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エッセイ258:朱 庭耀「私の父親」

今までに私に一番影響を与えた人は父だ。

父の祖父は清朝末期の知識人だったが、父の父親は当時の政府と政治に失望して、また当時の「実業救国」思想の影響を受けて、経済活動を始めた。父は一人息子として、家業を継ぐため、海外に留学することを断念して、祖父に示された道を歩んだ。父の夢は叶えられなかったが、子供達を教育することに人生をかけた。

しかし、事のなりゆきは希望どおりにならなかった。1950年代初期、中国の民間企業はすべて国に「合弁」された。父は企業の持ち主から職員になった。家の経済状態がまったく変わって、子供に良い教育をさせるのも難しくなった。60年代中期、文化大革命が始まって、知識青年と呼ばれた学生達が農村、辺境へと下放された。その時、大学を卒業した私の一番上の姉も進学できず、江西省の南昌市に「分配」された。その後、「高考制度」が廃止されたが、高校を卒業した兄、姉達は大学へ進学することができなくなって、相次ぎ農村へ「再教育」に行かされた。家族がバラバラになったことは父に大きな打撃を与えた。でも父は倒れなかった。父は教育こそ国を強くさせる唯一の道と確信していて、いつか教育制度がまた変わるだろうと希望を持って、子供を教育することを諦めなかった。当時、「抄家」された家は本もほとんど焼却され、また新しい本を買うお金もないので、父は手書きで私に教科書を作ってくれた。父はよく私に経済的な貧乏はこわくない、知識を身につければ心が豊かになると教えてくれた。1976年、「四人組」打倒後、中国の大学教育制度が元に戻る形で再改革された。その時、まだ在学中だったのは私一人だけだった。重点中学校に合格した私に、父はさらに厳しくなった。

私が高校卒業の時、父は病気にかかって、半身不随になった。私は父の病気と家の経済状況が気になって、進学と就職のどちらの道を選ぶか迷っていた。当時大学卒業生の就職はまだ大学側で決められ、就職地や、職業などを自分で選ぶことができなかった。私は姉のように大学を卒業したら遠い地方に「分配」されることを心配していた。両親は年をとり、姉、兄達は皆遠い地方に行っていたので、私には両親の面倒を見る責任がある。人生の交差点で、私は迷い、なかなか自分の将来を決めることができなかった。

大学の願書の締切日の前夜、父は私を彼のベッドに呼んで、私にこう言った。「あなたは私の末っ子だ。私の最後の希望といえる。あなたの姉、兄達は勉強の機会がなかった。でもみんな夜間学校に通って、頑張ってやっている。あなたは進学に迷う必要はない。私の生きている時間はもうそんなに長くない。でもあなたたちは私の生命の延長だ。私の叶えられなかった夢を、あなたが実現してほしい。学ぶことは若い人にとって、何より大切なことだ。あなたは私のことや家のことなど、心配することはない。私の息子に対する希望は、あなたができる限り勉強すること、人に負けずに勉強すること、わかったかな。」父の話が私の一生を決めた。その後、私は両親と離れて、鎮江にある船舶大学へ行った。大学卒業前、私は上海交通大学大学院の修士課程を志望した。試験前の準備期間に、上海から電報が来た。父の病気が悪化して入院したという知らせだった。私が慌てて病院へ駆けつけたとき、父はもう話せなくなっていた。看護婦さんは父が私の来るのを待っていたと言った。泣いていた母は私に、「父の最後の言葉は『耀ちゃんの修士試験はいつか、彼に頑張ってと伝えてね』だった。」と話してくれた。私は涙をこぼして、父に「必ず大学院試験に合格する。」と誓った。父は私を見て、微笑みながら亡くなった。

昨年春、私は東京大学大学院の博士課程に合格した。母に電話でそれを話した。母は「お父さんが生きていれば、このことを聞いてどんなに喜んだろう。」と言った。父が亡くなってもう11年たった。でも父はずっと私の心の中に生きている。困った時、迷う時、弱くなった時、父は私の心の中で私を励ましてくれる。学問の道は終点がない。私は学ぶことの大切さを家で教わった。父の一生は平凡だったが、父に教育されて私は幸運だった。

(著者の了承を得て、渥美財団1996年度年報より転載)

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<朱庭耀(ジュ ティンヤオ) ☆ Zhu Tingyao>
1997年3月に東京大学を卒業後、4月に財団法人日本海事協会に入会、技術研究所に所属。1997年、上席研究員。2006年、首席研究員。主に船舶及び海洋構造物に働く荷重に関する基礎研究並びに国際船級規則の研究開発に従事。2003年より、中国、江蘇科技大学客員教授、2005年より、ハルピン工程大学客員教授、2008年より天津大学客員教授。
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2010年8月25日配信