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エッセイ256:ニザミディン・ジャッパル「私の人生に一番影響を与えた人―マリア先生」

1967年、中国で「文化大革命」が始まり、知識人は農村での強制労働を課せられました。私の父は1944年新彊学院法律学部を卒業して、裁判省に勤務していたため「反革命分子」と呼ばれ、家族全員、農村での生活を余儀なくされ、政治的権利も奪われました。私が6歳になった時のことでした。翌年、私は村の小学校に入学しましたが、学校でも村でも「反革命分子」の子供と言われていじめられ、毎日泣きながら家に帰りましたので、私には友達と外で遊んだ経験などありません。両親は毎日強制労働をさせられ、兄、姉たちも私と同じようにいじめられました。父が「申し訳ない、私のせいで家族全員がいじめられる。私が死んだらきっとよくなるだろうから、それまで辛抱してくれ。」と言ったのが今でも記憶に残っています。父はその希望通り、1971年に重労働のため51歳で亡くなりましたが、どんなにか無念だったことでしょう。しかし、父が死んでも「反革命分子の子供」というレッテルは消えませんでした。私は人がいないところで泣いてばかりいました。そして、社会が変わってチャンスが来たら、父をいじめた人達を見返そうと云う事ばかり考えていました。

1973年に中学に入学し、担任のマリア先生に出会ったことにより、私のそれまでの世間に対する負い目や後ろ向きの考え方が霧が晴れるように無くなりました。第一回目の数学試験後、先生は私を教官室に呼んで「君の成績はクラスで一番だった、これから君をクラスの学習担当者にしよう」と云ってくださいました。私が、「出身身分がよくないので私が学習担当者になってもクラスメートは誰も認めてくれないと思います。」と答えたところ、先生は、「君の家庭の事情はよくわかります。でも、君のお父さんは反革命分子ではなく、知識人で立派な弁護士でした。あなたはお父さんのことをもっと誇りに思っていいのですよ。こんな社会が長く続くはずがありません。きっと変わります。君の兄さんや姉さんたちも優秀だから、将来きっと立派な科学者になると思います。君も頑張って、困ったことがあったら私に相談してください。」と仰いました。それは初めて聞いた、私の父に対する称賛の言葉でした。生まれて初めて、嬉しく幸せな気持ちで胸がいっぱいになり、涙があふれてきました。それからというもの、私は授業で不明な点があれば先生に聞き、先生は熱心に教えてくださいました。先生はみんなの前でよく私のことをほめてくださったので、次第にいじめがなくなり、誰も私のことを「反革命分子」の子供と言わなくなりました。そのような事が有ってからマリア先生は私の心の中で神様のような偉大な人となりました。私の夢は将来、先生と同じ様になりたいと思い、そのことを話すととても喜んでくださいました。そして有名な科学者が子供時代に大変苦労した話などをしてくれ、いつも励まし、元気づけてくださいました。

1977年、私の人生に大きな転機が訪れました。1966年に始まった「文化大革命」が終焉を迎え、“反革命分子”が開放されたのです。身分に関係なく成績が優秀であれば大学に入ることができるようになりました。その時誰よりも喜んだのはマリア先生でした。先生は「ニザミディンくん、君たちの時代がやっと来た、頑張って、君はいい大学に入れる。」と云って、それまで以上にますます熱心に教えてくださるようになりました。そして1978年、私が新彊大学に合格すると、先生は家で送別会を開いてくださって、「大学に着いたら生活、勉学事情について手紙を書いてください」と云ってくださいました。大学での勉強方法、諸々の問題の解決法、将来などについて相談すると、先生は親身になって、手紙でいろいろとご指導くださいました。大学を卒業して、新彊大学に教官として残ることを知らせた時、先生は「就職おめでとうございます。君の考えたとおりに自分の知識をもっと増やすため、アメリカ、日本など科学技術レベルが高い国に留学したほうがいいと思います。」とアドバイスをしてくださいました。1990年に私の夢がかなって日本に留学できることになりました。先生は、「留学おめでとうございます、君はよく頑張った、君の事は私の喜び、博士学位を取得するまで頑張ってください。」と励ましてくださいました。

先生は今まで、私の人生という航海の行く先を示してくださったコンパスのような存在でした。先生は私の一番尊敬する人です。先生の存在なくしては今の私はないと言っても過言ではありません。私は先生のご恩を一生忘れません。いつでも先生の健康と長寿を祈っています。

(著者の了承を得て、渥美財団1996年度年報より転載)

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<ニザミディン・ジャッパル ☆ Nizamidin Jappar>
中国新疆出身。1998年、東京大学より博士号取得。1998-2002年、昭和電工株式会社、ケミカルエンジニア、主任研究員、多種機能を付加した各種工業用材料の研究開発。2004年よりKimoto Tech Inc., USA、現在、研究開発部長,取締役員。
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2010年8月11日配信