異夢であると指摘されたように、いまだその実態が何であるのかほとんどつかめない。近年、東アジア諸国においては、めざましい経済発展に伴って中産階級が生まれた。また各国とも欧米、特にアメリカの文化や教育の影響を非常に強く受け、さらには交通情報技術の発展による情報化と人的交流が進み、以前に比べて共通する要素がめざましく増加したことが指摘されている。しかしながら、この地域では、言語や宗教や文化の多様性に加えて、未だに政治体制が異なっており、各国の社会基盤も、さらには国民の思想基盤も一様ではない。このような状況のもとでは、政治の主導、あるいは経済による枠組み作りと同時に、その地域の人々の問題意識の共有化への地道な努力が必要だと思う。まずは、アジア人、さらには、鳩山総理が語る「個の自立と共生」を包含する「アジア市民」の育成をめざした国際教育政策を、東アジア各国の教育機関が共有するところから始めるべきなのではないか。   日本では、1983年に中曽根内閣で提唱された「留学生受入10万人政策」が2001年に達成され、先日発表された日本学生支援機構の統計によれば、2009年5月の留学生数は132,720人となった。これは前年と比べて7.2%増で過去最高である。そして、現在、福田内閣で開始された留学生受入30万人政策が進んでいる。 戦後賠償に代わるものとして1954年に始まった国費奨学金(現在の文部科学省奨学金)は、アジア各国から優秀な学生を招き日本の先進技術やシステムを学んで帰国後に母国の発展に寄与することを目的としていた。その後、経済大国となった日本のODAの利用もあり奨学金総額も増え、また留学生に対するアルバイトの許可等により、中国と韓国を中心に多くの留学生が渡日するようになった。受入体制の不備による混乱等から批判もあるが、これらの留学生政策はそれなりの成果をあげてきていると思う。以前に比べて大学や社会に外国人が増え、日本人も「異邦人」に慣れてきた。 ところが、バブルがはじけ、さらには少子化が進むと、日本の留学生政策や施策の目的が大きく変化し、学生不足に悩む大学の定員割れを防ぐため、あるいは留学生に卒業後就職してもらって減少する労働力を補うためという、日本の経済活動の救済が目的のひとつに組み込まれ、「高度人材の育成」という「理念」をもって語られるようになった。 一方、2008年に発表された「留学生30万人計画」は、日本を世界により開かれた国とし、アジア、世界の間のヒト・モノ・カネ、情報の流れを拡大する「グローバル戦略」を展開する一環と位置付けている。大学学部における英語による授業の推進など議論も多いようだが、日本自身が変わらなければいけないということにようやく気付いたと言えるのかもしれない。   日本の大学や大学院で勉強する留学生は、60%を占める中国を中心に、アジア圏の出身者が90%を越えるにもかかわらず、アジア域内での人的交流を強調する記述は従来の留学政策には見られない。東アジア共同体をめざすのであれば、アジアからの留学生が圧倒的に多いという実体をふまえて、彼らのひとりひとりが「アジアの一員である」という意識、さらには「アジアの市民」であるという自覚を促すことを留学政策の目的のひとつとして掲げることは効果的なのではないだろうか。具体的には、エラスムス計画などで「EU市民の育成」を目的として域内の青少年交流を積極的に推進してきたヨーロッパ共同体の経験が参考になるだろう。日本の各大学は、日本だけではなく、アジア全体の発展に寄与するアジア市民の育成をめざすという意欲を示してほしい。そして、この考え方が東アジア各国の大学にも共有されることを望む。「良き国民」であると同時に「良きアジア市民」であることへ人々の意識が展開していくのには、長い時間が必要とされているかもしれないが、まずはスタートすることが大切である。なぜならば、これはやがて普遍的な価値観がこの地域に普及することにつながるはずだから。   具体的には、短期留学の推奨である。従来、日本の大学が受け入れる留学生は、学位取得を目的とした長期滞在者が多かった。このようなタイプの留学は、勿論これからも続いていくだろうが、通信と交通技術の爆発的進歩によって人々が自由に移動できるようになった今日では、アジア各国において、交換留学や1年未満の語学研修、あるいは異文化体験を目的とした短期留学を大いに奨励してほしい。短期間であっても若い時に経験した異文化体験は、その人のその後の物事の判断に大きな影響を与えるという調査もある。日本と留学生の母国だけではなく、アジア地域内で大量の若者の相互交流が行われるような東アジア地域としての教育政策を、アジア各国が協力してうちたててほしい。ひとりの若者が複数のアジア諸国、あるいは域外の国にも滞在し、この地域の多様性と同質性を体験することを、非常に大きな規模で推進してほしい。 「東アジア」を提唱するとしても、当然それは開かれていなければならず、他の地域を排除するものではない。短期留学の推進により、アジア各国だけでなく欧米からの留学生の増加が報告されているが、これは「東アジア市民」の育成という目標に何ら反するものではなく、むしろ「良き市民」意識の醸成において、大きなプラスとなるであろう。 短期留学を非常に大きな規模で促進するためにはアジア各国における大学間の単位の交換システムの整備が急務であるし、専門の担当者の育成、宿舎の整備、ボランティアの組織化、リスクマネジメントなど、多くの課題をすみやかに解決していかなければならないだろう。単位交換システムについては、むしろ日本の大学の方が消極的であるとも聞く。大局を見て戦略的にグローバル化を進めることが必要であるということかもしれない。そして、内向き傾向がますます強まる日本人の若者たちには、自分の大学、自分の国に引きこもらずに、在学中に一度は外へでて異文化を経験しなければならないような環境作りが望まれる。 ------------------------------------------ <今西淳子(いまにし・じゅんこ☆IMANISHI Junko> 学習院大学文学部卒。コロンビア大学大学院美術史考古学学科修士。1994年に家族で設立した(財)渥美国際交流奨学財団に設立時から常務理事として関わる。留学生の経済的支援だけでなく、知日派外国人研究者のネットワークの構築を目指す。2000年に「関口グローバル研究会(SGRA:セグラ)」を設立。また、1997年より異文化理解と平和教育のグローバル組織であるCISVの運営に加わり、現在英国法人CISV International副会長。 ------------------------------------------ 2010年2月3日配信
  • 2010.01.27

    エッセイ233:マックス・マキト「マニラ・レポート2009年冬」

    今年も年末年始をマニラで過ごすことができた。12月9日、マニラ空港到着後恒例になったJOLLIBEE(マクドナルドが苦戦している現地のファースト・フード)のTWO PIECEチキン弁当(200円ぐらい)は、迎えの車中で食べざるをえなかった。お店でほかほかを食べられなかったのは、到着時刻の午後1時半から始まっているGOOD GOVERNANCEプロジェクトのワークショップで総括発表をすることになっていたからである。妹がマニラの渋滞を上手く避けてドライブしてくれたおかげで、質疑応答の時間にも間に合った。参加者は思ったより少なかったが、メンバー全員の前で、このプロジェクトの全体構造について意見を述べることができた。このプロジェクトにおいて、教育、水道、健康という分野に対する政府の支出は、貧困者の人的資本(HUMAN CAPITAL)に対する支出と見なされるべきであり、それらの支出により、貧困者の生産性も高まるので、自然に共有型成長に貢献すると主張した。 尚、先週、プラハで開催された15ヵ国が参加した報告大会で、このプロジェクトの報告がモデルになると世界銀行を含む助成側の評価を得た。12月のワークショップがガラガラだったのでがっかりしたが、このニュースは心強い。 3ヶ月ぶりに実家に帰って、家族から話を聞いた。2009年9月にONDOYという大型台風が、我が家のある川沿いの谷にある地区にもたらした被害は、マニラ都内で最も大きかった。記録的な雨量はアメリカで大被害をもたらしたハリケーンKATRINAの倍で、マニラの1ヶ月分の平均雨量(9月はフィリピンの雨季のど真ん中)が6時間で降ったという。幸い、番犬を含む家族全員無事だったが、洪水はもう少しで2階まで達するほどだったそうである。しかしながら、最大被害地でありながら、市長の懸命な努力により、マニラで一番早く回復した地区だとされている。 家族の中で最も被害を受けたのは、3人のお手伝いさん(KASAMA、つまり「一緒に住む仲間」と呼ぶ)だった。フィリピン人の習慣であるのか、台風の後に家族の安否を聞かれたとき、彼女たちは笑顔で「家が流されたから家の問題なんてないさ」と答えたそうである。実をいうと、親子3人のお手伝いさんは必要ではないのだが、社会福祉活動と考えて、無理してもKASAMAとしている。要請はないけれども、僅かなクリスマス・ボーナスをあげることしか僕にはできない。 いや、そうではないかもしれない。僕の研究テーマは「共有型成長」である。彼女たちのような境遇の多くの人々のためにも僕の研究の必要性があると、改めて痛感した。 12月17日に、SGRA顧問の平川均教授がマニラに到着した。先生との共同研究のおかげで今回もマニラの訪問調査をすることができた。共有型成長に大きく貢献しうる自動車産業の調査をしている。政府(通産省)、大学(フィリピン大学、アジア太平洋大学)、産業(トヨタ、フォードなどの組み立て企業の役員、下請け企業協会会長、フィリピン自動車競争力機構長など)、マスコミからヒアリングを行った。平川先生はクリスマス・イブに日本に帰国したが、僕は日本に戻る1月9日の前夜まで調査を続けた。 平川先生との自由時間のメイン・イベントは市場(いちば)にいったことかもしれない。平川先生は、市場の隣にある郵便局で、世界への年賀状を投函した。僕は「ちゃんと届きますように」と心の中で静かに祈った(先生は「大丈夫」と僕より楽観的だった)。この機会に、僕は市場の上にあった選挙登録所に寄った。今年の5月に行なわれる大統領選挙に僕の高校時代の同級生が出馬するので投票したいが、東京のフィリピン大使館の選挙登録に間にあわなかった。運良く僕がマニラ滞在中に政府が選挙登録期間の延長を決めたからだ。今のところ、一般調査では、同級生の彼が一番人気であるが、そうではなくても投票する努力は市民(同級生?)の義務ですね。幸いに、平川先生も退屈せずに、市場観光を楽しんでいたようだ。 相変わらず、フィリピンの自動車産業界は大騒ぎである。自由貿易派(主に輸入業者)と保護貿易派(現地生産者)との亀裂が依然として大きい。僕はできるかぎり自由貿易派の言い分を全面的に否定しないようにしながらも、一時的な保護を弁護している。大統領は自動車産業に対する保護装置のための法案を国会で審議するよう議会に要請したが、大統領選挙が迫っているので、議会はもうそれどころではないようだ。 このような状況のなか、ペニンシュラ・ホテルで会った下請け企業協会の会長は、「まだ先が見えない」と言いながら、工事中のビルに僕らを案内してくれた。そこで自動車産業関係の人材を育成する予定だそうだ。「もし宜しければ、マニラ滞在中はここに事務所を構えれば?」と誘われた。平川先生も短期滞在用の部屋に泊まればいいでしょうと。寛大なお誘いに、僕達は照れるばかりだったが、次回は是非その可能性を模索したい。このような積極的な態度が基になって、彼の系列が関わっている三菱自動車の日本社長が「フィリピンには潜在力があるので、我々はフィリピン政府の応援があるという前提で、更に投資する心構えがある」という昨年12月の発言を生み出したのであろう。 このような間にも、中国などからの格安の完成車がフィリピン市場に出回りつつあり、消費者にその便益を与えながら、現地生産者から仕事を奪っている。長期的にみても現地生産業に悪い影響しか与えないであろう。フォード会長は、2時間もくださったヒアリングの冒頭から、「日本の中古車のフィリピン進出は、先進国の行動として相応しくない」と強調した。その前にインタビューした通産省の人は「今の状況では、保護政策をとったとしても日本人から日本人を救うだけだ」と話していた。フィリピンへ自動車を輸出するのも日本の企業だし、その打撃を受ける現地の主な生産者も日系企業だからだ。勿論、僕はできるだけ日本を弁護してみたが、事実は否定できない。 今回の調査に関する新聞記事は下記からご覧ください。 BusinessWorld Manila Bulletin 毎年クリスマスの夜に調査先のスラムでサンタ・クロース役をしている中西徹教授が、自宅から電車一本で行けるところで忘年会(?)をしてくれた。中西先生が育ててきた調査対象の子供たちが5人、フィリピンの一流大学に入学できたそうである。これは大いにフィリピンの共有型成長に貢献できると期待している。やはり、手厚くサポートすればできるのですね。 僕が行っているSGRAとUA&P(アジア太平洋大学)との共同研究を継続し公表していく活動について、CENTER FOR RESEARCH AND COMMUNICATION(CRC)財団と正式な関係を交渉中であり、アドバイスと支援をお願いした。勿論平川先生も今西代表もサポートしてくださっている。日本からの暖かい応援のおかげで、CRCの役員でもあるヴィリエガス教授は概ね前向きである。 今回のマニラ滞在中、生まれて初めてフィリピンのフランス料理をいただいた。フィリピン自動車競争力機構の機構長が平川先生と僕を招待してくれ、僕達の研究について話し合った。高級レストランだったが、ランチの後に政府の人とのアポイントがあったので、フランス人のように数時間かけてはいられなかった。僕の共有型成長の研究は、時間的かつ資金的にゆっくり味わう余裕はないかもしれませんが、みなさん、今年も宜しくお願いします。 マニラの写真をご覧ください。 -------------------------- <マックス・マキト ☆ Max Maquito> SGRA運営委員、SGRA「グローバル化と日本の独自性」研究チームチーフ。フィリピン大学機械工学部学士、Center for Research and Communication(CRC;現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、(財)CRC研究所研究顧問。 -------------------------- 2010年1月27日配信
  • 2010.01.20

    エッセイ232:オリガ・ホメンコ 「アナスタシア:古い伝統を守る若きウクライナ人」

    彼女はジャーナリズム学部を卒業して、今大学院で歴史学を学んでいます。アナスタシアさんと言いまして、26歳で、2人の子どもの若き母親です。長男は2歳で、次男は6カ月です。そして母親の仕事と大学院の勉強を両立しながら、大人と子供むけの子守歌のクラスを開いています。 アナスタシアさんが長男をみごもって「母親学級」に参加したとき、そこでは育児方法だけでなく子守歌も教えていました。子守歌は子どもが初めて聞く言葉なので、赤ちゃんと母親の最初のふれあいの「時」になると、先生が言っていました。しかしながら、なぜかそのときに教えてもらった歌は全部ロシア語でした。ウクライナは独立してからもう18年もたっているのに、若い母親に教えられているのはロシア語の子守歌だったことに驚きました。あかちゃんが生まれて初めて聞く歌なのですから、その子の潜在意識の中に残る歌はウクライナ語ではなくロシア語になる可能性が高いと思いました。ウクライナ人としてのアイデンティティを強く認識しているアナスタシアさんは、それではいけないと思いました。 実は彼女が子どものとき、まだソ連時代でロシア語の教育が政治的な政策として実施されていた頃に、キエフでたった5%しかなかったウクライナ学校に通っていました。そこでは授業はみなウクライナ語でしたが、出世するためにはロシア語が必要だと子どもたちも分かっていました。当時、言語政策の一環として、ロシア語は「都会語」、ウクライナ語は「田舎語」という意識を教えられたので、子どもたちは「ロシア語は格好いい」と思い込んでいて、この学校の授業や家ではウクライナ語だったのにもかかわらず、休み時間にはお互いに「格好をつける」という意味もあってロシア語で話していました。しかしながら、高校生になった時、アナスタシアさんは学校の休み時間でもウクライナ語で話すことにしました。最初はからかわれたけれども、そのうち皆慣れたようでした。 大学の頃には、もう独立してから10年も過ぎ、言語に関する法律も制定・施行されたので、公式的な場だけではなく、日常的にウクライナ語を話す人が非常に多くなりました。しかしながら、この母親学級では、なぜかまだロシア語の子守歌が教えられていました。そこで、先生に「どうしてウクライナ語の子守歌を教えないのですか」と聞くと、「知らないから」という答えでした。70年間もソ連時代が続いたのでロシア語が日常生活の中にしみ込んで、子守歌までロシア語になったとことを悲しんだアナスタシアさんは、自ら子守歌を探す活動を始めました。自分の赤ちゃんにはウクライナ語で子守歌を歌って、子どもたちをウクライナ人として育てたいという強い願望があったからです。 図書館や資料館などに出かけて資料を収集し、関係する音楽のCDを全て買い集めました。そうすると、ウクライナの子守歌の本がないことに気付きました。遊び歌、伝統行事の歌、お祭りの歌などの本はあるのに、楽譜つきの子守歌だけの本は見つかりませんでした。本がないから人々がウクライナの子守歌を習うことができなかったのだと思いました。 子どもが生まれて3ヶ月たった頃、アナスタシアさんはすでに20くらいの子守歌を集めていたので、自分と同じくらい年齢で子どもを持っている親たちのためにクラスを開きました。そこで2週間に1回程度で子守歌を教えています。今、そのクラスに訪れるのは母親たちだけではなく、若いお父さんたちや年よりのおばあちゃんたちもいます。彼らもやはり自分の子どもや孫に子守歌を歌いたいという気持ちが強いのです。そしてロシア語ではなく、ウクライナ語で歌ってウクライナの民族意識を持った子どもを育てたいという思いも少なくありません。このクラスはもう2年にわたって行われています。全くボランティアです。 今年のクリスマスには、初めて子守歌とは別に、聖書をテーマとする伝統的な劇も勉強しました。参加者の間で役を分けて練習しました。2歳になった子どもたちも参加しました。よりたくさんの人に見てもらいたいという気持ちで、旧歴で祝うウクライナのクリスマスの1月7日に、町の広場で上演しました。   アナスタシアさんに「どうしてこの活動をしているのですか」と聞くと、「自分の伝統や習慣に興味があります」と恥ずかしそうに答えます。しかしながら、このような個人的な活動のおかげで、若いウクライナ人たちは自分のアイデンティティに気づき、周りの人々にもそれを気付かせ、自信を与えています。ウクライナの伝統がこれからもちゃんと生き続けていくように、そしてウクライナが盛んになるようにと。 ★このお話は、2010年1月23日(土)に、NHK BSで放映されます。 ------------------- <オリガ・ホメンコ ☆ Olga Khomenko> 「戦後の広告と女性アイデンティティの関係について」の研究により、2005年東京大学総合文化研究科より博士号を取得。2006年11月から2008年12月まで学術振興会研究員として早稲田大学で研究。2005年11月に「現代ウクライナ短編集」を群像社から出版。現在キエフでフリーの日本語通訳や翻訳、NHKやBBCのフリーランス記者など、広い範囲で活躍している。 ------------------ 2010年1月20日配信
  • 2010.01.13

    エッセイ231:包聯群「はじめてのオランダ旅行」

    2009年7月にオランダのユトレヒト大学で開催された第7回国際バイリンガルシンポジウムに参加した。ヨーロッパに行くのは初めての体験であり、シンポジウムでは、著名な社会言語学者の講演も予定されていたので、準備の段階からわくわくしていた。オランダの入国ビザを取るためには、仙台から東京まで行かなくてはならなかったが、シンポジウムに参加できることを考えると、とても楽しみで、その道のりも別段苦にならなかった。 7月8日の午後東京を出発し、長い旅が始まった。11時間以上も飛行機に乗るのは初めてのことである。機内スクリーンのフライト情報をチェックしながら楽しいひと時を過した。オランダと日本は8時間もの時差がある。飛行機から降りたとき、日本ではもう寝る時間なのに、オランダはまだ昼間のまっただ中だった。それにしてもまったく「未知の世界」に突入したようで、言葉、駅の看板表示から電車の開閉ボタンまで目に入るあらゆるものが新鮮に感じた。普段英語を話す機会はほとんどないが、一人の旅なので何でも「自分で」解決しなければならない。幸い、言語は、「環境」さえあれば何とかなるという不思議な面があるので助かった。 飛行機を降りる前から緊張感に包まれ、ユトレヒト大学に行く地図の案内を見ながら、頭の中の「言語の整理」を始めた。大学に行く道を英語でどのように尋ねたらよいのか、何番線の電車に乗るのか、タクシーに乗るには、どのような言葉で表現すればよいのかなどなどのことで頭がいっぱいであった。ちょうどそのとき、ふっと思いついたのが、隣席にいる女性に行く道を尋ねてみることだった。これは「事前準備になる」と思い、ちょっと安心した。しかし、その喜びはあまりにも短かった。私は地図を指差しながら彼女に必死に話しかけた。そうすると、彼女は自分はフィンランド人なので、アムステルダムのことはほとんど知らないという。このような答えが返ってくるとは想定外だった。さきほどまで彼女は大勢の仲間と英語で話していたのに。また日本から一緒にアムステルダムを目指しているのに・・・という思いだった。普段はアジア系以外の人との交流が少ないせいか、私にとっては、ヨーロッパ人がみな同じように感じられてしまっていたのだ。結局、何の情報も得られず、すべてがスタート地点に戻ってしまった。しかし、彼女と会話を交わすことによって、プレッシャーなのか、緊張感なのか、他の理由があったのか不明ではあるが、私が急に英語圏に入ったことを実感し、英語の単語も徐々に記憶が戻ってきているような気がした。これは私の初めての英語圏の旅の貴重な体験となった。単語や感覚を徐々に記憶からとり戻した私は、飛行機から降りてからも怖がることは何もなく、尋ねられた相手が理解できない場合には、言語の「助手」である「手振り身振り」を使い、一人で無事にアムステルダムから電車に乗り、ユトレヒト市を目指した。 会議が開催されるユトレヒト大学はオランダ最大の大学である。ユトレヒトは首都アムステルダムから30キロほど南に位置するオランダの第4の都市で、ユトレヒト州の州都でもある。アムステルダムから30分ぐらい電車に乗る距離だった。電車を降りてからタクシーに乗り、雨の中の街の風景を観賞しながら、20分ぐらいかけてユトレヒト大学にたどり着いた。しかし、受付をする場所を探しても見つからず、聞いたところ、その場所は臨時に市の中心部へ変更したという。この「臨機応変」は日本とちょっと違うところだなと感じた。ちょうど困っていたときに、私と同じように受付場所を探している地元の3人の女性に出会った。そこで、私たち4人は一緒にタクシーに乗り、受付をしている場所へ出発した。タクシーから降りる際、私は自分のタクシー代を一緒に乗った「仲間」にあげたが、なかなか受け取ってくれなかった。彼女たちが言うには、「あなたは遠くから来たお客さんだから」。3人はとても親切でずっと笑顔だった。こうして無事に受付をすることができ、会議の参加者と合流した。   国際バイリンガルシンポジウム(ISB)はバイリンガル学界において最も影響力をもつ最大の国際会議である。1997年に設立され、2年ごとに500人を収納できる施設を持つ大学にて開催することとなっている。第1回と第2回(1999年)はイギリスのニューカッスル(Newcastle)、第3回はイギリスのブリストル(Bristol)にて開催された。第4回はアメリカのアリゾナ(Arizona)、第5回はスペインのバルセロナ(Barcelona)、第6回はドイツのハンブルク(Hamburg)にて開催された。次回の第8回は2011年にノルウェーのオスロ(Oslo)で開催されることが決まっている。 今回は70以上の国と地域から総勢500人を超える学者が出席した。会議は四日間にわたって、6人の基調講演、99の分科会およびポスター発表に分けて行なわれた。名簿によると、日本からの出席者は私一人であったが、中国大陸からの出席者は4人、南京大学、南京師範大学、上海大学からの学者であった。ヨーロッパからの学者が多数を占めている印象を受けた。 会議のテーマは、第二言語習得、バイリンガルの使用、接触による言語変異、コードスイッチングの文法的研究、バイリンガル児童の文法発展状況、言語接触現象、言語消滅、言語維持、言語政策とバイリンガルイデオロギー、言語シフト、バイリンガル心理言語学研究、バイリンガルコミュニティーと移民の社会言語学研究、コードスイッチングの社会言語学研究などであった。 私が発表を行った第59セッションのテーマは「中国の都市化、言語接触と社会バイリンガル」、「中国語との接触による言語変異」であった。オランダのLeyden大学のMarinus van den Berg教授とロンドン大学の李嵬教授が本セッションの議長を務めた。李嵬教授は、「中国語とグローバル化」というタイトルのセッションの議長も担当した。南京大学の徐大明教授は「言語政策とイデオロギー」と題した第23セッションの議長を務めた。私が発表した論文のテーマは「ドルブットモンゴル族コミュニティー言語―混合言語を事例としてー」 であった。 今回の会議を通して得られた最大の収穫は、地域の言語を分析する際の理論や知見などを参考にしている多数の著名学者の講演を聞き、そしてその学者たちとの交流ができたことである。例えば、社会言語学界の著名な言語学者Thomason氏(Thomason and Kaufman. 1988. 《Language Contact, Creolization, and Genetic Linguistic》は言語接触を研究する多くの研究者に引用されている)の講演を聞くことができた。また自分の研究を紹介したところ、彼女が興味を持ってくれたので、大変うれしかった。 そして、会議の合間を見つけ、学校のキャンパスの見学もした。こちらの大学の建物は中国、日本、台湾、香港などの国や地域のそれと異なり、非常に鮮やかな色を使っているのが印象的だった。例えば、赤、黄色、緑などの色が混合した建築物もあった。このような飾り方が駅周辺にもみられた(写真をご覧ください)。 12日夕方に会議が無事に終わった。13日に、南京大学と南京師範大学の先生たちとともに、ユトレヒトからアムステルダムへ移動した。そして、午前中は都市の中心部にある川の水が流れる音を聞きながら都市の建築を観賞した。午後はゴッホ美術館を見学することもできて、とても有意義な一日を過した。オランダ訪問はゴッホの生涯に関する知識を増やす絶好なチャンスともなった。 14日の朝、日本に戻る準備をし、一人でアムステルダム駅へ移動した。夕方の飛行機であるため、空港まで行くにはまだ早かっので、荷物を駅のロッカーに預けた。クレジットカードを使えば、現金よりはるかに安くて便利であった。 商店街を一人で歩き、駅前の街をゆっくりと観賞した。お土産を販売している店に入ると、アジア系の女性が話しかけてくれた。話をしているうちに、不景気により、旅行者が非常に減少したことにもふれはじめた。経済不況が世界中に打撃を与えているなと感じた。でも、町中をみると、人々はのんびりと話をし、広場ではビールを飲みながら歌を歌っている姿も見かけるので、とても緊迫感を感じている雰囲気ではなかった。 今回の旅でアジアと異なる文化を体験できたことは私にとって貴重な収穫となるに違いない。 オランダ旅行の写真 ------------------------------------ <包聯群(ボウ・レンチュン)☆ Bao Lianqun> 中国黒龍江省で生まれ、内モンゴル大学を卒業。東京大学から博士号取得。東北大学東北アジア研究センターの客員研究員/教育研究支援者。現在モンゴル語と中国語の接触によるモンゴル語の変容について研究をしている。SGRA会員。 ------------------------------------ 2010年1月13日配信